其の十 「貴方を照らす光」
『聖。どうして私に“寅丸星”という名前をくれたのですか?』
遠い昔、今から千年ほど前になる。聖に名を与えられ、弟子となったばかりの星は、些細な疑問を投げかけた。
夜の暗闇の中、寺の本堂は紙燭のわずかな明かりだけが灯っている。聖は微笑み、開け放たれた格子の向こうの夜空を指差した。新月の夜は殊更に暗く、星の光がいっそう鮮明に映る。
『貴方は虎であって、虎ではない、トラの子。だから寅丸』
『ええ、それは私にもわかります』
『……すばるに七夕などの星を愛でる習慣はありますが、流星や彗星のように、星は本来不吉の象徴なのですよ。けれど、今宵のような月のない夜は、星の光が道に迷った人を導くのです。太陽よりも優しく、月よりも穏やかに照らすもの。私は星の光をそう見出したわ』
と、聖は優しく語りかける。日輪の下では妖怪は大手を振って歩けない。月輪の下では妖怪は狂気にあてられてしまう。星ははっと気づく。名を与える行為は、その者の生き様を決めるに等しい。聖は力の塊だった名もなき妖怪を鎮めるためだけでなく、優しい願いを込めて名前をつけてくれたのだ。
『それでは、私はその名の通りに生きてほしいという願いを聖に託されたのですね?』
『ええ。だけど、これからの貴方の生き方も、名前の意味も、貴方が自分で考えるべきですよ。私の与えたものだけに囚われることなく……そう願っているわ』
聖の柔らかく、温かい手が星の頭を撫でる。温もりが沁みて、星は目頭が熱くなる。
聖のためなら、星はなんだってできる。願いも祈りも受け止めて、聖の期待に応えたい。聖のような、温かく優しい人物になりたい。
そしていつかは、聖の言うように、星は自らの生き方を自分で考えることになるのだろう。けれど今はまだ、聖の与えてくれる温もりに浸っていたかった。
◇
――八雲藍は式神を操る能力を失った。己の使役する式神達に命令が届かず、新たな式神を作る方程式を組み上げることもできない。
すぐさま紫に報告しようと紫の屋敷へ急げば、紫は起床してちょうど身支度を整え終えたところだった。
「なるほどねぇ」
慌てふためく藍に対して、紫は眉一つ動かさず、どこまでも冷静である。何度もうなずきながらしゃちほこばる藍の体を点検し、やがて目を細めた。
「もしや、バグが生じたのでしょうか」
「貴方と違って私の式神にバグなんて滅多に出ないわ。これは式神に負荷がかかり過ぎたようね」
「負荷、ですか?」
「式神は外の世界で言うコンピューターだと貴方は知っているわね? 貴方に起きた症状はいわゆるオーバーヒート。ヒューズが飛んだ、と言い換えてもいいわ」
式神に異常が発生した状態でも、藍の頭はかろうじて回る。立て続けに横文字を並べる紫の言葉を整理すると、藍に憑依している式神が負荷に耐えきれず、能力が正常に発揮できなくなったというわけだ。
負荷に当たるのが何なのかなど、考えなくともわかる。この頃、藍は式神らしからぬ悩みに――星への恋心に囚われて、卓越した頭脳を本来の目的とは違う方向にむやみやたらに酷使した。
紫には常日頃から自分の能力を正しく把握しろと口すっぱく言われていた。紫の忠告を無視して恋煩いに悩んでいたなど、式神のすることではない。お叱りを受けるのでは、と縮こまる藍の態度など目に入っていないかのように、紫は鷹揚に笑った。
「問題ないわ。これくらいなら、簡単に直せるでしょう」
「ほ、本当ですか。よかった……」
藍は大きく息を吐き出した。お咎めがないのもそうだが、自らに憑依する式神が正常に戻ることの方が藍を大いに安堵させた。
紫が右手を藍へ伸ばす。この場で修復してくれるのだろう、と身を委ねた藍に対し、紫はにこりと笑顔を見せた。
たちまち藍にかけられていた式神の憑依が解けて、藍は呆気に取られた。
「それじゃあ藍。式神の修復をしたいから、しばらく憑依を解除するけど、構わないわね?」
「へ? しばらく、ですか?」
「ええ。直したらまた憑依させるから。今までだって、たびたび式神が剥がれる時もあったし、少しくらい素のままで過ごしても平気でしょう? 結界の見回りだって問題なく行えるはずよ」
「そう、ですけど……」
藍は有無を言わせぬ紫の口ぶりに戸惑った。紫が簡単に直せると言うのだから、修復など一瞬で終わるはずだ。それなのにしばらく式神を解いたままでいろとは、どういう了見だろう。不安に駆られる藍を、紫はいつもの胡散臭い笑みで見つめている。
「まあ、こんな時に非常事態なんてそうそう起きないわよ。都市伝説の異変は独自に調査を続けている者がいるようだし。何かあれば他の式神が貴方の元へ行くでしょう」
「……」
「それじゃあ、まずは家事をよろしくね」
「あっ、紫様!」
紫は言いたいだけ言い放って、開いたスキマへ体を滑らせていった。置き去りにされた藍は、閉じてゆくスキマの跡を呆然と見つめていた。
紫に何か意図があるのは、式神のない藍にだってわかる。その意図が読めないのもいつものことだ。
紫の言う通り、別に式神が剥がれたって、藍は何が変わるわけでもない。性格がいくばくか丸くなるとは言われるが、藍は藍だ。見回りだけなら今の藍にだって容易くこなせるだろう。
けれど、今は紫の式神が剥がれてしまったのが不安で仕方ない。藍にとっては、紫の式神であることがアイデンティティなのだ。ゆえに紫以外を選べないと星に対する思いの扱いに迷い悩み、一方的な告白をし、その挙句に式神への負荷が生じた藍にしてみれば、唯一の拠り所を失ったようなものだ。
「紫様……」
藍は途方に暮れる。親鳥を見失った雛のような心細さに、性懲りも無く立ち往生している。
紫はいったい藍に何を求めているのか。わからないまま、それでも藍は紫の命令に従うしかない。未だ心の整理はつかず、むしろぐちゃぐちゃになってしまった。今更どの面下げて星に会えるのか。
もはや悩むことにも疲れてしまった藍は、紫の言う通り屋敷の家事をこなすべく、ふらふら立ち上がった。
◇
花の盛りは短く、儚い。数日前に満開になった命蓮寺の桜は今やほとんど散ってしまい、残った萼の下から若葉が芽吹き初めている。
星はほんの三日前に藍の久々の来訪があってからというもの、いつも以上に修行に精を出していた。読経に座禅に、掃除や洗濯といった雑事。何かに没頭していなければ、藍と別れた日の出来事に心を支配されてしまいそうだからだ。
それでも自室で一人の時間になれば、星は物思いに耽っている。
『嬉しかったよ。私も同じ気持ちだったから』
『星のことを思うと、苦しくて、切なくて、体がばらばらになってしまいそうなんだ。……本当だよ。こんなに苦おしい思いは初めてだから』
『貴方と会うのが楽しみだった。私ももっと貴方を知りたかった。……だけど、今は、貴方に会うのが苦しいんだ』
藍の言葉を一つ一つ思い出すごとに、星の胸は切なく締め付けられてゆく。
どうしてこんなことになってしまったのか。軽々しく酒に手を出したせいか?
いや。自分の未熟さだ。
同じ気持ちだと、好きだと言われて嬉しいはずなのに、藍を苦しめている事実が星を悩ませる。
「……これじゃ、またあの時と同じじゃない」
星は声を震わせてつぶやく。
千年前、聖が封印される時、自分が代わりに寺の留守を守ると言いながら守りきれず、結果的にただ恩人である聖を見捨てただけになってしまったこと。
二年前の秋、聖のいない千年の悪夢に苛まれ、苦悩から藍に不如意な言葉を投げて藍を傷つけ怒らせたこと。
もう二度と後悔はしないと、地底からムラサ達がやってきた時に決めたはずなのに、星はまた後悔に沈んでいる。聖の元で修行を積み、法力を得て、毘沙門天の代理まで任せられたというのに、星はあまりにも無力だ。迷える者を救うのが宗教家であるはずなのに、星は大切な人を救うどころか見捨てたり傷つけたりしている。
愛欲なんてものは絶つべきなのか。気持ちの整理がつくまでは会えないと藍は言った。藍は星への思いを捨ててしまうのだろうか。好きだと言ったのに、恋愛感情を排してただの友達に戻ってしまうのか。
――そんなの嫌だ。星は悔しさに拳を握りしめる。
星はもう自分の気持ちを捨てられない。ただの友達だと思っていた頃には戻れない。
一番じゃなくても大切なものは持てると、他でもない藍が言ったのに。その他にも、藍にたくさんのはげましをもらった。星が過去の悪夢に耐えられなかった時、救ってくれたのは藍だったというのに。
藍には紫だけだというのか。式神であることが重要なのか。星はぐるぐると悩んで、煩悩の渦に飲まれている。仏弟子失格だと己を諌めても、消えてくれそうにない。
「星」
気がつけば、星の部屋に一輪が雲山とムラサを伴って訪れていた。まったく気づかなかった星が振り返ると、一輪は眉を下げ、憐れむような気遣うような眼差しで星を見つめている。ムラサは苦笑いを浮かべていた。
「どうしたの、何か用?」
「星は、昔に比べてずいぶんわかりやすくなったわね」
「本当に。まあ、これもいい変化なのかな?」
一輪とムラサの言葉に隣にいる雲山も同調する。一輪は座り込んだ星のそばに歩み寄り、うつむく星の顔を覗き込む。
「人間に正体がばれてないから寺に残る、ごまかす自信はある、なんて言ったくせにさ。何も知らない人が見たって、今の星が悩んでいることぐらいバレバレよ」
「……そう」
「そんなに藍さんが好きなの?」
「好きです」
率直に答えると、一輪は驚いたような顔をする。この期に及んで、星が否定すると思っていたのだろうか。
「好きで好きでたまらないのに、私のせいで藍は苦しんでいるのよ。どうしたらいいの」
「星」
「藍のことだけじゃない。聖や、一輪達の時だってそう。私は大切な人を救えない。守るどころか、苦しめて、傷つけてしまう。……どんなに憧れていても、聖のようにはなれないのね」
星は自嘲の笑みをこぼす。何が聖の代わりに、だ。聖に出会った時からずっと聖の背中を見つめ続けて、聖のように誰かを救えるようになりたくて、自分なりに精進してきたのに、聖には遠く及ばない。たかが一人の妖怪に誰かを救うなんて無茶な話だったのだろうか。
「……一輪、星にはっきり言ってやって」
「オーケー。ねぇ、星、一言言わせてもらっていいかしら」
顔を上げると、ムラサは呆れ気味にため息をつき、一輪は険しい表情で星を睨んでいた。語気鋭く、一輪は言い放った。
「バッカじゃないの?」
呆れと怒りを滲ませた眼差しに、星は呆気に取られる。どちらかといえば遠慮のない性格の一輪ではあるが、ここまで歯に衣着せぬ物言いは初めてだ。
「星は星、聖様は聖様よ。一緒くたに並べるなんてお門違いだわ。そりゃあ聖様は尊い方だし、私だってあの人みたいになりたいって憧れるけど、決して同じにはなれないのよ。何より、星には星の良さがあるじゃない」
「私の……?」
一輪は眉間のしわを緩めて、今度は花が綻ぶように笑った。ムラサもうなずいてみせる。
「そうそう、最初っからそうなんだよ、星は決して聖の代わりなんかじゃないわ。長い間、毘沙門天の代理を続けてて忘れちゃったの?」
「星は真面目で、優秀で、けどちょっと抜けてて、忍耐力が強くて、お酒に弱くて、意外と激情家で。私はそんな貴方が好きよ」
二人に真っ直ぐに告げられて、星は不意をつかれる。一輪の“好き”は嬉しいし、胸がほんのり温かくなったが、やはり藍に言われた時とは違う。息が詰まりそうなほど苦しくならないし、身を焼かれるような熱さもない。改めて、星は藍に抱く感情が特別だったのだと思い知る。
「ねぇ、私は前に言ったでしょう。星の好きに行動すればいいって。このままいじけっぱなしでいたいの?」
「……そんなことはないけれど。私に藍の悩みを解決できるのかどうか、方法がまだ見つからないのよ」
「らしくないなぁ。私が一輪達と一緒に地底から戻ってきた時のあの威勢はどこに行ったの? そもそも向こうから連絡が来なくなった時点でこっちから動いちゃえばよかったのに、星は受動的よね」
「星。私達の仕事は、迷える妖怪や人間を少しでも苦しみから解放されるように、話を聞いて、幸せになれるように導くことだよね。だけど、幸せになれるかどうかは、結局本人次第なのよ。私達の力が及ばない時もある。自分でどうにかするしかないの」
そんなのは星にもわかっている。聖だって、今までに何人もの妖怪や人間に救いの手を差し伸べてきたが、決して驕らず、自分の力で幸せにしたとは言わなかった。
星は一輪とムラサに背中を押されているのだと気づく。ぐずぐずしてないで動け、自分で何とかしろ、そう発破をかけている。他でもない星のために。
「藍さんにとっての幸せが何なのかは私にはわからない。だけど、私は貴方に幸せになってほしいと思ってるのよ。だから、星。貴方の手で幸せをつかむのよ!」
一輪の空色の瞳が、強い意志を湛えて輝いていた。星は撃ち抜かれたような衝撃を受ける。
自分の幸せなんてピンとこない。利他行の精神で自分より他人を優先するのが聖に倣った星の行動理念である。けれど、藍と一緒に過ごしている時、確かに星は幸福を感じていた。願わくば藍もそうであってほしかった。
もしも藍が本当に紫以外のすべてを捨ててしまったら。橙を可愛がる慈愛に満ちた眼差し。マミゾウといがみ合う剣呑な雰囲気。こいしに背後を取られて狼狽える姿。魔理沙との遠慮ないやりとり。幻想郷の姿を知ってほしいと、手を取って共に出かけた日々――それらを藍が振り切ってしまうのは、あまりにも寂しいことだ。
視界の隅に、以前藍にもらった蓮の髪飾りが映る。刹那、弾かれたように星は立ち上がり、普段の炎を模した赤い髪飾りと取り替える。最後に宝塔を手に取って部屋を出る前に振り返ると、一輪とムラサは顔つきの変わった星を満足げに見つめていた。
「一輪、ムラサ、ありがとう」
「うん、行っといで!」
「ちゃんと決着つけてきてよね!」
すれ違いざまに、一輪は星の背を、ムラサは肩を叩いた。部屋を駆けて行った星を見送って、一輪はずっと傍らで静観していた雲山に話しかける。
「ねぇ雲山、私、キツいこと言っちゃったかな」
「……」
「そう。相変わらず甘いというか、優しいのね」
「なに、たまにはあれくらい言ってもいいでしょ。それが一輪のいいところなんだから」
「褒めても何も出ないわ。……え? 藍さんが星を幸せにしてくれるかって? 雲山は相変わらず頭が固いね」
「……」
「ええ、そうよ。藍さんにそれだけの力があるかなんて私は知らない。だけど、星は藍さんの隣でなら、自分の幸せを探そうとするのよ。自分がこうしたいってはっきり言うのよ。いつだって、他人のためにばかり動いていた星が。聖様の代わりになんて言ってた星が。それはとても素敵なことじゃない?」
「……」
「うん。私は信じているわ。星が自分の幸せにたどり着くことを。星はそれだけの力をちゃんと持っているもの」
「そうね。あとはもう祈りましょう。仏様と毘沙門天様に。……いや、こればっかりは星の力で何とかできますように、って祈るべきかな?」
寺の廊下をばたばたと駆け抜けて、星は聖の元へ急ぐ。藍にとっての一番大切なものが紫なら、星の一番は聖だ。どうしても聖と話さなければ、星は先へ進めない。たとえ許されなかったとしても、星は自分の心を素直に打ち明けずにはいられないのだ。
「聖」
聖の自室へ赴けば、聖は夜の勤行の準備をしているところだった。駆け足でやってきた星を咎めることなく、聖は仏壇の前に座ったまま、星の方へ振り返った。
「どうかしましたか、星」
「聖、私……」
聖は菩薩のごとき穏やかな微笑みを浮かべている。やや乱れた呼吸を整えて、星は聖の目の前に正座する。息を吸い込んで、星はきっぱり言い放った。
「私、好きな人がいるんです」
聖はわずかに目を見張っただけで、何も言わない。真っ直ぐに聖を見つめる星と目を合わせたまま、微笑みを崩さない。少しの不安を覚えた星は、懸命に言い募る。
「だから、私は、その」
「星。何も言わなくてもいいの。私には貴方を戒めることはできても、貴方の心まで縛ることはできないのよ」
星はそこで言葉に詰まってしまった。聖は何もかも見通している。星の心の変化など、とうの昔に気づいていたのだろう。わかっていながら、星が自分から切り出すまで、何も言わずにいてくれた。星は胸がいっぱいになって、聖に縋りついた。
「聖、ごめんなさい。私はもう二度と聖の傍から離れたりしないから、見捨てたりしないから、今だけ、私の大切な人のところへ行ってもいいですか?」
「……星。親が我が子の独り立ちを喜ぶようにね、私は、貴方が貴方だけの大切なものを見つけたことを喜んでいるのよ」
星は目頭が熱くなって、深く頭を下げた。聖は万が一にでも星が命蓮寺を離れたいと言い出したとしても、笑って送り出すのだろう。笑顔の裏で寂しいから行かないで、私を置いていかないでと嘆いていても、決して面に出さずに。
だから星は聖を置いてどこへも行ったりしない。聖が最愛の弟の死から今の境地に至るまでに、どれほどの悲しみや苦難を乗り越えてきたのか、星は痛いほど身に染みている。星は今になってようやく藍の苦悩が少しわかったような気がした。己にとって一番大切なものを前にしては、恋なんて一時の迷いではないかと疑いそうになってしまう。
藍の元へ行くために来たのに、決心が鈍りそうになる。すると、聖の両手が星の肩に置かれた。星が顔を上げた瞬間、
「しっかりなさい、寅丸星!」
珍しく声を昂らせた聖の一喝が突き刺さる。びくりと体を震わせた星を、聖は説教の時のような険しい目で見つめていた。
「貴方の手で救えるかもしれないものが手の届く場所にあるというのに、何もせずにまごついてどうするの。それでも貴方は私の弟子ですか」
星は驚きのあまり、口を声もなく動かしていた。
救えるのだろうか。星の手で、藍の悩みを打ち払えるのか。聖の目は己の役目を全うせよと訴えかけてくる。聖は真っ直ぐに夜の帷が降りかけた晩春の空を指差した。
「行きなさい。貴方のために、貴方の大切な人のために。……大丈夫よ。信じているわ、星」
聖は笑って告げた。固まっていた星の体が途端に軽くなる。
後悔は二度としないと決めたはずだ。一輪達に背中を押され、聖にも力をもらったのに、もう立ち止まってなどいられない。
「――行ってきます」
星が力強く告げると、聖はまた穏やかな笑みで答えた。
◇
石段を駆け下りると、掃除中の響子がその勢いに驚いて箒を落とした。「お、お出かけですか?」との声に曖昧な返事を返して外へ向かうと、寺の入り口にマミゾウが一人佇んでいた。
「おう、狭い狭い幻想郷、そんなに急いでどこへ行く、なんてな。つい鼠の口真似をしてもうた」
マミゾウはへらりと笑いかけた。どうやら星が寺を出るのを察して待ち構えていたらしい。
「マミゾウさん、私は急いでいるので、ご用件ならまた後で」
「儂にはさっぱりわからんのじゃよ。お前さんは、あんな主人にばっか目を奪われているような狐風情のどこがいいのかとな」
そのまま通り過ぎようとした星の耳に、呆れを含んだマミゾウの声が届く。振り返るとマミゾウは口をへの字に曲げて星を見つめている。
もはや迷いのない星は、笑顔を浮かべてきっぱりと告げた。
「紫さんが好きで好きで仕方ない藍だから、私は藍を好きになったんですよ」
星は地を蹴り、空へと高く飛び上がった。残されたマミゾウは星の行方を目を細めて見つめ、
「……まさに似たもの同士、破れ鍋に綴じ蓋でお似合いじゃ」
穏やかな笑みで星を見送った。
暮なずむ空の下、星はただ一人、藍の姿だけをつぶさに探し回った。
また会うと言った藍の言葉を信じていないわけではない。けれど、そもそもの元凶となった秋の十三夜の出来事から先日藍が訪ねてくるまでの三ヶ月強、星は自分から藍に会いに行く勇気もなく、ただ待つことしかできなかった。ここで星がまた待ちの姿勢に入れば、藍にちゃんとした形で思いを告げられずじまいになってしまうかもしれない。わがままだとわかっていながら、星はどうしても今、藍に会いたかった。
星は幻想郷のあちこちを訪ねて飛び回る。藍は結界の見回りを仕事としているから、幻想郷中を駆け巡ればどこかで会えるかもしれない。藍と一緒に巡った博麗神社、白玉楼、妖怪の山、マヨヒガ、猫の里、地底、魔法の森、太陽の畑。滅多に立ち入らない人里にも、特徴的な虎柄の髪を領巾で覆い隠してこっそり藍の姿を探した。見つからなくても星は決してめげずに、また別の場所へ飛んでゆく。
「幻想郷って、こんなに広かったのかしら……」
藍に誘われる以外で星は命蓮寺の外には滅多に出ない。結界に閉ざされた狭い世界だと聞いていたが、星が一人で巡るだけでも様々な場所があり、中には星が知らない場所だってたくさんある。
紅魔館や永遠亭など、藍と一緒に回らなかった場所にも星は足を運んだ。しかし藍は一向に見つからず、時間ばかりが過ぎてゆく。次第に空は暗くなり、全力で飛び回っている星もだんだん汗が吹き出し息切れしてくる。せめて藍の式神、橙だけでも見つけられればと思うも、橙はどこへ行ってしまったのか、マヨヒガにも猫の里にもまったく見当たらない。
「……藍」
星は薄々勘づいてくる。これだけ探しても見つからないのは、藍がどこかに身を隠しているからだ。以前、藍から紫の屋敷は幻想郷の境にあると聞いた。もちろん正確な場所は知らないが、八雲紫は外の世界に屋敷を構えている、なんて噂もまことしやかに囁かれている。紫は境目に潜む妖怪だ。藍も紫と共に幻想郷と外の境界にいるのだとしたら、星には打つ手がなくなる。
紫の元に藍がいるかもしれないと思うと、星の胸は締め付けられる。決して嫉妬ではない。藍も星も、一番だと決めた人がいながら、他に恋い焦がれる相手がいる。星ですら思う、何とひどい矛盾だろうと。方程式通りに規則正しく動く藍が、使命と恋の板挟みになって苦しむのは容易く想像できた。
「だけど、私達は初めからそうだったじゃない」
星はオレンジ色から紫色へと変わってゆく空を見上げてつぶやく。
星が藍と出会った時には、もう藍の心は紫が占めていた。同じように、星の心にはいつだって聖がいた。誰よりも大切な人を心から尊敬する気持ちに共感して、そんな相手をお互い好きになった。
諦めてたまるか。星が汗を拭い、新たに決意を固めた、その時だった。
「あらあら、命蓮寺の虎の子が、そんなに汗だくでどこへ行くのかしら?」
星の目の前で、突然空間が歪み、無数の目玉が生じる。両端を赤いリボンで結ばれたスキマの中から、扇子を片手に長いブロンドの髪を靡かせた女が現れた。
「八雲紫……さん」
息を飲む星に、紫は胡散臭い笑みを向けた。
「覚えていてくれたの。貴方と会ったのは一度くらいだったと思うのだけどね」
「……幻想郷で貴方を知らない方なんていませんよ」
八雲紫を目の前にした星は、心の動揺を抑え、平静を装って返事を返した。
星はたった一度だけ、紫と直接顔を合わせたことがある。といっても、命蓮寺で修行に励む星の背後にいきなり顔を出して、
『精が出るわねぇ。貴方がうちの藍と。へぇ……』
と、驚きのあまり声も出なかった星に、一人でつぶやいてすぐさまスキマの中に消えていったのだ。さすがの星も心を乱され、修行が手につかなくなりそうだったのは言うまでもない。
あの時は確か、藍の大陸風の装束に似た、藍よりも派手な紫色の衣装を纏っていたはずだが、今は紫色のロングドレスに身を包んでいる。紫様はお洒落好きかつ派手好きだ、と藍が語っていたのを思い出す。
紫の思惑なんて星にはまったくわからない。紫から藍の行方を聞き出すなんて到底無理だ。今日は何をしにきたのか、と身構える星に対し、紫は今夜の天気でも尋ねるような口調で言った。
「ねぇ、貴方は式神が何なのかわかっているの?」
「式神……ですか?」
「ええ。貴方は虎の妖怪だから妖獣の藍に仲間意識を抱いたのかもしれないけど、藍はただの動物じゃなくて式神なのよ。式神は主人の命令に忠実な私の道具」
「……」
「道具の所有権はもちろん私にある。仏教では不偸盗戒、という教えがあったわね。貴方は仏に仕える身でありながら、人の物に勝手に手を出すの?」
紫は愉快そうに目を細めて、黙りこくった星を見下ろしていた。
星は頭を働かせて、紫の考えに思いを馳せる。似たようなことをマミゾウが口にした時は腹が立った。マミゾウから藍への挑発だとわかっていても、藍をもの扱いされるのは許しがたかった。
やがて、星は紫の目を真っ直ぐに見つめて――にっこり笑った。紫はさも意外そうに目を瞬いた。
「あら、今回は怒らないのね」
「心は言葉にだけ現れるわけではありません。言葉の上辺だけをそのまま受け取っても、意味はないのです」
聖は口を酸っぱくして言っていた、相手の言葉に注意深く耳を傾けろと。相手が何を口にして、何を黙っているのか見極めなければ、心の内側はわからないと。
星は紫と腹の探り合いをできるほど賢くない。けれど、紫がまったくの出鱈目を言っているわけでも、本心すべてを口にしているわけでもないのは、星にも見抜けた。
「貴方が道具扱いしても、藍は貴方に怒らないでしょう。なら私が怒っても仕方ありません。はっきりしているのは、貴方が藍をどう思っていようとも、私は藍を道具だと思っていないということですから」
「なるほどねぇ。よく口が回ること。貴方はあの僧侶によく似ているわ。僧侶に比べたらまだ精神が不安定だけど」
「私はまだ八苦を滅していないので。聖には到底及びませんよ。紫さんの言いたいことはそれだけでしょうか? 私は急いでいるので、お話でしたらまた別の機会にお願いします」
「私に『藍はどこにいるんですか?』とは聞かないのね」
「素直に答えてはくれないのでしょう? 無闇に聞き出そうにも、私に貴方ほどの妖怪を騙せる知恵なんてありませんし」
星が自分の考えをはっきり述べると、紫は扇子を広げてにやりと笑った。なるほど、この笑顔は会う者に不気味な気分を抱かせる、と星は思う。
「よくわかったわ」
「はい……?」
「私の確かめたいことは済んだ。命短し恋せよ乙女――つかの間の幻想をじっくり味わいなさい」
紫が扇子を閉じると同時に、再びスキマが開いた。一瞬のうちに紫はスキマに身を滑らせ、紫の姿は跡形もなく消えた。
星は狐につままれたような気分で、さっきまで紫がいた場所を見つめていた。紫は星に何を見たのか。藍の何を伝えたかったのか。最後に紫が残した言葉を反芻して、星はひとりごちた。
「妖怪の恋に“命短し”なんて似合わないわ」
紫が何を確かめたかったのか、考えてもわからないが、今はとにかく藍を探すのが最優先だ。
星は動き回って乱れた衣装を軽く整えた。すでに日は山の端に入り始めている。星だけで藍を見つけられないのなら、誰かの手を借りるしかない。探し物にうってつけの妖怪を星はよく知っていた。
星が再び地を蹴って向かったのは無縁塚の近くにある、小さな掘立て小屋だった。
「ナズーリン!」
星は大声で部下の名前を呼ぶ。これでナズーリンまで留守だったら、と懸念したが、すぐさま星の部下である小さな賢将が住処の掘立て小屋から飛び出てきた。ナズーリンは尋常でない星の様子を目にして、驚きを露わにする。
「いったいどうしたのですか、ご主人様。いつも言ってますけど、用があるならわざわざ自ら出向かなくとも使いをよこして」
「ナズーリン、お願い。藍を探して。藍が見つからなかったら、せめて橙ちゃんを連れてきて」
星はナズーリンの小言を遮って用件を告げた。ナズーリンのダウンジングなら、あるいは藍や橙を見つけられるかもしれない。
ナズーリンは主人の唐突な頼みに面食らっていたが、星のただならぬ気迫に事情を察して、いつもの皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「やれやれ、仕方ないですね。何、お安い御用ですよ。失せ物探しは得意なものでしてね」
「ありがとう、ナズーリン」
ナズーリンは一度掘立て小屋に戻り、二本のロッドとしもべの鼠を携え、素早く無縁塚から姿を消した。
星はナズーリンが戻るまでの間、ナズーリンの家から筆と紙を拝借し、簡素な手紙をしたためた。短くまとめた文章を、ある種の恋文のつもりで藍に宛てる。何人の手を通してでも、この手紙が藍に届くように。本当は自分だけの力で藍を見つけたかったが、叶わないのなら素直に星に協力してくれる者の力を借りるまでだ。
「見つけましたよ、ご主人様」
日がすっかり落ちた頃、ナズーリンが橙の首根っこをがっしりつかんで戻ってきた。どういうわけだかナズーリンも橙もずぶ濡れで、橙は不満を隠さない顔でナズーリンを睨んでいた。
「もう、なんで猫が鼠に負けるのよ! こないだは私の足の方が早かったのに!」
「何度も同じ過ちを繰り返すほど私は馬鹿じゃないんでね。こちらが不利なのは承知の上、なら有利な状況に持っていかせてもらうまで。猫は水嫌いでも、鼠は泳ぎが得意なのさ」
「おかげで私の式神まで剥がれちゃったじゃない!」
橙は大きく体を振るい、水を弾き飛ばして濡れた体を乾かす。どうやらナズーリンは色々と策を凝らして橙を連れてきてくれたようだ。いささか乱暴になってしまったのは後で詫びねばならないが、今は藍への手がかりが見つかったことへの安堵が勝った。
「ありがとう、ナズーリン。……橙ちゃん。藍がどこにいるか知ってますか? 幻想郷中を探しても全然見つからないんです」
ぎくりと橙は体を強張らせる。目があからさまに泳いでいた。
「い、言えないよ。藍様から星さんが来ても会わせないで、って言われているもの」
「どうして?」
「どうしてって、藍様、星さんに待ってって言ったんじゃないの? 星さんこそ、なんでそんなに焦っているの?」
橙はここぞとばかりに星を突っつく。確かに、星が無理を通してまで藍に会いに行く必要はないのかもしれない。藍が姿をくらませているのは理由があるのだろうし、今の橙から見れば、星は藍を困らせる悪い奴だろう。けれど星からすれば、あんな形で告白されて、そのまま過ごすなんてできない。
星は橙と目を合わせるためにしゃがみ込む。たじろぐ橙に、星はにっこり笑いかけた。
「ごめんなさい。私、もう一方的に待ち続けるのは飽きてしまったの」
聖を待った千年は星を辛抱強くしたが、同時に目覚ましい行動力も与えた。
橙は目を白黒させ、ナズーリンは呆れたようにため息をつく。星は先程したためた手紙を橙に差し出した。
「せめて、この手紙だけでも藍に届けてもらえませんか?」
「……」
「観念した方がいいぞ。こうなったご主人様はかなり意固地だからな」
「ナズーリン、言うようになったわね」
「……あのね、星さん。今の藍様は紫様の式神じゃないの」
星から渡された手紙を見つめて、橙は諦めたのか口を割った。
一瞬、星の体が凍りつく。悪い方向に考えを巡らせた星に、慌てて橙が付け加える。
「違うよ、クビになったんじゃなくて、藍様に憑依してた式神が壊れちゃったから直してるだけ。私が水に濡れて式神が落ちたのと同じ、ちゃんと元に戻るよ」
「いつですか? 藍の式神は、いつ剥がれてしまったんですか」
「え、えっと、最近?」
「君はごまかしが下手だな」
「だって! 言っとくけど星さんのせいじゃないよ。だけど、この手紙は渡せない。私だって二人に仲直りしてほしいけど、これ以上藍様が困ってるのを見るのはつらいよ」
「橙ちゃん……」
ナズーリンは星を意固地だと言ったが、橙もなかなかに頑固だ。橙は多くを語らないが、藍の式神が剥がれたのも星が関係しているのだろう。
主人を思う橙の健気さに同情しつつも、星はどうしたら橙を納得させられるのか、考えを巡らせていた。
「うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ」
その時、視界の端を眩い光を放つものが横切った。この光は見覚えがある。ふらふらと蛇行しながら近寄ってきた光の玉が、やがて人の形に変わる。
「ぬえ!」
「甘いよ、星。どうせ追いかけるんだったら、地獄の果てまで追いかけてやるぐらいの覚悟じゃなきゃ捕まらないんだから」
ぬえは、じとりと目を細めて腕を組んでいる。橙は突然姿を現したぬえから警戒して一歩引く。思えば、星が橙と初めて顔を合わせた時も、ぬえが唐突に割り込んできたのだった。橙以上に気まぐれなぬえが、ただちょっかいをかけにきたのか――不安げにぬえを見つめる星に、ぬえはにやりと笑った。
「寺に籠ってばっかのあんたは知らないだろうけど、世の中は幻想郷だけで回ってるんじゃないのよ。聞けば八雲紫の屋敷は外の世界にあるって噂だそうじゃない?」
「ぬえ、まさか」
「外の世界にいたマミゾウを連れてきたのは誰だと思ってるの? あんたと一緒に結界を越えて外の世界へ抜け出すくらい、容易いことよ」
「だ、駄目!」
ぬえの誘いに揺れた星を押し留めるように、橙は強く叫んだ。
「外の世界はとっても危険なの、幻想郷と違って人間は誰も妖怪なんて信じてないの。長い時間外に出たら、消えちゃうかもしれないのよ!」
「ちょっとなら大丈夫ってことでしょ? 例のオカルトボールの時もそうだったし。私だって平気だったわけだし、何より案内結界を自由に行き来してる妖怪は他にもいるみたいだしねぇ」
ぬえはちらと星を見た。昨年の都市伝説異変で、一時的に外の世界へ出た者がいるのは知っている。外の世界はひどく気味の悪い空気で満ちているとも聞かされた。ぬえやマミゾウのような強力な妖怪ならともかく、星が外に出たらどうなるか。
覚悟はあるか、ぬえの瞳はそう問いかけている。怖くないと言えば嘘になる。しかし、万に一つでも藍が見つかる可能性があるのだとしたら、星は恐れもためらいも捨てられた。
星は肌身離さず抱えていた宝塔を、ナズーリンに差し出した。
「ナズーリン。宝塔を命蓮寺まで届けてもらってもいい? 外の世界で落としちゃったら取り返しがつかないもの」
「しょ、星さん! 本気なの!?」
「まあ、貴方ならそう言うだろうと思ってましたよ」
「ナズーリンまで! 駄目だってば、狸や鵺が平気でも本当に危ないんだって!」
「うるさいなぁ。止めても無駄だってわからないの?」
ぬえは必死に引き止める橙に近寄り、意地悪くほくそ笑む。
「他人の心配ばっかしてる場合かしら、子猫ちゃん? あんたのご主人様のせいで命蓮寺の御本尊の身に何かあったら、聖はどう出ると思う?」
「――っ!!」
ぬえの囁きに、橙は尻尾を真っ直ぐに立てて竦み上がる。即座に身を翻し、橙は星の手紙を引ったくるように奪った。
「わかった! 藍様にちゃんと届けるから! 星さん、早まっちゃ駄目だからね!」
星に念押しして、脱兎の如く橙は無縁塚を駆け抜けていった。あの口ぶりなら、本当に藍に星の手紙を渡してくれるだろう。
星は強引な手段を持ち出したぬえを振り返る。結果としてうまくいったとはいえ、あまり褒められたものではない。
「助けてくれてありがとう。でも脅しちゃ駄目よ、ぬえ」
「私は面白そうな方に首を突っ込んだだけ。境目なんかに引っ込んでるやつが悪いのよ」
「けれどご主人様、あそこで橙がうなずかなければ、本当に外の世界へ出るつもりだったのでしょう?」
「ええ」
当たり前だとうなずけば、ナズーリンは肩をすくめる。夜が深まり、辺りはどんどん暗くなってゆく。星は次の目的を実行するべく、手助けしてくれた二人にお礼を言った。
「ナズーリン、ぬえ、ありがとう。私はもう行かなきゃ」
「行くってどこへ? 命蓮寺に帰るんじゃないの?」
「手紙に待ち合わせの場所を書いたの。呼び出しておいて遅れたら、藍が待ちぼうけになってしまうわ」
賭けに近いが、藍はきっと来てくれるだろうという予感があった。加えてぬえの駄目押しである脅しもある。
星から預かった宝塔を抱えて、ナズーリンはため息をついた。
「仕方ない。ぬえ、私達は一足先に命蓮寺へ向かおうか」
「あんたと一緒に行動するの? マミゾウといい、私の周りはなんでこうも獣が集まるんだか」
「君は虎だったり猿だったり蛇だったりするじゃないか。……ご主人様。ここまで私達を引っ掻き回してくれたんだ、せいぜい良い結果を出してくださいよ」
「もちろん」
二人に見送られて、星は一番星が昇り始めた空へ飛び立った。
約束の場所は、幻想郷で藍と初めて出会った、始まりの場所。そして、これが星が藍を待つ最後の時間だ。
◇
「藍様!!」
紫の屋敷で黙々と家事を進めていた藍の元に、橙がひどく慌てた様子で転がり込んできた。何やら体は濡れているし、泥や木の葉がついて汚れている。ただならぬ橙の有様に藍は驚いた。
「ど、どうしたんだ橙。また誰かにやられたのか?」
「星さんが、星さんが危ないの!」
「何だって?」
藍はすぐさま耳をそばだてる。橙は握りしめてくしゃくしゃになった手紙を藍に突き出し、必死に捲し立てた。
「星さんは藍様を探して外の世界に行くつもりなんです!」
「なっ……! そんな、星に結界が破れるはずがないだろう?」
「ぬえって妖怪が外の世界への抜け道を知ってるんですよ! とにかく、これを読んでください!」
藍は予想だにしない星の行動に驚愕した。
あんな別れ方をしておいて、星が納得してくれるとは思っていなかった。だが、まさか星がそこまでして藍に会おうとするとまでは考えが及ばなかった。
「星……」
藍は橙から受け取った手紙を広げた。星の文字はいつもと変わりなく、力強くて躍動感のある筆跡だった。
【――私が外の世界で暮らしていた、元はお寺だった荒屋で会いましょう。
私はいつまでも、この場所で待っています。
いつか貴方と約束を交わした、貴方と出会ったこの場所で。
だけど、もしいつまで経っても貴方が現れなかったら、その時は……。
私の方から、貴方に会いに行きます。
寅丸星】
藍は震える手で手紙を握りしめた。すでによれよれの手紙はさらに紙くずのようになってゆく。
星にとって、そこまでする価値が藍にあるのか。紫しか選べないと、星を突き放してしまったのに。鎮めようとした情念に、再び火が点る。
藍の式神は剥がれている。卓越した頭脳も式神を操る能力も失って、残ったのは藍を突き動かす思いだ。
「藍様!」
「橙、お前はここで待っていなさい。……星なら本当にぬえの手引きに乗りかねない」
藍は手紙を懐にしまい込むと、家事も放り出して屋敷を飛び出した。気持ちの整理などつきそうにない。けれど星が消えてしまうかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかった。
◇
年月を経るにつれて、かつて星が聖達と暮らしていた古寺は見る影もなく朽ち果ててゆく。幻想郷の外れにある荒屋はもはや木造の寺の形をなしておらず、かろうじて灯籠や石碑だけが残っていた。
幻想郷の桜はほとんど散ってしまい、遅れて咲く山桜の花びらが闇の中に白く浮かんでいる。
星は空を見上げて藍を待った。下弦を過ぎた月の出は遅く、空には無数の星が散らばっている。宝塔もナズーリンに預けてきたため、閑散とした暗闇の中では星明かりだけが頼りだった。
月のない夜は星明かりが道標になる、とかつて聖に言われたことを思い出した。夜空の星は静かに荒屋とそこに佇む星を見下ろしている。
その時、伸び放題の雑草をかき分ける音が聞こえてきた。
――来てくれたんだ。現れた藍は切羽詰まった表情をしていたが、まるで数年前に初めて藍と出会った日の再現のようだった。
「星っ!!」
「藍……」
一直線に駆け寄ってくる藍はどこかやつれているように見えた。藍は微笑む星の姿を確認するなり、息を切らせたまま大きくため息をついた。
「貴方は、本当に……肝が潰れると思ったよ」
「……こうでもしなければ、会えないと思ったので」
謝らなかったのは、罪悪感よりエゴの方が勝っていたからだ。形ばかりの謝罪に意味はない。
星は藍の様子を見て、いつもと雰囲気が違うと気づいた。苦悩を重ねたせいか、星が半ば脅しじみた手段を用いたためか。それとも、橙が藍の式神が外れていると言っていたが、その影響なのだろうか。
じっと見つめている星を前に、藍は顔をしかめる。
「私は言ったはずだよ。気持ちの整理がつくまでは会えないって」
「わかってます。だけど、あんな別れ方をされたら私だって納得がいきません」
星はゆっくりと息を吸い込んだ。胸は高鳴るのに、心は不思議とさざ波一つ立たずに凪いでいた。
「私も藍が好きです」
藍は目を瞬く。予想はついていたのだろう、藍はさして驚く様子も見せない。星は先日藍に伝えられなかったこと、迷い悩んで出した答えを藍に告げた。
「紫さんが藍の一番でもいいんです。いいえ、紫さんに焦がれる貴方だからこそ、私は惹かれたんです。自分にとって一番大切なものを思う気持ちを分かち合えるから。私だって藍と聖、どちらか一つを選べと言われたら聖を選ぶんですよ。だから、そんなに思い詰めないでください」
「……星、貴方はわかってないよ」
藍は苦虫を噛み潰したような表情で、首を横に振った。
「私はいずれ貴方の手を離すんだ。離れてゆくのがわかってるなら、答えを出すのは早いに越したことはない。悩むのは時間の無駄なんだよ」
「……無駄、ですか」
「ああ。問題を先延ばしにしてぐずぐずしていた私が悪かった」
自棄っぱちに吐き捨てて顔を背ける藍に、星は頭が真っ白になる。
無駄なんて。確かに迷いや悩みを抱え続けるのはつらく苦しいことだ。けれど藍の言い様はまるで、星に抱く好意すら煩わしかったとでも言いたげではないか。
呆然とする星へ、藍は眉を顰めたまま、淡々と語る。
「星。私は紫様に貴方と別れろと言われたら逆らえないよ。逆らわないんだよ。その程度なんだ、私の思いなんて。……星も私のことなんて忘れなよ。聖が一番だというなら、貴方だって悩まなくて済むんだ」
瞬間、星の胸に熱く煮えたぎる感情が込み上げてきた。たちまち星から冷静さを奪い、心を支配する激情は、怒りだ。
今更忘れられるわけがないのに。その程度だと割り切れるなら、藍も星も最初から悩みはしないだろう。
藍だって星のことを知りたいと言ったくせに。切なく苦しい思いを抱えていると打ち明けたくせに。星を切り捨てるつもりだったなら、どうして好きだなんて言ったのだ!
「……嘘つき。いくじなし」
ぼそりとつぶやいた声は低く、怒りが滲み出ていた。目を丸くした藍に構わず、星は藍を睨みつけた。湧き上がる怒りを抑えられない。藍の言葉が星の理性を剥がしてしまった。
「そうやって何もかも紫さんのせいにしていられれば、楽ですものね」
「……何だって?」
藍は眉をつり上げる。藍の金色の尾がゆらりと逆立ち、藍もまた怒りを抱いていることを如実に語っていた。
「そうでしょう? いつも紫様紫様って、自分で何も考えずにすべて紫さんになすりつけて、貴方はなんの責任も負わなくていいんですから」
「っ今更そんなことを言うのか。私をただの道具や人形じゃないと言ったのは星じゃないか!」
藍は声を荒げて食ってかかる。藍の気迫は凄まじく、剣呑な眼差しや逆立った毛並みが威圧感を与えてくる。並の妖怪や人間なら尻尾を巻いて逃げ出すだろう。星は臆さず応戦する。恥も外聞も捨ててありのままの思いの丈をぶちまけるのは、互いに理性が剥がれた今しかない。
「無心になるのは思考の放棄とは違います。今の藍は式神ではないはずなのに、式神だった頃よりもよっぽど道具みたいですよ!」
「他人の悩みを救うのが宗教家のくせに、ずいぶん迷い悩む苦しみを軽んじているな」
「軽く見ているのは藍の方ですよ! どんなに悩んだって、私への思いはあっさり捨てられる程度のものなんでしょう?」
「式神にとって答えを出したくない悩みを抱えるのがどういうことか、貴方は知らないんだ。貴方に私の何がわかるっていうんだ!」
「わからない!」
断言した星に、藍は虚をつかれた。藍が怯んだ隙を逃さず、星は滔々と畳みかけた。
「藍との付き合いなんてほんの数年ぽっちよ。私が聖を思って過ごした千年や、貴方が紫さんのそばにいた数百年に比べたら一瞬じゃない。私は貴方のことをまだ全然知らないのよ!」
星は覚えていないものの、酒に酔った時に星が藍へ“知りたい”と言った理由が今ならよくわかる。
付き合いを重ねても、断片的な過去の出来事を打ち明けても、お互いに大事な役目があって相手のことばかりを気にかけていられない。星が見てきたのは、藍のほんの一部でしかない。だからこそ、藍のことを知りたくて藍に手を伸ばし続けていた。
それでも、星は藍について何も知らないわけではない。ほんの一部でも、星の目に映る藍は紛れもなくありのままの藍の姿だった。
「だけど、わかってることもあるの。尊敬する主人を一途に慕っていて、美しくて、聡明で、おおらかで、意外と能天気で、自分の式神をうまく扱えないちょっと抜けたところもあって――そんな藍が、私は好き」
改めて自らの思いを告げると、藍の目が見開かれ、あからさまに動揺する。
藍の言う通り、恋する気持ちは胸が締め付けられて、切なく苦しい。けれどそれだけではなくて、胸の奥底に灯が点ったように温かくなる。逸る鼓動も、熱を帯びる頬も、不思議と不快ではない。
こんな気持ちは千年生きてきて初めてだった。聖に抱くものとも、仲間達に抱くものとも違う、他でもない藍が星にくれたものだ。それを手放すなんて、星には到底できない。藍にも手放してほしくない。
星は藍の金の瞳をじっと見つめた。藍の瞳は心許なく揺れている。どうしたら藍の不安を取り除けるのだろう。どんな言葉をかければ、藍を救えるのだろう。それだけに思いを巡らせて、星は語りかけた。
「藍。貴方は何を怖がっているの。式神でいられなくなること? 紫さんが一番じゃなくなってしまうこと? 自分が自分でなくなってしまうこと?」
「……」
「すべてを捨てて紫さんと二人ぼっちになってもかまわないというの?」
「……」
「私はそれじゃ納得いかない」
星は藍に手を伸ばした。いつも藍の方から当たり前のように握られる手を、今度は星から取る。藍は体を震わせたものの、振り払いはしなかった。藍の白く細い指先は、夜風に晒されたせいなのか冷たい。星は両手で藍の手に自らの熱を分け与えるようにぎゅっと握りしめた。
「確かにこの世界は狭く閉ざされているのかもしれない。貴方に比べたら、私は幻想郷のことをまだ半分もわかっていない。それでもいろんな妖怪と人間が暮らしているのを、藍と一緒に見てきたわ。今日、私は藍を探して一人で回ったけど、幻想郷は一人で巡るには広すぎるのよ」
かつて、藍は星に、幻想郷には美しい景色も恐ろしい場所もあると言った。紫の愛する世界を星にも知ってほしいと言った。
命蓮寺に籠って留守を守る星の世界を広げてくれたのは藍だ。藍が手を引いて案内してくれたのだから、星はまだ藍の手を離したくない。
「藍。この世界は二人だけで回ったりなんかしない。こんな素敵な世界、一人二人で暮らすなんてもったいないじゃない」
紫だってそんなのは望んでいないはずだ。外の世界では生きられない、忘れ去られた妖怪達の楽園。星もまた、人間に忘れられて幻想郷へやってきた妖怪の一人だ。聖の掲げる理想とはいささか異なるけれど、幻想郷では妖怪と人間とが持ちつ持たれつ暮らしている。
星もいつしかこの世界で末永く暮らして行こうと思えるようになった。そこには藍もいなくてはならない。
夜の帷が降りた暗闇の中、星明かりだけが藍の手を握る星の手を照らしていた。
『貴方の手で救えるかもしれないものが手の届く場所にあるというのに、何もせずにまごついてどうするの』
聖の言葉が蘇る。星はふと、藍が紫に与えられた名前の意味を見出せずに悩んでいたのを思い出す。同時に、星が聖からもらった名前の意味も思い出した。
太陽より優しく、月よりも穏やかに照らす光。迷える者の道標となる救いの光――聖への恩返しはすでに果たした。星は聖のように多くの人間や妖怪は救えない。けれど星が救いたいと願う相手は今、目の前にいる。
藍が星に過去の呪縛から立ち直る力をくれたように、星も藍に自らの意志で立ち上がる力をあげたい。
「藍、私はここにいる。貴方が自分を見失いないそうで迷った時は、私が力になるわ」
「星……」
「私は“寅丸星”。聖の祈りを受け止める者。迷える人々の寄る方となる者。そして、今は藍のそばに寄り添う一人の妖怪。法の光でなく、私の光が貴方の道標になれたら――」
昼間は日の光で星は見えない。夜が降りて、空の色が深く藍色に染まって、初めて星は輝きを発揮するものだ。
「藍……」
言葉に詰まる藍の瞳を、星はじっと見つめていた。星のそれよりも深い金色の瞳に、星の光が反射する。瞳孔の揺らぎがわずかに治った気がした。
どうかこの手を離さないで。祈りと願いを込めて、星は藍の手を握り続けていた。
◇
藍は、星の真っ直ぐな瞳から目を逸らせずにいた。星の真摯な言葉が藍の胸を撃ち、まともな言葉を返せなかった。
星の衣装はあちこち乱れ、汚れもついている。宝塔も鉾も持たず、身一つで本当に幻想郷中を駆け回って藍を探していたのだろう。外の世界へ探しに行く、なんて危険な手段まで視野に入れて。
どうして藍のためにそこまでしてくれるのだろう。藍は一歩的に星への思いを断ち切ろうとしたのに。藍がいなくたって、星の周りにはたくさんの仲間達や星を崇め奉る者達がいるのに。
――そんなに藍を好きだと思ってくれるのか? 星の頭上には、以前藍が贈った蓮の花の髪飾りが煌めいている。もったいなくてなかなか使えないと、前につけていたのは宗教戦争によるお祭り騒ぎの時だった。髪飾りだけじゃない、星は藍が贈ったものをずっと大事に持ち続けてくれていた。
(いつか私は星の手を離すのに。だけど、私だって、本当は……)
藍の頑なな心が、少しずつ溶かされてゆく。
星は決して逃げなかった。
毘沙門天の代理という役目からも。
聖の弟子という立場からも。
心の奥底に封じ込めた、千年もの間聖を一人で思い続けた忌まわしい過去の記憶からも。
自分の気持ちからも。
藍のことからも、逃げずに向き合い続けてきた。
――それに引き換え、私はどうだ? 藍は己を顧みる。
星の言う通り、式神だからと紫様を言い訳にしていただけじゃないのか?
本当は向き合うのが怖くて逃げたのではないか。
大事なものをいくつも抱えて生きる覚悟がなかったのではないか。
星に本気で恋い焦がれる思いが弾けて、中途半端に紫も星も傷つけるのを恐れていたのではないか。
(私だって、この思いを捨てたくなんかないんだ――!)
藍の手を握る星の手は温かく、決して離したくない、私の思いを受け取ってほしいという強い意志が籠っていた。
真っ向から藍に向き合い、敬語すら忘れた素の口調で切実に訴える星の姿は、藍の目には眩しく光り輝いているように見えた。
それは仏の後光ではない。毘沙門天の威光でもない。
星のひたむきな思いが、強い意志が、星を輝かせているのだ。夜空に浮かぶ星の光のように、優しくも温かい、眩い光を――。
藍は全身で光を浴びている。ぐるぐると暗闇の中を一人彷徨う藍がそれに気がついた時、藍はもう暗がりの中にいなかった。
「……ふふっ、あはははっ!」
「ら、藍?」
藍は声を立てて笑った。ああ、馬鹿馬鹿しい。明後日の方向に迷走して、挙句に式神の能力まで失って、遠回りをしていたけれど、藍はとっくに正しい答えを出していたのだ。他でもない星が導いてくれた。
星は突然笑い出した藍を怪訝そうな顔で見ている。藍がおかしくなったと思っているのだろう。あまりの滑稽さに滲んだ涙を拭って、藍は星に微笑みかけた。
「ねえ、星」
「な、何?」
「ようやく敬語が取れたね」
藍が心からの笑顔で告げると、星は一瞬硬直し、音を立てそうな勢いで顔が真っ赤に染まった。自覚がなかったのだと思うと、ますます星が愛おしく感じる。
「いや、その! わっ、私、夢中だったものですから、つい!」
「あれ、どうして戻しちゃうの」
「藍! 話を逸らさないでくださいよ! 私は真剣に……」
「ごめん、ごめん」
慌てふためきながら怒る星の体を、藍はそっと引き寄せる。星は口では文句を言いつつも、大人しく藍の腕の中に収まった。
「――好きだよ、星。あんなことを言っておいて、やっぱりこの思いは消せないみたいだ」
耳元で囁くと、星は藍の顔を見て目を見張った。
「……本当に? もう嘘だなんて言いませんよね?」
「言わないよ。私はもう逃げない。ちゃんと、貴方に向き合うよ」
大事なものはいくつだって持てる。藍がかつて星に語った言葉は、嘘ではなかった。
初めての本物の恋に戸惑っていただけで、藍は紫への敬愛も、星への恋慕も同時に抱えていられるのだ。たとえ最後には紫を選ぶのだとしても、早急に答えを出す必要なんてなかった。
藍に真っ正面から向き合ってくれる相手なんて、そうそう見つからない。星が逃げずに藍を追いかけてきてくれたように、藍も星に向き合おう。
「だから、もう敬語はやめてくれる?」
「ま、まだそれを言いますか」
「さっきは取れてたじゃない」
「だから、さっきは夢中でしたので、意識してしまうとかえって……むっ」
指先を唇に当てて遮った。やっと藍にも素の口調で話してくれるようになったのに、逆戻りでは面白くない。
「また敬語使ったら口を塞ぐよ」
にやりと笑って、藍は星の唇を指先でなぞり、続いて自らの唇を指さす。藍の仕草の意味するところを知った星の顔がひなげしのように真っ赤になる。
さすがに怒られるだろうか。ちょっとからかいが過ぎたかな、などと考えていた藍に、星は顔を赤くしたまま、消え入りそうな声でつぶやいた。
「かまいません、って言ったら……どうしますか?」
言いながら恥ずかしくなったのか、星は瞳を潤ませたままうつむく。思いもよらぬ答えに意表を突かれた藍は、あっさり白旗を振る。敵いやしない。海千山千の傾国、なんてのはかびの生えた過去の栄華だ。惚れたが負けとはよく言ったものである。
薄く笑って、藍は星の顎に手を添える。星の鮮やかな金色の瞳が間近で閉じてゆく。虎柄の髪に白い花びらがついている。ゆっくり重なった唇は、指で触れるよりも柔らかく、瑞々しい感触だった。
離れて星の顔を覗き込めば、星はますます顔を赤くして縮こまっていた。
「貴方は私を操るのが上手いね?」
「藍がそうさせたんじゃない」
ぼそりと返ってきた返事はそっけないが、敬語を使わないでくれるらしい。満足げに口元をつり上げる藍を、星は羞恥に潤んだ目で睨みつける。
「お酒に、嘘に、恋。藍のせいで私は三つも戒律を破ってしまったわ」
「私の心を盗んだんだから四つじゃない?」
「うるさい! うまいこと言ったつもり?」
星の目が尖り出して、これ以上は本気で怒られそうなので、藍はこの辺りでからかうのをやめにする。すっかり機嫌を損ねた星を宥めるように、藍は今度こそ自分から星の手を握った。
「あと一つだけは絶対に破らせないから、許して?」
「まったく、急に能天気に戻るんだから」
「妖獣はもともと能天気なんだよ」
星の片手を握った藍の両手を、星は包み込むように握り返してくれる。不殺を掲げる仏教徒の星でも、きっと聖のためならこの手を鮮血に赤く染めることも厭わない。ならば、せめて藍のために星が手を汚すことのないように。祈りを込めて手のひらに力を入れると、星は呆れたように微笑んだ。
思えば、これまで藍が事あるごとに星の手を握ったのも、無意識のうちに好意を寄せていたからだろう。好きだから近づきたい、触れたい。答えが出てみれば何とも単純な話だ。そもそもの始まりだって――藍は初めてこの場所で星に出会った日の、倦み疲れながらも輝いていた星の瞳を思い出した。
「星。私はまだ貴方に嘘をついていたことがあるんだけど」
「ええ、何? 仏の顔も三度までよ」
「一目惚れ、だったんだよ。この場所で星に出会ったあの日、私は星を好きになったんだ」
星は信じられないと言わんばかりに目を見張って、やがて、山桜がほころぶように笑った。
確固たる証拠はないけれど、藍は断言できる。そうでなければ、与えられた役目に忠実なだけの藍が、どうして宝船が飛んだあの春に命蓮寺の虎妖怪を見に行こうなんて考えるものか。再会した星が藍を覚えてくれていたことに感激したりするものか。我ながらお頭のおめでたさに、乾いた笑いが込み上げる。
「今更気づくなんてね。変に迷い悩むのは私らしくなかったんだ。式神の答えはもっとシンプルでいい」
「今は式神じゃないんでしょう?」
「じきに戻るさ」
紫がどうして『しばらくそのままでいろ』なんて言ったのか、答えは本人のみぞ知るところだが、もしかしたら式神を剥がすことで藍に何かを気づかせたかったのかもしれない。紫は星のことには何一つ口を挟まなかったが、結局、藍は何もかも紫の意のままに動かされていたのか。いや、さすがの紫にだって想像の及ばないところはあるだろう。紫にとって藍がただの道具でも、藍には藍の心がある。
ひとたび手を離して、見上げた空は深い藍色に染まっている。藍はふと、十三夜の月の夜に考えたことを思い出した。
青は藍より出でて、藍より青し……。紫が藍に与えた問いかけの答えが、今なら解ける気がした。
八雲藍は、八雲紫の側にいるもの。けれど藍の推測通り、藍色より秀でた青になれ、紫の命令をも超えてゆけ、という願いを込めて、紫は“八雲藍”と名付けたのかもしれない。
それでも、と藍は思う。
(私はこの色がいい。紫様にもらった藍色が。藍のまま、紫様の期待通りに、いや、期待を超えてみせるから)
もう少しだけ、“八雲藍”でいさせてくれないだろうか。紫と数百年を過ごした八雲藍だからこそ、星に会えたのだから。
「藍、どうしたの?」
「答えが出たんだ。紫様にもらった宿題の答えがね」
「本当?」
星の瞳がぱっと輝く。自分のことのように喜ぶ様に、藍も嬉しくなる。
「紫様に及第点をもらえるの?」
「部分点ぐらいは強請ってみようかと思うよ」
なにせ式神の力で最初に出した答えは即座に否定されたし、常人には及びもつかない頭脳を持つ紫だ、あっさりノーを突きつけるかもしれない。それでもせめて答えにたどり着くまでの過程くらいは聞いてもらいたい。遠回りをしない式神が、珍しくあちこち寄り道をした上で出した答えなのだから。
「貴方のおかげだよ」
藍が笑いかけると、星はきょとんと首を傾げる。
「私? 私は何もしてないわ。藍が自分の力でたどり着いたのよ」
「その力をくれたのが貴方だよ。……星。貴方は法力がなくても、誰かを救う力を持っているんだよ」
「藍……」
「毅然と私を詰る貴方は格好よかった。いつもはかわいいと思うんだけどね」
「そ、そう?」
藍は今は宝塔のない星の右手に手を重ねた。どちらからともなく、再び二人の手が固く結ばれた。
星の一番は藍じゃない。
藍の一番は星じゃない。
だけどお互いに、自分にとって大切なものを思う気持ちを分かち合える。
妖怪の人生は長いのだ、いつか二人の袂を分かつ日が来るまでは、そばにいたい。一緒にいる時間を大切に過ごしたい。
ざあと音を立てて風が木々を揺らし、闇の中に白い花びらを散らす。山桜の見頃もじきに終わるだろう。
「桜の季節も終わってしまうね」
「花見ならいくらでもできるわ。それに、私はまだまだ藍と一緒に出かけたい場所があるんだもの」
星は藍の顔を見て微笑んだ。二年前、この場所で星と花見に行く約束を取り付けたのだった。ならばまた、このすべての始まりの場所で、星と出かける新たな約束をすればいい。
「星。今度はどこへ出かけようか?」
さっそく藍が問いかけると、星は笑顔で答える。
「真夏の太陽の畑に。一面のひまわり畑も、プリズムリバー楽団のコンサートも楽しみたいわ」
「いいね。こないだは思いっきり季節はずれだったから、盛夏のひまわりを見に行こう」
繋いだ手を離さないまま、藍と星は互いの顔を見て笑い合った。藍色の空の下、星の光が二人を優しく照らしていた。
星は藍色の空に輝く 完結
二人とも長い年月を生きていて、老成しているところもありながら、それでもどこまでも初々しい恋愛譚、とても楽しめました。ありがとうございました。
「あーもうじれってぇなぁ!ちょっとやらしい雰囲気にしてきます!」感。
、、、いいっすね、藍星。次回作を楽しみにお待ちしています。
2人の心の機微がよく捉えられていて、またその描写も読みやすいが洗練されていました。思わずどんどん読み進めていってしまいました。
藍と星、原作では面識があるのかないのかすら分からない二人で珍しいカップリングだとは思います。だからこそ、その出会い、馴れ初めからじっくりと時間を掛けて進んでいく二人の関係には、誰にも否定することのできない強い説得力が込められていました。
また、展開も素晴らしい。何気なく感じた共通点から始まり、それでも存在する差異に苦しんで目を逸らして、そして最後にはそれを受け入れて進み出す。ただお互いを求め合うだけでなく、自分の立場、大切なものを認めながら、それでも惹かれ合い徐々に関係を深めていく、甘々な中に大人らしいビターを感じられる、素晴らしい恋愛譚でした。
正しく本作は藍星の金字塔。二人の揺れる心がひしと描かれた、本当に素晴らしい作品でした。