Coolier - 新生・東方創想話

星は藍色の空に輝く【下巻】

2021/10/19 21:42:46
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其の七 「藍より紺より青き玉」



「橙、お前にお使いを頼みたいのだけど」
「寒いからいやです」
「……お前は本当に自由気ままだね」

季節は流れ、妖怪の山は辺り一面雪化粧に包まれている。藍がマヨヒガに住む橙を訪ねて頼み事をすると、橙はこたつに潜り込んだまま顔だけ出してそっけないことを言う。藍は橙のわがままに呆れつつも、丸くなってまどろむ姿が可愛くて、本気で叱る気にはなれないのであった。

「私がお前のわがままを聞いても、お前は私のわがままを聞いてくれないのかな?」
「藍様、私以外にも式神を使っているのでしょう? 他の子に頼めばいいんですよ」
「まあ、今日はそれでもいいけどね。このままだと、いくら温厚な私でもいつかお前に厳しく当たらなければならなくなってしまうよ」
「えっ?」

橙は驚いてこたつから飛び出してくる。瞳には戸惑いの色が浮かび、あからさまに狼狽えている。こたつから一歩も出てこないかと思っていた、と藍は思わず噴き出す。

「も、もしかして、私をクビにしたり……」
「そこまではしないよ。お前には私の式神として、もっとやってもらいたいことが沢山あるんだから」

藍が頭を撫でると、橙はほっとしたように藍の手に頭を擦りつけてくる。さらにゴロゴロ喉を鳴らし出して、ここぞとばかりに甘えてくる。誰に似たのやら、計算高いやつだ。
そこへ、真っ白な冬毛のテンが藍の元へ駆け寄ってきた。藍が使役する式神を憑依させた動物だ。

「おや、真達羅、どうしたんだ」

式神の名を呼ぶと、テンは藍に丸められた羊皮紙を渡した。星から手紙が来る時は懐紙か畳紙だから、これは別の相手からだ。羊皮紙を広げると、差出人は魔理沙であった。

「魔理沙から私に? 珍しいな」

いったい何事かと読み進めてゆく。手紙に書かれていた内容に、藍は目を丸くした。



魔法の森は深雪に覆われていた。空を飛ぶには視界が不鮮明なほどの降雪量である。日の光がほとんど届かない木々の隙間をぬって、地面にも雪が降り積もる。普段にもましてじめじめとした薄暗い森の中を、藍は星と二人、雪を踏みしめながら歩いていた。

「星、寒くない?」
「ええ。ちゃんと温かい格好をしてますから」

真っ白な吐息を見て藍が問いかけると、星は笑顔で答えた。つないだ手から温もりが伝わる。なぜ手を繋ぐのかといえば、迷いやすい森の中で逸れないためだ。

「魔理沙もわざわざこんな雪の中、呼び出さなくてもいいだろうに。しかもなんで星まで一緒なんだ?」
「まあ、何となく予想はつくのですが……魔法の森に来るのは初めてなので、ちょっと新鮮な気分です」

肩をすくめる藍に対し、星は物珍しそうに辺りを見回していた。

【ちょいとお前に見てもらいたいものがあるから来てくれ。命蓮寺の虎妖怪も一緒だろ? ちょうどいい、まとめて私の家に招待するぜ】

なんて魔理沙に呼ばれて来たのはいいが、肝心の目的は手紙に何も書かれていなかった。それになぜ藍が星と一緒に行動していると思い込んだのか……考えるまでもなく答えが出る。藍が星と仲良くなって数年経つし、魔理沙は聖の魔法目当てに命蓮寺を時々訪れているという。魔理沙にも藍と星は仲がいい、と認知されているようだ。

「それにしても、こんな真冬によくキノコが生えていますね。しかも猛毒の……」
「これでもまだ少ない方だよ。梅雨なんか辺り一面キノコだらけで。そういえば、キノコの瘴気は平気みたいだね」
「これぐらいなら何とも。私は魔界に降り立ったこともありますから」
「そうだったね」

かつて聖が封印されていた法界も、瘴気に満ちた魔界の一部なのだった。この森も並の人間にはひとたまりもないが、魔法使いにはかえって都合のいい場所だ。
とはいえ、魔法の森にはこれといったスポットはほとんどない。せいぜい魔理沙の家か、同じく魔法使いのアリスの家があるくらいで、藍も今まで星を案内しようとは思わなかったのだ。

「あっ!」

その時、星が何かを見つけて指差した。

「どうしたの?」
「藍、お地蔵様ですよ。こんな森の中に」

星が珍しく駆け足になるので、藍も合わせてスピードを上げる。
果たしてそこには、遍路笠をかぶり赤い前掛けをつけた数体の地蔵が並んでいた。

「そういえば、昔からあったっけな。普通、地蔵って境目とかに建てられるものだけど」
「この森にもお地蔵様を信仰する方がいたのですね。少し手を合わせてもいいですか?」
「ああ、いいよ」

仏教を信仰する者として、素通りはできないのだろう。星はわざわざしゃがみこんで、目を閉じて両手を合わせる。藍も一緒に手を合わせた。
この笠は誰が被せてやったのだろう。笠地蔵という昔話があるが、こんな瘴気まみれの森の中を通りかかる人間などいるわけもなし。などと考えていると、地蔵のうちの一体がこちらを見つめていた。いや、地蔵の影に何者かが潜んでいた。

「わっ!」
「ひゃっ」
「藍? どうしたんですか……ええっ?」

三者三様の驚きが響き渡る。思わず声を上げた藍につられて目を開けた星は、目の前で所在なさげに立ち尽くしている妖怪を見て息を呑んだ。

「見つかっちゃった。隠れてるつもりだったんだけど、久しぶりに拝んでくれる人がいたから嬉しくて」

照れたように弁解するのは、おさげ髪に遍路笠を被り、赤い前掛けに灰色の服を来た妖怪である。まるで地蔵そのものが少女の姿に変わったような見た目に、星は目を白黒させている。

「貴方、お地蔵様ですか?」
「うーん、一応そのつもりだけど、今は魔法使いみたいなものかしら? あ、今から新年の贈り物なんて期待しても無理だからね」
「そんな見返りは求めていませんよ」

藍は妖怪の姿を見て納得する。おそらく、彼女は元は地蔵、といっても地蔵菩薩ではなく、ただの石像だったのだろう。それが魔法の森の力を得て妖怪人形――石像だから、ゴーレムの方が近いかもしれない――と化した。
妖怪地蔵は藍と星を不思議そうに見つめている。

「あなた達、道に迷ったの?」
「いいや。魔理沙に呼ばれて彼女の家に行くところだ」
「あら、魔理沙の知り合いだったのね。それじゃあ道案内はしなくてもいいか」
「ええ。貴方も魔理沙さんのお知り合いですか?」
「そうよ。それじゃあ、足元に気をつけて」

妖怪地蔵と別れて、藍と星は再び雪の中を歩き出す。
森の木々に遮られても、雪はしんしんと降り積もる。山里は雪降りつみて道もなし今日来む人をあはれとは見む……という古歌があるが、あいにく藍達を迎える相手は雪道の苦労を労ってなどくれないだろう。

「……やっと見えてきた。星、あれだよ。魔理沙の自宅兼なんでも屋」
「あれが、魔理沙さんの家ですか」

雪の中に見えた魔理沙の家は、西洋風の瓦屋根をした一軒家だ。周りの木を切っているので、家の周辺だけは空の光が届いて比較的明るい。
屋根には“霧雨魔法店”との看板があるが、星は魔理沙の家を一望して苦笑する。

「“なんかします”とは、また投げやりな書き方ですね」
「こういう奴なのさ」

藍は扉をノックする。やがて、屋内だからかトレードマークの帽子を脱いだ魔理沙が出てきた。

「よお。二人とも、よく来たな。まあこんな寒い中で立ち話もなんだろ、中に入ってくれ」
「失礼するよ」
「お邪魔します……わっ」

中に足を踏み入れた二人は、室内の有様に唖然とする。
リビングルームとダイニングルームを一体化させたような広々とした空間に、魔理沙が今まで蒐めてきたマジックアイテムがあちこちに散らかっている。読みかけの魔導書に、怪しげな薬の入った小瓶に、魔法の研究に使うキノコに、なんだかよくわからないガラクタが沢山。外の世界から流れ着いたと思わしき不思議な道具もある。その中にかろうじて人一人が座れるスペースがあるか、といった具合である。
あまりの散らかりっぷりに星は絶句している。

「これは……噂には聞いていましたが、何という……」
「魔理沙、少しは片付けたらどうなんだ」
「いいじゃないか、いかにも魔女の家って感じだろ? それに今回ばかりは私だけのせいじゃないぜ」

魔理沙は中央のテーブルの上に積まれたものを適当に避けて、さっと表面を布巾で拭いている。今回ばかりは、とはどういう意味だろうか。
星は足元の物を踏まないよう、おそるおそる歩いている。魔理沙はキッチンに向かって火を起こしていた。

「まずは紅茶でも淹れるか。それとも煎茶派か?」
「おかまいなく。それより、いい加減私達を呼んだ目的を教えてくれないか?」

どうにかテーブルまでたどり着き、椅子をひいたところで藍が尋ねる。椅子の脚に物がぶつかったが、構わず後ろにずらしておいた。

「見りゃわかるさ。こいつだよ」

戸棚から茶葉を取り出すついでに、魔理沙はしゃがみこんで何かをつかみ上げる。
キーッ、と、甲高い動物の声が聞こえた。
魔理沙の手につかまれ暴れているのは、荼枳尼天の使いを彷彿とさせるような、真っ白な毛並みの狐だった。

「白い、狐? ……よく見ると、ただの動物ではなく妖怪ですね」
「こいつが粗相をしでかしてな」

魔理沙は口を尖らせて白狐をじとりと睨んでいる。白狐の首には縄が繋がれて、逃げ出せないようになっているようだ。
藍が同族との思わぬ邂逅に目を丸くしていると、藍の存在に気づいた白狐と目が合う。深い紺色の目が、助けを乞うように藍を見つめていた。藍の胸に言いようのない切迫が押し寄せる。

「お前、いつのまに狐なんて捕まえたんだ」
「ちょっと前にこの森をうろついてたんだ。白い狐なんて珍しいと思って、どうにか研究しようとしたら、こいつ、私のマジックアイテムに手をつけやがって。おかげで部屋はこの荒れ様だ。まったく、人の物に手を出すなんて行儀の悪い」
「その言葉、そっくりそのままお前に跳ね返るぞ」

この部屋には借り物、と称して魔理沙がくすねてきた道具もいくつか混じっている。ある意味報いを受けたようなものだろう。それにしても、以前神社に現れた狐に化けられた時といい、魔理沙は何かと狐に縁があるようだ。
魔理沙は狐をつかんだまま藍に近寄ると、ずい、と突き出す。

「なんだ?」
「藍、お前、狐だろ? なんとかしてくれよ」
「……いやいやいや」

藍は頭を抱えた。餅は餅屋というが、いくらなんでも短絡的すぎる。藍も狐の端くれだ、同族にはそれなりの情を持つが、この白狐は藍のしもべでもなんでもないのだ。こんなことでいちいち呼び出されてはたまったものではない。

「私はマミゾウと違って幻想郷の狐の元締めじゃないんだぞ。妖怪狐の粗相なんて面倒見切れるか」
「私だって最初は茨華仙あたりにでも押しつけようかと思ったさ。けどあいつ、肝心な時に限って神社にいないんだよな」

茨華仙。神社にちょくちょく顔を出す仙人のことだ。何匹もの動物を従えており、彼女にかかれば化け狐の一匹くらい手懐けるのは容易いだろう。
神社にいないとなれば、彼女は自分の仙界にいるはずだ。魔理沙は現在の正路を知らないのだろう。茨華仙の仙界が今どこにあるか、藍は知らなくはないのだが、魔理沙に教える必要もない。それに紫の式神である藍が訪ねても茨華仙は困るだろう。

「そいつをどこか遠くにでも逃がせばいいだろうよ」
「私のところに戻ってきちまうんだよ、よっぽど盗みを働きたいらしい」
「盗みとは感心しませんね。いくら相手が泥棒でも、盗みは盗みです」
「泥棒って私のことか?」
「他に誰がいるんだ」

魔理沙を指さすと、すっとぼけたふりをする。星が諫めるように白狐を睨むと、白狐は一瞬ひるんだ様子を見せた。

「妖怪の改心でしたら、命蓮寺で請け負うこともできますよ。もしや、私を呼んだのはそのためですか?」
「それもあるが、お前のメインは別件だ」
「と、いいますと」
「お前の宝塔で珍しいマジックアイテムが出てこないかと」
「お断りです」

星はばっさり切り捨てる。それだけの理由で呼び出された星が哀れだ。この調子だと魔理沙は何度も頼んでいるのだろうな、と藍は肩をすくめる。
すると、白狐が魔理沙の手を振り解き、瞬く間に星の肩へ飛び移った。

「え、ちょっと、」

白狐はまるで襟巻きのように星の首に縋り付いている。星に命乞いをする気なのか。白狐が星の耳元で何かを囁く――瞬間、星の顔が茹で蛸のように真っ赤になった。

「な、なっ!? 貴方、一体何を言っているんですか!」
「しょ、星? そいつ、何か喋ってるのか?」
「囁く? おいおいまた管狐の類か?」
「いいえ取るに足らないくだらないことです、知る必要はありません! だ、駄目です、大声出さないで、わーーー!!」
「……あいつがあんな取り乱してるの、初めて見たな」
「暢気に観察してる場合か!」

ポカンとしている魔理沙をよそに、藍は尋常でなく慌てふためく星の様子を見て、白狐をひっぺがす。

「お前、いい加減にしな」

普段より一段と低く、重みを利かせた声で凄むと、白狐はとたんに小さく縮こまった。さすがに同族の、それも妖獣の最高峰である九尾に逆らう気概は持っていないようだ。

「妖怪のくせに、人間一人満足に化かすこともできないのか。やり口が中途半端なんだよ、やるならバレないようにやりな」
「えっ、そいつの肩持つのかよ」

魔理沙が何か文句を言っているが些末なことだ。星はというと、白狐が離れて少し落ち着きを取り戻したらしい。珍しく怒気をあらわにする藍を、呆然と見つめている。
白狐はぶるぶる震えながら、小さな声で藍に語りかけてきた。人語を解する程度の頭脳は持っているらしい。

『すみません、調子に乗りました、もう悪さはしません。お許しください』
「ふ、今度は私を欺こうというのか?」
『いいえ、どうして私ごときが、貴方様のような強大な妖怪を騙すことができましょう。本当に、心から反省しているのです。どうかお助けくださいまし』
「お前を助けて私に何の得がある? いや、お前の言葉だけではお前が改心したかなど判断できないな」

紺色の瞳を潤ませて、白狐はいじましく藍を見つめてくる。尻尾も耳も垂れ下がり、本気で藍に怯えているようだった。

「ら、藍、もし困るのでしたら、聖に相談すればなんとか」
「貴方の手は煩わせないよ」

星が遠慮がちに声をかけてくるが、この白狐を星の近くには置いておきたくない。申し出を断って、藍は再び白狐にたたみかける。

「お前、星に何を言った?」
『あの方なら私を助けてくれるかと思ったのです。ほんの出来心というか、お節介というものでありまして。……そんなに怖い顔をなさらないでください。貴方がおっしゃるのなら、あの方には二度と近づきません』

白狐はか細い声で懸命に藍に訴えかける。

『お願いです、どうかお慈悲を。貴方のためならなんでもいたします。決して悪さはしないと約束いたしますから、どうか』

必死に縋り付く紺色の瞳を見ていると、藍の心にもわずかながら同情が芽生えてくる。白狐の体はまだ小さく、妖怪といっても幼い子狐のようだ。先ほど魔理沙に言ったように、藍は化け狐の親玉になったつもりはない。しかし、幼い同族を簡単に見捨てられないのも、妖獣のさがだ。
根負けした藍は、魔理沙の頼みを聞き入れようと決めた。少なくとも藍のそばに置いておけば、白狐に悪さはできないはずである。

「魔理沙、この狐、私が預かるよ」
「おっ、本当か? いやー助かった、お前もなかなかどうして頼りになるな」
「藍、いいんですか?」
「いいよ。一応同族なわけだからね」

陽気に笑っている魔理沙と、心配そうな星を尻目に、藍は改めて白狐に向かい合う。
預かるとはいったが、藍は自らの式神やしもべに狐を使うことはほとんどない。同族を使役するのに躊躇いがあるのは理由があるのだが、今回ばかりは預かる責任を全うすべきだろう。

「仕方ないか……」

藍は頭の中で方程式を組み上げる。対象に命令を下し、しもべとして言うことを聞かせるための単純な方程式。力量の差を考えれば、この白狐相手に複雑な式はいらないはずだ。

「まだお前の言うことを信用したわけじゃないんでね。お前に私の式神を憑依させる」

白狐は大人しく藍の言うことを聞いていた。抵抗する素振りは微塵も見せず、ただじっと紺色の瞳で藍を見つめている。
式神には名前がいる。名前を与えることで、より支配を強固にするのだ。どんな名前にするべきか、考えて――紺色の瞳、白い毛並み。藍は頭に浮かんだ童話に登場する白狐の名前を口にした。

「私の言うことを聞け、“紺三郎”」



「よいですか? 仏教には不偸盗戒、すなわち盗むべからずという教えがありまして……」

藍が式神とした白狐もとい紺三郎に、星は懇々と言い聞かせている。先ほど妙な囁きに困惑させられたばかりだというのに、仏弟子としての使命感が勝るのか、熱心なことだ。
念のためにと藍は紺三郎の様子に目を光らせるも、紺三郎は大人しく星の説教を聞いている。余計なことを口走る様子もないので、ひとまずは安心してもよさそうだ。
魔理沙が紅茶を淹れて、カップを藍と星の前へ持ってくる。ようやく一息つける、と藍は遠慮なくカップに口をつけた。

「しっかしまあ、こうして見ると妙な組み合わせだよな、お前らは。何がどうしてこうなったんだ?」
「気が合ったんだよ。だから友達になった。それだけだ」
「ふーん。その割には、星の方はまだ敬語なんだな」
「別にいいだろう」

魔理沙は今更のように、藍と星を見比べてつぶやく。そもそもの始まりを思い起こせば、魔理沙が命蓮寺の毘沙門天は虎である、と言ったからな気がするのだが、魔理沙はもう覚えてはいないだろう。
お説教を続ける星を一瞥してから、魔理沙はそっと藍に手招きする。耳をかせ、と小声で言うので何かと近寄ると、

「お前、星が好きなのか?」
「……は?」

二人の間に数秒間、沈黙が訪れる。思考を停止した藍の頭脳に追い討ちをかけるように、魔理沙が余計な補足を入れる。

「ああ、もちろん恋愛の方な。ラブだ、ラブ」
「なぜそんな飛躍した答えに行き着いたんだ」

頭痛がする。藍の人並み外れた思考回路がエラーを吐き出しそうだ。ひとまずシンプルな問いを返すと、魔理沙は小首を傾げる。

「お前が友達なんて簡単に作るたちかよ。紫以外の誰かに入れ込んでるとこなんて初めて見たぞ」
「だからといって何でそうなるんだ」
「忘れたか? 私の魔法は恋の魔法でもある」
「スペルカードに名前をつけてるだけだろう」

魔理沙は得意げに胸を張るが、どちらかといえば天の川とか星屑とか、星の魔法だ。そもそも恋の魔法を使うからって、魔理沙が色恋沙汰に精通しているようにはとても見えない。目を輝かせる魔理沙から感じられるのは、子供っぽい好奇心だ。

「お前は友情と恋愛感情の区別もつかないのか。それとも、お前と道具屋の店主のことを重ねているのか?」
「お前、何か勘違いしているな。私と香霖は良い仲じゃなくて、仲が良いんだ」
「ならお前は恋を知らないだろう。そういうのは、恋に恋をしているっていうんだ」
「私ぐらいの年頃の乙女なら普通だろ」
「お前が乙女ね」

結局ただの好奇心らしい。確かに、魔理沙もやや男勝りな口調以外は案外普通の少女と言えなくもない。
ごく普通の、十代の少女がまだ見ぬ恋に憧れる――長く生きすぎた藍にはもう味わえない感覚だ。その昔、紫に出会う前に、大陸で人間の色恋の真似事を繰り返した時期があったが、人間同士の惚れた腫れたの騒ぎは藍から見ればくだらないものだった。冷めた目で痴情のもつれを眺めていた藍は、仮初の恋をまねぶばかりで、結局、本物の恋に手を伸ばす前に恋を見限ってしまった。
それに比べれば、魔理沙の幼い憧れはひどく純粋に思えて、藍はふっと微笑んだ。

「そうやって、恋焦がれる気持ちに憧れるぐらいが一番楽しいだろうよ」

対象について何も知らないうちは、手の届かないうちはすべてが幻想なのだ。幻想の恋に憧れて名前を冠する。少女の遊びにはうってつけだ。
などと藍が微笑ましく思っていると、魔理沙の顔がドン引きしたようにひきつってゆく。

「何だその目は」
「いや……気持ち悪いなお前。キノコの瘴気にあてられたか?」
「失敬な」
「藍、魔理沙さん」

実のあるんだかないんだかわからない恋愛トークに花を咲かせている二人の元に、星の弾んだ声が混ざってくる。

「すごく大人しくなりましたよ、紺三郎さん。本当に心を入れ替えてくれたみたいです」
「そうなのか?」

星が嬉しそうに紺三郎を腕に抱いているので、藍はその顔を覗き込む。確かに様子はしおらしく、腹に一物抱えている気配もない。馬の耳に念仏というが、狐にはちゃんと星の説教が届いたらしい。

「星が言うのなら間違いないな」

感情の機微を見抜くことにかけては、星の方が上手だ。星が手を緩めると、紺三郎はするりと藍の肩へ飛び移った。何を喋るでもなく、紺三郎はまるでそこが己の定位置であるようにじっとしている。

「よしよし、じゃあその狐は藍に任せた。ところで、一応確認しておきたいんだが」

騒動がひと段落して満足げな魔理沙は、一転して神妙な顔で藍と紺三郎を見やる。

「紺三郎って呼んでるけど、そいつ、メスだぜ?」
「知ってるけど、それがどうかしたか?」
「……いや、なんでもない」

幻想郷では常識に囚われてはならないのである。



「あら、見慣れない顔ね」

その夜、藍が屋敷の台所で家事を済ませていると、突然背後にスキマが開き、主人の紫が顔を覗かせた。寝ているはずの主人が現れて、紫の神出鬼没に慣れている藍もさすがにぎょっとする。

「ゆ、紫様? 冬眠中のはずでは」
「私が冬の間起きてこないわけじゃないのは知っているでしょう」
「……ええ、そうでした」

何年か前の間欠泉騒動を思い出して、藍は納得する。紫の視線は藍の肩に向けられている。
あれから紺三郎は藍のそばから離れようとしなかったので、紫の屋敷まで連れてきたのだ。藍の式神なら橙を始めとして何人も出入りするので、問題ないだろうとの判断からだった。
紺三郎は紫の出現に驚いて身を縮こませている。

「珍しいじゃない、貴方が狐を式神にするなんて」
「まあ、なりゆきでして。連れてきてはまずかったでしょうか?」
「ふふふ。この子は橙より大人しいけれど、そのぶん臆病そうねぇ」

紫は怯える紺三郎をよそに、楽しそうに笑っている。とりあえず屋敷へ上げたことへのお咎めはないようだ。

「紺三郎、そんなに震えるんじゃない。失礼だろう」
「あらあら、恐れられるのは妖怪にとって本望だわ。それより、紺三郎と名づけたの。単純ね」
「思いつきでしたので」
「ふうん。こうやって眺めていると、まるで藍が二人いるようね」
「……はい?」

さすがに意図をはかりかねて、藍は唸る。紫から見れば藍も格下の妖怪とはいえ、こんな子狐と同じように並べられるのは困る。そもそも毛の色も尾の数も全然違うではないか。

「そう機嫌を損ねないの。式神憑きの狐。貴方の前に鏡があるようなものじゃない」
「鏡、ですか……」
「貴方、本当に何の考えもなしにこの子を式神にしたの?」

言いながら、紫はあくびをする。このぶんだと、またすぐに眠りに着くようだ。藍はというと、確かに紺三郎の処遇を具体的に決めていなかったと思い出して、口ごもる。

「同じことを何度も言わせないでちょうだい。藍、貴方はもう少し自分の持つ力を正確に理解するべきなのよ」

紫は目を細めてにやりと笑う。いつもの胡散臭い笑みを残して、スキマに消えていった。
残された藍は、紫の言葉の意味をひたすら考えていた。紫がいなくなって安堵した紺三郎がそっと声をかけてくる。

『恐ろしいお方ですね』
「大妖怪の名は伊達じゃないよ。さて、どうしようか、お前に手伝いを頼むこともあまりないしなぁ」
「藍様ー、今日はちゃんとお手伝いに来ましたよー……って」

橙が駆けてくる。手伝いのため屋敷に呼んでいたのだ。現れた橙は藍の肩に見慣れぬ白狐がいるのに気づいて硬直した。

「ら、藍様。そいつ、どうしたの?」
「ああ。こいつは紺三郎。なりゆきで私の式神にしたんだ」
「え? 式神? 藍様が……狐を式神に?」

狼狽える橙に、紺三郎は恭しく頭を下げる。

『お初にお目にかかります。紺三郎と申します』
「こん、ざぶろう。狐だから?」
『いえ。紺色の紺の字を当てるのです』
「……」
「橙、どうしたんだ?」

突然言葉を失い動かなくなった橙を藍は訝しむ。まさかバグか。それにしてはタイミングがおかしい。
藍が再び橙、と呼びかけると、我に返った橙はキッと紺三郎を睨みつけた。

「いつものように、掃除、やってきます!」
「え、ちょっと」

橙はどすどす足音を響かせて廊下へ出て行った。えらく不機嫌だ。橙の気まぐれはいつものこととはいえ、これには藍も首を傾げてしまう。

「何なんだ、橙のやつ」
『私、何か気に障ることをしてしまいましたか』
「いや……そんなはずはないんだが」

結局、その日は橙が紺三郎と口を聞くことはなかった。



後日、藍は人里の巡回の傍らで考え事をしていた。首元には、相変わらず紺三郎がつと寄り添い、襟巻きのように細長い体を巻きつけている。
橙の不機嫌は謎のままだった。まさかヤキモチだろうかと考えるも、他の式神にはあんな態度を取らないので紺三郎の何が気に入らないのか、藍には見当がつかない。
藍は首元にいる紺三郎をちらと見やる。紺三郎はあれからずっと藍のそばを離れず、かといって藍が何か口にするまで余計なことも喋らず、じっと大人しくしている。数日間様子を見たが、藍の命令に逆らう気配も、悪しきことを企む気配もない。それどころか、いかなる時も藍をじっと見つめる紺色の瞳は、言葉にせずとも『貴方のお役に立ちます』と強く語りかけてくるのだ。
藍は紺三郎の紺色の瞳に見つめられると、心が落ち着かなくなる。藍の纏う藍色によく似たその色は、紫に従順な己の姿を彷彿とさせる。藍がただの狐を従えるのは簡単なのだが、ゆえに藍は狐をしもべにすると己を見ているようで、式神として使役するのがやりづらくなる。紫の言う鏡とはまさに言い得て妙だ。
紺三郎が完全に更生したのを見届けたら、式神を剥がして野に返すべきか。魔理沙や他の人間に害を及ぼさなければ、魔理沙との約束を違えたことにはならないだろう。

「……お前、なんでそんなにくっついてるんだ?」
『首元を温めて差し上げようかと。ご迷惑でしょうか?』
「まあ、襟巻きみたいで人間にも怪しまれないから、いいけどさ」

沈黙に耐えきれずに話しかけると、紺三郎は畏まった敬語で淡々と返す。星はおろか橙だってこんなに堅苦しい喋り方はしない。
お役に立ちます、なんでも言うことを聞きますと紺三郎は言うが、紺三郎にやってもらう仕事はほとんどない。藍が紫から任せられた仕事は基本的に藍一人で事足りるし、使役する式神も他にいるし、手伝わせようと思えば今よりも複雑な方程式を組み直さなければならない。そして紫より式神の扱いに劣る藍は、高度な式を組んだところで憑依させた対象にバグが生じかねないのだ。
結局、藍は仕事をこなしたり暇をつぶしたりする傍らで、紺三郎に二心がないか監視するくらいしかやることがなかった。

「いいか? 本当は妖怪はみだりに人里に出入りしてはいけないんだ。お前みたいに人型を取れないのはただの動物だと思われるだろうけど、ここで騒ぎを起こしたら承知しないよ」
『はい。決して悪さはいたしません』

紺三郎はまっすぐに藍を見つめてうなずいた。ここまで忠誠心を向けられることもほとんどなくて、かえってやりづらさを覚える。自らも式神を使役する立場とはいえ、藍は紫の式神という感情が強いのだ。

『ところで藍様、なぜ私に“紺三郎”という名前をくだすったのですか?』

初めて紺三郎の方から藍に問いかけてきた。藍の感情の機微を読み取ったのかもしれない。

「ああ、お前の名前? 昔の人間が作った童話に出てくる白い狐の名前だよ。そいつは狐が人間を化かすなんて濡れ衣だと主張していて、果ては人間の子供と仲良くなったりするのさ」

人間に悪さをしないように、という戒めを込めて名づけた。いわゆる妖怪の本分とは真逆だが、魔理沙の家で盗みを働こうとした時のように悪事を重ねてゆけば、いつか紺三郎は火縄銃で撃たれてしまう。藍の式神である間は悪事を働けないし、式神の命令に従う限り紺三郎は守られる。
紺三郎は首を傾げた。

『化かすのは狐の本分なのに、そんなことができるのでしょうか?』
「お前、悪さをしないと言ったのは嘘だったのか?」
『いいえ。しかし、私は心変わりを言葉で主張し続ける以外に信頼を取り戻す術を知らないのです』
「なにも化かすだけが狐の能じゃない。私のようにね」

式神として長く生きていると、狐らしく振る舞う必要がなくなってくる。そこらの化け狐や管狐のように嘘をつき、人間に化け騙くらかす、といった行為と藍はほとんど無縁である。幻想郷の狐の中で、藍が異端だといってもいい。
それでも、藍のような例を除いても、狐と人間の関係は化かし化かされだけではない。古くから豊穣の神、稲荷神の使いと信じられてきたように、狐はありがたい使いとして崇められることもある。あるいは人間に助けられ、恩に報いるべく妻となった狐の話が幾多もあるように、狐は義理堅い忠義者でもあるのだ。藍が紫に尽くす思いに重ねたわけではないが、紺三郎もいずれはそうなってくれればいいと思っている。
紺三郎は何も言わずに藍を見つめていた。彼女なりに、何かを一生懸命考えているようだった。

「おや、変装もせず白昼堂々人里に出没する妖怪に出くわすとはのう」

甘味処の前を通りかかったその時、縁台に腰掛ける客から不意に声をかけられた。藍はすぐさま足を止める。振り返ると、茶色の長い髪を流し、半纏を纏った眼鏡の女が丸い目でこちらを見つめていた。
藍は即座に女の正体を見破った。いくら上手に化けていても、狐の嗅覚は狸のにおいを逃さない。

「お前、マミゾウだな?」

狐の宿敵たる狸の気配を察知して、紺三郎は気を逆立てて威嚇する。変装しているとはいえ、よくもまあ当たり前のような顔をして人里に馴染んでいるものだ。マミゾウは湯気のたつ湯呑みから茶をすすって、興味深そうに藍の肩にいる紺三郎へ目を向けた。

「そっちの若造はお前さんのしもべか?」
「式神だよ」
「式神? そうか、お前さんは式神のくせに式神を使う奴じゃった」

なにがおかしいのか、マミゾウはにやにや笑っている。藍はマミゾウと個人的な因縁があるわけではないが、マミゾウの方が何かにつけてちょっかいを出してくるため、つい気が立ってしまう。

「それで、お前さんは見回りかい? 仕事熱心なことじゃ」
「お前は人里で何をしている? 命蓮寺の妖怪は滅多に人里には来ないと聞いていたが」
「そんなもんは聖達が自主的に決めたことじゃて。儂の化けさせる能力を活かさんでどうする。そういうお前さんこそ、尻尾も耳も隠さんとはいいご身分じゃのう」
「私は何をしに来たと聞いているんだ」
「おお怖や怖や。ただの買い物じゃよ。お前さんが豆腐屋に立ち寄るのと同じじゃ」

マミゾウはじっと紺三郎を見つめる。眼鏡の奥でマミゾウの丸い目が細められたのを見て、藍は反射的に口を開く。

「こいつが気になるのか? だとしても人里で揉め事はご法度だ」
「ふむ。昔から白い動物は縁起がいいと崇められるが、こいつはお前さんに何をもたらすかな?」
「……何?」
「いや、儂は狐が嫌いなものでな」

残った茶を一気にすすったマミゾウは、不意に立ち上がって紺三郎の目の前に手をかざした。
藍と紺三郎が身構えた次の瞬間、紺三郎に妖術がかけられる。藍の憑依させた式神が紺三郎から剥がれ落ちていた。

「な……!」
「藍、これは儂からの忠告じゃ。お前さんが狐を式神なんぞにしてもろくなことはないぞ」

マミゾウの目は冷ややかだった。動揺する藍をよそに、マミゾウは勘定を済ませて店を出てゆく。藍が追いかける間もなく、マミゾウは人混みの中に消えていった。

「あいつは何を考えている……?」

困惑が治ってくると、藍はぶつけようのない苛立ちを覚えた。
マミゾウのメッセージは何を意味しているのか。わざわざ式神を剥がす必要がどこにある。単に狐が嫌いだから懲らしめた、という領域ではない。
藍は直ちに、紺三郎の壊れた式神を修復した。単純な方程式とはいえ、マミゾウにいとも容易く破られたのが悔しくて唇を噛む。かつて霊夢ら人間に橙が敗れた時の悔しさを思い出していた。
藍にもっと力があれば、式神が破壊されたりしないのに。橙にだって、バグが多いと称される今のような状態でなく、もっと高度な方程式を組み立てられたら、橙の身体能力をもっと活かせるのに。

『申し訳ございません』

新たな方程式を組み上げているところで、か細い声を上げて紺三郎がこうべを垂れた。

『油断しておりました。なんですか、あの狸めは……』
「落ち着きな。あいつに喧嘩を売ろうなんて馬鹿な真似は考えちゃいけないよ」
『……ええ。悔しいですが、確かに強大な妖怪と見受けました。藍様ほどではありませんが』
「私にごまを擦る必要はない」

藍はマミゾウが紺三郎に何を見出したのかを考えていた。別に縁起が良かろうが験担ぎなど藍は考えてはいないが、まさか真逆の厄災でももたらすとでも言いたいのだろうか? さすがにそれは狐嫌いのマミゾウがなせる難癖だろう。
紺三郎が心配そうに藍を見つめてくる。

『藍様、私は貴方を騙しはしません』
「あいつに踊らされるほど、私は単純じゃないよ」

藍は紺三郎に微笑みかけるも、マミゾウの飄々とした笑みが脳裏から離れない。あの真正の狸の腹を看破するのは藍の頭脳をもってしても困難だ。
すっかりしょぼくれている紺三郎を見て、藍は苦笑する。かつて星が言っていたことを思い出す。長く人の悩みを聞いていると、聖のように嘘を見抜けるようになってくると。
修行をこなしたわけでもない藍にだってわかる。マミゾウが何を敵視しているか知らないが、紺三郎は藍を騙してなどいない。

「私の作った式神が弱かった、それだけのことだ」
『藍様のお力は弱くなどありません』
「弱いんだよ。私の式神は、紫様の足元にも及ばない」

慰めると、抗議が返ってくる。しかし藍の能力は結局、紫の頭脳ありきなのだ。主人である紫が桁外れの頭脳を持つから、紫の組み上げる式神が憑依している藍も式神を操れる。――式神は、式神以上のものになれないのだろう。
藍は己の力量をよく知っている。橙がいまいち言うことを聞いてくれないのも、マミゾウに式を簡単に壊されてしまうのも、藍の力不足ゆえだ。
紫は時々藍に、自分が式神であることを忘れていると忠告する。先日は自分の持つ力を理解しろとも言った。
藍はいつものように否定する。忘れてなどいない。自分は紫の式神だ。

「それより紺三郎、式神にしたからには、いい加減お前にも仕事をやらないとな。まずはそうだな、もう一度橙と顔を合わせてもらえるか」
『あの方に、ですか。どうも私はあの方によく思われていないようですが』
「あの子は気まぐれだから。今日はもう少し話を聞いてみるよ」

慰めるように頭を撫でると、紺三郎はうなずいた。もっと実のある仕事は後で考えよう。
藍は雪の中、橙の住処であるマヨヒガを目指して飛んだ。



マヨヒガの屋根には雪が降り積もって、屋敷そのものが雪の中に埋もれているかのようだった。

「橙、いるかい?」

戸を叩いて呼びかけると、中から微かな声が聞こえた。また炬燵に入って丸まっているのかもしれない。
戸を開けて上がれば、予想通り炬燵から顔だけ出した橙が、外から入ってきた寒気にくしゃみをしているところだった。

「さむーい。藍様、またこんな時にお使いですか? 私は寒いのは苦手なのに」
「星に手紙を届けてほしいんだ。たまには素直に聞いてくれたっていいだろう?」

藍が何気なく星に宛てて書いた手紙を差し出すと、橙はしぶしぶ炬燵から這い出てくる。寒そうに体を震わせて、顔を上げた橙は、そこで初めて紺三郎に気がついたらしい。はっと息を飲み、藍の肩に居座る紺三郎を直視したまま、凍りついたように動かない。

「藍様。まだそいつを連れているの?」
「橙。お前、この前からどうしたんだ。どうしてそんなに機嫌が悪いんだ?」

橙は信じられないものを見るような表情で絶句した。藍は様子のおかしい橙を訝しむ。確かに藍が狐を式神にするのは初めてだが、そんなに驚くことだろうか。
その時、橙が目にも止まらぬ速さで飛びかかってきた。咄嗟によけた藍に、いや、正確には藍の肩にいる紺三郎めがけて鋭い爪を振り下ろした。

「っ、橙! 何をするんだ」
「藍様、そいつから離れて! 騙されてるのよ!」
「なっ?」

息を荒げ、尻尾を逆立てて警戒心を剥き出しにする橙をどうにか諫めようとして、藍は動揺した。
マミゾウはともかく、橙までそんなことを言うのか。紺三郎は困惑した様子で橙の攻撃をかわしている。
藍はそっと興奮する橙の両肩に手を置いた。

「落ち着きなさい。私が化け狐ごときに簡単に騙されると思うか?」
「だけど、だけど」
「橙、こいつは悪いやつじゃないよ。まあ、確かに悪事を働こうとしたこともあったが、今更私の元でそんなことはできやしない。いったい何が気に食わないんだ?」
「それは……」

橙は泣きそうな顔で藍を見上げている。

「藍様、今まで狐の式神なんていなかったですよね。どうして急に?」
「なりゆきだよ。更生のために私のところに置いている」
「……どうして紺三郎という名前なの?」
「童話の狐から。橙、何が言いたいんだ?」
「……」

押し黙る橙はまるきりぐずる子供で、藍は途方に暮れる。紺三郎の何かが橙の気に障るのはわかったが、これではどうしようもない。
藍が橙の顔を覗き込むと、橙は大きなつり目で紺三郎を睨んだ。橙が勢いよく床を蹴り、橙の肩に置いた藍の手が弾かれた。

「……私は、そいつと私が同じ式神だなんて嫌!」
「橙!!」

橙は凄まじい速さで屋敷を駆け抜け、外へと飛び出した。苦手な雪の中なのに、どこへ行こうというのか。
わけのわからぬまま、心配になって藍はすぐさま橙の後を追った。

「橙のやつ、一体どうしたんだ。なんであんなに不機嫌になって……」
『藍様』

橙は気まぐれだが、普段はここまで情緒不安定になることはない。心を悩ませている藍の耳に、ずっと沈黙を保っていた紺三郎の声が届いた。

『ひとたび犯した悪事は、そう簡単には拭えないものですか』

藍が紺三郎の方を見やると、紺三郎は紺色の瞳を悲しげに潤ませて、藍の肩にすがりついていた。

『狐というのは、こんなにも信用されない生き物なのでしょうか?』

紺三郎の言葉があまりにも悲しく響いて、藍は眉をひそめた。
紺三郎はマミゾウと橙の反応に傷ついているらしかった。マミゾウは狸本来の狐嫌いから。橙は、未だはっきりとしないが、藍に近い存在への嫌悪感から。どちらも個人的なものだ、そうした取るに足らない妖怪同士の小競り合いは後を絶たない。けれど立て続けに疑いの目を向けられて、紺三郎はひどく落ち込んでいる。憐憫の情を掻き立てられて、藍は橙の足取りを追いながら語りかけた。

「妖怪は人間を襲う。人間は妖怪を恐れる。けれど、人間が妖怪に抱く感情は、必ずしも恐怖だけとは限らない」

妖怪の目に疲れて希望を見出すなら、人間の中だ。始まりが人間の魔理沙に対する悪事なら、終わりも人間に向く。
妖怪から見れば、人間の感情は複雑なようで単純だったりする。自分の都合のいいように妖怪を見るからだ。人間の役に立つならありがたい、危害を加えるなら恐ろしい。
そして狐はその二面性を持つ生き物だ。あるいは神の使い、あるいは狡猾な妖怪。どちらも人間の抱くイメージである。

「畏れ敬うこと……神のように、崇め奉ること。それもまた妖怪の存在意義となる。紺三郎。お前がもう悪事に手を染めないのなら、その心を貫き通せ。あるいは四郎とかん子のように、お前を信じてくれる者が現れるかもしれない」

それでも紺三郎が妖怪に信じられることを求めるなら、今ここにいる藍では不足だろうか、と藍は視線をよこす。
紺色の瞳がまっすぐに藍を射抜く。顔を上げる紺三郎の表情に、悲しげな色はもうなかった。
風が激しくなり、吹雪が二人に襲いかかる。凍え死にはしないだろうが、橙の行方が気がかりだ。

「紺三郎、手分けして橙を探そう。頼みを聞いてくれるか?」
『もちろんです』

紺三郎に指示を出すと、紺三郎の白い体は雪に紛れてあっという間に見えなくなる。
においも足跡も辿れない雪の中、藍はただ一直線に空を飛んでいた。心当たりが一つだけある。



雪が深くなって、寒さが一段と厳しくなる。節約気味の暖房に少しだけ燃料を足そうかと考えていた星の元に、格子を壊さんばかりの勢いで文字通り転がり込んできた妖怪がいた。

「えっ? ……ちぇ、橙ちゃん?」
「……星さん」

橙は普段の陽気な様子とは打って変わって、思い詰めた表情で震えていた。乱暴に開けられた格子は開いたままで、冷たい空気と雪が吹き込んでくる。星は雪まみれで立ち尽くしている橙に唖然としたが、すぐさま中に招いて格子を閉めた。

「寒かったでしょう、早くこちらへ。濡れた服は脱いだ方がいいですね。そこの半纏を自由に使ってください」
「……あの、突然お邪魔して、私」
「事情はちゃんと聞きますよ。何かつらいことがあったのですね」

星はすぐさま暖房に燃料を放り込み、手早く戸棚や押し入れから手ぬぐいや綿入を取り出して濡れた橙の髪や服を拭いてゆく。事情はわからないが、こんな状態で飛び込んでくるとはのっぴきならない事態があったのだろう。

「ちょっと、星、何事なの? すごい音がしたけど」
「なんでもないわ。私一人で大丈夫だから、かまわないで」

物音に気づいた一輪の声が遠くから聞こえてくる。星は顔だけ覗かせて、一輪に向かって声を張り上げた。下手に人数を集めない方が、橙も落ち着けるだろう。
着替えようとしない橙にせめてと綿入を被せると、橙はぽつりとつぶやいた。

「私、藍様に嘘をついたの」

寒さからではない震えが、橙の拳から全身に広がってゆく。畳の上にいくつもの水滴が落ちて、しみになる。

「わ、私にだって、わかってるの。あの紺三郎って狐、別に悪意なんか持ってなくて、藍様に仇なすつもりなんかないんだって。藍様のことを一途に慕ってるんだって、一目でわかって、だけど、私、わたし」

橙の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。星は紺三郎と聞いて、すぐに藍が式神にしたあの白狐のことだと気づいたが、黙って橙の涙を拭っていた。

「紺三郎が気に入らないの。藍様のことをまっすぐに慕ってて、藍様の言うことをよく聞いて、藍様も心を許してる。それが、どうしても許せなかったの!」

声を上げて泣きじゃくる橙の背を、星はそっと撫でる。いつか、星が苦しみに耐えかねて藍の胸で泣いた時に、藍がしてくれたように。しゃくりあげながら懸命に言葉を紡ぐ橙の話に耳を傾けた。

「藍様、どうして急に狐を式神にしたのかな。私が言うことを聞かないから? 他の式神に頼めばいいって言ったから? もっと素直で聞き分けのいい式神の方がほしかったの? 藍様に、い、いらないって言われたら、私は……」
「橙ちゃん」

星は橙と目線を合わせて、微笑みかけた。自分の言葉に自分で傷つく橙を慰めるべく、星は優しく語りかけた。

「藍は貴方を大事に思っています。橙ちゃんが言うことを聞かなくても、決して橙ちゃんのせいにはしませんでした。自分の実力不足だって、いつも苦笑いをしているんです。だから、藍は橙ちゃんをいらないなんて言いませんよ」

自分の体温を分け与えるように、星は何度も橙の冷えた体をさする。少しずつ、橙の涙が治まってゆく。部屋の暖かさに安堵したからか、星の言葉が伝わったのか、橙は少しずつ落ち着きを取り戻していった。

「ごめんなさい、星さん。いきなり押しかけて、泣いたりして」
「私達の仕事は悩める人々の話を聞くことでもあるのです。橙ちゃんがつらいのなら、いくらだって聞きますよ」

橙は大泣きしたのが恥ずかしくなったのか、謝ってそっぽを向いた。橙の二又の尻尾が所在なさげにゆらゆらと揺れている。
藍を呼ぶべきだろうか。それとも、もう少し落ち着くまでここにいさせてあげようか。星が悩んでいると、橙は遠慮がちに切り出した。

「あのね、星さん。甘えついでみたいでなんだけど、私の話にもう少し付き合ってもらってもいいかな」
「はい、どうぞ」

星が促すと、橙はぽつぽつと、藍と自分にまつわる話を語り始めた。

「……ちょっとだけ、昔の話なんだけど。私はね、藍様と会う前、ただの猫だった頃、真っ黒で縁起が悪いって人間に嫌われてた。人間ってそういうものだから、私は気にしてなかったけどね。だけど、私を可愛がってくれた人もいたんだよ。優しい人間のおばさんだった。時々私に肉や魚をくれたの。いつかこの人と別れると思うと、ちょっとだけ悲しかったけど、私は普通の猫よりずっと長生きしたんだ。二十を超えても死ななくて、このままきっと化け猫になれるんだって嬉しかった。不吉な黒猫だって忌み嫌う人間を驚かせてやろうって楽しみだった。その頃には、おばさんはおばあさんになってたけど、化け猫になった私を見ても喜んでくれるんじゃないかって期待してたんだ。
だけど、いざ尻尾がふたつにわかれて、人間の姿をとれる化け猫になったら、私は知らない町にいたの。
……びっくりしたよ。私の知ってるお店が一つもなくて、人間も知らない人ばかりで、おばあさんも見つからない。どうしようって困ってたら、仕事中の藍様に会ったの。尻尾が九本もあって怖かったけど、藍様はどうしたんだって声をかけてくれたの。……藍様が優しいの、星さんは知ってるよね。
藍様はパニックになった私の支離滅裂な話を聞いてくれた。私が知らない町に迷い込んじゃったって言ったら、藍様はちょっと考えてから、『ちょうどいい。今は猫の手も借りたいぐらい忙しいんだ。私の手伝いをしてもらうよ』って言ったの。なんでも、幻想郷を新しい結界で隔離したばかりで、その頃の藍様は仕事がたくさんあったんだって。
私はいきなり仕事を任せられるなんて嫌だったけど、帰り道もわからないんじゃ、従うしかなくって。単純なお手伝いしかできなかったけど、藍様は助かるよって喜んでた。
仕事が落ち着いてから、藍様は幻想郷のことを教えてくれた。……幻想郷は結界で閉ざされた世界で、結界の外で生きられなくなった妖怪達のための楽園だって。私が知らない町に、幻想郷に迷い込んだのは、私がもう外の世界では生きられないからなんだって。
私、もう帰れないんだ。結界の外に出たら、私は消えちゃうんだ。あのおばあさんにも、もう会えない……帰る場所なんかどこにもない……そう思ったら悲しくて、寂しくて、さっきみたいにぼろぼろ泣いちゃった。
藍様は、泣いてる私の頭を優しく撫でてくれたんだ。『そんなに泣くことはない。お前の帰る場所はここだよ。住処だって、この世界で新しく見つければいいんだ』って。そして、『お前さえよければ、これからも私の手伝いをしてくれないか』って誘われて。私は迷わずうなずいたよ。藍様は私に同情しただけなのかもしれないけど、知らない世界でひとりぼっちだった私を助けてくれたのは、藍様だったから。
その時になって、藍様は私を式神にするって言ったの。私に、この世界で生きるための力をくれるって。外の世界でクロとかチビちゃんとか、あだ名でしか呼ばれてなかった私に、ちゃんとした名前をくれたんだ。『今日からお前は“橙”だよ』って……」

長い話を終えて、橙は大きくため息をついた。
星は、見知らぬ世界に迷い込んだ橙の不安、そこで助け舟を出してくれた藍に出会えた安心感に思いを馳せる。そしてまた、帰り道を失くした迷子の子猫を見つけた時の藍の心情を思った。
橙を式神にしたのは、同情からだけではないだろうと星は考えた。思うに、藍が紫の式神となって新たな道を歩き始めた時の心強さを思い出して、橙に力をあげようと考えたのではないか。
そして、橙は藍を心から慕っているのだと、星は微笑ましく思った。

「橙ちゃんは、藍のことが本当に好きなんですね」
「大好きだよ! 藍様の一番が紫様なのは知ってるの、敵わないのは知ってるの、だけど、藍様は、あの狐に紺三郎なんて名づけるから!」

橙が大声をあげる。落ち着きかけたところで、紺三郎のことを思い出し、また気が昂ってきている。

「あの目の色を見るのが嫌だったの。紺色って、藍様の藍色に似ているじゃない。どっちも、深くて濃い青色。そんな名前をつけるってことは……藍様にとって、親近感を覚える相手だからじゃないかって……私が藍様に必要とされなくなったら、私はまた、帰り道を失くしちゃうのかなって、不安だったの」

橙は頑是ない子供のように首を横に振る。星は紺三郎の瞳を思い浮かべるより、目の前の橙のことを考えていた。藍は自分の名前を、虹の紫色のすぐ隣に藍色が来るように、紫のそばにいる者だと言っていた。ならば、藍が自らの式神に橙と名づけた理由も、想像するのは難しくなかった。

「紺三郎さんのことはともかく。私はなんとなくわかりますよ、なぜ藍が貴方に“橙”と名づけたのか」
「……どういうこと?」
「オレンジ色、つまり橙色は、藍や紫さんと同じ虹の七色の一つでしょう」
「橙って赤の隣でしょう。藍様は紫様の隣だけど、私は藍様の隣じゃないのね」
「隣にいるだけが大事じゃないんです。虹の一番外側が紫色で、内側が赤色、その隣が橙。虹の真ん中を緑色とした時、橙と藍は、向かい合わせになりますよね」

星は指を立てて順番に数えてみせる。五本の指で、黄色と青色を省略して虹に見立てると、人差し指と薬指が対称になる。

「対極の位置で、向き合ってる。すぐそばに置かないで、程よい距離で、相手を見つめている」
「それは……私を大事に思っていることになるの?」
「ええ。藍ってけっこう橙ちゃんに甘いんですよ。気まぐれでも、そこがかわいいって。無理に手元に置いて縛り付けるより、少し離しておいた方が、自由気ままな化け猫の橙ちゃんの良さを活かせるって思ったんじゃないでしょうか?」

橙の大きな目が瞬く。涙の跡はすっかり乾いていて、オレンジ色を帯びた茶色の瞳が涙の名残できらきら光っている。
きれいだな、と星は思う。大切な誰かを思う時、瞳に宿る純粋な光は、金銀や宝石以上の価値がある。あくまでも星の答えは憶測であるのだが、橙は少しだけ納得してくれたようだ。くしゃくしゃに歪んだ頬が、ゆっくりと、笑みの形に変わってゆく。
その時、橙が飛び込んできた格子を外から叩く音が聞こえてきた。振り返ると、格子には見慣れた九つの尾を持つ妖獣のシルエットが浮かんでいた。

「星、いきなり訪ねてごめん。ここに橙が来てないかな?」
「ら、藍様」
「……どうします、橙ちゃん。開けますか?」

星は橙が嫌がるなら匿ってあげようかとも考えていたのだが、橙は星の問いに答えることなく、弾かれるように駆け抜けて格子を開いた。

「藍様!」
「わっ!」

格子を開けるなり、橙は思いっきり畳を蹴って藍に飛びついた。藍の体にもまた雪が降りかかり、あちこち濡れている。そして藍の傍らに紺三郎の姿は見えない。逸れたのか、別々に探していたのか。藍は雪の中、なりふり構わず橙を探して空を飛んできたのだろう。

「ごめんなさい! 私、私……!」

橙は藍を離さないと言わんばかりに強くしがみついている。声は次第に震えてきて、治まったばかりの涙がまた溢れてしまったようだ。

「橙……」

藍はしばし困惑していたが、やがて、幼子を慈しむ母親のように、ぎゅっと強く小さな体を抱きしめた。重なり合った二つの影は、星の目には確かな絆で結ばれているように見えた。



「そうか……橙がそんなことをね」

橙は泣き疲れてしまったのか、藍の膝の上でぐっすり眠っている。藍はまだ湿り気の残る橙の髪を掻き撫でて、心苦しさに眉をひそめた。

「ごめん、星。橙が迷惑をかけてしまって」
「いいんですよ。橙ちゃんのお力になれたのなら、私も嬉しいです」

星は穏やかな笑みを浮かべている。おおよその話は星から聞いた。藍が来るまでの間に、星が橙を慰め、励ましてくれたのだ。本来なら、主人である藍がその役目を果たさなければならなかったというのに。

「やきもち、だったんだね。まさかとは思ったけど気づかなかったよ。橙が私のことをそこまで思ってくれてるとは、考えてもいなくて……本当に、情けない主人だよ」

藍は己の無力さに歯噛みする。橙は式神でいるのが窮屈なのではとさえ考えていた。けれど実際には、藍に見放されるのを恐れていて、従順な紺三郎が藍と同族の狐であること、紺色の瞳を持つことが、橙にとっては脅威ですらあったのだ。

「そんな理由で式神を剥がすものか。もしその時が来るなら、もっと別の理由で……」
「それだけ橙ちゃんが藍を好きだってことなんですよ。藍を尊敬してるから、気まぐれを起こしても、式神じゃなくなるのを嫌がったんじゃないでしょうか」
「……私はね、式神を操る者として、できるだけ式神を強くしたいと思っているんだ。私の力次第で、橙は今よりもっと速く走れるし、もっと高く跳べる。だけど、強い命令で縛ろうとは思わないんだ。猫は自由気ままな動物だから。無理に従えると橙の良さを潰してしまう。まあ、私の式神は緩すぎて、バグが出たりマタタビで釣ったりしてしまうんだが……星、なに笑ってるの?」
「いえ。私が想像した通りのことを藍も考えていたんだなと思いまして。藍の口からちゃんと橙ちゃんに言った方がいいですよ」
「……納得してくれるかな」
「わかってくれますよ」

星は藍の目を見てにこりと微笑む。星の言葉には確かな力があって、藍もうなずいた。橙が目を覚ましたら、まだ幼いからと侮らず、真っ向から向かい合おう。

「星よ、こんな寒い中に訪ねてきてくれた客には茶くらい出してやるべきではないかえ?」

突然開け放たれた障子の音と、年寄りじみた喋り声が穏やかな静寂を破る。湯気のたつ湯呑みの乗った盆を片手に、マミゾウがしたり顔で立っていた。

「ま、マミゾウさん。私一人で充分だと言ったはずですよ」
「言っておくが儂が淹れたものではないぞ。誰が狐なんぞに茶を淹れるものか。一輪のやつが気を利かせたんじゃよ」
「……お前という奴は」

藍が忌々しげにマミゾウを見上げるも、マミゾウは涼しい顔で湯呑みを三つ卓上に置いてゆく。星の諫めもまったく聞いていない。マミゾウは藍と橙を見て、にやりと嫌らしい笑みを浮かべた。

「藍、儂の言った通りじゃろう? 儂は忠告したぞ。狐を式神にしてもろくなことにはならんと」
「お前のやり口はわかりづらいんだよ。第一、その主張は私を式神にしている紫様を愚弄しているのか?」
「お前さん、いつも二言目には自分は式神だと言うのう」

マミゾウの言葉は藍と噛み合わない。故意に無視しているのだ。

「ま、口癖というのはつい、無意味のうちに出てしまうものじゃ。お前さんが自分は式神だと言う時、お前さんは自分が式神であることを忘れているのかもしれんのう」
「……何をわけのわからんことを」

けらけらと笑うマミゾウに、藍は眉をひそめる。以前、この化け狸の助言が役に立ったこともあったが、やはり藍にとってはいけすかない相手だ。藍の剣呑な雰囲気を見かねた星が、マミゾウをたしなめにかかる。

「マミゾウさんは、どうしてそんなに藍にぶつかるんですか? そんなに狐が憎いのですか」
「狐は確かに憎い。しかし儂が気になるのは、藍があまりにも狐らしくないという点にあるかのう」

マミゾウは藍をじっと見つめてくる。藍は鼻を鳴らす。どうせ式神という器に収まって人間を化かそうとしないのが気に食わないとか、その程度のことを言いたいのだろう。どの道、藍はマミゾウごときに狐らしさとやらを品定めされる謂れはない。
マミゾウの目が細く尖る。好戦的な色が見えた。

「儂にはお前さんの作った式神を破るなど朝飯前じゃ。じゃが、スキマ妖怪の威を借りとるお前さんに勝っても何の自慢にもならん。宿敵や好敵手というのは強くなければこちらも燃え上がらんからのう」
「マミゾウ、前にも言ったはずだ。私は紫様の式神であることに誇りを抱いている。式神のない私と戦いたいとでも言うのか? ならそれは無理な相談だ。私はこの命が尽きるその時まで、紫様との別離が訪れるまで、紫様の式神であり続けるのだから」

藍は胸を張って言い返した。マミゾウには理解できないだろうし、理解されたいとも思わない。大いなる力を持つ者に尽くし、身を賭して支え続ける喜びは、藍にとって決して譲れないものだ。それに理解してくれる者なら、今、藍の近くにいる。星に目配せすると、星は何かに気づいたように目を見張った。
マミゾウはわざとらしく感心したようにため息をついた。

「ほう、こりゃ傑作じゃ。あくまで式神であることを選ぶと。式神とやらが果たしてどこまで強くなるものか、見ものじゃな。お前さんとの本気の化かし合いは、その時までにとっておくとするかのう」
「誰がお前の作った土俵に上がると言った? 私は狐の親玉でもなんでもないんだ、お前を相手にするかどうかは私が決める。せいぜい独り相撲でも楽しんでな」

藍がマミゾウを見下ろして吐き捨てると、マミゾウは負けじと口元をつり上げた。

「狸の執念深さを舐めるでないぞ。いずれ儂がお前さんをその気にしてやるから、覚悟せい、藍」

マミゾウは空になった盆を抱えて、星の部屋を後にした。張り詰めた空気が緩んで、藍はため息をついた。

「まったく、あいつには手を焼かされる」
「もう、私が止めても無駄なのでしょうね。マミゾウさんがせめて藍の誇りを踏みにじらないことを祈ります」
「心配はいらないよ。あいつはいけすかない奴だが、私を好敵手と言った。いくら化かす能力に長けていても、悪どい手段で私を貶めるような真似はしないだろう」

マミゾウは命蓮寺の居候なのだ、藍と衝突するたびに星が心を痛めるのは避けたい。暗にマミゾウを認めていると匂わせると、星は緊張した面持ちを少しだけ緩めた。

『藍様、藍様』

その時、格子の外からか細い声が聞こえてきた。手分けして橙を探していた紺三郎の声だ。今日は星の自室に客が多い。命蓮寺の迷惑にならないかと気にかけつつ、藍は格子の隙間を開け、紺三郎を招き入れた。

「橙を探してくれてありがとう。橙は見つかったよ。星のところに来てたんだ」
『藍様……実は私、藍様にお願いがあるのです。――私の式神を、外してくれませんか?』

神妙な面持ちの紺三郎から告げられた願いに、藍は一瞬言葉を失った。
紺三郎の紺色の目が、藍をまっすぐに見つめている。

『私を助けてくださった藍様に恩返しがしたくて、私は藍様の式神になることを受け入れたのです。ですが、私は藍様のお役に立てません』
「何を急に……マミゾウに式を壊されたのを気に病んでいるのか?」
『いいえ。私の存在が、藍様の大切なお方を苦しめてしまいました。それが私には、疑いの目を向けられるより、辛くて苦しいことなのです』

紺三郎の白い毛並みに雪が積もっている。到着したのはマミゾウが来て間もなくか、それよりも前か、紺三郎は藍達の話を聞いていたのだ。雪にまみれた体が、ついさっき現れたのではないと物語っている。
紺三郎は眠ったままの橙に鼻を寄せて、頭を下げる。垂れた耳から、紺三郎の心痛が伝わってくる。
藍は紺三郎にどう言葉をかけていいのか迷った。元より、紺三郎に言うことを聞かせるために式神にして、改心を見届けたら自由にさせてやるつもりだった。けれど役に立てないからと紺三郎自ら申し出るなど、藍は結局、紺三郎に何もしてやれなかったということではないか。

「紺三郎、すまなかった。お前を勝手に式神にしておいて、ろくに力も与えられずじまいだった」
『そんなことはございません。藍様は、私の言葉を信じてくださいました。名もなき化け狐の私に名前を与えてくれました。私の喜びがどれほどのものか、言葉を尽くしても言い表すことができません』

紺三郎は目を細めて笑う。満足げな、藍を安心させるための笑顔だった。
紺三郎は藍の足元に歩み寄る。式神を剥がせ、ということだろう。藍は手を伸ばして、紺三郎に憑依させた式神を解除する。

「さあ、お前はもう私の式神ではない。自由にどこへでも行くといい」
『藍様、短い間でしたが、お世話になりました。……そして、貴方様にもご迷惑をおかけしました。貴方様のお説教は身に染みましたよ』
「もう悪さをしてはいけませんよ。どうかお元気で」
『はい。……藍様。私はこれからも人を騙すことなく、私のことを信じてもらえるよう、尽力して生きてゆきます。貴方のくれた名前の通りに――さようなら』

紺色の瞳が、宝石のようにきらりと光る。それが涙だったのか確かめるまもなく、紺三郎は身を翻し、格子の隙間をすり抜けて雪の中へ消えていった。
きっと、藍が狐を式神にすることはもうないだろう。

「紺三郎は、大丈夫だろうか」
「大丈夫ですよ。藍のあげた名前が、紺三郎さんを守ってくれます」

紺三郎の駆けて行った方角を見つめ続ける藍に、星はそっと励ましの言葉をかける。

「紺三郎さんは藍を慕っていました。名前は与えられた者の生き方を左右します。藍は確かに紺三郎さんに生きる力をあげたんです。力をくれる人を、好きになるのは当然でしょう」

星の言葉で、藍は紫を思い出していた。名前を与え、生きる道を示してくれた大切な人だ。同じように星は、聖を思っているのだろうか。もしも紺三郎の藍を慕う気持ちが、式神の支配によるものでないのなら、藍にとってそれ以上に喜ばしいことはない。
不意に星が不満げな顔をして、藍の口元に手を伸ばし、無理矢理笑顔を作るように両頬を持ち上げる。星らしからぬ行動に呆気に取られた。

「ひょ、ひょう?」
「そんな暗い顔をしていたら、橙ちゃんがまた不安になってしまいますよ。藍はちゃんと、誰かを励ますだけの力を持っています。私だってそうなんですから」

自分が星の力に? 目を瞬いた藍の頬から星の手が離れる。まともに喋れるようになって、藍はすぐさま言い返す。

「私にそんな力はないよ。貴方の力になってくれるのは聖だろう。それに、貴方には私より近くにいる一輪やムラサのような命蓮寺の仲間達が……」
「そんなこと言わないでください」

星が藍の両手を強く握った。星から手を取ることなどほとんどなくて驚いていると、星は真剣な眼差しで藍に向き合った。

「確かに命蓮寺の仲間達は私にとってかけがえのない人達です。だけど、近くにいるからこそ言えないこともあるんです。私は、藍のおかげでつらくて苦しい過去の出来事に向き合えました。もちろん、藍にだって言えないことはありますけど、藍は私にとって大切な人なんですよ」

星の金の瞳が、強い意志を湛えて輝いている。獣のような気迫に圧倒されて、藍は言葉を失った。
星の言葉にはいつだって嘘偽りがない。星の真摯な思いを載せたストレートな言葉だからこそ、藍の胸を打ち心を揺さぶる。
視線が胸元の高さまで上げられた両手に移る。星は藍の視線の先に気づくと、途端にぱっと手を離す。今更慌てることかと藍は肩をすくめた。

「そんなに照れること?」
「ら、藍のせいですよ。私がこんなことするの」
「私のせい?」
「だって、藍はよく私の手を握るから……」

俯いたまま消え入らんばかりの声でつぶやく星の言葉で、藍は星の手を取るのが当たり前になっていたのを思い出す。

「もしかして嫌だった?」
「嫌じゃないですけど……理由がわからなくて」

改めて問われると、藍も答えに窮してしまう。

「逸れないように、とか」
「確かに初めて行く場所は多いですけど、私は小さな子供じゃないんですから」
「……無意識のうちに?」
「そんなこいしさんみたいなこと言わないでくださいよ」

藍の答えに星はますます顔を赤くする。つられるように藍の心音が高まってゆくのは、困惑からか、それとも別の感情からか。

「藍といると、友達の距離感がわからなくなりますよ。なんだか、胸の奥が疼くというか……仲がいい相手がいても、命蓮寺の仲間達は家族みたいなものですから、違いがよくわからなくて」
「星」

藍の思考回路が急速に回転して、熱を帯びてゆく。星は頬を染めて、熱っぽく瞳を潤ませて、それでは、まるで。

『お前、星が好きなのか?』

不意に魔理沙の問いが浮かんで、藍は即座に打ち消す。星がそんな思いを抱いているはずがない。ゆえに藍の抱く感情だって“それ”ではない。あっていいはずがない。
友達と家族の距離感の違い。咄嗟に思いついたのは、星が命蓮寺の仲間には――マミゾウやぬえなどの例外はいるが、基本的に敬語をあまり使わないということだ。魔理沙にも未だに敬語なのかと言われたのを思い出して、藍はどこか癪に触った。別に今までは付き合いの長さも違うし、そういうものだと気に留めていなかったのに、意識するとちくりと小さな棘が刺さったような感覚がしたのだ。

「あのさ、星。私には敬語、まだ取れない?」
「へ?」
「星には星のペースがあるだろうし、言葉遣いだけが関係を決めるとも思ってないけど、普通はいつまでも友達相手に敬語ではいないんじゃないかな」
「それは……言われてみれば、確かにそうですよね」

星は神妙な顔で悩み始めてしまった。思い返せば、藍は星と交流を始めた段階でさん付けはいらない、敬語も使わなくていいと言ったのだが、呼び捨てになっても星の敬語はそのままだ。藍としては、星にはあまり畏まらず、自然体で接してほしい。
星は己を鼓舞するように拳を握りしめて、藍に向かって口を開く。けれど、星の口からは何一つ言葉が出てこない。
何度か口を開けては閉じて、を繰り返すうちに、星の顔は再びりんごのように赤くなってしまった。敬語を使うまいと意識しすぎるあまり、星のキャパシティがオーバーしてしまったようだ。

「す、すみません、藍。いざ敬語を取ろうとしたら、どうしても、その……」
「まあ、無理にとは言わないよ。星にとって心地よい距離で話してくれるなら、それでいいんだ」
「その、努力はしますから。呼び捨てにできるなら、敬語だってなしにできるはずなんです。きっと……」

縮こまっている星に、自然と笑みがこぼれる。
星にとって気の置けない存在である、命蓮寺の仲間達が羨ましくないといえば嘘になる。けれど、星にとって藍が少しでも特別な存在であるのなら、それでも充分に嬉しかった。

「う……ん」

藍の膝の上で、眠っていた橙が身じろぎする。閉じていた目を瞬いて、大きなあくびをした橙は、ゆっくりと上体を起こした。

「目が覚めたかい、橙」
「ら、藍様! えっと、私、そのー……」
「さあ、一緒に帰ろう。今日はゆっくりお前と話がしたいんだ」

気まずさから小さくなる橙の頭を、藍は優しく撫でる。橙はくすぐったそうにふにゃりと笑った。



後日、雪が次第に少なくなり、春の訪れが近づいてきたマヨヒガにて。

「橙、そろそろ暖かくなってきたし、私の頼みを」
「まだ山の雪は残ってるんですよ? 紫様もお目覚めにならない。私も冬眠したいくらいですよ」
「おーい、橙……」

つれない返事を返す橙に、藍の哀愁漂う呼びかけが響き渡る。その様子を傍らで眺めていた星は思う。橙の気まぐれの原因は、藍の甘さにもあるのではないかと。

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