【贈り物に愛を込めて】
「……さて、どうしたものか」
一枚の書類に目を通しながら、レミリア・スカーレットは険しい表情を浮かべていた。
信頼できる部下が送ってきてくれた報告書で、長年調べていた場所についてを新たにまとめた内容が記されていた。
その一部に興味を持ったのだが、同時に判断の難しい代物でもあって、判断に悩んでいた。
文書を何度も読み返して逡巡するも、どうにも考えが定まらず、溜め息を吐いた。
椅子に凭れると、どんよりとした倦怠感と焦燥が身体に纏わりつくように感じられた。
何気なく柱時計に目を向けると、時刻はとっくに朝の時間を指し示していた。
(少し、根を詰め過ぎたか)
通りで頭が上手い事働かないなと思いつつ、レミリアは目頭の辺りを軽く指で揉んだ。
窓の外は、午前の淡い水色に包まれていた。
もう少ししたら休もうと、机の脇に置かれたベルに手を伸ばそうとした。
その手を不意に止めた。
一人のはずの執務室に、人の気配を感じたからだ。
部屋の中を見渡し、戸棚の方を見やると、スッと小さな影が戸棚の陰に隠れるのが見えた。
ほんの一瞬だったが、猫の尻尾のような銀色のおさげが視界の端を捉えていた。
レミリアはフッと表情を緩めた。
「――咲夜。そんな所で隠れていないで、出てきなさい」
戸棚に向かってそう呼びかけると、ハーイという元気な声と一緒に、小さな女の子がひょっこりと物陰から顔を覗かせた。
かと思うと、手に持っていた懐中時計に触れた途端、咲夜はレミリアのすぐそばにまで迫っていた。
咲夜はレミリアの顔を数秒ほどまじまじと見つめていたが、すぐに嬉しそうににっこりと笑った。
「レミリアさま! よかったー! 起きててくださったんですね!!」
「ああ。少し仕事が長引いてな」
忙しなげに動く咲夜に、レミリアはそう応えながら椅子を少し下げて咲夜に向き直ると、ポンポンと膝の辺りを軽く叩いた。
それを待ち侘びていたように、咲夜はパッと表情を明るくして、レミリアの膝の上に乗っかった。
レミリアはその小さな背から腕をまわすと、軽く抱きしめてあげた。
「ところで、勝手に入ってきたらダメだろう?」
「ごめんなさーい。でも、今日はどうしてもレミリアさまにお会いしたかったんです」
「ふうん?」
ちょこんと膝の上に収まりながらも、咲夜は机の上の小物が気になるのか、しきりに頭を動かしていた。
その重みと温もりを感じながら、顔をそっと近づけると、フワリと甘い匂いがした。
「ねえ、レミリアさま。これって、何て書かれてるんですか?」
不意に咲夜は、先程までレミリアが読んでいた書類に目を向けると気にかける様に尋ねてきた。
最近こそ、必要最低限の読み書きが出来るようになったとはいえ、まだ紙面に記されている文字までは読めないのだろう。
それでも何とか理解しようと、咲夜はやたらと眉を顰めては、目を凝らしている。
「これはな、“幻想郷”という場所について書かれてるんだ」
「げんそーきょー?」
聞き慣れない単語に、幼子は首を傾げた。
「そう。ここよりもずっと東方にあるとされる世界で、ここにはいない色んなモノが住み着いてるそうなんだ」
「そうなんですかー」
少し間延びした風に言ってから、何か閃いたのか咲夜は不意にはしゃいだ。
「ね、レミリアさま! もしかして、グリフォンとかドラゴンとかがいたりしますか!?」
「さあな。でも、いてもおかしくはないだろうな」
ファンタジー好きなだけあって、キラキラと目を輝かせる咲夜に、レミリアは目を細めながらそっと頭を撫でてあげた。
銀色に光る髪は絹織物よりもずっと滑らかな肌触りだった。
「……そういえば。咲夜、私に何か渡したい物でもあるんじゃないか?」
髪を撫で続けながらさり気無く問うと、咲夜はびっくりした様にびくりと反応して、レミリアの顔を見返した。
「――――どうして分かったんですか?」
「初歩的な事さ。少なくとも、いつものお前なら何の用事も無しに勝手に私の部屋に忍び込み子じゃないからな。それにさっき、お前から焼き菓子の甘い匂いがしたから、そうじゃないかと思ったんだ」
レミリアの指摘が図星だったのか、咲夜は頬を上気させながら目を丸くしていたが、そのまま頬を膨らませた。
「むう。せっかくびっくりさせようって思ったのに」
やや不満そうな表情だったが、気を取り直したように咲夜は手を伸ばすと、ぺたぺたとレミリアの目の辺りを触り始めた。
「レミリアさま。ちょっとだけ目をつむっててください」
咲夜の能力なら、目を瞑ろうと瞑らなかろうと大差はないだろうに。
レミリアは内心そう思いつつも、言われるままに目を閉じた。
フワリと膝の上が軽くなると同時に、コトコトと机の上に何かが置かれる音がした。
「もういいですよ」
咲夜の声に促され、ゆっくりとレミリアは目を開いた。
得意げな咲夜の顔がまず目に入り、それから机の上に小さな包みが二つと、花瓶に活けられた紫の花が置かれているのを見た。
その花が何の花なのかを理解した途端、レミリアは今日が何の日だったのかを思い出した。
「……ああ、そういえば今日はそんな日だったな」
「レミリアさま! フクロの中見てみてください!!」
急かす様に言われて、そのまま袋のリボンを解くと、フワッと香ばしい匂いがした。
中には十枚ほどの焼きたてのクッキーが入っていた。
一枚抓んでかざしてみる。蝙蝠の形で焼かれたそれは、少しばかり型が崩れてしまっていたが、それでも十分に上手くできていると思った。
「へえ。これ、咲夜が作ったのか?」
「はい! 初めてだったから緊張したけど、まずレミリアさまに食べてもらいたかったんです」
「“まず”っていう事は、他の皆の分もあるという事かな?」
「美鈴たちの分もあります!」
「じゃあ、パチェの分も?」
悪戯っぽく訊くと、はたと咲夜の表情が静止した。
「……【一応】、パチュリーさまも、です」
少し間を置いてから、一応の部分を強調するように言う咲夜の反応に、レミリアは思わず笑いを噛み殺した。
咲夜はレミリアの親友であるパチュリーにだけは、何かとムキになる所があるからだ。
嫌いという訳ではないのだが、毒舌で自他に厳しい性格のパチュリーに、ついつい反発してしまうのだろう。
再び頬を膨らませた咲夜に笑みを返しつつ、手に持っていたクッキーを一口齧った。
カリッという固い歯応えと共に、バターと卵の香りがした。
「どう、ですか……?」
不安気にもじもじする咲夜に、小さく頷いた。
「おいしいよ。お前の作った焼き菓子は初めてだけど、よく出来てるじゃないか」
その一言を聴くなり、目に見えて咲夜の表情がイキイキした。
「本当ですか!? よかった! 上手くいかなかったらどうしようって思ってたんですよ」
「これだったら、他の者も悪くは言わないだろうさ」
そう話しながら、残りの部分を口の中に放り込んだ。……やはり少しだけ固めの食感がした。
「じゃあ私! 美鈴たちにも、お菓子渡してきますね! レミリアさま、ありがとうございました!!」
咲夜は勢いよくそう一言告げると、ペコリとお辞儀をして懐中時計に手を伸ばした。
カチリという音が室内に響いた。そう思った次の瞬間には、とっくに咲夜の姿は煙のように掻き消えていた。
今までの賑やかさが嘘みたいに、急にシンと静まり返った執務室の中、レミリアは咲夜が今まで立っていた場所を見やりながらスッと目を細めた。
「……随分、明るい表情するようになったじゃないか」
二枚目のクッキーを手に取りながら、レミリアは一人そう呟いていた。