Coolier - 新生・東方創想話

火ノ粉ヲ散ラス昇龍

2018/12/10 02:56:50
最終更新
サイズ
264.02KB
ページ数
8
閲覧数
8705
評価数
12/21
POINT
1620
Rate
14.95

分類タグ


 最終章『火ノ粉ヲ散ラス昇龍』


 実は最後の一口の前に、妖夢は永琳から手渡された例の薬を自身の口の中に含んでいたのだ。ただ一人、妖夢はその薬の効果を事前に永琳から教えられていたのだ。薬の名は『一回死ンデモダイジョーブ』という。なんとこの薬は、一回死んでも大丈夫になる薬なのだ。永琳には拭いきれぬ贖罪があった。その中でも一際重い罪、蓬莱の薬の調合に成功してしまったという事、その禁断の処方箋の一部を利用して作られた一度こっきりの蘇生薬がコレ『一回死ンデモダイジョーブ』なのだッ! いい加減にしろッ!
 これは蓬莱の薬と同様、肉体から死という概念を忘れさせるための物である。だが、その効果はただの一度きり。一度の服用により肉体は薬への耐性を付けてしまうため、何度も使用する事は出来ないのだ。故に、永琳はそれを一度きりの魔法と呼称した。
 あともっと言えば、これ一錠作るのにちょっとした屋敷を建てるほどの費用がかかる。永琳は、永遠亭に提供された資金を全てこの薬に費やしたのである。つまり、永琳はこの薬の服用者、妖夢に勝負を委ねたという事だ。――だが、肝心の妖夢の魂はまだ現世へと戻ってくる気配はない……。
 ・・・
「こ、ここは……」
 妖夢は目覚めた。しかし、普段の朝の起床とは比べ物にならないほど満ち足りた感覚が全身を包んでいた。身体中が綿のように軽い。肉体を律する全ての緊縛から解き放たれたような清々しさであった。まるで木漏れ日に包まれながらうたた寝をしているような心地良さの中で、妖夢はその場所が幻想郷ではない事、そして、そもそも現世ではない事に気付いた。ここまでの解放感は、常世では決してあり得ぬ物である。ここは、死者が辿り着く場所……。
 天国へと続いている庭園に、妖夢は立っていた。肉体の死により、妖夢は半霊から完全なる霊体となって、この場所に流れ着いたのだ。辺りには白玉楼の庭に勝るとも劣らないほどの桜が咲いていた。夏の終わりだというのに、桜は満開に咲き乱れ、淡紅色の花弁が舞っていた。ここは罪なき死者の魂を洗い流す儀式の間。生命への未練を剥がすための場所である。人は死ぬと、必ずこの場所へと導かれる。この時点ではまだ生前の記憶を保持している場合が多い。
だが、死に対するあらゆる感情は妖夢の中から薄れてしまっていた。この一切の隙間もない陶酔の中に「在れる」事は、生きている間に妖夢がその身で感じてきたどんな感覚にも勝るほどの極楽であったのだ。痛みや恐怖、肉体への負荷、破壊、そして死ぬ事への不安、それらから解放されるというのは、恐らく現世に生きる身体の感覚では到底理解しきれないほどの「安楽」なのだろう。
 そんな「楽な」空間の中で、妖夢は遠くから誰かがこちらへ歩いてくるのに気付いた。あれは……。
「幽々子、様……?」
 名前を呼ばれた「その人」は、妖夢に向かって柔らかな笑みを浮かべた。妖夢にとって、その笑顔はとても嬉しい褒美であった。
『妖夢、本当によく頑張ったわね。偉いわ、妖夢……』
「幽々子様、だけど私は、結局何も出来なかった。……あれ?」
 そう言えば、私は何をしていたのだろう? 死者は、生前の頃の記憶を明確に保持したままあの世へ渡る事は出来ない。この庭園では、今までの記憶が本人も知らぬ間に、徐々に焼却されていくのである。まるで、夢の中の出来事だったかのように、緩やかに、音もなく、その記憶は儚く溶けていってしまう。
『いつか必ず訪れる運命だとしても、まさか、こんなに早く妖夢の「お別れ」に立ち会う日が来るとは思わなかったわ……』
 幽々子の穏やかな言葉を聞きながら、それでも妖夢は頭の片隅で別の事を考えていた。それは、生前の頃に持っていた記憶。その欠落した物が何だったのかを思い出そうとする。
(何か、とても大事な事を忘れてしまっている気がする)
 楽園の甘い香りの中で、妖夢の意識はフワフワと揺らいでいた。生前の頃の悔恨を抹消するための効能である。人を静かにあの世へと誘うための物であった。だが、それでも妖夢は心のどこかで何かが引っかかっているのを感じたのだ。普通なら、何の疑問もなく死を受け入れ、喜んで天国へ渡るというのに。
『何も心配いらないわ。あなたは独りぼっちじゃない。あなたが今から行く国には、孤独も絶望も存在しない。もう、何かに苦しむ必要はなくなったの。それでいいじゃない、妖夢』
「……それも、そうですね……」
 幽々子に諭され、妖夢は「しょうがない」という表情を浮かべた。ここに来た以上、生きていた頃の事などもはや過去でしかない。
「そう言えば幽々子様、私、幽々子様と一緒にご飯を食べたいんです。一緒に食卓を囲んで、他愛ない話をして……」
『ええ、いいわ。これからは毎日一緒にご飯を食べる事が出来るの。でもその前に、一度あの門をくぐりましょう』
 そう言って、幽々子は庭園の奥にある大きな門を指差した。直感で、それが天国へと続く門だと理解した。来る者を一切拒まない、優しさに満ちた、石造りの巨大な門であった。
『天国へ行けば、毎日大事な人と一緒に暮らせるわ。何も不安を感じず、楽しく、幸せに、美味しいご飯を食べる事が出来る……』
 素敵な事でしょう? と、幽々子は妖夢に問いかけた。
 確かにそうだ。だが、それでも妖夢は疑問を感じずにはいられなかった。この胸の奥にある痛みは? どうして、私は痛みを感じているのだろう。肉体は亡く、ここには魂しかないというのに。
 もう、今まで出会ってきた人々の名前すら思い出す事が出来ない。思い出の中の人々の顔が水彩画のように滲んでいく。そこで――。
 とある、人食い妖怪の話を思い出したのだ。
 アレは誰から聞かされた話だったろうか。確か、酷く悲しい話だった。でも、なぜ今になってそんな事が脳裏を過ったのだろうか。記憶が脆く崩れていく。記憶とは「しがらみ」である。その鎖から解放されようとしているのだ。人との絆という束縛から――。
「幽々子様……多分、私はまだ、天国に用はありません」
 妖夢がぽつりと呟いた一言に、幽々子はまるでその言葉を予期していたかのような表情になった。「この子ならきっとそう言うだろう」という、仕方のなさそうな表情であった。
「幽々子様、恐らく私は、大事な何かを忘れてきてしまったようです。もう一度、現世に戻る事は出来ませんか?」
『戻ってどうなるというの? 現世は痛みや悲しみばかり。何にも幸せな事なんてないのよ? ここは、死の向こう側へと続く世界。あなたを傷付ける者など存在しない。それなのに、また、あの辛く険しい「世界(いのち)」へと戻るというの?』
 はい、と。何故か妖夢は迷いなく応える事が出来た。
「多分、もう思い出せないんですけど、何もかも忘れてしまったんですけど、きっと、私は何かをやり残してここへ来てしまった。だから、それをきちんと果たしたいんです」
 幽々子の目を真っ直ぐ見つめて、妖夢はその覚悟を口にした。その途端、急に身体が鉛のように重くなっていくではないか。否、重くなったのではない。コレが、本来の命の重さなのだ。戸惑う妖夢を見つめながら、幽々子は小さく「そう」と呟いた。
『あなたがそこまで言うのなら、その願い、叶えましょう。大丈夫、あなたには私が付いている。たとえあなたの中で生きる尊い物、その全てが悉く砕かれたとしても、あなたのそばには私が在る。あなたがそれを望むのならば――』

 僕は、魂魄の今際にて君を待つ。

 その瞬間、妖夢の身体は一斉に悲鳴を上げた。夥しい数の痛みが身体中を駆け巡った。痛み、それこそ生命の正体である。痛みが妖夢の全身を突き抜ける。呻き声を噛み殺しながら、目の前で優しく、儚い笑みを浮かべる我が主に、言い放った。
 願わくは 花の元にて 春死なむ その如月の 望月の頃――。

 ぼくは、きみに、あいにいく。

「私は、あなたの元へ、幻想郷へ帰りたい……幽々子様……」
 嘘偽りのない思いを、妖夢は伝えた。
『……さっさと帰って来なさい。妖夢』
 いつもの悪戯な笑みで、幽々子はそれに答えた。
 突風が吹き、桜の花が一斉に宙を舞う。そして、妖夢は強い眠気に襲われた。意識がまどろんでいく。身体が、下へ、下へと落ちていく。楽園を追放されると同時に、心臓の音が戻ってくる。
 鼓動は告げる。全てを、喰らってこいと――。
 ・・・
 幻想郷の空が赤く燃えていた。まるでこの世界ごと地獄の底へと突き落とされたような、絶望の赤色に塗れていた。
 取り返しのつかない事が起こってしまった。幻想郷のエネルギーが目に見えないブラックホールに吸い取られ、後に残った物は底知れぬ悲しみと、地獄の焔のみであった。誰もが死を覚悟した。希望は潰えたのだと、その場で勝負を見ていた全ての者が思った。
 その時である――。
「生きている……妖夢はまだ生きているぞっ!」
 最初に、妖夢の鼓動に気付いたのは村紗であった。永琳の薬がようやく効いてきたのだ。肉体から離れた魂が現世へと戻ってきた。徐々に心臓の音が大きくなる。その場で顔を伏せていた人々が一人、また一人と生気を取り戻したように顔を上げる。
「帰ってこい……帰ってこい、妖夢……っ!」
 祈るように村紗が呟いた。その瞬間、命蓮寺の皆が妖夢の元へ駈け寄り、力強く声をかけ続けた。聖が、星が、妖夢の瞳を凝視して呟く。その瞼が開かれるのを願って――。
「目を覚ますんだ……妖夢!」
 それは、大声ではなかった。ひたすらに祈りを、願いを込めたように小さく、それでいて芯のある声であった。皆が辛辛軒のそばへと近付き、共に合掌し、目をつむり、妖夢の生還を願った。
 そして――――ッ!
 心臓の音が、一際強く高鳴った。
 白銀の虎が咆哮する。
その瞬間、妖夢はその眼を見開き、息を吹き返したのである。小さな咳を一つ、少しずつ、安らかな寝息のように呼吸を整えていく。意識はまだはっきりとは戻ってはいない。だが、静かに、妖夢は霞む目で、自身の目の前に置かれた食べかけの担々麺を凝視していた。その目には、怯えも、諦めも無かった。彼女の敵を射殺すような眼を見て、辛神は思わず叫び声を上げた。
『まだ……やるというのか……ッ! この娘は、まだ、何も諦めていないというのか……ッ!』
 それは畏怖の絶叫であったが、同時に歓喜の咆哮のようにも聞こえた。それを聞いた周りの人々は、「勝負はまだ終わっていない」という事に気付かされた。
 嵐のような雄叫びがこの幻想郷、いや、この星を粉々に砕くような勢いで鳴り響いた。人々の歓喜の声に、世界が唸り声を上げているかのようであった。今この瞬間だけは、世界の中心はここだ。
皆が口々に安堵の声を、そして喜びの絶叫を上げていく中、誰かが小さな声である言葉を囁いた。それは、小さくてか細い声だったというのに、不思議と誰よりも力強く、辺りに響いた。
「……勝って、妖夢……」
 誰がそれを放ったのかは分からないが、その言葉が人里中に木霊した瞬間、妖夢は何も言わず、その場で抜刀の動きをして見せた。無刀の構えであった。妖夢の刀は聖が預かっている。刃の存在しないその抜刀で、一体何が斬れるというのか。その時、人々からどよめきの声が上がった。
「――妖夢が、『空』を斬った――?」
それは偶然か必然か――。
 一筋の光が、赤く染まる夜空の彼方から流れた。それは流星であった。流れ星は幻想郷の上空を突っ切るように、空の果てへと消えていく。驚いた事に、幻想郷中を包んでいた紅の空を、流星が真っ二つに切り裂いたのである。偶然か、それとも運命か、まるで、妖夢が地獄の炎によって染められた空をその手で叩き斬ったかのように見えたのだ。この地獄を、この長く続く焔の夜を終わらせに来たのだと皆に誇示するかのように。
「みんな、全部、聞こえていたよ……ありがとう……」
 妖夢の目には、再び、「あの光景」が広がっていた。燃え上がる白玉楼の庭園に、妖夢は立っていた。目の前には、自身の影が。
『妖夢、お前は、私を、斬るのか?』
 先ほどと比べ、影は歪な形となっていた。歪んだその四肢で、なおも妖夢に牙を剥こうと立ちはだかっている。問いに対し、妖夢は眉一つ動かさず、己の敵を見据えた。その手には白楼剣、この勝負が始まった時から、とうに迷いは捨てたつもりでいた。だが、己の影を前にして、改めて自身の未熟さを痛感したのである。
「だから、私は己を越えていく。私は――この勝負に勝つ」
 妖夢は席に戻り、再び箸を持って、地獄一丁に挑む。
『越えるか、私(自分)を……ならば、喰らうがいい』
 静かに、妖夢は麺を口に入れた。だが、そこに恐怖はなかった。対峙する二人、動いたのはほぼ同時であった。お互いが持つ剣が銀色の火花を散らしながらかち合う。剣撃の音が激しく響き、なおも互いに退く様子は見せない。眩いほどの光を放つ殺意の太刀が赤黒く染まった世界を照らしていく。火の手によって葬られた桜の花弁が蛍火のように宙を舞う。煉獄の夜桜が茜色に染まる。死に満ちたこの世界の中で、迷いをかなぐり捨てた二つの刀が咆えた。朱に染まった地獄絵図に、銀色の花が咲いた。
「強い……ッ! これが……私の影ッ!」
 最大の敵は自分、妖夢はこれまでに幾度も困難な敵と対峙してきた。時には窮地に追いやられ、死を突き付けられた事もある。だが、本当の敵は己の中にこそ存在する。これほど恐ろしい敵は二人といない。妖夢は、たった今それを乗り越えようとしているのだ。
『そうだ……それこそがお前の力だ……私を殺してみろッ! お前の影に私は存在するッ! お前の闇だ……お前が作り出した、本当の「私」の姿だ……さぁ、一線を越えてみろッ!』
 妖夢に一瞬の隙が生まれた。影は、その瞬間を見逃す事はなかった。無慈悲に放たれたその一閃に、妖夢は辛うじて反応する。剣で敵の攻撃を受け流し、再び激しい攻防を繰り広げる。妖夢の心が晴れるほど、迷いを捨てるほど、敵はその脅威を増していく。まるで光によって生まれた「影」その物であった。
 大焦熱地獄もついに終わりを迎える。我武者羅に容器の中で火の粉を吐いている担々麺に齧りつき、ついに、妖夢は己の中に潜む闇とケリをつける決心がついた。人間、心があればそこには必ず薄暗い何かが生まれるものである。妖夢は、その「弱さ」を肯定する事に決めたのだ。彼女は、清々しい笑みを浮かべ、答えた。
「共に生きていこう。影(あなた)も、私の一部なのだから……」
刀を構え、妖夢は自身の影である存在を一刀両断する。
――トン、と小さな音が立つ。海の底のように静寂な空間で、妖夢は己の中に潜む魔物を打ち取った。大焦熱地獄を突破したのだ。
『……それでいいんだよ、妖夢……ありがとう……』
 結界のように広がっていた白玉楼の光景が、妖夢の目の前から消失していく。そして、妖夢の影は崩れ去る瞬間、嬉しそうに笑ってみせた。陰と陽が一つに交わったのだ。
妖夢は、また一つ、大人になった。
その瞬間、妖夢の視界は現実へと引き戻された。だが、ここもまたあの精神世界と同じ地獄である事に変わりはない。
『敗れるのか……私が……』
 辛神の表情には焦りなどなかった。妖夢がここまで来た以上、もうそこに姑息な考えや策略など何の意味も成さないからだ。
 ならばその全てを見届けなければならない。辛神の心に一つの答えが生まれた。これは、全ての生きとし生ける者の問いかけである。我々は何処から生まれ、何処へ行くのか? 彼女なら、妖夢なら、その答えを知っているのかもしれない……。
 勝負を見ていた人々も、歓声を上げる事はなかった。今までは妖夢の一挙手一投足に一喜一憂するばかりであったが、彼らは妖夢と同じように、黙って地獄一丁を見据えていた。そう、もう誰も観客ではいられなかったのである。幻想郷は、妖夢と同じ敵に立ち向かう事を決意したのだ。皆、妖夢と一緒に戦っているのだ。
 そして、妖夢は最後の地獄へと辿り着く。
地獄の底の底、最終ステージ『阿鼻☆地獄』である。
あまりにも字面が禍々しいので真ん中に「☆」を入れてちょっと可愛い感じで中和しないといけないほどである。だが、その様子を見ていた永琳はある事に気付いた。
「しまった……麺が……」
麺が、もう無いのである。
そう、度重なる戦いの中で、妖夢は知らず知らずのうちにスープだけを残し、麺を完食してしまっていたのだ。激辛担々麺を食べる上で、麺が無いというのは命取りである。
だが、妖夢は取り乱す事はなかった。盾も剣もなくした今、もう、箸とれんげも持つ必要はない。
人は後に、その姿を『天を仰ぐ者』と呼んだ。
妖夢は、真っ赤なスープだけが残った担々麺の丼と高々と掲げ、ゆっくりとそのまま丼の淵に口を付けたのである。確実に完食を狙うためのスタイルである。それはまるで、天から人々を見下ろしている神々を仰ぎ見るような姿であった。
「これが、最後の戦いだ……」
妖夢は、ぐいっとスープを呷った。まるで、溶岩を口の中に流し込んでいるかのような熱さであった。そして、その痛みは、これまでの戦いとは比にならないほど強烈な物であった。舌が、喉が、胃が焼け焦げていくような感覚であった。ひしと丼を大事に抱えている妖夢の手が震えた。まるで神を喰らうが如く、光を呑み込むが如く、妖夢の身体は罰せられたかのように悲鳴を上げる。妖夢と同じように、皆がその痛みに苦悶の表情を浮かべていた。最早、妖夢の痛みは幻想郷の痛みなのだ。誰もが絶句するしかなかった。本当は「もう十分だ」と言ってやりたかった。だが、彼女はこの苦痛に耐えているのだ。もう、この勝負を止めるわけにはいかない。
「頑張れ……頑張れ妖夢―――ッ、その手を離すな――――ッ!!」
その時、誰もが閉口する中で、少女の掠れた声が響き渡った。その声の主は、鈴仙であった。前にあの地獄一丁に挑んでから一度も声を発する事が出来なかった彼女が、ここに来てついに叫んだのである。それは親友を想っての声であった。本当は誰よりも妖夢の身を案じていた鈴仙が、離すなと叫んだ。もう、これは戦いではない。これは血で血を洗う戦争などではない。生きとし生ける全ての生き物の想いを背負った少女が、命を燃やしているのだ。もう、気遣うのはやめだ。共に、証明しよう。命の輝きを――。
(ありがとう、鈴仙……あなたの気持ち、確かに受け取った……)
 刹那、妖夢の意識の中に凄まじいほどの光が入り込み、彼女の中でスパークした。脳内で火花が飛び散る。血液がドクドクと脈を打ちながら全身を駆け巡る。一瞬、妖夢は担々麺の容器を危うくその手から滑らせて落としそうになった。何とか持ちこたえるが、既に満身創痍、そこに地獄のエキスがふんだんに使われた死のスープを息継ぎもせずに喉へと流し込んでいるのである。永琳の薬はもう残ってはいない。完全に退路が絶たれた状態である。
 負けてたまるか―――――ッ!!
 スープを口に流しながら、妖夢は雄叫びを上げた。燃料を投下された暴走機関車のように、ただひたすら妖夢は地獄の世界を両断していく。地獄一丁に屠られてきた全ての者達の願いを背負い、彼女はスープの底を目指す。
 すると妖夢は、喉の奥から熱を有した何かが込み上げてくるのを感じた。それは、この世の物とは思えないほど奇妙な感覚であった。まるで、胃袋から世界が広がっていくような、自身の内臓の中で、一つの惑星が生まれたかのような――、言葉では言い表せないような何かが妖夢の五感に起こっていた。
(でも、何だろうこの感覚……不思議と、嫌じゃない……)
 そう、その得体の知れない体感を妖夢は知っていた。これは、あの仮死状態の中で見た極楽の世界、あの肉体に纏わりつくありとあらゆる負荷から解放されたような多幸感……。
 その瞬間、妖夢の精神は煌々と輝く光の中へと導かれた。そう、それを一言で表すのなら、まさに『天国』である……。
(まるで、全てに祝福されているかのような……)
 目の前に一つの巨大な宇宙が広がる。
 星々が砕かれ、塵が生まれ、一つの大きな星となる。そこに命が生まれ、人が生まれ、世界が創造される。人々は神を作り、信仰し、命を讃える。また、人は集まり、友になって、仲間が出来て、奇跡が起きて愛し合い、家族になり、その絆はまたあどけない命を、未来を生む。それが、人の世である。妖夢は思った。
 それなのに、どうして人と人は争うのだろう。どうして、戦争なんてあるんだろう。人種の中で差別が生まれてしまうんだろう。国境、肌の色や宗教、どうしてこの世は一つになれないんだろう。
 みんな、一つの命なのに……ッ!
「お、おい……あの子……」
「スープを飲みながら、泣いている……?」
 妖夢は空を仰ぎながら、涙を零していた。人間が生み出したのは尊い物だけではない。悲しき血の歴史の中で、人々は常に何かを見て見ぬふりをして日々を滑らせて生きている。皆、何かに負い目を感じながら、「仕方がない」と言い訳をして生きている。
 戦争、論争、紛争、この世は争いばかり。どうして私達の世の中には、悲しみが絶えないのだろう。皆、ただ生きていたいだけなのに。幸せでありたいだけなのに。どうして、その命を奪い合うんだ?
 この妖夢、何か色々と危ないな。思考が。

『聞こえるか……半霊の少女よ……』

 その時、光の彼方から柳の揺れるような声が響いた。男の、それもかなりしゃがれた老人の声であった。もちろん初めて聞く声であった。だが、妖夢はその声の主の事を知っているような気がした。いや、妖夢だけではない。その声の主は、この世に生を持つ者なら誰もが知っているお方であった。
(あなたは、神様……?)
 そう、この世のすべてを創造した神の声であった。神に名はない。神は誰の記憶にも残らない存在である。故に、その名はない。
『その火のスープに触れた事により、おぬしは世界の真理を目の当たりにした。人の世に渦巻く闇の側面に気付いたようじゃな……』
(神様……あなたはなんでこんなに残酷な世の中を作ったんですか? もっと楽しい世界だったら、誰も不幸にはならないのに)
 神に出会った時、人は一体何を告げるだろうか? 妖夢の場合は、疑問を投げかける事しか出来なかった。それも、ただひたすらに真っ直ぐな疑問符であった。
『あっほう、それはこっちの台詞だ』
 では、神が人に出会った場合、そのお方は人に一体何を言うのだろうか。それは、本当に単純な一言であった。
 ――何故? と。
『おぬしらは物事を難しく考えすぎなんだよ。世の中はもっとシンプルでいい筈じゃないか。正義だ悪だと、おぬしらは互いに訳の分からんレッテルを貼り合って、意味もなく憎み合っている。もっと真っすぐでいいんだよ、人生はストレートで良いんだ』
 良くわかんないけどとりあえず、何か腹立つなコイツ。
『地上にカップラーメンが生まれるだろうか? 初めから調理された食材が、地面から生えてくるか? そんな訳ない。生き物は、他の動物の命を奪って「食」を得る。命を明日に繋げておる。焦って考える必要はない。まずは食事に、その命に感謝する事から始めるんだ。いただきますと、心から思うんだ……』
 そう言って、神は光の彼方へと消えていった。何か、最後まであんまり良い事を言わないキャラクターだったのでこのシーンはボツにしようかと思ったけど「もう何でもいいや」と思って無理やり入れました。ありがとう。
「ありがとう……神様……ッ」
 妖夢は目に涙を溜めながら、遠くなっていくその影を見送った。凄い感銘を受けたような感じになっているけど、多分妖夢も内心「アレ? この人、物凄く良いタイミングで仰々しく登場した割に月並みな事しか言わないし、別に大して役に立ってないけど、ボツじゃないの?」と疑問を感じているんだろうけど、そろそろ終番近いしこの際だから黙っておくね、はい。
 妖夢の意識は、幻想郷へと戻ってきた。
 命の砂時計はひっくり返す事を許されていない。流れていった時間という名の砂は戻る事を知らず、さらさらと落ちていく。しかし、この時だけは、この瞬間だけは、誰もがその砂の流れを止めてしまっていた。一体、何時間経過しただろうか? それはあっという間の出来事にも思えたし、果てしなく長い戦いにも思えただろう。皆は時を忘れ、砂時計のメモリを確認する事もせず、ただ一心に妖夢を見つめていた。器に口をつけ、天空から人々を見下ろす神様仏様にメンチ切るように、空を仰ぎ見ていた。
 もう、辛さは感じていなかった。痛みも、苦しみも、妖夢の尊厳を脅かすには足りない。それ以上に、感謝が勝っていた。この担々麺に、この世に存在する全ての料理に――。
 何より、この担々麺、地獄一丁を作った方に、感謝の気持ちを込めて、妖夢は言い放った。

「ごちそう……、さまでした……ッ!」

 妖夢が、地獄一丁の器をコトンと、机の上に置いた。
 空になった、器を――。
 妖夢は、食ったのだ――。
 火の粉を散らす昇り龍を――。
 そこで妖夢は、器の底に文字が書かれているのに気が付いた。そう、それは、地獄一丁を完食した者のみが拝める文字である。
『この一滴が 最高の 喜び』
 一蘭かよ。
 それは、夏の夜が起こした奇跡か――、その場で妖夢の戦いを見守っていた人々が少しずつ歓喜の声を上げていく。しかし、それ以上に、驚きの声が大きかった。一人、また一人と、幻想郷の住民達が空を見上げていく。残暑の夜、夏の終わり。

 夏の夜空から、雪が降ってきたのだ――。

 それは、命を燃やし尽くした龍の灰か、はたまた、その使命を謳歌した事による命の涙か、正体不明の雪が静かに幻想郷へと降り注いだ。ふと、妖夢は妖怪の山を見つめた。先ほどまで禍々しく飛翔していた龍が、その恐ろしい姿をボロボロと崩していく。戦いが終わった事を告げる雪の結晶が、この土地に生きる全ての命の傷を癒すかのように舞い上がる。それは、魔法か、はたまた奇跡か、あれだけ勢いを増しながら燃え広がっていた妖怪の山の火事が、まるで幻想だったかのように消えていったのだ。
「今年も、夏が終わったのね……」
 妖夢はそう言いながらその場で膝を折った。魂魄妖夢、正真正銘の店仕舞い、完全に体力が尽きたのだ。妖夢の身体はそのまま緩やかに、地面へと崩れ落ちていく……が、この場にいた全ての人妖達は、それを許さなかった。この土地の為に命を懸けて戦い続けた侍が、最後に地面に倒れ伏す事なんて、許せなかった。ざわつく群衆の中で、誰かが言った。あの侍を、土で汚してはならない、と。
 ・・・
 妖怪の山には、最後の瞬間まで燃え盛る焔と戦い続けた妖怪達が居た。守矢神社の神々が、その先頭に立っていた。神々が愛した幻想郷を滅ぼす事など赦さぬと。しかし、オレンジ色に焼け爛れていた夜空から、銀色の雨が降り注いだ。否、これは雨ではなく雪だ。誰かが言った。妖夢が、勝ったのだ、と。
火の勢いを止めるために最前線で結界を張り続けていた早苗は、息も絶え絶えのまま人里の方を見た。異変が終わった事を知ったのだ。彼女の手には夥しい数の火傷が目立った。無理もない、あれだけ地獄の業火の前にいたのだ。彼女だけではない。辛うじて死者こそ出ていないものの、その場にいた者達は皆、傷だらけであった。顔や、衣服、身体中が煤けていた。目だけが、汚れていなかった。
「終わったんだ、全部」
 早苗がそう呟くと、その隣にいた神奈子が優しく頷き、黙ったままその場に座り込んだ。本当は誰よりも疲弊しているのは神奈子であった。彼女は何も言わず、早苗に自身の力全てを注ぎ込んでいた。
「雪だ……夏の終わりに……」
 皆がその粉雪に驚嘆した。夏に雪が降ったら、それはおとぎ話の出来事である。だが、この幻想郷になら、そんな奇跡が起こっても不思議ではないのかもしれない。
 驚くべき事に、ゆらゆらと落ちてきたその雪の結晶に触れた途端、先ほどの炎で負った傷が音もなく溶けていくのだった。皆がそれに気付いた瞬間、一斉に歓声を上げた。先ほどまで守矢神社を囲んでいた炎も、まるで何もなかったかのように綺麗に洗い流されてしまっていた。全て、幻想であったかのように。そこで、神奈子は初めて、この異変の「本当の姿」に気付いた。
(そういう事かよ……まったく……)
 ・・・
 地面に倒れそうになった妖夢の身体を、誰かがそっと抱き留めた。それは、命蓮寺の、過去に、人を愛した人食い妖怪であった。
「し、星、さん……」
 妖夢はこの戦いで証明したのだ。過去に寅丸星が選んだ道は、決して間違いではないという事を。だって、人はこんなにも素晴らしい。彼女は、間違った選択などしていないのだ。彼女が、寅丸星が人を好きになった事は、正しい事だったのだ――。
 皆が、妖夢の元へと駆け寄ってくる。村紗が、零れる涙を拭う事もせずに妖夢を抱きしめた。聖が、一歩離れたところでその様子を見守っていた。皆が妖夢を見ていた。そこに、種族など無い。生まれも育ちも関係ない。皆が、ただ、一人の侍を見つめていた。
『……私の負け……ですね』
 その途端、辛辛軒の亭主である辛神が、その凶暴な頭部に巻いていたタオルを取り、妖夢の前へと歩み寄り、そして、静かに頭を下げた。
『……食べてくれて、ありがとう……ッ』
「て、亭主さん……」
 辛神は泣いていた。それは、勝負に敗れた悔しさから溢れた涙ではない。辛神は、ただ一心に、自身の作った料理を完食してくれた目の前の少女に感謝していたのだ。
『あなたの、勝ちです……ちゃんと、食べてくれて、本当に、本当にありがとうございました……ッ』
 
 雪が幻想郷に降り積もる。妖夢が、泣き崩れる辛神に何かを言おうとした。その瞬間、妖夢が息を吸った一瞬、無数に降り続けていた雪が、音もなくピタリと止んだ。それに気付き、誰もが空を見上げた瞬間であった。
 もう、そこに辛神の姿はなかった。彼だけではない。辛辛軒そのものが、まるで夢であったかのように消失してしまっていた。
 夏が、終わった――。
 激辛異変は、解決したのである――。
 その瞬間、幻想郷が雄叫びを上げた。勝鬨の声であった。悪夢が去ったのだと、皆が祝福の声を上げていた。夏の終わりに、眩く輝く白の世界、妖夢は、力尽きるその瞬間までその光景を目に焼き付けようと思った。命蓮寺の皆が、永遠亭の皆が、妖夢を囲んだ。妖夢は彼女達の表情を見た。この笑顔は、戦うに値する。確信を持ってそう言える。妖夢は今度こそ眠りに落ちようと目を閉じた。
「頑張ったわねぇ、妖夢」
 その時、妖夢が最も聞きたいと思っていた声が聞こえた。これだけ歓声が溢れている空間だというのに、その小さな呟きだけは聞き逃さなかった。妖夢ははっと目を開き、辺りを見渡した。あの人がいる。あの人の声がする――。よろよろと立ち上がり、妖夢はその声がした方向へと歩き出す。しかし、一人ではない。多く人が妖夢の身体を支えていた。
「何処ですか……ッ、幽々子様、幽々子様ぁ……」
 本当は笑って会いたかったのに、妖夢はもう涙を堪える事が出来なかった。早く、自分の主と会いたかったのだ。
 皆が妖夢の身体を支える。英雄の凱旋を見守るように、人々が妖夢の為に道を空けていく。その先に、あの人はいた――。
「幽々子、様……」
 前のめりに倒れそうになったのを、幽々子が駆け寄って抱き抱えた。主の胸の中で、妖夢はひたすら泣き崩れた。本当は言いたい事がいっぱいあった筈なのに、彼女を前にした途端、全てが雪のように溶けてしまった。溶けた雫が涙となって妖夢の瞳から溢れた。
「妖夢、ちゃんと見ていたよ。頑張ったね……頑張ったよね……」
 幽々子の声は微かに震えていた。妖夢にとっては、これ以上ないほどの褒美であった。主人の前である事も忘れ、命を懸けた戦士であった事も忘れ、妖夢は、ただ一人の少女へと戻った。
「幽々子様ぁ……私、頑張った、頑張ったよぉ……」
 大粒の涙を流し、満ち足りた表情で、妖夢はそのまま気を失った。主である幽々子の体温は冷たい。だが、それでも、何処よりも安心する場所であるかのように、妖夢は寝息を立てた。
夏の終わりに雪が降る。それは、ほんの一時の夏の夢であった。今年も夏が終わる。異変が終わる。宴会が始まる。いつもの幻想郷に戻っていく。いつもの日常に戻っていく。

それは、半端な侍が夢見た景色であった。
それは、白銀の少女が取り戻した世界であった。



『エピローグ?』


あの戦いから一週間経った。人里で流行していた激辛ブームは徐々に失速していき、ブームに乗っかる為にオープンしていた激辛料理店も通常の小料理屋へと戻っていった。
あれだけの異変があったのだ。皆、口を揃えて「辛い物は程々に」と言い出し、ブームは瞬く間に過ぎ去ってしまった。所詮は人間と妖怪が伊達と酔狂で始めた、おかしな祭りに過ぎないのである。
結局、大繁盛していたチルノの甘味処『ヒヤシンス』も程なくして店を閉めてしまい、そこで得た大金はチルノ本人の好意によって妖怪の山の復興資金へと回った。それを恩義に感じた八坂神奈子は、特別に妖怪の山の天狗や河童達がよく憩いの場として使用している土地と、そこで好きな時に自分の店を経営する権利書を与えたのである。縄張り意識の高い妖怪の山で、これは異例中の異例とも呼べる権威であった。だが、基本的に飽き性なチルノである。一年中働くのは嫌、なので、夏季限定で、それも自分の気が向いた時に店を再開するという事にした。何ともマイペースなかき氷屋であるが、後にその店は天狗や河童達の夏の避暑地として再び繁盛する事になる。本当に、最後の最後までチルノったら最強ね。
全ての争いが過ぎ去り、人里は元の活気ある形へとその姿を変えていった。そんな中、一軒だけ空き家が幻想郷の隅にあった。そこは、辛辛軒があった場所である。だが、程なくして新たにその空き家を借りて、商売を始めた者がいた。
なんとそれは、あの激辛異変の時、初めて地獄一丁を口にした、例の名無しの権兵衛であった。あの激辛の担々麺を口にして以来、男は身なりをひそめ、家で密かにある事をしていた。それは、「辛いが、美味しい」担々麺の模索である。彼は地獄一丁に敗れて以来、激辛料理をもっと安全に、誰もが楽しめる物にしたいと考えたのだ。妻子を巻き込み、一家揃って方々の料理屋で修業を積み、ついに店をオープンしたのである。店の名前は『旨辛軒』最初は誰もが警戒していた。あの恐怖の異変が再び起きたのではないかと。しかし、そんなある日、旨辛軒にお客さんが現れた。その客は、博麗霊夢であった。下火となった激辛ブームであったが、その人気はまだ根強い物があった。皆、権兵衛が作る担々麺に興味を持っていたが、様子見をしている状態であった。だが、霊夢の「美味い!」の一言により、旨辛軒は徐々にお客さんが入るようになった。ささやかながら、あの恐怖の事件を起こした辛神の、「料理を食べてほしい」という真心だけは、今も幻想郷で静かに受け継がれているのである。
・・・
 マヨヒガにて――。
「まさかここまで大事になるとは思わなかったけど、幻想郷の皆にはいい経験になったので、まぁ良しとしましょうか」
 幻想郷の妖怪の賢者である八雲紫が苦笑する。
『……今回の件で私も多くの事を学ばせてもらいましたよ……本当に、あなたには頭が上がらないです……』
 紫と話している相手は、なんと、あの激辛異変の主犯である辛神であった。何処からともなく差し出された湯呑を受け取り、辛神は照れ臭そうに頭を掻いていた。両者がどういう関係にあるのかは誰も知らない。だが、そんな二人の会話に、紫の式である八雲藍が思わず割って入ってきた。
「笑い事じゃないですよ紫様……こっちは色々と大変だったんですから。まさか妖怪の山が噴火する事態になるなんて……」
「あら、でも死人は出なかったでしょう?」
 そういう問題じゃないです! という藍の言葉に、紫はケラケラと笑ってみせた。その笑顔に、辛神も思わず薄っすらと笑みを浮かべた。この様子から見て、この二人は恐らく剣呑な関係ではない事が伺える。
『白玉楼の庭師、でしたっけ……あの妖夢って子。あの子ほんとに凄いですよ。一度外の世界で修業させてみては?』
「まぁ、駄目よ。あの子がいなくなったら、幽々子が可哀想じゃない。せっかくの福岡旅行だっていうのに、幽々子ったらずっと妖夢が恋しくて寂しい思いをしてしたのよ?」
 だったら最初から出て行けなんて言わなきゃ良かっただろ、と藍は思った。そもそも、実を言うと今回の異変で最も貧乏くじを引かされたのはこの八雲藍である。機能停止した冥界、滞る仕事、閻魔への交渉、そしてさらに妖怪の山噴火の際のカバー、事件の影で彼女は想像を絶する激務を強いられていた。しかし、本人曰く、まぁこのくらいなら許容範囲、との事。
 その時――。
「何だ。こんなところに牛がいる」
 マヨヒガに足を運ぶ人間なんて限られている。紫はめんどくさそうな表情で声のする方に視線を移した。そこには、金髪の白黒魔法少女、霧雨魔理沙が仁王立ちしていた。
「あら、いらっしゃい魔理沙。歓迎しないわ」
 皮肉っぽく言い捨てる紫を無視し、魔理沙は頭を掻きながら辛神の方へと歩み寄った。
「霊夢から聞いたぜ。アンタが作る激辛担々麺、食わせてくれよ!」
 いまさら何を言うのだ、と紫も藍も呆れていたが、辛神だけはクスッと笑みを浮かべていた。
「というか魔理沙、異変中ずっと何処にいたの?」
「激辛ショートケーキの食い過ぎで腹壊してさ、異変が起こっている間、ずっと一歩も外に出られなかったんだよ」
 ゲテモノの極みである。騒ぎになっていた人里に一度も顔を出さなかった理由はそれかと、紫はあきれて物も言えなくなった。
「なぁーいいだろう? なぁーなぁー」
『ふ、仕方ないですねぇ……紫さん、台所をお借りしてもよろしいですか?』
 わーいと謎の歓声を上げる魔理沙であった。この辛神が作る担々麺、地獄一丁が、一体どれ程の脅威を持っているのか、彼女は知らない。藍は止めようとしたが、紫がそれを制した。理由はただ一つ。面白そうだったから。
 ところで、辛い食べ物は美味しい。だが、何事も度が過ぎれば毒である。今回の異変によって、幻想郷の住民達はその事を文字通り痛いほど思い知った事だろう。
 しかし、だからこそ辛い食べ物は面白い。それは食事とはまた違う、まさしく戦いにも似たドラマが存在する。唐辛子の攻撃的な辛さを味わいながら、その壁の向こうに待ち構えているであろう料理本来の美味しさを見つける物語、危険が伴う程、その感動は一入増す物である。
『さて……魔理沙さんでしたか……お待たせいたしました、こちらが、『地獄一丁』になります』
「うへえ……すっげー色しているな」
 魔理沙の目の前に、今回の異変の核である担々麺、地獄一丁が静かに置かれた。魔理沙は恐る恐るその香りを嗅いでみる。
「それにしてもコレ、改めて凄い食べ物よねぇ……」
 紫も、この地獄一丁を目の当たりにするのはこれが初めてであり、魔理沙同様に興味津々といった様子であった。魔理沙は行儀よく手を合わせ、目をつむって「いただきます」と呟いた。異変時に出していた丼と比べて、この地獄一丁は比較的サイズが小さい。それでも、この器の中に秘められている脅威は本物である。
 ところで、辛い食べ物は美味しい。味覚の枠には縛られない、未知の世界である。その辛さの度合いは人によって千差万別であり、そこには多少なりとも得手不得手が生じる。
 紫と藍が、呆気にとられた表情を浮かべていた。それに気付いた辛神が魔理沙の方へと視線を移すと――。

「滅茶苦茶美味いなコレ」

 魔理沙が、地獄一丁を平らげてしまっていたのである。その様子を見て、辛神はこう思った。

 これだから、激辛とは面白い。
行き場の無い原稿でしたので、このままフォルダ内で眠らせておくのもどうかと思い、こちらの方で公開させていただく事にしました。コメントでの感想、評価の方を是非よろしくお願いします。
電柱.
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.450簡易評価
1.80奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
5.無評価福音棄者削除
私も辛い食べ物を好んでいます。辛い食べ物は体を暖めて、明日への活力となる。
妖夢は本当に武人ですね。祖父から教えられたであろう屈強な精神、成長していこうとする若さ、挑戦を懼れない強さ、王道的な素直さ。
非道な辛神、ミノタウロスっぽいオリキャラも人間を超越した存在としての不気味さがよく描写されていました。人間に理不尽な試練を課し、乗り越えた者には純粋な敬意を示すが、落伍した者には冷酷な罰を押し付ける。
幻想郷を地獄に変えようとする神、それに抵抗する勇敢な人妖。畏れるべき鬼も本気で戦おうとするものの、神には勝てない。絶望しかありません。
ですが、一人の少女が足掻き、学び、正面から堂々と狡猾な神を打ち破る、このカタルシスがたまりませんでした。
弾幕が通用しない相手とも戦うのもええかんじです。
大作お疲れさまでした。とても大好きな作品です。
6.100福音棄者削除
評価入れ忘れました。申し訳ありません。
7.100名前が無い程度の能力削除
ぶっ飛んだ話なのに、勢いとユーモアだけで消化するのではなく、異変が起きた背景とかモブとか細かいところがあれこれきちんと描写されてて面白いです
そもそもフードバトルと言う題材(しかも辛い食事のみ)でノベル一冊分の文章量である事も凄いですが…
地の文のセルフツッコミにヤケクソ気味に書いた片鱗が見えるのに誤字などは確認できないのがまたスゴイ
登場時の妖夢が可愛すぎませんかね…と言うか主人公は妖夢って事で良いんですかこれ
仮に主人公としても登場まで時間がかかった事にプロットとストーリーの錯綜っぷりが推察されてクスリと来ます
鬼二人のレスラー会見とか激辛ラーメンの奥深くまで侵入することで唐辛子のパワーに寄る噴火など(これマジ?)つっこまざるを得ない要素なのにどうしても続きを読みたくて仕方ない感じがスゴイ
スゴイしか言ってませんね(語彙の不足)
他にも三ヶ月経ってんのにまだ鈴仙は喉やられとるんかいとかそもそんな激辛の食事したらケツの穴がやられてマトモにウ〇コもできねえだろとか語り尽くせぬ感じなんですが、とにかく面白かったです
辛さというのは舌が感じている痛みだそうだが火炎龍にはシュウ酸カルシウムでも入っとんのか(死ぬ)
チルノが良い奴すぎて最強だなと思いました
ヒヤシンスって店名も何か「らしい」感じで可愛い
合間合間に紫と幽々子の緊張感のかけらも無い旅行風景が差し込まれるのも良かったです
それにしても魔理沙の味覚は狂ってるな…やっぱり異変を解決するのは主人公なんだ
激辛はパワーだぜ
とまあキリが無いのでこれを感想と変えさせて頂きます
8.100南条削除
素晴らしく面白かったです
最高です
完璧です
担々麺1杯食べるのに何キロバイトかかるんだよという雑念は消し飛びました
お昼は担々麺にしました
あまりにも大げさに騒ぐ民衆がはんぱないです
すべてから解き放たれたような妖夢の成長もさることながら打てば響くようなネタとツッコミの応酬が素晴らしかったです
9.100サク_ウマ削除
つよいですね。よかったです
10.100乙子削除
語彙、パロ、流れ、ボリューム、そしてなんだこの8ページ。読んでよかったです。
一体何を食べたらこんなものが描けるようになるのか教えていただきたい。
私はこれから担々麺を食べに行ってまいります。
12.100ばかのひ削除
文句なしの100点、最高に面白かったです
鬼の喧嘩で笑い、幽々子様が出てきたところに泣かされ、地の文であれだけしてるのに冗長にならないと感心させられ、大変エンターテイメントに溢れた作品でした
15.無評価電柱.削除
>>1奇声を発する人さん
その一言、冥利に尽きます……
>>5福音棄者さん
有り難い……有り難い……
ちょっと前にとある中華屋で完全に度が過ぎてるレベルの辛い担々麺を食べた際にこの話を思いつきました。
次回作も期待して待ってて下さいね!
>>7名無しさん
100%ガチの悪ふざけって感じで書けましたので書いてて楽しかったです。
グルメ物は本当に難しい……次は純粋なバトルとかも書きたいですね!
>>8南条さん
ありがとうございます。皆さんそうですが、本当長い話に付き合って下さって感謝感激雨アラレちゃんでございます(キーンって言いながら空の彼方まで飛んでいく)。次回作も鋭意制作中ですのでご期待下さいね!
>>9サク_ウマさん
ありがとうございます。妖夢は強い子です。そしてカッコ可愛い。
>>10乙子さん
お褒めの言葉マジ感謝でございます。担々麺を食べる際は攻めと守りを意識して相手の弱点を見極める事が大切ですよ。これからも頑張っていきますのでご期待下さい。
>>12ばかのひさん
恐縮です……恐縮です……!
これからはちょっと読み専期間に入りますが、書きたい話が2兆個くらいあるので次の作品も期待してて下さい。

評価を下さった方々、感謝の気持ちで胸がいっぱいです。
これからも精進して参ります。本当にありがとうございます。
16.100モブ削除
 
まず、この長さの文章を仕上げた。それだけで素晴らしいと思います

・普通に起こっていることが大災害レベルで笑う
・コラコラ問答は本人たちの音声が再生されてしまった。これは卑怯
・パワーホール→Eye of the Tiger→爆勝宣言→奇跡のマッスルドッキング(私の炎の魂で)→スパルタンXとBGMが脳内再生された
・どこからか入ってくる宇宙意志的な解説。戦え、妖夢! 吠えろ、妖夢――ッ!!からの『白銀の侍、死す』というオチに往年の少年漫画のパワーを感じた
・綺麗な終わりかた、してるだろ……?よくよく見たら担々麺食べる話なんだぜ、これ……
・他様々なツッコミどころを封殺するかのような文章のごり押し。

とりあえず作者様がプロレスが好きなことはわかりました。面白かったです。御馳走様でした
17.90厨二病のコブシメ削除
長期連載のヒロイックサーガを読了した気分になりました。読んでて楽しかったです。
そして魔理沙、最初からお前が居れば…。
18.100終身名誉なんちゃら削除
話も食事の内容もすごいボリュームでした…
お酒に辛いものが合うのに、あんまりそのコンビが東方で見られなかった
のが不思議になるくらい世界観にマッチしてました。
勢いとユーモアにただただ圧倒されました。
19.100評価する程度の能力削除
HOTELエイリアンから来ました、凄く面白かったです!
多分後にも先にも200kbを一気に読みきることはない…気がする。
文章は至って真面目でそれっぽいのに内容がもうなんか色々とアレで、私は好きです(誉め言葉)
最後にひとつ。





私も一輪とムラサとみょんとUNOをしたい人生だった…(真顔)
20.100肉を焼く程度の能力削除
君ハイセンス