A-2:円軌道の幅 (Promotional Copy)
確実に稗田阿求のものと認められる唯一の肉声記録は、ある夏の昼下がり、屋敷に録音技師を呼び込んでラッカー盤に刻んだステレオ音源が唯一のものとされている。幻想郷縁起の販促を目的として原盤に記録された音声は、塩化ビニル樹脂の黒い円盤に幾度もループするよう音像を転写して、複数枚が人里の商店に配布された。数十分ほどで販促の反復は終わってしまうが、そうなったら店の者がその都度レコードの頭からかけ直すのだ。
即日、遠慮のないクレームが入った。例によって本居小鈴からだった。
「レコードのお尻の方に、なんだか変な声が入ってるのよ」
阿求も聞いてみる。
「へびーっ!」
まぎれもない小鈴の声だったので大笑いしてしまったが、どうしてこんな声が入ってしまったのか。
「……たしかにね、あの日は本の配達やら回収やら、汗をかきかき行ったり来たりだったからなぁ。あんたのお屋敷の塀からぶら下がっている蛇と目が合って、「へびーっ!」って叫んでしまった事が、あの夏の、うだるように暑い昼下がりにはあったでしょうよ」
「じゃあ、そのあたりで録音技師さんたちがやっていた作業の中に、小鈴の声がうっかり入ってしまったのかしらねえ」
友人がばつの悪そうな妙な散文調で弁解するのもおかしかったが、それ以上に事態が面白いので、阿求は放置する事にした。
「それにしてもよ、自分の声って気分のいいものじゃないわ」
小鈴はそわそわしている。
「私はもう慣れたけど」
阿求はそう言い返したが、実のところ自分のぬるついた声質が、あまり快く聞こえてはいない。
その後も、小鈴は自分の「へびーっ!」にたびたび悩まされた。行きつけの美容室や、青物屋や、がらす細工を売っている小物屋なんかで。もっとも、幻想郷縁起の宣伝を実直に流し続けてくれる店も少ない。これを最後まで流し続けたのは例によって(貸本屋であるという義理もあってか)鈴奈庵だった。それもやがて、開店時になかば習慣的に蓄音機の電源を入れて、開店後の数十分を宣伝に費やすだけになった。一日一回だけ「へびーっ!」が鈴奈庵に響いた。
確実に稗田阿求のものと認められる唯一の肉声記録に、本居小鈴の「へびーっ!」がついでに残されている事を知る者は少ない。
「へびーっ!」
(了)