Coolier - 新生・東方創想話

兎は如何様な夢を見る

2020/05/16 15:59:49
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 宙 『過去が眠る森』


 清蘭とは、正式入隊した後も同じ部隊に配属された。
 腐れ縁だと思った。もしかしたら、これから先も長いこと一緒なのかもしれない。そうやってほんの少しだけ想いもした。
 けれど少ししか経たないうちに、私は情報部門への転属願いを出し、別の部隊に移った。
 私は、戦場に耐えられなかったのだ。他の玉兎たちは楽しい夢を見るという方法で、戦場で生きていこうとする。でも、私は自分に催眠をかけて夢を見ることができない。だから代わりに、戦場から離れた安全地帯に逃れることで生きていこうとした。
 幸い私の思考方法は、現実だけを見つめ続ける中で磨かれていたらしい。適性試験の結果、論理的な思考能力は十分だと判定された。その判定もあり、情報部門への転属願はむしろ上層部からも歓迎された。
 別に、清蘭とは喧嘩別れをした訳じゃない。転属する日、清蘭は月白色の団子を笑って振る舞ってくれた。でも、顔に陰を落としていたことは、ずっと気がかりだった。
 それから長いこと、清蘭とは会わなかった。
 久しぶりに清蘭から玉兎遠隔群体電波通信網を通じて連絡が来たのは、ちょうど同期が一名、戦死したという知らせがあった日だった。
『これで、私たちだけになっちゃったねー』
 通信網を通して聞こえる清蘭の声は、楽しい夢を見ている玉兎らしく悲しみを感じさせない、陽気なものだった。
 その通信で同期の墓参りに行こうと申し出たのは、私だった。
 はじめての墓参りだった。玉兎の墓は、都から隔離されるように遠く外れた場所にあった。月の裏側とも、表側とも位相の異なる地点に作られた、境界にある地域だ。
 遠目から見た時、表側の月面の岩肌だけがどこまでも続く景色の中に、一か所だけ、緑の色がぽつんと浮かんでいたのが印象的だった。本来、月には存在しえないはずの穢れが、許されている地域。情報端末が放つ人工的な緑色発光ばかりを目にしていたので、木々の色合いはやたらと異質な光景に見えた。
 清蘭とは墓に続く森の入り口で再会した。私が月の岩肌と、緑色の不思議な集合体の境を訪れると、清蘭は先に着いていた。ベンチに一人で座り、ぼうっと黒い黒い星空を見上げていた。
「あ、やほやほ鈴瑚ー。お久しぶりー」
「こちらこそお久しぶりー。そっちは相変わらずぼうっとしてるねえ」
 昔と変わらない清蘭の口振りは、妙にくすぐったかった。でも近づいて顔を合わせると、清蘭はまず私に聞いてきたのだ。
「あの子の葬式の時も、あの子の葬式の時も。鈴瑚ったら、いつも来ないんだもんー。今回だって。そんなに忙しいの?」
 ちくりと、針が胸に刺さる。けれども顔は、平静を装うようにした。
「まあねえ。前線のみんなは命を擦り減らしてるけど、私たち情報部門は、時間と体力をすり減らす仕事だから」
 そんな風に陽気な清蘭の声を真似して、呑気な私の声を出してみせる。それは案外、私の心持もほんの少しだけ誤魔化してくれたのかもしれない。
 私は仕事の忙しさを理由に、同期の葬式には一度も出たことがなかった。認めたくなかったのだ。葬式に出てしまうと、同期が本当に死んだ事になってしまうような気がして。
 清蘭はあどけなく笑い声をあげた。
「あはは。お互いに大変だよねえ。ぜんぜん別のもの、擦り減らしちゃって。擦り減らすものが違うから、お互い愚痴も言い合えないよねえ」
 などと言う。そうして清蘭は立ち上がり、散歩でもしはじめるかのような軽い足取りで、森の中へ進んでいった。森の中は、妙な心地がした。はじめて入る空間だった。緑の色だけでなく、土の色や木の肌の色が、私を覆い囲んでいた。太陽の光が枝と葉に遮られ、森の中は薄暗い。けれども、切れ間から差し込み地面を照らす光は、妙に眩しかった。
 ざわざわと、葉っぱが鳴る。踏んだ土が、ぎゅっぎゅと音をあげる。まるで街で聞く玉兎たちの生活の喧騒のように、森の響きが聞こえてきた。もしかすると、情報端末の並ぶ私の毎日や、月人ばかりがいる都よりも、その音は豊かなのかもしれない。そんな思いが、ふと浮かんだ。
 ああ、ここで、みんなは眠っているのか。そう思うと、森の豊かな音は、訓練兵時代の毎日の出来事に変わったようで、懐かしいものでもあり、悲しくなるものでもあった。そう、同期のみんなは、もう死んでしまった。私の逃げ出した戦場で。それは、本当のことなのだ。
 ここ数年間、情報端末に同期が戦死したという知らせが文字として表示された時、私はたまらなくなって何本も団子を食べてきた。それでどうにか、気持ちは落ち着いた。けれども今は、どうしても目が熱くてしかたなくて、きっと団子を何本食べたところで、むしろ余計に叫び声をあげたくなってしまいそうだった。
「ありゃ? どーしたの鈴瑚。なんか泣きそうになってない?」
 清蘭が声をあげる。
「んー……。んー……うん……。なんか、みんなの事、思い出しちゃって……」
 陽気な清蘭の声を真似して、呑気な私の声を出してみようとした。けれど、どうしても私の声は、ぐちゃぐちゃに濡れてしまった。
「みんな。みんな……ね。みんな、もう会えないもんねえ」
 そうやって清蘭は少し微笑む。陰ができる笑い方だった。見たことがあって、知っていた。私が清蘭と同じ前線の部隊から、情報部門に異動したときの笑い方だ。
「でもね、鈴瑚」
 清蘭は、私に手を伸ばし、私の手のひらを、彼女の手のひらで包んだ。温かい。清蘭の熱が、私に繋がる。
「私と鈴瑚、まだ会えるんだよ。こうやって、まだこれからも、まだまだ……」
 ふわりと、清蘭はもう一歩私に近づく。清蘭の手のひらが私の手のひらから離れる。熱が離れる。けれどもそのあと、清蘭の頬が、私の頬に寄り添った。清蘭のふわりとした髪が、私の顔を包み込んだ。清蘭の両腕が、私の頭を抱き包んだ。首の熱が、重なる。清蘭の胸の熱が私に伝わり、きっと私の胸の熱も、清蘭に伝わっている。お腹が、あったかい。清蘭の熱が、あたたかい……。
 ぽん。ぽん。ぽん。清蘭の手が、私の髪を、優しくあやす。ゆっくり、私の頭に触れる。その手の感触に合わせて、いつの間にか大きく速く波打っていた私の胸の鼓動が、ゆっくりになっていく……。
 静かに、静かに、しばらくの間、私の胸の鼓動に感覚を澄ませる。清蘭の胸の鼓動も、熱と一緒に、私に伝わってきた。ゆっくりと、落ち着いていて、心地のいい動きだった。
 ゆっくりと、ゆっくりと……。
「ん……。ん……ありがと、清蘭……ちょっと落ち着いた……」
 すうっと息を吸うと、やわらかくて、甘い匂いが、胸の中に広がった。どことなく、お団子を思わせるような、いい匂い……。
「えへへー……。上手でしょ、こういうの。戦場でね、パニックになった子を落ち着けるとき、こうするといいんだー……」
 清蘭は、きっと、私の知らないことをたくさん知っている。気持ちの落ち着け方だとか、戦場のことだとか。私はきっと、清蘭ほど、揺れ動いた気持ちをどうしたらいいのか知らないし、こうやって他の玉兎を優しく包み込むこともできないのだろう……。
 温かい。あたたかい……。
 私は清蘭の腕に手をやり、軽く触れる。もういいよ、と合図を送ったつもりだった。清蘭は最後に一つ、ぽん、と私の頭に触れると、両腕をほどき、そして後ろへ一歩下がった。私の目の前には、白い歯を見せて笑う清蘭がいた。
「いつか、鈴瑚にやってやろうと思ってたんだ。鈴瑚いっつも落ち着いちゃって、パニックにならなかったもん」
 そうやって、清蘭はどこか勝ち誇った様子だった。
 森の一本道を、清蘭と一緒に歩いていく。おかしな話で、誰かと連れ立って歩いていくのは、ずいぶん久しぶりのように感じた。
 薄暗い森の径を進んでいくと、やがて、眩いばかりの場所に出た。木々がなく、開けた場所だった。白い光が空から降り注いでいる。その中に、白い石碑がまるで一個連隊の隊列のように幾つも建ち並んでいた。
「みんなの名前は、まだ最近だから。こっちの入り口近くにあるんだよ。ほら、ちょうど一つの石碑に、みんな揃っているしね」
 そう言って、清蘭は一つの石碑の前で足を止めた。他の石碑と比べて、表面が白く、光沢があった。新しいものだということは何となくわかった。
 石碑の表面には、幾多もの玉兎の名前が連なっていた。いずれも、戦場で亡くなった玉兎たちの名前だ。その中に、見慣れた、呼び慣れた名前を見つける。いや、そうではない。名前が自然と目に入ってくるのだ。名前の羅列を目にした私の脳裏に、忘れようとした記憶が堰き止めきれず漏れ出てくる……。
 ああ……。『彼女』は優秀で自信家だった。【彼女】は穏やかで訓練でも周囲の心配ばかりしていた。《彼女》は夢想家でいつもぼーっとしていた。〔彼女〕は……。
 そう……。みんな、私と、清蘭と、鈴仙と同じ場所にいて、同じ話題で笑い、同じ目標に進み、同じ食べ物を食べていたのだ。けれども。けれども……。
 『彼女』は、優秀だったが一番初めの実戦で帰らなかった……【彼女】は、穏やかだったが三度目の戦場から帰る頃には物に話しかけるようになり、四度目の戦場で捕虜になる前に自決した……《彼女》は、夢想家だったが何度目かの戦場で敵も味方も分からなくなり、味方に撃たれて死んだ……〔彼女〕は……。
 かつて、情報端末の中で知った内容が、記憶の井戸の底から、頭の中へ立ち上ってくる。そうだ。みんな、死んでしまったのだ。
 それを、ずっと、認めたくはなかった。見ないようにしてきた。見てしまっては、この私の底から立ち上ってくるなにかで、私は壊れてしまう気がしていたから。
 けれども。私は、先ほど清蘭から感じた、熱を思い出す。あたたかさを思い出す。そのあたたかさが、ヒビの入ってしまいそうな私の心を、つなぎとめてくれる気がした。あたたかさが心に満ちて、私はまだ、どうにか自分を保てそうな気がした。
 墓前で、手を合わせる。目を閉じて、みんなを想う。これで同期のみんなが救われるわけじゃないことは知っている。そんなものは夢まやかしだ。けれども、私はそうしないといけない気がした。友人は亡くなってしまった。それはどうしようもなく覆せない現実なのだ。どれだけ夢を見ても、友人は蘇らない。けれども、友人と過ごした日々を、これからも私が思い出し続けられるように、私は、みんなに手を合わせ、みんなの死を悼まなければ、どうしようもないのだろう。手を合わせなければ、私は、皆が死んだという現実と一緒に、一緒に過ごした日々でさえ、私という井戸の奥深くに沈めてしまうのだろう。
 ざあざあと、森が鳴く。からからと、枯れ落ちた葉や枝が、風に転がる。それらはとても不思議な心地のする音だった。
「ねえ、鈴瑚。鈴瑚に、見せたいものがあるんだ」
 目を閉じていた私に、清蘭が声をかける。そして手を宙に伸ばすと、ちょうど鞄を探るような手つきで、何もない虚空の中へ、手のひらを消してしまった。かと思えば、少し経った後に手を虚空から引っ張り出す。そうしてその手には、数枚の写真を握っていた。清蘭が得意とする術だ。異次元にものを移し、また異次元からものを取り出す程度の能力。
 清蘭は、そうやって異次元から取り出した写真を、私に手渡した。
「せっかくだから、一緒に見ようと思って。鈴瑚、ほとんどみんなの姿、見ていないでしょ?」
 一番上にあった一枚目の写真が目に入る。その一枚目の写真には、見覚えがあった。
「この写真って……。訓練所で、最後に撮ったやつ……」
 その写真は、訓練兵最後の日に、十一名の同期全員で撮ったものだった。私がいる。清蘭がいる。鈴仙がいる。そして、同期が全員いる。みんな、笑っていた。{あの子}は満面の笑顔で、[あの子]は少し余裕をもって上品そうな笑顔。〔あの子〕は口元にささやかな微笑み。『あの子』は自身に満ち溢れた笑い方。
 みんな、笑っていたのだ。これからもこうやって集まることができると、信じているように。
「私、この写真がやっぱり一番好きなの。みんなが揃っているからね」
 清蘭は私の横に立って、写真を一緒に覗きこんだ。私は一枚目の写真を後ろに回し、二枚目の写真を表に持ってきた。二枚目の写真にもまた、見覚えがあった。
 二枚目の写真には、十名の玉兎が写っていた。みんな、同期だ。先ほどの写真と並び方は同じだが、一名分だけ、空白ができている。そして、服装は真黒い礼服。みんな式のために身なりを整えていたが、その表情は、先ほどの写真と比べて色を失ってしまった者もいた。私の顔は感情を殺したような無表情で、鈴仙の顔は硬く強張っているようだった。同期の中で一番早くに戦死した『彼女』の葬式の時の写真だ。とはいっても、ある時期に亡くなった玉兎の兵隊をまとめて対象にした葬式だった。この時だけ、私は葬式に参加した。
「鈴瑚、この時は葬式に来てたよね。最初で最後の葬式参加だ」
 何名かの同期は、腕に包帯を巻いていたり、松葉杖を使っていたり。時期としてはまだ初陣に出たばかりのはずだが、既に負傷しはじめていた。かくいう私も、この時は右腕が使えなかった時期だ。
 言い様のない、心地が、する。みんなの姿を久しぶりに目にした。忘れようとしていた姿だ。そしてこの先の写真に写る姿は、私の知らない姿だ。私が見ようとしてこなかった姿。
 写真はあと、三枚残っているようだった。
 三枚目の写真を見る。写る玉兎たちの並び方は、この写真でも変わらない。ただ、空白が多くなって、背景がやたら目につくようになっていた。これもまた、葬式の時に撮られた写真のようだ。玉兎が、目に見えて減っている。六名だけ。みんなの和をいつも気にしていた【彼女】がいない。いつもぼおっとしていた《彼女》がいない。そして、鈴仙もいないし、私自身も、いなくなった。
「この時が一番、写真の人数減ったよねえ。まさか、あれだけ優秀だったエースの鈴仙が脱走なんて、びっくりだし! 鈴瑚も情報部門いっちゃったし……。この時が一番、寂しかったかも」
 そうやって、清蘭はくすりと笑って見せる。葬式の写真を見ているのに、どこか楽し気に。楽しさしか知らない、玉兎らしく笑う。
 写真の中の清蘭も、笑っている。写真に残った六名の同期は、よく笑っている。けれども、上品で不敵だった[あの子]は片目を失っていて、片腕もギブスで固定していた。その笑顔はどこかくすんでいる。野心家だった≪彼女≫も、その笑顔はどこかより凶暴な色を帯びるようになっていて、どこを見ているのか分からない危うさがあった。全員が全員、笑ってはいるけど、どこか異様な笑顔をしていた。
 胸に、異物を入れこまれたような感覚がある。それでも、手は止まらない。四枚目の写真だ。
 もう、三名しか残っていなかった。清蘭と、野心家だった≪彼女≫と、臆病だった〈彼女〉。物静かだった〔彼女〕や、気品のあった[彼女]、朗らかだった{彼女}は、もういない。
「〔あの子〕の遺体ね、結局まだ見つかってないんだって。生命反応が無いことは確認されてるけど。はやく見つかるといいねえ。[あの子]は、怪我が増えていったのに、何回も戦場行っちゃって。頑固だったもんねえ。もう少し休めば、いまも無事だったかもしれないのに。{あの子}なんか、物資運搬が任務の中心で、鈴瑚と一緒で安全なはずだったのにねえ。砲撃一発で死んじゃったって」
 清蘭は、事もなげに、話していく。思いついたことを、ただ口から出しているという風に。
 そして、五枚目の写真。
 清蘭と、〈彼女〉だけが写っていた。後は背景の白い白い壁が広がっているだけ。人数は減る一方なのに、撮る場所も、カメラとの距離も、並び方も、玉兎同士の距離も、まったく変わらない。まるで、そこにちゃんと誰かが居ると、証明しようとしているように見えた。
「≪あの子≫ね。武勲あげるのが、大好きだったから。どんどん戦ってたんだけどね。でも、それで死んじゃったみたい。そうじゃないよねえ。生きていなきゃ、武勲も意味ないよねえ」
 けらけらと、清蘭は笑う。まるで何でもない、友人のうわさ話をするように。五枚目の写真に写った清蘭の笑顔と、同じような笑顔で、笑う。そして清蘭は、自分が写った写真をじいっと見やる。
「最後まで残ってた〈あの子〉も、ついに死んじゃったしね。ねえ鈴瑚、情報部門なら知ってるよね? 私、〈あの子〉と最後は一緒の部隊だったんだよ。前線の部隊でねえ、戦場の激しいのなんのって。でも驚きなのはさ、〈あの子〉ね、訓練兵時代はあんなに臆病だったのに! 実戦出てるうちに、とっても肝が据わってきたんだよ。〈あの子〉、言ってた。昔は恐いから敵から逃げようってずっと思ってた。だけど、恐い敵を殺せば、恐いものはいなくなる……ってね。すごかったよ。敵にどれだけ囲まれても、一歩も引かず、一人ひとり、冷静に、撃ち抜いていくの! そうして生き残ってたんだもん。でもねえ、最期は敵を殺すことに執着しすぎて、逃げ時を忘れて、囲まれて死んじゃった。それがついこの間だもんねえ……」
 私の呼吸が速くなる。呼吸の、程度を、コントロールできない。清蘭の声が、どこか遠い。清蘭の話は、全部耳に入ってくる。けれども、どこか、受けとめきれない。内容は理解できる。意味も分かる。けれども、何か、それ以外の部分が受け止めきれない。
「……ねえ、鈴瑚、なんで葬式来なかったの? 寂しかったよ、私。あはは……」
 清蘭の、玉兎らしい赤い瞳が、じいっと私の横顔に注がれているのを、感じる。妙な、感覚が、する。妙な、胸騒ぎが、する。
「ねえ、鈴瑚。なんで鈴仙は脱走しちゃったんだろうね。あんなに急に。私たち、寂しいのにね。あはは」
 清蘭の声が、吐息が、耳に、かかる。けれども、私は、動けない。張りつめて、動けない。
「ねえ、鈴瑚。ねえ鈴瑚。ねえ、鈴瑚? 情報部門のお仕事は楽しい? 大変だよね。時間と体力をすり減らして、たくさんの情報を処理しなきゃいけないんだもんね。頭がよくないとできない仕事だもんね。大変だよね、大変だよね。きっと、大変なんだよね。ねえ、鈴瑚? ねえ鈴瑚」
 清蘭は、いったい何を言っているの?
「ねえ、鈴瑚! だからね、だからねえ! いっしょに、もう大変だろうからね! 私も、鈴瑚もね! だから、一緒に行こうよ、やいのやいの楽しくってさあ、きっと! 歌っていこうよ!」
 つんざく声。その直後に、首に、圧迫感。頭、脳が、殴られたように、視界が揺れる。
 なに? なんだろう。
「ガ、あッ! ォおオゴっ!?」
 喉が乱暴に鳴り揺れた。その振動に合わせるように、空気が濁音を響かせていく。
 これは、私の声か。私の声か? だとしたら、いま起こっていることは。
 清蘭の赤い瞳が、視界に入る。
 喉に、肉が裂けるような痛みが走る。私の脚の筋が、無理やりな姿勢であっても伸び、足が地面を蹴っていた。
 私は、清蘭から飛び退いていた。清蘭の手が、私の方に伸びているのが見える。その爪の先端に、赤い血液が糸を引いているのが、まるでスローモーションカメラのように目に焼きつく。どろりと、私の首筋を粘性の液体が伝い落ちるのを感じる。
 この状況。この状況?
 なにが起こっている。
「もうねえ、毎日ねえ! 大変だもんねえ! みんな心配しててみんなは楽しんでるから、私たちもみんなと一緒に楽しく暮らそうよ! ねえ、鈴瑚! ねえ鈴瑚、ねえ鈴瑚! ねえねえ鈴瑚ねえ鈴瑚!」
 清蘭は狂喜と笑う。そしてしゃがみ込むように、脚を深く深く折りたたむ。頭はお辞儀でもするように地面すれすれまで下げ、胸と太腿をぴたりとつけていた。
 知っている。訓練兵時代にまず習う型だ。優れた脚力を持つ玉兎の基本格闘態勢の一つ。強襲用の姿勢。
「きっと私たちは楽しく暮らせるんだから!」
 声が聞こえた時には、清蘭の口腔が目の前に接近していた。猛禽類。そう錯覚するような清蘭の挙動。強風が全身をかすめる。視て捉えられない。喰われる。そう想いつくのと同時に、私は天も地も分からなくなり、腹面も背面も槌で撃たれたような痛みに襲われた。
 視界がかすむ。目の前には何がある。目の前には、清蘭の顔がある。その後ろには、黒い黒い宇宙の色。空だ。身動きが取れない。腹部から股関節にかけて重みがある。清蘭は私に馬乗りをしているのか。
「楽しいんだよ楽しいんだよきっと楽しいから一緒に休もうってねえ鈴瑚! みんな居て前みたいにやいのやいのってさあ餅つき雑談なんだってあるよだからねえ! 鈴瑚!」
 清蘭の体の一挙手一投足が、その身体の重心を通して私に伝わる。清蘭の両手が、また私の首に伸びてくる。それだけじゃない。清蘭の全身は、妙に強張っている。ちゃんと統制された動きじゃない。
 そう。とてもいつもの清蘭とは思えない。なにか、清蘭は、夢を見ている。自分の波長を狂わせ催眠をかけて、おかしな夢を見ている。そんな直感が浮かんだ。
 清蘭の腕が私に伸びてくる。清蘭の姿勢が前屈みになる。顔が、近づく。咄嗟に、私もまた、清蘭の方へ手を伸ばした。手のひらで顔を包み込むように、清蘭の眼から頬にかけて両手で覆った。
 何が、起きている。清蘭はどんな夢を見ている。確かめないと。そう思い、清蘭の波長に直接触れた。
 両手から、清蘭の波長が流れ込んでくる。訳が、わからない。冷たいのか、熱いのか。渦を巻いているのか、一つの激流なのか。ひどい酩酊にも似た忘我感。それでいて、ひどい焦燥にも似た圧倒的自己感覚の暴走。
 頭が、おかしくなりそうだ。
「いいかげんにッ、しろォ!」
 私は、叫ぶ。殴りつけるような気持ち。波長は、気持ちで操るもの。ただ単純に、ただ普遍的な、ありきたりな形の波長を、思いっきり清蘭に叩き付けた。
 ――私にできる波長の操作なんて、それくらいだ。
「けっ……あッ!」
 電流を通した蛙みたいに、清蘭は背筋と腕をピンと張り、後ろに仰け反った。一瞬。私にかかっていた清蘭の体重が緩む。
「私だってなあ……ッ! 私だって! 玉兎だぞオッ!」
 両脚に力を込め地面を蹴る。私の下半身が跳ね上がる。地面に着いた背中も浮き上がった。そのまま、バク転の要領で全身を一回転させ地面に足をつき、態勢を立て直す。
 私の上に乗っていた清蘭は跳ね除けられ、少し宙を舞った後に地面へ体を打ちつけていた。
 呼吸が制御できない。鼓動の音がやかましく聞こえる。どうにか状況は好転したのか。それともまだ予断を許さないのか。何もわからなかった。
 地面に倒れた清蘭が、ゆらりと立ち上がる。ふらふらと、拠り所が無ければ立ち上がれない様に、弱々しい様子だった。両足で立ち上がった後、肩を上下させながら息をしている。ぜひゅうぜひゅうと、呼吸の音がこちらまで聞こえてきた。
「清ら……」
 私の口から名前が出かかった時だ。
「なんッなんだよ! なんなんだよ、お前ぇええええええ! 鈴瑚っ! お前! なんなんだよ! 逃げ出したくせにっ! 鈴瑚! 鈴瑚さあッ!」
 聞いたことのない、清蘭の声だった。声は清蘭の声なのに。けれども、その声が伝える想いは、聞いたことのない、清蘭の声だった。玉兎の中に、あんな声をあげる者が居るのだろうか。
「何が、情報部門! なに!? みんなと会いたいって、なに!?」
 清蘭の瞳から、涙が、ぼろぼろとこぼれている。歯茎をむき出しにして、吠えている。唇を歪ませて、叫んでいる。泣いているのか、怒っているのか。分からない。
 なにが起きているのか。玉兎の生活に、悲しみも、怒りも存在しないはずだ。そんなものを感じているには、玉兎が暮す世界は過酷なもののはずだ。
「なんなんだよお前! 逃げ出しやがったくせに、何が情報部門だ! またみんなで会いたいだと!? 鈴仙のクソ野郎、私たちを捨てやがって! ずっと一緒だって言ったじゃないか! みんなは逃げずに死んだんだぞ! みんなに申し訳ないと思わないのか、私はずっと、まだ……ッ! まださァあ! まだ……ッ……ひとりでぇええええぇぇ……っ!」
 けれども、清蘭は、泣き狂う。怒りをむき出しにする。
 ああ、そうか。私のせいか。ようやく、気付く。私が、清蘭に波長をぶつけたからだ。それで、いま清蘭の波長は、正常に戻っている。いま清蘭は、催眠から、夢から覚めて、正常な世界に居る。叫んでいる。私はこんなにも近くにいるのに、私の方を見ることなく。ぎろりと目を見開き、顔だけは私の方へ向けて、それでも眼光は私の遠く背後へぶちまけるように、叫んでいる。まるで、猛禽類が叫ぶように、喉が張り裂けんばかりに、叫んでいる。
「死ね、死ね! 鈴仙も、お前も! お前らなんて、死んでしまえ! アァああああああああああああああああああああっ! アァあああああああああああああああああっもぉオおおおおおおおおッ! なンなんだよ! なんなんだよォおおおおおおおおお! なア! なにが調査部隊だ! なにが地上だ! そんなに自分の身が大事なのかよなァア! なァああああああっ……!」
 私のせいなのか。いま清蘭が、ひとりで泣いているのは。
 ただ、呆然と見ていることしかできなかった。はじめて見る光景に圧倒されていた。どうしたらいいのだろう。私は。そんな思考さえ働かない。
 清蘭は、力なく、崩れるように、ぺたりとその場に座り込む。ぜひゅう、ぜひゅうと、顔を傾けたまま、苦しそうに息をしている。
 けれども、私は、何も言えない。一歩も動きだせない。どうしたらいいのだろう。どうしたらいいのだろう……。
「……。……。……ひどいよ、ひどいじゃない……だって、こんなのって……私だって、ひどいの……」
 やがて、清蘭の声が、続く。細い、小鳥のようにか細い、途切れてしまいそうな声だった。
「……みんな、戦場で死んだのに……私たちだけ、のうのうと生き延びていいはずない……! ……私たちの代わりに死んだかもしれないのに……。私たち、私たちの……。あの時、あの子が銃弾で撃たれなきゃ、代わりにあの銃弾はどうなっていた……? あの子の代わりに、私たちが配属されていたらさあ……? やだよ……もうこれ以上みんなが死んじゃうの……鈴仙も、鈴瑚も……いやだよ……。なのに、なのに……? 私は、鈴仙も鈴瑚も、殺してしまいたくて、たまらないの……。ねえ、ねえ……? 私は、どうしたらいいの……? ねえ、ねえぇ……ねえ……」
 涙が地面に落ちる音さえ聞こえるくらい、静かだった。けれども清蘭の声は、何もかも聞こえてきた。
 呼吸の音だけが聞こえる。それは、私の呼吸の音だった。
「……ねえ、鈴瑚……ねえ、鈴瑚……」
 うわごとのように、清蘭はそれだけを繰り返すようになった。
「ねえ、鈴瑚……! ねえ鈴瑚!」
 そして、それは、力強く。まるで生の活力にあふれていると言わんばかりに。
「ねえ鈴瑚! だからさ、だからさあ! また、みんなで会おうよ! やいのやいのって! 歌おうよ!」
 そうして、清蘭は笑い始めた。再び、楽しい夢を見始めた。
 よく知っている声だ。いつも清蘭は、この声で笑っていた。
 いつも、清蘭はこの声で笑っていた。訓練兵の時も。はじめて配属された部隊でも。葬式の時でも。玉兎遠隔群体電波通信網でも。久しぶりに再会した今日でも。
 さっきの声は少しも出さずに、いまみたいに笑っていたのだ。
「鈴瑚も、鈴仙も! 私も! みんなでみんなの所へ行こうよ!」
 清蘭は、猛禽類のように、風を纏って、私へ手を伸ばす。
「私たちは、きっと仲良くいられるんだから!」
 清蘭が、叫ぶ。
 私は、気がつけば、両腕を広げて、清蘭の方へ、思いっきり駆け出していた。
 私の腕が、胸が、清蘭の腹部と、ぶつかる。そうして私は、清蘭に抱き着くような形で、彼女を押し倒した。
「私が、一緒に居るから!」
 そうやって叫んでいた。え、と清蘭の声が聞こえる。触れている身体から、清蘭の状態が伝わる。全身に張り巡らされた緊張が、緩んでいる。
 私も清蘭と同じ気持ちだった。
 え? そんな言葉が、胸に浮かんでいる。
 私は、いったい、何を言っている? 一緒に居る。どうやって。
 そんな思考が浮かぶ。しかし次の瞬間、はっとする。清蘭の全身は、今弛緩している。この隙だ。この隙に、何とかしないと。
 私が一緒に居る。一緒に居て、私は何をする? 考えろ。考えろ。何を言えばいい。清蘭は、何を求めている? 思考が先なのか、行動が先なのか。もはや何も分からないまま、私は言葉を口にする。
「そう、そうだよ! 鈴仙! も……連れていかなきゃ」
 鈴仙。そうだ、鈴仙だ。清蘭は、鈴仙にも、私と同様のことをしようとしている。けれども、そんなことが、可能なのか? 鈴仙は地上に居るのだから、接触さえ困難かもしれない。しかしそこに、提案の余地がある。
「鈴仙! そうだねえ、鈴仙も、一緒に連れていかなきゃ……」
 胸を弾ませて、大笑いするかのように、清蘭は叫ぶ。その振動もすべて、私は全身で感じる。なんて、抑えの効かない、痙攣や発作のような動き。
「清蘭ひとりだと、鈴仙を連れていくのに苦労するでしょ?」
 考えろ。玉兎は夢を見ることで、悲痛な現実で生きていこうとする。しかし存外、悲痛な現実から離れたところならば、道理は通るのだ。玉兎が見る夢にも、論理は通じる。
 清蘭に、思わせるのだ。まだ私を殺しては損だと。止められるような提案を、するのだ。清蘭の中の理を想像するんだ。
「鈴仙は、地上だから。だから……ね? 清蘭ひとりじゃ大変だ……だから、私も鈴仙を連れていく手伝いをするよ? だから、一緒に居ようよ……」
 清蘭の赤い瞳が、じいっと私を見つめている。表情は何も物語らない。
「その後に、一緒にみんなの所へ行こうよ……」
 道理は通る。この提案ならば、清蘭にとっても私をいま殺さない利点が十分に伝わる。
 けれども、私は、いったい何を言っているのだろう。鈴仙を殺すために、清蘭と一緒に鈴仙と会う手立てを考える。そして再会したのなら、鈴仙を殺す。そのあとに、私も、清蘭も、一緒に死のうと言っている。
 私は、何を言っているのだろう。しかし、この場を収め、生き残るためには、そう言うしかない……。
 私の提案を清蘭はどう受け止めているのか、まるで分らない。私の胸が、急激に膨張と縮小を繰り返しているのが分かる。その胸の動きでさえ、清蘭に伝わっているのかも、分からない。私はこんなにも、清蘭の呼吸が激しく、速いことを感じているというのに。
 清蘭の笑顔は、張り付いたまま動かない。しかしそれは、急に動き出した。
「本当っ? 本当に! うん、ありがとう鈴瑚!」
 そうやって清蘭は私をじいっと見つめたまま、大口を開けて笑う。
「みんなで一緒に、また会おう! 絶対だ! そうだ、みんなで会おう! また会おう!」
 そう言って、清蘭はからからと笑い始めた。その笑い声は、本当に笑っているのか、それとも何かを叫んでいるのか、それとも、もしかしたら泣いているのか、私に様々な想像をかきたてた。しかし清蘭は「やった、やった!」「ありがとねえ、ありがとう!」とばかり言うだけで、それ以上の何も、私には教えてくれなかった。
 だから私ももう、何も分からなかった。
 戦死者たちの墓の中で、清蘭の笑い声は、長い間響き続けた。


 ……… …… … …… … …… ………


 私が話し終えたのと同時に、テーブルの上に置かれていた森のミニチュアは、空間に溶け込むように消えていった。
 語り終えた後、少しの間沈黙が続く。私はすぐに耐えかねて視線を上げ、サグメ様を見た。するとサグメ様は、いつの間にか目を閉じて私の話を聴いていたようで、姿勢を微動だにさせないまま座っていた。
「……兎は、過酷な環境で生き残るために、夢を見る。だったかしら?」
 サグメ様はちょっと間をおいて口を開く。
「いったい、清蘭はどういう夢を見ているのかしらね?」
 そうして私に問いかけてきた。
 私は、胸の奥がかき混ぜられ、何か汚らしいものがすくいあげられようとしているような感覚を覚えた。だから、ふうっと息を吐き、そんな空想を吐き捨てるようにする。そして、あくまでも事実だけを伝えようと、口を開く。
「清蘭は、仲間想いの玉兎です。だからきっと、許せないんでしょう。仲間は死ぬまで逃げ出さなかった戦場から、我先にと逃げ出した、私と鈴仙のことが」
 赤い清蘭の瞳を思い出す。いまもじいっと、私を見つめている気がした。首のあたりに、変に窮屈な感覚を覚える。もう傷はなくなったはずなのに、清蘭の爪が遺した跡が、ずきずきと痛む気がした。
「でも、清蘭は仲間想いの玉兎なんです。私と鈴仙も、きっと清蘭の中では、まだ仲間として想ってくれている。だから、清蘭は私たちの幸福さえ、想ってくれている」
 屈託なく笑い、月白色の団子をつき、私に話しかける清蘭の顔を思い出す。鈴仙がかつて使用していた工作道具の新作を見つけ、いつか教えてあげなきゃと、メモをとっていた清蘭の姿を思い出す。
「殺したいほど憎いのでしょう。でも、抱きしめるくらい大切なのでしょう」
 清蘭の笑い声を思い出す。私の前で見せるあの笑顔は、どういう感情を私に向けているのだろう。
「だから清蘭は、辻褄を合わせるために夢を見ているんです。私と鈴仙を殺すことで、私と鈴仙は幸せになるんだって。同期八名は、先に苦のない幸せな場所にいっている。私と鈴仙も、死ぬことで同期と同じ場所に行ける。そう夢を見れば、清蘭の感情と行動に、矛盾は無くなります」
 そう夢を見れば、清蘭は苦しむことなく、幸福なまま、私たちを殺せる。
 サグメ様の表情は、変わらない。そして、声も平淡なまま、私に告げる。
「そうして、清蘭自身も命を絶って、同期十一名は再び集まるのね?」
 私はどうしたらいいのかわからず、笑うように口元を歪ませていた。
「ええ。きっと清蘭は、疲れているんです……。戦場でね。私たちで……」
 サグメ様は私の言葉を聴き、しばらく黙った。それから少し経った後に、ぽつりと言う。
「それで、あなたは一緒に居ることを提案した……」
 そう。そうだ。私は、そう言った。
「その、理由は?」
 質問の意図が、急にわからなくなった。なんだろう。サグメ様は、何を訊こうとしている?
「私は――」
 言葉が、出てこない。言葉を、思い出して、組み立てる。私が、ああ言った目的は。
「……私は、生き延びたいんです。清蘭に殺される。そんなことは、避けたかった。あの場で一緒に行動し、鈴仙の殺害を共謀しようと提案したらなら、生き延びられる。だからそう提案したんです。もちろん、鈴仙の殺害は私の死にも連鎖する。だから、あんなのは嘘っぱちです。私は、清蘭をどうにか無害化できないか、そのことだけを考えています」
 一度組み立ててしまえば簡単なもので、私の口からはすらすらと言葉が出てきた。なんだか言葉が出過ぎて変に心地が悪く、誤魔化すようにもう一言を付け加えてしまう。
「私は生き延びるためだったら、なんだってします。なんだって捨てられます」
 サグメ様は、またもや黙り込んだ。目を閉じて、ずうっとどこか深くへ潜っている様に。しばらくして、再び口を開く。
「清蘭と鈴仙が出会ってしまっては、清蘭は再び暴走し、あなたを殺害しようとする。だから地上浄化作戦で清蘭と鈴仙が出会わないよう、計画を立てる必要があった。これが、あなたが連日資料を確認していた理由ね?」
 サグメ様は、一転して鋭い視線を私に向ける。肝心な部分の確認だ。私は緊張を覚えつつも、まっすぐに答える。
「はい。それ以上の動機などありません」
 サグメ様は私からすうっと視線を外す。
「その件については了承したわ。あなたに咎はない」
 サグメ様の言葉に、思わずほっと胸を撫で下ろした。よかった。これで疑いは晴れ、私の生活の平穏は保たれた。今日、心を揺さぶられながらも、様々なことを話した甲斐があったというものだ。
「けれども、清蘭。まさかそんなリスクのある兵士だったとはね」
 ぽつりとサグメ様は言葉をこぼす。
 その言葉を聞いて咄嗟に、これは好機かもしれない、という思いが浮かんだ。
「ええ、そうなんです。サグメ様、そこで提案があります。もし可能であれば、清蘭を地上浄化作戦から外すことはできないでしょうか?」
 無茶な提案ではないはずだ。月の上層部は完璧な作戦遂行を至上主義とする。いくら優秀な前線兵といえども、リスクのある兵士を野放しにすることはないはずだ。
 しかしサグメ様の反応は私の予想と反していた。ちらりと私の方へ視線を向けると、顔の動きをとめた。その所作はどこか、憐れみを覚えているような印象さえ私に感じさせた。
「あなたがそんな提案をするなんてね。本当にあなたは、気づかないふりをするのね」
 そうしてサグメ様は呟く。そのわずかな音に、私の胸が、急にざわざわと、嫌な心地になった。なんだ? サグメ様は、何を言おうとしている?
「清蘭は作戦から外さないわ。理由は二つ。一つ目は、リスクを考慮しても、清蘭が作戦に与える貢献は大きいと考えられること。それから二つ目は、清蘭が持つリスクに対して、その対処は容易だからということ」
 サグメ様は私に視線を注いでいる。なぜだか、嫌な感覚がする。額にじわりと、汗が浮いてくる。
「あなたは、二つ目の理由について、気づかないふりをしている」
 まるで間合いを測って、どれくらい一度に踏み込んでいいのか考えるように、サグメ様はゆっくりと話していた。
「あなたは、大きな矛盾を抱えているのよ」
 状況がまるでつかめない。
「いったい、どういう意味なのか。分かりません」
 そう答えるのが精いっぱいだった。
「では、意味を明らかにするために、尋ねましょう。情報部門に抜擢されるほど、物事を建設的に考えられるあなたが、気づいていないはずもないと思うのだけれど。あなたは清蘭のこと、誰かに相談しようと思わなかったの?」
 そんなこと。何度も私は考えた。考えた末に結論を出して、行動をしてきたのだ。私の口からは、淀みなく理由が出てくる。
「それは。このことは完全に私事、私情ですので。そのような個人の考えを軍務に持ち込むわけにはいかないと考え……」
 しかしサグメ様は遮るように言葉を紡ぐ。
「それが、矛盾というのよ」
 なんなのだ。なにが、矛盾だというのだ。
「清蘭は作戦中どころか、日常でも暴発するリスクのある玉兎よ。それを、報告も挙げないで個人で処理しようとする。あまりにも無謀すぎる。あなたの経歴を鑑みるに、鈴瑚という玉兎は軍務においてそんな欠陥を見過ごす玉兎とは思えない。けれども現実の行動としてあなたは、見過ごしている。それが矛盾よ」
 言い様のない気持ちが、腹の底から口へと、這い上がってきている。サグメが言っている言葉の意味を、呑み込みきれない。理屈は分かる。納得さえする。しかし、どうしても浮かび上がってくるのだ。あなたは何を言っているのですか、という幼稚な反論が。
 そして、続けて私の腹から叫び出てこようとする言葉もある。それ以上は何も言わないでほしい。聴きたくない。今にもそんな言葉を、サグメ様に投げつけてしまいそうだった。
「話を聴いていた限り、清蘭があなたを殺そうとしている状況は、どうにか抑えられているだけではないの? いつ、彼女の行動に歯止めが効かなくなっても、おかしくない。そうでしょう?」
 一言一言を告げることをどう思っているのか。サグメ様の口元は、ただ冷淡に言葉を続けていた。
「あなたが気付いていないはずがないのよ。あなた、生き延びたいと言ったわね? 自分の命を守るために、清蘭をどうにかしたいと。その最善の解策がある。それをあなたに教えてあげましょう」
 サグメ様はじいっと私を見据えてきた。どうしたらいいのか? 私は何故か、言い様のない不安な気持ちがしていた。思わず帽子をぎゅっと握って下げる。眼を伏せる。そうして耳さえ、塞ぎたくなる。
「清蘭を殺してしまいなさい」
 けれども、私の行動などまるで意に返さないというように、サグメ様は告げる。
「そうしたら何ら問題はないわ。建設的な思考ができる貴重な情報特技兵と、上等とはいえ前線で命を使い捨てにするだけの玉兎の一般兵。どちらの命の方が価値を持つかなんて、誰が考えても瞭然よ」
 サグメ様はただ書面を読み上げているだけのように、淡々と話す。
「給与とか、就業形態なんかにも表れているでしょう?」
 清蘭を、殺せばいい。
「サグメ様!」
 思わず叫んでいた。はっ、はっ、と、呼吸が速い。でもそれ以上の言葉が出てこなかった。
 サグメ様は、にいっと笑っていた。私の顔を見て。いったい私の顔に何を見て笑っているのか。そうしてサグメ様は、私に告げた。
「類稀なる玉兎、鈴瑚よ。私があなたに智慧を授けましょう。もしも清蘭があなたの命を脅かすことになったなら、清蘭を殺しなさい。そうしたら、あなたの命は守られる。大丈夫よ。あなたの命はそうしてまで守る価値があるものだと、この月の賢者が保証しましょう」
 そうやって、月の賢者は静かに微笑む。
 思考が、まとまらない。言葉は聞こえるが、意味の整理がつかない。まとめ方が分からない。何も言えない。ただ、息だけが速く、口腔から、鼻孔から、出ては入ってはを繰り返している。
「さて。面談は、これまでにしましょう」
 私が思考をまとめるまで待つこともなく、サグメ様は言葉を続ける。
「鈴瑚。あなたは明日からも、地上浄化作戦に向けて努めなさい。そして、もしもあなたの命が危なくなったのなら、私の言葉を思い出しなさい。あなたが言うように、ただ生き延びていたいのならね……私の言葉が、きっとあなたの欲するものを守るでしょう」
 そう言い残すとサグメ様は立ち上がった。すると、今まで静かに成立していた部屋が、一気にグニャグニャと歪み始めた。何もかも、形が、定かではなくなっている。床も、壁も、天井も。何もかも、形が曲がり、空間に溶けていく。どうやって立っていたのか、どうやってこの場に居たのか、まるで分からなくなる。
 どうやって、私は居ればいいのだ?
 体も動かなければ、言葉も出せない。それどころか、思考さえ働かない。もう、どうやっても、何も為す術がない。世界の在り方に身をもまれ、その奔流に呑み込まれていってしまうばかりになる……。


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 ふわふわと、柔らかい感覚が、全身を包んでいる。そのくせ、体は鉛が血管中を巡っている様に、重たい。
 ここは、布団の中だ。やたら朦朧とした意識の中で、それだけは不思議と確信していた。ちくしょう、動け、体め。上半身を起こせ。そうやって、自分以外に命令をするような感覚で、自分の体を動かす。
 目覚めは、最悪だった。どうやら無事にサグメ様との面談は乗り切れたようだ。けれども、眠る前以上に重たいものを背負い込んでしまった気がする。夢の世界の出来事の記憶は、大まかに残っていた。日常生活の大半の出来事を緻密に記憶できないように、夢の世界の出来事もまた、思い出せば振り返ることができる程度の記憶だった。
 いったいこの気分の理由は何なのか。それを正確に推し測るには、記憶は曖昧過ぎた。
 もう面談は終わったことなのだ。気分を切り替えていこう。
 いつもの起床後の日課をしよう。玉兎遠隔群体電波通信網に、何か連絡が入っていないか確認する。仕事に関わる急務の連絡が時々あるのだから、確認は欠かせない。いくつかの波長のメッセージが並行して、その概要を伝えてきた。いずれも緊急の要件ではないようだ。そして、ついでと思い何気なく過去のメッセージも振り返って確認していくと、ふと一つのメッセージが意識に引っかかった。
『ねえ、鈴瑚ー。寝る時間だしもう寝ちゃったー? 今度の休暇、また遊びに行こうよー。返事待ってるね!』
 そんな清蘭の声が、頭に響く。先日、地上浄化作戦の確認を秘密裏に行っていた時に聞いたメッセージだ。
 気分を、変えなければ。そんな言葉が他の思考を押しのけるようにして、頭を覆う。
 そうだ。気分を変えていつも通りの平静を取り戻すのだ。私はいつものように、今日も明日も生きていく。ここ、月の都で。そのためには、目的を達成する上で不要なものは、捨て置いていった方がいい。そう、たとえば。そう、たとえば――?
 ――たとえば、現実から目を背けるばかりの、夢? たとえば、親しいが故に私の心を苦しませる、友人?
 それらを、捨て置くのか? 私が生き延びるために、それらを切り捨てるのか。昨日までのように、今日からも。
 無性に、お腹が空いてきた。空腹だ。喉も乾いてきた気がする。何か、食べたい。何かを食べないと。
 体が勝手に動いていた。戸棚の前まで跳び、昨日の夜、中へ入れておいた団子を取り出す。いつものお団子だ。いつも朝食に食べているお団子。これを食べればいい。それでいいはずなんだ。
 一玉、口に入れて、噛む。もう一玉、もう一玉。そうして一串無くなれば次の串を。そうしないではいられなかった。大好物の団子。いつも何かがあった時はこうしてきた。
 けれども、口いっぱいに放り込んだ団子を呑み込もうとしたとき。胸の奥から、腹の底から、名前の分からない不快感が、こみ上げてくる。体が吐き出そうとする。耐えがたい嘔吐感が襲ってくる。
 どうしようもない。呑み込めない。他に行き場が分からず洗面所へ駆け込んだ。そうして流し台に、吐き出す。ぶちゅぶちゅに潰れた団子が、透明で糸を引く唾液に塗れて、ぼとり、ぼとりと落ちていく。
 私の目の前で、私の口の中から、落ちていった。腹の底から、胸の奥から込み上がってきて、出ていった。それがいま私の目と鼻の先に、塊として在る。私の口も鼻も、粘性の体液でぐちゃぐちゃだ。味も、匂いも、分からない。
 何も、分からない。
 ただ、ひとつだけの想いがずっと、胸の中に浮かんでいる。
「汚い……こんなにも、なんて……汚い……」
 ぬらぬらと、私の内側から出てきたものは、光を跳ね返していた。私は気持ちの持って行く先が分からずに、両手で髪の毛を掴み、くしゃくしゃに握りつぶした。
 そうしてまた、口から吐瀉物を吐き出していった。どれだけの間、そうしていたのだろう。長い間だ。長い間……。


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