Coolier - 新生・東方創想話

星は藍色の空に輝く【下巻】

2021/10/19 21:42:46
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其の九 「青藍の彼方に沈む」



ぐるぐると、藍は回り続けている。
同じ道を何度も何度も踏んで、足跡で地面がすり減っても、そこから一歩も先へ動けずにいる。
式神の優秀な思考回路をもってしても、答えが出せない。
藍の心を占めているのは、ただ一人、紫だけのはずだったのに、もう一人の面影がいつまでも離れない。

「藍様?」

昨年の秋、星と二人で酒を酌み交わしてから、冬を迎え年が改まり、幻想郷には春が訪れていた。固い梅の蕾がほころび、芳香に誘われるように枝に鶯が集う。あと一月ほどで桜も咲くだろう。博麗神社に、白玉楼に――命蓮寺に。

「もー、藍様ってば!」

むくれた橙の呼びかけで、藍はやっと我に返った。
藍はいつものように、紫に代わって幻想郷の結界の見回りをしているところだった。今日は橙も同行させている。
昨年のオカルトボール騒動で、あろうことか結界が破壊されそうになった。紫には『すでに賢者が動いている』と言われ、実際には破壊されずに済んだものの、今後また結界に異変が生じないとも限らないので、より入念に点検をしている。橙は結界に干渉できないが、万が一のために仕事を見せようと思って呼び出したのだ。ただ見ているだけなのに飽きたのか、藍が別のことに頭を使っているのを察したのか、橙はぷりぷり怒っている。

「見回りならとっくに終わってますよ? ここは問題ないって何度も確かめたじゃないですか」
「ああ、ごめんよ」

口をへの字に曲げる橙を宥めて、次へ行こうか、と二人で飛び立った。
空を飛びながら、藍はまた考え事を始める。
――幻想郷に命蓮寺が建立されたのも、ちょうど今の季節と同じ、春の初めのことだった。あの年に命蓮寺で星と再会してから、藍と星の交流が始まった。
お互いに尊敬する相手がいて、部下に手を焼いていて。共通点を見つけてゆくたびに星を知って、一緒に幻想郷の各所へ出かけるごとに星との距離は縮まった。特に、星が一途に聖を慕う姿に深く共感を覚えた。
藍が紫に捧げる思いは、星が聖に向けるそれと似ていて、けれど藍だけのものだ。
紫はいつだって謎めいて、胡散臭くて、美しい。理解の及ばない、手の届かない、だからこそ尊いものだ。きっと紫のことは千年かけても理解できないだろう。決して思考の放棄ではなく、謎に包まれた姿が最も妖怪らしく、紫に従う者として誇らしく思うからだ。神聖なものとして、紫をずっと自らの上に置いておきたい。
紫こそが藍の一番大切なものだった。藍が藍である所以であり、特別な、唯一無二の存在だった。
だけど、星に対しては。初めはただの好奇心から気になって、知りたくて、手を伸ばしたくなった。しかし藍は同じように星が藍に手を伸ばしていることを知ってしまった。
星と一緒に酒を飲んだ十三夜、藍の中で何か明確な変化が訪れた。

『このままでは、私はまた一つ戒律を破ってしまう』
『教えてください。私の心を藍が解いてください』
『私、何年経ってもまだまだ藍のことを知らないんです。もっと知りたい。それから、ほんの少しでも、私のことを――』

藍の手をつかんだ星の手は、火がついたように熱かった。酒が回って赤らんだ頬を、潤んだ瞳を、熱っぽい視線を、藍は今でもはっきり覚えている。
――酔っ払いの言うことなど、真面目に聞くべきでない。ただの放言として打ち捨てるべきだ。そう言い聞かせても、いや、酔った時にこそ人の本性は現れるものではないか、あれが本当に空言だとどうして言い切れるのか、そんな思いが頭から離れない。
あの時、藍の胸は高鳴り、顔に熱が集まり、星に負けないくらい赤くなっていたと思う。決定的な一言はなくとも、星の言葉が意味するものくらい、藍にだってわかる。あの日からずっと、赤らんだ顔で藍を見つめる星の面影が寄り添っている。
藍にとっても、星は特別な存在だったが、星がそこまで自分のことを思ってくれているなんて、考えもしなかった。あの時、酔いから醒めた星が何も覚えていなかったから、藍も何も聞かなかったことにしてしまった。星も何もなかったと思っているだろう。
けれど、この気持ちの正体を、藍は知っている。一時の気の迷いだと時間を置いてみても冷める気配はなく、むしろより強く息づいて、藍の心に根を下ろしている。

「ねぇ、橙」

新たな場所で結界の点検をする傍ら、つまらなそうに地を蹴っている橙に問いかける。

「私のことは好きかい?」
「えっ? いきなりどうしたんですか?」
「何となく聞きたいだけだよ。好きか嫌いか、簡単な二択だろう?」
「で、でも、そんな面と向かって聞かれたら恥ずかしいじゃないですか!」

当たり前だが、橙は狼狽える。こんな出し抜けな問いかけ、気まぐれな橙だってやりはしない。どちらかといえば紫の手口だ。
橙はせわしなく二又の尻尾を動かしもじもじしている。照れからか頬を染め、藍から目線を逸らしては合わせていたが、藍が答えを待ち続けていると、

「もう!」

と、わざわざ藍の後ろに回り込んで抱きついてきた。尻尾に顔を埋められ、橙の頬ずりがくすぐったい。

「……大好きですよ。強くて賢くて、お姉さんみたいに優しくて、尻尾もあったかいから」
「そうか。私も橙が好きだよ。娘か妹みたいにかわいくて。もう少し素直に言うことを聞いてくれたら、嬉しいんだけどね」
「そうやって藍様はまた注文を増やす〜。いくらご自身が紫様に従順だからって」

くぐもったふて腐れた声もかわいい。思い通りにならないところすら愛おしくて、そんな藍の態度は紫にも呆れられるわけである。
橙に対する気持ちは純粋な庇護欲だ。手元で慈しみ、成長を見守りたいと願う親心に似ている。だからすんなりと“好き”だと言えてしまう。
これも、違う。星に抱く思いは庇護欲ではない。紫のように崇め奉るわけでもなく、橙のように可愛がるわけでもなく。わかっているのに、藍は心のどこかで、星に対する思いを認めたくないと頑なになっている。

「さて、終わったよ。ここで最後かな」
「ふあー、やっとですか。春はあったかくて眠くなるんですよね」

橙は大きなあくびをしている。見渡せば、雪の溶けた山には新緑が芽生え、花も開いていた。桜のつぼみはまだ小さく固いが、確かに春の訪れを感じさせる。

「そういえば、お花見、今年は誘わないんですか?」

橙は当たり前のような顔をして尋ねる。誰を、なんて確かめるまでもない。星のことだ。
昨年の春は、毎年のように訪れる冥界の花見に星を連れていった。春が好きだと言った星に、冥界の桜の美景を見せてやりたかったのだ。命蓮寺も桜の盛りで忙しい頃合いで少し無理を言ったものの、星は嬉しそうにしていた。
冥界の桜は本来なら死後の楽しみである。空は晴れ渡り、花びらが吹雪のように舞い散り、遠くから幽々子の趣向か、プリズムリバー三姉妹の音楽とはまた異なる雅楽の音色が聴こえてくる。うららかな陽気の中、文字通りこの世のものとも思えない優雅で幻想的な風景に、そろって我を忘れて見惚れた。

『素敵ですね』

うっとりと見つめて笑った星の顔が、桜に負けず劣らず美しく、印象に残った。連れてきてよかった、共に春爛漫の桜を愛でられてよかったと、心から思ったものだ。
昨年の甘美な思い出を想起すると、藍の口に苦味が走る。藍が最後に星と出かけたのは、あの秋の十三夜の月見が最後だ。

「星とはね……しばらく会ってないんだよ」
「え? どうしてですか?」
「ちょっとした、揉め事かな」
「えっ、大変、早く仲直りした方がいいですよ」
「そうだね」

本気で心配している橙の頭を撫でて、藍は二の足を踏む己の煮え切らなさに唇を噛む。
時は少し遡る。冬の中頃、藍は人里近くでナズーリンに偶然出会い、あいさつもそこそこに星の様子を尋ねた。

「おや、久しぶりだね」
「命蓮寺からの帰りかい。……その、星はどうしてるかな」

藍がぎこちなく問いかけると、ナズーリンは鼻を鳴らした。

「戒律を破った罰でこってりしごかれてたよ。まあ、自分から白状したぶん、いくらか温情はかけられたけどね。それに、酒に酔って貴方に醜態を晒してしまったと、落ち込んでらっしゃるようだった」
「……そうか」

藍は声を落とす。自らの浅慮で星を困らせてしまった。確かに酔った星の態度に困惑こそしたものの、藍の方から誘ったのだ、醜態なんて気にしていないのに。
俯く藍の顔を、ナズーリンは低い目線からじろりと見上げる。

「何か思い違いをしてないかい。まさか無理矢理呑ませたわけでもあるまいし、お酒を勧めたのが誰であれ、呑んだのはご主人様だよ。自業自得ってやつさ。ま、坊さんに酒を振る舞う貴方もどうかと思うけどね」
「ああ。貴方の言う通りだよ」
「しかし、手紙の一つもよこさないとはどういう了見かな? ご主人様の話では、忙しくても貴方からの手紙は式神を通してたびたび届いていたと聞いていたが」
「私もあの後では少し気まずかったんだ。いずれ、命蓮寺に直接顔を出すよ」

ナズーリンに言い訳したあの時には、まさか春になっても膠着状態が変わらずにいるとは思ってもいなかった。
藍は、あの晩秋の日から、一度も星へ手紙をよこしていない。人里へ降りても、ついでに命蓮寺に寄っていこうと足を伸ばしもしなかった。
確かに当初は星の方も、藍に会うのが気まずく思っていたのかもしれない。けれどほとぼりが冷めても星との交流を再開しようとせず、避けているのは藍の方だった。
あの日の星の言葉を忘れかねて、顔を合わせたら何と話せばいいのかわからなくて、つい足が遠のいている。時が流れても、藍は未だに気持ちの整理がつかず、ぐるぐると悩み続けているのだ。

「藍様」

俯きっぱなしの藍に、橙が励ますように声をかける。

「らしくないですよ。藍様、私は長々と悩むのが得意じゃないっておっしゃってたのに」

妖獣は、妖怪に比べて精神より肉体に重きを置くため、能天気な気質だ。くわえて、藍は式神である。最適解への最短ルートを導き出すゆえ、無駄な寄り道をしない。藍がこんなに長い時間悩むのは初めてだった。いや、もしかしたら、悩むという行為自体を避けていたのかもしれない。考え込めば必ず袋小路に陥ると知っていたから。

「思ってることはちゃんと言ったほうがすっきりしますよ!」

橙は最後に力強く言い残して、藍の元から駆けてゆく。藍の仕事が終わって解放されたため、マヨヒガに帰るか、道草をするか、気ままに過ごすのだろう。
藍は苦笑する。橙の言う通り、自分の考えていることをすべて素直に口に出せたら、どんなに楽だろう。藍だって、言葉選びこそ得意でないものの、思ったことをぐっと堪えるような真似はそうそうしない。けれど、この思いは簡単に口にすれば途端に後戻りできなくなってしまうように思われた。

『お前、星が好きなのか?』

いつか魔理沙にぶつけられた疑問がよみがえる。関わりの薄い第三者は気楽なものだ、いとも容易く当人にとって認めがたい思いを口にする。

「……違う」

一人残った藍は、はっきりとつぶやいた。言霊といって、口にした言葉には霊力が宿る。内に秘めたものも、口に出せば真になるというものだ。

「私と星は、ただの友達のはずなんだ。私には紫様だけなんだ」

式神は常に最適解を導き出す。藍は紫しか選ばない。藍を好きだと言った橙は、かわいくてそばに置いておきたいと思うが、橙には私は紫様が一番なんだよと言い聞かせられる。もし紫に橙を手放せ、始末せよと言われたら、きっと藍はどんなに惜しくても断腸の思いで橙を切り捨ててしまう。紫か橙か、二択を迫られれば、秤にかけるまでもなく答えは決まりきっている。
なら、星に抱く思いだって、きっと恋ではない。好きではない。ただの友達止まりのはずだ。
興味を持ったのは自分との共通点を感じたからで、仲良くなったのは親しみを覚えたからで、幻想郷のあちこちを一緒に出かけて回ったのは、尊敬する紫の愛する世界を星にも知ってほしかったからだ。
十三夜の星の言葉だって、聞かなかったことにすればいい。何も知らない、何も覚えていない。

「私が、誰かを好きになったりするものか……!」

藍の掠れた叫びは、春の野山に虚しく響き渡る。否定すればするほど、かえって肯定になるようだ。――もはや目を背けられないほどに、藍は星が好きだった。
心が鉛のように重く、苦しい。ただの友達でいられたらよかった。付き合いは気楽に、一定の距離を保っていられる。藍の天秤はいつでも傾きっぱなしなのだ、紫と誰かを秤にかけるような真似をしなくて済む。
けれど、恋はそうもいかない。恋愛は親愛や敬愛とは違う。友情と呼ぶには重く、湿っぽい感情が心を支配して、熱病に冒されたように言動が思い通りにいかなくなる。
もっと深く、独り占めして、誰も知らないところまで触れてみたい――そう考えるようになったら手の施しようがない。それでいて、藍にとっての一番は紫のまま断固として譲りたくないのだから、身勝手なものだ。恋に浮かれて紫を裏切るなど絶対にあり得ないが、逆にどんなに星が恋しくても、紫のためなら藍は星の手をあっさり離してしまう。

「星は……それでもいいと言うのかな」

藍は自嘲する。酔って本性を曝け出したが、星は大人しく控えめなたちだ。藍の譲れないものを理解してくれるかもしれない。だからこそ、藍は星の思いに応えられない。藍の一番は決まっていて、星の順番は決められない、いや、決めたくないのだ。
――遥か昔、藍は傾国と謳われた美女だった。大陸の各国で王に取り入り、恋の真似事をして弄んだ。
ある男はお前が一番だと見えすいた嘘をつく。またある男は一番ではないがと馬鹿正直に白状する。言うまでもなく女の嫉妬を買うこともあった。貴女がいるから一番になれないと。
藍は心の中でせせら嗤う。その程度の男に悩まされている女にも。本音を言う、なんて誠実ぶって女の矜持を傷つける男にも。いくつもの愛を抱えて、分けきれずに恨みを重ねてゆく。結局国を傾けたのは藍ではなく、積もり積もった人間の恨みなのだ。
惚れた腫れたなんてくだらないと早々に見切りをつけておいて、気づけば藍が恋に迷っている。密教に興味があると星に言ったのは嘘ではなかったのに。まさに法の師と尋ぬる道をしるべにて思はぬ山に踏み惑ふかな、といった趣だ。星を好きだと認めながら、紫を譲ろうとしない今の藍は、かつて藍自身が嘲笑した不誠実な男そのものではないか。

「ああ、だからか。だから私はずっと、気づかないふりをしていたかったんだ」

藍は呆然と空を仰ぎ見る。
九品蓮台に入れてもらえるなら、少しでも特別に思ってもらえるなら、それでもいい。星はそう言うだろうが、そんな妥協の産物、藍は認められない。
思い返せば、藍が星に惚れたきっかけなど、それらしいものはいくつも挙げられる。秋の夜に星が人知れず悩みを打ち明けてくれた時か。奉納神楽の行われる祭りに出かけた時か。冬の地底で蓮の髪飾りを贈ろうと思った時か。神子の復活騒ぎの後、星と改めて友達になった時か。初めて星と二人で出かけた夏の日か。命蓮寺で再会した春の日か。
そのどれもが正解な気がするが、どの時点でも、藍は自分の心を素直に認めようとしなかっただろう。どうして星がこんなに気にかかるのか、疑問に思うことはあれども、藍の式神は恋に辿り着く道を意図的に遮断し続けていた。それは決して紫の命令などではなく、知ってしまえば今のように袋小路に迷い込み、明確な答えを出すのを渋っていたからだ。気づかないふりを続けていれば、いずれ恋なんて幻のように消えてしまうと藍は思ったのだ。積み重ねた付き合いだけは、なかったことにできないのに。

「星……」

名前を口にすれば、また胸が詰まって苦しくなる。かつては星と会う日をいつしかと待ち焦がれていたのに、今は会いたくない。星が気がかりではあるものの、藍の気持ちの整理がつくまでは、半端な思いで星に会えない。
こんな思いは鎮めてしまえばいい。気の迷いだと振り切ってしまおう。そうして藍はまた、ぐるぐると回り出す。見えている答えから目を逸らすために、迂回路を探して思考の海に沈みゆく。



参道に積もり積もった落ち葉や塵芥を毎日かき分けたり、雪かきをしなくていいぶん、春の庭掃除は楽なものだ。桜の散る前なら、という但し書きがつくが。
砂埃を箒でかき分けて、響子はため息をつく。
命蓮寺の門を叩いて早数年。読経だの掃除だの、寺での生活は思った以上に地味で面倒だったが、寺の妖怪達が気さくなので、新参の響子もうまくやってゆけている。叱られはしたものの、ストレスが溜まればミスティアと組んで夜通しライブで鬱憤を晴らす手段もあった。

「……それでも、付き合いの長さってのは出てくるよねぇ」

つぼみのふくらんだ桜の木を見上げて、響子はぽつりとつぶやく。別に仲間はずれにされているわけではないが、距離や温度差を感じる時はある。主に千年前から聖と付き合いのあった一輪と雲山、星、ムラサの一派と、居候であるぬえとマミゾウのコンビ。たまに星に呼ばれてやってくるナズーリンもどちからといえば前者に入るだろう。どちらでもない響子は、しかし彼女達の親密さを倦むでもなく、第三者のような目線で寺の妖怪達を見つめている。

「言われてみれば、最近あの狐がお寺にちっとも寄り付かないのよね」

響子は時折通ってくる九尾の狐、八雲藍の姿を思い浮かべた。彼女は仏法に親しみ、かつ命蓮寺の本尊である星と個人的に親しくしていたので、時々寺に姿を見せたり、藍の操る式神をよこしたりする。
ところが、もう三月以上彼女や彼女の式神を見かけていない。秋頃に星が藍と酒を呑んだとかで咎められていたのは知っているので、おそらくその時に何か問題が起きたのではないか、と踏んでいるが、いかんせん部外者たる響子に詳細はわからない。

「やっぱりスキマ妖怪のせい? ……今更そんなわけないか。マミゾウさんは狐が上がってこなくてせいせいするって言うけど、星さんはそうもいかないからなあ」

星が元気をなくしている、とは一輪に言われるまで気づかなかった。だが、よくよく観察してみれば、なるほど星はあからさまに表に出さないが、藍が訪れないために気落ちしているようだ。
二人の問題に踏み込まない方がいい。理性的なナズーリンならそう言うだろうし、そうはいかないと心配性な一輪とムラサは言うだろう。星とは特別親しいわけではないものの、響子も気になってはいる。心配というよりは、あの狐が何を考えているのだろうという好奇心で。

「……ま、こんな時に頼れるのは、あの人しかいないよね!」

参道の掃き掃除を終えたらマミゾウの元へ行こう、と響子は決心する。狐に関わるのをマミゾウは嫌がるだろうが、星のためと言えば聞いてくれるだろう。狐嫌いといっても、藍のことはある程度認めている節があったし、なんだかんだ面倒見のいい親分なのだ。
風が強く吹き上げ、響子の髪や耳を靡かせる。今年の春一番かと響子は思った。



月は雲にまぎれて朧げに輝き、桜の花は今を盛りと花開いている。釈迦の入滅したと言われる如月の望月の頃を少し過ぎて、幻想郷の桜は満開を迎えた。

「今日はとことん呑むわよー!」

後ろから上機嫌な霊夢の声が聞こえてくる。博麗神社では恒例の宴が開かれ、藍は冬眠から目覚めた紫と共に花見の席に参加していた。神社にはさまざまな妖怪と人間が入り乱れて、宴が始まって一時間と経っていないのに、呑めや歌えやの大騒ぎだ。
紫についてきて参加したはいいものの、藍はいまいち賑やかな空気に混じれず、人気のない片隅で一人月を見上げていた。肝心の紫も目を離した隙にどこかへ消えていて、紫のことだ、白玉楼と神社を往復して桜を楽しむつもりなのかもしれない。

「……春は好きなんだけどね」

ろくに酒の減っていない盃を見つめて、藍はつぶやく。春と秋ならどちらが好きかという話題で、千年の時を経て聖や仲間達と再会できた春が好きだと、星は言った。藍は紫が冬眠から目覚める春が好きだと言った。
当然ながら、神社の宴に星の姿は見えない。さすがに隠れて参加するにも無理があるのだろう。命蓮寺の響子が夜雀と呑んでいるのを見かけたが、藍に近づいてくる様子もない。

「なんじゃ、せっかくの宴じゃというのに、場違いな素面がおるのう」

月の光を遮るように、藍の目の前にマミゾウが立った。見上げれば、マミゾウはいつものように眼鏡の奥の丸い目を細めてにやにや笑っている。

「……お前もいたのか」
「儂は坊主じゃないもんでな、酒も肉も好物ときておる」
「花より団子か。狸は風情を解さぬと見える」
「いやいや、そいつは月見花見と両方楽しめる得な季節に、空気も読まず白けとるやつのことを指すのではないか?」

マミゾウは藍の盃を指差し、声を立てて笑う。相変わらず仕草がいちいち大げさだ。マミゾウは狸として狐である藍をライバル視しているらしく、事あるごとにちょっかいをかけてくる。おちょくられているのはわかっているが、本気でマミゾウの相手をする気力もなく、藍はため息をついた。

「時に、お前さん、ここんとこうちの寺にとんと姿を見せんのは、宗旨替えかな?」

藍の耳が微かに動く。マミゾウは藍の薄い反応をものともせず隣に腰を下ろす。わざわざ皆の輪から外れている藍に声をかけてきた理由はそれか。マミゾウはそれなりに呑んでいるのか、近づくと酒臭い。

「うちの虎がどこかの誰かさんのせいで悩んでおる。酒の勢いで醜態を晒したのだと、見ていてそりゃあ気の毒になるほどにな」
「お前……」

さすがに藍は顔を上げてマミゾウの目を見つめた。マミゾウはいかにも慈悲深く、命蓮寺の同胞を心配しているかのように嘆息する。星が気落ちしているとは聞いていたが、まさか星からマミゾウに相談を持ちかけたのだろうか。そんな藍の憶測を見透かしたように、マミゾウは口をへの字に曲げる。

「今更言うまでもなく、儂は狐嫌いじゃ。そんな儂に星がお前さんに関わる悩みを打ち明けると思うか?」
「……」

藍は無言で盃を両手で強く握る。星は今頃一人で、藍が疎遠になった理由をあれこれ考え悩み、苦しい思いを抱えているのか。あるいは一輪やムラサに聞いてもらっているのか。
藍がただ、ほんの一行の手紙でも式神に預けてよこせば、少しは星を安堵させてやれるとわかっている。しかし藍は十三夜の出来事をきっかけに己の気持ちを自覚したせいか、星へ宛てた手紙を書こうとすると、筆が止まって何も書けなくなってしまうのだ。直筆の文字には、筆者の人となりや感情がつぶさに表れる。藍の機械的かつ均一な文字からも、星が藍の心の乱れを察してしまうかと思うと、どうしても手紙を出せなかった。命蓮寺に顔を出すなどもってのほかだ。
マミゾウは藍の隠している心を見透かすかのように、じっと藍の目を見つめてくる。ここで腹の探り合いなどやってなんの得になる。いや、マミゾウは藍を口でも言い負かせばそれで気分を良くするだろうし、元来の面倒見のよさゆえに、星のために純粋に働きかけているともとれる。

「それで? 親分肌のお前が見かねて来たと」
「はっきり言わせてもらう。お前さんに恋など向いておらん」

こればかりは藍も目を見開く。マミゾウにも筒抜けであるとは予想がついたが、実際にマミゾウの口から“恋”と出るとは意外だった。

「聞けば、お前さんはその昔、大陸で数多の王に取り入り酒池肉林の限りを尽くしたとか。そんなふしだらな輩に命蓮寺の御本尊を預けるわけにはいかんじゃろう」
「命蓮寺の御本尊、か。坊さんでもないお前がそこまで命蓮寺を思っていたとはね」

居候のマミゾウに命蓮寺の沽券などはどうでもいいことだろう。ふしだら呼ばわりされても、今更藍は腹を立てない。事実であったし、何より藍が恋に戸惑う所以は、大昔の“傾国の美姫”を騙っていた頃の出来事にある。古傷が抉られただけだ。マミゾウごときの言葉に少々ダメージを受けている自分に、藍は苦笑する。まさかこんなにも心が弱っていたとは。もしマミゾウにこてんぱんにやられたら、紫に何と言われるか。

「しかし、仮に星に僧侶だの毘沙門天の代理などと大層な肩書きがなくとも、狐の恋は不吉なもんじゃ。真の恋を知ったとて、狐の行方はうらみ葛の葉、木幡狐。いや、この場合は玉水の前かの?」

マミゾウは珍しく真剣な面持ちで藍を見つめていた。かと思えば、意地悪く目を細める。
マミゾウの挙げた狐は、いずれも人間に恋をし、正体を隠しそばへ参った者達だ。狐はつかの間の幸せを得るも、やがて避けられぬ別れが訪れ、悲恋に終わる物語。いわゆる異類婚の類だが、マミゾウはたとえ相手が妖怪でも変わらないと言いたいらしい。
藍は御伽話の恋する狐に想いを馳せる。別れが来ると知っていながら、それでも恋しい相手と結ばれて、あるいは側にいられて、彼女達は幸せだったのか? 藍の思い人は人間ではない。しかし、別れを避けて通れないのは人間も妖怪も同じことではないだろうか。仏教では確か、滅するべき八苦の一つ、愛別離苦といった。
黙って考え込む藍を見やって、マミゾウはまた笑う。

「これはこれは、海千山千の傾国の美姫が、おぼこな小娘のようじゃのう」
「傾国なんてのは大昔の話だ。つまり、お前は何か? 私に星から手を引けと言うのか?」
「藍。それ以外にお前さんは何と捉えるのかい?」

マミゾウは挑発的に口元をつり上げた。憎々しいその笑みを目にして、藍は――にやりと笑った。
マミゾウに言われるまでもなく、藍の腹はとうに決まっていたのだ。心は決まった、けれど踏ん切りがつかない。あと一歩踏み出すためのきっかけがつかめない。誰にでもあるためらいの中、皮肉にも藍をわざと怒らせようとするマミゾウの言葉があと一歩の後押しをした。

「感謝するよ、マミゾウ。お前はよくもこの私の背を蹴飛ばしてくれた。うだうだ悩んで身動きの取れない私に苛立って、わざとけしかけるような言い方をした。……そうだろう?」

藍がいつもの調子を取り戻したように強気に言えば、マミゾウも笑っている。藍の読みは当たっているようだ。

「いくら今の不甲斐ない私でも、まだ頭脳は生きていたんだ。ただ思考停止していたわけじゃない」
「思い上がるでないぞ。叩きのめす仇が弱くては話にならん、それだけのことじゃ」
「ああ、知っているさ。私も、憎い狸とはいえ、お前があの宗教戦争の祭りの夜にヒントをくれたのは感謝しているんだ。遅くなったが、礼の代わりに教えてやるよ」

藍はすっと立ち上がった。宴の中央を見やれば、やはり紫は当たり前のような顔をして居座っていた。霊夢に何がしかのちょっかいをかけ、霊夢がそれに腹を立てる。紫がこちらを見るそぶりはまったくないが、きっと藍とマミゾウのやりとりには気づいているだろう。
紫の元へ戻る前に、藍はマミゾウを振り返る。朧げな月明かりが、藍の曇りなき表情を照らした。

「紫(むらさき)のひともとゆえに。――私にはそれだけだよ」

藍の答えを聞いたマミゾウは、たちまち目を丸くして、口がだらしなく開きっぱなしになる。ああ、この答えはさすがのマミゾウにも意外だったか。
藍は悠然と宴の中央へ歩いてゆく。確かに藍はマミゾウに勝ったのだ。勝利の美酒にしてはあまりに苦く辛いが、一瞬でもマミゾウを出し抜いた。
夜風に煽られて、桜の花びらが舞い散り、神社の参道や土を淡い色で彩る。散華を踏みしめて、藍は暗い花道を歩いてゆく。藍はもうマミゾウを振り返らなかったし、マミゾウが引き止めることもなかった。
ぐるぐると、藍は回り続けていた。
最短距離を導き出す優秀な回路を酷使して、同じところを何度も何度も歩き続けて、何かがふつりと焼き切れた音がした。
――もう悩むのは終わりだ。
たった一つしか出せない答えを、いつまでも見て見ぬふりをして抱え続けるのがおかしいんだ。
宴の輪に加われば、すぐさま酔っ払った霊夢に捕まった。

「あー? 藍、あんた全然呑んでないんじゃないの? 紫に遠慮してるのか知らないけど、酒の席でなに気取っちゃってんのよ」
「ちょっと酔い覚ましに夜風に当たっていたんだ。まだ呑みたりないから、くれないか」
「はいはい、じゃんじゃん呑んじゃってー! 宴は何と言っても無礼講なんだから!」

赤ら顔の霊夢がはしゃいで惜しみなく酒を注いでくる。「霊夢、溢れるわよ」という紫の言葉も耳に入らないようだ。
藍は紫をちらと見たが、紫は何も言わずに酒を嗜んでいる。盃が空いたところで、すかさず藍がそばにあった瓶をつかんで酌をすれば、紫は「あら、ありがとう」とやっと顔を上げて微笑む。

「お酌もいいけど、貴方も呑まなきゃ浮いてしまうわよ」
「ええ、お気遣い、痛み入ります」
「あの狸にも酌をしたの?」
「あれは誰かが注がずとも直接徳利や酒瓶に口をつけるような輩ですよ」
「そう」

紫はそれ以上何も言わなかった。藍はそれからずっと紫のそばを離れずに宴会の中にいた。
――そんな藍の様子を遠くから見つめて、マミゾウは肩をすくめる。

「こりゃあお手上げじゃよ、響子」

マミゾウが後ろで耳をそばだてていた響子に声をかけると、響子はすかさず不満げな顔で飛んできた。響子と呑んでいたミスティアはすっかり出来上がっていて、ほかの妖怪に絡んでいる。

「ちょっと、マミゾウさん、どうしてあの人を遠ざけるようなこと言うんですか!」
「儂はちっと発破をかけてやったまでのこと。そもそもなんで儂に頼むかのう」
「だって私は八雲藍って狐のことよく知らないんだもの」
「命蓮寺では他力本願を是とするのかい?」

すかさず突っつけば、響子は普段のかしましさもどこかへ飛んで押し黙る。そんなに星が心配なら、自分で働きかければいい。元よりマミゾウは塩を送るつもりなどなく、狐の恋なんて実らないと挑発すれば藍が反発すると見込んでいた。誰が狸の言い分を素直に聞くか、それが狐の矜持だろう。相手にしないそぶりを見せながら、マミゾウがおちょくれば、すかさず言い返すのが藍だった。
マミゾウは眉をひそめて酒を啜る。紫のひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る。藍の引いた和歌は、つまり主人である紫がいるためにこの幻想郷は美しく見えると言いたいのだろう。
馬鹿馬鹿しい。式神はただの道具でないと否定した星の思いはどうなる。自らの意志で紫に従っていると言い切ったくせに、結局、あの狐は紫がいなければ何もできないのか。頭がいいくせに、妙なところでつまづいて、堂々巡りして、動けなくなっている。勝負を挑まれても相手にせず、自ら勝負を仕掛けもしない。もう少し遊び甲斐があると思ったのは、マミゾウの買い被りだったようだ。

「これだから狐は嫌いじゃ」
「ま、マミゾウさぁん……やっぱりあの二人、駄目になっちゃうのかな」
「知らん。それこそ神仏のみぞ知る、といったところじゃろう」

耳を垂れ下げる響子に鼻を鳴らすと、マミゾウは盃にまた酒を注ぎ足す。一応僧侶である響子はともかく、普段手を合わせもしない仏に祈るなんてマミゾウはしない。可能性があるとすれば定かならぬ仏でなく、現の仏弟子、星なのだが、もはやマミゾウの関与するところではなかった。



終わりかけの桜が散らばる参道は水玉模様に彩られている。命蓮寺の本堂からは、夜が更けてもなお読経の声が絶えず聴こえてくる。久しぶりに訪れた命蓮寺を上空から見下ろして、藍は変わりない様子に少し安堵した。
今夜訪れることを、星に知らせてはいない。他の妖怪達にもまだ気づかれていないはずだ。藍は今日、星に直接要件を告げて、すぐに帰るつもりでいた。星の自室がある棟はもう案内されなくとも覚えている。もし星の姿が見えなかったり、他の妖怪と一緒だったならまた改めて出直す。そう決めて、藍は慎重に気配を消して命蓮寺の境内に降り立った。
星の自室は薄ぼんやりとした明かりが灯っていた。中には気配が一つ、間違えようもない星のものだ。藍が音も立てずに格子へ歩み寄ると、向こう側で影が動いた。勢いよく格子が開いた瞬間、目を丸くした星が現れる。

「藍……!」
「星。久しぶりだね」

およそ四ヶ月ぶりに見る星は最後に会った秋の日と変わらず、けれどどこか気落ちしているようでもある。瞳を潤ませて見上げてくる星を見ていると、藍の胸が締め付けられる。
会いたかった、けれどやはり会いたくなかった。
縋りついて部屋の中へ招き入れようとする星に、そのまま静かに、と制する。他の誰かに近寄られたくなかった。

「藍、私」

星は必死に言い募る。藍は星のか細く掠れた声を黙って聞いていた。

「あの、忙しかっただけならいいんです。だけど、私がこの前のお月見の時に失態をしでかしたのなら、ごめんなさい。私、本当に自分が何を言ったのか覚えていなくて……それでまた私は藍を傷つけるようなことをしてしまったんですよね。いえ、そうでなければ、藍が黙って距離を置いたりなんてしませんものね」
「それは違うよ。別に怒って避けていたわけじゃない。星こそ、私が酒を勧めたせいで叱られたんだろう?」
「いいんです、それこそ私、気にしてません。確かに最初は気まずくて、顔を合わせづらいと思っていましたけど、こうも長引くと藍に会えない方がつらくなってしまって」

懐かしさすら覚える星の声を聞くたびに、目を合わせるたびに、藍の心は千々に乱れる。
藍は深く息を吸い込む。覚悟はもう決まっていた。星には面と向かって伝えなければならない。式神越しの手紙ではなく、藍の口から、藍の言葉で。

「星、初めに言っておくよ。これから私が言うことは、紫様の命令ではない。紫様の受け売りでもない。すべて嘘偽りのない、私の言葉なんだ」

星の目を真っ直ぐに見つめて、藍は淡々と宣言する。
星の顔に動揺の色が浮かぶ。これから告げる言葉を思うと、心が痛む。ごめん、だけど、もう終わるから。星の苦しみもきっとなくなるから。

「最近、ずっと避けていてごめんね。忙しくないわけじゃないけど、どうしても命蓮寺まで足が向かなくて。手紙を書こうとしても、一文字も書けずに筆が止まってしまって」

星の顔がたちまち暗くなってゆく。彼女の悪い予感を別の方向へ捻じ曲げるように、藍は話を続けた。

「あの秋の夜、貴方に嘘をついた。……酔った貴方が、私に言ったんだ。私はちゃんと覚えている。『藍の言動が私の心を掻き乱す。私の心を藍が解いてほしい。貴方のことをもっと知りたい』――と」

星は一瞬、何を言われたのか理解するのに遅れたように、目を見張る。次第に己の放った言葉の意味するところを察してか、星の頬が赤く染まってゆく。
こんな形で告白まがいの言葉を知るなんて、当の星すら考えもしなかっただろう。

「嬉しかったよ。私も同じ気持ちだったから」

藍は腕に添えられたままの星の手を、そっと振りほどく。ほんの少しだけ距離を縮めて、星の目を見つめたまま、藍は言い放った。

「私も、星が好きだから」

金の瞳が、大きく見開かれる。星の鮮やかな虹彩に映る藍の目は、苦痛に耐えるかのように歪んでいた。

「星のことを思うと、苦しくて、切なくて、体がばらばらになってしまいそうなんだ。……本当だよ。こんなに苦おしい思いは初めてだから」

言葉を紡ぐたびに、藍の四肢が一つ、また一つともがれてゆく錯覚を覚える。愛の告白のはずなのに、まるで血反吐を吐くようだ。

「貴方と会うのが楽しみだった。私ももっと貴方を知りたかった。……だけど、今は、貴方に会うのが苦しいんだ。同じことを何度も何度も考えて、おかしくなりそうで。私が私でなくなってしまいそうなんだ」

恋とはこんなにつらく、苦しいものなのか。魔理沙がきっと楽しく素敵なことに違いないと胸を膨らませていたように、相手を思うだけで気分が高揚し、心が弾むものではなかったのか。
藍は今まさに恋しい思いを告げているというのに、恐怖にかられている。このままでは胸が張り裂けて、四方八方に弾けて、藍は自分を見失ってしまう。

「……私の、」

星の体が傍目にもわかるほど震えていた。藍の一方的な告白で星も動揺し、困っている。身勝手な幕引きが星まで傷つけているのだと藍は痛感した。

「私の軽率な言葉が、藍を苦しめたんですか?」
「星のせいじゃないよ。いずれこうなるさだめだったんだ、私が気づくのが遅かっただけで。ずっと目を逸らしていたんだよ。……考えてみれば、私はどこまで行っても紫様の式神だ。私にとって、誰にも譲れない、一番大切なもの。星、私は前に言ったよね。大切なものは、いくつでも持てるんじゃないかって。だけど、私は紫様しか選べないから。……私にたくさんのものは持てないんだ」
「そ、んなこと」

藍は首を横に振る。星なら聖やナズーリンや命蓮寺の仲間達、いくらでも大切なものを離さず、大事に胸に抱えて生きてゆけるだろう。けれど藍はそうではない。どれだけ似ている点があっても、二人は別々の妖怪だった。
二人の断絶はいつかまた星を傷つける。これ以上、不誠実でいたくない。いや、そんなの詭弁だ。藍は自分が傷つきたくないだけだった。

「ごめん。もう少しだけ、一人にさせてほしい。どうにか、私の気持ちに整理をつけるから。答えが出るまでは、中途半端な気持ちで星に会えない」

藍は呆然と固まっている星へ最後に告げて、立ち上がる。勝手に距離を置いて、思いを告げて、また勝手に離れようとする。絶縁をはっきり言い渡せないのは藍の弱さだ。謝罪を口にして頭を下げたって許してもらえるとは思っていないが、藍にはそれ以外の答えが出せない。

「……藍!」

背を向けた藍に、星の悲痛な声が届く。振り向くと、星は泣きそうなくせに無理矢理笑おうとしているような、いびつな表情をしていた。

「これで、さよならじゃないですよね? ……また、会えますよね?」

藍は祈りにも似た星の言葉に不意をつかれる。自分から突き放しておいて、星が少しでも藍との別れを惜しいと思ってくれるのが嬉しいなんて、やはり藍の恋心は歪んでいる。

「……うん。また会おう」
「藍!」

藍はもう振り返らなかった。これ以上星のそばにいると、離れるのが本当に惜しくなってしまう。

「待って、これだけは言わせてください、私も、私も……」
「……ごめん。また、今度」

星の声を遮るように、藍は縁側の簀子を蹴って、一気に夜空へ高く飛んだ。



舞い散る桜の向こうに、藍の姿がどんどん遠ざかって小さくなってゆく。藍の背中がついてくるなと拒絶している気がして、星は追いかけることもできずに、拳を握りしめ立ち尽くしていた。

「……私も好きだって、どうして言わせてくれないの」

星は唇を噛み締める。
藍は嘘をついていなかった。初めに言った通り、藍の言葉はすべて藍の本心であった。好きだというのも、藍が苦しんでいるのも、しばらく会えないのも。

「やっぱり私のせいじゃないですか……あの夜に、私が余計なことを口走ったから」

もし星があの夜、藍の誘いを拒み通していたら、こんな風にはならなかったのだろうか。それとも藍の言う通り、いずれは藍が勘づいて星から離れていってしまっていたのか。流れ込んできた情報が多すぎて、星の思考もうまく働かない。
また会おうと藍は言った。嘘でないのなら、いずれ藍は前のように手紙をくれたり、会いにきてくれるかもしれない。けれど、もし藍が星への思いが煩わしくなって、これっきりで星との関係を断ち切りたいと思ってしまったら?
さまざまな思いが押し寄せて、星の心は乱れに乱れる。後悔ばかりが大きくなって、星の体を重くさせた。
風に吹かれて、桜の花びらが星の足元まで舞い込んでくる。花見にも行けぬまま、桜の時期は終わりに近づいていた。



帰り道、月のない夜空を藍は飛んでいた。思いを余すところなく伝えても、藍の心は晴れるどころか、重くなるばかりだった。

「失恋……ではないよな。私は土俵にすら上がっていないのだから」

苦い思いが込み上げて、藍は力なく笑う。恋は気の迷いだとも言う。時間が経てば、この思いも消えてなくなるのだろうか。あるいは、星が藍に愛想を尽かす方が先かもしれない。
そうなれば、藍は星と出会う前の生活に戻るだけだ。毎日、紫に与えられた役目を淡々とこなして、気まぐれな橙に手を焼いて、時折人里の豆腐屋で好物の油揚げを買って、暇つぶしに誰も証明できない無数の方程式を組み上げる。
……寂しくなんてない。紫が一番だと、紫さえいればいいのだと決めたのは自分なのだから。

「ああ、そろそろ紫様がお目覚めになる頃だ」

感傷的な気分に浸っている暇はない。もしかしたら、紫はもう起きているかもしれない。屋敷に帰って、家事をしなければ。
ひとまず先に連絡を入れておこうと、藍は式神を呼び出した。あらかじめ組まれた方程式によって、遠くにいる式神にも命令は伝わるようになっている。
ところが、しばしの間待ってもなんの反応もなく、誰も藍の元へ来ない。元から気ままな橙を除いても、比較的藍に従順な動物すら訪れる気配がなかった。

「なんだ、揃いも揃ってストライキか? 春闘か?」

このままでは、藍が紫の屋敷にたどり着く方が早いのではないか。命令を聞かない式神達に苛立ちを覚えたところで、藍の胸に嫌な予感がよぎった。
咄嗟に藍は急降下し、森林地帯に突っ込む。木々の間をぬって、藍の気配に驚いて飛び立った梟をわしづかみにした。初めは暴れていた梟も、藍のただならぬ気迫に力量の差を察して大人しくなる。
藍は梟を式神として従えるべく、即興で方程式を組み上げた。方程式はいつも通り、少々粗はあるが、しもべにするには充分な命令が組まれている。完成した方程式を、式神として憑依させようと試みるも――藍の式神は梟に張り付かず、梟は何も変わらない状態で藍に怯えていた。

「……嘘だろう?」

藍は今一度、式神を作り直すが、結果は同じだった。
この非常事態から推測される答えは一つだけだ。藍は、式神を操る能力を失っている。紫が藍に憑依させた式神に、不具合が生じているのだ。
嫌な予感が的中した藍は、呆然と立ち尽くす。だらりと手の力が抜け、解放された梟がどこかへ飛んでいった。

「なぜだ? 私は攻撃を受けたわけでもない、多少の水を浴びたって私に憑依する式神は平気なんだ。なのに、どうして」

言いようのない絶望が、藍の心を黒く塗りつぶす。いつか紫に言われた言葉が、遠くでこだました。

――自分の力をきちんと理解していないと、力は明後日の方向に向いてしまうのよ。それはとても危険なことだってわかっているのかしら?

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