Coolier - 新生・東方創想話

火ノ粉ヲ散ラス昇龍

2018/12/10 02:56:50
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第三章『一切の希望を捨てよ』


 幻想郷の遥か上空、雲を抜けた先、空気が一層薄くなる空間に結界の弱まる空洞が存在する。そこを抜けた先に広がるのは冥界と呼ばれる世界である。仮に幻想郷観光ツアーがあれば、ここはまさに定番のスポットと言えるだろう。死後、閻魔による裁判を終えた人々がそれぞれ成仏、転生を待つ場である。元々は長閑で質素、趣を感じられる日本庭園のように静かな場所であった。
 そんな冥界に、白玉楼と呼ばれる屋敷がある。冥界に存在する幽霊達を管理する西行寺という名家の屋敷である。
 死後、死体をこの白玉楼に封印され、永遠の時をこの屋敷で過ごしている見目麗しき可憐な亡霊、西行寺幽々子は悩んでいた。
 ――福山〇治のライブに行きたい――。
 何を隠そう、西行寺幽々子は外の世界の音楽にハマっていた。普段は何らかの趣味でも結局途中で投げ出すほどの飽き性である筈の彼女がここまで何かに没頭するのは珍しい事である。
 特にお気に入りであったのが福山〇治である。彼の甘いマスク、闇夜を切り裂くような優しくも力強い歌声に、幽々子は完全に心奪われていた。実を言うと、これまでも幽々子は度々お忍びで外の世界に出向き、彼のライブに顔を出しているという。
 しかし、そのためには多大な犠牲を払わなければならない。まず、前述のとおり幽々子は肉体をこの白玉楼に封印しているため、結界の外である現代に出る事は本当に容易な事ではない。まず、幽々子は現代人としての体を用意する必要がある。その肉体に亡霊である自分自身を投影する事により、ようやく外へと出る事が出来る。
しかしその間、幽霊の管理は完全にストップしてしまう事になる。業務の大半は彼女の従者である半人半霊の庭師、魂魄妖夢にも行えるが、妖夢は半人前の為、トラブルが起きた際にマニュアル以外の方法で対処する事が出来ない。それに、ここは死者を管理する場である。妖夢の立場では判断しかねる案件も多い。
ではどうするか?
簡単な事だ。冥界を閉鎖しちゃえばいい。
あくまでも一時的、ほんのひと時である。しかし、そのためには幽々子の直属の上司にあたる存在、閻魔、四季映姫・ヤマザナ何たらを欺く必要がある。前回外の世界に出向いた際は、白玉楼で屋敷の手入れなどを行っている雑用幽霊達のストライキが発生したのと同時期であった。賃金上げを要求されたのだ。幽々子はこれ幸いとそのプチ騒動を利用し、閻魔に業務停止の許可を貰い、休暇という大義名分で大手を振ってライブへと足を運んだのである。
……ちなみにその時にハマっていたのは、関ジ〇ニ∞であたった。〇山君が好みなんだってさ。基本的に幽々子ちゃんは面食い。
ともあれ、冥界の全ての機能を停止させるには何かしらの理由が必要になる。幽々子がうんうんと唸って考えていると、彼女の目の前に一枚のチラシがひらりと舞い落ちた。
そこには赤くおどろおどろしい字体で『激辛フェスティバル』と書かれていた。それは今現在、地上、つまり現世である幻想郷に流行している激辛ブームのチラシであった。内容は、例の激辛担々麺、地獄一丁についてである。『その担々麺を完食する者が現れなければ、この土地に存在する全ての食物を激辛に変えられてしまう』、その物騒な内容を見て、幽々子は閃いた。
「妖夢、出ていけ」
 幽々子は真顔のまま、自身の従者である魂魄妖夢に告げた。
「な、何故でございます幽々子様?」
「いいから妖夢、出ていけ」
 それはさておき、幽々子の考えはこうである。
『幻想郷に影響ある異変とあらば、冥界の管理者として見過ごす訳にはいかない。西行寺の従者である魂魄妖夢を異変の捜査、並びに解決させるために派遣。そして妖夢の主である私、この西行寺幽々子も、異変解決の糸口を掴むために身分を隠して助力を図るものとする。その為に、仮の肉体を用意していただきたい』
 ……これが四季映姫・何とかドゥに提出された幽々子の申請書である。ザナドゥは不審に思ったが、「まぁ何でもいいや」と滅茶苦茶軽く許可を出したのである。こうなれば幽々子の手の平の上だ。肉体があれば現世、外の世界に出るのは簡単である。
 幽々子には共犯者がいた。……八雲紫である。そもそも幽々子を度々外の世界のライブに誘っているのは何を隠そう、この隙間妖怪なのであった。紫はライブのチケットを入手(勿論、ファンクラブの選考抽選という至極真っ当な方法で。転売屋は地獄行き)し、今回も幽々子に持ち掛けたのだ。紫が味方であれば、外への行き来など容易い物である。後は……そう、妖夢だ。
ぶっちゃけ地上で起きている異変なんて幽々子からしたら知ったこっちゃねーべさって話である。そんなしょうもない珍事件にウチの可愛い妖夢を駆り出すのもバカバカしい。しかし、自分達が外に出て遊んでいる間、この屋敷に妖夢一人置き去りにして留守を任せるのも気が引ける。というかそれは流石に後ろめた過ぎる。
まぁ、とりあえず異変解決という大義名分でどっか友達の家にでも遊びに行っておいで、と。幽々子はそれを妖夢に告げた。
それが「妖夢、出ていけ」という台詞で出力された。妖夢からしたら堪ったもんじゃない。一言って十伝わると勘違いしている幽々子の事である。きっと「出ていけ」と言えば、自身の考えているプランが全て妖夢に伝わると思っていたのだ。
幽々子の意図が何も伝わらず、良くわからないまま妖夢は白玉楼から出ていく事となった。何か、唐草模様の風呂敷を背負って。
「そんなぁー」
 とぼとぼと冥界から出て行く妖夢。しかし、妖夢にとってこのような事態はこれが初めてではない。理由もなく「どっか行け」と言われても彼女の心は折れない。理由もなく「幻想郷中の春を集めてこい」みたいな命令をされた時と比べれば些細な事である。
 現在、地上の時間はお昼十二時頃――。
 そうと決まれば、まずは宿探しである。まぁ、こういう時は鈴仙の住居、つまり永遠亭に限る。そう思って妖夢はさっそく竹林へと向かう……その前に、人里で土産でも買っていこうと思った。
 人里の大通りには人々が苦悶の表情を浮かべて倒れていた。
「暑いからねぇ……」
 本日は雲一つない晴天、夏真っ盛りの猛暑日である。きっとみんな夏バテで倒れているのね、と妖夢は思った。無論、夏バテが原因ではない。この場で倒れている人々は、例の半熟卵がトッピングされた、新・地獄一丁の犠牲者である。
 再び、暗闇の時代がやって来た。今はもうこの恐ろしい担々麺に挑戦しようなどという人間はほとんどいなかった。皆が皆、諦めてしまっていた。辛辛軒に足を運ぶ者はもういない。期限は三ヵ月間。泣いても喚いても三ヵ月しかない。それまでに、あの地獄一丁を完食する猛者が現れなければ……そういや、どうなるんだったっけ? 
 幻想郷中の食べ物を全て激辛料理に変えられてしまうのだ。
 そんな事はつゆ知らず、妖夢は永遠亭へのお土産を何にするか考えながら、暢気に鼻歌交じりで人里の大通りを歩いていた。
 その時、きゅうっと妖夢のお腹が可愛らしく鳴った。時刻はお昼、妖夢は何処かでお昼を食べようと思い、食べ物屋をあちこち見渡しながら歩いていると、気になる店を見つけた。
『辛辛軒』
 メニューは担々麺のみ。妖夢はその担々麺という単語に惹かれる物を感じた。この暑さである。辛い食べ物は夏バテ防止にも丁度良いかもしれない。妖夢はさっそく意気揚々と店に入った。
『……らっせーい』
 辛神がお馴染みの、癖のある挨拶をする。妖夢は辛神の顔を見て一瞬だけ瞬きをしたが、それ以外は特に何のリアクションもしなかった。ここは幻想郷である。頭が牛の怪物だって存在しても不思議ではない。私なんて半分幽霊だし、と。
「こんにちはー、担々麺を一つ貰っていいですか?」
 妖夢は礼儀正しく頭を下げ、にこやかな笑みを浮かべて辛神に告げた。その様子を見て、辛神は少し不審に思った。
《……何だ? この娘……地獄一丁に挑戦しようというのか?》
 あの悪夢の半熟卵事件以来、この地に住む者達は完全に戦意を喪失した筈であると、辛神は考えていた。
《それに、この白髪の少女、今までの挑戦者とは明らかに面構えが違う。この落ち着きよう、この敵意の無さ、一体何だ……?》
 不気味だ……。
辛神の額から流れる汗は決して暑さのせいではない。今までと明らかに違う敵に、ある種の不安のようなものを覚えたのだ。
《恐れている……私が? こんな小娘を相手に?》
 担々麺の調理を進めながら、辛神は厨房から妖夢の様子を盗み見ていた。あの危機感の無さは、一体何だと言うのだ?
「ふう、今日は暑いですねぇ~」
 これまで、あのカウンター席に座った客は皆、一様にして恐怖、不安、絶望、諦観の表情を浮かべていた。皆、まるで死刑執行を待つ囚人達のような顔をするのだ。なのに、妖夢ときたら……。
 おしぼりで、手を拭いていたのである……っ!
《地獄一丁に挑戦する前だというのに……この礼儀正しさ!》
 辛神は知らなかった。この半人半霊の少女は、人里の男達によるアンケート調査で『養子にしたい子』三年連続一位に選ばれるほどのスーパー良い子、魂魄妖夢ちゃんなのである。
《……今までこんな事はなかった……この私が……プレッシャーを感じるなど……一体何なのだ……何だと言うのだ……》
 辛神は本能で理解した。勝負はすでに始まっているのだと。妖夢のあまりの落ち着きっぷりに余裕を無くしていく辛神、気付けばさっきから辛辛軒でのありとあらゆるイニシアチブを妖夢に持っていかれっぱなしである。焦りを見せ始める辛神に対し、妖夢は新たな一手を打って出る。それも、本人は至って無意識に。
「えへへ……注文しといてアレなんですけど……ここの担々麺って辛いですか? 私、辛いのってちょっと苦手でして……」
《……っ!?》
 何だ? 一体何なのだ? 辛神は酷く困惑した。敵を前にして、この余裕な表情。これまで幾度も幻想郷の強者共を恐怖のどん底に突き落とした魔の激辛料理を前にして……「えへへ」だと?
《この圧倒的「ほっとけなさ」は何だ……?》
 これは牽制……否、下手したらブラフという事も? 謎が謎を呼ぶ怪奇現象が、今まさに辛神の脳内で起こっていた。なまじ妖夢の表情が無邪気過ぎるのと、その身に纏っている雰囲気に全く敵意がない事から、辛神からしたらこの目の前の少女が一体何を考えてここにいるのか全く分からなくなっているのである。果たしてこれまで通りのやり方で打破出来る相手なのか。今まで担々麺の辛さのみで向かってくる敵を薙ぎ払ってきた辛神にとって、純真無垢な相手との勝負は未知である。所謂、マジ無理、というヤツだった。
「出来ればそのぉ……えへへ……あまり辛くない方がいいなぁ」
 ここに来て究極の責めの一手が放たれた。妖夢のおねだり攻撃である。これには辛神も息を飲んだ。開いた口が塞がらない。これも作戦なのか、油断させるための演技なのか? しかし、ここまで露骨だとしおらしさを通り越して最早挑発である。
《誘っているのか? 地獄を……》
 未知の恐怖により戦慄していた辛神であったが、どうにか乱された心を落ち着かせ、地獄一丁を着実に完成していく。
 従来のレシピ通りで作った担々麺であったが、不安は拭い切れないでいた。果たして今まで通りの戦法が通じるのか? それとも、この娘はただ強がっているだけなのか? いずれにせよ、辛神は今まで築き上げてきた地位をここに来て疑い始めた。否、否! 私の地獄一丁は完璧な筈だ。この担々麺を完食出来るものなどいる筈がない。しかし、この妙な感覚は何だ……?
『……おまちどうさまです』
 四の五の言っていても仕方がないと、辛神は決心し、勝負に出た。妖夢の目の前に一杯の地獄一丁が置かれる。丼を掴む辛神の手は若干震えていた。もし……もし、敵の力量を見誤っていたら? そんな疑問をこの期に及んで抱いていた。今ならまだ丼を引っ込めて、辛さを増幅させる事も出来るかもしれない。今ならまだ間に合う。そう、今ならまだ……っ!
「おぉ~っ、凄く美味しそう!」
『……くっ……』
 一瞬、辛神が引っ込めようとした丼を、妖夢は嬉しそうに掴んだ。その握力には、決して獲物を逃がしはしないぞという意志が感じられる。辛神はもう少しで小さな悲鳴を上げるところであった。
《くそ……もう厨房に引っ込める事は不可能だ……大丈夫か? 完食されてしまうかも……いやいや、考え過ぎだ。たかが小娘じゃないか。きっとスープを一口すすれば、泣いて逃げ出すはず……》
 そう自分に言い聞かせながら、辛神はため息を吐いた。悪魔にさえ聞こえないような、とても小さな音であった。妖夢はというと、出来立ての地獄一丁と一緒に写真を撮っていた。斜め上、自分が可愛く写る角度を究極まで調べ尽くしたであろう位置から。まさか、あの恐怖の担々麺に対し「インスタ映え」を感じる者がいるとは思わなかった。
「そんじゃあ……いただきまーすっ」
 妖夢はニコニコと溢れんばかりの笑顔を浮かべながら、その凶器とも言える地獄一丁のスープを口に含んだ。一切の躊躇なく。
「……っ」
 途端に、妖夢の目つきが変わった。
 辛神は予想していた。恐らく、この子はとんでもなく世間知らずで、この地獄一丁の存在も聞いた事が無かったのだろう。きっとあのスープを口にすれば、血相変えて逃げ出す筈だと。
 だが、妖夢の表情は辛神の想像していたそれとは違っていた。恐怖に支配されている者の顔ではない。その表情に「絶望」は感じられなかった。それは、剣士の面構えであった。
《どうなっている……? この娘……スープを口にした途端、雰囲気がガラリと変わった。それに、あの目……》
 あれは力無き弱者のする目ではない。あれは、紛う事なき「捕食者」の目だ。獣の凄みだ。武士(もののふ)の気風である。
 妖夢は地獄一丁のスープを口に含んだその瞬間、その真っ赤な液体が舌に触れる直前に、口内でスープをひっくり返したのだ。それは意図的にではなく、妖夢の無意識によって起こされた行動であった。妖夢には長年の修行にて培われた戦闘スキルがあった。妖夢の身体は、その地獄一丁の味を「攻撃」と認識したのである。その途端、妖夢の舌は口内のスープを猛スピードで転がしたのだ。それにより、辛さが口の中で分散したのである。辛さをあえて広範囲にまき散らす事により、舌への衝撃を和らげたのだ。
『……くッ!』
《間違いない……あの技は……》
 激辛飛翔(スパイシー・デス・ロール)……ッ!
 なんだそりゃ。
 ワニが川岸で獲物に食らいつき、その身を捩る事によって相手の動きを封じ込め、肢体を引き千切る光景を想起させる。舌を高速回転させる事により、本来の辛さを無力化し、ダメージを半減させるという、激辛マニアの中でもかなりトリッキーな技であった。
《決して一朝一夕で身に付けられるような技ではない。それをこの娘は……たった今、無意識のうちに完成させたというのか……?》
 妖夢は額に汗をかいていた。明らかに焦りを覚えている顔であった。しかし、妖夢は瞬時に表情を笑顔に戻してみせた。
「い、いや~、これは……すっごい辛いですねぇ……」
 まさかの強がり発言である。スープの味を知ってなお、妖夢は地獄一丁に対してイキった態度を取っていた。全然大した事ないと。
(ビ~~~ッッッックリしたぁ……ッ! 何やこれ……)
 しかし、内心妖夢は気が気でなかった。これ拷問じゃん。そういうタイプの責め苦に使われる薬品じゃないとここまでヤバい味はしないぞ。妖夢は心を落ち着かせるために深呼吸をした。空気が口の中に残っていた辛さ成分に触れてピリピリと痛い。
『……食事(勝負)を続けるというのですね……』
「ふふふのふ……当たり前じゃないですか……こう見えて私、お残しは決して許されないお屋敷で育ったのでね……」
 たとえ相手が地獄の使者だろうが、食事は食事、「お残しは許しまへんで」の精神を色濃く受け継いでいる妖夢に、ギブアップなんて選択肢はなかった。あと、「ふふふのふ」って笑い方が可愛い。
 だが、同時に妖夢の中には動揺もあった。妖夢の主人である幽々子は幻想郷の中でも指折りのグルメお嬢様である。当然、彼女の食事を用意する従者である妖夢自身もそれなりに舌は肥えている方である。基本的に白玉楼での食事は和食をメインにしているが、日によっては幽々子の気まぐれで洋食・中華を作る事もある。あまり馴染みのないスパイシーな食事にも、ある程度は慣れていた。
 だが、目の前のコイツはどうだ?
 ここまでの辛さが許されても良いというのか?
『……ですが、貴女も鈍感なお方だ……店の外に横たわっている人々を見なかったのですか? あれは……くくく、この担々麺に挑戦した結果、無様に惨敗した者達なんですよ……』
「な、何ですって!」
《ほ、本当に何も知らなかったのですか……この娘は……》
『だが……そうですね。何も知らないまま挑戦されても不公平ですから、食事の前にきちんと詳細を教えて差し上げましょう。これはね、一つのゲームなんですよ……この幻想郷を賭けた、ね』
 辛神は意地の悪い表情を浮かべ、自らが起こした異変の内容を細かく説明しながら、動揺する妖夢に近付く。鼻息が荒くて何か気色悪いと思ったが妖夢は何も言わなかった。
「つまり……期限内に誰かがこの担々麺を完食出来なければ……幻想郷中のZUN帽を全て味のりに変えるというんですね……?」
『くくく、その通りです』
 本当は全然違う。「幻想郷中の食べ物を全て激辛に変える」が正解である。しかし、辛神はアレだった。ツッコむのが面倒になっていた。異変の肝心なコンセプトが皆に伝わってない。
『制限時間は十五分……それまでに完食する事が出来れば、貴女の勝ちです。完食する事が出来れば……ですがね』
そうと決まれば、妖夢は瞬時に思考を切り替え、ぺちぺちと自分の頬を張り、再び、れんげを手に持った。異変と言われたら、黙っているわけにはいかない。特に、この勝負には主である幽々子のZUN帽が懸かっているのだ。従者として、決して負けてはならない戦いである。本当はZUN帽なんて全然関係ないけどね。魂魄妖夢、真っ向勝負、望むところ。再度、妖夢は目の前の赤い海にれんげを沈ませ、ゆっくりとすくい、今度は慎重に口に運んだ。
「……ッ、~~~~~ッ!」
 その途端、妖夢の脳内に燃えるような「赤」が広がった。まるで地獄のような光景……否、ここは、地獄そのものである。
妖夢の両手には愛刀である二本の刀、楼観剣と白楼剣が握られていた。眼前には、煉獄の焔を身に纏った大勢の鎧武者が立っている。戸惑いながら鎧武者の軍勢を見渡していると、その鎧武者達は何の合図もなく、突然、燃え盛る槍をその手に持ち、妖夢に向かって突進してきたのである。激しく火花を散らして襲い来る槍を見切り、身を捩りながらすんでのところで躱す妖夢。
妖夢は口に滲む辛さと熱に悶えながら、ゆっくりと麺をすする。地獄の業火に包まれた武者達が妖夢の身体を串刺しにしていく。
「がっ、がはぁ……ッ!」
 妖夢、堪らず嗚咽を漏らした。額から汗がジュクジュクと溢れてくる。喉が焼け焦げていくようであった。並みの人妖ならここで戦意を失うはずである。しかし、半人半霊である妖夢の身体には他とは違う、特殊な能力が備わっていた。
 それは妖夢特有の『ハーフ』にある。人間である妖夢とは別に、もう半分の幽霊である妖夢の隠されたスキル、『気質操作』。肉体の妖夢は剣術を扱う程度の能力で知られているが、幽霊の方の妖夢の能力は幻想郷縁起にも記されていないので、知る者は少ない。
 ――「煙」を斬る方法と言うものをご存知だろうか?
無論、そんな業など存在しない。だが、妖夢は過去にそれと似たような体験をしていた。それはまだ春雪異変が起きる(起こす)前の話である。静かで趣のある幻想郷の冥界にも、良からぬ存在という者がいる。現世に恨みを残した幽霊の事を怨霊と呼ぶが、幻想郷という世界ではさらに質の悪い存在が稀に生み出される事がある。
 それは人間ではなく、「妖怪」の霊である。妖怪にはそもそも死の概念がなく、仮に何らかのイレギュラーでその存在を抹消されたとしても「霊」という存在にはならない。即あの世行きである。凶暴で数々の罪を重ねてきた妖怪の場合は転生の機会は与えられず、そのまま地獄へと突き落とされるのが基本である。だが、そのサイクルにも特殊な例外が存在する。
 人が妖怪になり果て、死亡した場合である。
 その場合は天国にも地獄にも行けない。他の生き物へと転生する事も出来ない。ましてや亡霊という存在にもなれやしない。
 行き先知らずの化け物となるのだ。そういう存在を無へと返すのも、冥界の従者である妖夢の仕事であった。
 奴らには姿形が無い。人の目に見える存在ではないのである。そんな煙のような相手をどのように「斬る」というのか?
 妖夢はそれを、鍛え抜かれた剣技と強靭な精神のみで克服した。肉体の無い者をどうやって物理的に斬るというのか。
 妖夢は自身の肉体と霊体をリンクさせる事により、一時的に、そして部分的に自分の身体を『肉体でもあり霊体でもある存在』へと変化させる事が出来るのだ。曖昧な定義であるが、それこそ半人半霊の特異能力である。生き物でも幽霊でもない存在を断ち切る唯一の刃、それが半人半霊の業である。
妖夢は無意識のうちに自身の舌に半霊を重ねたのだ。それにより、妖夢の舌、正確に言えば妖夢の舌に存在する味蕾は一時的に『肉体でもあり、霊体でもある存在』となったのだ。
 半人前、それこそが妖夢にとっては「一人前」の武器である。迷いを捨てた味覚、凄惨な戦火さえ舐めとってしまうであろう
「うぐぐ……っ、こ、これは辛いです……」
 そもそも、この地獄一丁を口にして「辛い」と言える余裕がある時点で、辛神にとっては想定外の事であった。汗を手の甲で拭いながら必死に箸を動かす。そして、あっという間に例の第一関門である、『壁』へと到達してしまった。そう、あの勇儀と萃香を容赦なく屠った、辛さの壁である。流石に、舌を半霊の能力でカバーしている妖夢でも、この辛さの壁を無傷で突破する事は不可能だろう。
 しかし、驚いた事に、妖夢はそのスープの『壁』に到達した事にさえ気付かずに麺をすすり続けたのである。
『な……ッ、まさか……どうして……ッ!?』
 ――煙を、斬る――。
 妖夢は刀を用いず、己の舌で「辛さ」を斬ったのだ。異変は妖夢の口内で起こっていた。先ほど偶然、意図せぬまま繰り出した必殺技、スパイシー・デス・ロールのコツを早くも掴んだ妖夢、そこから意を決し、真っ向から激辛の海を渡り続けた末に、彼女は新たな技を編み出したのである。麺を歯で切り刻みながら、麺から溢れ出る旨味と辛みの汁を絶え間なく舌で転がしていく。しかし、妖夢はそのタイミングで独自のアレンジを加えたのだ。
 普通、人はあまりに辛い物を口にした時、その辛さを少しでも払拭するために口内に蔓延した辛味成分を舌で舐め回して誤魔化そうとするものである。確かに表面的にはその方法こそ激辛料理を食す際のセオリーとも言われているが、それこそが激辛の大きなミステイクである。辛さを紛らわす為に辛味を舌で拭うのは逆効果、さらに辛さを刺激して舌に負担をかけてしまうのだ。
 だが、妖夢は潜在的な戦闘スキルにより、そのセオリー、最も楽な道をあえてスルー、何を思ったのか、辛さをそのままノータッチ、舌ではなく顎、つまり麺とスープを噛み砕くため、歯を動かす事に一点集中したのだ。小気味よく切り刻まれる担々麺、しかし、この妖夢の咄嗟の機転が功を成したのである。
 リズミカルに咀嚼されるジューシーな肉そぼろから、ほのかな甘みが流れ出した。激辛の中に隠された素材の旨味、肉や野菜に含まれた素材その物の味、脅威であるはずの辛さを極上のスパイスへと昇華させ、料理本来の美味しさを際立たせる最高の味付けへと変化させる財宝。妖夢は、地獄の中でそれを見事に探し当てたのだ。
甘味と辛味の矛盾する二つの存在、対極であるこの二つの融合により、ここに、妖夢の新たな技が完成したのであるッ!
「ああああ――――ッ! めっちゃ美味ぇ――――ッ!」
 妖夢は、自分の中に広がる得体の知れない高揚感を抑える事が出来なかった。気付けば、妖夢は箸を持ったまま、高らかに咆哮した。自身の口の中に広がる辛さを、丸ごと吹き飛ばす勢いで叫んだ。身体中から汗が溢れ出た。夏の風が店に入り込む。残り僅かな命を最後まで燃やし尽くす蝉達の叫びが木霊する。店の隅にある嵌め殺しの窓から焼けるような日差しが入り込む。灼熱の太陽であった。
『……この土壇場で、地獄一丁の旨味を探り出すとは……ッ』
《この娘……戦いの中で成長している……ッ!》
 そう、それこそが、魂魄妖夢、半端者の最大の強み、一流を凌駕する唯一の刃だ。妖夢は如何なる状況においても「鍛錬」を怠りはしない。己を鍛え上げる事、それは彼女にとって、最早呼吸をするのとほぼ同義である。朝、日が昇ると同時に肉体を鍛え、夜、布団に入る前に技を磨く。妖夢の志には「日々是精進」の文字が刻まれている。我が道に終わりなどない。全ては武芸へと通じている。技は途上なれど、その生き方に一切の半端は無し――。
――斬れぬ物など、無いわボケ――。
『まずい……ッ、このままだと……負ける……』
 負ける? 負けるだと?
《私の……担々麺が……完食されるというのか……?》
 辛神が額から滝のような汗を流す。蝉が鳴く。真夏の昼間、地獄に銀色の火花が咲き乱れた。その花言葉は「魂魄妖夢」――。
やめろ、やめろと、辛神が心の中で呻いた。幻想郷に訪れた悪夢が、月光の少女によって脅かされようとしているのだ。
 拍手一つさえ起らない静かな空間であった。異変解決、成るか? 妖夢の肩には、幻想郷の未来が人知れず乗っかっていたのである。そんな事など一切知らない妖夢であったが、今の彼女に使命感などなかった。妖夢の中にあるのは、純粋な闘争心のみ。人間としての彼女が叫んでいる。ここが終わりではない。私の道に、立ち塞がるな、お前を倒して、私は先に行く、と。
 そして辛神は、ここでとんでもない事実に気付いた。
『な……ッ! まさかこの娘……』
 辛神は妖夢が食らいついている丼の中を盗み見たのだ。そう、あの煉獄のトラップ、半熟卵を確認するために。驚くべき事に、妖夢はその半熟卵を潰さず、それどころか傷一つ付けていなかったのだ。あの半熟卵が加入されてから、今まで多くの人間がその罠に落とされたというのに、妖夢は一切手を付けていない。
 建前上、辛さに耐えられない人々への救済処置として投入したこの半熟卵、所謂ハンデと言われる具材であったが、妖夢はそれ全面的にスルーしている。まさに「舐めプ返し」である。
《なめられているのか、この私が……ッ》
 辛神は怒り、否、殺意にも似た感情を含ませて妖夢の顔を見た。
だが、そこにいたのは、ただのか弱い少女ではなかった。
妖夢はそれ以上の眼力を持って辛神を睨みつけていたのである。その鬼にも似た気迫に、辛神は一瞬後退りしてしまった。阿修羅の如き形相であった。目に見えない刃が疾風となって辺りに吹き荒れる。妖夢は、その爛々と火の粉を散らすような眼で告げていた。
 真剣勝負で、このような小細工が私に通用すると思うな、と。
《……この私が……地獄一丁が、完全に飲まれている……》
 まさか……完食されるのか……私の、地獄が……。
 ――だが、その時。
 ピピピピピピ――――ッ!
「……っ!」
 張り詰めた空気を引き裂くように、この場にそぐわない機械音が鳴り響いた。途端に、妖夢はその手から箸とれんげを落としてしまった。何が起きたのか分からないという様子である。
 そう、この戦いには制限時間が存在する。十五分、先ほどの機械音は挑戦終了のアラームだったのだ。辛神が神妙な面持ちでアラームを止める。そう、十五分――。善戦していた様子の妖夢であったが、時間にして十五分、時間は、過ぎてしまったのだ。
「まさか……終わり……なの……?」
 妖夢は辛神の顔を見て、静かに、勝負が終わった事を悟った。あれだけ熱く滾っていた血が嘘のように冷たくなっていく。表情が青くなり、妖夢は辛神と、目の前に置かれた食べかけの地獄一丁を交互に見つめながら、しかし言葉は出てこず、無言のまま席を立った。辛神もまた絶句したまま、何も言わずに妖夢を見つめていた。激しい戦いであったが、それについては互いに交わす言葉を持ち合わせていないといった様子であった。
 無理もない。妖夢は退く事なく、果敢に地獄一丁に立ち向かっていた。そう、妖夢は決して負けてなどいなかったのだ。だというのに、この結果は何だ? 意志を折る事なく、食い下がって戦ったじゃないか。それなのに、幕切れがあまりにも呆気ない。一方的に敗北の二文字を突き付けられて、納得出来る訳がない。
妖夢は、無表情のまま、何も言わずにその場から立ち去ってしまった。この思いを、一体どこにぶつければいいのか? 妖夢は、一瞬だけ辛辛軒の方を振り返ろうとしたが、それは、きっと許されない事なのだろうと、妖夢は後ろ髪を引かれる思いで歩き続けた。店主は序盤ではっきりと制限時間について説明していた。たかが十五分、されど十五分、時間を疎かにしたのは、妖夢の方だ。
 店内に溢れていた熱気が冷めていく。辛神は無音となった空間で、妖夢の残した地獄一丁を裏へ下げようとした。
《――制限時間に救われたのか――私は――》
 納得していないのは辛神も同じであった。手に持った器の中で、地獄一丁のスープが、彼の心境を表しているかのように震える。
今まではどんな勝負であろうと、辛神は地獄一丁がもたらす結果に対して不満を持つ事などなかった。そもそも、これまで地獄一丁に挑戦してきた者達に対し、これといって感想を持つ事さえもなかったのである。立ち向かって来る者は容赦なく叩き潰してきた。勝つ事前提の戦いであった。戦った、という感覚もなかった。
そんな辛神が、歯を食いしばって悔しがった。あのような決着、認められるわけがない。あんなものは、本当の勝負ではない。
『私は……勝ってなどいない……ッ!』
 制限時間によって引き裂かれた二人の真剣勝負――、確かに、制限を設けたのは辛神自身であったが、このような結果を望んでいたわけではない。それもそのはず、辛神は今の今まで、幻想郷の住民達を完全に下に見ていたのだ。軽んじていたのだ。十五分も必要ないと、勝負が長引くはずがないと、高を括っていたのだ。
 辛神は自身の首からぶら下げていたストップウィッチを、感情のままに床へ叩き付けた。タイマーの画面が割れ、その粉々になった破片に映る自分の歪な姿を見て、その場に崩れ落ちてしまった。
『私は……なんて事を……』
 最後まで懸命に食らいついた妖夢に対し、底知れぬ罪悪感を覚えた。自分は、あの子に、なんて無礼な真似をしてしまったのか。
 あの子に会って、謝りたい……。
 そして、もう一度……。
 ・・・
 一体、いつまでそうしていたのか。妖夢は人里の木陰で、何をするでもなくただ呆然と立ち尽くしていた。考えていたのはただ一つ、先ほど食べた担々麺の事であった。
「あれは……ふふふ……辛かったなぁ……」
 消え入るような声で妖夢は呟いた。頭の中で、あの焼き付くような味を思い浮かべる。燃え盛る火の味をシュミレートし、舌の上に乗っけてみる。味だけではない。熱さや辛さだけではなく、今なら痛みさえも鮮明に思い出せる。
 もっと時間配分を注意していれば、こんな結果にはならなかったかもしれない。もっとああしておけば、こうしておけば、妖夢は生気の無い表情で、あり得た筈の未来を夢想する。それは紛れもなく、後悔の念であった。私が勝てる筈の勝負だったのだと。
 いつの間にか強い日差しが弱くなっていく。風が人里に雨雲を運んできたのだ。ポツリ、ポツリと冷たい雨が降り注ぎ、あっという間に土砂降りとなる。突然の夕立により、里の人間達は足早に屋内へと走り込んだ。だと言うのに、妖夢は屋根のある場所に隠れて雨宿りもせず、ずぶ濡れで道を歩き続けた。先ほどの死闘で負った傷を癒すような、柔らかな雨音であった。
(……今日の……幽々子様の御飯は……)
 ああ、そう言えば私、追い出されているんだった。
 鈴仙のところへ行かなくちゃ、しばらく永遠亭に泊めてもらおう。まずは、お土産を買わないと、それから、泊めてもらうんだからお手伝いもしないとね、お掃除して、洗濯して、食事の準備も手伝って、それから……それから……。
 雨曝しだと、涙を隠せる。
「うううう、うわあああぁあぁああぁああん――ッ!」
 生まれて初めて――ご飯を残してしまった――。
 降りしきる雨の中、妖夢は泣き叫びながら人里を疾走した。この涙は勝負に負けた悔しさからか、初めて食べ物を残したという罪悪感からか、妖夢は自分の熱くなった瞳から止めどなく溢れ出る涙を止める事が出来なかった。人里から出て、行く当てもなく野山を走り回った。その心にあるのはただ一つ、この涙の止め方を教えてくれ。妖夢はただそれだけを考えながら、幻想郷中を翔ける勢いで走り続ける。しかし、雨で服は重い。次第に息を切らし、とぼとぼと失速する。ついに力尽き、妖夢はその場にどさりと倒れこんだ。泥が飛び散る。服が汚れる事もお構いなしに、妖夢はそのまま仰向けとなって、長く振り続ける雨空を見つめ続けた。
「――届かなかった――」
 私の力は、あの担々麺に届かなかった。
 もう一度……と思うのは、烏滸がましい事なのか。妖夢は心の中で自問自答するが、その答えを教えてくれる者はいない。もう一度、私は、あの敵に挑戦してもいいのだろうか? ……良い訳がない。真剣勝負に二度目などない。しかし、いや、それでも、だが、だけど、でも、だとしても――。
「疲れちゃったなぁ……」
 急に瞼が重くなっていく。雨水に濡れ、土や泥で汚れた身体が、そのまま水溜りの中に沈んでいくような気がした。何処かで蛙が鳴いている。身体が冷たくなっていく。それが、妙に心地良かった。
「――い、アンタ――何やって――」
 そこで意識が途切れてしまった。目を閉じ、それこそ泥のように眠りに落ちてしまったのである。意識が途切れる間際、最後に聞こえてきたのは、女性の声であった。
 ・・・
 無限に広がる赤色の沼に、私は立っていた。
 これは血だ。それも、幻想郷の住民達の血だ。辺りを見渡すと、見覚えのある景色が広がっていた。焼け落ちた博麗神社を見つけた。幻想郷が燃えている。私は、自分が人里に立っている事に気付いた。しかし、生きている者はいない。私以外の全ての住民達が、死んでしまった。空から火の雨が降り注ぐ。生き物を殺す、死の嵐だ。
「幽々子様、幽々子様」
 血の沼に、私の大切な人が浮かんでいた。しかし、顔が焼け焦げている。私は、大切な人を抱き起こした。身体が焼けるように熱い。腕をだらんと下ろし、無言のまま静止している彼女に、私は呼びかけた。返事はなかった。そこで気付いた。ここは、地獄なのだ。
 ――妖、夢。
 顔の無い人が、私の名前を呼んだ。その声は、喉を焼き切ったように歪であった。私は、泣きながら彼女を抱きしめた。張り裂けるような声で、何度も何度も彼女に謝罪した。
「ごめんなさい、幽々子様、ごめんなさい、ごめんなさい」
 救えなくて、ごめんなさい。私がそう言うと、私の大切な人は、幽々子様は、苦しそうな声で言った――。
――妖夢、お土産は、『博多通※もん』よ――。
は?
 ・・・
「うおおおおおぅ!?」
 妖夢は素っ頓狂な声を上げて目覚めた。ぼんやりした眼を凝らして周りを良く見る。見覚えのない寝室であった。そこでハッとする。そう言えば私……と、意識を失う前の事を懸命に思い出す。
「おう、目が覚めたか」
 戸惑っている所に突然声をかけられたものだから、妖夢は酷く情けない声を上げてしまった。「ぴぃッ?」みたいな。
「あ、貴女は……」
 そこには、水兵の帽子をかぶった少女が立っていた。妖夢にとってはあまり面識のない相手であった。彼女の名前は村紗水蜜、通称『キャプテン村紗』である。星蓮船事件で幻想郷の大空に巨大な船が登場した。村紗はその時の船長であり、現在は命蓮寺で修業を行っている。そんな彼女がいるという事はつまり、ここは命蓮寺の下宿という事になる。本当は下宿など存在しないのだが、命蓮寺に寄り付き、そこに住み着いている妖怪達が寺院の客間や応接間を勝手に下宿にしているのである。命蓮寺の責任者である住職、聖白蓮はその件について「まぁ、別にいんでない?」と語っている。
「アンタ、あの夕立の中でぶっ倒れていて、そんで熱出しちゃってさ、あれから丸一日ずっと寝っぱなしだったんだよ?」
「え……そうだったんですか?」
 道理で変な夢を見る訳である。妖夢は自分が見ていた夢をぼんやりと思い出す。確か、幽々子様の顔が無くて、幻想郷が燃えていて、お土産が『博多※りもん』という夢だ……と、妖夢はそこまで思い出して、この夢については誰にも語らずに墓場まで持っていこうと静かに決心した。荒唐無稽過ぎて自分でもムカつくのである。
「だけどまぁ、その様子ならもう大丈夫そうね。私がたまたま通りかかったから良いものの、下手したら変な妖怪に変な事されて変な感じになっていたかもしれないんだよ?」
 言われてみれば確かにその通りである。いくら傷心していたからと言って、幻想郷の何処ともわからない場所で、無防備のまま大の字で気を失うなど自殺行為に等しい。
「……で、一体何があったのさ? 男にでもフラれたか?」
 村紗は布団の上でボーっとしている妖夢の横に座り、彼女の背後に転がっている枕を手に持って問いかけてくる。
「いえ、そういうのではないんですけど……」
「えぇー、違うのかぁ、絶対失恋だと思ったのにぃー」
 村紗のその一言が合図であったかのように、唐突に寝室の襖が開かれる。ズカズカと誰かが入ってくる。雲の入り混じった空のように淡い色の髪を頭巾で覆い隠した少女、また妖夢とはあまり面識のない少女である。彼女の名前は雲居一輪、一輪は無言のままスタスタと座り込んでいる村紗へと近付き、無言のまま手を差し出した。村紗もまた無言のまま、一輪のその手に百円玉を握らせた。どうやら妖夢が倒れていた理由を予想して賭けていたらしい。生臭もいいとこである。しかも賭け金は百円、中学生のやり取りである。一輪はそのまま百円握りしめて出て行ってしまった。出番終わり。
「実は、人里にとても辛い担々麺のお店があるんですけど……」
「……なるほど、例の激辛異変の店に行ったのか」
「そこで、その、ズタボロに惨敗してしまって……」
 店を出た直後、妖夢はその担々麺を完食出来なかったショックに立ち直れずにいたが、寝れば大抵の事はどうでも良くなる物である。特に妖夢は、どんな嫌な事があっても飯を食って風呂入って一晩寝たら朝にはコロッと忘れてしまう性質であった。
「心残りが無いと言ったらウソになります。出来る事ならもう一度、万全の状態で戦いに臨みたいんですが……」
 基本的に根が真面目な妖夢の事である。一度敗北を喫した立場である自分は、生半可な覚悟で再戦を望んではいけないと考えていたのだ。これは敗者のみが抱えるジレンマの類である。妖夢のように素直で控えめな子は特にそういう嫌いがあるものだ。
「だけど、今の自分にはその資格がないって思ってるわけ?」
 村紗は口ごもっている妖夢の心中を察した。見事に図星を突かれた妖夢はさらに言葉を詰まらせてしまう。
「あのねぇ、たった一度の挫折で行動を躊躇していたら、いつまで経ってもチャンスは巡って来ないよ? ガンガン挑戦しなきゃ」
 村紗はもっともな事を言って欠伸をして見せた。それは分かっているんですけど……と妖夢は小声で呟く。すると――。
「話は聞かせてもらいましたよ」
 突然、寝室の襖が音高く開かれた。そこに立っていたのは、この命蓮寺の住職、聖白蓮であった。妖夢は過去にあった星蓮船事件にあまり関与していないので、命蓮寺に出入りしている人達との面識など無いに等しい。だが妖夢は一度も聖と絡んだ事がない、という訳ではなかった。それこそ星蓮船事件の後、聖とあともう一人、何かタイガーマスクみたいな色をした女性が二人して冥界へと尋ねてきたのである。異変の後の事後処理のような物であり、二人は挨拶回りも兼ねて幻想郷の主な地域に出向いていたのだ。
「あ、あなたは……」
妖夢は一度だけ聖と会話をした。他愛もない世間話であったが、人柄の良さとは数回の会話である程度は分かる物である。その落ち着いた話し方、柔らかな物腰、不思議な事に、妖夢は何の疑いもなく聖の事を「信頼出来る人物」だと確信する事が出来た。
「つまりあなたは、もう一度その担々麺に挑戦するために修業をしたいという事ですね?」
 妖夢の内に秘められた願望をズバリ言い当てた聖は得意げにふふんと鼻を鳴らし、ブラジルぐらい遠い目をしながら妖夢へと近付いてぎゅっとその手を握りしめた。意外と手は冷たかった。心優しい人の手が必ず「温かい」とは限らないのである。
「ええ……ですが私は現在、お仕えしている屋敷から勘当された身です。もう一度戦うために修業を積みたいのは本当ですが、今はとにかく寝泊まり出来る場所を探さなくては……」
「あ、だったらウチで修業すればいいじゃん!」
 すると、隣で話を聞いていた村紗がご機嫌な様子で入り込んでくる。ですが、それは……と妖夢は口ごもってしまう。
「ここでの掟ですが、朝は五時起きで夜は二十一時に就寝です」
 割とエグい掟であった。
「ちなみに、破った場合はどうなるんです?」
「怒っているアピールしたまま一日中ずっと口利いてあげないです。どんなに謝られても無視します。頑なに無視します」
 そんな事されたら泣いちゃうかもしれない、と妖夢は思った。特に聖のような優しい人にそれをされたら威力は倍増しである。
 とにもかくにも、妖夢は新天地へと降り立った訳である。敗北からのスタートは最早勝つのみ、否、妖夢は負けてすらいない。そう、これは所謂「勝ちの途中」である。余談だが、妖夢の部屋の本棚には『バ〇ボンド』が最新刊まで存在する。彼女の愛読書であった。
「勝負の最終期限は、あと二か月程度です……それまでに、私はあの担々麺の弱点を見つけ出したいんです」
 妖夢は思っている事をそのまま聖に伝えた。聖は少し考え――。
「……大昔の話ですが、私の元にとある妖怪が訪ねてきました。話を聞くと、その妖怪は人間の肉以外が食べられなくて困っているというのです。そして、人間に恋をしているとも。人間に恋をし、それを機に人を食う事をやめたいと訴えてきたのですよ」
 しかし、人肉ばかりを食べ続けた妖怪に、普通の食事は不可能に等しい。何故か、妖怪にとって、人肉とは何物よりも美味な存在なのである。その味を一度味わうと、人間達と同じような「普通の」食事では決して満足できない舌となってしまうのだ。
「思うに、あなたの欠点は、その妖怪とほぼ同等の物です。当時、私がその妖怪に与えた試練を乗り越えれば、あの地獄一丁を攻略する事が出来るかもしれません……」
「そ、その試練とは、その妖怪は、結局どうなったのですか?」
 妖夢の問いに対し、聖はそれ以上語らなかった。代わりに少し愁いを帯びた顔をし、妖夢の目を真っ直ぐ見据えながら――。
「……修羅の道となるでしょう。人里であの地獄一丁に挑戦した人達を見てきましたが……あの担々麺には、義理も人情も通用しません。得体の知れない暗黒の海を渡りきる勇気が必要になります」
 あなたに、その覚悟はありますか? 聖にそう問われ、妖夢は考えるより先に「はい」と力強く返答していた。その妖夢の瞳を見て、聖は溢れんばかりの笑顔で頷いた。

「死ぬほど厳しい修行です。暗黒に飲まれてしまう事があるかもしれません。ですがどうか……自分を見失わないで」

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