第六章『白銀の侍、死す』
とても恐ろしい集団心理である――。
「消防隊が……遅すぎるぞォォ――――ッ!」
神奈子と早苗は一目散に妖怪の山の中に聳え立つ守矢神社へと駆け付けた。そこには既に天狗や河童達の野次馬が集まっていた。洩矢諏訪子が神社の周辺に大規模な防御結界を張っているが、火の勢いがあまりにも強すぎる。刻一刻と神社が炎に包まれていく。
「早く……消してくれ……私の家が……」
神奈子が燃えていく神社の前で膝を付き、泣いている。そう、消防隊はまだ来ない……何故なら! もうお分かりだろう!
誰も……消防隊を呼んでいないのであるッ!!
「何言ってんだ! 冗談は終わりだッ!」
玄武の沢から送られてきた河城にとり率いる河童チームが、川の水が溜まったタンク車に乗って現れたのである。
「おお河童! やっと来てくれたか!」
妖怪の山の火事の対処についてはにとりを含む河童達が担当している。消火活動の専門である。彼女達が来たからにはもう安心である。神奈子はほっと胸を撫で下ろした。
「ボーボーと景気良く燃えやがって! 同胞達! あの炎にありったけの水をぶちまけてやるんだ!」
にとりの合図によって大量の水がホースから発射された。水が一気に守矢神社に降りかかる。……だが、一向に火の勢いが弱まる気配は無かった。それどころか、炎がより一層強くなってしまう。
「どういう事だッ! どうして火が消えない……ッ!」
にとりが激しく燃え広がる劫火に顔を顰めながら叫んだ。その瞬間――、再び妖怪の山の火口から爆発音が轟く。
「うわあああああ―――――ッ!!」
爆風が守矢神社一帯に吹き荒れ、にとり達はタンク車ごと辺りに吹き飛ばされてしまった。それに続き、他の河童達も川から水を引いて辺りの消火に急ぐが、火の勢いは更に増すばかりであった。炎は焔となり、容赦なく妖怪の山を焼き尽くそうとする――ッ!
「ああッ! 見ろッ! 神社の上にッ!」
消火活動の応援に来ていた白狼天狗の一人が燃え盛る守矢神社の上空に指を差して叫び声を上げた。天狗達や河童が驚嘆と悲哀と、そして絶望的な諦観が入り混じった表情を浮かべた。
龍だ、龍がいる。
妖怪の山の火口から灼熱のマグマが溢れ、爆発を巻き起こす。圧倒的な熱により空間が歪んでいく。まるで、この世の物ではない何かを呼び覚ますように。捻じれた火炎が、まるでとぐろを巻いているように見えた。それはまさしく、怒り狂った火炎龍の形である。その場にいた者達が一斉に放心したような顔をしていた。人間達に畏れ、敬われた種族である者達が、その場で膝を折り、神を、否、神さえも越えた「何か」を崇拝するように、跪いた。天狗や河童達が、誰もが皆、心の中で思った。今日が、幻想郷の最後だと。
「……眠っちまうのか……幻想郷は……。ほんとに、ほんとにこれで終わりなのかよ……? 私達の……楽園は……」
先ほどの激しい爆風によって吹き飛ばされ、辺りの茂みで倒れ込んでいた河城にとりがぼそりと、問いかける。問うたその先は神か仏か、にとりの目の光は消えていた。それは、生き物が「命」を諦めた際に見せる目であった。にとりだけではない。天狗も、他の河童達も、明らかに諦観の念をその眼に宿していた……。
八坂神奈子と、東風谷早苗を除いて――。
「早苗……」
「……何ですか、神奈子様……」
早苗は涙を流していた。それは、住居が焼けた事が悲しいからではなかった。早苗は現人神であるが、その実、中身は年相応の少女である。彼女は、守矢神社の上空に出現した禍々しき龍の気迫に圧倒されてしまっていたのだ。こんなもの、存在して良い訳が無い。理不尽以上の理不尽、その許容量を超えた時、人は、怒り狂うでも悲しみに打ちひしがれるでもなく、ただ、無表情で涙を流すのだ。
お前に聞きたい事がある――。
神奈子はそう言って、目の前で燃え滾る地獄の龍を睨みつけていた。彼女の言葉に、早苗はハッと我に返った。神奈子の目には、怒りや悲しみなどのどす黒い念は籠っていなかった。その代わり、もっと温かく、柔らかく、そして、力強い何かが宿っていた。
「この郷が、幻想郷が好きか、早苗――?」
早苗は一切の間も明けず、「はい」と即答した。たとえここが地獄だったとしても、答えは変わらない。全てを投げ出すには、彼女はもうこの世界を愛し過ぎていたのだ。早苗の脳裏に、この郷での思い出が沸々と蘇る。この輝かしい土地が、奪われていい筈無いのだ。早苗の心地の良い返事に、神奈子は優しい笑顔を浮かべた。
「この幻想郷を守りたいか? 最後の、最後まで――」
「……はい……ッ!」
翠髪の風祝が、溢れる涙を乱暴に拭った。返事に間が空いてしまったのは、決して迷ったからではない。轟々と燃え続ける炎によって赤く染まった早苗の目には、それよりもっと多くの世界が映っていた。今、自分達が生きているこの常世である。
「神奈子様、私は……」
そこには希望と同様の数の絶望が用意されていて、何もかもが理不尽な計算で動かされている。その不条理の中には、自分達、神々という存在さえも組み込まれていた。神様でさえ悲しみを強いられる時があるのだ。この世の理が全て二極であるように、男と女がいるように、生と死があるように、悲しみと平和があるように、全ては二択の問題でしかない。
早苗は、容赦なく積み重なる凄惨な被害を目の当たりにして、それに気付かされた。泣くか戦うか、投げ出すか全うするか、勝つか負けるか、生きるか死ぬか。神奈子の問いに対して返事が覚束ないのは、決して怖かったからではない。
自分達が愛したこの世界を守る為に、立ち上がれる自分が誇らしくて堪らなかったのだ。早苗は意を決し、空を飛んで黒煙立ち込める守矢神社の屋根へと降り立った。燃え続ける我が家を踏み台に、心を挫かれてしまった天狗や河童達に叫んだ。
「……どうして浮かない顔をしているんですかッ! 嘆くのにはまだ早いですよ! こういう時の為に神様がいるんです! どうか皆さん、絶望しないで下さい! 何も諦めないで下さい! どうか、神様(私達)を信じて下さい……ッ!」
虚ろな目をした者達が一人、また一人と顔を上げ、皆の前で喉が張り裂けんばかりの大声を出している少女を見つめた。全てを諦めた者達が、少しずつ早苗の言葉に耳を貸していく――。
「奇跡は起こります……祈る前に、まずは信じて下さい……。私達の世界を脅かすような悪夢が目の前に現れました……ですがどうか、目をそむけないで下さい……。確かに、状況は最悪です。生きている限り、最悪な事は何度だって起こります。容赦なく、私達の日常を脅かしにやってきます……」
一人、また一人と、心を砕かれた者達が顔を上げる。信念を、種族としての誇りを挫かれた者達が、少女の言葉に耳を傾ける。
「……いつかこの世界も、全ての尊い物を失う日が来るかもしれません……。幻想郷が壊れてしまって、大好きな人と、もう二度と会えなくなってしまうような日が来るかもしれません……。人間の尊厳や、妖怪の矜持、神様の祈り、その全てが無様に敗北してしまう日だって、いつかきっとやって来る……」
――ですが――、それは今日じゃないです――。
その瞬間、この場で顔を俯かせている者は一人もいなくなった。
早苗の一言に、今度こそ、その場にいた全ての種族が立ち上がった。その目にはもう曇りなど無かった。皆が、気付かされた。ただ一人の少女の叫びによって、「何をすべきか」を思い出したのだ。
「だから……今日は、戦いましょうよぉ……ッ! 幻想郷を……ッ、何処にでもある『幻想』の『日常』を守るために……ッ!」
早苗の言葉に、天狗と河童が力強く頷いた。気付けば、人里にいた多くの妖怪達もこの場に到着していた。皆が、愛すべき自分達の郷を守るためにここに集まったのだ。
「その通りだ! 戦おう! 最後まで戦おう!」
皆が口を揃えて己を、そして自身の傍にいる友を力強く鼓舞するように叫んだ。先ほど爆風によって怖気付いてしまった者達も一斉に態勢を立て直した。彼女達の先頭に立っていた河城にとりがすこぶる悔しそうな顔を浮かべ、地団駄を踏み、その手にはめていた手袋を地面に叩き付けながら喚いた。
「何をボケッとしてたんだ私達はッ! あの娘の言う通りじゃないか! 今こそ私達の真の強さを見せる時だッ!」
応! と、現世に忘れられた妖怪達の魂の叫び声が幻想郷中に木霊した。この時だけは皆が恐れを忘れた。自分達の世界を奪われてなるものかと声を上げた。奇跡は必ず起きると信じた。何故なら、神様が共に戦ってくれているから。
「大切な人を守る為に、この郷を守る為に、戦いましょう! 皆さん! 一緒にこの『ハレ』と『ケ』の世界を守りましょう!」
・・・
パニック状態であった人里の騒々しさが、再び歓声によって掻き消された。妖夢が再び箸を手に取ったからである。
『……それでは勝負を再開しましょう……改めて……ようこそ、地獄の四丁目、叫喚地獄へ……』
ついに妖夢は折り返し地点である第四ステージへと降り立った。
「では……さっそく……」
妖夢は額に浮かぶ珠のような汗をその腕で乱暴に拭い、迷いなくその地獄色のスープに身を投じた。どうにか地獄一丁の本来の旨味を探り出しながら慎重に箸を進めていく、だが……。
(あれ……? これって……)
妖夢は麺とスープを交互に切り替え、石橋を叩いて渡るような気持ちで用心しながらスープの海を潜り続けていた。様々なトラップを警戒して奥へと進む。……だが、そこで奇妙な感覚を覚えた。
あまり、辛さを感じないのだ――。
(辛……くない……? いや、確かに辛いんだけど……今までと比べて若干刺激が抑えめと言うか……まさか……)
――私の舌が、「ハードル」を底上げした――?
説明しよう。妖夢の言う「ハードル」とは、激辛マニアの間で使われる「辛さへの限界値」の事である。そう、人間には存在するのだ。辛さに対する限界点、「このぐらいの辛さなら耐えられるという」一定のラインが――。だが、このハードルには奇妙な成長機能が備わっている。辛い物を急激に摂取した際、ある一定の水準をはるかにオーバーする事により、辛さへの耐性、限界値が大幅に上がる事が稀にあるのだ。「絶対に自分じゃ無理」と想定していた激辛料理を無理やり食している時にふと「あれ、いけんじゃね?」と思う瞬間は無いだろうか? そう、それは自身の舌の耐性レベルが上がったという事である。
つまりこの状況、戦いの中で妖夢の舌が成長したという事か?
(おいおいおいィ……第四ステージこんなもんか!)
妖夢は無表情のまま麺を啜り続けていたが、内心では滅茶苦茶憎たらしい顔でほくそ笑んでいた。これもう勝ち確じゃん、と。
(こんなんで第四ステージだって? これならさっきの段階の方がまだ辛かった……これもう私の勝ちだわ。うっひっひ……)
そして瞬く間に、妖夢は第四ステージ、叫喚地獄をクリアしてしまったのだ――これには、周りで応援していた観客達も呆気にとられた。感嘆よりも先に疑問符が勝った。
「え? ウソ! もう突破しちゃったの!」
「すげえ! いける! これならいけるぞ!」
一拍ほど遅れて歓声が響き渡る。妖夢は調子に乗り、席を立って周りに楽勝アピールをして見せた。観客達が更に沸く中、一人、その状況を訝しむような目つきで見据えている者がいた。
「……おかしい。これは……」
それは八意永琳であった。第四ステージを難なく乗り越えた妖夢に拭いきれない不安を抱えていたのだ。
(仮にもあの担々麺は地獄……、そう易々と敵の侵入を許す筈が無い……なのに、第四の門をこうもあっさりと開くか……?)
永琳はふと辛神の表情に注目した。地獄一丁の肝心要である防御壁がいとも容易く破られたというのに、眉一つ動かそうとしない。
(破られたのではなく、「敢えて」通した……まさかこれは……)
勢いをつけた妖夢はすかさず次のステージ、『大叫喚地獄』を蹂躙するが如く突き進んだ。今の妖夢は完全に驕っていた。自身の舌を過信していたのだ。その慢心は、命取りであった――。
《ああそうだ……食らうがいい……自身の頭上にダモクレスの剣が細い糸で吊るされているという事も知らずに……》
そう、これは罠である――ッ!
「駄目よ! その先は食べてはいけないッ!!」
辛神の用意したトラップの存在にいち早く気付いた永琳は妖夢に叫んだ。しかし、一足遅かった……。
「……うぐッ!? うううううううう――――ッ!」
妖夢が突然、奇妙な呻き声を上げた。その尋常ではない様子に辺りがざわめき始める。その時、カラン、と小気味のいい音が小さく鳴った。妖夢が、今回の勝負で初めて箸をテーブルに落としたのだ。
「い、たい……ッ! 痛いいいいいいぃぃいいぃッ!!」
突然、妖夢は人が変わったかのように悲痛な声で絶叫した。妖夢は堪らず椅子からずり落ち、地面を転げ回って叫び続けた。初めて涙を見せた。あまりにも無残な光景であった。
「痛い! 痛い! 痛いよ痛いよ痛いいいいいいいいいッ!!」
まるで子供のように泣きじゃくる妖夢に、観客は動揺を隠せなかった。それも、第四ステージをあれだけ好調に突破した後だ。ここに来て急に凄惨な叫び声を上げるのは不自然である……。
『くっくっく……ようこそ、大叫喚地獄へ……』
辛神が笑っていた。
そう、永琳の不吉な予感は見事に的中してしまっていたのだ。実は、先ほどの第四の壁である叫喚地獄と、現在の第五の壁、大叫喚地獄は上下関係にあり、この二つは密かに繋がっていたのだ。
「どういう事ですか、永琳先生……ッ」
隣にいた射命丸文が永琳に問いかけた。
「……叫喚地獄は、敵を油断させて次の大叫喚地獄へとおびき寄せる為の囮だったって事よ。第四ステージは、今まで第一から第三の壁を突破してきた者の装備、及び警戒心を剥がす役割をしていて、その時に生じた隙を次の第五ステージで一気に攻める……」
恐らく、第五の辛さの壁に、特殊な香辛料が使用されていたのだ。それも、今までの妖夢なら難なく耐えられるほどの微々たる物だろう。だが、第四の壁「叫喚地獄」で油断し、己の立場の危うさを失念していた妖夢はまんまとその見えない「小さな剣」で突き刺されたという事だ。
《くくく、この地獄一丁に使用されている調味料『火炎龍』、だが、この戦いでは更に新たな香辛料を使用させてもらいましたよ。その昔、グアテマラのジャングルに潜む邪悪な祈祷師が密かに植えたとされる呪いの唐辛子をね……くっくっく》
なんじゃそりゃ。
だが、その効果は抜群である。暴走した機関車のように暴れ回る妖夢の様子が何よりの証拠であった……っ!
「勝負の最中に警戒を解いた時点で妖夢の落ち度だわ……自身の状況を楽観視し過ぎて、大叫喚地獄で待ち構えていた刃に気付けなかった。確かに、罠を仕掛けるには絶好のタイミング……」
――まさに、ダモクレスの剣が直撃してしまった訳ね。
ダモクレスの剣、古代ギリシアの植民都市シュラクサイを統べる僭主ディオニュシオス二世の臣下であったダモクレスは、僭主の持つ富と権力を羨んでいた。それに対し、ディオニュシオス二世は饗宴の場でダモクレスを自身の権威の象徴でもある玉座に座ってみるように勧めたのである。言われるままに玉座へ腰掛けたダモクレスであったが、ふと上を見上げてみると、そこにはなんと細い紐で吊るされた剣があるではないか。ダモクレスは慌ててその玉座から逃げ出す。それに対し、ディオニュシオス二世は「栄光と名声には常に危険が伴っている」と、支配者という立場の危うさをダモクレスに諭したのである。そしてこの話は『ダモクレスの剣』という故事で後世に伝えられているのだ。
「うわああああ……ッ、痛みが、痛みが引かないぃ……ッ!」
妖夢が顔を涙と鼻水でボロボロに濡らしながら地面をのた打ち回る。まさに、地獄一丁の前で慢心を招いた者の末路である。その醜く悶え苦しむ様子が辛神の哀れを誘ったか、辛神は何も言わずに優しげな顔で小さなコップに水を一杯注いでテーブルの上に置いた。辛い物を食べさせている相手にお冷を出すとはどういう事だ? と、皆が不信感を抱いた。敵に塩を送るような行為である。
『見苦しいですねえ……さぁ、これをお飲みください……』
それは憐みだったのか、はたまたこれも何らかの作戦なのか。しかし、今の妖夢に迷っている余裕などなかった。ヒーヒーと顔を真っ赤にしながら、妖夢は何も考えず、無策のままそのコップに手を伸ばし、一気に口に含もうとした――その時である。
「……ッ!?」
キンキンに冷えた水を口に運ぼうとした手が止まった。それは妖夢の意志とは全く異なる動きであった。今すぐにでも口の中に冷たい液体を流して、ちょっとでも痛みを和らげたいのに、無意識のうちに妖夢の身体がそれを「拒んだ」のである……。
(な……何が起きて……ッ?)
妖夢は目を見開いてコップを見つめていた。その目には焦りと、それをはるかに凌駕するほどの戸惑いがあった。明らかに身体が言う事を聞いていない。コップを持つ手が震えた。
やややややややめめめめめめめろろろろろろろろ。
「うあぁ……ッ!?」
突然、何処からともなく妖夢に怒号が飛んできた。まるで稲妻に打たれるような衝撃であった。妖夢は辺りをキョロキョロと見渡すが、声の主を見つける事は出来なかった。だが、そうしてる間にも妖夢の口の中では激痛の火花が吹き乱れている。
やややややめめめめめろろろろろろ飲むな飲むな飲むな――。
(また……ッ、誰ッ、何処から……ッ?)
その時、妖夢は手を滑らせ、握っていたコップをその場に落としてしまった。無論、中に注がれていた水が地面にぶちまけられる。
《……っ!》
その様子を見た辛神は驚きの表情を浮かべた。
そう……。妖夢のその不可思議なアクシデントが功を成したのである。実を言うと、その差し出されたお冷は辛神が描いていた「大叫喚地獄」の最終工程であったのだ。普通、人は辛い物を食べた時に飲み物を飲んで辛さを和らげようとしてしまう。だが、それは大きなミステイクである。辛い物を口にした時、キンキンに冷えた水を飲んでしまうと、味覚がクリアになって余計に舌を刺激してしまうのだ。辛神はそれを狙ってさりげなく妖夢にお冷を渡した。もし、妖夢がそれを口にしていたら、今、妖夢の舌を苛んでいる痛みは数倍に膨れ上がり、完全に勝負どころではなくなってしまっていたに違いない。妖夢の身体の中に潜む本能が無意識のうちにお冷を拒んだ事により、その卑劣なトラップを未然に防ぐ事が出来たのだ。
『……お冷トラップ、引っかからんか……ッ!』
辛神は焦りを感じている様子であった。これでは、妖夢を第五ステージ、大叫喚地獄で葬る為のプランが成り立たない。
(今すぐ口の中に冷たい物を入れたいのに……身体がそれを拒否したっていうの……?)
自分で自分が恐ろしくなるとはこういう事なのか。妖夢は痛みと、腹の底からせり上がってくる未知の恐怖に震えてしまっていた。自分は今、戦いの中で成長していると確信した瞬間である。
(この勝負の果てには――)
この戦いの果てには、一体何がある――?
もう決して挫けないと思っていた筈の心に戸惑いが生まれた。この地獄一丁の戦いで、妖夢は一つ大人になった。それと同時に憶病にもなった。恐れを知ってしまった。自分が自分でなくなっていくような、不気味な感覚であった。それでも妖夢は立ち止まれない。この勝負に、幻想郷の未来が懸かっているのだ。
再び箸を持つ。激痛を何とか耐えながら、もう一度呼吸を整えて勝負に挑んだ。この激痛を越えたら、次は、第六の壁。
焦熱地獄である。
思えばとんでもない所まで来てしまったと妖夢は自身に感心してしまった。前人未到の地であり、常人であれば恐らくこの時点で舌は焼け爛れ、口から炎を吐いて死んでしまってもおかしくはない。妖夢はそれを命蓮寺での修行で身につけた完全無欠の装備、白虎の舌と、己の中に備わっていた根性のみで凌いでいた。今までの試練は何とか乗り切る事が出来ていたが、ここから先はそうはいかない。
妖夢は薄々感づいていた。恐らく、もう今までの戦法は通用しなくなるという事を。そうなると人間は「自棄を起こすタイミング」を視野に入れなければならなくなる。本当に追い詰められた時、万策が尽きた時、人間は何処かで捨て身になる事を選択しなければならない……なんて、愚かな考えばかりが頭をよぎった。
(馬鹿か私は……ッ! こんな所で心を折ってどうする……ッ!)
箸で麺を掴む前に、妖夢は自分の頬を張った。今一度気合を入れ直す必要があった。先ほどの激痛によって完全に集中が切れてしまっていた。心が弱くなってしまっている。
そう、妖夢にとって、それはかなり不味い事なのである。
ここで妖夢の弱点について説明しておこう。
一言で言うなら、妖夢は『メンタル』が非常に脆い。基本的に妖夢は精神的にも肉体的にも中二~三ぐらいの年齢である。それ故に何かあるとすぐに凹んでしまう性質であった。それだけならまだ年相応らしいが、妖夢の場合は少しこの辺が拗れちゃっている。
(嫌だあぁ……どうしよう、何か、泣けてきた)
そう、ものすっごく面倒くさい性格をしていたのだ。
妖夢は一度、深夜二時に宇宙の終わりが何処なのかを考えながら布団に入り、眠れなくなってしまった事がある。それと同時に、自身の将来について連想してしまった。そして、凹んだ。メンタルがやられてしまい、妖夢は深夜であるにも関わらず、泣きながら霧雨魔理沙の家に無理やり押し掛け、一晩中マ〇オカートをして過ごしたのである。こういう時は自身の周囲の中でも比較的アホな友人と一緒に遊ぶに限る。ふざけんなぜ。
妖夢はゆっくりと呼吸を整え、もう一度精神を舌に集中させる。だが……。
「あ、あれ……?」
妖夢は自身の身体に違和感を覚えた。妖夢は命蓮寺での修行で例の「白虎の舌」を会得した。その日以来、妖夢はいつもそばに雄々しい獣の気配を感じていた。まるで背後霊のように身の回りに得体の知れない怪物がうろついているような感覚があったのだ。
だが、今はそれが無かった。
(おかしい……さっきまで私の傍にいたのに……)
まるで身体の一部が痛みを伴わず剥がれてしまったような喪失感があった。この戦いで、自分がどれだけ白虎の舌に依存していたかを思い知らされた。
「まさか……ッ! 奪われた……ッ!?」
その時、妖夢の後方で戦いをじっと静観していた聖が血相変えて立ち上がった。
「聖……奪われた、って……」
すぐそばにいた星が不安気な表情で聖を見つめる。そう、星は妖夢が持つ白虎の舌の効力を知っている。アレは、ちょっとやそっとの弊害で剥ぎ取れるような強度ではない。
だが、妖夢の様子を見て、不安が確信へと変わっていく。
今の妖夢は、白虎の舌を失っている……っ!
「まさか、え……そんな、何で……ッ!」
ここで初めて妖夢は狼狽えた。今の今まで勝負を続けることが出来たのは、白虎の舌が担々麺の辛さを最小限まで抑えてくれていたからである。それを勝負の最中に喪失してしまうというのはまさに絶望そのものである。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってください! え……あれ……?」
妖夢の表情から血の気が引いていく。明らかにパニックを引き起こしていた。だが、辛神は情けをかけない。
『おや、どうしたんですかっ? 勝負を諦めるのですかっ?』
若干声が嬉しそうなのがイラつく。そう、混乱している妖夢を見て、辛神はこれを好機と読んだ。『ギブですか? ギブアップですかッ!?』と捲し立てる。妖夢は焦りに焦った。自身の一番の切り札であった能力を失った今、もはや勝算はほぼゼロに等しい。だがここで諦めたら全てが無駄になる。
「やめなさい妖夢! 「あの舌」も無いまま勝負を続けたら命の保証はない! すぐに棄権しなさいッ!」
後方から聖が叫んだ! だが妖夢は「え、え?」と細い声で狼狽えるばかりであった。その弱気な様子は、戦士でも救世主でもない。ただの一人の少女の姿がそこにあった。魔法が解けたシンデレラのように、ただひたすら無力となっていた。
『続けるのですか? やめますか? どうするのですかッ!?』
聖からの指示の声をかき消すかのように辛神が妖夢に向かって責め立てる。幸か不幸か、妖夢はここでへこたれ、すぐさま後ろを振り返ってしまうような柔な根性はしていない。それに、ここで逃げの一手はあり得ない。挑戦心と恐怖を綯交ぜにしたまま、妖夢は箸で麺を掴んだ。後ろの方で聖が、命蓮寺の仲間達が何かを叫んでいたが、今の妖夢には何も聞き取る事は出来なかった。食わなければ終わらないのだ。だったら、やるしかない。
「やめろ……妖夢……やめろおおおーーーーッ!!」
聖が音高く叫んだが、その声は、妖夢には届かなかった。
じゅるぅ……ッ! と、まるで燃えている水を口に運ぶような思いで、地獄一丁の麺をすすった。だが妖夢にとって、それはまさしく悪夢のような苦痛、地獄の拷問であった――。
(~~~~~~~~~ッッッ!!)
今この瞬間、妖夢の脳裏にある言葉が浮かんだ。それは偶然が必然か、妖夢の戦いをジッと見守っていた者達全てが「それ」を、その言葉を思い浮かべていたのだ。
食えたものではない。
妖夢は、そのあまりの激痛に悲鳴を上げようとした。だが、声が出ない。まるで喉が発音の方法を忘却してしまったかのように、叫び声がカサカサと乾いた音を立てて死んでいく。そして、胃の奥から、まるで火山の噴火のような勢いで熱い何かが込み上げてきたのだ。これは吐き気ではない。これは地獄一丁を食した事によって生じた弊害である。故に、きっとこの症状を表す言葉はこの世には存在しないのだろう。
妖夢が、口から火炎を吐き出したのだ。
まるで腹の中で内臓を焼かれたように、その炎を放出していた。妖夢の声は、呼吸は、全て火炎となって口から吐き出される。あまりにも非現実的な出来事に、観衆達は歪な悲鳴を上げる事しか出来なかった。妖夢が火を噴いている。その光景に、皆が恐怖した。
(あばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばば)
その間、妖夢の脳は完全に機能停止していた。否、脳を正常に働かせていたら、妖夢の精神はごっそり削られてしまっていただろう。故に、本能的に思考を停止させていたのだ。
目ん玉が高速で回転していた。顔が熱く燃え滾るエンジンのように震えていた。白目を剥きながら、辛うじて正気を取り戻す。
妖夢は、先ほど自身の手からこぼれ落ちたコップの破片に映る自分の歪んだ姿が、真夏の日差しに置かれたアイスクリームのように溶けている事に気付いた。
恐ろしい事に、妖夢が第五の関門、大叫喚地獄で口にしたグアテマラのクレイジー唐辛子には、原因不明の幻聴・幻覚・乖離等の副作用が存在するのである……;っ!
妖夢は焦点の合っていない眼で自身の指先を見つめる。両手を合わせて三本しか指が無かった。まるで氷で出来た彫刻が熱によって溶けてしまったかのように、指がドロドロになっていたのだ。何度も何度も手を擦り合わせ、これが「現実」ではない事を確かめようとした。
「うわぁあああばばばばばばばばばばあ……ッ!」
ついに妖夢は情けない声を上げて辺りを見渡した。命蓮寺や永遠亭の皆が何事かと慌てて妖夢の方へ駈け寄る。しかし、妖夢の目には味方の姿など映っていない。見えるのは、自分が愛しているこの幻想郷が炎に包まれている光景だけであった。
「おいどうした妖夢! おい! しっかりしろ!」
いの一番に駆け付けた村紗が血相を変えて妖夢の身体を揺さぶった。明らかに妖夢の顔は正常ではない。顔面蒼白になり、瞼は若干痙攣していた。よだれを垂らしながら、ひたすら自身の手を見つめている……かと思いきや、突然辺りを見渡して歪な悲鳴を上げる。もはや薬物依存者の禁断症状のそれであった。
「ドクターッ! 妖夢がヤバい! 助けてくれェッ!」
すかさず永琳が妖夢をその場に仰向けで寝かせ、瞳孔の動きを確認する。彼女の瞳はバクバクと鼓動の音とシンクロして揺れ動いていた。素人目でも危険な状況だという事が分かる。だが――。
「あばばばばば……ッ! あばばばばばばばばばッ!」
は?
妖夢が目を回しながら何かを喚いた。大丈夫です、私はまだいけます、と言っているのだが、多分誰も理解できていない。妖夢は奇妙な動きで身体をギシギシと曲げながら立ち上がった。皆が恐怖に慄いた。まるで針金で作った人形に無理やり意志を持たせたような動きであった。口からはまだ謎の炎が漏れ出ている。妖夢の喉は最早ズタズタだろう……。皆が妖夢を止めようとしたが、聞く耳を持つ事なく、再び席に着き、担々麺と向かいあった。
「無茶よ! これ以上やったら本当に死んでしまうわ!」
聖が叫ぶ。だが、妖夢は我武者羅な手つきで箸を掴み、麺なのか具材なのかもわからないまま、ひたすら担々麺を口に運ぶ。妖夢は自分の脳みそが地面に転がっているような不快感を覚えた。身体と意識が全くリンクしていない。
そう、これは狂気だ。妖夢は完全に地獄一丁に精神を砕かれてしまったのだ……ッ!
(何をやっているんだ……私は……ッ?)
意識が二転三転する。まるでゴールが存在しないジェットコースターに仁王立ちで乗っているような不安定さである。身体がよろめいた。激痛が激痛を呼んだ。もう味も何もわからない。それでも妖夢は無我夢中で担々麺を食い続けた。
「地獄だ……妖夢は地獄を食っている……」
聖が数珠を持ち、擦り切れるほど手を合わせて拝んでいた。まるで神か、それとも悪魔かに頼み込むように。どうか、あの子を守ってくれと、何処にも連れていかないでくれと。
『なんて……なんて娘だ……ここまで地獄一丁の苦しみに耐え抜いた者など、見た事が無い……っ!』
辛神は、驚愕か、それとも恐怖か、気付けば汗水垂らして妖夢を見つめていた。好敵手なんて生半可な言葉じゃ到底説明がつかない。ここまで自身が編み出した担々麺に喰らいつく者など今まで一人もいなかったのだ。それは焦りでもあり、奇妙な「期待」でもあった。常識が塗り替えられていく。人が神を殺そうとしている。辛神は、その光景にただただ感動していたのだ……。
その時、妖夢の精神の中で動きがあった。痛みに耐えながら、妖夢は「ソレ」を凝視する。彼女の心の中には一つの風景が広がっていた。赤く燃える白玉楼。立派な桜の木の庭園が烈火の雨に曝されていた。主である幽々子の姿も見当たらない。妖夢はそこに一人ポツンと立ち竦んでいた。
するとそこに、一人の人間が姿を現した。それは墨汁を垂らしたような黒色に染まっていた。輪郭もぼやけており、はたしてそれが「人」なのかどうかも疑わしい。
だが、妖夢は確信した。
あの影の正体は魂魄妖夢、自分自身だと――。
(あれは……私……!?)
ドッペルゲンガーのような存在に、妖夢はただただ混乱してしまう。だが、その影の妖夢は待つ時間すら与えてはくれない。
瞬間、影の妖夢がその腰に差していた刀を無言のまま抜いたのである。流石にこの時は妖夢も反射するように身構えた。だが、相手の一歩は驚異的なスピードを有していた。瞬く間に、妖夢の身体は真っ二つに切り捨てられてしまったのだ――っ!
「ううううう……ッ! ぐぁあ……ッ!」
たまらず、妖夢は咽てしまった。喉の奥で真っ赤なスープの飛沫がショットガンのように炸裂する。口の中で炎が轟々と唸り声を上げた。そう、妖夢の見ているこの幻覚は、紛れもなく本物の威力を持っているのである。
再び、妖夢の目の前に地獄の光景が広がる。そこには先ほどと同じく、黒い色の自分が立っていた。もう二度と攻撃を食らうまいと、妖夢は持っていた刀を手に取り、抜身の状態でそいつに突き付けた。だがその途端、影は逆さにした三日月のように鋭い笑みを浮かべ、殺し合いを楽しむかのように妖夢の方へとにじり寄る。
『――ここは意識の渦、お前の悉くを引き摺り落としてやる――』
妖夢の影はそう言い放ち、再び、地面を「飛翔」する。何とか目で追えるスピードであったが、防御が間に合わない。常人の肉体が反応出来るスピードではない。まるで神の一手がそこにあった。まさに神速の一撃である。妖夢の首が無残に地面へと転がる。
「ぐううゥうぅう……ッ、あああああああああああああッ!!」
突然、妖夢が担々麺から顔を背けた。妖夢の額には血管が浮き出ている。自身の体内で巻き起こる爆発を堪え、堪え、だがついに、鈍い咳をするようにどす黒い血を吐き出したのである。
「ごほっ、ごぼぉ……ッ、おえぇええぇえええ……ッ!」
「うわぁあああ! 駄目だ妖夢! もうやめろーーーーッ!!」
後ろで妖夢を見守っていた人々が悲痛な叫び声を上げた。もはやこれは勝負ではなく虐殺である。これ以上勝ち目などない。息をするのも絶え絶えな妖夢の姿に、皆は「敗北」の二文字を想った。
それでも妖夢は再び抗いの意志を見せた。口の周りにへばりついた血を裾で拭い、焦点の合っていない眼で担々麺を睨みつけた。ここは地獄の六丁目、焦熱地獄――。焦土と化した地で、極卒達が棍棒片手に待ち構えている。一気に突っ走るしかない。もうこれ以上ペース配分など考えている余裕はない。妖夢はすでに自分の保身など考えていなかった。妖夢の脳裏にあるのは、一つの覚悟。
また、あの場に立つ。燃え広がる白玉楼のど真ん中、黄金の火花が夏の終わりを彩っていた。そして、再び自身の影と相対する。何度斬り刻まれようが、ここで引くつもりは毛頭ない。
「――推して……参る――」
桶狭間だろうが関ヶ原だろうが、妖夢は臆する事は無い。だが、そんな彼女が唯一畏れる者、それが、「自分自身」である。妖夢は自身の腰に差してある白楼剣の柄に手を添えた。これは居合の構えである。戦闘の中でも滅多にしない構えである。これは、己の全てを一太刀に託す、一度きりの殺法である。
『――咲き誇るがいい、我は、それを悉く踏み躙る者である――』
影は、妖夢と同じ構えを取った。否、それはもう剣技ではなく一種の砲撃に等しい。
そこで、妖夢は気付いた。すでに、自分は第六の壁を突破してしまっていたことに。ここは第七の地獄、『大焦熱地獄』の入り口である。妖夢の目の前に置かれた担々麺の丼は見事に減っていた。いつの間にか、妖夢はもう一息の所まで来ていたのだ。
一拍の静寂、そして、妖夢の視界から影が消失する。目で追う事は出来た。だが、先ほどと同じく、その一撃を払い除ける事は叶わなかった。
ドクン、と心臓が張り裂けるような音がした。妖夢は、自分の身体がもう限界に達している事に気付いていた。何とか自身を騙してここまで食らいついたが、それももう限界である。妖夢の影は容赦なく妖夢の心臓を貫いた。奇妙な事に、痛みよりも先に「眠気」が自身の身体にやってきた。沼の底のように深い眠気であった。
終わった。確実に終わってしまった。死んでしまう。
『――さぁ、何処までも墜ちていこうぜ、相棒――』
その瞬間、妖夢の身体が宙に浮いた。
地獄一丁から繰り出された一撃を身体のど真ん中に受け、妖夢はドロドロとした血を吐き出しながら、席から吹き飛ばされたのである。妖夢は白目を剥いて、自分の敗北を確信した。
ここが、命の終わる場所なんだと思った。永遠とも思える時間が訪れた。心地良く、命の終焉を司っているその静けさの中で、妖夢はもがく事も、呻き声を上げる事もしなかった。
不思議な事に苦痛も不安もなかった。身体を支配していた全ての負の鎖から解き放たれたような安心があった。身体が滅びるのではなく、得体の知れない暗闇が身体に寄り添っているような感覚であった。それに身を委ねた瞬間、自身の命が尽きるのだ。
妖夢の場合、「死」に身を委ねる事に対して何の拒否感も湧かなかった。あれだけ嫌悪していた敗北に、抗おうという気持ちが一切生まれなかった。死の境地とは、人が死ぬ時というのは、こんなにも「救済」に満ち溢れている物なのか。我々が最後に至る場所は、こんなにも温かいのか――。こんなにも、虚しいのか――。
妖夢の手から、匙が離れた。
カランと、音を立てて。
(静かだ……何も聞こえない……)
妖夢の身体が、どさりと音を立てて地面に転がった。生き物が死ぬ時の音が、幻想郷に響き渡った。静寂の中で、妖夢の鼓動が止まる。ここが、幻想の終わりなのである。しかし、全てを失ったというのに、妖夢の心には何もよぎらない。傷付き果てた肉体がそこにあるのみである。彼女は死んだ。妖夢はもう、二度と目覚めない。
「うぅう……うわああああぁあああああぁああ……ッ!!」
誰よりも早く、村紗が駆け付けた。妖夢の倒れた身体を、ひしと抱きしめた。妖夢が「何処にも連れていかれない」ように、力強くその身体に抱き着いた。魂が何処にも行ってしまわないように。
「何カッコつけてんだ、バカ野郎……ッ、こんな……こんな……ッ」
妖夢の顔は、決して穏やかな物ではなかった。悔やみだけを残した者の表情であった。頬にへばりついた血の上に、涙の痕があった。一体、どれほど悔しかっただろうか。何も守れなかった、掴めなかった者の顔をしていた。無念さのみが描かれていた顔だ。友達の、一番見たくなかった顔がそこにあった。
そして、妖夢のその姿を見ていた星は――。
「嘘だ……嘘だ、こんなの……嘘だ……」
悪夢を見るような眼差しであった。星はよろよろと、目尻に涙を溜めて妖夢の死体に歩み寄っていく。
「約束したじゃないか……ちゃんと戻って来るって、妖夢、お前は約束したじゃないか……。なぁ、目を開けてよ……ああ、嘘だ……こんな事があってたまるか……妖夢……妖夢……ッ!」
もう、妖夢は目を覚まさない。その事実が、真っ白な液体の中に一滴の墨を落とすように人里中に浸透していった。
その瞬間、一斉に幻想郷が深い悲しみに包まれた。
この郷の為に命を賭して戦った英雄が、この世の何よりも美しくて優しい存在であった「侍」が、今、この場で死んだのだ。
人が、妖怪が、涙を流した。ただ一人の半端者の剣士の為に、心を震わせて泣いた。これから何もかもが奪われるというのに、幻想郷の心は、妖夢の死によって一つとなった。
妖怪の山の噴火が激しくなる。皆が愛した幻想郷が火の海に包まれる。だと言うのに、悲鳴や絶叫を上げる者は誰一人いなかった。皆、声にならないほどの悲しみに圧し潰されていたのだ。
一人、辛神は妖夢の死を前にして、一体何を思うのか。妖夢が食べ残した丼の中を覗き見る。本当に、本当にもう少しで完食出来た筈だったのだ。あと少しで、妖夢は勝利する事が出来たのだ。
永琳と鈴仙をはじめ、永遠亭の医療班が倒れた妖夢の方へ駈け寄る。鈴仙は悲痛な顔を浮かべ、何も言わずに涙を流していた。本当は村紗と同じように声が張り裂けるまで叫んでやりたかった。そうすれば、妖夢は目を覚ましてくれるんじゃないかと思ったからだ。だが、鈴仙も永琳の元で医学を学んでいる身である。
壊された命は二度と戻ってこない。この道に入る際、一番初めに永琳に教えてもらった事である。それを念頭に置き、鈴仙は今まで人の命に関わってきた。元軍人として、そして、地上の民として、何度も己に言い聞かしてきた事であった。そんな彼女だからこそ、こう思わずにはいられなかったのだ。
これでさよならなんて、嫌だ、と。
皆が感情的になっている中、永琳と因幡てゐ、この二人だけは冷静に妖夢の蘇生処置を施そうとしていた。傍から見れば、もう妖夢は手遅れの状態であった。もう何をやっても無駄だと。事実、妖夢はもう呼吸を止めていた。鼓動も聞こえない。生きようとする意志さえ脆く打ち砕かれてしまった。彼女を助ける術など、最早この地上には存在しない……と、誰もが諦観していた。
だが、永琳だけは違った。
永琳は妖夢の身体を抱き起し、死によって支配されたその顔をぐいっと自分の方へ向ける。そして――確信した。
一度だけ使える魔法が、ここに完遂した事を。