第一章『悪鬼、襲来』
霊夢が負けた。
その日の「文々。新聞」の発行部数は新記録を更新した。『激辛担々麺専門店、霊夢惨敗』、記事にはこの異変におけるルールが事細かく記載されている。霊夢と担々麺の戦いに関する詳細も込みである。それにより、人里は一気に恐怖の渦に叩き落とされた。
しかし、そこは伊達と酔狂の国、幻想郷。ここにいるのは、主人公の敗北を前に、臆病風に吹かれて穴倉を決め込む者だけではない。
彼女の敗北の知らせを受け、立ち上がる者達がいた。
我こそは激辛の覇者也、そう奮起して人里の若い衆が次々と激辛担々麺「地獄一丁」へと挑み始めたのだ。里一番の力自慢を自負する大男、凶悪な妖怪を狩り続けている狩人等、里の中でも豪傑と呼ばれている屈強な男達が「腕試し」をしに来たのだ。彼らはやけに興奮している。つまるところ、「主人公の敗北」という事実が良い具合に連中の刺激となっていたのだ。
ここまで人里の猛者どもが集まれば、民衆は思う。
きっと誰かがやってくれる筈だ。
自分ではない他の誰かが、英雄としてこの異変を解決してくれるだろうという、他力本願の目でその戦いを傍観する筈である。
そして……。
『くっくっく……またのお越しをお待ちしております……』
その猛者達は、全員、呆気なく敗北してしまった。
それも皆、たった一口で、である。
いつの間にか、辛辛軒の前には屍(別に死んでないよ)の山が積み上がっていた。地獄一丁に挑んだ者達は皆、辛い物を食べた際の発汗による脱水症状で体中の水分を失い、満身創痍で店から出てくるのだ。死屍累々、四面楚歌の大地獄である。
それにより、人里には永遠亭から出張医療班が派遣される事になる。さらに企業間からはチルノが抜擢された。永遠亭の長、月の頭脳こと八意永琳の協力により新たな氷菓子店を展開、辛辛軒専用の給水所ならぬ給「氷」所、『ヒヤシンス』を立ち上げる。月の技術により生成された天然ミネラル水一〇〇%の氷を使用したかき氷が、地獄一丁の挑戦者達に振舞われるのである。それも永琳先生研修の元、新開発された特製療養かき氷シロップが使用されており、身体の回復も万全であった。……最早、かき氷は甘味ではなく、戦いの物資として扱われていたのだ。
「どうして……ッ、どうしてこんな事に……ッ!」
チルノは、新たなマンゴーシャーベットの開発中に泣いていた。元々、激辛に疲れた人々を癒すために立ち上げた店だった。燃え盛るような熱気に冷たい風を流し、癒してあげたい、純粋であったチルノはその一心だけでここまでやって来たのだ。だが、現状はあまりにも悲惨、まるで戦火の如く燃え広がるこの異変に恐怖を、辛辛軒の前に溢れた死体(別に死んでないよ)に虚無を感じていた。
「チルノッ、また急患だ! マンゴーシャーベットの開発は一体どうなっている? もうイチゴミルクじゃ手一杯だ!」
臨時アルバイトとして店にやって来ていた蛍妖怪、リグル君が研究開発室へとやって来た。真っ白だった筈のエプロンはかき氷のイチゴシロップで真っ赤に染まっていた。人手も物資も足りない。犠牲者は増えていくばかり……まるで、戦場であった。
一人、また一人と人々が傷付いていく。激辛という名の地獄に落ちてくる。私が、私が見たかったのはこんな景色なんかじゃない。チルノの握り拳から血が滴り落ちる。チルノは、慟哭した。
「誰か……ッ、この戦いを止めてくれぇええぇ……ッ!」
滴り落ちたのは血じゃなくてマンゴーシロップだった。
辛辛軒の対策として設置された最終防衛ライン、甘味処『ヒヤシンス』の売り上げは……今宵も絶好調であった……。
その時、怪物の足音のような地響きが人里に轟いた。
足音は二つ、二匹の怪物が、辛辛軒へと足を運んでいた。その瞬間、辺りに人間達の悲鳴が鳴り響いた。歓喜とは程遠い、厄災を前にしたような、地獄に響き渡るような阿鼻叫喚であった。
「お、鬼だ……ッ」
「鬼だッ! 鬼が来た……ッ!」
「女子供を、安全な所へ避難させろッ! 攫われるぞぉッ!」
鬼が来た。人々がそれを口にする時、地上に地獄が顕現する。暴虐と、悪逆の渦が咆哮と共に炸裂する。鬼が、恐怖が、暴力がやって来た。人間が怯え、逃げ惑う。攫われるぞ、食われるぞ、と。
「逃げろォッ! 星熊と、伊吹だ……ッ、鬼の四天王が……ッ、人の里に現れたぞォッ!」
語られる怪力乱神、星熊勇儀――。
萃う夢を想う、伊吹萃香――。
鬼の四天王と呼ばれる猛者二人が、今宵人里へと足を運んだのだ。一軒の店を目指して……。どよめきと同じ数の歓声があった。皆、待っていたのだ。この激辛地獄に終止符を打つ者の登場を。
鬼の力は幻想郷のカーストでも上位に位置している。力=辛さへの耐性という訳では決してないのだが、皆、二人の威風堂々とした立ち振る舞いを見て、希望を抱かずにはいられなかった。
「萃香よう、腹が減ったな」
「応、勇儀よう。私の可愛い霊夢を泣かせた店だ。今夜の私は、地獄の血の池だろうと飲み干す覚悟よ……」
二人のおどろおどろしい会話を聞き、民衆は真っ青になった。今宵、この鬼達は道楽でこの場に来たわけではない。二人の目には、明らかな「復讐」の念がこもっていた。朋友である博麗霊夢に仇なした輩にお灸を据えるためにやって来たのだ。
『……おや、これはこれは、珍しいお客さんだ』
二人が仰々しく辛辛軒の暖簾をくぐる。鬼の来襲だというのに、辛神は眉一つ動かさなかった。っていうか眉毛が何処にあるのかさっぱりわからない。辛神は怯む事無く、二人に会釈をして見せる。
「アンタだね? 霊夢をいじめたっていう輩は?」
百鬼夜行、伊吹萃香が眉間にしわを寄せて睨んだ。並の妖怪ならこれだけで戦意を喪失してしまうほどの凄みであった。しかし、辛神はたじろぐどころか、汗一つかかずにそれを受け流した。
『……その言い方では語弊がありますね。私は霊夢さんに料理をお出ししただけでございます。それ以上の事は何も……』
(……鬼の威圧を、こうも簡単に往なすか……)
まずは様子見、と萃香は考えていたが、目の前の店主の立ち振る舞いを見て考えを改めた。長年強者と戦い、力を競い続けて培われた勘である。少しでも隙を見せれば、喰われるのはこちらだ、と。
外にいる人間達のざわめきが店内にまで聞こえてくる。勇儀はそれを耳障りだと思い、乱暴に舌打ちをしてみせた。
「こっちは別に御礼参りが目的ってわけじゃないんだが、私らも四天王なんて仰々しい看板を背負っている身だ。地上のゴタゴタには嫌でも首を突っ込まないといけないんでねぇ……」
勇儀のそれは明らかに敵意ある口調であった。店内にピリピリとした空気が流れる。しかし、辛神はそれをも軽く流した。
『それは、担々麺に挑戦する意志をお持ち、という事ですね……?』
「ああ、だがここじゃあ……私らにはちと狭い」
表に出ろ。萃香がそう言って出口に親指を差す。辛神は薄ら笑いを浮かべながら、それを了承した。
これから始まるのは、食事ではなく喧嘩。勇儀と萃香が揃って店の外に出る。すると、そこにはすでに数えきれないほどの人だかりが出来ていた。皆が鬼と担々麺の勝負を見に来ているのだ。それもそのはず、鬼はこの異変において有力候補の一つであった。
人間には無理でも、鬼なら何とかしてくれるだろう。そんな淡い期待があった。そんな人任せの視線を受けながら、萃香達は満更でもなさそうな顔で応えた。鬼は騒ぎが好きな生き物だ。この一夜を伝説にしてやる。鬼は、血で血を洗う残虐な異変でさえも、輝かしく、甘く香ばしい黄金色の祭りへと彩ってしまうのだ。
「こりゃあ楽しくなってきたねぇ、勇儀っ!」
萃香が微笑みながら、腕を振って観客を煽った。すると、途端に辺りにいた人間達は野次にも似た歓声を上げた。観客のボルテージは最高潮に達していた。鬼の喧嘩、本来なら恐怖でしかないが、それ以上に魅了される部分も確かに存在するのだ。恐ろしいからこそ美しい。そんな、人知を超えた戦いがこの目で見られるかもしれない。今夜、何かが起こる。そういう刺激を人々は渇望していた。
いつの間にか店の前には長椅子とテーブルが用意されていた。これなら、観客達も二人の戦いを見逃す事はない。二人が席に着いただけで割れるような拍手が鳴り響いた。恐怖の権化として人々に畏れられているはずの鬼であったが、今宵だけは、この場にいる全ての人間達が二人の味方であった。
『……お待たせいたしました』
辛神が店から出てくる。あれだけ喧しく響き渡っていた歓声が途端に弱々しい物になっていく。氷のように冷たい風が辺りに流れる。初夏の夜の蒸し暑ささえも消え入るほどの肌寒さに皆が閉口した。辛神が二人の前に担々麺を差し出した時、辺りにいた人間達から息を飲む音が漏れ出た。しかし、鬼二人は余裕綽々といった様子でそれを見つめていた。我らは鬼、敵を前に慄くような真似はしない。
「ほう、これが例の地獄一丁ねぇ……」
萃香は持ち前の悠長さを見せながら、興味津々に器に顔を近付け、ゆっくりと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ……。
「……うッ」
その瞬間、萃香はそれこそ鬼の形相で器から顔を離した。
「萃香……どうしたんだ?」
萃香の額には珠のような汗が浮かんでいた。心なしか息遣いも先ほどより荒くなっているようだ。勇儀の言葉に返答する事も無く、萃香は脳裏にとある光景を思い浮かべていた。
これは……合戦じゃないか……。
匂いとは本来、五感の中で最も強く記憶に刻まれる物である。視覚や音よりも深く、鮮明に、色濃く残る物、それが匂いだ。試しに故郷の匂いという物を思い出してほしい。光景や音、出来事よりも、その場で嗅いだ匂いが一番記憶残っている筈だ。
地獄一丁の匂いを嗅いだ瞬間、萃香は戦慄のような物を覚えた。この担々麺は、その名の通り地獄の具現なのではないか? その匂いは、戦場の血生臭さに似ていた。生き物が最も恐れる匂いだ。伊吹萃香は、一抹の不安を感じた。この担々麺は、戦争の臭いがする、
(まさか……ここまでとは……)
『くっくっく……ごゆっくり……』
担々麺を出した後、辛神は勝負の行方を凝視する事も無く、そのまま店の前に並べられたベンチに座り、少年チャンピオンを読みだしたのである。このリラックス具合、鬼相手であろうが、結果は見えている、といった様子であった。戦況も確認する事無く、黙々とチャンピオンを読み続けている。それは明らかな侮りであった。
その様子を見て、勇儀は鼻で笑った。
「ずいぶんと余裕そうじゃないか、ええ? この牛野郎」
勇儀の手には一本の白いれんげが握られていた。戦闘において、星熊勇儀は力任せだけで暴れ回っているように思えるが、それはあくまで雑魚相手に対する戦闘スタイルであった。
相手が担々麺ならば、まずはスープだ。
勇儀はこの戦いに段階を設けたのだ。敵に合わせて、消耗を最小限に、相手のスタミナを奪うように立ち回る。細かく段階を刻み、相手の隙を逃さず、確実にウィークポイントを狙う。女々しいと思われようが、その慎重さこそが勇儀の、鬼たる所以であった。
ぶっ殺す――。その意志は、緻密な策略によって成り立つ物である。それが語られる怪力乱神の答えであった。
「……鬼の舌、焦がせるものなら焦がしてみろ」
ちゅる……。
勇儀はれんげで真っ赤なスープをすくい、静かに口に含む。そして、ゆっくりと口の中で液体を転がした。味覚帯でスープを滑らせ、その味の底に眠る世界を分析していた。
勇儀は、地獄一丁の旨味を探しているのだ。
それに対し、勇儀の横に座っていた萃香は、箸もれんげも持たず、ただじっと担々麺を見つめたまま静止していた。その鬼らしからぬ様子に、観客達も動揺を隠せないでいた。
「あの小さい方の鬼は……一体何を……?」
「まさか……担々麺を前にして、怖気づいたのか?」
皆が口々に萃香への疑念をこぼしていた。しかし、当の萃香本人は人々の言葉に一切耳を貸さず、魂を抜かれた抜け殻のように沈黙を続ける。……無論、これは決して放心しているわけではない。
萃香は、「無」を待っているのだ。
鹿島新當流を編み出した剣士、塚原卜伝の奥義『一の太刀』という物をご存知だろうか? 歴史上最強と呼ばれる極意だが、一握りの才ある剣豪のみにしか継承は許されなかったという、幻の奥義である。天と地、そして己の体を極限にまで高めた状態で初めて放たれる技、萃香は今、その剣技の精神を模倣しているのだ。精神を研ぎ澄ますために、萃香は高ぶりを己の中で押し殺している。音も光も、そして己の感情さえも闇の底へ消し去るほどの無、萃香の精神は、今この瞬間のみ、地上で最も静謐な空間となった。
鬼とは、怒りに任せて荒々しく暴れ回るイメージがある。しかし、鬼の本当の恐怖とは、重く冷たい沈黙にこそある。
あまりの静けさに、人々は最初こそ不審に思っていた。だがその静寂が続けば続くほど、不振は不安に変わり、やがて底知れぬ悪鬼の真意をその肌で感じ取る事になる。人間達は理解する。この局面、戦いはもうとっくの昔に始まっているのだ、と。
そして――。
「……これは……」
勇儀は目を閉じ、深く息を吸った。地獄一丁のスープが舌を通過し、喉を滑り落ちていく。その熱さを、勇儀は真正面で受け止めた。
(……想像、以上だ……ッ)
以前は山の四天王、現在は地底で組織を束ねる立場にある勇儀であったが、彼女の中には様々な敵に対応する為の策略が無数に存在している。敵に合わせて戦闘スタイルを変える。その恐ろしさは、実際に勇儀と対峙した経験がある者にしか分からないだろう。自身の戦法を圧倒的に凌駕する怪力と、謀神を思わせる計略、武力と知略を制するパーフェクト・プラン、為す術もなく叩き潰されるその絶望を、勇儀は既に完成させていた。……しかし。
(おいおい……どうすんだよコレ……)
どう、勝てばいい?
勇儀がこの疑問を抱くのは、長い生涯でも数えるほどしかない。彼女は自身の胃に滑り落ちていくスープの熱を感じながら、額に指を当てて思考を巡らせた。この場合の活路は何処にある? 否。
防ぎようがないではないか。
勇儀の視界には、大地を蹂躙するほどの軍勢が待ち構えていた。武具を構え、一人一人が一騎当千の猛者である事を示している。死地に立たされ、その群れを前にすれば、嫌でも理解してしまう。
突き詰めて考えてみれば、辛さとは即ち痛みに他ならない。幾年もの年月を血で血を洗う戦いで明け暮れた勇儀にとって、痛みの伴う争いは日常茶飯事であった。刃で身を切られようと、灼熱の炎に身を焦がされようと、鬼は笑って酒を呷る生き物である。
(こんな相手に、戦略など無意味だ……)
そんな鬼が、痛みに歩みを止めてしまったのだ。
スープの旨味が、辛さによって厳重に隠されている。その壁はあまりにも強固、重厚。小手先ではその尺度は測りきれない。
(いや……、それどころか、敵の力を推し量るために伸ばした腕が、得体の知れない何者かに掴まれかけた……。もう少しで奥底まで引きずり込まれるところだったんだ……この担々麺……)
この深淵の向こうには、何が待っているというのか?
勇儀はゴクリと唾を飲み込み、ゆっくりと箸を持った。
『……ほう、大したものです。スープを一口すすり、それでもなお心を折らぬとは……なかなか楽しめそうですね……』
辛神は、目の前の鬼を嘲笑うかのような声で呟いた。
「冗談じゃねぇ……勝負はここからだろう?」
意を決し、勇儀は箸を担々麺の中に刺し入れた。その手は、氷山の一角に鉄の芯を突き刺すかのように重かった。
実を言えば、この時点で既に勇儀は悟っていた。
恐らく、私は勝てないのだろう。
だが、いや、だからこそ、私にしか出来ない事がある。勇儀はその覚悟を、驚くほど容易く決める事が出来た。何故なら……。
勇儀はそこで、隣に座る萃香を横目で見た。味方である勇儀を信頼し、自身の精神を極限まで静めていた。心地良いほどの静寂がそこにあった。その無言の答えに、勇儀は優しく微笑んだ。
(たとえ私がここで墜とされても、私の後に続く者達が現れる……。ならばせめて、その者達の礎になってやろうではないか……)
この深淵から、奴の臓物を引き摺り出してやろう。
勇儀は、箸で麺を柔らかく持ち上げ、ゆっくりと口に運んだ。その顔は……とても、穏やかだったという。
真っ赤な肉そぼろが絡んだ中華麺はそのスープをたっぷりと含んでいる。ズズーッと一気にすすった後、勇儀はすぐに口と喉を抑えた。汗が滝のように流れてくる。顔を赤くしながら、勇儀は口いっぱいに詰め込んだ麺を咀嚼していく。
「………………ッ!」
(耐えろ……ッ! 探れ……ッ! コイツの正体を、せめて、手掛かりだけでも持ち帰るんだ……、倒れるのは、その後だ……ッ)
私の終わりはここじゃねぇ。勇儀は自身の頭と心に、悪魔に聞かれないよう、小さく呟いた。そのまま、麺をスルッと飲み込む。
その瞬間、口の中に煉獄が広がった。勇儀はただ一人、その劫火の熱を耐え続ける。勇儀は懸命に箸を動かし、朦朧とする意識を保ちながら、目の前の地獄に喰らいついた。
一口、二口と、立て続けに麺をすすりまくった。彼女の一挙手一投足に、観衆は惜しみない声援を送った。拍手喝采であった。ここまで地獄一丁に対して歩みを進めたのは、勇儀が初めてであった。そこは前人未到の世界。誰もが成しえなかった伝説の先駆けである。
身を焦がすほどの痛みであった。それでも、勇儀は燃え盛る焔の海を潜り続けた。出来るだけ深く、鋭く、火炎の海底を目指した。
――その時である。
「これ、はッ!?」
勇儀の目の前に、巨大な壁が出現した。
否、壁というより、正体不明の煙と呼ぶのが正しいだろう。勇儀は、海底火山により熱せられた水が熱水噴出孔から吐き出される光景を脳裏に描いた。ここはまだ序の口であり、表面でしかない。勇儀は、瞬時に理解した。私は、この地獄に落ちてすらいない。その門前で、必死にもがいていたに過ぎないのだと……。この壁が地獄一丁の真なる入り口なのだとすれば……。
つまり、この向こうには……。
『……そこまで、ですね』
辛神がそう呟いた瞬間、勇儀の瞳から光が消えた。
勇儀は、沈黙してしまった。
その途端、群衆から張り裂けるような悲鳴が巻き起こった。
……勇儀は、箸を持ったまま意識を失っていたのだ。戦う姿勢を保ったまま、それでも、その瞳は虚無を見つめるように暗かった。
辺りに残酷なほどの絶句が浸透していく。勇儀の舌はもう、とっくに限界を迎えていたのだ。群衆の中から、一人の女性が勇儀へと近付いていく。その人は八意永琳、医者である。
「……」
永琳は何も言わずに首を振り、後方に待機していた永遠亭のウサギ達に連れていくように合図した。勇儀の勝負は終わったと。
勇儀が担架で簡易医療所、チルノの店『ヒヤシンス』へと運ばれていく。その場には鈴仙もいた。鈴仙は一度、あの地獄一丁の味を体験している。故に、誰よりも的確に対処に回れるのだ。鈴仙は勇儀の額に濡れタオルを乗せた。角が邪魔だった。
あの夜、鈴仙は地獄一丁の辛さにより喉を焼かれ、声が出せなくなっていた。無言でありながら、鈴仙は慈愛を含んだ目で勇儀を見守っていた。その目には、勇儀の健闘を称える念がこもっていた。
「ッ!?」
その時、勇儀が目を覚まし、咄嗟に鈴仙の腕を掴んだのである。
「……今から言う事を、外部に漏らすな……」
その声はあまりにもか細く、鬼とは思えないほど薄弱であった。鈴仙は鬼の口元まで耳を近付ける。弱々しく、儚げな声だ。
「……八つだ……ッ!」
そこまで言って、勇儀は再び眠りについた。たった一言、消え入るようなか細い声であったが、鋭く、何らかの確信を得たような力強さが込められていた。鈴仙はごくりと唾を飲み、勇儀の残したその言葉の意図を汲み取ろうとしていた。
八つ、その数字が何に関係しているのか。鈴仙は先ほどの勇儀の戦いを思い出し、その過程と「八」というキーワードを組み合わせ、答えを導きだそうとする。プライドの高い鬼が敗北を覚悟し、人々の前で醜態を晒し、命を賭してまで残した言葉である。
(ただの妄言である筈がない……勇儀さんはきっと、あの地獄一の内部に潜り込み、何かを掴んだんだ。それが……「八つ」……)
そこまで考えて。鈴仙はある事を思い出した。
鈴仙は勇儀と地獄一丁との戦いを細部まで見ていた。彼女は元軍人である。弾幕勝負、そして種族としての実力勝負においても鈴仙は比較的力不足である事は否めないが、分析能力に限れば幻想郷でも彼女ほど長けている者は存在しないだろう。
そんな鈴仙だから気付けた事がある。先ほど、勇儀は順調なペースで箸を動かし、必死に担々麺に食らいついていた。しかしその途中、ほんの一瞬だけそのリズムに歪みが生じたのだ。まるで、目の前に突然大きな壁が出現し、行く手を阻まれたかのように……。
(あの一瞬の硬直は……? あの時、勇儀さんは何を見た……?)
その時、辛辛軒を囲んでいた人々が再びどよめきの声を上げた。先ほどまで沈黙を保っていた萃香が、ついに動き出したのだ。
「見ろ……あの鬼、何処かおかしいぞ……?」
人々の中に、萃香の異変に気付いた者がいた。そう、萃香の精神は今、全ての雑念を絶っているのである。これだけ騒がしいこの場でも、今の萃香の耳には何も聞こえてはいない。萃香の目には、何処までも深い暗黒が広がっていた。萃香は今、「空(から)」になったのである。全ての邪念を吹き払い、萃香は風に揺れる柳のような軽やかさで箸を掴んだ。不気味なほどに静かであった。
恐らく、今の萃香はどんな暴力に苛まれようと、瞬き一つしないだろう。彼女の心には何も無い。喜びや怒り、憎しみ等の感情でさえ、萃香の世界では虚しくゼロと化す。
一の太刀の極意、自身の中に存在する全ての念を断ち切り、その一太刀に全神経を集中させる。人々の中には、萃香の持つ箸を一本の刀と見紛う者もいただろう。一陣の風が吹く。萃香は、自分を司る五感全てを鬼の妖力で支配した。萃香の視界には、他のギャラリーなど写っていない。それどころか、隣にいた勇儀が戦い、敗れた事にも気が付いていなかった。そして、無音、今の萃香の耳には何も届かない。音を遮断しているのだ。その分の感覚を、萃香は自身の小さな舌へ集中させた。クレバーな戦術を巧みに用いる勇儀とは違い、萃香はただ真っ直ぐ、我武者羅であった。しかし、それは単なる捨て身ではなく、自身の強さを疑わぬ、狂気の覚悟であった。
私は勝つ。それ以外の答えは知らぬ。
それが、この小さき鬼の信念である。
全身の感覚を自身の舌に局所的に集中させる。鬼と人間では身体の構造が異なる為、確かな情報ではないが、鬼の口腔には自然界で生まれる毒素を排他するための特殊な液体を放出する分泌腺が存在するという。口内を痺れさせ、痛覚を遮断する、鬼特有の生得的機能である。この液体を、仮に「辛クナクナール」と命名しよう。この辛クナクナールは通常本人の意志で自由自在に分泌する事は不可能である。しかし、萃香は口内以外の全機能を最小限に抑える事により、より鮮明に口内を自在にコントールする事に成功しているのだ。辛クナクナールで自身の舌をコーディングする。辛さに対抗するための鎧である。そして、先ほど完成した、無の精神。
静寂と堅牢、即ち、これは萃香の難攻不落の城塞。
伊吹萃香は、ただ一人の『鬼ヶ島』と化したのだ。
《……恐ろしいほどの閑寂ですね……流石は鬼、と言ったところですか……これほどの絶無を己の内側に作り出すとは……》
辛神は手に持っていた少年チャンピオンを置いて、萃香の方を凝視した。気付けば、その場に立っていた人々は皆、口を閉ざしていた。これだけの人間が集まっているというのに、里は果てしない無言によって支配されていた。その音のない空間に、青い炎が揺れている。何処までも熱く、無音のまま燃え盛っている。
鬼だ。ここに、恐ろしい鬼がいる。
その静けさに、人々は恐怖した。絶叫を許さぬその空間にて、人間は改めて鬼の凶猛さを思い知った。勝負ではない、これは、戦なのだ。殺し合いなのだ。その恐ろしい気迫に、誰もが圧倒された。しかし、その場から逃げ去る者は皆無であった。皆が皆、この光景を目に焼き付けようとしていたのだ。人は、あまりに強大な力を前にすると、身体が硬直し、その光景に心を奪われ、見惚れてしまう生き物である。この場にいる誰もが、萃香の静寂に惚れたのだ。
萃香は持った箸を担々麺に伸ばし、静かに麺をすくい上げる。そのまま、血の色に焼ける麺を自身の小さな口へと運んだ。ちゅるりと、水分を含んだ音が辺りに響き渡る。皆、手に汗を握ってその光景に釘付けになっていた。落雷と、火山の噴火が同時にぶつかり合った時、その光景はきっと破壊的で、絶望的で、そして――。
これ以上ないほど、美しいのであろう……。
「……」
萃香はもちゃもちゃと口に含んだ麺を咀嚼した。しかし、その表情に変化はなかった。その瞬間、緊張の糸が切れたように、観衆から次々とため息が漏れた。皆が額から流している汗は決して初夏の暑さが原因ではない。今この瞬間、この空間は伊吹萃香が法であり、ルールであり、秩序である。人々は裁判の判決を待つ傍聴人のように厳格な眼差しで萃香と担々麺の勝負の行く末を見守っている。
すると急に、萃香は箸を置き、代わりにれんげを手に取った。その突然のシフトチェンジに、見ている者達は愕然とした。
「……な、なんだ? 初手から麺を攻めていたというのに……」
「まさかここに来て、スープを……?」
担々麺は麺とスープを交互に食す事によりその旨味を倍増させるが、同様に辛さも跳ね上がる。この場において、萃香の麺からスープへの切り替えは失策と言えるだろう。だが、萃香本人は眉一つ動かさず、れんげでスープをすくい取り、迷いなく口へと運んだのである。皆が一斉に声を飲んだ。果たして――?
だが、萃香は動揺する様子もなく、汗一つかかずにスープをすすってみせたのだ。その光景を見て、人々は一瞬歓声を上げそうになったが、萃香の身辺におどろおどろしく漂う厳かな凄みがそれを制した。勝鬨を上げるのは早いと、そう戒めているかのようである。
矛と盾の勝負、激辛担々麺という名の矛、そして、伊吹萃香という名の盾が、火花を散らして激しくぶつかり合う。理不尽なまでの暴力と、底知れぬ凶悪の、凄まじい殴り合いであった。
スープからの麺、麺からのスープ、食のワンツーパンチである。箸が虚空を鋭く切り裂く音が辺りに響き渡る。皆が固唾を飲んで萃香の攻撃を見つめている。誰もが思った。いけるぞ、と。
そして、ついに萃香は、あの壁に衝突した。
先ほど、星熊勇儀に牙を剥き、その歩みに異を唱えた、寡黙なる激辛の番人。担々麺という緋色の海の、ブラックスモーカーである。
辛さを紛らわす為の精神統一がここで裏目に出た。今の萃香にはその辛さの壁に対する警戒心がない。舌を例の唾液でコーディングした事により、守備は万全だと考えていたのだ。痛みを感じない分、辛さの中に隠された微弱な変化を感知出来なかったのだ。
結果、その辛さの壁の奥に待ち構えている更なる脅威への構えが疎かになってしまった。いくら鉄壁の装甲車だろうが、その耐久性には限界がある。ここに来て、萃香は敵を見誤ったのである。
「……ッ!」
痛みを感じないはずの舌に、得体の知れない何かが触れた。萃香の精神は一切の光が遮断された暗黒の宇宙である。しかし、その侵入不可能であるはずの暗闇の中から、何者かが手を伸ばし、萃香の身体に巻き付いたのだ。途端、萃香の精神は儚く乱れてしまった。
(まさか、この無我の境地に、干渉してくるとは……)
萃香の瞳に、薄っすらと光が戻って来た。無の精神から解き放たれたのだ。このタイミングで、それはあまりにもまずかった。
「ぐあッ……あが、あぁあああぁあ……ッ!」
秘めていた感情や感覚が瞬時に蘇る。今の萃香の口内には、地獄一丁の火の粉が充満している。辛クナクナールで補強した舌が激辛によって一気に浸食されていく。思い出したように身体中から汗が流れだす。呼吸が乱れる。舌が爛れるかのような辛さである。
先ほど、倒れた勇儀を搬送した鈴仙がその光景を見ていた。
(勇儀さんの時と同じだ……スープの中に、何かが潜んでいる……)
萃香は手に持っていたれんげを放り、その鋭い爪を自身の腕に突き立てた。痛みで辛さを紛らわしたのである。荒業であったが、その咄嗟の機転により、意識を失わずに済んだ。そして、気付く。
勇儀は……勇儀は……既に倒れたというのか……。
萃香にとって、勇儀は旧知の友であり、互いに武を競った良きライバルでもある。同族である萃香にとって、勇儀は信頼に足る存在である。そんな彼女が、倒されたのだ。萃香は、自分が独りである事をついに理解した。歴史から忘れ去られ、幻想郷へと流れ着いた鬼である。その孤独にたじろぐ事はなかった。しかし、友の無念と、自身の力量の至らなさにより、萃香の精神に一瞬の隙が生まれた。
地獄一丁は決して萃香の隙を見逃さなかった。その精神の揺らぎを待っていたかのように、辛さが押し寄せてきたのだ。
「ぐぁ……何だこの……痛みは……ッ」
そう、辛さには波がある。初期の刺すような痛みが本番ではない。最初は小波のように静かな刺激だが、その波は徐々に大きくなり、最後には巨大な城壁を思わせるほどの大きな高波となる。
萃香は思った。策は尽きたと。この担々麺の先には死しかない。このまま勝負を続けても、私が勝利出来る道はないだろう。
……しかし、悲しい話である。
彼女はここで引き下がれるような生き物じゃない。
激辛という名の高波を前にして、萃香は、身の安全については全く考えていなかった。仮にここで命を落としたとしても、地獄の鬼達に「私は戦いで死んだ」と誇れる。そう考えたら、保身に関しては簡単に諦める事が出来た。その代わり、彼女は勝利を諦めなかった。刺し違えてでも、この担々麺を食い殺してやる、と。
百鬼夜行、伊吹萃香は激辛の浜辺に立つ。本日は晴天なり。手には「箸」という名のサーフボード、風は吹いている。再度、箸を握り直し、担々麺の赤い海を見据える。眼光に揺らぎはない。
『……さぁ、暴虐の化身である悪鬼よ、勝負の時です……』
萃香は辛神の言葉に対し、不敵な笑みを浮かべながら箸で麺を絡め取り、迷いなく自身の口に運んだ……。
――乗るしかない、このビッグウェーブに――。