Coolier - 新生・東方創想話

喪失者たちの記念碑

2018/02/01 02:48:03
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第三章 後  瀉血




 それからは、しこたま酒と丸薬にたよる生活だった。道ばたの雑魚寝から目ざめると、女は冷めきった心臓をごまかすために、まずは酒を飲みたがる。
 街の喧騒さえ、なんの治療にもなりはしない。意識があるだけで苦悩だった。
 女は最初、これを機会に娘を忘れようとこころみた。考えてみれば、彼女にかまってやる理由などない。むしろ強姦から進めた関係の終りを、祝福したいくらいだと。
 しかし、そんなふうに心の安定をはかってみても無駄でしかない。分かるのは、娘の存在が長い時間のなかで、己の一部になっていたこと。そして自分が吃りに敗走したのだと謂う、みじめな実感だけだった。
 にん気のない、ちびた屋台で、水で薄まった詐欺まがいの酒を飲みながら、女はめざとく後悔を続けてみたりする。
 なぜあのとき、もっと抵抗しなかったのだろう? ……どうして立ちあがれず、醜態をさらしてしまったのだろう? ……。
 それはおそらく、うすうすと感づいていた、娘が罪悪感から女の血を拒んでいたと謂う事実を、突きつけられたからにほかならない。
 女は自分を娘よりは高潔だと思っていた。人間を一度も殺したことがなかったからである。
 それだけが、女の娘にたいする暴力を正当化し、あまつさえ救済であると思いこませていたのである。
 だがじっさいはどうだろう。水蜜にくらべて、わたしに高潔な部分などあったろうか……。
やさしさを踏みにじって、えんえんと血を飲ませてつづけた自分こそ、同じ穴で育っていた、みにくい狢の写し絵だ……。
乞食を井戸に捨てさってから、水蜜の同族にまで落ちぶれた……そこで止まっておけばよいものを、愚考を続けてしまったばかりに、わたしの罪は幽霊よりも重くなっている……。
 それを再認識したばかりに、女は気力を失っていた。そして吃りに水蜜を譲渡してしまったのである。
 立つ瀬をなくした非人は、所有物のあらゆるを役人に譲りわたすことしかできず、路頭に迷いつづけるほかない。

「パルスィ。つぎよ、つぎ」
「まだ、飲むんですか? もう、私はじゅうぶん飲みましたよ」
「いいじゃない? 奢るんだから」
「一輪にでも飲ませりゃいいのに……」
「あいつは駄目ね、飲みすぎるから金がたりない。あれで人間だったなんて信じられないね……あんたもあいつの胃を倣ったらどうなの」

 不意に、屋台の外から、知じんの会話が聞こえていた。それは運がよいのはわるいのか、こちらに向かっているらしい。
 ふたりの会話が屋台のまえで止まり、のれんが揺れた。女は何も言わずにうなだれていた。

「一輪、奇遇ね。丁度ね、鵺さんがあんたに酒を飲ませてくれるってさ」
「言ってないよ」
「またまたあ……」
「またまたあ……じゃなくってね、金にもかぎりがあるんだから」

 すこし酔いぎみのふたりの比して、女は沈黙だった。全身から、しなびた茸のような雰囲気を放っていて、いまにも風で吹きとばされそうだ。

「何。えらく、ちびてるね?」

 やはり女は黙っていたが、すぐに我慢の限界が来た。
 急に女は泣きはじめた。けものじみた引きつりで、肩をふるわせた。

「ちょっと、どうしたのよ?」 パルスィが、あせったふうに。

 ふたりが女の両脇の席へと座った。

「水蜜……あいつ、あいつ、あいつに……」

 それから女が、わけ話した。語ることさえ辛かったが、溜めこんでいた苦痛を吐きだす口実にもなってくれた。誰かに話すだけでも、すこしは気は楽になってくれると謂うものだ。

「はあ……だから言ったじゃない? 覚リなんぞにかかわるなってさ」
「鵺さんが正しかったんです……あんなの助けなけりゃよかった……強姦されてりゃよかったのに……仏を捨てたくせに、いまさら他にんを救おうなんて考えるから……」

 もし、これを四苦八苦に当てはめるとするならば、いくつが該当してしまうのだろう? いずれにせよ、とくに愛別離苦と怨憎会苦が女を捉えていることだけは、うたがいようのないことだった。

「ふん、あの覚リがねえ……」

 鵺が女の酒に手を伸ばした。べつに彼女は怒りもしなかった。

「そいつ、殺してやろうか? できるけど」

 女のおどろきが、態度に表れた。目前の餌が、手品でけされた犬のように、目をまるくする。

「何を考えているんです」
「何も考えてない。ただ、おまえもムラサも友達じゃない? 助けてやりたいねえ」

 そう言うわりに、ぬえの表情には親切心などまるでなかった。むしろ女をせせらわらうような雰囲気が、隠しきれずに毛穴からにじみだしているくらいだった。

「嘘」 女が怒気を込めながら 「あんたはただ、わたしたちを引っかきまわして遊びたいだけよ。×××を殺して、それからどうなるか眺めたいだけなのよ」
「×××って誰よ」
「あの、覚リです……」
「へえ、そうなんだ。そのあたりに転がってそうね、その名前。アハハハ、ハハハハ」 ぬえがくつくつと笑ったあとに 「それは否定しないけど、べつにいいじゃない? いずれにせよ、こうなった以上はあの覚リをほろぼさないと気が済まないはずよ。どんなかたちであれ。そうするべきなんだ」
「私は、自分で、やります。あんたの手なんて必要ない」
「そう? まあ、それなら勝手に……どうぞ! 覚リにムラサを奪われたまま、ここで飲んでいるといいわ……ハハハハ……」

 せっかくはいったのに、ぬえは酒を飲む気もうせてしまったらしく、そう言いのこして屋台を出た。のれんがしばらく振れていた。

「あんたも行けば、パルスィ」
「どうしようかねえ?」
「あんた、鵺さんと同じこと言わないでしょうね」
「まさか……厄介はごめんだわ。覚リなんかにかかわることを考えるだけで、気分がわるくなる」
「じゃあ、もうどこかに行きなよ」
「私がどこにいようと勝手じゃない」

 パルスィはなぜかにやついていて、何を考えているやも分からない。
 ぬえと酒を飲んでいたからか、めずらしく品のない噫気をして、服の上から腹をさすっていた。

「その覚リ、ムラサに何をしたいのかなあ?」 女は黙って聞いていた 「やっぱり、あれかな? ほら、あれよ、雌と々でもできるから……ねえ? アハハハ」

 パルスィの言葉が連想を呼んで、胸の内が朱色にそまった。娘の皮フだけでなく、内側までも浸食するどもりのゆびさき……想像するだけで苦痛だった。

「私だって、したことないのに……」
「何が」
「私、水蜜とふつうにしたことない……」
「それ、本当? そう、それはねえ……えへ……じゃあ、一輪は“なま”ってことね……長く生きたわりに……」
「若造のくせに、あまりやかましいと殴るわよ」
「私が若造なら、あんたは半端者ね……」
「ふん」

 そう、これまで女は、娘と尋常の接触を交わしたことなどなかったのだ。命蓮寺でのことも、数には入れられまい。
 女はあれを自慰の延長だと思っていたし、娘のほうでも、それは同じことだったはずなのだ。

「ねえ。なら、ためしに私としない?」

 女はたちまちいぶかしむ。思わぬ言葉だった。
 パルスィは、女の掌を撫でて笑っている。

「なんのつもり」
「べつに、なぐさめてやろうと思って。それに礼もしたいしね……ほら」 パルスィがとつぜん、服を胸の下までまくりあげた。 「私の腹は、あんたの嫉妬で、こんなにふくれてしまったわ」

 そんなことだろうと思っていた……それが抱かせたがる理由と言うわけだ……パルスィと寝たところで、脳裏に浮かびあがるのは、水蜜のことに決まっている。それが狙いなのだろう。
 性の終幕には、どんなかたちであれ、脱力と悔恨が息をひそめて待っている。そしてパルスィを抱けば、悔恨に裏づけされた吃りへの嫉妬が、ふくれあがらねばならぬのだ。本当に抱きたい相手に手が届かぬばかりに、誰もが性の虜囚になりさがる……。
 パルスィが女の手を取って、嫉妬の渦まく下腹へと触れさせた。嫉妬が、波を打って振動しているような気さえする 「嫉妬よ、美しいでしょう?」 そうだろうか? ……まったく、妙な嗜好もあったもんだ……。
 むろん女は、否認しようとパルスィに目を向けた。しかし急に、遠方からの問いかけが、彼女の頭を通りすぎた。
 いまさら、何をこだわっているのだろう……水蜜を失ったいま、春をひさげることに、とくべつな悲観などありはしない……それに性の情熱が身を焦がし、いっときでも激痛をやわらげてくれるなら、べつに抵抗することもないはずだ……あとで後悔することなど、分かりきっている。それでも悦楽が短いあいだ傷口と取りひきをしてくれるなら、それもわるくないのだろうか? ……。
金を払って、屋台を出た。パルスィの手を引き、路地に連れこみ。両の手首をわしづかみにして、壁に押しつけた。

「以外と気が乗るじゃない?」
「黙って……あんたなんて、水蜜の代わりなんだから」
「ほら、名前を呼ぶから、また嫉妬してる……ウフフフ」

 空想をたよりに、パルスィを娘にすげかえる。そんなことでも、以外と頭はごまかされてくれるらしかった。じりじりと、脇のあたりが熱を持った。
 右手をはなして、服の上から片方の砂丘を、つぶれるくらい押しこんでやる。パルスィが、針に刺されたような吐息を漏らした。
 パルスィではない、水蜜だと思うんだ……嫉妬を喰らいたいのなら、それもかまわない。好きなだけ与えてやろうじゃないか。代わりにわたしは、あんたの幻影を抱いてやる……ささやかな満足を享受する……これはそう謂う契約なんだ……。
 しかし、胸をつかんで擦りきれそうな息を吐いているうちに……舌が乾いて、芯が萎えた。摩擦ではじけるはずの魂が、いつの間にか、くにゃくにゃの線香になっていた。
 女は呆然とした。自分の性は、どこかに隔離されていたのである。

「一輪、どうしたの……」
「已める」
「何……」
「已める……ごめん……」
「そう……」

 両手をパルスィから、ぱっと離した。謝罪など、口だけだったし、パルスィもべつに、非難してはいなかった。
 パルスィが、強くにぎられ、痣になった右の手首を舐めていた。

「あんた、幽霊にしか興奮できないのね……まったくこれは、妙な嗜好じゃない……ひとのことを言えた義理じゃないけど……」

 ひどく胸が痛かった。女はパルスィに背を向けて、逃げるように去ってゆく。
 道が、傾斜のように見えていた。



 すくんだ背すじを荷物にしながら、雑踏を抜けた。大気を抜けた。経過を抜けた。
 いまのいままで忘れていたのだ。自分がむかし、不感症であったことに。娘との前後で死滅したと思っていたはずが、どうやら不感の虫はまだ、女の毛穴にひそんでいたようである。

あんた、幽霊にしか興奮できないのね……まったくこれは、妙な嗜好じゃない……

 とくに悪意もなさそうだったが、あんがい堪える言葉だった。自分が死体よりも劣った肉体にしか性を解放できないのだと、鋏で切りさいた裂傷のように、まざまざと証明されたようだった。
 不意に、景色がなだらかな曲線に変化し、眩暈となった。喉がひびわれそうだった。酒に奪われた水分と、さきほどのかすかな興奮がたたって、胃は水に飢えている。
 女は井戸に向かうことにした。
 ただ、不当だと思う。しかし何が不当なのかも分からない。敵意を捧げる相手をなくして、女の抗議は宙をただよい、最後には旋回して、彼女ばかりを突きさしている。古びた地獄が悪意の循環器になって、彼女を圧殺しようとこころみている。
 井戸は三途の川に繋がっており、誰も浮かばれぬ……むかし、そんなことを、××に教えられたっけ……いまごろ、どうしているのだろう? ……。
 どこかの壁の隅で、幽霊の恋びとたちが身を寄せあっている。ふたりは、ひからびた花弁のような皮フを、服の上から擦りつけながら、幸せそうにほほえんでいる。それを誰も気にはしない。みんな、そんなことは意に介さずに、節操のない歩幅を交わし、喧騒の迷路を駆けてゆくのだ。
 あの動作が幽霊なりに性の接触を表現しているのだと、いまこの瞬間、女だけが知っていた。魂と呼ばれる感覚器が、ひけらかされた粘膜であることを、誰かに教えたいものだった。
 ふたりにくらべて、娘を失った女の皮フは、対象を求めて、蒸発した深海の地盤のようになっていた。
 井戸についた。桶をさげて、水を引きあげた。この井戸にくると、女はいつも、乞食のことを回想する。
 大切なことは失われてゆくのに、罪ばかりが蒸発せずに固形化し、岩石になっている……水から腐臭がしなくなったのは、いつからだったっけ? ……。
 女にかぎらず多くの者が、罪で足場を揺らされているはずなのだ。ただ、それに無頓着なばかりに、思慮を放棄し、気づいたころには、しまっておいた宝石が、転げおちてくだかれている。彼女はすべての人妖に、そうなってほしいものだった。
 後悔すればいい……そうすればもう誰も、喪失者にたいする非難などしなくなる……みんな、尤もらしく喪失者もきらうのだって、本当は自分の手のなかに、もう何も残っていないことを自覚したくないからなんでしょう? ……妖怪には、もとより力しか残されていなかった。そんな事実を、うしろめたく思うばかりに、喪失者ばかりを階下に置いて嘲笑している。どいつもこいつもわたしと同じ、しょせんは人間から切りはなされた一部のくせに! ……。
 女は井戸のへりに立つ。相も変わらず、井戸の底はむげんへと続いている。落ちれば々ちるほど、終着はかなたへと逃げさってしまいそうである。

『私が見える?』

 ひさびさに、おまえの声を聞いていた。

『あんたが人間として在ることを、最近はすっかり忘れてしまうから、私のすがたは、こんなにも薄らいでしまったわ
『よかったじゃない? 私のことが、鬱陶しくてならなかったんでしょう。いずれかたちは、忘れられる。これからはもう、失われた造形に、頭を悩ますこともない……』

 おまえはいつも、死のとなりに立っていた。諦念にまみれた命蓮寺への山中で、水蜜の与える死の気配、腹に刺さった矢のたもと、絶叫した乞食の傍に……そしていまは、またおまえのりんかくが、命の摩滅した荒野に咲いた、ひとつの青いたんぽぽのように、くっきりとわたしに主張している。
 なぜわたしばかりが、罪に追いたてられねばならないのか? こちらはもう、産まれなおしたあとなのだ。化生することを望んだのは、もとよりおまえのほうだった。なんの悪事も働いていないような顔をして、よくもこちらを責めたてられたものである。すべての罪をこちらだけが被るのは、あきらかに不当ではあるまいか。
 かたちをなくした分際で、その背後から都合よくわたしをあやつるな!
 おまえは鏡だった。だが何もかもが反射されるとは思えない。映っているならば、跳ねっかえらず、吸収される罪悪の自画像も存在するはずなんだ。
 だからこそ、わたしに罪があると言うのなら、おまえにも罪がある。これ以上、足を束縛されてたまるものか!
 躊躇はなかった。六面体が回転し、引力は遠のき、時間の経過は遅延にこうべを垂れていた。
 井戸に、飛びこんだ。



 三途の川、よどみの底で、女はいま掘っている。あるいは歩き、あるいは走り、あるいは飛んで、あるいは沈む。
 しかし、言葉をいくらすりかえたところで意味はない。つまりそれが、おまえの方角へ進むことの比喩になってくれるのならば、なんと言ってもよいはずだ。
 比喩と言ってしまっては、めざといおまえのことだから 『なんだ、まだ迂遠な表現をくりかえすのか』 そんなふうにからかうだろう。
 そんなこと思いちがいもはなはだしい。逆に問うが。この世に比喩でないことなど、ただのひとつもあったろうか? もし世の一部にでも、比喩でないことが存在していれば、すべての観念は閻魔の詰問に耐えられなくなる。抵抗力を失ってしまうのだ。われわれが望んだ裁判長の視線に、四六時中でも、怯える日々が続くだろう。
 それゆえに、世は十割まで比喩で建築されている。だが、そうは言っても、それを虚構だと自問して、うしろめたく思う必要などまるでない。その閻魔でさえも、われわれの比喩が産みおとした抗体に過ぎないのだ。
 ただ、どんな比喩でもいいとしても、やはり“埋める”と謂う行為に、わたしはとくべつな執着をかかえているらしいのだ。
 女にかぎったはなしではない。すべての者が、埋没すること、されることに関しては、とかく感慨をかかえている。それこそ古来から続けられた、葬送への系譜なのである。
 むろん死体は埋めるだろうし、焼いて灰にしたとしても埋めるのだ。そして死体ばかりではなく、観念、責任、都合、さては裁きと罪に至るまで、すべての者が比喩からのがれようとする形容を埋めたてた……そしておまえもそのひとつだ。
 だが、いくら埋めたところで、やはり何もかもが単純に巡ってくれるわけではないらしい。げんにおまえは墓の底から這いだそうとあがいていたし、わたしはそれにくるしめられた。
 這いだせば、埋めなおす……記念碑が建てば、書かれた文字に泥を塗る……忘れる日々を待ちながら、同じことをくりかえす……。
 菩提樹の梢を鍬にして、女はすべての土地を掘りすすめた。鍬がおれると、あらたな鍬を作りなおし、やがて梢をなくした菩提樹が、最後の悲鳴を発したころ、ようやく何かを見つけだした。
 おまえの棺桶を、ついに発見したのである。
 棺桶にはまざまざと、見せつけるごとくに、姓名がくっきりと彫られていた。

××一輪
雲居××

 なるほど、おまえの棺桶は、もとよりわたしもはいれるようになっていたわけだ。たしかにこれは、ひとりには広すぎる構造だろう。しかしもちろん、はいってやるつもりなど欠けらもない。
 わたしだけが生きるのだ、死ぬのはおまえだけでじゅうぶんだ……。
 おまえはそれを、不当だと思うことだろう。だが、それに同情したりはしない。人間に不当な現実を与えることこそ、妖怪の本懐なのである。
 そしておまえこそ、わたしが最初に殺害する人間として、最も適しているはずなのだ。
 ふところから、小刀を取りだし、女はかまえた。小刀は折れておらず、死の後継として相応な斜光を放っていた。
 そして女は突きさした。何度も々々も、非道なほどに振りぬいて、その動作をはんぷくした。棺桶が広いので、刺しそこねぬよう隅のほうまで、念を入れることも忘れない。
 棺桶が、絶叫し、音の塊になり、傷から血があふれだす。三途の川が赤く染まった。そしてすべては流動し、かなたの方角へ溶けてゆく。
 ぶつりと、どこかで、筋肉が引きちぎられるような音がした。糸だった。しかしいまに、それでもかまわないと思えたのだ。

「あーらーほーのーさんーのーさア。いーやーほーえんやア。ぎイ、ぎイ……」

 不意に、女の耳へ、唄が届いた。
 船が頭上を渡っている。曼珠沙華の色をした髪が、なびいていた。
 罪のあらゆるをかかえこみ、おまえだけが流されてゆく。
 死ぬにはまだ早い。



「やい、一輪」

 雲居一輪が、ぐったりと井戸に寄りかかっていた。ぽたぽたと、髪から水が垂れている。
 誰かが一輪の肩を揺すった。しかし彼女は目をさまさない。眠りのなかで、何やらうわごとを噛んでいた。
 一輪の胸に、毛だらけの手が当てられた。心臓の鼓動はよわよわしいし、躰もひえきっているようだ。これでは、すぐに意識の回復も望めまい。
 しかし、とつぜん雷じみた痛みが頭に広がり、無理やり意識が覚醒された。
 あまりに痛すぎる痛みだったが、なぜか懐かしい刺激だった

 一瞬、もうろうとしながらも、一輪はヤマメを捉えていた。彼女はやっつの目でこちらを見ていた。なんとなく、不安そうな表情と言えなくもない。

「ヤマメ?」
「起きた! ああ、よかった……水をね、飲みにきたらね、おまえが井戸に浮かんでいたんだよ。もう、本当におどろいたんだから……」

 いやに右手がねばついていた。蜘蛛の糸だった。おそらくヤマメが引きあげてくれたのだ。

「それにしても、どうして浮かんでいたんだろう? 何も浮かばない井戸だと聞いていたけどね……」

 ふしぎそうにヤマメが言う。一輪はそれを説明できない。自分でもよく分からなかったのである。ただ、なぜか躰が軽かった。具体的には一人ぶん、それを身がわりに浮上することができたのだと謂う、漠然としていたが、うたがいようもない実感があった。

「それにしても、一輪。どうして井戸に落ちたのさ」
「それは、あれよ。酔ってたの」
「自決か?」

 たちまち一輪は息を飲んだ。

「まさか……死にたいなんて、欠けらも思ってない」
「本当かい? なら、いいけど」

 ヤマメがいぶかしむように、顎を揺らした。しかしべつにそれ以上、詮索するつもりもないようだった。
 ところで、さきほどから、頭上で気配を感じていた。それに、地面に影が降りているので、誰かが頭上で飛んでいることは明白だったのである。
 ゆらゆらと流動する影には、まえから慣れしたしんでいる。

「雲山」

 名前を呼んだ。呼ばれると、彼は一輪の目前に移動した。

「私が呼んできたんだよ」 ヤマメが言った。

 雲山は、鬼の形相で一輪をにらんでいた。ふたりはしばし見つめあう。
 とつぜん、雲山が、さきほどのように拳骨を叩きつけてきた。ついでとばかりに、もう一発。一輪はそれに甘んじていた。

「おい、殴るな! 男じゃないんだよ!」

 ヤマメから、抗議の声が飛んできた。しかし彼女は、すぐにぷっつりと黙ってしまう。雲山が一輪を抱きしめたのである。

「雲山?」

 雲山はふるえているらしい。彼にしてはめずらしく、迫力のない感じで、吹けばいまにも飛んでいってしまいそうだ。
 一輪は雲山を抱きかえす。躰に彼女のゆびが、ぐっと沈んだ。

「生きるわ」 一輪が、ほほえんで 「まだ、生きるわよ……」

 しばらく抱きあっていたものの、いつかふたりは、まるで示しあわせたように、互いの躰を離していった。
 雲山の顔を、まじまじと眺めてみたりする。相も変わらず、頑固な感じだ。なんとなく、結膜が赤くなっているようだった。

「待っていて。また、戻るから」

 一輪は立ちあがる。彼女のひとみは決意にたぎり、容赦のない憎悪で満ちていた。
 全身が、井戸の水でぐしゃぐしゃに濡れている。しかしいまは、そんなことが気にならぬほど、気分が晴れていた。まるで頭で幕を張っていた霧が、太陽に蒸発させられてしまったようだ。

「待て、これを持っていきなよ」 ヤマメが腹に引きさげていた袋から、包みを取りだし 「薬さ。気分がよくなる」

 一輪はくすくすと笑いだす。

「ヤマメ。薬はもう、要らない」
「そうかい? 残念だ、客が減ったよ」
「ねえ、言ってなかったことがあるの。私、一輪だけじゃないの。本当は、雲居の一輪って名前なのよ」
「ふん? どうして急にそんなことを」
「べつに。ただ、言いたくなったから」

 一輪は、ふたりに背を向け歩きだす。その視線と、腹に貯まった敵意のさきは、家屋を越えて、聖輦船に向けられている。
 さあ、水蜜を取りかえそう。何も怖れることはない。いまなら、なんでもできそうだ。あの軟弱な吃りに、私が何で創られているのか、爪のさきまで思いしらせてくれるのだ。 
 ぐっと拳をにぎりしめ、飛びあがる。
 一輪の首には、なんの傷も残っていなかった。彼女はもう、喪失者ではない。



 一輪は飛んだ。しゃにむに飛んだ。この調子で行けば、五分と使うまい。それに、さきほども思ったように、どうも躰が軽いのだ。それはたんに、精神的な示唆でしかないのだが、なぜか肉体の重量までも減ったように錯覚されているのである。

(うう……)

 どうして喪失者ってやつは、妖怪にきらわれなけりゃならないのかな? ……そりゃあ、喪失者だからだよ。ほかに理由が必要かい? ……でも、ナズーリン。まず、喪失者ってやつがなんなのか、分かってるひとなんているのかなあ?

(こいつ、なんで一輪のことを忘れないの……)

 ナズーリンはどうなの? ……何がだい……喪失者はきらい? ……きらいじゃないよ、でも苦手だ。私ばかりじゃない、ほとんどの妖怪が喪失者を苦手としている。ただ“きらい”と“苦手”を混同しているだけなんだ……。

(どう謂うわけか……私がたぶらかせないやつなんて、いままで一人もいなかったじゃないの……どんな恋人だって引きさいてきたし、どんな絆だってまったく適わないはずだった……)

 怖ろしいんです。それはもしかすると、妖怪が怨霊をきらっているのと似ているのかもしれませんね……怨霊? ……怨霊は大抵、人間でしたから。なのに、怨霊は人間を殺してしまう……星、何を言っているのか分からないわ……。

(なんでだろう……水蜜は、一輪から離れたいと思っていなかったの……まさか、読みちがえたのかな……長い時間で積みかさねてきた鬱憤を煽ってやれば、心はすぐに一輪から離れてしまうと思ったのに……)

 ハハハハ。妖怪はね、殺人をわれわれの特権なのだと信じているんですよ。そう信じたいんです。だからこそ、人間を殺す人間に権利を奪われることは、とくに怖れているんですよ。最初から、そんな権利なんてありはしないのに……喪失者だからって、人間をかならず殺すわけがないじゃない……そうでしょうか? むしろ喪失者こそ、最も殺人の深部にあゆみよった者ではないでしょうか? ……。

(ちくしょう、こんなところで足ぶみなんて……いそがないと、本当に目がとじてしまう……まだ、一輪の心も手に入れていないのに……)

 だって、喪失者はまず己を殺したんですよ。殺人です、立派な殺人です。そして、そのうわずみだけが、人間の皮を被って生きている……それが本音? ……ごめんなさい。隠していては、あなたにわるいから……いいわ、べつに……。

(駄目だ、とじたくない……私まで喪失者にはなりたくない……この世で喪失者だけが、すべての意識から置きざりにされてしまうんだ……精神病理ほど、みじめなことはない……喪失者のみじめな心を見ていると……まだ生きていても、大丈夫だと思う……なのに、なんで私まで、そちらに巻きこまれなけりゃならないの!)

 おまえは喪失者を已めたいと思うかい……思うわ、とうぜんじゃない……そう。でも、本当に喪失者は、治療を望んでいるのかねえ? ……どう言うこと? ……たとえ精神病理だとして、誰よりも外側で生きることができるじゃないか。どんな力を持っていても、けっきょくいつかは埋没してしまうのに、喪失者だけは埋まらない……××。埋まらないんじゃない、埋まれないの。みんな、本当は埋まりたいのよ。その日を永遠に待ってるの……そうかもしれないね。やっぱり、最後の眠りを確信していないと、生きることさえままならないからね……そうよ……おまえ、本当はムラサにあやつられているんじゃないかねえ? ……あやつられる? ……なんと言うのか。痛ぶる側に立っているつもりが、じつは痛ぶられる側に立っていたと謂う……まさか。げんにわたしの血を飲んで、水蜜は心底くるしそうな顔になる……でも、おまえだってくるしんでいる……馬鹿なこと言わないで! ……亡者のなかには、罰をたのしむ者だっているんだよ……。
 聖輦船に飛びのると、通路を駆けぬけ、勢いよく戸を開けた。
 吃りは眠りこけている娘に、焦燥を顔に張りつけながら、しがみついていた。
 吃りが振りかえり、一輪をにらんだ。
 ゆっくりと歩いて、一輪は吃りのまえに立つ。

「どう、水蜜はあんたに心をひらいてくれた?」 せせらわらい、勝ちほこった顔つきで 「無理でしょうね。あんたに、水蜜の心が見えるはずがない……幽霊の心は、読むんじゃない。皮フから直接、感じとらなけりゃならないのよ」
「うるさい! どうして戻ってきたの、負けたのに!」
「報復のために決まっているでしょう。この、不細工め!」

 一輪がとつぜん、吃りを持ちあげ、ひたいに頭をぶつけてやる。
 吃りの首は、がくんとうしろにはねっかえる。

「何をする! 暴力なんて最低よ!」 どもりの瞳が、黒く燃えあがり 「分からないかなあ……あなたじゃ私に勝てないんだ。ほら、想起しろ! 罪を振りかえれ、つぶされてしまえ!」

 吃りはすぐに立ちなおる。それどころか、勝利の確信さえも、一輪に向けて返すのだ。
 しかし何も起こらない。相も変わらず、彼女は持ちあげられていたし、一輪はむろん、倒れもせずに、彼女をつかんだままである。

「ちょっと……罪はどうしたの! どこに消えたの……どこにも見えない…待って、あれはどこに消えてしまったの……」

 どもりはたちまち、あせりはじめる。そしてとたんに、おまえが消えていることに気づくのだ。
 一輪のなかに、おまえの影はもはやない。

「あ、あ、あ、あなた……分裂したほうのくせに、あれを殺したな! ちくしょう、なんてことするの! 分裂病者の分際で、そんなことが許されると思ってるの! 返してよ、一輪のほうは要らない、あれの心が欲しかったのに!」
「分裂? わけの分からないことを言って、ごまかすな!」
「ち、ち、ち、ちがうの……」
「そうよ、吃れ!」
「うう……うう……」
「吃れ、々れ、々れ、々れ!」
「已めてよう!」
「吃れ!」

 吃りを床に押しつけた。左手で、彼女を床に拘束したまま、右手をふところに突きこんだ。彼女おびえはじめる。一輪が小刀を探していると、読めてしまったのだ。

(本当に殺すんだ!)

 抜けだそうとこころみても、なんの抵抗にもなりはしない。あまりに腕力がちがいすぎるのだ。吃りはついに、泣きだした。慈悲もない。過去のおこないが、彼女に唾を吐きかけていた。
 しかし吃りは刺されなかった。小刀がなかったのである……どこに消えたのだろう? 井戸に落としてしまったのかな……そうかもしれない……水の浮力で、こぼれおちてしまったのか……。
 それを読んだのか、どもりは急に安心して、いきみたつ。

「ど、どうしたんです。やっぱり、殺せません? えへ、へ……そうよ、あなたは臆病よ。殺せるはずがないんだわ……」
「煽るな、馬鹿!」

 一輪は、どもりの頬を引っぱたく。
 吃りが、ひるんだ。一輪は顔を、目前にまで近づける。

「いい? 萎えたから、許してあげる。それに、思えば私は尼なのよ。仏の顔も三度までと言うわ。あんたは二回も私たちに近づいた。もしまた何かしたら、今度は絶対に許さない。あんたの心臓をえぐりだして、聖輦船に飾ってやる……返事は!」
「は、は、は、はい。分かりました! お願いします、許してください!」
「だったら、早く出なさい、この下衆め! もう、話すことなんてあるものか!」

 吃りを引っぱり、戸の外に叩きだす。彼女は何やら首を動かし、哀願するような目を向けている。

「うう…うう……ち、ちがうんです。私はただ、ふたりが欲しくて……」
「帰れ!」

 ぴしゃりと、戸が閉められた。さすがにすこし、吃りが戻ってこないか不安だった。一輪は、息を飲んで、固まっていた。
 音を聞いた。千鳥でどもりが逃げかえる、床のきしみだった。べつに心配は要らなかったようである。
 毛穴から、汗が噴きだし、へたりこんだ。肩を抱いて、ふるえあがった。
 急に怖ろしくなったのだ。あんなふうに、よくも啖呵を切れたものである。自分を褒めてやりたい気分だった。
 そのうしろでは、無意識の呪縛から解きはなたれて、娘がぼんやりと起きあがっていた。

「一輪?」

 それに気がつく余裕はない。一輪の鼓膜は、勝利の余韻でいっぱいになっていた。
 とうとつに立ちあがり、絶叫した。両手を広げた。上を向いて、人界にまで届くほど、気ちがいじみた笑いで吠えたのだ。

「勝ちましたよ、聖さま! 勝ったんだ、私はやったんだあ!」

 勝利の思想に当てられて、忘れかけていたはずの白蓮が、闇のなかで浮かびあがった。沈殿していたすべてのことが、息を吹きかえしていた。
 ……そう言えば、むかしの私は、どんなひとみの色をしていたっけ?

< 私の知るかぎり、吃りはしばらく経ってから、無意識のとりこになることだろう。そしてそれを、ふたりの責任にはできるまい
どもりの不安定な様子を見るに、それはきっと、ふたりに邂逅せずとも訪れたにちがいないし、そのシルマシは、彼女の阿片に執着する傾向からもあきらかだ
そしてみんな、吃りのことなど忘れてしまう。当にんさえも、それは同じことなのだ。以前のかたちを失えば、妖怪が忘却されてしまうのはとうぜんのことである
最後に、言っておくべきことがある。私にはふたりを裁く権利はあっても、非難する権利はまるでないと謂うことだ
つぎの被告を、裁く時間がおとずれる……村紗水蜜! >




[文々。新聞]

そろそろ、あの事件を振りかえってもよいころである
あの殺戮を、おぼえているだろうか?
幻想郷、第××季、××の×。推定、朝の×時、人里の人間たちは、夜のあいだに通りすぎた、怖るべき凶行を見せつけられた
犠牲者の数は××人、半分が十五にも充たない子供だった
犯人は、現在も不明のままである
凶行は、猛烈な吹雪の夜を狙って、とてつもない速さで遂行されたようだった。お陰で蹴やぶられた隣家の戸の音に、無事だった者は誰も気がつくことはできなかったし、それに天候の影響か、外出している者もいなかった。あきらかに、計画的な犯行であり、犯人がたんなる狂人ではなく、理性的で狡猾な隠者であることは明白だった。しかしそんな事実は、よけいにわれわれをふるえあがらせるだけだった
被害者はすべて、声を発する暇もなく、一撃で首をへし折られていた。布団から出て、抵抗した跡さえ発見されはしなかった。布団にくるまり、棺桶に詰められたような正しい姿勢で、死の宣告を受けていた
とくに計画的だと思われるのは、被害者の家に置かれた道具が、選んで破壊されていたことである。あとで発覚したことだが、それはすべて、家に住みついた付喪神だったのだ。それは犯人が周到に情報を集めていたことの、明確な証拠にほかならない。つまり目撃者をけしたのだ

容疑者として、妖怪の湖で死体になって発見された、命蓮寺の雲居一輪が挙げられたが、それも一時的なことだった。彼女は人里からも評判の入道屋で、人間からの信頼が厚かったし、何より証拠もまるでなかった
するとつぎは、その後日に急な成仏を迎えた、同じく命蓮寺の村紗水蜜が挙げられて、たしかにいっとき非難の矛さきになってはいたのだが、こちらもまたなんの根拠もなく、証拠もじゅうぶんではなかったので、いつの間にか彼女が犯人として挙げられることもなくなった

それに何より、すみやかに首を折り、犯行現場から立ちさると謂うのは、あまりに妖怪らしくない行動だった。むしろ妖怪ではなく、じつは人間のしわざではなかったのかと、そんな風説が飛びかっているうちに、時が人里の痛みをなぐさめ、犯人も明確にならぬまま、こうして筆者が過ぎさりし過去として語れるほど、時間が経過してしまったわけである



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