椛は哨戒天狗である。
そんなことは知っていても、身体で理解したのは初めてだった。
彼女の翼が力強く一振りする度に、身体が上下に跳ねる。このパワーとスピード、とてもマネできそうにない。
「乗り心地重視で飛んでますけど、大丈夫ですかー?」
「だっ、大丈夫!」
空は橙色からスミレ色に変ってきた。一番高い木が随分と下に見える。
点々とある炭焼小屋も、妖怪達の家も、全部全部過ぎ去っていく。
星降山へと向かって、どんどん高度を上げていく。
山体へ近付くにつれて、地面の方が少しずつ迫ってきた。そうするとまた椛が高く飛び上がる。
「ねぇ、もうちょっと高くできない?」
「ふぇ? いいですけど、どうしたんですか?」
椛の翼がばさばさと動いた。家に帰るカラス達ですら豆粒に見えるくらいの高さになって、沼地の蛙が大合唱する声すらも遥か遠い。
すっごく遠くに見える人里に至っては、もはや一番大きな家がオモチャに見えた。
「はははっ、幻想郷の将軍にでもなった気分だ! 椛はいつでもこれができるんだよね、凄いなぁ」
「えへへ、でも哨戒任務はここまで高く飛ぶことはないですから、私も久しぶりです! 景色が気持ちいいですねぇ」
そこまでは良かった。
問題は、急激に雲の勢いが増してきたことだ。太陽が沈むと同時にそれはやがてぽつぽつと雨を降らし始めた。そしてすぐに土砂降りへと変る。
雲と鬼ごっこをしようにも、彼奴らは多くて広すぎる! それに、望遠鏡に水が入るとまずい! せっかくここまで来たのに、椛に何も見せてあげられなくなる!
「も、椛! 下に降りて!」
「分かってます! 翼が水を吸っちゃったら、にとりちゃんごと墜落しちゃいます!」
椛は慌てながら、着陸できそうな広場を探した。幸いにもそこはすぐ見つかって、サーッと螺旋を描きながら二人は地上に降り立った。
「ありがとう、椛。助かったよ」
「いえ、にとりちゃんに何もなかったのが良かったです」
暗いだけでなく大ぶりの雨だ。自分の位置が怪しいから地図も使えやしない。
ひとまず二人は大木の下に座って、雨をやり過ごすことにした。
不気味な暗さが二人を取り巻いている。時々大きな雫がぱたっと帽子に当たった。後ろは何がいてもおかしくない藪の中だ。
「ところで、ここはどの辺でしょうか? もう星降山には着いているはずですけど」
「こうも真っ暗だと分からないな。どっちへ行ったらいいかも。椛、能力使ってくれる?」
「分かりました!」
椛に顔を向けると、彼女はその赤い目を光らせ始めた。
千里先をも見通せるその瞳が、闇夜に道を浮かび上がらせている。もちろんにとりにその道は見えない。
でも絶対の信用と信頼を置いている。それが椛だ。
彼女は翼を畳んで、黒い木立の生い茂る方角を指差した。椛と一緒で本当に良かった!
「てっぺんはあっちです」
「分かった。そして歩いて行こう。私の能力ならぬかるみを乾いた地面にするくらい簡単だから」
「そうですね。それに結構近くまで来ましたからね、頂上まで一緒に頑張りましょう!」
こんなこともあろうかと、にとりは洞窟用の電燈付きヘルメットを頭に被った。
カチッと捻って角度を調整すれば、前と足元がよく見える。
椛に先導してもらうのはいいとしても、裾をずっと握り続けるのは無茶だ。
煙管の揺らめくあの店ではたまにこんな掘り出し物を売っててくれるから助かる。電池とかいう舶来品は偉大だ。
「よし、出発!」
椛が行き先を指差し、にとりがそこの地面を乾かす。それを何度も繰り返して、二人は山肌を登り続けた。
背丈ほどの大岩がごろごろしている場所を登った。濡れてつるつるになった岩肌を乾かせて良かった。
断崖絶壁にぶち当たって迂回した。椛を飛ばさせてこれ以上負担をかけるなんてことはできない。
夜闇の墨にどっぷり浸かり込んだ道なき道を、少しずつ進んでいく。
途中に地蔵すらない、人間なら絶対夜を明かした方が良い。
ここまで水を操ったことは何年ぶりだろう。
弾幕ごっこじゃなくて、目の前の機械弄りじゃなくて、泳ぐためでもなくて、椛と一緒に冒険を果たすために能力を使うなんて、ほんの少し前までは思いもしなかった。
雨のざーざー、それに風にざわめく枝と葉っぱ少々が、世界の音を支配している。自分と椛だけが幻想郷に取り残されたみたいだ。
百余尺ほど登ったところで、ようやく雨の勢いが弱まり始めた。もう百尺ですっかり止んだが、まだ頂上は見えない。
「お?」
にわかに辺りが明るくなった。光のヴェールがひらひらと舞い踊って、月のハシゴが椛の白髪を穏やかに照らした。
「月が出たみたいですね」
椛が後ろを見上げ、それに釣られてにとりも夜空を仰ぐ。
なんてこった!
雲でできたドーナツ──そう、董子が教えてくれた「外の世界」のお菓子だ──の穴に、ぴったり満月が重なっている。
いつの間にか風は凪いでいて、耳が痛くなるくらいに無音の世界になっていた。
そこに月が、圧倒的な存在を放っていた。影がくっきりと伸びる。
「これだけで、ここに来た甲斐がありましたねえ? にとりちゃん、本当にキレイですね」
「あぁ、本当にそうだよ……でも、約束は約束だ。絶対にこれ以上の景色を見せる。それがこの望遠鏡と、整備した私の役割だ」
ハードルを限界まで上げつつ、再び椛の先導で頂上を目指した。やがて二人は妖怪でなければ絶対何も見えないようなモヤに突入した。
雲の中にいる! こんなの初めてだ!
「私のこと見えますか、にとりちゃん?」
「あぁ、ライトを下げて足元を照らすようにすれば、なんとか」
ざり、ざり、ざり。足音だけが聞こえる。周りは本当に五里霧中、木が杉なのか楓なのかも分からない。
にとりは目の前だけを晴らした──そうしないと、何だか雲に悪い気がした。
雲は全く掴みどころのない、ただそこにあるだけのモヤだった。地上から見ると手で握れそうだったのに、実物は触れても触れても逃げていく。
そうしてしばらくすると、じんわりじわじわ景色が開けてきた。もう木々の高さが地上より明らかに一尺も二尺も低くなっていて、結構な高度まで来たことが分かる。
「ふぅ、ふぅ、ふぅ……こんなにいつもと違う場所を移動するのは、本当に新鮮な気分です。哨戒だと同じところをぐるぐる周るだけですから。にとりちゃんのおかげですね」
「はは、ありがと。そんな形で椛の気分転換に付き合えて、私も嬉しいよ」
やがて二人は雲の上に出た。といってもハッキリした境界線があるでなし、いつまでもモヤが足にまとわりついている気分がした。
「ちょっと休憩しようか」
「はい、にとりちゃん」
これが正解だった。振り返って目の前は海だった。
自分でも何を思ったんだろうと苦笑いする。ここは山のはずだ。昇ってきたはずだ!
地面にぺたんとへたり込んで、飛び込んで泳げそうな雲海を──そう、本物の海なんて見たこともないのに──を眺めた。灰色のそれは極めてゆっくりと横に流れている。
これだけの高さを登ったのに、月はまだまだ同じ場所にあって、同じ大きさで二人にその身体を見せつけていて、同じ明るさの光を地上に注いでいた。
後ろを見る。前をもう一度見る。夢か現か幻か、不思議な島に迷い込んでしまっていた。
「キレイですねぇ……低い所にちぎれ雲ができることはありますけど、雨雲より高く高く上がったことなんてありませんでした」
「私もないよ。こんな壮大な景色、椛と一緒に見れて本当に良かった」