第二章『地獄の門は開かれた』
「風呂桶に水張れ! 氷入れろ氷ッ!」
永遠亭のウサギ達が担架に乗せられた萃香をすぐ近くの長屋へと運ぶ。口の中に救急キットである『アイスの実』を放り込み、服を全て脱がせて氷水の入った風呂にぶち込む。無論、その場は男子禁制である。鬼と言えど、萃香は女の子なんだからねっ。
結論から言うと、萃香は敗北したのである。
あの後、萃香は防戦一方であった。麺を口に含んでは悶絶を繰り返し、麺をすすっては咳き込んだ。その非力で弱々しい姿に、人々の目は落胆により暗い物となっていく。中には、その勝負から目を背ける者もいた。鬼とは、畏れられる存在であり、それと同時に敬われる存在でもある。人々は怯えながらも、内心では鬼に対し、底知れぬ敬服の念があった。信仰にも似た景仰である。人々は信じていた。鬼に勝てる者などいない。鬼は、弱者をいたぶらず、強きに対し武を振るう、信念のある生き物だと、そう信じた。負ける筈はないと、根拠のない楽観を抱いていたのだ。
鈴仙が勇儀を安全な場所へ移し、再度現場へと戻って萃香の勝負を見守っていたが、その様子に耐え兼ね、彼女は無言のままカウンターに白いタオルを投げた。勝負は終わりである。萃香は黙々と箸を動かし続けた。何も掴めていないその箸を、虚しく動かし続けた。鈴仙がその場に割って入り、永遠亭の医療班が彼女を取り囲んだ。人間達が揃って目を伏せた。勝負は終わった。鬼は、敗北したのだ。強き者が、負けた。それは、紛れもない事実であった。
『……またのお越しを、お待ちしております……』
辛神が担々麺を下げながら、無感情のままに言い捨てる。まるでこうなる未来を予想していたかのように、平静そのものであった。人々は力なく一人、また一人と店の前から離れていった。鬼が人里にもたらした物は、落胆と、色濃くなった絶望だけであった。
運び込まれた萃香と勇儀の様子を見ながら、八意永琳は次の挑戦について対策を練っていた。萃香の口内を検査しながら、頭の中に存在する知識のピースを組み立てていく。
「なるほど……これは、刺激をカバーする分泌液を口に満たし、その舌を防御(マスキング)していたって訳ね……」
(これは有効かもしれない……鬼の唾液を分析し、代用を生成すれば、いずれはあの担々麺を……だが……それは……)
いや、シンプルに汚いって、それは。唾液。
永琳は何も考えなかった事にした。すると、永琳の背後に鈴仙が音も立てず現れた。鈴仙の手には何かが握られていた。
――師匠、例のサンプルを入手しました――。
喉を潰され、鈴仙は声が出せない。だから紙に文字を書いてその旨を永琳に伝えた。鈴仙の手にある物は、一本の試験管であった。その試験管の中で、血液のように赤い液体が小さく揺れていた。
先ほど、萃香の勝負を止めた時、鈴仙はあえてわざと仰々しく医療班を現場に介入させたのだ。ウサギ達が萃香を取り囲み、人々を動揺させ、辺りを喧騒に包む。そうすればあの辛辛軒の店主の意識を、倒れた萃香の方へ向ける事が出来るだろう。
鈴仙の目的は、萃香のバックアップとは別にもう一つあった。それは、担々麺、地獄一丁のサンプル回収である。人々が何事かと萃香に集中する、辛神も、その視線を萃香の方へと移す。鈴仙はその隙にパスツールピペットで担々麺のスープを吸い取ったのである。
その作戦は、前日の夜、伊吹萃香が単身で永遠亭に訪れたところから始まる。同胞である勇儀にさえ、それは話していない。
「もし、私と勇儀が倒れるような事があったら、その場をかく乱し、あの担々麺のスープを回収してほしい……」
それは、鬼の語るような内容とは思えないほど弱々しい申し出であった。話を聞いていた永琳は眉をひそめた。鬼とは、自身の勝利以外は信じない生き物である。しかし、萃香は恥も外聞も捨て去り、自信が負けた後の事を考えていたのだ。だが、永琳はそれを笑う事はなかった。彼女自身、地獄一丁のサンプル回収は初期の段階で念頭に置いてあった事でもある。しかし、それには店主である辛神の視線を盗み取る事が出来る者、否が応でも注目してしまう程の実力者、幻想郷の中でも有力者である者の協力が必要不可欠であった。その役目を、鬼の四天王と呼ばれる伊吹萃香が買って出ようとは、永琳からしたら、それはまさに願ったり叶ったりな事である。
そして、その作戦は見事に成功したのだ。
スープの分析の準備をしながら、鈴仙は勇儀の残した言葉と、戦闘状況を交互に脳内で組み合わせ、そして、自身の手元にある地獄一丁のスープのサンプルを見ながら、確信した。
(八つ、その数字は……、スープの中にある「何か」を指している可能性が高い……。先の戦いの中で、勇儀さんは一瞬だけ怯む様子を見せた……。アレは恐らく、辛さの変化によるもの。つまり、淡々の辛さは一定ではなく、層のように異なる度合いが積み重なっているという事だ。その層が恐らく、八つ、存在するという事……?)
まさに戦慄であった。鈴仙は眩暈で崩れ落ちそうになる身体をやっとの思いで支えながら、スープの入った試験管を見つめた。
地獄の片鱗を眺めながら、あまりにも絶望的な結論に辿り着いてしまったのである。それは、この地獄一丁の苦しみに耐えられる者など、この幻想郷には存在しないという事だ。
今までこの激辛異変に関する作戦の指揮は主に鈴仙が率先して執っていたのだが、その日を境に、この地獄一丁対策プロジェクトに関する全ての権限は彼女の師である八意永琳が引き継ぐ事となった。鈴仙は永琳のバックアップに回る形となったが、その目には諦観と憂いの入り混じった暗い物があった。
・・・
……だが、永琳は気付いていなかった。
関係者以外立ち入り禁止であるヒヤシンスの厨房に、天狗の新聞記者に買収された妖精が紛れ込んでいたのである……っ!
地獄一丁のサンプル回収に成功、その事実が天狗の勢力にリークされたのだ。天狗達はすぐに誌面にてこれを報道、地獄一丁の攻略の糸口が見つかるかもしれないと人々は歓喜するが、当の対策プロジェクトの関係者達は頭を抱えた。秘密裏に進めていたサンプルの情報分析が公になってしまった今、辛辛軒の店主である辛神も永遠亭の動向を警戒する事になる。仮に地獄一丁に対抗するための医薬品を開発しても、当然相手はそれを上回るだけの細工を施してくるに違いない。対策班の表情に陰りが見え始めた。
事態は情報のリークに留まらない。新聞記者の一人が、療養中の萃香にインタビューを行った。しかしそれはインタビューとは名ばかり、伊吹萃香という大物の知名度を利用した部数稼ぎのための記事に過ぎなかったのだ。さらに悪質な事に、インタビューの際、萃香は地獄一丁への対策を述べていただけだというのに、実際に出回った記事では、「萃香が相棒である勇儀を非難する」という内容に捏造されてしまっていたのだ。その天狗の記事を鵜呑みにした人々の間で、『四天王、不仲説』がまことしやかに囁かれ始めた。
「勇儀さんの事を激しくバッシングしたという内容の記事が人里に出回っているとの情報もありますが、その真偽は?」
後日、萃香が永遠亭の広間に天狗の記者を集め、同じく地獄一丁に関する会見を行っていた際、その会場にいた烏天狗、射命丸文が質問した。本来の萃香なら笑い飛ばすような内容だが、今は状況が状況である。彼女も厳粛な面持ちでそれに対応していた。
「……事実無根だ。勇儀の健闘を讃えこそすれ、非難するなんてとんでもない。勇儀には後にしっかりと釈明を……」
事件が起きたのは、その時であった!
会場にいた天狗達が急にざわつき始めた。なんと、会見場に怒り心頭の勇儀が乱入してきたのである。一斉に勇儀と萃香にフラッシュがたかれる。一触即発の雰囲気である。萃香の目の前に立った勇儀の瞳には、怒りと同時に悲しみの感情が含まれていた。
「お前これ何だ?」
勇儀の手には、例の捏造新聞が握られている。しんと静まり返った会場で突然、勇儀が萃香に向かって咆哮した。
「何がやりたいんだコラッ!? 紙面飾ってコラッ!」
勇儀はその新聞を握りつぶした。勇儀の声は、少しだけ震えていた。記事を書いた者の種族が天狗とは言え、その記事を書いた記者は恐らく組織の中でも末端であろう。身分の高い者なら、鬼をコケにするような畏れ多い真似など出来ないからだ。しかし、そんな信憑性の薄い新聞で扱われた捏造記事の件で、鬼がここまで腹を立てるだろうか? だが、勇儀の怒りは、その心無い新聞記者の捏造記事とはまるで別の所にあるように見える。
「何がやりたいのか……はっきり言ってやれよコラッ!」
そう言って勇儀は、辺りで狼狽えながらもカメラを構え続けている烏天狗達を指した。バッシングの記事を鵜呑みにしているというより、それを信じたくなくて自棄を起こしている様子であった。
相対している萃香も、突然の勇儀乱入に動揺を隠せないでいた。萃香のハッキリしない態度に、勇儀はますます腹を立て、さらに語勢を強くしながら萃香に詰め寄った。
「……噛みつきたいのか噛みつきたくないのかどっちなんだよ? どっちなんだコラッ!」
真実を知らないとは言え、勇儀の言い分ももっともである。彼女達のような種族は「戦い」の前に挑発など存在しない。勇儀からしたら、今の萃香の態度には不満を感じずにはいられないだろう。自ら紙面で喧嘩を吹っ掛けるような真似をしておいて、知らぬ存ぜぬという表情をするとは何事だ、と。たった一言、萃香が冷静に事情を説明し、あの記事がデタラメである事を伝えれば、この場はすぐに収まるだろう。しかし、彼女らは互いに鬼同士、どんな事情、どんな真実があるにせよ、一度燃え上がった怒りを鎮めるのは不可能である。そしてついに、萃香がキッと勇儀の目を睨み返した。
「何がコラじゃコラッ! バカ野郎!」
萃香、まさかの逆ギレであった!
「何コラ! タコ! コラッ!」
悪びれる様子もない萃香の態度に勇儀は堪らず叫び返した。その場にいた天狗達が一気に閉口した。萃香からすれば、これは「あんなしょうもないウソの記事に踊らされやがってこのバカ野郎」というニュアンスを込めて放った、ある意味戒めの一言のつもりなのだろうが、今の勇儀には恐らく何も伝わっていないだろう。
「何だコラッ!」
「誌面を飾るなって言ってんだコラッ!」
再び、勇儀が持っていた新聞をチラつかせる。最早、二人の選択肢に平和的な話し合いなどない。罵詈雑言の嵐であった。鬼はいつだってそうである。鬼はいざという時、言い訳をしない。こうなってしまえば、どちらに非があるのかなど一切関係なくなるのだ。彼女達の蟠りの解消は、ぶつかり合いでしか成しえないのである。
「お前死にてぇんだろこの野郎ッ!」
萃香は怒りのあまり、ついに勇儀に対する宣戦布告とも取れる言葉を口にしてしまった。記者達が一斉にどよめきの声を上げた。喧嘩の意志あり、その言葉を聞いた勇儀の目つきが変わった。
「お前、言ったなコラッ!」
「おう、言ったぞ?」
鬼同士の間で、揺るぎようのない戦いの誓約が交わされた瞬間であった。他の記者と同様に現場の写真を撮りながら、文は思った。萃香がこの場で勇儀に一歩譲り、たった一言、誤解である事を訴えれば収まる話なのに、と。しかし……文は何も言わない。何故なら、記事のネタが増えるから、そして何より……面白いから……。
「吐いた言葉、飲み込むなよお前!」
勇儀が半歩身を引き、その場を後にしようとする。
「そのままじゃコラ! オイ、なめてんなよこの野郎!」
それに対し、萃香は怒りに任せて怒号をぶつけた。その表情は怒りと、苦しみと、ほんの少しの切なさが混じっていた。
「よし分かった、それだけだ。お前今言った言葉、お前、飲み込むなよ? なぁ吐いて、分かったな? 本当だぞ? 本当だぞ? なぁ? 噛みつくんならしっかり噛みついて来いよコラ、なあ?」
そのまま帰ろうとしていた勇儀が再度萃香の目の前まで戻ってくる。そして何度も萃香に対し「本当だぞ?」と確認した。この喧嘩、買う意思があるのかという事を改めて問いただしているのだ。
「中途半端な「言った、言わない」じゃねえぞお前。分かったなコラ? 分かったな? 噛みつくんだなコラ?」
天狗達は思った。問い詰めるにしても、ちょっとくどいな、と。それは言われている萃香も同様であった。勇儀の執拗な問い詰めに辟易した様子で、力強く食い気味に怒りを口にした。
「お前に「分かったな」言われる筋合い無いんじゃコラッ!」
「噛みつくんだなコラッ!?」
彼女達の間で、何かが決定した。捏造記事の件もそうだが、勇儀が本当に気に入らなかったのは、萃香が自分に対し「秘密」を持った事である。そう、萃香は地獄一丁との勝負の前日、勇儀に内緒で永遠亭の勢力と密約を結んでいた。しかし、それはサンプル採集が目的であり、決して疚しい気持ちがあったわけではない。それに、萃香が勇儀にその件を伏せていたのには理由があった。
勇儀と萃香の付き合いは長い。萃香は勇儀がどういう性格なのかを十分に理解していた。勇儀は、己ではなく、他者の為に本領を発揮する鬼である。そんな彼女に、このサンプル採集の使命を背負わしたらどうなるのか、恐らく、勇儀は死をも恐れずに一線を越えていたに違いない。自分の命と引き換えに、より多くの情報を持ち帰るために自身の限界を超え、取り返しのつかない事になっていたであろう。そして、勇儀は決してそれを厭わないはずだ。萃香には、それが我慢できなかったのだ。故に、このミッションの事を内密にし、勇儀に余計な負担を抱え込ませないよう単独で動いたのだ。全ては、友朋である勇儀の矜持を慮っての事であった。
しかし、いや、だからこそ、勇儀は腹を立てたのかもしれない。
「オッサンなめんなよこの野郎!」
萃香はついに気が動転し、勇儀をオッサン呼ばわりする始末であった。これにはさすがに周りの天狗達も「?」のマークを頭上に浮かべた。勇儀は最早これ以上語る事はないといった様子で、無言のままその場を後にした。会見場にいた天狗達が再び萃香に詰め寄り、勇儀との確執についての質問を飛ばした。萃香は質問攻めにうんざりした表情を浮かべていたが、何処かスッキリした様子でもあった。
記者達が萃香を取り囲む中、ただ一人、射命丸文だけがその場から立ち去り、勇儀の後を追い、直球で質問した。
「勇儀さん、やるなら、一対一という気持ちですか?」
文は非常に冷静な烏天狗である。勇儀と萃香の思考を熟知しており、彼女達の神経を逆撫でしない振舞いには慣れていた。それに対し、勇儀は少しずつ感情をクールダウンさせながら、落ち着いた様子で、囁くように弱々しく返した。
「時間かかんね……」
今日、この会見場で起きた出来事は「鬼のコラコラ問答」として、天狗達の間で語り継がれていったという。
しかし、それはまた別のお話。
何これ。
・・・
翌日、辛辛軒の前に大勢の天狗が集められ、記者会見が開かれた。
勇儀と萃香の喧嘩騒動が起こってから昨日の今日である。天狗達も何事かと落ち着かない様子である。中には天狗同士で怒鳴り合う者達もいた。人里の雰囲気は穏やかではなかった。
『本日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます』
物騒な喧騒の中、辛辛軒の奥から辛神が静かに現れた。ざわついた会場が一瞬だけ静まり返った後、皆が一斉にフラッシュをたき、辛神にマイクを向けた。これまでメディアに対し一切の沈黙を保ってきた辛神であったが、これは一体どういう心境の変化だろうか?
『それでは、もったいぶるのはやめて、単刀直入に……』
一呼吸。
『担々麺、地獄一丁の具、新メンバーを発表いたします』
それは、この激辛騒動が大きく動いた瞬間であった。
「……今、あの店主何を言った……?」
「まさか……ここで具(メンバー)加入だと?」
「おい、大天狗社に繋げッ! 編集長に連絡入れろッ!」
驚きと共に、天狗達が慌ただしく騒ぎ立てる。現場は騒然となり、皆が暴動のような剣幕で辛神に詰め寄った。
『……お静かに』
その場にいた天狗達は、まるで爆弾を投下されたような慌てようであった。しかし、そんな騒ぎを辛神はたった一言で収めた。
『これは正式に決定した事です。時間も惜しいので、よろしければこのままメンバーの紹介を行っても?』
辛神の放つ言葉を一字一句聞き漏らすまいと天狗達が口を閉ざした。そして、驚いた事に辛神がこれまで地獄一丁に使用したレシピを公開し始めたのだ。具材から細かい調味料までである。これまでベールに包まれていた地獄一丁の謎をあっさりと発表する辛神に、天狗達は唖然とした。まさかの重大発表である。
『そして何より、この地獄一丁の辛さ、えー……この際ですから、その元である調味料も、公開しましょう』
来た、核心である。
皆がほとんど前かがみになって集中する。すると唐突に、辛神が一本の小さな瓶を取り出した。赤主体の毒々しいラベルが貼られており、その中央には簡単に『火炎龍』と書かれていた。
『流石に製造元は伏せますが、地獄一丁にはこの火炎龍が使用されています。……おっと、盗んだりするのはやめてくださいね。どこぞのウサギが嗅ぎ付けて、舐めたりしたら大変ですからね』
辛神が顔に似合わず冗談っぽく言うものだから、会場にいた記者達が思わず笑い声を漏らしてしまった。永遠亭の対策班の犯したミスである。当然、辛神はその一件を知っていた。
そう、つまりこの会見は、地獄一丁の対策を練っているであろう勢力に対する牽制でもあった。全ては、辛神の絵図である。
『この火炎龍を一滴、その辺の湖に落とせば、その湖に住む全ての生き物は数分もしないうちに死滅するでしょう。分かりますか? この火炎龍は、調味料ではなく、「災害」なのです。面白半分で取り扱っていい物ではない。だからこそ、この場で公開します』
皆が冷や汗をかいた。あの地獄一丁の辛さのすべてが、あの一瓶に詰まっているという事である。まるで核兵器のボタンが目の前にあるかのような禍々しさがあった。
……ところで、この場にいたのは天狗の記者達だけではない。無論、永遠亭の対策チームの一人である因幡てゐが現場に紛れ込んでいた。彼女は喧騒の中でひっそりと小さく舌打ちをした。
(化け物め……私達に対する当て擦りのつもりか……)
サンプル回収の情報が漏洩した途端にこの騒ぎである。これでは秘密裏に進めていた《対地獄一丁新薬》の開発も徒労に終わるだろう。敵のレスポンスがあまりにも早すぎる。
当たり前の話だが、永遠亭の対策チームには人里の豪商による資金援助、所謂スポンサーが付いていた。チルノ達との合弁事業により資金については問題なかったが、「担々麺」用の新薬開発を行うにはそれに特化した技術、新たな研究等に莫大な金がかかる。よって、対策チームのリーダーである八意永琳は人里でのコネを利用し、資金援助のスポンサーを募ったのである。
しかし、先のスキャンダルにより、スポンサー達に揺らぎを見せてしまう結果となる。中には援助の話自体を白紙に戻す者もいた。つまり、永遠亭は他の勢力に対し、信用喪失という窮地に陥っていたのである。
『さて……ここまでは従来通りの具材ですが……ここでいよいよ、我が担々麺、期待のニューフェイスをご紹介しましょう』
ここからが本題である。
辛神が店の中から大きなフリップを持ち出し、天狗達の皆に掲げて見せた。そこには、驚くべき事が書かれていた。
半熟卵。
「……は?」
会見の先頭になっていた天狗が、思わず手に持っていたペンとメモ帳を地面に落とした。他の天狗も同様に唖然としていた。天狗達に紛れていた因幡てゐも同じように、開いた口が塞がらないといった様子であった。皆が口々に疑問を呟いた。
「え、いや……え? は、半熟……卵……?」
「いやいや……だって、え? そんな……」
それもその筈である。
半熟卵、それは、対極。担々麺のパンチ効いた辛さをマイルドに包み、より美味しく引き立てる為の、魔法のトッピングである。
つまり、辛さの勝負で半熟卵を使用するのは、辛辛軒にとっては不利にしかならない筈である。それを、何故? さっそく天狗達がその意図を問いただす。辛神は落ち着き払って答えた。
『ふふ……別に変な魂胆があってやっているわけではありませんよ。ただ単に、地獄一丁の辛さだけではなく、美味さという点にも着目して欲しいと思っただけです。半熟卵はその起爆剤と言ったところでしょうか? 何せ、担々麺と半熟卵相性は抜群で……』
「し、しかし……それではその、あの、半熟卵を投入してしまっては、肝心の地獄一丁の辛さが薄まるのでは……?」
記者のうちの一人が恐る恐る疑問を投げかける。もっともな質問である。しかし、そんな事は辛神も自身も承知していた。
『ええ、確かに。半熟卵は辛さを抑える効果がある。これでは貴方達にハンデを与えたようで、少々当てつけがましい印象を与えてしまいますね……では、こうしましょう……』
辛神は再びフリップボードを取り出した。
制限時間、十五分。
端的に書かれたその文字に皆は一瞬呆気にとられたが、瞬時に理解した。辛神は時間を短縮し、店の回転率、さらに挑戦者の数を増やすためにわざと記者達を呼び寄せ、このように仰々しく会見を行ったのだ。つまるところ、新たな具材である半熟卵はアメとムチで言うところの「アメ」である。それを条件に制限時間を設けたのだ。これは辛神にとっての最大の譲歩とも呼べるだろう。
『いえいえ……、何もそこまで深い意図はありませんよ。気軽に誰でも、この担々麺に挑戦する機会を与えたいと思っただけです』
その場にいた烏天狗の大半が良く分からないといった微妙な表情で辛神の解説を聞いていた。大勢の記者がごった返す店の前から、てゐは一人静かに立ち去った。辛神が設けたこの会見、全てがただのパフォーマンスである事を悟ったのだ。
「……何が記者会見だ。これは全て「餌」じゃないか……」
・・・
会見直後、天狗達がそれぞれ発行した号外により、地獄一丁のリニューアルの知らせは瞬く間に幻想郷中に拡散された。
それにより、先日の地獄一丁と鬼の勝負を見て臆病風に吹かれた人々が再び戦いの意志を見せ始めた。勇儀と萃香が地獄一丁に敗北した事で、誰もが「自分にゃ無理!」と決め込んでいたのだ。
だが、新たな希望が誕生した。半熟卵である。
幻想郷で未だに根強く流行している激辛ブームによって、人々はその性質を十分に熟知している。地獄一丁の足元にも及ばないが、稀に普通の飲食店にも辛さの「度が過ぎている」レベルの代物が出てくる事がある。激辛カレーに激辛パスタ、その手の食べ物が出てくるとお客は食事どころではなくなる。しかし、そこは食べ物屋の心意気である。激辛料理に半熟卵、生卵、つまるところ卵を乱入させる事により、激辛料理の美味さは倍増、辛さという戦場は途端に猛暑から、一気に食のリゾート地と変化する。卵で辛さを抑え、食事は続行される。つまり卵とは激辛チャレンジでのワクチンとも言うべき存在なのであった。
激辛ブームの波の中で数々の奇跡を起こしてきた半熟卵である。それが、あの鬼をも屈服させた恐怖の担々麺、地獄一丁に加えられるのだ。そうなると話が変わってくる。あの卵がトッピングされるのであれば、自分にも勝機があるのではないか? と。
しかし――しかし。
『くくく、そら見ろ、餌に食いつきおったわ……』
半熟卵を投入した地獄一丁、完全なる舐めプ(舐めたプレイ)であったが、その僅かながらの希望に、人々は縋り付かざるをえなかった。何せ、この異変が始まってから、幻想郷の住民達は一度も地獄一丁に勝機を見出せていないのだから。
辛神の店である『辛辛軒』は増改築を行い、さらに人里の役所で店の付近一帯を借り、屋外に多数のテーブルを用意した。その様子はまさに地獄のビアガーデンであった。
合戦に臨むような気迫で人里の男達が辛辛軒、いや、辛辛ガーデンへと集まり、例の地獄一丁を注文した。少々の恐怖はあったが、真夏の暑さ、熱気により皆のボルテージは最高潮に達した。
だが全ては、辛神が仕組んだ罠である。
その日の夜、人里の大通りは阿鼻叫喚の地獄と化した。新しくリニューアルした地獄一丁、その中央に鎮座した半熟卵を皆はさっそく箸で突き刺し、とろっと零れた黄身をじっくりと真っ赤なスープに浸透させる。針金のような辛さに、卵のマイルドな風味が合わさる。あれほど恐ろしいと思っていた担々麺が、今夜はやけに美味そうに見える。しかし、そもそも担々麺は美味い筈の食べ物である。しかも、絶望的であったのはその香りである。半熟卵の効果により、担々麺の鋭い辛さは抑えられ、代わりに旨味成分が引き立つ。それにより、胡麻の炒られた香ばしさが辛さの壁を通り越し、辺りに充満する。人々はその香りにメロメロになってしまっていた。
皆は警戒心を解いた。この担々麺は地獄などではない。受け入れるべき善良な物だと思った。皆が一斉に箸を構え、担々麺をすする。辛神は静かに時計を作動させた。
その瞬間、その場にいた人々は自分達の油断を恥じ、そして後悔した。彼らは思い出したのだ。この地獄一丁は、鬼を殺している。
皆が青い顔を浮かべ、一人、また一人とその場に倒れて悶絶する。千の針の山を登らされる地獄すら生ぬるい。皆が皆、苦痛に蹂躙され、顔を歪ませている。叫び声が轟く。手足をもぎ取られたような凄惨さが辺りに立ち込める。今宵、この地獄一丁に挑戦した者の数は五十名ほど。その内、人間は四十二名、残りは里の外に住む名もなき妖怪であった。その妖怪ですら、苦悶の表情を浮かべ、あまりの辛さに噎び泣き、嗚咽を漏らしながら箸を置くのである。
そう、半熟卵のまろやかさ程度では地獄一丁の辛さを拭う事など到底出来ないのだ。半熟卵、それはより多くの挑戦者をおびき寄せるための「餌」だったのである。あの仰々しい会見も、天狗のマスコミを呼んで、わざわざ地獄一丁の辛さの秘訣である調味料、火炎龍の情報を公開したのも、全てはこのためのフェイクである。
十五分後……箸を持つ者は一人もいなかった。それどころか、まともにテーブルに座っている者達すらいなかった。タイムアップを告げるアラームが辺りに虚しく鳴り響く……。
人里の夜店が立ち並ぶ中、そこに活気など一切なかった。あるのは刃物を突き付けられたような静寂と、地獄一丁に怯えた人々の揺れる瞳だけであった。オレンジ色の街灯に照らされながら、辛神は倒れ伏した者達を冷ややかな目つきで見下していた。
《……流石に、あのウサギの勢力はいませんね……この程度の仕掛けに釣られる事はないと思っていましたが……》
・・・
真夜中の人里、飲食店の甘く香ばしい香りの中で、一筋だけ鋭く怪しく光る刃物のような匂いが漂っている。その匂いの元は、辛辛軒の内部にある香辛料、『火炎龍』である。攻撃的でありながら、それとは裏腹に食欲のそそられる不思議な匂いであった。綺麗な花には毒があるように、その美味そうな匂いも、食を求めて彷徨う者を誘うための罠であった。激辛という猛毒の前には、法も秩序も存在しない。在るのは、掛け値なしの苦痛と絶望、まさに暴力である。
一方、ところ変わって永遠亭陣営は――。
辛辛軒の近辺に隣接した甘味処『ヒヤシンス』が新たに開発したメニュー「宇治抹茶ミルク金時」は、その地獄一丁の犠牲者だけではなく、ご年配の一般客にも大うけであった。落ち着いた甘さが心地良いらしい。この大きな収入を元手に、『ヒヤシンス』は二号店をオープンした。『ヒヤシンス・紅魔館店』である。あまり休暇を貰えない紅魔館の妖精メイド達に重宝される事となる。
人里の『ヒヤシンス本店』の厨房には永遠亭で扱っている精密機械が運ばれた。商売の傍ら、辛辛軒の地獄一丁を分析するためである。プロジェクトリーダーである永琳は、既にスープの中に含まれる成分と、その特性を割り出していた。
「……やはり、あの鬼の言ったとおり、地獄一丁の辛さは幾つかの層に分かれているわね……。しかもその層の一つ一つが分厚い壁で守られている……。怪力乱神に感謝しなきゃね。彼女がスープの奥まで侵入しなければ、その辛さの正確な段階は分からなかったわ」
地獄一丁の辛さは八つの層に分かれている。勇儀が言った「八」という数字はまさにこれの事を指していたのだ。スープの奥に潜れば潜るほど、その辛さは濃く、より鋭い物となっていくようだ。
「まさに『八大地獄』ね……」
阿鼻叫喚には、一体何が待っているのかしら? ゾッとしてしまうような事を、永琳はサラッと言い放つ。周りの空気が凍る。
地獄一丁のスープの成分を解析しながら、永琳は解説のように続ける。しかし、永琳のその言葉に対し、軽い相槌を打つ者は誰一人としていなかった。永琳が淡々と事実を述べる度に、その場にいたウサギ達が意気消沈の表情を浮かべた。
「地獄一丁の中身は……通常の担々麺のレシピで使用される調味料がほとんどだけれど、イレギュラーな要素がその成分の影に隠れているわ……あった、コイツがその『火炎龍』ね……」
専用のマイクロスコープによる映像がモニターに映し出される。プレパラートに垂らされた一滴のスープ、その内容が倍率200で映っていた。永琳の言う通り、「何か」が他の調味料の影に隠れる形で混入している。つまりそれが、辛さの正体、火炎龍である。
「見た事も無い香辛料ね……人の手で生成出来る代物ではないわ。……うわ、これのスコヴィル値、カンストしちゃってんじゃん」
スコヴィルとは辛さを測る単位である。しかし、正しく測れる辛さはカプサイシン(主に唐辛子等)限定であり、地獄一丁に含まれる謎の物質の機序も従来の唐辛子とは異なっている可能性が高く、その測定値もはっきりと断定する事は出来ない状態である。
――それほどの辛さに耐えられる者なんて――。
鈴仙が沈み切った顔をしながら、紙に書いた文字を永琳に見せる。
「……ま、簡単に言えば、打つ手無しって事よ」
永琳はクスッと笑いながら、担々麺のデータが詰まった書類を机の上に放った。それは一本の匙のようにも見えた。
……その頃、白玉楼では。