第三章 前 比較解剖者
死後硬直のように、こわばった時間が過ぎてゆく……すべての荒野は々々……あらゆるの天井は々々……さながらの岩は々……。
「一輪。もう、じゅうぶんよ……」
水蜜は泣きながらも、懇願するように、口もとにある女の首から顔をよける。
しかし、まだ血を与えたりないのか、なまの鶏肉のように頬を紅潮させながら、女は首を水蜜の肩に擦りつけている。
女は喉を切りさいたせいか、声をだせないながらも身をよじり、何かをうったえる。それに応えるように、娘は彼女のくちびるに、噛みついてやる。歯をがちがちと打ちならしながら、ねばつく蛭をねじりいれあい、うねらせ、半裸で互いの皮フを擦りつける。
女はいつも、みずからに言いきかせる。この行為に、けっしてまじわりえぬ肉と霊の差を感じながらも、それゆえにこれは人間がおこなうような尋常の性交よりも、はるかにすぐれた融合であるのだと。それは、肉のゆびと半端な温度の通路でしか魂の触れあいを表現できない連中とは、まるでちがうものだ。もし人界に戻れるのなら、喉の筋肉をひときわ蠕動させて叫びたい。皮フと々フの摩擦で、全身を溶岩にする理法と謂うものを。
しかし狂ったような倒錯も、いつしか萎える。尋常であろうとなかろうと、行為の終りには、けっきょくあの贅肉がしぼんでしまうような倦怠感があり、そのあとにはつねのように、罪悪感がつきまとう。兎の絶えまない発情だろうと、限度を超えれば腰を振らなくなるものである。
げんに接吻が終ると、女の頬は砂丘のように乾いていた。劣情に掻きみだされていた天秤の両側に、枯れ木のような秩序と、望んでもいない安定がのしかかり、揺れを統制し、平行に広げた腕となる。
喉が修繕されてゆく。
「こんなことを」 女がいまにも折れかけた、材木のようなきしみ声で 「いつまで続ければいいの?」
「あんたが、飲ませるからでしょう?」
「でも……」
「飲まなければ、私が消えてしまう?」
それが飲血をしいることの、尤もらしい女の言いわけであると、水蜜は知っているのだ。じっさい彼女のひとみは、湿っぽい非難で濡れている。
それでも、ほかに方法もないのだから、しかたないじゃないの……瀉血の愉悦をはんぷくするために、血を飲ませていることは事実だが、水蜜が血を飲まなければ消えてしまうこともまた事実なのだ。それだけが依存しあうことを、尤もらしく正当化しているはずなのだ。
「鬼が……」 水蜜が急に持ちだした言葉で、女はろうばいしてしまう 「減っているらしいね?」
「だから、何?」
「血の池が開放されても、あんたは血を飲ませるの?」
「あんたはどうしてほしいの」
「あんたの好きにすればいいわ」
「責めてるの」
「どうかなあ」
「責めてるのね」
「ねえ、好きよ」
「已めてよ! もとより、あんたがわるいんでしょう? わたしに罪を押しつけないで! あんたがわたしを犯したりするから……」
「でも、いまはあんたが犯している。私よりも、ずっと長く」
「血を飲ませているだけよ!」
そんなふうに声をあらげることで、女の反発は説得力を失ってしまう。救済ではなく、自分の嗜好のために飲血を強制しているのだと、いやでも自覚してしまうのだ。
死後硬直のように、こわばった時間が過ぎてゆく……すべての荒野は々々……あらゆるの天井は々々……さながらの岩は々……。化生してから、女の知らぬ間に、六百六十六年が過ぎていた。そのあいだに継続されつづけた、血のまじわり……飽きずに燃えあがり、冷めてゆく、そしてまた燃えあがる……糊と糸でつぎはぎにした、恋の蘇生……。
娘の告発に耐えきれず、いそいで小袖を着なおし、瓢箪を手にして倉を出た。
そのあと女は、いつものように飲んだくれていた。
甲板から眺める荒野は、落日の風景と同じである。錆びすぎて、もはやこれ以上は錆びきれぬ金属のように、もとより死にきった土地では、なんの変化もありはしない。
不意に××の飛ぶすがたを捉えた。彼女はつねのように半裸で、垂れた乳房を揺らしていた。やがて女のとなりに降りたった。
「ひさしいねえ」
「もう会わないかと思ってた」
「まさか、挨拶くらいはするよ」
「何か用なの」
そう聞かれると、××は喜びをにじませ、にやけはじめた。風に乗った花弁さながらに、そわそわとしている。
「そうなんだよ、聞いてくれ。ついにね、ついにね、死神になるんだよ」
「本当に?」
「ああ、ようやくさ! この土壇場で、申請が通ったんだよ。本当に……嬉しい! ハハハハ、夢を持つものだねえ。
「でもそれだけじゃない。さらに嬉しいことがあったのさ。これを見て」
××はにぎっていた一枚の瓦版を、女の眼前へ突きだした。
「何よこれ」
「まえに配られたろう」
「××。わたしはもう、辞めたの」
「ああ、そうだった……ごめん、興奮してるんだ。まあ、見とくれよ」
新地獄への、亡者の移送は……
人界への通路、幻想郷へ……
ヘカーティア・ラピスラズリ、最後の視察へ……
「下だ、下!」
幻想郷の閻魔として、四季映姫が指名を……
「誰よ、四季映姫って」
「あのひとだよ! 何度も話したろう? 私が尊敬していた死神さ……閻魔になるんだよ」 ××は両手を広げて 「そして私こそが、その空席に座るってわけだ!」
「よかったじゃない」
女は、気のないふうにつぶやいてしまう。
「なんだい、つめたいね……」
「わたしには、なんの関係もありゃしない」
「でも、友達じゃない?」
「そんなことは、口にだして聞くことじゃないわ」
「…………」
「いまのは、駄目ね。ごめん」
「いや、こちらこそ……浮かれてたね。あんたはここから出られないのに」
「ごめん。ちょっとね、気が立ってるの」
「ムラサに血を飲ませていたのかい?」
女は目を伏せて、うなずいた。
「そんな顔してくれるなよ。そうしなければ、あの幽霊は駄目になるんだ」
「血を飲ませるのは、水蜜のためじゃない。私がたのしいから、きもちがいいから」
「それでも結果として、ムラサは正気を保っていられる」
「詭弁だわ。それに偽善よ」
ふたりはそのまま、微妙な空気を吸いこんで、街を眺めながら黙りこくってしまう。
街を照らす鬼火の光が、以前よりもちびていた。
「うう……」 とうとつに、××がうつむいて、目から涙をこぼしながら 「こんな場所でも、私の郷だったんだなあ」
どうやら急に、愛郷の念が湧いてきたらしい。地底に産まれ、死者のために生きた××には、むろんこの土地への愛着があるのだろう。
「一輪。死神になれるのは嬉しいけど、それでもこわいよ……」
「ふん? 願いが、叶ったんでしょう」
「これを見て」
××は涙を拭いて、掌を見せつけてきた。なぜか硬質な彼女の掌は、ひびだらけになっていた。
「転生の儀式をしているんだ。ゆっくりと……私の躰はほろびてしまう、魂を残して」
「でも、新しい躰が手にはいるんでしょう?」
「躰じゃない。私が怖れるのは、こころざしのことだ!」 興奮して、いまにも突きさすような形相で 「転生するってのは、魂を洗いながすってことだよ。私のこれまでを、すべて失う。それなのに、本当に死神になる意味があるのかなあ?
「だって、そうじゃないか。死神への憧れも、死者への尊敬も、いまの魂で生きてきたから存在しているんじゃないか……魂を禊がれた私に、それが残っているかどうか、分からない……それがこわいんだ。それだけなんだ、それが私のすべてなんだ、私はその生きかたしか知らないんだよ」
考えてみれば、何も××ような思想があるかはべつとして、多くの鬼が岩のたもとへの定住を、受けいれていたわけなのだ。脱出に思いを馳せることもなく、たんたんと死者を痛ぶる、獄吏の生活……いったい、何が鬼の反抗を押さえつけていたのだろう……妖怪には郷などないと思っていた。しかし、げんに地獄の鬼は閉鎖されたこの空間だけしか知らず、それこそまさに人間で謂うところの村だった。郷と謂うのは、妖怪さえも縛りつけてしまうほどのものなのか?
「そんなことを言われても、私には分からない。あんたのように、いまの自分に誇りがあるわけじゃない。できることなら、産まれかわりたいくらいなのに。そうすれば、出られるかもしれないしね」
以前は脱出のために、むなしい抵抗をつづけていたことを思いだす。あれだけ定着を恐れていたのに、いまはこうしてかんぺきなまでに、地に根を張ってしまっている。しかし、それもとうぜんなのかもしれない。叶わない抵抗をいつまでも続けることなど、できはしない。死体が腐るのと同じくらいに、不可逆なことなのだ。
「いつか」 ××が、煤のような、哀れみの視線を向けながら 「いつか、出られるよ」
「本当にそう思ってくれているの?」
「それは……言わないでおくよ。私は嘘がきらいだから。ただ、あんたに報われてほしいと思う。そうでなけりゃ、仏のいる意味がない」
「仏だって? 何が仏よ。馬鹿々々しい」
「おまえは仏を信じているんだろう」
「いまは、已めたの」
「なぜ?」
「一度も助けてくれはしなかった。信じなくなるには、それでじゅうぶん」
「しかし、人間が仏を信じるのは、見かえりを求めるからじゃない、生きる土台になるからだろう?」
「仏を生きる土台にできるのは、しょせん余裕が残っているあいだでしかない」 女は××と視線を交わす。彼女のひとみは、痩せた肉食獣のようだった 「わたしは仏なんて信じていなかった。それでも仏道をあゆんだのは、ただ……新しい家に住むために、そうすることが必要だったから、師に好かれたかったから。そうでなけりゃ、どうして妖怪になることを止めてくれなかった仏なんぞに、こうべを垂れなけりゃならないのさ。帰依してなんていないかった……いや、私にかぎったことじゃない。命蓮寺の妖怪たちが帰依していたのは、仏じゃない。聖さまだった。いまに、それが分かってしまったの」
「そうかい、残念だね。おまえに念仏のひとつでも、唱えてもらいたかったんだがねえ」
「念仏? 友達でも死んだの」
「私のためさ」
「そう、ごめん……念仏は、忘れた」
念仏にはかぎらない。女はかつて得たことの多くを、長い時間の底に沈めてしまっていたのである。怖ろしいことに、白蓮の顔すらほとんど思いだせなかったのだ。ただ、彼女を尊敬していたと謂う事実だけが、泥に沈殿せずに、あいまいなかたちを残している。
女がぽつりと言ったあと、また枯れた沈黙が場を支配した。そして、しばらく経って 「なあ、また会おうよ。友達なんだ。今度はいつか、おまえたちが死ぬ日がくる。そうしたら私が死神として、きっと閻魔のところに送りとどけるよ。曼珠沙華と同じ色の髪の死神に、よろしく」 ××が独りごとのようにつぶやいた。会話はそこでとぎれてしまい、彼女は去った。
もう二度と会うことはない。生きているあいだならば。
荒野にこそないものの、街には変化のきざしがあった。近ごろ地獄は人界の人口増加の影響か、経営難に陥っているらしく、そのため改革にとかく熱をあげていた。改革と表現すれば聞こえはよいが、つまり現在の地獄を放棄して、あらたな地獄を創るのだ。
そして最近になって新地獄がようやく稼働しはじめたらしく、大勢の地獄の鬼たちがそちらに移動しているようだった。それはかまわない。ただ、胸がむかつくこともあった。ここが放棄されても、けっきょく人界への通路がひらかぬことである。捨ておく怨霊たちを人界へ逃がさぬためらしい。持てあましているのだろう。
そして女も、ほかの妖怪たちも、ここに取りのこされる。成長もせず、風化もせず、古い地獄で、われわれは絶えず生きつづける。置きざりのまま。
地獄の鬼たちが減るにつれて、治安はわるくなる一方だった。そうなって分かったことであるが、ひとつの種族による統治は、あんがい風紀のみだれを抑えてくれるものらしい。
じっさいそんな秩序があった地底は、意外と住みごこちのわるいところではなかったのである。ここには喪失さえ露見しなければ女をしいたげる者などいなかったし、土地のほうでも、彼女を迫害しなかった。しかし、それは彼女にとって許容しがたい事実だった。
女はいくら迫害されようと、それでも人界のへりに喰らいついて生きのびて、そんな努力の甲斐もあってか、いつしか命蓮寺にたどりついたわけだった。それなのに、人間に封印された場所が、むしろ以前よりも安心できる場所だとは、いったいどう謂う了見なのだろう? むかしの努力が、すべて無駄になってしまうじゃないか。こんなことなら最初から、地獄の妖怪としてここに誕生するべきではなかったのかと、自分の出生をいまいましくも思ったりする。
産まれる土地をまちがえた者が……そこかしこにいる。いや、そこかしこどころではない。少なくとも“思いこみ”の面ではすべての生命がそうなのかもしれず、それゆえにとなりの芝を妬み、隣人の妻を羨むわけなのだ。そんな不満の解消のために、ばらばらになった宝石をほかの土地から掻きあつめて、不細工な真珠ができあがることを理解しているはずなのに、躍起になって溶接を施してみたりする。詩人の詩を模倣してみたりする……妖怪に化生すれば、力がわたしを救ってくれるのだと、信じてみたりする……。
さて、女は相も変わらず酒で喉を悦ばせていた。酒が万病に効く薬と呼ばれるのもよく分かる。これは暇をつぶすには丁度よい。とくに時間と呼ばれる毒さえも、この液体がもたらす陶酔には適わないらしい。
いつものように路地へ座って、わずかな友と酒を飲みかわす。
「鵺さん。瓢箪、返してくださいよ」
「もうすこしいいじゃない」
「ふたりして、よくそんなに飲めるわね……」
「何よパルスィ、もうへばってるの」 と封獣ぬえが言った。
「私はそこまで、強くないですから」
「よくないね、よくない。妖怪のくせして、そんなに軟弱とはねえ」
ぬえが女の瓢箪を、水橋パルスィの口もとに突きだした。
「いえ……私は……けっこう」
「遠慮しないで?」
「してません」
「遠慮しないで!」
「してません!」
ぬえがパルスィの口に、瓢箪のさきを押しこんでやる。女は愉快そうに、けらけらと笑って腹をかかえた。
酒と薬に混ぜあわせれば、一瞬くらいは、苦悩もどこかに消えてくれる。こう謂うとき、女は娘のことを忘れられたし、おまえの影もどこかに去ってしまうのだ。
しかしそんなことをせずとも、最近のおまえはどうも静かだった。静かどころではない。まるで最初から存在していなかったように、なんの鼓動も発しないのだ。そうなったのは、たしか娘へ血を与えるようになってからだった。もしかすると、血に魂が宿ると謂うわたしの理念は、あんがい正しかったのだろうか?
おまえが人間だったのだとすると、わたしが一般に魂と呼ばれる物に固執していたのも、つまりは人間で在りたかったからなのだ。
だが、おまえに魂とつながりがあったのか、じっさいは不明瞭なままだった。それに血から流れだしてしまったかどうかなど、最初からたしかめる手段もないわけだ。
十秒ほど飲ませたところで、瓢箪はからになり、ぬえはようやくパルスィの口を開放してやった。
「うう……うう……」
「飲めるじゃない」
「うう……駄目……吐く! もう、吐く……本当に吐く」
「ハハハハ、ハハハハ」
パルスィが、頭をふらつかせて、そのあと地面に倒れこむ。鬼さながらの赤い顔になり、ぶつぶつとあいまいな文句を言いながら、目を回している。
「この、酔っぱらいども……」
「酔っぱらいだって? アハハハ、最高じゃない。生きることをたのしみたいのなら酔っぱらってしまえ! いや、生きることをたのしむ者を、人も妖怪も酔っぱらいと呼んでいるんじゃないの」 と言って、ぬえは瓢箪を女に返す。
「ちょっと、もう残ってないじゃない!」
女は瓢箪を振りながら、どなりつけた。
「また買えばいいよ」
「かんたんに言わないでくださいよ。最近、酒は高いんですから」
「鬼の酒なんてそうねえ」
「そうですよ。しかも酒を作ってたやつは、みんな新地獄に持ってかれて……」
「ハハハハ、おまえは酒を作ることをおぼえておくべきだったね。そうすれば、いっしょに外へ連れていってくれたかもしれない」
「外ったって、どうせ同じ地獄ですよ。新しいか、古いか。それしかちがわない」
「まあね……ねえ、阿片は要る?」
「要りませんよ……それより、ほおずきはないんですか? もう、すべて飲んでしまって」
「私、ほおずきはきらいだな……持ってないよ。ヤマメに頼むんだね」
「はあ……じゃあ、阿片でいいです」
「やっぱり欲しいんじゃない」
「消去法ですよ。ほおずきがないなら、我慢です」
雑踏のほうに目を向けていると、ぐうぜん雲山が通りかかるのが見えた。視線と謂うやつに物理的な力があるとは思えないが、彼は女の視線に気づき、路地を向いた。
ふたりはしばらく見つめあう。女は思わず、さえぎるように右手をかざす。すると彼はずるずると引きずられるように、こちらとは反対の方角へ遠のいてしまう。彼は何かをうったえるように、こちらへ掌を突きだしていたが、やがてそれも見えなくなった。
「もったいない」
「何がです」
「あんな、いい男をさ」
「いい男だからこそ、わたしなんぞから、離れなけりゃならないんです」
もうずいぶん、雲山と疎遠になってしまっている。むろん彼が女を見はなしたわけではない。彼女のほうが一方的に、彼を遠ざけているだけだった。
ただ、雲山のほうではそう考えていないらしく、いまだ女に手を差しのべようとしてくれている。彼女がそれを拒否するのは、彼のとなりに不相応だとみずからを嫌悪するからである。
彼を近づけなくさせるのは、あんがい楽だった。女は入道をあやつれるので、それを応用して彼を遠ざけることもできるのだ。そんなふうに、せっかく得た力を使いたくはなかったが…… 「ふん、面倒なやつ」 ぬえが言った。
女は瓢箪をほうりすて、パルスィのとなりに寝ころんだ。そして娘のことを、まぶたのうらで空想したりする。
もし……そう。もし、わたしたちが妖怪ではなかったら……人間として……それに同一の性を考慮しないとしても……尋常な関係を望めたのろうか? 望めたのかもしれない。だが、考えてみると化生しなければ、まず水蜜と会うことすらなかったことになる……互いに聖さまと謂う、ひとつの希望の線をつかみとり、それゆえ邂逅するに到ったのだ。ただ、残酷な命題として顔を覗かせるのは、片方が化生し、もう片方は死んでいなければ、もはや邂逅はありえなかったと謂う事実だ……そして、そんな命と死のちがいでもなければ、互いにここまで求めあうこともなかったはずだ……いまに理解しているんだ。何も血の問題だけではない。ここまで狂ったように求めあうことができているのは……失った人間と呼ばれる観念を、互いの中身から掘りおこそうとしているからではなかったか。そんなことが無益であると、つねに頭の隅では分かっていたくせに……。
ふと、路地のさらに奥から悲鳴が漏れた。争っているのか、うなるような暴言がこそこそとひびいていた。べつに興味も湧かないので、女はそのまま寝そべっていたが、暇を持てあましていたぬえに引っぱられて、気が進まないながらもついていった。
声は向こうのかどに近づくと、だんだんと大きくなっていった。
ぬえは立ったまま、女はしゃがみ、かどから顔だけを覗かせた。
痩せほそった、いかにも貧弱そうな妖怪が、さらに貧弱そうな小娘を押さえつけていた。
「已めてください……々めてください……」
小娘は懇願していた。それに興奮したのか、妖怪はいきみあがった芯のようなつらになる。小袖の襟に手をかけて、ゆっくりと脱がせることを、たのしんでいるらしい。
貧者が々々を痛ぶる光景は、どこにでもある。富者が貧者よりも心の根が腐っているなどと、しょせんは妬みから編みだされた物語のなかだけでしかない。じっさいは余裕のない者ほど、他をくるしめたがるのだ。
むろん富者でも他を痛ぶりはするが、貧者とはまったく事情がべつだ。富者はただ、たのしむために。貧者はただ、日常の不満を他にぶつけて解消するために。
どちらも悪辣であることに変わりはないが、みじめさでは貧者がまさっているにちがいない。
とつぜん、不愉快になり、吹きぬけを通ったように、酔いがさめた。いまにも強姦されようとしている小娘が、娘にかさなったのである。さらには彼女を犯そうとする妖怪の動作が、いかにも飲血をしいる自分の鏡だったのだ。
「待て、何をする……」
つい動きだそうとしていた肩を、ぬえに引っつかまれる。
「助けるんです」
「やさしいことで……でも、あのがきをよく見てみなよ。あれは覚リ妖怪よ」
「覚リ?」
そろそろ、小娘が小袖を脱がされないように、躰をまるめて泣きさけびながら、必死の抵抗。しかし、あまりに非力でいつまで続くかも分からない。
「あれを見な」 ぬえが、かどから手を覗かせて、小娘のほうにちらりとゆびを向けた 「あのひとみだ、よく見なよ」 どうやら小娘から伸びている、植物の蔦さながらの糸や、それにつながれた奇妙な球体のことを指しているらしい……あれがなんだと言うのだろう?
「あれは覚リのひとみだよ。心を読むひとみ、覗き魔のひとみ。それが何より、覚リって証拠なのよ」
「だから、なんです?」
「覚リなんてほうっときな、と言ってるんだ……いまいましい。覚リなんてのは、痛ぶられているのが丁度なのよ」
こんな態度も、ぬえにかぎったはなしではないだろう。覚リ妖怪のごときは、大抵の者からきらわれている。心中を害するからである。
人間も妖怪もひたかくしている領域に、覚リは容易にはいりこんでくる。きらわれ者のなかのきらわれ者としてあつかわれるには、それでじゅうぶんだ。
「助ける」
しかし、そんなことを聞かされても、女は頑固だった。もちろん彼女はそれが純粋な善意ではなく、自己の嫌悪に集約された憤怒であると理解していた。それでも、助けたいのだから救うのだ。それを誰が止められよう。
「そう? まあ、勝手にしな」
呆れたように言いすてたあと、ぬえはパルスィをかついで去っていった。ちらりと女を一瞥してから、雑踏のなかに消えていった。
呆れたければ、どうぞ勝手に……妖怪なんぞは、けっきょくどいつもこいつも冷淡なんだ……べつに期待はしていないさ……ほら、機会を窺え……向こうはこちらに気づいていない……ちくしょう、腐った表情をしてやがる……水蜜に血を飲ませるわたしも、あんなふうなのだろうか……少なくとも、強姦する側だったころのあんたは、あんな顔でわたしを遊んでいたものだった……きっと、あれが強姦者に共通する顔筋のしなりなんだ……。
妖怪が、小袖を脱ごうと帯をつかんだ。女は好機を見つけだす……さあ、殴りぬけ。
動きだしてからは、すみやかだった。油断してしている妖怪は、飛びかかった女の拳を顎に受けいれ、昏倒してしまう。思ったよりもかんたんだった。べつに抵抗されたところで、負けることなどなかったが。
ひからびた魚のようにのびている妖怪を、女は何度も蹴りつける。攻撃を続けることこそ、真にいかりを助長する理法なのだ。
。
「この下衆め! どうした、声も出ないの? 雄のくせに立って、なんとか言ったらどうなんだ! 親の顔が、見てみたいわ! ……」
女のひたいから、汗が散った。うしろめたい鏡が踏みつぶされ、油に溶かされ、かたちをなくす。ぐりぐりと、妖怪の腹に、草履を押しつけてやる。
「あの……あの……」
「何! ……ああ」
熱中のさなかに、誰かが話しかけてきた。小娘だった。興奮のあまりに、彼女のことを一瞬だけ忘れてしまったようである。
小娘が、草食動物さながらの怯えた表情で 「もう、死んでます……」 ゆびを指して、指摘する。
確認すると、なるほどたしかに死んでいた。ぴくりともしない妖怪は、なぜかひらべったく見えていた。
女は急に、いきどおりが冷めて脱力してしまう。
「しまった? ああ、これはもう、しまってる……うう……しまったわ……これは、なんて。もう、立たない? しまったな……」
そんなふうにうなって、言葉にならないつぶやきを噛みながら、殺してしまったことをひどく後悔してみたりする。しかし、それはべつに罪悪感ではなかった。たんに保身のためである。わずかな潔白が、日に々にけずられてゆくのは、どうにも我慢ならないのだ。そして何より、罪悪感が湧かないことこそ怖ろしい。それこそ落ちぶれた証拠として突きつけられた事実なのだ。
女は気が抜けて、はだけた小娘のとなりに座りこんだ。
「あの……」
「服……」
「はい?」
「服、着たら」
「は、はい。そうですよね。へ、へ……」
いそいそと、小娘は脱がされそうになっていた小袖を着はじめる。そのしぐさは、後悔をわずかに治療してくれた。いかにも明瞭な、善行の効能である。
「大丈夫だった?」
「は、はい……あの、あの……」
「何?」
「た、助けてくれて、ありがとうって……ご、ごめんなさい。私、々、吃りなんです……」
「吃り? そんなことだから襲われるのよ」
「ご、ご、ご、ごめんなさい……」
ぬえの忠告に、まったく無関心でいないわけではなかった。しかし、そんなこともやはり杞憂だったようである。
こいつのどこを、警戒する必要があるのだろう? まったく、鵺さんも意外と臆病だ……心を読めるからって、いまのように力で組みふせられりゃ、何もできないじゃないか。
「そうですけど……でも、でも、無力なのにきらわれるんですよ、心を読むのって……」
女は思考を当てられて、眉をひそめた。なんとなく、内蔵を撫でられたような心境だった。なるほど、たしかにあまり気分のよいことではない。だが、それ以上にべつだん困るほどのことでもないわけだ。それとも生来の妖怪にしか分からない、覚リへのかくべつな恐怖でもあるのだろうか?
「生来……あなた、人間だったの?」
また読まれて、すこしまごついてしまう。吃りに質問に答えてやろうか迷いながらも 「そうよ」 どうせ隠せもしないので、返事をしてやった。
「そうなの……え、えへ……ここに来てから、見たことなかった」
「日が浅いの? まあ、ここには日なんてないけどね」
「は、はい!このまえ、降りてきたんです。封印されて……」
「封印。自分で降りてきたんじゃないの?」
「まさか! こ、これでも人間には勝てるんですからね……」 妖怪の死体を、吃りは見すえながら 「これに負けていたのは、相性ですよ」
「相性だって?」
「読心のことですよ。覚リは相手の中身がふくざつなほど、強くなるんです。で、でも逆に、こいつみたいに頭がすかすかだと、勝てなくなってしまう。覚リがとくに人から怖れられるのは、そんな事情があるんですよ。妖怪は駄目ですね、やっぱり……人間よりも中身がないから……」
女は吃りの言っていることがよく飲みこめずに、適当な相づちを打って受けながしてみたりする。しかしそんなことをしても、すぐに看破するのが覚リのつねである。
「へ、へ……あまり、ちゃんと聞いてませんね」
「そうね」 と素直に言いかえす。
「そうですねえ……なぜ人間のほうがふくざつかって……そう。あ、あなた妖怪がどこから産まれるのか、知っていますか? 妖怪は、人間の子供なんですよ」
「まさか! そんなわけがない」
「本当ですよ。何も、物理的に産むことを言っているんじゃありません……枯れ尾花ですよ……枯れ尾花を、枯れ尾花だと信じないことが、妖怪を人間の心から産みだすんですよ」
馬鹿々々しい……それが本当だとすると、人間には産まれつき、夢をうつつに持ちだす力があると言っているようなものではなかろうか? 「だから、そう言っているんです。人間の、最も尊い実力ですよ」 ありえない……じっさい、そうじゃないか。人間だったわたしが、一度でも空想から何かを実現したことがあったろうか? 「それは、無意識の領域ですよ。意識して使う力じゃありません」 それが仮に事実だと考えてやるとしても、ならば自由に使わせてほしいものだ。そうすれば化生なんぞしなかったし、みじめな喪失者になることもなかったわけだ……。
「喪失者、ですって?」
急に吃りが、目を輝かせた。彼女につながれた奇妙な眼球も、まぶたを細めてこちらに喰らいつくような視線を向けていた。なぜか眼球のまぶたは、ひどく引っかいたような痕にまみれていた。何度も々々も同じ部分を再生すると、そんなふうに痕跡が残ることもあるらしい。たしか妖怪のあいだでは、形状記憶と呼ばれている現象だったはずである。げんに自傷癖とはちがえど、これまで何度も娘のために切りさいてきた女の首は、一直線のしるしがくっきりと残っているのだった。
「本当に、喪失者?」
「いや、わたしは……」
思っていたよりも、厄介だった。連想が々々を呼びたて、秘密が表面に露出する。考えまいと意識するほど、却って意識してしまい、いちばん知られたくもない弱みを吐きだしてしまうのだ。
「大丈夫ですよ!」 にがにがしい後悔を揉んでいると、吃りがあわてたように 「私はべつに喪失者だからって、きらったりはしませんよ……も、もちろん誰かに漏らしたりもしません……もったいない……いや、そうじゃなくて、私を助けてくれたんですからね、恩がありますからね……そ、そんなことより、私はいま、とても嬉しいんです。ここで喪失者に会えるなんて、思ってもいなかった」
女は吃りの雄弁に肝をつぶした。からかっているのだろうか……喪失者なんぞと、ふつうは誰もかかわりたがらないものである。それをこんなふうに驚喜するなんて……もしかすると、気でもちがっているのかな? ……。
「ち、ちがってなんていませんよ、心外です。私はただ、喪失者のほうが、中身がたくさん詰まってることを知ってるんです……覚リだけが、知ってるんです……」
「あのね―――
「ああ。犯されそうになったのは、不幸だったけど……今日はなんてことです、××一輪? これは、運命ってやつですよ。私、ここに来てから、すごく空腹なんですよ……人間がいないから……」
吃りの態度に、舌を焼いていた。
欺瞞と義憤に燃えて吃りを助けたはずが、いまさらのように後悔しはじめる。
気味がわるかったのだ。ただの哀れっぽい妖怪だと思ったら、急におかしな論法を際限もなくひけらかしてきやがる……奇妙な感じだ……こいつはどちらかと言うと、貧者の仲間ではなかったのか……。
「ねえ、私は用事があるから、もう行くわ……帰りは襲われないように、注意することね」
不安をまぎらわせようと、女は早く吃りの傍から離れようとする。考えてみれば、こいつとずっと話してやる義理はない。こいつを助けたのだって、ただ自分の不満を解消するためであって、善意からではなかったのだ。
いやな汗を感じながら、立ちあがった。
「血を飲ませるんですか?」
女は吃りの言葉に杭を打たれて、硬直しまう。
「恋びとに無理やり、血を飲ませているんですよね? 見ましたよ、読みましたよ。ね、ねえ。それは、どんな気分です? くるしい? それとも、たのしい?」
「あんた、なんだっての。そんなことは、何もあんたと関係ないじゃないの。ずけずけと失礼ね、若造の分際で……」
「あ、あ、あ、あの、私……古明地×××って言います。ねえ、お願いがあるんです。そ、その。血を、あなたの恋びとに飲ませるところを、見せて!」
「何?」
「お願いしますよう……もう、ずいぶん人間の心を見ていないの……私、々、まぶたをがりがりしなきゃ、くるしくて死にそうなの……」
「ちょっと! ぜんぜん、それは意味が分からない……」
「ねえ? 減るものじゃなし……」
ふざけるのもたいがいにしろ! あれはわたしと水蜜だけの情事なんだ。それをどうして、あんたなんぞに視姦されなけりゃならないんだ!
「いいんですか? 喪失者だって、言いふらしますよ」
「おい! 恩はどうしたの? さっきと言ってることがちがうじゃない……」
「へ、へ……あれはたんに、ほかのやつに知られると独占できないからですよ……ねえ、思うにこれは、無意識の運命ですよ。喪失者を餌にする私が、極上のあなたと会ってしまった……遅いんです、あなたにはわるいけど……こうなった以上、私に従うしかないんですよ」
女は歯を強く噛みあわせてから、吃りの襟をつかんで、躰を持ちあげた。動作はとても俊敏だった。彼女はとても軽く、かんたんにねじふせることもできるだろう。
いきどおって、蛇のまなこでにらんでやる。しかし吃りはにやついていて、女に怯えもしないのだ。
「立場が分かってないね……心を読めるから、なんだってのさ? しょせんは非力な小娘じゃない……私の腕を見ろ! これであんたの心臓を、死ぬまで何度でもつらぬけるんだ」
「うう……」
「どう……謝る気になった? 土下座して、口をつぐむと約束すれば、許してやってもいいわ。どうせ新参の言葉なんて、誰も信じないだろうけどね……私はあんたより、ずっと古参なんだから……」
「罪には……」
「何? ……」
「罪には、記念碑を建てるんです。望もうと、々むまいと、それは建つんです。だからこそ、人間は、覚リに勝てないんですよ。あなた、分裂していますね?」
「何を言ってるの……早く謝ったら―――
そこまで言った直後だった。女が急に力を抜いた。持ちあげていた吃りを離して、地面に倒れた。そして、げえげえと胃から酒を吐きだそうともがいてみたりする。
「想起してください、罪ってやつを」
そう、吃りの言うとおり、罪だった。女がかさねた罪のあらゆるだった。這いでれば、何度でも埋めなおしてきた、にごった結露の記憶……熔かした銅を飲まされるまいと、忘却のかなたへと、必死で逃げつづけてきた……化生への罪、破戒への罪、乞食への罪、娘への罪、そしておまえへの罪までも……さらには、もっとこまかな事象に至るまで。誰もが日常で意識しない、砂粒のような罪状までも、想起され、並べたてられた。
心が、一瞬の間にねじりきられて、つぶれた足の爪になった。
吃りがしゃがみ、女の髪をつかんで頭を引きあげ、無理やり視線を噛みあわせた。
「見せてくれますよね? ふたりのことを……」
「あ……」
そう言えば……水蜜と最初に会ったときも……こんな迂闊さで近づいたあげく……。
そう、これは相手が無害だと思ったら、いつの間にか首を噛まされそうになっていたと謂うような迂闊さだ。
「はい、はい……だから、いまのはもう、已めてください。案内しますから……」
「え、へ、へ、へ……そう、それでいいんです」
女がへつらうような表情で、犬さながらの返事をした。
屈服はみじめだった。しかしそれ以上に罪の想起はみ、じめで怖ろしいことである。
「開けないんですか?」
脅迫に負けて、吃りと聖輦船へ乗りこんだ女は、いまに倉の戸をひらけるところで、止まってしまう。
むろん吃りを娘のところに案内したいはずがないし、できることなら罪の想起や喪失の露呈を加味しても、彼女に抵抗したいものだったが、それも叶わぬことだった。
喪失の露見だけなら、まだ許容できるかもしれない。独りではない、娘はけっきょく何があっても自分の傍から離れることはできないのだと謂う、独善的な安心もある。しかし問題はあの罪の想起だ。
怖ろしい。あの暴力は、なんとしても耐えられない。それに、あれが吃りの力のすべてだとは確信できないのだ。じっさい、あの想起のあとはまだ言葉を発する余裕があった。
「一輪……」
女は肩をふるわせた。また罪の尖兵が、じりじりと影を踏もうとしのびよる音が聞こえてきたのだ。
已めてくれ! そんなことは、自覚しているんだ! 罪の重さなんぞは、他にんにわめかれなくったって、当にんがいちばん理解していることなんだ!
「開ける! 開けるから……」
気が乗らぬままに、戸をひらいた。倉はいつものように娘だけだった。彼女はべつに、栄養失調でくずれようとはしていなかったし、べつに過度な肉感を放っているわけでもなかった。血まみれでおこなう間接的な性交も、長く続けていれば、酌量もできるようになる。計量に失敗すれば、女は彼女にいきどおり、人間の悪臭を脱色しようとこころみる。
そんなことをすれば、娘よりもまず自分の尊厳に傷をつけるのだ。免疫不全でぷつぷつと浮きあがった、背中の湿疹……それを床にこすりつける、娘のうねり……首を締めあげる、自分の両手……。
それを避けるために、女は娘の躰とみずからの嗜好を知りつくしてきたし、それを可能とするために、成功と失敗を続けるだけの時間はじゅうぶんにあったわけである。
しかし長くつづけたこの関係のさなかでも、こんな事態は例外も々々なのだ。
考えるだけで鳥肌が立つ。尋常の性交をおこなえぬばかりに、代償として続けてきた飲血を、これから吃りなんぞに視姦されねばならぬのだ。
いったい吃りは、なんの目的でそんなことを頼むのだろう……覗き魔らしく、視姦でしか興奮できないとでも言いたいのか……まあ、そんな趣味があっても、べつに文句は言わない。だが、それに巻きこまれるこちらの不幸は考えもしないのか?
「水蜜……」
「一輪? くるのが早いんじゃない。まだ、血は要らないよ」
女は、娘の正面に移動したあと黙ってしまう。となりに立つ吃りのことを、どう説明すればよいのか分からないのだ。
「その……」
「何」
「こいつのことなんだけど……」
「こいつ? こいつって何よ」
娘の言葉に、女は動揺してしまう。
見えていない? ……まさか、こんな悪意の塊が、罪の意識で形成された、幻覚であるはずもないわけだ。
しかし娘は本当に吃りのことを認識していないようである。げんに視線は女に向かっていて、彼女のことなど知りもしない様子だった。
「無意識ですよ」 どもりが言って 「私は、ほかの覚リとはちがいますよ……人間であれ、妖怪であれ、心には無意識の領域があるんです。さっきの妖怪みたいな能なしは、逆につけこみづらいけど……」
あんたは、そこにはいりこめると謂うわけなのか?
「一輪、どうしたの?」
「そ、そうです……さあ、私のことは気にしないで。遠慮なく、血を飲ませるんです……」
「でも、まだ早い……」
「一輪?」
「そう、まだ早い。だからこそ、おもしろくなるんです……早く! 何を愚図々々しているの! ……です! また、罪を想起されたいの? 私は頼んでるんじゃない、命令してるのよ。いつものように、首を切ったらどうなんです!」
女は怯えくさって、尻を叩かれた馬のように、娘へ飛びついた。
「そうです! やれ、やれ!」
「ちょっと、何よ。本気なの? あんた、私の首を締めたくはないでしょう?」
「水蜜、頼むから……私を助けると思って……いつものように、飲んで……」
頭を万力でつかまれ、振りまわされるような混乱だった。
わけが分からない……獄吏がひとり、虜囚がふたり……獄吏が見えるのは、一方の夜目の効く虜囚だけであり……獄吏の罰を受けるのは、もう一方の盲の虜囚であり……だが、その獄吏の罰を代わりに決行するのは、夜目の効く虜囚であり……夜目の効く虜囚は、むろん獄吏の操縦する人形であり……盲の虜囚は、そんなことに無頓着であり……もし、この状況を図にすると、どれだけふくざつな線が引かれるのだろう?
女はけっきょく、なんの説明もできずに、ふところから小刀を取りだしてしまう。小刀は長い年月のさなかで錆びもせずに、はっきりと折れたまま、にぶい銀色の光を宿している。もしこれを捨てれば、すぐにでも生きた道具が誕生するにちがいない。それくらい、小刀は女の血を吸っているはずなのだ。
「ちがう!」
吃りの怒声が倉にひびいた。女は首を切ろうとはせず、手首から血を流そうとしたのである。
「それは駄目よ! いつものようにしてよ、再現してよ。ふたりの関係を!」
「でも、でも……」 女はついに耐えられず、泣きだしてしまう。
「一輪? どうしたの!」
「ちがうの、ちがうの、あんたじゃない。こいつが、こいつが……うう……」
「こいつ?」
女が抵抗しているあいだに、また想起の鞭が、忍びよってきた……みずからを際限もなく痛めつける、地獄の鬼……しかしそれこそかさねた生涯の標べでもあるのだ……已めてくれ、言うとおりにする! もう、じゅうぶんだ!
「底を見せて!」 吃りが狂ったようにわめきちらした。
猛禽類のひらめきさながらに、すばやく首を切りさいた。断面を娘の口に押しつけた。彼女のほうは、女の急な動きに肝をつぶして、最初はすこし抵抗のしぐさを見せていた。
「それよ! 村紗はなぜ、一輪の血をいやがるの? 大切なひとの血なんでしょう……待って……そう、良心なの? それに、分裂しているほうは……アハハハ……一輪、あなたも気がついていないわけではなかったのね……でも、それを超える熱狂がある……」
そして血を飲ませすぎれば、とうぜんのように娘は人間らしく変質してしまう。それを見ると女はやはり、取りのこされたような心境になって、義務に駆られて首を締め、殺しつづけねばならぬのだ。
「置いていかれたくないのね……それが一輪の、怖れることなのね……あなたは別離を克服しようとしているんだ! 分裂したほうのように、もう二度と失ってしまわないように!」
やがて、必要なぶんだけ首を締めあげると、女は糸を切られた人形のように、娘とふたり、ぐったりと疲労で動けなくなる。緊張による精神の磨耗が、深刻だったのだ。
そんなふたりの様子を見もせずに、吃りはひとりで狂喜している。
「見えた、心が見えた! これよ、これに飢えていたんだあ!」
吃りがはねっかえったように、倉を飛びだした。
そのあとも、女はしばらく動けなかった。ふさがれてゆく、首の肉のうごめきを感じながら、ただ思った。
よかった……これで、助かったのか……。
―――お姉ちゃん、ただいま。
―――こいし! ようやく帰った……いままでどこに行っていたの!
―――何? べつにいいでしょう、どこに行ったって。なんで私が、かびくさい家にいなけりゃならないのよ……うう、うう……お姉ちゃん、それより阿片はどこにあるの……。
―――…………。
―――お姉ちゃん!
―――(棚に……)
―――口で言って!
―――そこの棚よ。
―――(ああ、よかった……)
―――こいし、はなしがあるの。
―――うう……ああ、ああ……(何? どうせ、また地霊殿がどうとかって話しでしょう)
―――そうよ。
―――馬鹿々々しい……立場につけこまれて、怨霊を押しつけられようとしてるだけじゃないの。あの、幻想郷とか呼ばれる場所の閻魔だって、どこまで信用できるか分からない。
―――でも、地霊殿を手に入れられたら、裕福に暮らせるじゃない? もう、地獄でほかの妖怪におびやかされることもない。
―――裕福だって? 覚リがすやすやと、布団のなかで寝てなんになるの。人間じゃあるまいし。
―――…………。
―――裕福ってのは、つまり人間の心を喰いちらかすことじゃないの? お姉ちゃんだって、本性は残忍なのに、なんでそう消極的なのかなあ? 必要なぶんしか人間をたぶらかさない……不能者でもないのに! ……ねえ、そんなことより、聞いてよ!
―――何?
―――喪失者に会ったの! それも、ふたりよ!
―――なんですって?
―――ああ、本当にひさしぶり……それに、質もよかった。
―――こいし、べつに心をいくらこわしても、文句は言いません。でも、喪失者だけは已めておけって、何度も言っているでしょう! あれはたしかに格別だろうけど、毒でもあるんだから。
―――毒のある茸は、おいしいじゃない? 椎茸と一夜茸なら、妖怪は後者を選ぶに決まっている。そっちのほうが美味だし、食べたところで死にはしないんだから。
―――たしかに、死にはしない。でも“大抵”はよ。当たりどころがわるければ、死ぬこともある。
―――どうしてそう、心配するかなあ。私が喪失者で、中毒になるとでも?
―――あんた、何をあせってるのよ。
―――うるさい! うう……なんで、どいつもこいつも私のことをきらうのかなあ?
―――私たちが、心を読むからよ。
―――ちがう! 心を読むからきらわれるなんてのは、建てまえでしかないんだ! 分かってるはずよ。真の理由は、覚リなんぞが、どいつもこいつも性根が腐ってるからよ! それが、私たちの産まれもつ病気なんだ! 性病のほうがまだやさしい! そんなふうに、人間が覚リを想像したばかりに、私たちは自家中毒でくるしまなけりゃならないなんて!
―――正すことだってできるわ。
―――ひとのことを言えた義理じゃない。お姉ちゃんだって、人間を痛ぶるのが好きなのに……。
―――私は分別があるし、胃が破裂するまで食べたりはしない。何よりあんたのように、悪食じゃないの。
―――(ふん……)
―――それで、どうだったの。
―――(何が)
―――あんたが見つけた、ふたりのことよ。
―――ちょっと! あれは私のよ。
―――べつに要らないわ。
―――ふん、そうでしょうね。まあ、かんたん。いつものように、たぶらかしてやるだけよ。尤もふだんとちがうのは、片方が幽霊ってことね……。
―――幽霊?
―――そうよ。
―――どうせ何を言っても已めないだろうから、止めはしません。でも注意しなさいよ。幽霊なんてのは、皮フがないから心がむきだしで、生者よりよほど危険なんだから。
―――そんなことは、どうでもいい……ふたりの底を見るの、そうしないと……。
―――こいし?
―――お姉ちゃん。私、目がとじてしまいそうなの……ここには人間の心がない。ずっと、くるしいの……。
「ヤマメ、ヤマメ!」
土蜘蛛たちの住居で、女は叫んだ。
土蜘蛛は蜘蛛らしく、町の外の岩場に巣を張ったかと思えば、者によるとふつうに街のなかで暮らしていたりする。
いま土蜘蛛の住処と化した鬼の宿舎は、そこかしこに粘着質の糸が張りめぐらされており、なんとも歩きづらいものである。
こんなふうに乱雑な網を張っては、足を引っかけて転んでしまうのではなかろうか……。
土蜘蛛たちは室を行ったり来たりして、なぜかあわただしい。荷物をまとめているようで、まるで宿舎を出ていくとでも言いたげな動作である。
「ヤマメ!」 今度は同じ目的で女についてきたパルスィまでもが名前を呼んだ。
「はあい。聞こえてるよ、何度も呼ばないで」 と、抜けた天井から黒谷ヤマメが、逆さづりの姿勢で頭だけを覗かせている。
「ヤマメ」 とパルスィが疑問そうに 「なんなの? これは。ここを引きはらうつもりなの」
「そうさ、じん事だよ」 ヤマメが、こちらの床まで飛びおりてきた。短い毛だらけの巨大な躰にまぶされた埃を払うために、八本の足をくねらせ、器用に全身を叩きながら 「なんでも幻想郷ってところから鬼がいくらか降りてくるらしくてね、場所を提供するように頼まれたのさ、閻魔さまにね」
「鬼? 鬼は消えたじゃない、ほとんどが」 と、女。
「だから、人界の鬼さ。ああ、ここは住みごこちがよかったんだけどねえ。まったく厄介だ」
それが本当だとすると、また地底はにぎやかになりそうだ。だが、なぜ鬼がこの辺鄙な土地に降りてくるのだろう? まあ、べつに誰が降りてきたとしても気にするやつなどいないだろう。ただ同じ、はぐれ者がふえるだけのことである。
「そんなことより。ねえ、ほおずきが欲しいの」
「また?」
ヤマメが八目をしばたたいた。蜘蛛のひとみはくろぐろとした単色で、何を考えているのか見当もつかないものの、声はなんとなく呆れを表現しているようである。
「金は払うんだから」
「金じゃなくて、おまえの心配なんだけどねえ」
「べつに薬くらいで死んだりしないわ」
「健康にはよくないんじゃない?」
地底では、医家のように、薬を売って生計を立てる者がいる。むろん、それは良薬ばかりとはかぎらないが、とにかくヤマメはその範疇だった。力に由来しているのか、病気に詳しい彼女は薬にあかるいところもあるらしい。
べつにヤマメばかりではない。薬に詳しい者は病気や毒にも詳しく、逆に病気や毒に詳しい者は薬にも詳しい。そんな場合が多いらしいのだ。
阿片はもちろんとして、二番の人気はほおずきを煎じ、小さくまるめた鎮静剤まがいの丸薬だ。これはけっこう、破綻者や情緒がはちきれそうな者にとっては“よい薬”になる。げんに女はそれを飲むと、いつも安心して眠ることができるのだ。眠りの支配者も、場合によっては助けが必要なのである。
「健康? おかしなことを言うね、妖怪に健康なんて」
「まあ、たしかにそうだ。じっさい私は病気と薬には詳しいけど、じつは健康ってのがなんなのか、正直なところ分からない。医家なんてのも、大抵はそう思ってるだろうがね」
「ヤマメ、ヤマメ。私は阿片が欲しいわ」 黙って会話を聞いていたパルスィが、そろそろ業を煮やして、じれったい様子で。
女は、ヤマメに丸薬のはいった包みを貰い、すぐにひらいた。ふたつほど口に押しこんで、ゆっくりと飲みくだしてやる……じきに効果は表れるだろう…… 「ごめん、いまはないんだよ」 ……じん工の平静が、ばらばらにくだけそうな精神を、湿っぽく糊で貼りつけ、貧相になったうつろな模型を、つなぎなおしてくれる…… 「なぜ? まさか私にまで健康がどうのとか言うの」 ……百足が直立する、鹿は内蔵を洗っている、乞食がひからびている、娘は笑う、おまえが墓の底で静まりかえっている…… 「そうじゃないよ。最近、得意さきができてね。そいつが阿片を山のように買っていくのさ」 ……。
「得意ねえ。買いしめるなんて、そいつこそ不健康な中毒じゃないの? 言ってやったらどうなの」
「さあ? まあ、覚リなんぞは心が読めるばかりに心労が絶えないんじゃないかねえ」
「覚リ、々リだって?」 女が急に、会話へ飛びついた。
ぷっつりと、陶酔がさめた。包みが床に落とされた。
女は耳が浮遊しそうな真剣さで、言葉を聞きのがさぬとでも言いたげだ。
「ああ、ああ……覚リだよ、たしかに」
「詳しく教えて」
「何さ、急に……」
「ねえ」
「まあ、べつにかまわないがね。べつにそいつが飲んでいるわけじゃないらしい。なんでも妹がいて、それのために買っているんだとさ」
「妹? そいつ、容姿は? どんなやつだった」
「はあ。小顔で、背が低い……それで、菖蒲っぽい髪をした、神経の弱そうなやつさ」
「みどりじゃなくて?」
「ああ。何、知りあい? あれを顧客にしてる私が言うのもなんだけど、友達は選んだほうがいいよ」
「まさか……気になったから聞いただけよ」
急に、ねばつく唾液がしみだしてきた。女はなぜかひとみが揺れていて、いかにも不安そうである。
「もう行くわ」
包みを拾って、女は宿舎の出口に向かった。パルスィもそのあとへ追ってゆく。
「一輪!」 不意に、ヤマメが女を呼びとめ 「べつにいつでも売ってやるがね。あんた、量がふえてるだろう? 言っておくけど、あんたはまちがいなく病気だよ」
「病気?」 女が振りかえり、両手を広げて 「どう、元気に見えない?」
「病気さ。阿片やほおずきに頼るようなやつは、程度はともかく心の病気と相場が決まっているんだよ」
「それなら、ここの住にんのほとんどが病気ってことになるじゃない」
「そうさ。病にんのほうが多数だから、それに無頓着なだけ。比率の問題なんだ。ここでは正常なやつが異常なのさ。なんせ少数派ってのは、気ちがいとしてあつかわれる宿命だからね」
「あんた、飲んでたっけ?」
「私は……飲んでない」
「じゃあ、あんたは気ちがいってことなの」
「ク、ク、ク、ク! そうなあ、そうかもしれないね。アハハハ、ハハハハ……」
ヤマメはいま、まるっきり蜘蛛のすがたである。そんなことは、土蜘蛛であるからとうぜんのことだろうが、妖怪のなかにはこのんで人間の容姿を模倣する者が意外と多い。そしてそんな者ほど、じつは人間に執着する傾向があるらしいのだ。
のそのそと、宿舎から出ていった。
そのあとパルスィと街を歩くさなかで、女は耳をそばだてる。
人界であろうと地獄界であろうと、人間であろうと妖怪であろうと、大抵はうわさが好きなものである。
誰もが知る情報も、なんの信憑性もない風説も、空気の振動が送りとどけてくれるのだ。
そら……覚リなんぞは、注目を浴びると決まっている……澄まして、聞いてみるがいい……。
知っていますか、々っていますか……何がです? ……姉の覚リが最近、阿片を買いあさっているのです……だから流通が少ないのですね……なんでも妹が阿片の中毒らしいです……ホ、ホ、ホ、ホ。滑稽なはなしでありませんか……ええ、ええ……ホホホホ、ホホホホ……ゲレゲレ、ゲレゲレ。
吃りに同情する気は、むろんない。だが、いささか不憫と思ってやらぬこともなかった。こんな声を四六時中も聞かされて、心が腐りはしないのだろうか?
やはりヤマメの言った容姿との不一致から察するに、わたしの会ってしまった覚リのほうは、どうやら阿片中毒の狂じんだったわけだろう。
思いかえせば、なるほどそれも納得できる。吃りの言動は、あきらかに異常な一面もあった。とくに、わたしたちが行為するのを見せろと脅迫したあの姿勢は、それこそ異常の証明ではなかったか……すると、あれにたいした画策はなく、たんに暴風……突発的な災害にも似た経験だったと安心しても疑問はなさそうだ。
じっさい吃りのことをあれ以来、一度も見たことはなかったのだ。それもそのはず、狂気に満ちた犯行は、理不尽な発作と何も変わらない。すなわち災害なのである。ひとつところにとどまる台風が、どこにあるもんか……。
女の思考が証明するように、あれから吃りは彼女のまえに現れなかった。
あの妖怪は、いったいなんのつもりだったのだろう?
とうぜん、また現れてほしいはずがない。しかし、何か釈然としないのもまた事実なのだ。あれだけで終るとは、どうも本心から決めがたい。あれが自分たちの前後に何かを捉え、あまつさえ執着するのではないかと、女は丸薬に頼ってもしばらくのあいだ眠れぬほどだった。
むろん、吃りを一般の気ちがいであると決めこんで、終らせたければそれもよかろう。しかし、それにしても彼女の人妖や心にまつわる理念は、何か心を惹かれるものがある。正否はともかく、とても萎縮した頭で考えられる思想とは思えなかった。あれは喪失者の、たそがれの思想に近しいところさえあるような気もするのだ。
もし、会話さえままならぬ真の阿片中毒者なら、横暴な津波とでも形容して、そこで打ちきることもできるのに……あれの行動は、理不尽に村を破壊する地震よりも、どこか指向性で……達人が放った矢のように……精密な攻撃だったのかもしれない。そんな可能性を、すべては否定できるまい……。
「あんた」 不意を突くように、パルスィが 「覚リと何かあったの?」
「何かって?」 ぎくりとしつつ、ろうばいを知られぬよう、平坦な調子を偽装しながら。
「鵺さんが言ってた。あんた、覚リを強姦から助けようとしたらしいじゃない。あれ、ヤマメが話してたやつなの」
「妹のほうよ、きっと」
姉はどんな性格をしているのだろう……吃りと同じで、根が腐っているのだろうか? あんな魔物がふたりもいるとなると、被害を被ったこちらとしては、肝をつぶすものがある。
もし、わたしを挟みうちにしてきたらどうしよう……今度こそ、本当に心を叩きつぶされるのではあるまいか……。
女は急に思いたつ。吃りの理念をまじえ、ためしとばかり、ひとつパルスィに問うてみようと思ったのだ。
「パルスィ、妖怪はどこから産まれるの」
「ふん?」
「いや、どう聞こうか? 分かりやすく……そう、あんたはどんなふうに産まれた?」
「何よ、急に」
「教えてよ」
「気にしたこともない」
「じゃ、いま気にしてよ」
パルスィはくちびるに手を当て、歩きながらに考えこんでいた。すこし経ってから返事は来た。
「分からない」
「そう。なら、知りたい?」
「べつに。どうでもいい」
子供の容姿をした妖怪が、そこかしこにいる。しかし妖怪の赤子などは見たこともない。
地底にはむろん風呂屋があるし、吃りが被害を受けそこねたように、強姦だって起こりうるのだ。なのに、なぜ生命の“ひりだし”がこうも希薄なのだろう?
わたしはおまえこそが埋められるべきだと信じてきたし、じっさいに埋めてやったのだ。
だが、やはり人間なのはおまえのほうだった。さきに産まれたのは、いったいどちらのほうだったのか? ……
「馬鹿なこと聞かないでよ。産まれを気にするなんて、まるで喪失者じゃない。アハハハ、ハハハハ」
「ええ、本当に……どうかしてた」
急に、不安だった。娘の傍に寄って、躰が溶けるほど抱きしめて、皮フを交換してやりたいと思った。
考えてみると、ふたりは互いの底から人間をさぐりだそうとあがいていた。それは迂遠にも互いのことを、多少なりともいまだに人であると認めていたからではなかったか。未練がましく、それだけがふたりのたもとを結めていたのかもしれず、それは互いを鏡にし、合わせ、密着させ、むげんに映った虚像を褒めあう、むなしい傷の舐めあいにほかなるまい。
女はパルスィと別れたあと、いそいで聖輦船へ飛んでいった。
甲板に降りたった。よほどいそいだからなのか、たどりつくには短い時間でじゅうぶんだった。
そこまで来て、女は甲板で立ちすくんでしまう。あとは船にはいって、見なれた通路を進んでしまい、倉の戸を開けるだけなのだ。そしてそこには娘がいる。いつものように、彼女のために、いけにえとして、鬼火のろうそくに照らされながら、白い皮フを光のりんかくに化合させ、闇のとばりに浮きあがっているのだろう。
不毛な関係だ……ぺんぺん草のひとつだって、伸びてきやしないだろうに……なぜ水蜜にこうも惹かれてしまうのか、いまだに分からない……あんたには、なんの取り柄もないはずだ。死んでいるのだから、なくて当たりまえじゃないか……もし幽霊に取り柄のひとつでもあるとすれば、生者はみずからの肉体を卑下しなければならなくなる……あんたの、皮と骨だけになった、人魚の造形……。
まあ、何もうしろめたく思うことなどないはずだ。べつに飲血のためだけに、聖輦船に乗りこむ必要はないわけだ……ここはひとつ、ひさしぶりに取りとめのない会話でもしようじゃない……たとえば、吃りのことを話してもいい。それに、あのときの弁解だって、まだ済んではいなかった。あの飲血の影に、あいつの斜陽がひそんでいたことを、水蜜は信じてくれるかな……信じてくれるよ、わたしとあんたの仲じゃないの……互いのことを知りつくした、とだえようのない絆……。
恐る々るで、通路をたどる。すぐに倉の入り口は見えてきた。女は戸に、手を伸ばしかけた。しかしそこで、彼女の動きは止まってしまう。
戸がわずかに開いていた。その間隙から、倉の闇がしみだしていた
まえに倉を出たとき、閉めわすれたのだろうか? いや、そんなはずはない……。
倉の戸をしっかりと閉めるのが女の癖だった。べつに鍵などかけていないし、娘ならかんたんに破壊できる脆さだろうが、そうしなければ彼女が逃げだしてしまうような恐怖に駆られてしまうのだ。だからいつも、光のはいる余地がないくらいに、戸を厳重に閉めていた。
鵺さんが暇つぶしにでも、会いにきたのかな……あるいは水蜜が甲板から、街を眺めていたのかもしれない。ほとんど倉にとじこもっているあんたでも、ふと思いたって、空気を吸いたくなることもあるわけだ。尤も、肺など機能していないだろうが……あんたと接吻すると、いつも肺から、磯の香りが立ちのぼる……。
戸の間隙から、夜目を効かせて倉を覗いた。女は期待に飢えていた。つねのように、娘がぽつんと、聖輦船の腹の底でたたずんで、自分を待っていることに
ほら、水蜜のりんかくが、露わになる………。
しかし、そこで女は目前の光景につらぬかれてしまう。
吃りだった。彼女がいたのだ。
吃りが娘にしがみついて、肩口から血を飲ませているのだった。
背中を向けていて、吃りの表情は見えなかったが、娘のほうはひとみをとじて、ぼうっと気のない感じだった。
女がずるずるとへたりこんだ。息をあらげて、身ぶるいした。脂の汗を流しながら、ふたりの蠕動を視姦することしかできなかった。
これは、なんだろう……まさか吃りのやつ、最初からこれが狙いだったのか? ……水蜜をかすめとる算段だったのか? ……已めるんだ! それは、わたしの仕事なんだ……そら、早く立ちあがるんだ。戸を蹴りやぶって、あれに泡を吹かせてやれ。あれの顔を、やつざきにしてやれ!
我慢ならない、罪の想起なんて知ったことか……わたしから水蜜を奪おうとしたことを、存分に後悔させるんだ……。
しかし、女はまったく動けない。足の肉に、鎖を刺しこまれてしまったようだ。それもそのはず、彼女は娘が吃りを受けいれているその姿勢に、非情な打撃を被っていたのだ。その従順な態度が、彼女の足を大根にしてしまったのである。
吐きそうだった。躰の一部が吸収されてゆくようだった。できることなら、見ないように、頭に槌を叩きつけてほしいものだった。
とつぜん吃りが立ちあがった。娘の姿勢がくずれ、床に倒れた。彼女は眠りこけていた。
吃りが振りかえり、こちらを向いて歩きだす。いやらしい表情から察するに、もう
こちらの存在に気がついているらしい。それにしたがい、女は戸から後退する。座ったままでありながらも、百足のように這って動いた。
戸がひらいた。吃りは三日月さながらの口元を、顔面に縫いつけていた。
「一輪。ど、どうしたんです。怯えてしまって」
心がけいれんし、麻痺し、引きつっていた。なんの声も出てこない。横隔膜が、ぐしゃりと萎縮する。声帯が、もぎりとられてしまったようだった。
吃りがこちらへ、にじりよってきた。絶望的な焦燥を煮やした女のまえで、彼女は両膝をさげてしゃがみこんだ。
「あ……あんた、水蜜に、何をするの……」 なんとか、ひりだすような声が出た。
「何? 私は何もしていません。た、ただ水蜜が、もう一輪の血を飲みたくないらしいので、代わりに飲ませていたんですよ」
「嘘だ! そんなことを言うはずがない。あんた、そそのかしたんだ。そうでしょう!」
「まあ、たしかに水蜜が意識して私の血を飲んだわけではないです。で、でも一輪の血を飲みたくないと思っているのは本当ですよ……つけこみやすかった。かんたんに、無意識に割りこむことができました」
「無意識? やっぱり、あやつったんじゃない!」
「あやつったなんて、めっそうもない。私はちょっと、水蜜の背中を押してやったんですよ……あなた以外の血を飲むことを、水蜜は選んだんですよ。むしろ、意識してする選択よりも、無意識のほうがよほど明確に願望を反映してくれるんですよ」
「この、不細工め!」
そう叫んでみたわりに、女は何もできなかった。にぎった拳も、ひどくよわよわしく、なんの迫力もともなわない。躰の芯が、棒のようになっていた。
「一輪、なんで水蜜に血を飲ませるんです? 水蜜がそれをいやがっていることなんて、すでに知っているでしょう」
馴れ々れしく、勝手に連れの名前を呼ぶんじゃない!
「そりゃ、そうしないと水蜜が消えてしまうから……」
「水蜜を救おうなんて、最初から思っていないんですよ。一輪は血を飲ませたいばかりに、尤もらしい理由にすがって、合理化しているだけなんです」
「そんなことは、とうに知っているわ。心を読めるからって、分かったような口を聞くな! 一度、血を飲ませた程度で……わたしたちは、ずっとそうしていたんだからね! 一回や二回、同じことをしたところで、わたしたちの仲に割りこまれてたまるもんか!」
女は吃りの態度に乗せられてしまう。読心術にすぐれた相手と、口八丁で勝てるわけがない。そんなことは理解しているはずなのに、言いわけがましい反駁ばかり、口をついて吐きだしてしまうのだ。
「分かっているんでしょう。なぜ水蜜が、あなたの血を飲みたがらないのか」
とつぜん脳裏で、ナズーリンの声が聞こえた。
最初は聖が、自分の血を飲ませたんだけどね……ムラサはひどくいやがったんだ。ひどくいやがり、泣きわめいたものだった。それ以来、ムラサはけものを殺している
「一輪、あなたは大切にされていたのよ。水蜜はあなたが心底に好きだったからこそ、命をすすりたくはなかったんです」
「そんなはずはない……水蜜は躊躇なしに人を殺してしまうやつなのよ……いまさら私の命を飲むくらいで、良心の呵責なんてあるもんか……」
「そう? でも、他にんの命なんて、誰も気にしないじゃないですか。人を殺すより、恋びとの血をすすることに心を痛めても、おかしくはないんじゃない?
「それにくらべて、あなたはどうです? そんな水蜜のやさしさを知っていながら、そこにつけこんで、血を飲ませつづけた。それで水蜜がくるしむほど、水蜜の好意を実感することができるから。それが嬉しくてたまらない。いくらでも、血を飲ませてやりたくなる。命を分けてやりたくなる。与えすぎれば、脱色してやりたくなるくせにね……」
「ちがう……」
「ちがいませんよね……ね?」
吃りがとつぜん、女の髪をつかんで、頭を床に叩きつけた。そして、立ち上がって耳のあたりを、ぐりぐりと草履で踏みにじる。
女はなんの抵抗もしなかった。
「わ、わるくおもわないでくださいね。妖怪の世界は、暴力が支配しています。負けるほうがわるいんですよ……水蜜は、これからゆっくりと懐柔してあげる。無意識からじわじわと、一輪のことを忘れさせてやりますよ……私がきらいですか、憎いですか」
当たりまえだ! できることなら、腹から子宮を引っぺがして、あんたの腸を巻きつけて振りまわしてやる! 両手をもぎとり、あんたの肋骨を針に、髪を糸にして、傷を縫いつけ、二度と再生できなくしてやる! あんたなんぞは、片輪になってしまえばいいんだ! ……ちくしょう。足……頼むから、立ってくれ……妖怪になってまで、わたしは弱くないはずよ……水蜜が、盗まれてしまう……こんなやつに、わたしたちの時間を切りとられてたまるもんか! ……
「私、思うんですけど。自分をきらうやつが、どうしたらこの世消えるのか……それで、分かるんです。私をきらうやつは全員、とりこにしてしまえばいいんだわ……そうすれば、もう誰も私をきらわない。名案でしょう? 私、自分をきらうやつが本当にきらいなんですよ。いまの一輪もそのひとりよ
「でも心配しないで。私はあなたのことも欲しいんです。なんたって、喪失者なんですからね。水蜜を手に入れたら、あなたの心もすぐにひらいてあげますから……そして、ふたりの心を、すかすかになるまで食べてあげる。そうなるまでは、捨てずに甘やかしてあげますからね……さあ、街へ逃げかえってください。水蜜に血を飲ませる権利は、もう私の手にあるんです……」
聖輦船が揺れている……ずっと、ふたりだけの家だった場所が、闖入者に占領されてゆく……せせらわらう、床の木目……月さながらに湾曲した、背骨のような竜骨の微笑……。
心が、べきべきと、くだかれた。
< ここが正念場だ。闥を廃する一瞬を見のがさぬよう、まぶたぐっとをひらくのだ >
[妖怪病理学 著/××第目 稗田×× 共著/八意詠琳 協力/ドリーム・ペインター]
喪失 項××××
症状
殺戮癖 自傷癖 分裂症【憑依症】 心神喪失 心神耗弱 不感症 過食症 拒食症 物質依存症 云々……
喪失は謎の多い病【?】であり、いまだに定義も不明瞭なままである。多くの場合、それは化生者が罹患する
妖怪のあいだで広く認知されていて、尋常な妖怪であれば、大抵は喪失に忌避をいだいている
明確な治療法は確立されていない。しかし阿片やほおずきを煎じた鎮静剤で、一時的に症状が緩和される
非化生者の症例として、覚リ妖怪が報告されている。心に干渉する妖怪は、喪失者から喪失を感染する恐れがある
とくにゆがんだ嗜好を持つ覚リ妖怪は、喪失者を糧にする場合があり、そくして喪失に感染しやすいようである。