Coolier - 新生・東方創想話

喪失者たちの記念碑

2018/02/01 02:48:03
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第一章 後  感応《カンオウ》




 わけも分からずに、ただ混乱してしまう。まばたきのしかたを忘れたのでなければ、あるいはまぶたが切りとられたのだろう。ひとみに押しこまれる娘の上半身は、砂浜に乗りあげた魚……そう。ぬらぬらとした、冬の魚のようだった。這いあがった彼女の、地面にひたした両腕に、阿弥陀のようにのたうつ血管……それに沿って落下する、色のないしずく糸……枯れたような白い肩と々のあいだにある、ふたつの赤い虫さされが、対比で誇張されているように見えていた。

「ああ」 湿った肺を、ひくつかせるように 「新しく来たひと」

 その遠慮がちな言葉で、女はようやく、娘を凝視していたことに気がついた。急に羞恥の虫が産卵し、すぐさま孵化して、幼虫が頬の内側で踊っていた。あわてて首を逸らして 「ごめんなさい! ちょっと、ちょっと、びっくりしてしまって……」 言葉たらずの、あいまいな謝罪を投げつける。

「何。なんで謝るんです? おかしなひとね」

 娘は女の態度が、うまく飲みこめていないのか、無垢な子供のように、くすくすと笑うのだった。

「どうしてって……」

 女は喉を封じて言いよどむ。
 かなり説明のしがたい、またしたくもない感傷だった。見た側が、見られた側に罪悪感を白状するなどと、まるで拷問じゃないか。なぜ望んで視姦したわけでもないのに、罪の釘を刺しこまれなければならないのだろう……娘の裸体をうつくしいと思ってしまったからなのか……拝観に金を取る、なまぐさい寺の本尊をこっそりと覗きこんだら、こんないましめを感じるにちがいない。

「だって、見てしまったし……」 首を、横に向けたまま 「あんた、裸で」
「ああ、そんなことですか。べつに気にしませんよ」
「気にしたほうが、いいと思うけどねえ?」

 羞恥心がすこしでもあれば、知らぬ者に裸を見られるなどと、ふつうはいやな顔のひとつでもするものだ。それとも、あんがいこの態度が視姦にたいする復讐なのだろうか?

「生きてもいないのに、気にしたってしかたありませんよ。私は幽霊ですから」
「幽霊?」 耳をうたがいそうになりながらも、鸚鵡がえしで。
「見てください」
「ええ?」
「ね……ほら」

 好奇心に駆られて、ちらりと横目で娘を眺める。彼女がついに、池から抜けだし、地面に立ちあがった。ごくりと、唾を飲みこむ。

「摩擦が少なけりゃ、水だって残らないんだから」

 何が言いたいのかすぐには分からなかったが、腰からふとももへ、ふとももから臑へ、臑から足首へ、すべての水が、皮フに吸着されずにすべりおちてゆく光景で、とたんに理解する。仏像の塗装が剥がれてゆくようだった。
 最初におぼえた“魚”の連想は、まとはずれではなかったようである。うろこのように水をはじき、誘導する皮フ……幽霊はみんな、このような皮フをしているのだろうか? いままで見てきた幽霊は球形だった……くらべる方法など、むろんない……。

「小袖なんて、きつくしないとね、すぐに襟がずるずるとすべるんですからね」
「まあ、いいわ。そんなこと……それより、着たら? 何か……」

 皮フのことなど、かまいはしない。目を奪われてしまうのは、娘それ自体である。かんたんにへし折れてしまいそうなほど華奢なくせに、顔面にはそれと不相応な、やわらかいりんかくのうりざね顔が、糊であとから接着させたように乗っている。
ほかに特徴的な部分は、腰だった。まるで骨盤が退化しているように、あるいは奇形の瓢箪のように、くびれが少ない。しかしそんな造形は、むしろ冬の皮フを精密に転写して誇張する……もしかすると、新品の死体に惹かれる烏は、こんな気分になるのかな? ……白痴美とか謂う言葉はおそらく、この娘を対象にしているのだろう。

「そうね、そうします」
「それがいいわ……」

 羞恥の虫をいつの間にか、気にもしなくなっていた。それどころか、太陽に照らされつづけて、虫はかすかすの殻だけになり、蒸発して土の餌になっている。
 娘が近くの草の茂みから、黒い小袖と帯を引っぱりだしてきた。まるで捨てたように粗雑なあつかいである。みどりの影にまぎれていて、それまで女は気がつかなかった。

「着つけてあげようか」 女が言った。
「ええ?」
「駄目かな」
「駄目じゃあ、ないけど」
「なら、いいね。ほら、渡して」

 娘は、ぽかんとしたあと 「やっぱり、おかしなひとですねえ!」 からからと無邪気に笑ってみせた。
 小袖と帯が女に渡される。彼女は娘の背後に寄って、袖に腕を通させた。襟を右へ、左へ。この位置からはうなじがよく見える。
 白い、本当に白すぎる……何か、わるい病気でもわずらっているような……血が透けてしまいそうだ……幽霊に血は流れているのだろうか……そして赤いのだろうか……赤いに決まってる。化生したわたしですらも赤いんだ……人間と妖怪の、ゆいいつの体色……すがたを変えても浮きあがる、曼珠沙華……。

「手が止まってますよ」 
「あ……ごめん」
「いえ」

 不審がられてしまい、ごまかすように口ごもる。

「あのですね」 何か言おうと錯誤していると、娘がさきに話しかけてくれていた 「じつはね。あんたのこと、知ってるんですよ」
「へえ?」
「さっきね、寝ているところを見させてもらいました」
「そうなの? はずかしいわ」
「きれいな寝顔ですよ」
「いやね、世辞なんて……」
「世辞じゃありません。それに私の唄を聴いて、笑ってくれた」
「唄って?」
「いえ……きっとね、相性がいいですねって、そんなことです」
「何それ」

 だんだんと、会話がはずんできてくれた 「ねえ、どうして水に浸かっていたの」 娘に帯を巻きつけながら。

「まあ、なんですかねえ。好きなんです、水に浸かるの。これはもう癖なんですね。あ、もうすこし、ちゃんと締めて。そうしないと……あっ、あっ。そうです……あの、寒いでしょう、大丈夫ですか?」
「たしかに……」 手を止めて 「なんでだろう? ああ、幽霊はつめたいものねえ」
「つめたい? ……そりゃ、一般にされてる誤解ですよ……そうでなくって、幽霊ってのは熱を奪うんですね。私はとくに水と相性がいいから、これくらいの池ならひとりでも熱を吸いつくしてしまう……まあ、とにかく、つめたいのとはちがいます。熱を吸収されてしまうから、そう思うんですよ」
「じゃあ、あんた、もっと熱っぽくならないとおかしいんじゃない」
「さあ……虚空にでも、消えてるんじゃないですか? 私が食べた者が、出てきたことなんてないんですから」
「ふうん。まあ、寒いのは気にしないよ。それより、本当にきれいな肌ねえ。幽霊ってそうなの?」
「私は魂がむきだしになっていますから、そう見えるんですよ」
「むきだし?」
「ほら、人間の雄と雌が、あれをあれするでしょう。それで、腕をからみあわせたり、舌を触れあわせたりする。お互いの魂をこすりあわせようとするからですよ。そうでなくって、がきを産むための運動に、どうして無駄な行為を挟みますか? 魂を摩擦で膨張させる快楽を、みんな産まれながらに分かってるんですよ。尤も、無意識だから、知っているわけじゃないでしょうけど……魂はね、皮フと肉のあいだにあるんです」
「私は、魂ってやつは、血に宿ると思ってるけど……」
「血、ですか?」
「だから……わたしは旅の途中で、よく鹿や兎を食べていたんだけど、心臓のかたちはどれも微妙にちがっていることが分かったんだ……それまで魂は躰の中心にあると思っていたけど、うたがいはじめた。かたちってのは大切よ。もっと普遍じゃないと、魂は逃げてしまう……血はよほど下等でなけりゃ、どれも赤いでしょう。どの鹿も、どの兎も、同じように赤い。人間もそう。善人だろうと悪人だろうと、同じように赤い……血が外に出てしまうと、黒く変色するでしょう? あれは魂が霧散してるのよ。ちゃんと躰といっしょでないと、かたちがくずれるんだねえ……でも、ひょっとすると、それはまちがいだったのかなあ。幽霊がむきだしの魂なら、霧散せずにかたちを保っていることになる……」
「ウフフフ、フフ。やっぱり……あんた、おかしいし、おもしろいわ」

 娘が急に、右手をうしろに動かし、女の頭をつかまえて、ぐっと自分の首すじのあたりに引っぱった。
 女の視界が、白くなった。娘の皮フが、目のまえにあった。

「ね、ね。じゃあ私の血を見なよ」 女は娘の豹変におどろいて、目を金魚のように見ひらいた。意外と力が強いらしく、頭蓋骨がきしんでいる 「たしかめるのよ……魂は血に宿るんでしょう」
「あんたは皮フと肉のあいだにあると言ったじゃない」
「あんたの考えを尊重してるのよ」
「見たって、じっさいのところは分かりゃしない……」
「どうかな、何かつかめるかもしれないよ」

 娘がさらに、女の頭を押さえつけた。くちびるが、首すじに触れた。
 娘の感触に、肌がこわばり、毛穴に石膏が詰められる。その下で毛細血管が、たしかに不感の虫をがんじがらめに縛りつけ、ただのぼろきれにして、捨ててしまう。

「ね、噛め……噛んで……あんたも、喪失者なんでしょう? 分かるんだ……仏じゃなくて、私にたよりなよ。いっしょに地獄へ落ちるのよ……」

 ためしに、首すじを舌で舐めてみる。なぜか拒否しようとは思えなかったのだ。それどころか、望んで噛みついてやりたいほどだった。
娘の質感は、けっして割れえない泡だった。
 潮の匂いが、渦を巻いていた。

「おうい、聖を連れてきたよ!」

 はじかれたように、娘から飛びのいた。振りかえると、室の傍に雲山とナズーリン、それに知らぬ者がいた。おそらくは、白蓮だった。
 ナズーリンがこちらに駆けよってきた。心臓が破裂しそうなほどに、がなりたてていた。

「おい? どうしてここにいるんだ」
「べつに。水に浸かってたら会っただけ。着つけてもらってたの」
「着つけだって? きみは、潔癖だった気がするがね」
「ふん」
「ほら、行こう」

 ナズーリンに手を引かれて、女は歩こうとした。

「村紗水蜜!」 娘がとつぜん、喉をふるわせて 「舟幽霊で、村紗水蜜って名前なの」
「ムラサ? ムラサって、あの―――
「ほら、歩くんだ。聖が待っている」
「そっちは?」
「……私は、一輪」

 せかすように、ナズーリンが女を引っぱった。彼女の足はおぼつかない調子で揺れている。



心の実想は、即ち是れ一切種智なり。即ち是れ諸法法界なり、法界即ち是れ諸法の躰なり、因とすることを得じ。是れを以って之を言ば、因も亦是れ法界、縁も亦是れ法界、因縁所生の法も亦是れ法界……



 太陽が夕に暮れはじめ、朱色に染まった。烏が聖輦船の帆柱に集まり、首をしきりにかたむけている。

「ああ、ああ」 ××一輪がうめいた。

 慣れない読経のお蔭で喉が枯れてしまい、風邪の罹患者のようである。しかしそんな痛みが、新しい定着の一歩のようにも思えるのだ。
 命蓮寺に到り、五日。
 水の鏡に、ひとりの尼が映っている。それが自分のすがたであると、いまだに信じられない感慨が残っていた。意味もなく、くるりと一回転をする。帽子《ボウシ》から飛びでている頭髪の一部が、遠心力で振りみだされる。

「たのしい?」

 娘が池のなかから浮きあがり、首から上を覗かせて、一輪を眺めていた。

「ムラサ」 一輪が、名前を呼んで 「もう、お夕飯よ」
「そんな時間なの」
「うん、探してたんだから」
「一輪。私は食べないって、何度も言ってるでしょう」
「ええ、でも一応ね……」
「やさしいねえ」
「やさしくなんて……」
「あんたは本当にやさしい」

 娘は食事もせずに、一日の大半を、自分の室か池で過ごしているらしい。彼女に会うためには、そのどちらかを探すだけでじゅうぶんだった。

「妖怪どもと、きっと仲よくできているんでしょうね」
「まあ、それなりに」
「フフフフ、聖の妖徳なのよ」
「ねえ、そんなことよりさ……」
「何さ?」

 こちらの考えを透かしているような、娘のひとみ。
 娘のほうでも、それとなく理解しているらしいのだ。初日の一件について、一輪が答えを求めていることに。しかし、なんの言及も返ってこない。
 ……あの刹那の情交は、いったいなんだったのだろう? 
 一輪には雲山のほか、誰にも言えぬ悪癖があった。彼女は流血を怖れながらも、みずからの血を嗅ぐことでしか、不感の虫を退治することができなかったのだ。それが肉体と精神の違和をいっときでも緩和するための、ゆいいつの粗末な治療法だったわけである。歯でゆびの皮をやぶりながら、血をこぼさないように注意をはらい、口内で柘榴《ザクロ》の臭気をたしかめる。そうすれば曲がりなりにも、遠のいていた性が帰ってきて、妖怪の力が弱まる新月の夜くらいならば、血をすすりつつも、もう一方の手で性に復讐するくらいの余裕ができる。しかしそんな自己破壊も、幻のような一夜に過ぎず、月が顔をだせば、けっきょく性は逃げてしまう。かんぺきに屈従させることができずに、崖の向こうへと消えてしまうのだ。そしてまた、毛穴から不感の虫がはいりこむ。さらにはその親戚らしい、嫌悪と空虚の虫までもが、ひとの家をしばらくのあいだ、勝手に踏みあらすようになる。
 そのはずが……ムラサの首すじに噛みつこうとした、あの一瞬……新月の夜、それ以上に不感の虫を殺せてはいなかったか? あの奇妙な性の蠕動には、たしかに殺虫の効力があったように思えるのだ。

「その……」

 だが、あの経験の正体を知るために、ムラサにどんな疑問を与え、どんな返事を期待すればよいのだろう? それにともない、下劣な悪癖のことだって、告白することになるかもしれないじゃないか……不感症だけでも、ひどくみじめなことなのに……。

「……なんでもない」
「そう? まあ、いいけど」
「ね。わたし、もう戻るわ」

 今日も、何もつかめないまま、一日が終ろうとしている。まず疑問を言葉にしてぶつける勇気がないのだから、なんの収穫も得られないのがとうぜんなのである。

「待って」

 池のまえから去ろうとしたところで、娘に引きとめられた。

「あのさ、ナズーリンだけど」 娘が、名前を口にして 「何か、言われなかった?」

 質問の意味が、うまく飲みこめずに 「何か、何かって?」 同じ言葉を、反射でくりかえす。

「ほら、私のことよ。たとえば、あまり私と話すなとか……」
「べつに、何も」
「そ。なら、いい」

 娘は池に沈んでいった。いつの間にか、太陽が雑木林の壁にはばまれて、半分ほど見えなくなっていた。なぜか、不安とこんわくで、胸がいっぱいになっていた。ふところから、小刀を取りだし、巻かれている布を剥ぎとった。小刀は、まんなかのあたりで、ぽっきりとへし折られていた。



 それにしても、おかしな質問もあったものだ…… 「あまり私と話すな」 とは……それはうらを返せば、ナズーリンがわたしにそんな忠告をするだけの理由があり、またムラサのほうでも、そんな自覚があることのほかならぬ証拠ではなかろうか……そうでなければ、なぜあんな質問をぶつけるだろう……。
 つかみどころのない、猜疑のかすみにまとわりつかれながら、外に面した廊下を歩いた。廊下のきしみは、一歩ごとに足の骨へとしみこんできた。
 暗い気分になっていたからか、知らず々らず、うつむいていた。首をもたげた姿勢のまま、廊下のかどを曲がると、不注意で誰かと当たってしまい、倒れそうになった。あわてて正面に向きなおると、寅丸星が右手で鼻をさすっていた。一輪のひたいが、そこに命中したらしい。

「星。ごめん、大丈夫?」
「いえ、こちらこそ……怪我はないですか」

 鼻を気にしながら、星は照れくさそうに微笑した。

「でも、丁度です。探していたんですよ、もうお夕飯ですからねえ。どこに行っていたんです? 雲山が心配しますよ」
「ムラサのところに……」
「ムラサ、ムラサに用があったの?」

 星の顔筋が、わずかに不安でゆがめられた。彼女のほうは、そんな自身の表情の変化に、気づいていないようである。

「あれよ、お夕飯は要らないかって、聞いてきたのよ」
「ああ、やさしいですねえ」
「べつに、なんでもないことよ……」
「そうでもないですよ。ムラサは聖のほかに誰ともかかわらないし。ムラサにも、ようやく話せるひとができたんだなあ」
「ねえ、ムラサはナズーリンがきらいなの? それともナズーリンがムラサをきらいなの?」

 星が、ぎょっとして、一輪を見た。隠しごとが苦手なのか、目線が左右にふやけていた。

「きらってないですよ……ちょっと、相性がわるいんですね……ナズーリンは頭がいいから、ムラサを過度に敵視しているんです」

 いかにも抽象的で、ごまかしまじりの返答だった。しかし、そんなふうにあいまいなことを言われると、よけいに娘のことを気にしてしまい、彼女のことを知りたくなってしまうのだ。浅ましい、諜報者のように……。

「ムラサってのは」 星が口をとざしそうにない質問を、ためしとばかりに投げつけてみる 「人の名前じゃない。海の、隠岐の国の妖怪よね? なんでそんな名前で呼ばれてるの」
「へえ、詳しいですね」
「わたしは岩見だから……近場のうわさは、すこし知ってた」
「岩見ですか。ははあ、隠岐のとなりじゃないですか」
「だから、ただの“一輪”じゃなくて、××一輪だったんだけどね……」
「郷の、姓《カバネ》ですか? 優美でいいじゃないですか」
「もう、捨ててしまった姓だわ……」

 姓が、どこまでも追ってくる……すでに捨てさったおまえを連れて……姓ごときに、いつまで定義づけをされなければならないのだろう? いずれにせよ命名には、侮りがたい拘束力があるらしいのだ。

「それはよくないですね、姓を捨てるなんて……名前は大切ですよ。あなたのように人間だったならともかく、妖怪はとくにね……腕より、足より、まず名前。妖怪は名前がなけりゃ、何もできない……。
「そう、なんでムラサと呼ぶのかって? ムラサ、聖に助けられたころにはもう、中身がかすかすになっていたんですね。海が全部、ムラサを吸いつくしてしまったんです……名前も過去も、残っちゃいなかった。だから聖は“村紗”を姓に、新しい名前も与えたんです」

「へえ……でも、べつの姓でもよかったんじゃないのかなあ? “ムラサ”に“村紗”だなんて」
「そりゃあ、きっと箴言としてですよ。ああ、ああ……おん、あぼきゃ、べいろしゃのう、まかぼだら、まにはんどま、じんばら、はらばりたや、うん……」

 いつの間にか、周囲は闇を深めている。さらに虫たちが、騒ぎはじめることだろう。

「そうだ、お夕飯ですよ、忘れてた……ほら、行きましょう。ナズーリンに怒られてしまいますよ」

 星が振りかえって歩きはじめる。

「待って! もうひとつ、教えてほしいの。ムラサはやっぱり、人間を殺したことがあるの?」
「そりゃあ、舟幽霊ですからねえ……」 足を止め、いかにも言いづらそうな調子で 「ううん。まあ、言ってもかまわないかなあ。ここだけのはなしですよ。ナズーリンはね、聖がムラサを連れかえったら。ひどく怒ってしまいましてね。ムラサは危険だって、いつか問題を起こすぞって。そう、だからムラサのほうはどうか分かりませんが、ナズーリンはムラサをきらっているのかもしれませんね……。
「じつはね、一輪。私もムラサにたいしては、ちょっと複雑です。きらいではありませんよ。ただ、すこし苦手です。なんせムラサは、かつての同族を殺していたんですからね、それは本当に怖ろしいことですよ。妖怪ですら、それだけはできるだけ避けたいと思っている、怖れているんです……そう、ナズーリンはむかし、ムラサをこんなふうに呼んだことがあったっけ……」

 そこで星は、黙ってしまう。

「何?」
「殺したがり」



 夕飯のあと空は急に曇りだし、布団にはいるころには雨になった。水のつぶてが、屋根を叩いて打ちのめす。いまの天気と同様、どうしようもなく、気分が暗く立ちこめていた。あまり蒸しあつくもないので、かけ布団を首まで引っぱり、猫のように躰をまるめた。
 むろん、予想はしていたことだった。舟幽霊のムラサが、人間を殺していないわけがない。そんなことは、まだ人間だったころに聞いたあの逸話で、すでに知っていたじゃないか。
 じつのところ、一輪は娘に会う以前から、彼女のことを知っていた。なんでも白蓮と呼ばれる高名な僧が、隣国の海の妖怪を退治したのだと。
 そんな逸話を知っていたからこそ、命蓮寺のうわさはともかく、その寺の中心であるらしい、白蓮と呼ばれる僧のうわさを、すこしでも信じる気になったものである。おそらくそんな名前の共通点がなければ、一輪は彼女の実在を信用しなかったにちがいない。げんに、ナズーリンに導かれてここにたどりつくまでは半信半疑ですらなく、ただ歩きつづけるために、いつわりの希望としてうわさを利用していただけなのだ。
 それにしても、ムラサが退治されていないのは、いったいどう謂う了見なのだろう? 聖さまは退治するどころか、救っているじゃないか。退治だなんて、尾ひれのついた、流言でしかなかったんだ……それにしても、あのひとの慈悲は、人間を殺した人間にさえ、区別なく与えられるのか……生きるために、多くの罪をかさねてきた自覚は、むろんある。はしたない悪行をさえぎる良心も、旅の途中で迫りくる死の警笛におびやかされては、ゆび一本ぶんの力さえも失ってしまう。だが殺人だけは犯さなかった。それだけは耐えられない。軽罪の恥など適わぬくらい、みずからの尊厳を傷つけてしまうことになる
たしかに、同族への死の強制が許される瞬間はある。子供と老人が、口を減らすために捨てられる……雌の蟷螂が、性交のさなかに、雄の頭に喰らいつく……幼い蜘蛛が、母親の腹をやぶり、這いうまれる……そんな場合は同族だろうと、命の価値が石っころもどうぜんになる。倫理を羽毛のように軽くあつかう、食と性の命脈……ただ、それも罪悪の天秤が一瞬のあいだ無罪にかたむくだけであり、すぐにそんなごまかしも無意味になる。子を川に捨てた親は、いつまでも肩にのしかかる、子の重みを感じるにちがいない。蟷螂や蜘蛛が、同胞をあやめたことで罪悪感をおぼえるのかは分からないが、少なくとも人間であれば、人間だったのであれば、殺人を畏怖するべきなのだ。そんなことはおまえを墓に埋めてしまってから、もう痛いほど分かったことじゃないか!
 眠れずに、布団から起きあがった。まっくらで、何も見えない。黒く塗りこめられた闇のなかで、雨の音が視覚化されてしまいそうだ。ゆっくりと、まぶたをすがめ、ゆっくりとひらいた。ふたつのひとみが夜目に変化し、闇を透かし、隣室とつながる無地の襖を浮きぼりにした。
 ムラサのやつ、今日は室にいるのだろうか……それとも池に? 何を考えて、わたしにとなりの室を勧めたのだろう?
 一輪がほかの妖怪たちと眠らずに、こうしてひとりで室を使っているのも、もとをたどれば娘の助言があったからだった 「両どなり、誰も使っていないから。一輪、使うといいよ」 しかしいまにして思えば、彼女の隣室がしらじらしい空席になっていることは、彼女にたいする周囲の好感を表してはいなかったか?
 ひとりで室を使えること自体はありがたい。一輪はこれまでずっと、雲山だけを信用してきた。おそらくほかの誰かといっしょでは、眠ることもできなかっただろう。それで白蓮の許可もあって、共用の室ではなく、娘の隣室を使わせてもらっているわけだ
 その選択は、はたして正しかったかどうか……ムラサがとなりを勧めたのは、何かやましい策略があってのことではなかったか……そんな考えが、過剰な警戒に過ぎないことは分かっている……だが、万が一……已めだ! うたぐりつづけても、なんにもなりゃしない……どうせ同じ屋根の下で暮らす以上は、長いつきあいになる……下衆の勘ぐりばかりして、きらいになりたくはない。たとえ同族を殺しつづけた、怖るべき者であったとしても……それに聖さまの傍にいるのだから、いまは反省していると謂うことだ。
 けつろんをだして、また布団に潜りこんだ。両目をとじて、この数日を思いかえす。悶着はあったものの、命蓮寺は一輪にとって、本当におだやかな世界だった。
 ここには安心があり、平静があり、定住がある。もう、人間たちに追われることはない……そして、いつの日にか、きっとおまえの影さえも……ほら、まぶたのうらで、聖さまの説法が、浮かんできた……。

天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界。私たちは、このむっつの苦痛の世界で、産まれ々まれ々まれ々まれつづけて、死に々に々に々につづけなければなりません。だからと言って、解脱だけがゆいいつの救いではないのです。弘法大師は私たちに、生きる意味を説いてくださった。一輪、弟を失い、私もかつては喪失者として生きていました。ですがいまはこうして、まえへと進む道をまたあゆむことができている
世界はすばらしいことで満ちている。それはむげんの宝なのです。私たちはまだこのむげんの宝を見つけてはいない……私たちといっしょに、世界のむげんの宝を開拓しましょう。それは何より、あなた自身のなかにあるはずなのですから
だから……こい、私といっしょに、地獄へ!

「ぎイ、ぎイ……」

 眠りこけそうになった、半端な意識の外側で、唄を捉えた。戸の向こうで、娘の音。ついで、じゃりじゃり、じゃりじゃりと、土をこする足のうら。それが遠のいてどこかに向かってゆく。
 唄が聴こえなくなったころ、ようやくはねっとばされたように起きあがった。いそいで戸をひらいて 「ムラサ!」 そんなふうに叫んでみても、娘のすがたはすでになかった。しかし、雑木林のほうに向かう素の足跡は、まだかたちを残していた。



 雨と土が入りまじった、おうど色の臭い……虫たちの気力を奪いとる、天水の声明……足跡を追うほどに、一輪の足跡も、娘の痕跡に同化する。雑草の上を通るそれを、たまに見うしないそうになりながらも、なんとか喰らいついていた。襦袢が水を吸って、肌に張りつく。不均一な林の並びに感覚をみだされて、迷ってしまいそうだ。
 こんな夜の雑木林に、なんの用があるのだろう? 舟幽霊は池の水より、雨をこのむのだろうか? いや、雨を浴びるだけなら、べつに林へ行く必要もないはずだ……ムラサの目的は分からないが、こうして自分が林にはいった理由も分からない。もしかするといまのわたしは、炎に飛びこむ蛾の親戚なのかもしれない。惹かれた輝きへ不注意に近づき、つぎの合間に、もう死んでいる……そんな危険が迫っていないと、どうして言いきれよう……誰もがみずからの終りを知らずに生きている……いつまでも、生きつづけられると思っている……そんな精神的な不老不死で、死に怯える己をごまかし、予想をくつがえす死の突進を目前にして、ようやく寿命がかぎられていたことに気づくんだ……。
 うしろを見ると、命蓮寺も聖輦船も、すでに雑木林にすがたをはばまれていた。ずいぶんと奥まった場所に娘は進んでいったようである。幽霊を追っているのに、枯れ尾花のせいで、べつの幽霊を幻視してしまいそうだ。それにこの山のことを、まだ詳しくは知れていない。おそらく山のほうからすれば、一輪はまだ侵入者もどうぜんだろう。山は見しらぬ者を冷酷に突きはなし、あるいは飲みこむ。いまにも神かくしに遭遇した子供のようになってしまうかもしれないのだ。そうなりたくなければ視覚ではなく、触覚的に、感覚的に、山を理解してやるしかない。
 さきのほうで、龍笛のような絶叫がひびいた。あの叫びは聞きなれている。おそらく鹿の絶命だろう。死にぎわの鹿はあんなふうに、悲痛で無力な抵抗をするものである。雲山を連れてくるべきだった。もしかすると、いまの悲鳴の要因は、狼の牙かもしれないのだ。群れに遭遇したらすこし厄介だろう。ただのけものと侮るなかれ。夜の山では、鬼よりも、天狗よりも、狼の独壇場なのだ。
 足跡を追いつづけていると、不意に白いりんかくを、雑木林のなかに捉えた。襦袢の白に、それよりまぶしい首の色。こちらに背中を向けて、地面に座りこんでいるのは、まちがいなく娘だった。墨汁の上で、蓮の花弁を散らせたように、単色がつやっぽく浮いていた。
 見つけた! やっと、見つけた……そう、やっと、見つけたので……見つけたあとは、どうすればいいのだろう? こんなふうに、追ってきてはみたものの、何かとくべつな理由があったわけでもない……。
 いまさらのように、娘への尾行を恥と感じはじめていた。これなら初対面のように、正面からの視姦のほうがまだ良心的だった。それにたいして、相手の視覚外から一方的に視姦しているのが現状なのである。わずかな小銭をかすめとるような、被害者に被害を自覚させない犯行ほど、罪なことはないだろう。そうでなくては、被害者には報復の意識さえ発露しないのだ。
 うしろめたかった。べつに実害を被ったわけでもないのに、こうして疑惑ばかりを考える自分に喝を入れた。隠れるのは已めて、素直に娘の傍に寄ろうとした。なぜか、しのび足で彼女に近づいてしまう。夜にまぎれる、浪人の歩幅……。
 しかしとつぜん、足を止めた。太い釘で影を地面に縫いつけられて、動けない。血管に、どろどろの鉛を、流しこまれてしまったようだ。
 娘が、鹿の血を首からすすっていることに、ようやく気がついた。彼女の白に意識を奪われ、闇に同化した鹿の毛皮を、見のがしていたらしい。泥をこねるような、にちゃにちゃとした吸飲のひびきが、雨の音を押しのけて、はっきりと聞こえてきた。とたんに恐怖で、肌がすくんだ。鳥肌がぷつぷつと謂う、擬音をかなでてしまいそうだ。
 息を殺して、じりじりと、うしろにさがる。あわてない……あわてるんじゃない……雑草に注意しろ……音をだすんじゃない……そら、ゆっくりと、右手で口をふさぐんだ……。
 極限まで、意識を張りつめ、後退を続けた。しかし、まるで時間が迂遠にまで引きのばされたように、娘との距離はひらかない。さがっているはずなのに、彼女は遠のいてくれないのだ。それでもあせらず、牛のあゆみで無音を保つ。
 さいわい、雨が一輪の発するわずかな音をけしてくれていたし、何より娘は鹿の血に熱をあげていた。むがむちゅうで、下品な音を鳴らしている。
 しかしそんな必死の努力も、すぐにあっけなく、無駄に終ってしまうのだ。娘が、鹿の毛皮を両手でつかみ、魚でもひらくかのように、腹を引きさいた。そして、心臓をえぐりだし、祭壇にささげるいけにえをあつかう態度で、うやうやしく天にかかげた。彼女はいやらしい嗚咽を漏らしている。
 もう、我慢が、効かなかった。腰を抜かして、尻を地面に落としてしまう。すぐに立ちあがろうとつとめるが、もう遅い。娘が、異変に気づいて、振りかえった。彼女は、きょとんとした表情で、目をまるめていた。

「一輪? どうしてここに」

 娘は、初対面のころに見た、あの無垢なまなざしをしていた。罪を犯したことを自覚していない者だけが、こんなふうに振るまうのだろう。
 黙りこくっている一輪に、何を思ったのか、娘はひとりで納得していた。

「ああ、もしかしてあんたも血を飲みたいの? そうね、ひとりで飲むのは、あんたにわるい……」 娘が、一輪の目のまえにまで近よってきて、鹿の心臓を差しだした。なまなましい、取れたての、命の中心点……いまにも、ふるえて、また脈を打ちそうだ 「ほら」 彼女の口に、心臓を近づけてゆく。

 反射で手を振りかぶり、心臓をはじきとばしていた。木にぶつかって、裂けた表面から流血がほとばしり、もともと血でよごれていた娘の襦袢に、さらに赤い顔料を塗りたくった。心臓は木にへばりついていて、いかにもたよりなく、ひしゃげてしまう。

「気ちがい! 死んじまえ!」

 つぎには、娘をはらいのけたあと、めったらに吐きだされた、自己防衛のための暴言……ほとんどけものが、敵を威嚇する姿勢に近い。それは逆に、恐怖のうらがえしだ。己を大きく見せるための、非力な鞭……しかし、意外と効果があったらしく、はらいのけられた彼女は、地面に尻餅を落としていた。互いを正面に、座りこむようなかたちになる。
 娘はうつむいて、ぼうぜんとしながら、地面を見ている。髪と々のあいだから、苔っぽいひとみが、溶けだしそうになっていた。

「死んじまえって……へ、へ、へ、へ……もう、死んでるんだ!」

 娘がとつぜん、まえを向いた。全身に憎悪をたぎらせながら、一輪の手首につかみかかり、地面に押しつけた。彼女の力は、手首がへし折れてしまいそうなほどすさまじい。

「あんたは同じだと思ってたのに!」

 娘が涙を流し、わめいた。涙が宙空で、幻のように霧散した。

「放して!」
「何を、澄ましていやがるんだ! 私といっしょで、もう人間じゃないんだぞ……諦めて、私のようにしたらどうなんだ! この、喪失者!」
『村紗の言うとおり……何を怖れているんだか……鹿なんて、いくらでも殺してきたじゃないの』
「わたしは、血を飲むために殺したことなんてない!」
「私は、飲まなけりゃ消えてしまうんだぞ! それをあんたは、わるいことだと言うの?……そんな、まがいの毅然で、私を拒否しようってのか!」
「誰かあ、助けてください! 雲山、聖さま、ナズーリン!」
「こないねえ。こない、こない……フフフフ……ねえ、私ね。じつは、一目で惚れたのよ。相性なのよ。ああ、ふたりっきりね、一輪……」

 しかし現実は、娘の思うようにはならなかった。雑木林が急にざわめき、みだれはじめた。勢いよく、鼠たちが林から飛びだし、彼女に喰らいつく。そして数えきれぬほどの灰色の群れが、彼女を一輪から引きはなし、埋めつくし、もはや肌の色さえ見えなくなってしまう。

「逃げるんだ!」

 不意に躰を持ちあげられた。反射で抵抗しそうになったものの、頭の上のまるい耳をみとめたお蔭で、なんとか踏みとどまることができた。あとはもう、ナズーリンに身を任せることしかできなかった。すさまじい速さで、彼女が駆けていることだけは理解できた。鼠に埋もれた娘が、あっと言う間に遠のいてゆく。

「一輪は、私のだ!」

 雑木林を抜けたころに、亡者の怒声が、わずかに耳へとしみこんできた。



―――聖、はいるよ。
―――ナズーリン? どうしました、びしゃびしゃですよ。
―――どうでもいいんだ、そんなこと。それより聞いてくれ、ついに尻尾をつかんだのさ!
―――なんのことです?
―――ムラサだ、ムラサ! おどろくなよ。一輪に、無理やり鹿の血を飲ませようとしていたんだ! つまり、はずかしめだな、はずかしめ……立派な強姦だ……もしかすると、あのまま一輪を犯していても、へんじゃなかったぞ……。
―――…………。
―――どうした、何を黙っている? ……私が言ったとおりだったな。あんな舟幽霊は、いつか問題を起こすって、むかしに言ったろう。
―――…………。
―――破門だ! きみは責任を持って、ムラサを破門にしなきゃならないぞ。ただでさえ、弟子の不始末は師の不始末なんだからね。そうでなけりゃ、一輪は安心できやしない……。
―――駄目ですよ。そうなったら、誰がムラサを救うのです。
―――どうでもいいじゃないか、ひとりやふたり、救えなくっても……そもそも救うには、まず救うにあたいする必要がある。世のなかには救われない者も、救いがたい者もいる。ムラサはその両方だ。
―――ずいぶんと、興奮しているじゃないですか……あなたらしくもない。
―――いいか、ムラサはきみが拾ってきたし、一輪は私が拾ってきたんだ。ひとの拾い者に、自分の拾い者に傷をつけられて、どうして怒らずにいられるんだ。私は一輪の師ではないが、責任がある、拾った者の責任だよ。さあ、どうするんだ。きみが誰彼も善悪もかまわずに拾ってきたから、こんな問題が起きたんだぞ
―――……あなたは……見ていたのではないですか? 一輪がムラサに襲われるのを。
―――…………。
―――あなた、一輪を鼠で見まもっていたでしょう。それなのに、すぐに気づけなかったと? ……釣りは、お好きですか?
―――ふん、正直な皮肉でけっこう……まあ、証拠が欲しかったんだな……ムラサがいまだに凶悪だと謂う証拠がね……しかし、それとこれとは関係あるまい? 一輪は襲われた、それが事実だろう。
―――ムラサは、破門にしません。
―――きみは、やさしすぎる……甘すぎる……腹が立つね。いつかそんな甘さで、身を滅ぼすことになるぞ。
―――どうしています? 一輪は。
―――寝かせたよ。大丈夫だ、鼠もいる。
―――様子を見てきます。
―――已めておけ、まだ混乱しているんだ。
―――そうですか……。
―――…………。
―――ナズーリン?
―――ここ数日、一輪を見ていたんだが、ムラサに惹かれているんじゃないかなあ?
―――どう言うことです? ムラサの感応ですか? 幽霊は、とかく心にはいりこみますからね。
―――どうかな、そうじゃないのかも……喪失者は大抵、殺したがりか死にたがりになるものだ。ムラサは殺したがり、一輪は死にたがり。ふん……ムラサも言っていたが、相性ってやつさ。
―――もう死にたがりではありませんよ。一輪はいま、まえを向いて歩きはじめた。あの小刀だって、私がへし折ってしまいました。
―――ふん、どうだか。折れた刃物や錆びた刃物で切った傷のほうが、治りが遅いと知らないわけではあるまい? それにしてもムラサのやつ、あんがい惚れっぽいんだな……あそこまで乱暴になるなんて……しかし、同じ雌なのに……まあ幽霊なんて、いずれ憑くことが本懐なのだし、そんなものなのかもしれないな……



 貝の殻にも似た、脆くてたよりがいのない、かけ布団。それとも殻は、室のほうなのか。襖もまた、煙幕のように貧相で、かんたんに取りはらわれてしまう堤防である。
 おびえた兎さながらに、かけ布団から顔をだす。室のよっつの隅では、鼠の監視が目をひからせている。何かあれば、すぐにナズーリンのところまで駆けてくれるだろう。それでも不安は、いっこうに解消されてはくれなかった。足を動かし、意味もなく臑を擦りあわせてみたりする。濃厚な光景が、いまだにまぶたのうらを、刺青のごとく焼きつけていた。目前にまで迫った、赤い果実……触手のように手首へとからみついた、娘の両手……手首には跡が残っている。幽霊の与える痛みは呪いに近い性質があるらしく、かんたんに消えてくれないのだ。
 雑木林を抜けたあとのことは、あまり記憶にない。気がつくと、ナズーリンがべつの襦袢を着せてくれていた。

「あんなふうにして、正気を保っているんだね。ムラサは海の妖怪だから、陸では力が失われるばかりだ……命をすすって、必死にかたちを固定しているんだよ……あれが陸に打ちあげられた魚の末路なのさ」

 そんなふうに、ナズーリンは娘の所業を語ったものである。そんな在りかたに、同情の余地をかけらもいだかなかったかと言うと、それは嘘になる……おまえも言ったように、鹿を殺したことだって、むろんある……二十本の指では、たりないほどだ。だがあんなふうに、無惨なあつかいをしたことがあったろうか? 世からけむたがられ、人に追いたてらえた、浅ましい化生者になったとしても、経の唱えかたはおぼえていたし、奪った生命への黙祷だっておこたらなかった。化生を後悔するからこそ、ほかの命を尊重してきたのである。
 心臓を天にかかげた、娘の下卑た嘲笑が、耳から逆流してきそうだ……いまからでも、ほかの室に移ったほうが、よいのではなかろうか……。
 ナズーリンに勧められはしたものの、強がりで断ってしまった。娘にたいして、ぶるぶるとふるえる、あわれな敗北者であると認めてしまうようで、いささか癪だったのである。何も無策なわけじゃない。さいわい、鼠たちがいる。それにここでは、大声で誰かに助けを求めることさえできるのだ。また襲いたければ々うがいい。いずれにせよ、誰もがわたしに味方をしてくれるはずである。主導権はこちらがにぎっている……。
 布団の隅を、ぎゅうっとにぎりしめ、あらためて娘のことを考える。幽霊も、一枚岩ではないらしい。正直なところ、粗末な球体の幽霊ばかりを見てきたので、侮っていた節がある。人間だったころでも、蹴鞠の代用にはねっとばしたり、夏の涼みに利用してさえいたので、よけいに油断してしまったのだ。それに、かつては人間だったはずの者が、あそこまで醜悪になれるとは、思いもしないことだった。
 命を奪わなくては、死んですらいられない……それは理解してやってもいい。命蓮寺の妖怪たちもまた、必要もないのに食事をする。おそらく食べることそれ自体が生き死にとは無関係に、なかば恒常性の病のように、習慣として胃にしみついているからだ。生きるために食べるのではなく、食べるために生きるのだ。いずれにせよ、口を狂ったように開け閉めすることが、命の本懐なのだろう。それを加味しても、あんなふうに殺戮をたのしむことが、許されるはずがない。あれはただ、食べるためだけの行為ではなかった。まちがいなく殺生をたのしんでいた……ムラサのやつ、聖さまに救われたのではなかったのか?
 娘のおこないに、一輪は憤怒にも似た想いをいだくのだが、それもむなしい。死者にどのような怒りをぶつければ、このわだかまりは解きほぐされるのか。まるで喉にへばりついて、からんで取りがたくなった、痰のような感情だった。しかし、彼女のおこないにたいするよりも、ほかに怒りを誘発する激情もあった。おそらく、このいきどおりの真の原因は、彼女に惹かれていたことへの自覚と、それにともなう羞恥だろう。
 娘は、いまとなっては怖ろしいが、それでもうつくしかったのだ。冬のような、停止せられた躰に噛みつこうとしたあの瞬間に、何か奇妙な絆のめばえがあった。あの日、命ある者と命なき者は、たしかに譲歩し、結められていたはずである。
 だが、それもここまでだ。ムラサは命をもてあそぶことで、わたしをうらぎったもどうぜんなのだ。認めなければなるまい。わたしは喪失者で、ムラサもまた喪失者だ。だがそんな強調が塵になって消えてしまうくらい、互いの溝は深いらしい。あんたを突きはなすには、それだけあればじゅうぶんだ……。
 顔だけを覗かせ、みのむしのようにかけ布団へくるまり、まぶたをとじた。雨は、以前よりもやかましく吠えていた。
 さあ、もう眠ろう……明日にでも、聖さまに告発してやるんだ……命蓮寺では、人間と同じ時間が流れている。朝と昼に生き、夜は死んでしまうのだ……眠るべき時間は、とうに過ぎている。朝はいつも、待ってはくれない……。
 ふたつかぞえて息を吸って、ふたつかぞえて息を吐いた。ふくらんだ肺は、萎えてゆく。眠りの支配者が、語りかけていた。



 ……眠っていた一輪は、不意にまどろみの揺りかごから落とされた。室は暗く、雨はいまだにふっていた。感覚的に眠ってから、あまり時間が経っていないことが察せられた。
 室の沈黙に、しらじらしさが満ちていた。だが何がしらじらしいのかも分からない……待ってくれ……これは……つめたさだ!
 とたんに頭が覚醒し、脈は興奮して暴れだす。
 とにかく、叫ぶんだ! 脳を介さない、反射の警告にしたがい、喉をふるわせようとこころみた。
 なんの音もだせなかった。食道が音の堤防になっているようだ。何度も々々も叫ぼうとして、何度も々々も不発に終った。さきのつぶれた尺八を、必死に吹こうとする、旅芸人……道具を失いつつも、それしか特技がないばかりに、同じことをはんぷくするしかない。
 今度は室から逃げだすために、腰を起こそうとする。だが、まるではりつけにでもされたように、ぴくりとも動けなかった。躰がもがけぬほどに、心のほうは必死にもがく。焦燥はつのるものの、意識は奇妙なほどに冴えていた。いまなら髪にまで神経が伸びて、そこかしこから周囲の情報を集めてくれそうだ。
 ……かなしばりだ! どうして、失念していたんだろう……幽霊がいちばん得意な呪術じゃないか!
 いま一輪は、天井のほうを向いている。あおむけこそ、身のすべてを棺桶にささげた、死の体位……なんとか、眼球と口だけは動かせる。

「起きた?」

 とつぜん、近くで娘の声がした。もごもごとして、何かを口にふくんでいるような。しかしどこにいるのかすら分からない。

「ここよ、ここ」

 娘がむくりと、視界に現れた。

「軽すぎて気がつかなかった?」

 ようやく理解できた。娘はかけ布団の上から、一輪の胸もとあたりに頭を置いて、しなだれかかっていたのだ。上ばかり見ていては視界にはいらないし、彼女の言うとおり、重量的な認識のせいでもあるらしい。彼女はなぜか裸だった。
 娘の口から、見せつけるように、鼠の尻尾が一本、垂れさがっていた。尻尾は鳥におびえるいもむしのように、ぴちぴちと彼女のくちびるを叩いていた。
 鼠はみんな、殺されてしまったんだ! ……。
 救援を目的に叫ぶのではなく、たんに不安の解消のために叫びたい。そうしなければ、いまにも肺が破裂してしまいそうだ。げんに出口をなくした絶叫は、躰のなかで暴れている。
 娘が卑劣なほほえみを見せた。その直後に、上を向いた。一瞬だけ喉がふくらんだ。またこちらに顔を向け、わざとらしくひらけられた彼女の口内に、鼠は残っていなかった。彼女が、顔を目のまえにまで近づけてきた。

「襦袢がもったいないよ……あの鼠ども、容赦しないんだ……容赦しないのはナズーリンかな」

 娘は雑木林でのことを言っているのだろう。あの大群から、無事に逃げきったのか? ……すでに死んでいるのだから、無事も何もないわけだ……いや、そんなことは、どうでもいい。放しやがれ! 何をする気なんだろう? ……まさか殺されてしまうのだろうか? ……できっこないさ……そんなことをすれば、あんたは命蓮寺にいられなくなってしまうんだ……そう、できるわけがない……。
 しかしそんな希望に反して、娘は一輪の首に両手を伸ばし、つかみかかってくるのだった。両手もまた、ひどくつめたい。しばらく触れていたら、凍傷になるほどに。

「どうする、どうされたい?」 娘が問いかけて 「死ぬ? 死にたい?」

 娘がゆっくりと、手に力を込めはじめた。器官が圧迫され、息が詰まってゆく。それも急にふさがるのではなく、きわめて緩慢に。

「おびえることはないよ……ねえ、生きものがどこから産まれたか知ってる? 海は教えてくれたよ。すべての生きものは、海から産まれてきたんだよ。つまり……分かるかなあ? 最初の死者の死因も、きっと窒息だったんだよ。だから窒息は名誉なことなんだよ、なぜそんなにくるしむの? へへ……」

このまま死んでしまうなら、虫けらのように考える間もなく死んでしまうほうがましだった。動けずに、なりふりかまうこともできないので、一輪は目線で必死にうったえる。
 死にたくない! どうか、殺さないでください! お願いしますよう……。
 そんなふうに、恐怖でひとみをたぎらせながら、死にものぐるいの主張……。
 すると娘は意外にも、素直に手を放してくれた。一輪は、あわてて肺を蠕動させる。息ができる。その事実に、いままでにないほどの感謝の念が押しよせてきた。
 そんな一輪の様子に、娘はくすくすと笑って 「冗談。殺したらここにいられなくなる、さすがにそれは、聖も許してくれない……それは困る。私だってみんなと同じ、聖のことが好きなんだから」 どうやら、彼女が自分を殺せない理由の考察に関しては、正しいものがあったらしい。しかし殺じん未遂であることに変わりはなかった。
 まともに息ができるようになり、一輪のなかでいかりが急速に育っていた。娘のひょうきんな態度も、そのあとを押していた。もし声がでるのなら、北国にまで届くほど、どなってやるところだった。げんに怒声は喉でつっかえている。今度はそれに窒息させられてしまいそうだった。
 犬のように歯をむきだし、威嚇してやる。娘は黙りこくっている……なんとか言ったらどうなんだ、殺じん者め! しかしそんないかりで頭がいっぱいになっているのも、ほんの短いあいだでしかなかった。
 とたんに一輪の胸は、おぞけで満たされる。娘がとつぜん、彼女の頭を両手で掻きだき、無理やりな接吻をせがんできた。不意なことで反応が遅れ、口のなかに、娘の蛭がはいりこんできた。上下の歯列を、娘の舌が、舐めていた。
 むろんのこと、躰は動かない。一輪の全身は相も変わらず、がちがちに固定されていた。鎖でつながれた虜囚は、甘んじて拷問を受けいれるしかない。なんの抵抗もできずに、自分の一部を強姦されているすがたが、娘のひとみを鏡にして俯瞰されていた。しかしそんなはずかしめを、いつまでも素直に受けいれるわけがない。また湧きあがってきた憤怒が、反逆の理法を教えてくれたのだ。
 娘は、おどろいて、接吻を已めた。
 ぐっと、自分の歯までくだけてしまいそうなほどに顎をりきませ、とじてやったのだ。娘の舌が、噛みちぎられている。舌を飲みこんでしまわぬよう、息ができる程度に、喉をりきませておくことも忘れない。いま、喉で彼女の舌が引っかかっているのだろうが、ほとんど重さもないので、ひえた感触だけが伝わってきた。氷がつっかえているような感じだった。
 どうした! すこしは効いたろう……舌がなくて、まともな声もだせないか!
 案の定、娘はいがいな抵抗に、目をまるくしていた。そんな顔を見れただけでも、反逆の成功と謂うものだ。
 しかし、そんな娘の動揺もすぐになくなってしまう。それどころか、口をひらいて、舌の根を見せつけてきた。断面から血があふれて、しゅうしゅうと霧になる。彼女の血は墨のような色をしていた。
 総毛だった。幽霊の血は、躰から切りはなされた血と、同じ色をしているらしい……なんの命も宿っていない、むなしい染料……これで絵を描けたら、きっとなんの魅力もない絵が完成するだろう。
 一瞬の勝利に、つい余裕ぶっていた。それが愚行だった。娘が急に、隙を見つけて、右手で一輪の頬を引っぱたいた。左手は枕のように、彼女の後頭部をすこし上に持ちあげた。
 不意の衝撃で、喉に隙間ができてしまう。それが娘の狙いだったのだ。きっと思わくどおりに、彼女のちぎれた舌は、一輪の胃に転がりこんだことだろう。じっさい、喉でつっかえていたつめたい感触は消えていた。
 肌がけばだち、今日で何度か分からない、冷酷な恐怖のとりこになる。胃を逆流させようと、喉ぼとけのあたりをひくつかせる。しかしとうぜんのことながら、一度でも飲みこんでしまえば、かんたんに排出することはできないのだ。できれば蛙のように、胃を外に吐きだして、あまつさえちぎりとってしまいたかった。どうせ内臓くらいは、すぐに再生するのだから。
 娘がいたずらっぽく 「く、く、く、く」 ゆびを口に当て、ふくんだような笑いをこらえた。敗北感のせいか、視界が水でにごりはじめた。それをごまかしたいばかりに、思いっきり、娘をにらみつけてやるものの、すでに闘志は折れていた。一応は心のなかで、自分をふるいたたせようと、めちゃくちゃに罵詈雑言を吐きだしてみたりする。
 ……この、下衆め! 何がしたいんだ……笑うな! ちくしょう、殺してやる……生きかえらせてでも、あんたを殺してやるぞ!
 噛みちぎった甲斐もなく、娘のしたは、すぐに再生してしまう。
 娘が言った。

「ねえ、好きよ」 娘が、かけ布団を剥ぎとって、一輪に全身を預けて 「あんたは?」

 娘がひたいを、こつんぶつけてきた。すると、全身の筋肉がゆるゆると溶けるような感じがした。かなしばりが解かれたのだ。しかしもう、なんの反抗もする気力もない。名誉を支える不屈の糸が、すでに切断されてしまっていた。

「好きって、何よ……あんた、最低の下衆だわ……うう、こんなのって……死ね、死んじまえ。ちくしょう……」
「死んでるの。でも独りはこわい」
「それが、なんなの……それが、これとどう、なんなのよ……」

 娘の、ない体温を感じていた。躰が凍って、くだけてしまいそうだ。氷点下よりも残酷な、死の観念……いつの間にか、死者のとなりに、甘んじている。
 娘が獲物を捕らえた爬虫類のように、一輪へしがみついた。安心した表情で。
 一輪は、死の圧制を、全身に浴びていた。にじみだす、途方もない、海と呼ばれる、娘の冷酷な母親の……水中で踊る、蝦と鯛の、流動の賛歌…… 「ぎイ、ぎイ」 ……過去に彼女を窒息させた、波のうなり……。

『おまえは忘れてしまったの? おまえも海に沈みこませるみたく、私を埋めてしまったんじゃないの』

 不意に、おまえが郷を背景に、たたずんでいるのが見えた。能面をかぶって、閻魔の勺を持っている……わたしを裁く権利があると言いたいのか?

『まさか。いやいやでやっているだけよ……まるで閻魔とやらが、都合のいい仕事だとでも言いたそうね……閻魔が裁くのは、もとより人間にその役目を押しつけられたからでしかない……人間は、罪よりも裁く重さに耐えられないと、理解していたんだねえ』

 返しやがれ! 何もかも、全部だ!

『また、都合のいいことを言う……捨てたのは、おまえなのに……』

 拾う権利だってあるはずだ! そう信じているから、誰もがかんたんに所有物を捨てられるんじゃないか! そうでないと分かっていれば、絶対におまえを埋めたりはしなかったのに!

『おまえを、呪いつづけてやる……しがみつきつづけてやる……いつまでも、いつまでも、私が生きつづけるために……』

 急に全身が、いぶりはじめた。娘の皮フから伝わる、死の摩擦が、肉を発酵させていた。皮フの内側が、かゆみにも似た熱を持つ……ぎイ、ぎイ……どんな聖人も、死にぎわで情欲を煽る売女が目前に現れたら、きっと性を押さえられぬにちがいない……虚弱な羽虫が、むげんと錯覚するほどに卵を産みつづけることができるのは、何より死が近いからである。淘汰と絶滅の寸前で見つけた、交配の理法……崖っぷちの洞窟や、こごえる雪山の洞窟で皮フをこすりつけあう、人間の雄と雌……雄と々……雌と々……有愛と無有愛をしりぞけるほどの、欲愛の渇望……滅諦の通路も、八正道への標べもとざされる……。
 娘が、一輪の襦袢をまくりあげた。自分の手が、股のあいだに、伸びていった。



「ムラサ……」
「ナズーリン? どうしたの」
「ここで何をしているんだ」
「何って、べつにおかしくはないでしょう? 私の部屋は一輪のとなりなんだから」

 誰かの話し声で目がさめた。

「へえ……ところで、一輪の部屋に置いていた、鼠が帰ってこないんだがね……何か知らないか」
「さあ。私、不潔な生きものには興味がないからねえ……」
「とぼけるのは已めろ!」

 どうやら室の外、戸の向こうでは、娘とナズーリンが言いあらそっているらしい。一輪はあわてて襦袢を探した。裸だったのである。襦袢は布団のとなりに、きれいにたたまれていた。
 ふたりの悶着に耳をそばだてながらも、襦袢に包まれていった。

「ハハハハ……」
「なんだ……何がおかしい?」
「あんた昨日、雑木林で私たちのことを見ていたんじゃない。分からないと思った? ずいぶんと、見はからったような感じでさ」
「この―――
「あんた、一輪を餌にしたんだね。で、聖は? なんて言ってた? 私は破門になるの? ……ならないだろうね。なんせ聖は甘いから」
「黙れ! 鼠たちはどうした、一輪に何をしていたんだ!」
「しい……一輪が起きるよ。何をしていたって……なんであんたに、そんなことを言わなけりゃならないのさ……産まれながらの妖怪には、しょせん何も理解できないのに」
「何って……何が」
「人間のこと……」

 戸の向こうで、乾いた音が鳴りひびいた。おそらく引っぱたいた音だろう。ナズーリンの興奮した吐息が聞こえた。

「……鼠は、私が喰らってしまったわ」
「そうか……そうだと思っていた」
「あんたの負けよ。どこかに行って」

 すこし経ってから、足音が聞こえた。

「鼠に食べられた襦袢、あんたが弁償してよね!」
「知るもんか!」
「ハハハハ、ハハハハ……」

 室の外の気配が減った。
 さきほどから、ふともものあいだがかゆかった。水分が、ぺりぺりに乾いて、うとましい刺激になっている。手で引っかきそうになったが、踏みとどまる。娘との行為を認めてしまうようで、癪だった。

「あーらーほーのーさんーのーさア。いーやーほーえんやア。ぎイ、ぎイ」

 娘が唄をかなではじめた。それがまたいかにも上手で、よけいに腹が立つ。
 立ちあがって戸をひらいた。外に面した廊下に座っている、黒い小袖を着た娘。機嫌のよさそうな唄が、ぴたりと終った。彼女は振りかえった。

「おはよう」 何ごともなかったかのように、湿っぽい声で。

 怒ってはならない。それではムラサの思う壺なのだ……戸のかたわらに立ちつくしたまま、沈黙を保った。

「どう、よかった? 夢中だったねえ」
「させたんでしょう?」 拳をにぎりしめてしまう。
「したくなきゃ、しなければよかった。私を受けいれたくなければ、受けいれなければよかった」

 なんて言いぐさだ。仕事のさなかに発見された盗人でも、まだましな言いわけをするだろう。ひらきなおりもはなはだしい。それとも、ひらきなおりではなく、とうぜんのことを言ったとでも思っているのだろうか?
じっさい娘のひとみには、なんの罪悪感も宿っていない。鹿の心臓を抜きとったときと、同じように……子供がいたずらに掘った、落とし穴……馬鹿な老人が引っかかり、姿勢をくずされ頭を打ち、とたんに内出血……そのころ子供は何も知らずに、家で昼寝をしている……目がさめぬかぎり、罪の意識をいだくことはない……。

「座って、一輪」

 娘が自分のとなりを催促した。躊躇はしたものの、いまはそれに従ってやる。むろん、微妙な距離は保っておく。
 天はすでに幕をあげていた。夜とくらべて、すがすがしいほどの快晴だった。

「ねえ、安心して。幽霊から切りはなされた一部は、霧になって消えてしまう。あんたは私を消化したりはしてないよ」
「……何が望みなの」
「あんたが好きなの」
「それで、何? 私をたぶらかそうっての?」
「たぶらかす! その言いかたはおもしろい。そう、私はあんたをたぶらかそうとしている。あんたを“もの”にしたいの」
「不埒なやつ。ひとを、犯したくせに」
「犯してない。あんたがひとりで何しただけでしょう」
「だから、させたんでしょう! あんなの、わたしの手をつかんで、無理やり何させるのと同じだわ……」
「死の気配ってのは、いかにも発情を呼ぶでしょう? 死にぎわでは、性欲ってやつが最強になる……あんたのような、死にたがりはとくにね……」
「死にたがり? 馬鹿なことを……」
「とぼけないで。分かるんだから、目を見れば。ここに来たとき、あんたはたしかに死にたがっていた。同じ喪失者のことは、見え々えなんだから」
「もう、死にたがりじゃ、ない……聖さまが、救ってくれた……」
「でも、かんたんに発病した」
「この、不細工……」
「ふん」

 娘が不意に、自分の手の甲を見た。百足がちくちくと、彼女を咬んでいた。彼女はいまいましそうに、それをつかんで、足を一本々々、ていねいに引きぬきはじめた。毛をむしるように。百足がもだえた。もし発生器官があれば、絶叫していたにちがいない。しかしむかでにできるのは、けいれんしながら娘に咬みつき、よわよわしい抵抗をするくらいだった。

「毘沙門天さまの、化身なのに……」
「なら、止めれば」

 つまらなそうに、右側の足をすべて引きぬいたあと。流れ作業で、左側に取りかかる。

「殺すことは、いつもむなしい。一輪も、けものを狩ったことがあるんだよね。まあ、それはどうでもいいの。それをたのしもうと、たのしむまいと、痛ぶろうと、痛ぶるまいと、つねにむなしい。私は人間を殺しつづけて分かったよ。死の共有も、えにしを結めなければ意味がない。
「私は一輪を殺したいんじゃない。あんたに、私のために死んでほしいんだ、みずから地獄に落ちてほしいんだ。どうせ私に、まともな来世はこない……せめて、道づれがいなけりゃ我慢ならない……私のために、命を粗末にしてくれるひと……私を求めてくれるひと……」
「そのために、私をとりこにしようっての……」

 すべての足を引きぬかれても、百足はいまだに生きていた。娘はそれを足もとに落として、踏みつぶした。足をずらすと、百足はまだ生きていた。彼女はほとんど重みがないので、強く圧迫しなければ、虫さえ殺せなかったのである。
 足を失ったむかでは、どうなるのだろう……これからどうやって、生きてゆくのだろう?……不意に、なりきんのなかには、片輪を始末せずにかわいがる者がいると謂う、信憑性の薄いうわさを思いだしていた。

「殺すのは、飽きた。失った何かを求めつづけるのも、もう飽き々だ。今度は私が、求められる側に変わるんだ」

< ここから時間を飛んで、より悲喜劇が深まる場所へ進んでみよう。凶行の原因を見つけるには、それでじゅうぶんだ。それに部下のかつての友であるとしても、たったひとりにそこまで時間をさいてやる余裕はない。裁きを待っている者がいる。いくら裁いても、裁ききれないほどなのだ >




[報告書  報告者/小野塚小町]

搬送名簿

×××× ×××× ×××× ××××
×××× 雲居一輪 ×××× ××××
×××× ×××× 村紗水蜜【仮名】  
×××× ×××× ×××× ××××

映姫、隠岐の舟唄を知っていますか?



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