Coolier - 新生・東方創想話

星は藍色の空に輝く【下巻】

2021/10/19 21:42:46
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其の八 「月の輝く夜だから」



その夜、星の元に藍の式神がいつものように手紙を携え訪ねてきた。

【久しぶりだね。今年の夏は何かと忙しくて、なかなか顔を合わせる暇もなかったものだから。早いもので、気づけば十五夜も過ぎて秋も終わりに近づいている】

藍の文字は相変わらず流麗で機械的なまでに均一だ。濃すぎも薄すぎもせぬ墨の跡を辿るごとに、星の顔が自然とほころんでゆく。
星は今年の夏の騒動を思い返していた。昨年の冬ごろから、外の世界の都市伝説が幻想郷で具現化するようになっていた。それらは単なる都市伝説の幻想入りに留まらず、オカルトボールを巡る騒動に、外の世界からやって来た人間に、さらには月の都の遷都計画へと連鎖してゆく。聖と一輪が調査に当たっていたので、留守を守る星はなかなかお寺を開けられなかった。
都市伝説異変が解決に至らないまま、今度は月の都の騒動で、藍の方がしばし忙しくなったと聞いた。といっても、星は藍から何かを聞いたわけでもない。藍は“月の都”の話になると口が重い。噂にのみ聞く、八雲紫と月面戦争のことがひっかかりになるのかと思っていたが、詳しいわけは星も知らなかった。
そんなこんなで、星は藍としばらく出かけていない。時たま季節の話題や異変を巡る小話、藍個人の思い出などを記した手紙だけが式神によって届けられるのだった。

【中秋の名月には出遅れたけど、十三夜の月にお月見をしないか。月見にうってつけの場所ならいくつも知っている】

久しぶりの出かけの誘いは、星が待ち望んでいたものだ。
紅葉の舞う秋の空の下、藍と共に月を愛でる。想像するだけで心が躍る。春の朧月も捨てがたいが、何といっても月見といえば秋だ。
月の光、特に満月は人間にも妖怪にも古来より愛でられてきたものだった。満月は妖怪に力を持たらし、反面、狂わせる危険も孕んでいる。その狂気は人間にも影響を与えるもので、修行を積んだ星も直視し続けると、いささか正気でいられなくなる。それでも満月の夜に怯えていた昔よりは落ち着いて眺められるのだが。
二日早い十三夜なら、まだ月見を楽しむ余裕があるだろう。期待に胸を膨らませながら続きを読み進めたところで、星の手がぴたりと止まった。

【ところで、今度月見に行くことは、たとえば貴方のお寺の一輪だとかムラサだとか、ナズーリンには内緒にしておいてほしい。言うまでもなく、聖にもね。できるだけ誰にも見られない、二人きりになれる場所がいいんだ】

「……えっ?」

念を押すように書かれた言葉に、星は目を白黒させる。確かに、今までは出かける時、橙やナズーリンが一緒だったこともあるし、出かけた先で妖怪や人間に会うこともあった。しかし今回に限って、仲間達には内緒にだとか、二人きりになりたいだとか、一体どういう意味なのか。
困惑しながら続きを読み進めるも、あとはいい返事を待っている、とだけしか書いていなかった。

(夜中に二人きりで、誰にも内緒で出かけるって、それってなんだか)

まるで逢引きのようでどきどきする。――などと考えて、我に返った星は頭を振る。私は何を考えているのか。何もやましいことなんてあるはずない。藍みたいな美しくて聡明な人が、下衆な奸計を抱くはずがない。
稲穂の波のように輝く金色の見事な九尾。大陸の装束を思わせる藍色の服。優しく見つめる金の瞳。脳裏に描く藍の姿は、気のせいか、いつもより眩しく見える。
久しぶりの誘いだから? 星も夏の騒動で知らず知らずのうちに疲れていたのだろうか。

(――こんなに、藍のことが気になるのは、どうして?)

藍の式神は何も言わずにただ星が返事をしたためるのを待っている。緊張に震える手で、星は“諾”の意を書き綴り、式神へと手渡した。迷いがなかったといえば嘘になるが、不安や困惑よりも期待と好奇心の方が勝った。
その夜はあまり眠れなかった。乱れる心を鎮めようと念仏をひたすら唱え続けているうちに、気がつけば夜が明けていた。

「星、なんか落ち着きがないんじゃない?」

翌日になって、星は一輪に呼び止められた。傍らにいる雲山までが気遣わしげな視線を星に投げかけている。

「……そうでしょうか?」
「ええ。また何か隠し事をしてるんじゃないでしょうね?」
「そんなことないわ」
「貴方には前科があるから信用ならないのよ」

じとりと疑いの目を向ける一輪に、星は引き攣った笑いが出る。一輪の言う前科とは、おそらく昨年の秋、一人昔の悪夢に悩んで塞ぎ込んでいた時のことだ。方々に迷惑をかけたので申し訳なく思っているのだが、まさかまた藍絡みだと言うわけにも、

「藍さんでしょう?」

……などと思った矢先にぴたりと当ててくる。星は一瞬、一輪がさとりや神子のような能力を身につけたのかとすら疑ってしまった。

「な、なんで藍が出てくるの」
「だって、星がそわそわする理由なんてそれしかないじゃない」
「……」
「ねぇ、星。私、前から思ってたんだけどね」
「……何を?」
「星って、藍さんのこと、好きでしょう?」
「は!?」

瞬間、星の顔が沸騰したように熱くなる。好きにも様々あるが、一輪の言葉はどう考えたって、友達としての意味ではない。
一輪は仰天している星をよそに、得意げにしゃべり続ける。

「しのぶれど色に出でにけり、ってところかしら。注意して見ると案外わかりやすいんだから。出かける日は朝から上機嫌だし、帰ってくれば名残惜しそうにため息をつくし、藍さんがお寺に来て話す時はよく笑っているし、手紙をもらった日は足取りが軽いのよ」
「……そこまであからさまだったの」

あれこれと列挙され、星はちょっとだけへこんだ。上辺を繕うのは自信があったのに、いつのまにこんな感情がダダ漏れするようになってしまったのだろう。
確かに昨夜、藍の手紙で心が騒いだのは事実だが――星は一輪の結論を否定する。

「だっ、だとしても恋だなんて飛躍しすぎじゃない。私と藍はただの友達であって」
「あら、違うの?」
「違うに決まってるでしょう!」
「じゃあ、どうして星の顔はほおずきみたいに赤いの?」
「……っ!」

一輪のからかうような物言いに、星はむきになってまくし立てる。
そんなものは認めない。あっていいはずがない。許されない。

「私は毘沙門天の弟子、そして御仏に帰依する身です。どうして誰かに恋をすることが許されましょう。愛欲は断つべき煩悩で、悟りを妨げるものです。そもそもこの世は仮の宿りに過ぎず、すべての執着はまやかしでしかないのです。つまるところが恋も愛も真にあらず、そのようなものに身を焦がすのはまったくの不毛、愚の骨頂というべきで……」
「あのねぇ、星」

滔々と演説する星に、一輪は大きなため息をつく。その眼差しにはどこか軽蔑が含まれていて、心底呆れたと言わんばかりだった。

「そんな薄っぺらいお説教、お客さんに聞かせないでよね。命蓮寺の沽券に関わるわ」

強い眼で睨まれて、星は口をつぐむ。わかっていたのだ、自分で喋っておきながら、あまりにも説得力のない言葉だと。己の心を偽り、誤魔化すためのものが誰かに響くはずもない。
雲山が眉をひそめ、何事かを一輪に向かってぼそぼそとつぶやいたが、「え? 問い詰めてなんかないわよ、雲山。いわゆるガールズトークってやつ」などと返している。
表情を曇らせる星に、一輪は聞き分けのない子供を見るように目を細めた。

「ねぇ、星。誰かに恋するのってそんなに悪いことかしら」
「悪いも何も、戒律を、不邪淫戒を破ってしまうわ」
「外の世界ではお坊さんが妻や子を持つのはもうおかしくも何ともないってマミゾウさんが言ってたよ」
「内は内、外は外でしょう」
「そんな豆まきみたいな言い方されても。それに、星はもうお酒を飲んで戒律なんか破ってるのに?」
「……私はこれでも命蓮寺で二番目に偉い僧侶ですから、相応の立場というものが」
「そうやって、また自分の心に蓋をしてしまうの?」

張り巡らせた網の隙間を突くような一言に、星は再び黙り込む。一輪の言葉は怒っているというより、心配しているようである。
認めたくないのは、自らの保身ゆえか。聖や仏や毘沙門天に背くことを否としているからか。いや、ただの臆病風だと星は自覚している。友達として優しく接してくれる藍に対して、こんな邪な心を抱いていると知ったら、藍はどう思うか? それだけが不安なのだ。
一輪は黙ったままの星の手を優しく取った。一輪の手は修行のせいか、いつも金輪を握りしめているからか、少し硬い。けれど力強く温かい手だ。雲山の剛腕にだって負けないだろう。

「心を制御するならともかく、心を殺してしまうのは違うんじゃない?」
「……だけど一輪、私はこの思いが恋だったとしても、何をしていいのかわからないわ」
「あら、星のしたいようにすればいいじゃない」

弱気な言葉を告げる星に、一輪はさらりと言う。

「これまで通り友達として通すでも、もっと仲良くなるでも、好きにすればいいのよ」
「藍の気持ちもわからないのに?」
「そんなの後、後。貴方はただでさえ気を遣いすぎるきらいがあるんだから、ちょっとわがままを通すくらいでいいのよ。思いやりは大切だけど、遠慮してたら何もできないじゃない」
「……一輪」
「なあに? まだ食い下がるつもり?」
「どうしてそんなに背を押してくれるの。思えば、貴方は最初から藍に好意的だったでしょう」

初めて命蓮寺で藍に会った時――いや、再会した時と言うべきか。一輪はスキマ妖怪の式神である藍を星の客だと即座に認識し、部屋まで案内したのである。まだ幻想郷に腰を下ろしたばかりで右も左もわからぬ状態、かろうじて賢者と呼ばれる八雲紫なる妖怪とその式神の情報を入手していた程度だ。互いに探り合う警戒心を秘めつつも、一輪は藍に好意的だった。
初めは藍の訪れを警戒していたムラサや聖も最近ではすっかり態度が軟化しているが、それにつけても一輪の見識というか、寛容さは異様だ。星と親しくしているといっても、藍と一輪は知人程度の間柄でしかないのに。不思議そうに尋ねる星に、一輪はまたため息をつく。そして、

「同じことを何度も言わせないでよ。星が嬉しいなら、私も嬉しい。それだけのことよ」

と、晴れやかな笑みを見せるのであった。あまりに率直かつくすぐったい答えに、星も思わず照れ笑いをするのだった。



秋が深まり、日が沈むのが日毎に早くなってくる。すっかり暗くなった縁側で、星は足を止めた。
境内に植えられた樹木が赤く色づき、やがて茶色く枯れた木の葉がはらはらと舞い散る。響子が毎日掃き掃除をしているので境内はいつも見苦しくないが、朽葉の散りゆく様は諸行無常を思わせて悪くない。
夜空には上弦の月が浮かんでいる。藍との約束の日まで、あと一週間もない。いつしかと指折り数えるたび、藍からもらった手紙を読み返すたび、星の心は千々に乱れる。これはいけないと咎めても、一輪と交わした会話がよぎって、星は嘆息する。

「好きなようにしたらいい、と言われてもねぇ」

藍との関係はあくまで友達だったはずだ。それ以上の関係を求めるのかと問われても、星は二の足を踏んでしまう。
二人であちこち出かける以上に、いったい何をするというのか。“できれば二人きりで”また藍の手紙が浮かぶ。たとえば友達同士ではしないようなこと――邪念が降りかかる前に、星は勢いよく頭を振る。

「藍は、どうしてあんな手紙を書いたのかしら」
「私がどうかした?」
「……へっ?」

凛とした声に振り返ると、いつのまにか、星が今しがた思い浮かべていた藍が縁側に立っているのである。

「藍!? ど、どうしてここに?」
「おかしいかな。命蓮寺は妖怪の集まる寺なのに」
「でも、何の知らせもなく、こんな出し抜けに」
「理由がなきゃ、会いに来ちゃ駄目?」

首をかしげて一歩、歩み寄る藍に、心臓がどきりと音を立てる。そっと星の頬にのばされた手の温度は、いつもの温かい藍の手と同じだ。
星は思いもよらぬ来訪に混乱する。藍の手が触れた箇所だけが熱を帯びている。けれど、なぜだろう、藍の挙措にどこか違和感があるのだ。見事な九つの尾も、藍色の装束も、優しく細められた金の瞳も、どれも見慣れたものなのに――瞳の奥に、うっすらと欲望の色が見える。わずかな違和感が大きくなって、星ははっと気づく。

「……貴方は誰?」

咄嗟に手を払い、距離を取る。不思議そうに首をかしげる動作は確かに藍のそれとよく似ているが、別物だ。いよいよ確信を強めた星は、目を鋭く尖らせ、毘沙門天の威光を示すように力強く叫んだ。

「化生の類め、正体を明かしなさい! 貴方は藍じゃない!」
「あー、もうばれちゃった」

途端に声音と口調が一変する。ぼふんと間抜けな音を立て、煙と木の葉の中に現れたのは、ぬえだった。

「ぬえさん? ……なるほど、貴方でしたか。例の種ですか」
「マミゾウに化けさせてもらったのよ。正体不明の種だとどう映るかわからないからね」

ぬえはうまく似せたつもりなんだけどなぁ、とぼやいている。星はひとまず、見知らぬ妖怪が潜り込んでいたわけではなかったことにほっとする。といっても、こんなたちの悪いイタズラを仕掛けるのは、マミゾウかぬえくらいだろうと踏んではいたのだが。
イタズラ好きで気まぐれなぬえのことだ、星の弱みを握って――藍が弱みと認識されているのは不本意だが、からかってやろう、というしょうもない魂胆なのだろう。偽物とはいえ、ほんのわずかな間でも動揺してしまったことが恥ずかしく思う。

「どうしてわざわざこんなことを。マミゾウさんの差し金ですか」
「マミゾウの手先みたいな言い方しないでよね。面白いものが見れそうなネタを手に入れたもんだったからさ、マミゾウは狐に化けるの嫌がるからねー。にしたって、もうちょっと騙されてくれてもいいのに。化かしがいのない奴」
「これぐらい見破れなくては毘沙門天の弟子なんて務まりませんよ」
「ふーん」

真面目ぶって言う星をよそに、ぬえはくつくつと笑っている。よっぽど星の反応がお気に召したらしい。

「っていうか、あんただって妖怪のくせに、化生だなんてまるで人間みたいな言い方するのね。ああ、あんた長らく正体隠して毘沙門天のふり続けてたんだっけ? そりゃ人間に馴染むのも早いわけだ」
「ぬえさん」
「そのぬえさんって呼び方、いい加減やめてくれない?」

さっきまで笑っていたのが一転して、怒ったような拗ねたような顔で星を睨んでくる。ぬえの機嫌はベントラーよりも気まぐれだ。星は思いがけぬ言葉にきょとんとする。

「あんたと知り合ったのはムラサや一輪より後だけど、もういいでしょ? なんかイライラするのよね、一輪もそうだけどいつまでも他人行儀で線引かれてるみたいでさ」

ぬえはそっぽを向いて口を尖らせる。確かに、命蓮寺におけるぬえの立場にせよ、星とぬえの関係にせよ、曖昧なまま数年が過ぎてしまった。ぬえは古くからの知己でも命蓮寺の修行僧でもなかったため、彼女は聖を中心に結束した命蓮寺で浮いた存在になってしまった。だからこそ、ぬえは藍に化けるなどのちょっかいをかけることでしかコミュニケーションが取れないのかもしれない。
いつか、ぬえを最も気にかけているムラサが言っていた。会話を交わすのが大切だと。それが理解への歩みであると。
子供じみた癇癪がかわいく見えて、星は笑みがこぼれた。確かに星が命蓮寺で敬語を使う相手は聖と、マミゾウとぬえに限られていた。もう余計なへだてはいらないはずだ。

「ぬえ、と呼んでいいんですか?」
「敬語」
「……それじゃあ、敬語も使わない。これでいいの、ぬえ?」
「そうよ、できるじゃない」

ようやくぬえは満足げに、というより勝ち誇ったように不敵な笑みを浮かべた。口元をつり上げたまま、星に歩み寄ると、

「あの藍って狐には未だに敬語のくせにね?」

意地悪に囁かれた言葉に、またも星は不意を突かれる。ぬえがどこまで星と藍の間柄を知っているか不明だが、マミゾウは何を吹き込んだのやら。

「私にだっていろいろあるんです。じゃなかった、あるのよ」
「要は特別ってことね」

負けじと星が言い返すと、ぬえはあっけらかんと言う。なかなかに的を射ている。
敬語は敬意を持つ相手に対して使われるだけでなく、親しくない相手に対する距離を置く意味もある。藍が敬語はいらないと言うのも、距離を感じるからなのかもしれない。
けれど藍に対して、気さくに遠慮なく話そうとすると、途端に星は緊張して、心臓が壊れそうなほど脈打って、まともに目を見て話せない。その通り藍は星にとって特別だった。いや、それだけでは言い表せない。

「なんだ、もう答え出てるじゃない」
「一輪から聞いたの?」
「今のあんたを見りゃバレバレだっての。相変わらず鈍いんだから」

呆れた顔をして大きなため息をつく。鈍いとは、同じことを藍と友達になった時にもぬえに言われたのだった。

「ぬえも心配してくれるの?」

ぬえの仕草が嘲るものとは思えず、好ましく感じて星が微笑みかけると、ぬえは鼻で笑う。

「真面目で偉そうなあんたをからかうネタが増えたら面白いってだけよ」

マミゾウんとこ行ってこよ、とぬえは羽ともいえぬ三本一対の羽をはばたかせて飛んでいった。
……結局、からかいに来ただけなのだろう、と星は肩を落とした。藍に化けて、恋の話をふっかけて、星の反応を楽しむ。ぬえに遊ばれても怒る気になれなかったのは、ままならない感情を抱えて持て余している自分がふがいなく思ったからだ。
空の月は煌々と輝き続けている。満月に満たない半月なら、眺めていてもさしたる影響はない。
二人きりで月見をしようと誘った藍は、星のことをどう思っているのか? 結局、星の疑問はそこに行き着く。臆病者だと言われても、藍の気持ちがわからない限り、星は一歩も動けない。ムラサ達が来るまでの千年、聖との約束を果たすのに必死でそれ意外のことに心を砕く暇などなかった。初めて抱いた恋という得体の知れない感情を、どう制御していいのかわからないのだ。
星は身を翻し、自室へと戻る。部屋の隅には、いつか藍に貰った蓮の髪飾りが月光を受けてきらきらと光っている。敬愛する聖の名に入る花であり、尊き仏の御座になる清廉な花だ。
――思えば、いつから藍に恋情を抱くようになったのだろう。
昨年の秋、過去の忌まわしい記憶に悩まされる星の澱みを受け止めてくれた時だろうか。
宗教戦争と称した決闘が盛り上がった夏、藍と共にこころの能楽を見に行った時だろうか。
地底に出かけて、その土産に藍からこの蓮の髪飾りをもらった時だろうか。
それとも、神子ら道教勢力の復活劇が落ち着いた後、今更のように友達になろうと言った時。自分が気づいていなかっただけで、もう藍のことを好きだったのだろうか。
考えれば考えるほど、わからなくなってくる。もしかしたらきっかけとなる重要な出来事はなく、藍と二人で出かけるのが当たり前になるうちに、自然と芽生えたのかもしれない。

「九品蓮台に入れてくれるのなら、何番目だって……」

星はぽつりとつぶやく。星に藍への望みがあるとするなら、藍にとって自分が少しでも特別であってほしい、それだけだ。



「ふーん、ふんふふふーん」

橙は鼻唄混じりに人里を歩いていた。
藍に頼まれてお使いに来ているのである。

「ちょっと安くしてもらっちゃった。藍様喜ぶかなぁ」

お目当ての品物を包んだ風呂敷包みを大事に抱えて、人里を駆け抜けてゆく。
秋の涼やかな風が橙の髪を心地よく撫でる。藍は春の方が好きだと言うが、橙は秋が好きだ。確かに春は陽気が温かくて心地いいが、空気が温かいよりも涼しい方が橙にとっては過ごしやすいのだ。それにしもべの猫達が盛りがついてなくて静かでいい。

「それにしても、藍様ったら、自分は変装しないで堂々と入ってくるのに、私には変装しろって変なの」

橙は特徴的な黒い猫耳を帽子の中に押し込め、二又の尻尾を外套で隠している。同じように妖怪である永遠亭の玉兎や烏天狗が人里で変装しているのは見かけたが、橙は藍の式神だ。藍が変装していないなら、自分も必要ないだろうにと橙は思う。

「ん、あれ……?」

人里を出たところで、鼻をひくひくさせる。橙の好きな生き物の、生臭いにおいが近くにある。
辺りを見回して、橙ははっと気づく。丸く大きな獣の耳に、細く長く伸びた尻尾。ペンデュラムをぶら下げロッドを手にした妖怪鼠は、寅丸星の使い魔、ナズーリンだ。
思わず溢れた唾を飲み込んで、橙は勢いよく地を蹴った。

「おーい、ナズーリーン!」
「なっ!?」

駆け寄ってくる橙に気づいたナズーリンは警戒している。それもそのはず、化猫の橙は鼠の天敵、しかも八雲藍のかわいがっている式神だ。関わってもろくなことにならない。
すぐさま踵を返して、素早く逃げ出した。

「あっ、ちょっと、逃げないでよー!」

小柄な鼠なだけあってか、ナズーリンはなかなかすばしっこい。なんの、と橙はスピードを上げる。こちとら式神憑きだ、並の猫とは違う。耳を研ぎ澄ませ、鼻を動かし、ナズーリンが橙を振り切る前に、橙がナズーリンに追いついた。

「つかまえた!」
「こら、離せ! 私はエサじゃないんだ!」
「違うよ、そりゃ美味しそうだけど……あっ、今のはナシナシ!」

つい口元から垂れたよだれをぬぐって、橙は勢いよく首を振って否定する。ナズーリンはどうにか押さえつけてくる橙の手から逃れようともがくも、力より話で説き伏せる方がいいかと判断し、抵抗をやめた。

「ちょっとお話ししようと思っただけよ。ナズーリンは人里に用事があるの? ……違うか。変装してないもんね」
「ご主人様に呼ばれて命蓮寺に行くところさ。それで? わざわざ私を捕まえたりして、君は何の用だい?」
「なんでって、ナズーリンは星さんの部下じゃない。私は藍様の式神。あっ、でも私たちが顔を合わせたことってなかったね?」

仲のいい主人のよしみで、と橙は思ったのだが、橙とナズーリンが一対一で会ったことはなかったと思い出す。
ナズーリンはため息をついて、

「あのねぇ、いくらご主人様同士が親しくても、猫と鼠が仲良くできるかい」
「大丈夫だよ、ナズーリンを食べちゃ駄目って藍様にきつく言われてるの。ナズーリンは星さんの大切な部下だから、傷つけたら星さんが悲しむからって」
「……そうかい。君の目はまだギラついてるけどね」
「はっ! ごめん、つい」

湧き上がる食欲を振り払うべく、橙は頭を切り替える。この子はエサじゃない。自分だってただの獣じゃない、策士の九尾と謳われる八雲藍の賢い式神だ。

「ほら、なんだっけ、ほどほどの懸想? っていうでしょ。分相応のお付き合いをしましょうってやつ。だから私はナズーリンと仲良くできると思うの」
「懸想って、君ねぇ」
「だって、藍様は星さんのこと好きだもの」

橙の明け透けな物言いに、ナズーリンは目を丸くする。橙は口にしてから、この喩えはなんか違ったなと気づく。橙のナズーリンに抱く感情は好意というか好奇心だ。

「あっ、でも私はナズーリンのこと、そういう意味で好きじゃない」

橙のぼやきを聞いているのかいないのか、ナズーリンは口元に手を当て一人ぶつぶつ呟いている。

「弘法にも筆の誤り……いや、灯台下暗しか? こんな子供みたいなのの方が聡いとはね」
「えっ? なにか?」
「いや、こっちの話さ」

ナズーリンはふっと呆れた眼差しを橙に向ける。

「あのな、私と君もそうだが、たとえば君は、聖と八雲紫が仲良くしているところを想像できるか?」
「えっ、紫様とあのお坊さんが?」

橙は紫と聖が二人で語らう様を想像してみて――あまりの薄気味悪さにぞっとした。
方や好々爺じみた偉大な僧侶。方や橙にとっては遠慮しがちな大妖怪。表面上だけにこやかな腹の探り合いになるんじゃなかろうか。聖はともかく紫の考えなど橙ごときにはちんぷんかんぷんで、幽々子や萃香が紫と親しい理由もよくわからないのだ。

「……無理」
「だろう?」
「だけど、私、星さんが好きだよ。私がへこんでた時、優しく励ましてくれたの。藍様も、星さんと一緒にいると嬉しそうなんだよ。だから二人に仲良くしていてほしいの」
「で、ご主人様の部下である私に媚を売っておこうと?」
「違うったら! ナズーリンって意地悪な言い方するのね」

橙は半ば本気で腹を立てている。猫としての本能が疼くのも本当だが、なにもナズーリンに声をかけたのは下心からではない。藍から時折聞くナズーリンの人物像は、皮肉屋ながら心の底では主人である星を大切に思っている、根は優しい子だ。だからナズーリンと仲良くできるかもと考えたものの、この棘のある物言いはかんに障る。ナズーリンは小柄な橙よりさらに小さな体ながら、天敵たる橙に少しも臆することなく、鼻を鳴らして言った。

「言っておくが、いくら君がご主人様思いだとしても、お二人の間柄に無闇に首を突っ込むのは感心しないな。馬に蹴られるぞ」
「しないよ! 私より藍様の方が経験豊富なのは知ってるもの」
「経験豊富であの有様なのか……」
「うん? だから、さっきからなんの話よ?」
「ま、それはさておき、あの二人がどうなるかなんて当人次第さ。私達がどうこうできることでもない」
「……そりゃあ、そうかもしれないけど」
「だけど、まあ、なんだ。……私も、ご主人様が八雲藍といると、普段より明るいのは知っている」

橙が目を瞬く。ナズーリンはそっぽを向いているが、何やら気恥ずかしそうに耳をぴくぴく動かしている。
口ではそっけないことを言いつつも、ナズーリンは藍を少しは好意的に見てくれているようだ。それに気づいた橙はぱっと顔を綻ばせる。

「やっぱりナズーリンいい人なんだね!」
「君は結構単純だな」
「大丈夫、藍様は星さんを悪いようにはしないわ」
「そこは心配しちゃいない。……ところで、風呂敷包みをしょって君はどこへ行くところだったんだい?」
「あっ! 藍様のお使い!」

そこで橙はようやくお使いの途中だったことを思い出し、同時にしまった、と思う。ナズーリンは聡いし、鼠は鼻がきく。この包みの中身をナズーリンに知られたら、そのまま星に筒抜けになってしまうかもしれない。なにせこれはお月見のためのとっておきなのだ。
冷や汗を流す橙に対し、ナズーリンは苦笑いする。

「安心したまえ。私が今日ここで君に会ったことも、君が何をしていたのかも、ご主人様に伝えるつもりはないよ」
「あっ! ありがとう、ナズーリン!」

嬉しくなってナズーリンの手を握ると、ナズーリンは露骨に迷惑そうな顔をした。
さて、用事を終えたのだから、橙は急いで藍の元へ戻らなければならない。きちんと藍にこの品を届けるまでがお使いだ。ぱっとナズーリンの手を離して大きく手を振ると、ナズーリンは忙しいやつだなと笑った。

「じゃーねー、ナズーリン! 今度猫の里に遊びにおいでよー!」
「誰が行くか!!」

ナズーリンの怒声を背中に浴びて、橙は足取りも軽く駆け抜けてゆく。遊びの誘いは断られてしまったが、ナズーリンが無縁塚付近に住んでいるのは知っている。橙が訪ねたらどんな顔をするだろうか。すぐさまナズーリンのしかめっつらが浮かんで、ちょっと笑った。



十三夜の月が浮かぶ空は雲一つなく、月の光が明々と命蓮寺の境内を照らしている。
約束の時刻、星は命蓮寺の前で藍の訪れを待っていた。服装はいつもと同じ毘沙門天を模したもので、しかし宝塔は手元にない。普段肌身離さず持っているものだが、また失くしては困るので出かける際は場合に応じて持ち出さないこともある。宝塔の光が月明かりを邪魔するのを慮って、自室に置いてきたのだ。
そこへ、空から金の尾を羽衣のようにたなびかせ、まるで月の使者のごとく――といえば本物のかぐや姫や、月の世界を厭う幻想郷の住人に申し訳ないが、藍がいつもの藍色の装束で星の元へ降り立った。

「こんばんは。お待たせ。晴れてくれてよかったよ」
「こんばんは。十三夜は晴れることが多いのですから」

星に向かって微笑む藍の面が、月の光に照らされていつもより白く見える。藍はさりげなく後ろの寺の様子を確認している。誰か出てこないか気にしているのだろう。
こんな良い月の夜に、二人だけ。星は胸の高鳴りを抑えて、ずっと気にかかっていたことを藍に問いかけた。

「あの、今日はどこへ行くんですか? さすがに出かけることは伝えなければならなくて、でも行き先を知らないから、ただ出かけるとしか言ってないんですが」
「ああ、それはね」

藍はにこりと笑って、星の手を取った。やはり心臓が跳ねたが、なんでこんな当たり前のように手を取るのか、もう聞かないことにしている。前に尋ねた時、藍にもわかっていないようでまともな答えは返ってこなかった。

「着いてからのお楽しみってことで。……不安?」
「いえ」

藍となら、どこへでも。それだけは恥ずかしくて口に出せなかった。
藍が地を蹴るのに合わせて、星も空へ飛び立った。秋風が頬に当たって体温を奪ってゆく。朽葉が舞い、空気はひんやりと冷たく、夜が更けるごとに活発さを増す妖怪達とすれ違いながら、星は藍に手を引かれて秋の空を飛んでゆく。
人里を超え、妖怪の山とは反対側、南へと向かう。眼下に迷いの竹林の一帯がちらと見える。てっきり山のどこかかと思っていた星は、高台ではなく平地で月見をするのだろうかと考える。迷いの竹林を抜ければ蓬莱人の暮らす永遠亭だが、まさか藍が永遠亭に連れてゆくはずもなし。
やがて、星の視界に、枯れ落ちた向日葵が無数に広がる平原が見えてきた。

「藍、ここって、もしかして」
「そう、太陽の畑だよ。向日葵の花はもう見頃を過ぎてしまったけどね」

人間の大人の背丈にも伸びる向日葵は、黄色い鮮やかな花弁をすべて落とし、太陽を見失って下を向いている。中央に残った筒状花はいずれ種になり、来年になればまた新たな花を咲かせるだろう。
枯れた花しか残っていないせいか、あたりには妖怪も妖精もいない。平たい草原の中の小高い丘の上に、藍は星を連れて降り立った。

「山はどこも紅葉やすすきで月見の客が多いだろうからね。ここは夏には一面の鮮やかな向日葵で埋め尽くされるし、夜になればプリズムリバー三姉妹のコンサートも開かれるけど、季節外れだから今は誰もいない」

確かに藍の言う通り、広大な畑は不気味なほど静かだ。月ばかりが煌々と明るい光を放っている。開けて見晴らしのいいわりには寂しすぎて、イタズラ好きの妖精達が騒ぐにも物足りないのだろう。ここなら誰も来ないかもしれない。

「その代わり、季節の花もないからちょっと味気ないかもしれないけど。こんなに月がよく見えるなら悪くないだろう?」
「ええ。いい場所だと思います。ですが、どうしてわざわざこんな場所を選んだんですか?」
「ああ、それはね」

星はかねてより気にかかっていた疑問を投げかける。二人きりになりたいと、なるべく他言しないでくれとまで頼んだ理由は何なのか。逸る鼓動を抑えて、藍の返事を待っていた。
藍は懐から何やら風呂敷包みを取り出す。包みを開くと、ふわりと芳醇な匂いが漂う。星ははっと気づく。この嗅ぎ慣れた、いや、本来なら寺の者が嗅いでいいものではないのだが、正体は一つしかない。
果たして、藍は真っ白な陶磁器の徳利を取り出してみせた。

「ら、藍。その徳利の中身は、まさか」
「うん。――お酒だよ」

微笑みと共に告げられた答えに、星は絶句する。

「一度くらい、星と一緒にお酒を呑みたくてさ。橙に頼んで買ってきてもらったんだ。今夜は雲もなくて、いい月だ。月見酒と洒落込もうじゃないか」

星は開いた口が塞がらず、返事もできない。藍の手の中の白物を見て、ようやく星は藍の目論見を理解したのである。
一緒に酒が呑みたい。そう言ってくれるのは、ありがたいのだけど。
星はいみじくも命蓮寺の御本尊だ。つまり、藍は酒を呑む姿を誰かに見られないようにという配慮で、口止めのようなことをしたり、わざわざ二人きりでなんて手紙に書いたりしたのだ。
――いったい、星が藍の手紙を読んでから、今日に至るまで悶々と悩んだのは何だったんだ。何の企てがあって藍はこんな手紙を、と本気で考えた時間を返してほしい。
むらむらと込み上げてくる感情は怒りか、はたまた失望か。星の表情を見て、藍は焦ったように顔を引き攣らせる。

「えーと、星、やっぱり駄目かな?」
「藍。貴方には色々と言いたいことがありますが、一つだけ!」

珍しく星は声を荒げた。仏弟子たる者、怒り心頭でもそのままぶつけてはならない。あくまで冷静に、しかし力を込めて、財宝目当ての参拝客を喝破する時のように声を張り上げた。

「仏に帰依する者は、酒を呑んではいけないのです!」
「貴方は酔うと大虎になるって聞いたけど」

間髪入れずに返ってきた答えに、星は頭を抱える。誰が言ったか、人の口に戸は立てられないと。命蓮寺の僧侶が、聖をのぞいて、時折酒に口をつけているのはとうに幻想郷では周知の事実となっているらしい。
うなだれる星を藍はたしなめる。

「まあ落ち着くんだ。お酒とは言ったけど、見方を変えれば智慧の湧く般若湯でね」
「そんな使い古された口実に騙されませんよ」
「もし聖に叱られるなら私のせいにすればいい」
「できませんよ。誰に差し出されたものであっても、無理矢理呑まされたのでもなければ、口をつけたら私の責任なのです」
「じゃあ、呑みたくない?」

藍の囁きを突っぱねながら、星の心はぐらぐら揺れている。自らの立場を顧みて怒りはしたものの、酒の誘惑は非常に魅力的で抗いがたいものがある。
幻想郷はお酒がコミュニケーションの主流であるが、命蓮寺は戒律ゆえに表立って呑みの場である宴会に参加することはできない。しかし酒好きのさがを抑えられない者達がこっそり酒を口にして、そのたびに一人律儀に戒律を守り続ける聖からお叱りを受けている。
星も御多分に洩れず、幻想郷に来る前から大の酒好きであった。心地よい酩酊、蕩けるような口当たり、蠱惑的な香り、肴をつまんで語らう宴会の賑やかさ。果たして酒が嫌いな妖怪がいるだろうか。不飲酒戒などもう何度か破ってるのだから、今更少し呑むくらい。いや、何度も過ちを繰り返しているからこそ、ここはぐっと耐えて拒むべきではないのか。いやいや、けれどせっかく藍が用意してくれた酒を断るのももったいない……。
天使と悪魔の囁きに揺らぐ星を前に、藍はふと顔つきを変えた。

「星がお酒が苦手なら、私はこんな誘いなんかせず遠慮したさ。でも私は貴方が飲兵衛なのを知ってる。貴方の仲間達も、貴方が酒好きだって知ってるんだろう? だけど私は星がお酒を呑むところを見たことがない。……私だけ、星が呑む姿を知らないなんて不公平じゃないか」
「……藍」

初めは滔々と言い聞かせるような口調だったのに、終いには視線を逸らしてぼそりと小声でつぶやいた。酒を嗜む大人びた趣向のくせに、まるで子供のような言い分だ。別に星が酒を呑む姿を知らないのは藍に限らない気がするが。
いつも澄ました顔つきの藍の、拗ねた口ぶりが、星にはなんだか可愛く見えた。そして、そこまで望まれたら応えぬわけには……なんてのは口実にすぎず、星自身、藍と一緒に酒を呑みたいと思ったのも本音なのだ。秋風の中、紅葉や花薄はあらねど曇りなき十三夜の月は、満月に至らぬゆえの欠けた美しさがある。心を知る者と共に月を愛で、酒を酌み交わす。こんなにも興が乗ることがあるだろうか。
星は一つ、咳払いをする。

「まあ、せっかくの心づくしですし。けど、今回限りですからね」
「本当に?」

藍が照る月にも負けぬほどの笑顔を見せるものだから、細かいことはもういいじゃないと思ってしまう。これが惚れた弱みだろうか、と自嘲した。
藍から猪口を受け取った星は、あっけなく仏弟子の看板を下ろした。そして心の中で聖に手を合わせる。お叱りは甘んじて受けますし、目をつぶってくださいなんて言わないので、どうかご容赦を。
星の手にした猪口に、藍がまず酒を注いでゆく。どうせなら星も藍へ、と申し出れば、藍は嬉しそうに顔を綻ばせた。
星が酒を注いだ猪口を手にして、藍は星の手元へ近づける。意を察して、星はカン、と藍の猪口に己のそれを合わせ、乾杯をした。

「くどいようですが、本当に今回だけですからね」
「わかってるさ」

猪口には濁りのない透き通った酒が揺れている。覚悟を決めて、星は猪口に口をつけた。一口で飲み干せるような量だが、そんなもったいない味わい方はしない。ほんの少し、嗜むように呑むと、喉越しがよく、口当たりもさっぱりとしている。匂いも酒臭さがなく、香り豊かなものだ。星はそれだけで、この酒が高級かつ上等なものであると見抜いた。

「こんな機会、滅多にないと思って、いいお酒を用意したんだよ」
「……ええ。本当に、良いものです」

星は再び口をつけ、今度は先程よりじっくり味わいながら呑んだ。
透き通る液体が五臓六腑に染み渡る。喉の表面を少し焼くような感覚すら心地よい。酒は百薬の長ともいうが、本当に少量で気分が良くなるものだ。隣で藍も静かに酒を味わっている。
星は猪口を片手に月を見上げる。古来より、旧暦長月の十三夜の月は、十五夜に引けを取らぬ秋の名月として愛でられてきた。中秋の名月が季節柄、雨月になりやすいのに対し、こちらは晴れることの方が多い。月の顔はこんなにも美しいというのに――その裏に類なき技術を持つ高慢な民が暮らしているとは、想像もつかない。

「あの月に、都があるんだよ。かつての月の民が、幻想郷にも暮らしてる」

藍がぽつりと言った。幻想郷の月の民については、星も聞き及んでいる。永遠亭の蓬莱人に、最近地上に染まった玉兎。地上に舞い降りたイーグルラヴィ。
外の世界の人間はしばしば月へ降り立とうと試みているそうだが、それでも月の都を見つけた者はいない。結界に閉ざされた幻想郷のように、月の都もまた、外の世界の人間には辿り着けないようになっているのだ。

「まあ、都なんてここからじゃ見えないけどね」
「ついこの間、月の都が、幻想郷に遷都しかけたんですよね」
「ああ。だけどそんなことはさせないよ。他でもない紫様がお許しになるものか」

藍の目が鋭く細められ、まるで仇を見るように月を見つめている。結局、遷都計画はおじゃんになったものの、未だ都市伝説異変は完全解決に至らない。聖は引き続き調査に当たっており、星も気を抜かないようにしていた。
月の民は幻想郷とは比べ物にならないほどの高度な技術を持つと聞く。ゆえにプライドが非常に高く、幻想郷の住民からは煙たがれているとも。いったいそのような優秀かつ高貴な民の築く都とは、どのようなものだろうか。

「月はどんな世界なんでしょう」
「……海があるよ」
「海、ですか。外の世界にいた頃に見たことがありますが、もう何百年も見ていませんね」
「見たいと言われても、さすがに貴方をあの海には連れて行けないな。私だけじゃ無理だから」

苦笑する藍を見て思い浮かんだのは、紫の胡散臭い笑みだ。ありとあらゆる境界を操るという紫の能力と藍以上の卓越した頭脳は、ひょっとしたら月へ行く道をも導き出すのではないだろうか。無論、星はそんな無理難題をふっかけるつもりはない。藍とならともかく、紫が一緒ではあまりに緊張して居心地が悪い。

「そんな無茶を頼みませんよ。月の海とは興味深いですが、実際にこの目で確かめるよりも、想像を膨らませたり、遠くから愛でたりする方がよいものもあるでしょう」
「うん。月について知るべきなのは、ただ、あの光が私達の力を強め、そして狂わせるということだ」

月見の文化が根付いているが、古より月の顔を見るのは忌むべきことだと伝えられていた。太古の賢人は月、特に満月の光が妖怪に力をもたらし、ひいては人間にも影響を及ぼすと知っていたのだろう。あと二日で月は満ち、十五夜に至る。
星は体の奥の何かが疼いた気がして、月から目を逸らし胸を押さえる。藍もまた、星の顔を見て苦笑した。

「あの光を私は長い時間、直視できない。紫様ほどの妖怪となれば平気でいられるのにね」
「私も、満月の夜は少し気分が昂ります」
「人狼のように獣になってしまうの?」
「いいえ、抑えてますから」

星の中に眠る虎の野性は、聖によって鎮められ、ずいぶん大人しくなったが、消えてなくなったわけではない。星が本当の意味で虎に戻ることはないだろうが、過去の所業を、己の本能を忘れないよう、常に極めた法力をもってして戒め続けている。

「私達は共に野性を抑えて、理性で生きている。妖怪なのにね」

星は目を瞬く。思えば、藍が妖獣らしく生き物の血肉を貪るところなど見たことがない。影では喰らうのかもしれないが、きっと簡単には見せないのだろう。そもそも藍の凛とした佇まいから、獣くささはほとんど感じない。それは藍がいついかなる時も、紫の式神であることを第一に考えているからだろうか。
藍は式神が、星は法力が、各々の野性を封じている。妖怪の在り方としては疑問視されそうだが、二人はそれで困りはしないのだし、何よりそれらをもたらした存在への敬愛が、二人を繋いでいる。

「だけど、そのおかげでこうして語り合えるのでしょう?」

酒が回ってきたのか、体はほんのり温かい。秋風の冷たさがさほど気にならない。高揚した気分のまま告げると、藍ははにかむように笑った。月よりも濃く深い金色の瞳が蕩ける。

「綺麗だね」

どきりとした。藍の視線は星の顔から月へ向かっていて、『月が』と言いたいのだとワンテンポ遅れて気づく。
どうしてこうも意識してしまうのか。藍の何気ない一言に振り回されて、都合のいい勘違いをしてしまいそうになる。『月が綺麗ですね』なんて文句を期待したわけでもあるまいし。星は何気ない風を取り繕って、「ええ」と答えた。

「それに、空は雲ひとつなくて、深い藍色に染まっています。月の光がいっそう映えますね」

日が沈み切った夜の色は、藍の色だ。藍は自らの名を虹の一つと言っていたが、黄昏時の紫色の、後の色でもあるのではないだろうか。
藍は空になった猪口へ、新たに酒を注いでゆく。星の猪口にも徳利を傾けるので、星は素直に受け入れた。量には注意すべきだが、少しくらいならいいだろう。

「ねえ、青は藍より出でて藍より青し、ってわかる?」

酒を口にしたところで、藍が唐突に言った。無論、それくらいの意味はわかる。弟子が師を超えることだ。
藍は透明な酒の水面に映る月を見つめて、訥々と話した。

「私は時々考えるんだ。私の名前……ただ紫様の側にいろ、というだけではないのかもしれない。もしかしたら、紫様は“八雲藍”という式神を超えてほしいんだろうか、って」

星は以前、藍が紫に宿題を出されたと話していたのを思い出す。八雲藍の名前の意味を答えろ、と。あれから二年ほど経ったが、藍は未だに答えを探して悩んでいるようだ。
藍は肩をすくめる。

「無茶なのにね。紫様はただ命令に従っていればいいと言ったり、かと思えば命令なされたこと以上の答えを求めてきたり。私が式神だっていうのは、紫様が一番よく知っているはずなのに。私はどうしていいやらさっぱりだ」
「まだ、見つからないんですね」
「うん。納得のいく答えは見つからない」
「でも、藍ならたどり着けますよ。もしなかなか見つけられなかったとしても、答えに手を伸ばす過程が大切だと思うんです」

星が言ったことは気休めではなかった。出藍の誉れ――紫が何を考えているかなど、星にだって皆目見当がつかないが、紫が藍をただ主人に忠実なだけのしもべにせず、自分の頭で考えさせようとするのは、期待があるからではないのか。紫の作った式神を超えてほしいのでは、という藍の推測も、あながち的外れではないのではないか。
藍は目を丸くして星の顔を見つめていたが、やがて、頬をうっすら赤く染めて笑った。月の光が射して、いつもより藍の肌が白く輝くように見えた。

「ありがとう」

眩しいほどの笑顔を向けられて、星はどぎまぎする。星が誤魔化すように酒を呑んでも、藍はじっと星の顔を見つめ続けていた。穴が空きそうでいたたまれなくなって顔を上げると、藍の細められた目とかち合った。

「ら、藍?」
「いや、頬が上気してかわいいなと」
「なっ、何を言ってるんですか」
「そうだね。月と貴方が眩しいから、とか?」
「藍……もしかして、酔ってます?」
「貴方の名前は“星”じゃないか。うん。綺麗だよ、貴方も」
「酔ってますね! 酔っ払いの戯言なんて聞きませんよ!」

かっと顔が火照る。星はやけになって一気に猪口の中身を呷った。喉が焼けるように熱い。藍は暢気にからからと笑っている。
今日は、いや、約束をしてからずっと、星は藍に振り回されっぱなしだ。星にとってはほとんど面識のない紫より、目の前の藍が考えることの方が謎だ。こんな口説き文句じみた言葉を言う人だったろうか。酒にかこつけてからかっているのなら相当たちが悪い。

(私ばっかり、藍を意識しているみたい……)

藍は顔こそほんのり赤くなっているものの、悠然と酒を嗜み続けている。それなりに強いのだろう。星はなんだか悔しくてたまらない。藍はいつも澄ましているのに、藍の一言で一喜一憂する自分が馬鹿みたいではないか。
ぐらぐらと、猪口を持つ手が揺れる。藍から徳利を受け取って新たに注ぎ足せば、水面に映る月も歪む。酔いが回っているのに気づきつつも、熱に浮かされたような気分で、星はまた酒を口にした。



「そもそもですよ、どうして仏教ではお酒を禁止するのかという話です。幻想郷ではみんな暢気に酒を呑んでいる。郷に入っては郷に従えとはどこに行ったのでしょう。お坊さんじゃなくたってお酒で身を持ち崩す者なんて山ほどいますよ!」
「うん、まあ、貴方の言うことももっともだ」

それから四半刻と経たないうちに、星はすっかり出来上がっていた。据わった金の目はぎらぎらと光を湛え、ぼやけた視界に藍を捉えている。さすがの藍も、首元まで赤くなり口数が多くなり始めた星を見て焦っているようだ。徳利が二つ空いても、星は呑むのをやめない。

「えっと、星、酔ってる?」
「酔ってませんよ。ちゃんと藍の尻尾も九つに見えます」
「しかしだいぶ鬱憤が溜まってるみたいだし、先ほどから妙に言葉が荒っぽく……ああ、確かに大虎だよ」
「そうですよ。私は虎です。月に吠える虎です」

妙に気が大きくなっているのは、珍しく藍が星に対して狼狽えているからだろうか。元を考えれば虎の方が狐より強いのだが、残念ながら星と藍では関係が真逆である。ゆえに藍が慌てているのはなんだか愉快だった。

「肉だって酒だって好きですよ。肉はもう何百年も口にしてませんが」
「え? それは意外だ」
「忘れたのですか? 私は聖の弟子で毘沙門天の代理です。酒はまあ、呑んでしまいましたけど、仏弟子たるもの肉を断つくらい当然でしょう」
「それじゃあ、仏教で飲酒を禁ずる理由を、仏に帰依する貴方が知らないわけがない」
「仏教では心を惑わせるものを禁ずるのです。悟りに近づけませんから」

星は寺の客に説法をするような気持ちで藍に滔々と語りかけた。

「殺生はいけません。命を奪うのは最も重い罪です。盗んではいけません。当人にとって大事なものであれどうでもいいものであれ、人様の物に許可なく手を出してはいけないのです。淫らな行為に耽ってはいけません。言うまでもありません、御仏に仕え精進する身なのですから。嘘をついてはいけません。人を惑わす言葉は己をも惑わせてしまいます」
「それじゃあ、不飲酒戒は?」
「酒は呑んだ者の気を狂わせ、正気を失わせるのです。蓋し非常に危ういことです。あの月と同じですよ、お酒とは満月の光と似たようなものでしょう? けれど禁酒を守るのは、満月の夜に部屋に閉じこもるのとはわけが違います。お酒はこの幻想郷のどこにでもありますから、一月に一度の満月とは比べ物になりません」
「まあ、人間も妖怪もみんなお酒好きだからね」

藍は真面目な顔をして考え込んでいる。星は酔いが回って今しがた口にしたことの半分も覚えているか危ういのに、藍は説得力のない呑んだくれの話に律儀に耳を傾けている。

「しかしお酒が月か。言われてみれば、みな酒の魔力に抗えない。……安易に呑みに誘ってすまないね」
「謝るくらいなら最初から持ってこないでくださいよ」

星が口を尖らせると、藍は返す言葉もないのか黙りこくる。別に呑みに誘った藍を責めるつもりはない。誘惑に負けて呑むと決めたのは星だ。けれど、藍の思わせぶりな手紙についてはずっと腹に据えかねている。

「私は藍に振り回されっぱなしです」
「……」
「そもそも藍がいけないんですよ」
「う、うん」

うろたえる藍に、星はここぞとばかりに不満をぶちまける。

「夜に二人きりで、誰も来ないところがいいなんて言うから。私、あの手紙を受け取った時、いったいどういう意味だろうと本気で悩みましたよ」
「それは……」
「お酒ですよね。わかってます。どうせ後でバレてしまうのに、藍は変なところを気遣いますね」
「それもあるけどね。貴方の周りには、いつもたくさんの人がいるだろう。尊敬する聖がいて、優秀な部下がいて、気の置けない仲間たちがいて、貴方のご利益にあやかりたい客が数多押し寄せる。そりゃあ、今までだって私と二人きりにならなかったわけでもないけど、たまには貴方を独り占めしてみたくなったんだ」

藍の率直な言葉は、酔っ払って鈍くなった頭に響いた。頬が赤いのは酒のせいだとわかっているのに、何か特別な意味を孕んでいるのではないかと、星の胸を騒がせる。

「……なんですか、それ」

星は腹を立てていた。怒りと憤りが洪水のように押し寄せる。普段なら簡単に鎮められる感情も、酒のせいでたがが外れてしまう。ずるいじゃないか。どうしてそこまで、何心もない言葉で、私の心を千々に乱れさせる!

「私はいつも藍の何気ない一言や、さりげない仕草に惑わされる。どうしてこんなに心を掻き乱されるの。これじゃあ、私、本当に藍のことが……。このままでは、私はまた一つ戒律を破ってしまう」

抑えきれない激情をぶつけると、藍の眉が動いた。星の言葉に動揺し、困惑しているらしかった。
普段なら心配するところだが、もっと困ればいいと星はほくそ笑んだ。星のためだけに悩めばいい。おそらく星は狂っている。月の狂気でなく、酒の魔力にあてられて。

「星、それは」
「藍にはわかるんですか?」

縋るように藍の手をつかむと、己の体温なのか藍の体温なのかもわからないが、焼けるように熱かった。藍の顔が紅葉のように真っ赤に染まっている。きっと酒が回ったんだろう。
心臓が早鐘を打つ。鼓動がうるさい。火照った顔が熱い。ぜんぶ、ぜんぶ、お酒のせいなんだ。どんなに己を律しても容易く理性を奪う酒のせいだ。

「教えてください。私の心を藍が解いてください」
「星……」
「私、何年経ってもまだまだ藍のことを知らないんです。もっと知りたい。それから、ほんの少しでも、私のことを――」

視界がぐらりと揺らぐ。目を閉じる直前に見た藍が、今までに見たことのない表情をしていたはずなのに――意識が途切れて、思い出せなかった。



星が目を覚ますと、いつのまにか東の空が白々と明け始めていた。日の光がうっすら開いた目にしみる。

「星、起きた?」

急に眩しくなくなった、と思えば、藍が真上から星の顔を覗き込んでいた。体の上に見慣れぬ膝掛けがかけられていたが、藍が用意したものだろうか。

「ら、ん……っい!」

起き上がろうと頭をもたげた瞬間、激しい頭痛が襲いかかった。体はだるいし、完全に二日酔いだ。

「大丈夫? かなり呑んでたからね。止めればよかった」
「いえ……」
「これ、気付け薬」

藍から薬湯の注がれた猪口を受け取り、星はガンガン痛む頭を押さえて昨夜の記憶を必死にたぐり寄せる。
藍の言う通り、相当酔っ払っていたはずだ、止められても聞かなかったに違いない。自分で誘いに乗ったとはいえ、くだを巻くわ態度はでかいわ、ひどい醜態を晒したものだ。仏に仕える身でありながらなんと無様な。酔った勢いで何か藍に八つ当たりじみたことを言ってしまった気がするが、詳しい内容は覚えていない。記憶がすっかり飛んでいると気づいて、星は血の気が引いた。
星は酔うと大虎よね、と過去に一輪に揶揄されたのを思い出す。まったく思い出せないが、自分は藍にひどいことをしていなかっただろうか?

「ら、藍、昨日の私は何かとんでもないことを言いませんでしたか!?」
「……いいや、大丈夫だ。酔いが回ったら寝てしまったから」

青ざめて縋りつく星に対して、藍は二日酔いなどまったくないようで、いつも通り涼しい顔をしている。星は昨夜の、赤い顔をした藍が脳裏に浮かんだ。あの時は酒に酔っていたせいかと思っていたが、本当にそれだけだったろうか。……二重の意味で頭が痛くて、とても思い出せそうにない。

「その、星」

俯いて自己嫌悪に陥っている星に、藍は恐る恐る声をかける。顔を上げると、どこか決まり悪そうに頬をかく藍の姿があった。

「……酔った貴方も、悪くなかったよ?」

確か、藍は星を誘った理由を、星が酒を呑む姿を知らないからだと言っていた。酒を振る舞った当人の気遣いだとわかる。わかるのだが、今の星には、とどめの一撃となる追い討ちでしかなかった。
瞬間湯沸かし器のように熱が昇って、即座に血の気が引いてゆく。赤くなったり青くなったり、神子のオカルトも真っ青の忙しさだ。

「帰ります! 今すぐ命蓮寺に帰って座禅でも滝行でも火渡りでも生入定でもなんでもやります!!」
「いや待て早まるな、そもそも妖怪は即身仏になれるのか?」

藍のすっとぼけた答えを素通りして、星はよろめきながら立ち上がった。動けばますます頭痛がひどくなるが、これ以上藍と一緒になんていられない。
送るよ、と言い出した藍に振り返ると、

「藍! 貴方とお酒を呑むのは、本当にこれっきりですからね!」

強めの口調で念を押して、星は藍を置き去りにして季節外れの太陽の畑を飛び立った。明るくなるといっそう枯れた向日葵の寂しさが一望できるが、そんなことにかまってはいられなかった。
頭は痛いし、動悸は治らない。誰が言ったか、酒は呑んでも呑まれるな。誠に至言であると思いながら、星は羞恥心を振り払うようにスピードを上げた。邪念を払うには修行に打ち込むしかない。物思いがなくなるまでは藍に会うまいと、星は硬く決め込んでいた。



「ええと、星、これはどういうことかしら?」
「何も言い訳はしません。思う存分お説教をしてください」
「いえ、私はまだ状況をよくわかっていないのですけれど……」
「掃除でも洗濯でも、雑用はなんでもやりますから!」
「うーん……困ったわ」

その後、命蓮寺に戻るなり、聖の元へ駆け込んで土下座してきた星に、さすがの聖も困惑していた。これにはぬえも一輪も、いったい星は何をやらかしたのだろうと顔を見合わせた。
さて、星の物思いの種となった藍はというと、星に取り残された後、すぐに帰ることもできずに太陽の畑に立ち尽くしていた。

「酔っぱらいの言うことを間に受けてはいけない……そうだよな? いや、でも」

こちらもまた物思いに悩まされている藍の体に、木枯らしを思わせる冷たい風が叩きつけられる。木々の落葉も進み、冬の訪れが近づいていた。

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