第二章 前 影の国
娘がけなげに、布で一輪の汗を拭いていた。首を、手を、胸を、腹を、股を、足を……ひそかに何年も続けられた、死者との間接的で、精神的な性交……彼女の動作も、その経過でつちかわれ、慣れきった動き……互いの声を殺すために、雨の日を狙って、室にやってくる……。
「大丈夫?」
ひとを踏みにじりながらも向けられる、純粋な好意……ある意味では、画策にまみれた懐柔よりも、恐ろしい一面がある。大人が子供のわめきに、いつも屈服してしまうように。
「何か言ってよ」
一輪は、なんの言葉も返さない。
娘が一輪の躰を拭きおわった。
「私はあんたを犯してるけど、正直にしてる……そっちも正直になったら?」
またもや一輪は黙りこくっている。
娘は諦めて、室の外に行こうとする。そこで一輪が、ようやく言葉を発した。
「どこに行くの」
「分かるでしょう?」
娘が室から出ていった。
つねのように、血を求めるのだ。狼でも、鹿でも、兎でも、命をすすって自我を保つために、娘は殺しつづけねばならぬ。白蓮も彼女を保つために、それを許してしまっている。
だが、なぜわたしの血を飲もうとはしないだろう? むろん、それはさいわいなことだったが、釈然としないのも事実だった。
ムラサはわたしにゆがんだ好意をいだいている……いや、べつに血を飲まれたいわけではない。だが、性交が補食にも似た一面を担っていることは真実なのだ。それならわたしの血を飲みたがるのが、正当なのではなかろうか……?
「聖もそうだったのさ……」
記憶が回転した。一輪はナズーリンの横に座っていた。
「最初は聖が、自分の血を飲ませたんだけどね。ムラサはひどくいやがったんだ。ひどくいやがり、泣きわめいたものだった。それ以来、ムラサはけものを殺している」
「どうして? なぜいやがったの?」
「ムラサもなあ、ここに来たばかりは、最初はよく泣くやつだった。すごく感情的だったんだよ」
ナズーリンは一輪を無視して話しつづけた。それを止めようとしたが、喉が止まってしまう。なぜか腹部に激痛が走ったのである。あまりの痛みに、何もできなくなってしまう 「でも、そのうち人形のようになってしまった。原因はすぐに分かったよ。陸に引きあげたからだ。とうぜんだな、海の妖怪が陸ですがたを保てるはずがない。ムラサは寒天みたいにぼろぼろになって、溶けていった。それで命をすすらせることにした……たしかに、私はムラサがきらいだよ。でもそこだけは、同情しても、いいと思う……。
「聖はやりかたをまちがえたな……いっそのこと、跡も残さずに消滅させてやるべきだったんだ! そうすればくるしまずに済んだ。そのほうが慈悲だったんだ!」 そして、とつぜん室に戻っていた。腹の痛みは消えていた。
不意に、天が黄色の悲鳴をあげた。戸の隙間から覗く雷光……何者をもつらぬく、毘沙門天の光の右手……。
躰が重かった。明日に疲労が残ってしまうだろう。修行の疲れと性の疲れは、まったくべつの属性らしい。前者には晴れ々れとした倦怠があり、後者には終りえぬ雨の倦怠がある。そんなことも命蓮寺での生活と、ムラサとの関係が深まるほどに、知ったことだった。朝と昼の潔白な生活も、雨の夜には打ちのめされる。卑猥と不埒を混ぜあわせた墨汁で、白紙を塗りたくられてしまうのだ。
無抵抗でいるわけではない。かなしばりも、そう何度もされると耐性ができるらしい。しかしさまざまな抵抗をこころみるほど、娘も学ぶ。それもそのはず、ひとを痛ぶることに関して、とかく彼女は一流だった。
性を煮えくりかえらせ、自慰を強制する死の気配……直接に手をくださず、そうして一輪を自己嫌悪の檻に連れこんできた……しかしそんなことは軽い拷問に過ぎなかった。そんなことよりも耐えがたいのは、娘の自慰への荷担だった。
一輪の腕を引っぱって、自分の股へこすりつけるあの動作は、なんとしても怖ろしい。餓死した親の死体にすがりつく、子供のようだ。そんなことをされると、かなしばりに抵抗ができたとしても、たちまち反逆の気力をそがれてしまい、それを死体をあさる烏の感情で眺めていなけらばならなくなる。
娘はその行為がとくに気に入っていた。性感を得るためでもあるだろうが、何よりの理由は、それが最も一輪を砕くと理解しているからだろう。
娘の発する死の気配が一輪の不感を治療するように、命の気配に当てられて、死者の不感もまた治る。命と死の摩擦が、いっときは彼女のそれを乖離させてくれるらしかった。
それはムラサのほうでも、予想外だったらしい。しばらくのあいだは性感に怯えて、わたしに寄りつかなかったものだった。むろんそんなことも、すぐに克服されてしまったが……この争いを、いつまでつづければよいのだろう?
もちろん、一輪を懐柔するまでつづけられるのだ。彼女のほうでも気を許すことはないので、まったく永遠にまでいさかいが引きのばされてしまう。
とうぜんだ、強姦者に譲歩する必要がどこにある。そんなことをすれば、たちまち強姦の合意として受けとられてしまうんだ。互いのあいだに絆が結められ、いまよりもさらに、まどわされることになる。騙されてなるものか。これは許しえぬ憎悪なのだ。いつにか晴らすべき怨みなのだ……。
しかし復讐のことなど考えるほどに、心が重くなるだけである。
ある浪人が復讐を果たした末に、抜けがらになってしまった。そんな逸話を聞いたことがある。北から東へ、東から南へ、南から西へ、西からまた北へ……復讐の理念を固持しつづけたばかりに、精神の破綻だ。復讐が忌避されるのは、高潔な思想からではない。その情念の維持による負担を恐れるためなのだ。
じっさい復讐心は、かんたんに萎えてしまう。ムラサがわたしの室へはいってくるのは、いくら雨がふっても多くて三回……月が一巡するあいだに三回だ。その中間には、命蓮寺での生活があり、修行がある……復讐の望みはすぐに消えてしまい、またまじわると燃えあがり、そしてまた冷めてゆく……それがあんたの罠なのかは分からないが、なんとも丁度な回数だった。復讐心が麻痺するには、かんぺきな頻度だ。
それだけではない。復讐は、個じんの範疇にとどまらぬ場合も多い。むろん周囲に迷惑を与えたいはずはない。しかし復讐と呼ばれる観念は、自立して周りを巻きこむ性質さえあるらしいのだ。それが何より厄介なところだった。弟子の不始末は、師の不始末。ムラサに復讐することで、聖さまの名誉に泥を塗ることになるかもしれない……。
『それこそ水蜜との関係を続けるほうが、よほど聖さまの名誉をそこなうんじゃない?』
「何さ、急に。話しかけたりして……」
『だって、そうじゃないの? 幽霊との性交なんて、どう考えても仏道に反しているじゃない』
「直接の性交じゃない! ただの、自慰の延長のようなものだ!」
「もしかして、はずかしいのかい? まあ、ムラサに犯されていますなんて、とてもじゃないが、かんたんには言えないだろうね。じゃあ、私が言ってやろうか。一輪はここに来てからずっと、ムラサに強姦されつづけている、とね……けっこうじゃないか。羞恥はあるだろうが、それでムラサから解放されるかもしれないんだ。なんならいまから私が言ってこようじゃないか!」
ナズーリンが、池のまえから動きだした。一輪は、あわててその肩をつかんで引きとめる。
「已めてよ! なんなの? ずっと聖さまに言ってくれなかったのに、いまさらどうしたのよ!」
『まったく、責任転換もはなはだしいわ。ところで―――
「きみだって、自分で聖に言わなかったろう! 言うべきだった。引きずらずに、もっと早くに!」
『ねえ』
「ムラサの言うとおりだ。私には人間のことなど分からない。産まれながらの妖怪に、人間だった者の望みなど、分かるはずがない……いわゆる食欲と性欲のちがいさえ、私たちにはよく分からないのに……ゆいいつ、人間の雄も雌も、分身を産むことを熱望していることくらいは、なんとか理解できるものだが……。
「きみはムラサを拒みたいのか、それとも求めているのだろうか?」
からまわった答えが、肺胞のなかでうめいている。躰を引きさき、飛びちろうとあがいている。ナズーリンは強姦する側とされる側に、恋慕が結められると思っているのだろうか?
「だんまりか?」
『ねえったら!』
「私は……」 贖罪を迫られた、虜囚のように 「ただ生きたくて、命蓮寺を探していただけなのに」 右手で、胸のあたりを、ぐっと押さえつけた。いつも、白蓮が半分にへし折ってくれた小刀を、ふところに隠している。それを箴言のように、かかえこんでいる 「聖さまのお蔭で、生きようと思った。あのひとのために、まだ生きていたいと思えたの。なのに幽霊に触れていると……死んでしまっても、いいと思う」
幽霊は魂の熱を奪いさり、心をひどく孤独にする。無に帰ることを例外のない経験であると仮定するならば“あらゆる生命の望みは死だ”と言いかえることもできるだろう。何よりさかのぼれば、命ある者よりも命なき者のほうが、さきに存在していたはずなのだ。この燃える本質を、幽霊が呼びさます……そら、その炎が、わたしを燃やしはじめた……それが命蓮寺へ燃えうつり、妖怪たちを焼きはじめる……取りかこむ、人間たち……放たれた矢……薄れゆく意識のなかに、あいまいに映った、誰かの首をへし折る村紗……また腹部がもうれつに、痛みをうったえはじめる……。
『ねえ、そろそろ起きたらどうなの?』
「さっきからうるさいな、おまえは……ひとがせっかく、きもちよく眠ってるのに……」
『いつまで走馬燈を見ているんだ! 本当に、死んでしまうわよ!』
めずらしく、あせったおまえが、肩を揺すった。
「一輪!」
そこで夢はとぎれてしまう。村紗水蜜の焦燥をおびた声で、一輪はようやく目をさました。ほかには雲山が、心配そうにこちらを見ている。
「雲山、ムラサ、どうしたの?」
「動かないで」
そう言われても、いつまでも寝ころんでいる理由はない。ゆっくりと、腰を起こした。しかしそこで、とたんに感じる腹の痛み。あまりに急で、絶叫さえもだせなかった。恐る々る、腹を見た。何か棒状の物がふかぶかと刺さっていた。
「触れないでね、破魔矢らしいんだ。すこし触れたんだけど、私の手もかんたんに再生できないのよ……」
言ったとおりに水蜜の右手は、たしかにはじけとんでいた。断面から粉っぽい霧が噴きだし、腕をはやそうと必死になっている。
「なんだっけ? そうだ、人間……人間たちが、急にはいりこんできて……聖さま、ナズーリン、星?」
すがりつくように、命蓮寺の住にんを呼びつらねてゆく。しかしなんの返事もない。ここにいるのは、水蜜と雲山だけらしかった。
それ以前に、ここはいったいどこなんだろう? ……。
信じがたい光景が広がっていた。空が岩の天幕で覆われているのだ。見なれた青い彩色はない。すべてがでこぼこの岩壁でとじられている。まるで魔物の胃袋のなかのようだ。それに周囲も、ただ無感情で冷徹な、こまかい鉱物の平原が広がっている。
砂、々、々、々……そして岩と、乾いた空気……不毛! なんなのだろう? ここには不毛しかない! 頼むから、ほかに何か真実らしい物のひとつでもないのだろうか? ありえない……。
たとえ夢であってもありえないし、できることなら夢であってほしいものだった。
不意に一輪はうしろを向いた。白蓮に似かよった法の力を感じたのである。
「聖輦船が……」
すこし離れたところで、星輦船が哀れっぽく、地へ横だおしになっていた。崖から転落した、牛車のように。
急に躰を支えていた腕から、力が抜けた。なんとか起きあがろうとしても、微妙にりきむことしかできなかった。産まれたばかりの鹿のように、もがいてしまう。
「やっぱり、抜かなけりゃ……」
引きぬくために、矢をつかんだ。しかしすぐに手を放してしまう。掌が焼けてしまったのだ。人間たちは、かなり強力なしろものを用意していたらしい。そうでなければ、破魔矢の程度にここまで消耗させられるはずがない。
「一輪!」
水蜜が、一輪の焼けた手をにぎりしめた。その感触に、なぜか鳥肌が立ちはじめる。
「さわるなって言ったでしょう!」
「ごめん……」
「馬鹿!」
なんだか、へんだ……村紗って、こんな感触をしていたっけ……あんたの肌は、もっとぶよぶよとして、なめくじの友達か何かだと思っていたのに……。
不意に、ぼやけた記憶がよみがえってきた……矢が突きささり、地面に倒れふした視界……炎上する材木の臭い…… 「誰かに手をだすなら、その連れもよく見ておくことね?」 ……人間の悲鳴……。
痛むのもかまわず、思いっきり水蜜の手をはねっとばした。
「一輪?」
「言え! どれだけ殺したんだ!」
「あ……やっぱり、分かった?」
なんてことだろう! 村紗は命蓮寺を襲った人間たちを殺し、その命のみなもとを強奪したのだ。いったいどれだけ命を吸えば、こうも幽霊が人間らしく見えてしまうのだろう? けものから得た活力なんぞとは、くらべようもない。あの白っぽい皮フが、いまはなまなましいほどに色づいている。手のほうもいやに汗ばんでいたから、火傷にしみる……。
「罪悪感は、なかったの? 躊躇は、なかったの?」
「そんなの、とうのむかしに、海に吸いとられてしまったわ……。
「でも、しかたないじゃない? 私は倒れた一輪を守らなけりゃならなかったんだから……まあ、いつの間にか、へんな場所に飛ばされてしまったけど」
つまり、いま自分がかろうじて生きているのは、村紗の殺戮のお蔭と謂うわけだ。こんなふうに、他人の命と引きかえに生きのびてしまうくらいなら、殺されたほうがましだった。
「あんたが大切なのよ。死なないで……」
水蜜が一輪の火傷を、猫のように舐めはじめた。
「わ……」
雲山がそれを引きはがす。ふたりはしばらくのあいだ、にらみあっていた。その背景は相も変わらず、荒野の土色をしている。台風が何もかもを吹きとばしてしまったら、こんなふうになるのだろう……みんな、どこに行ってしまったのか?
心が鉄板のように、ひらべったくなっていた。
「うう……」
一輪がうなった。ひたいから、ひどく汗が噴きだしている。それを水蜜が小袖の袖で拭いてゆく。彼女の右手は、すでにはえかわっていた。
とりあえず、聖輦船の傍に移動してからしばらくが経った。ただ“しばらく”と謂っても、どれくらいしばらくなのかはよく分からない。ここには太陽も月もない。この空間に、たしかな時間は隠されてしまっていた。
聖輦船は相も変わらず地面に倒されたままだった。どれほどに立派な船も、陸の上ではただの内翻足に過ぎなかった。背骨のように婉曲した竜骨を眺めて 「ああ、下はこう謂うふうになっていたのか」 そんなことを言って、晴れない気分をごまかしてみたりする。
知らず々しず、胸のあたりに手を当てていた。たよりない心臓が、なんとか脈を打っていた。
死にかけではあるが、いまだにわたしは生きている。だが、人間の命を代償にしてまで、生かされるほどの価値があったかどうか?
命蓮寺を襲った人間たちとの争いで、一輪は手を抜いていた。殺したくはなかったのだ。人間をあやめることなど、針の穴に糸を通すよりもかんたんなことなのだ。むろん、敗北は覚悟のうえだった。人間を殺すくらいなら、それでかまわない。なのに彼女は生かされてしまった。それも水蜜が人間を殺してまで、彼女を守ってくれたお蔭だった。
まったく感謝などしていない……そう言ってしまうと嘘になる。しかしいかりをおぼえているのも事実なのだ。そんなふうに生きのびるのは、命を吸って正気を保つ村紗とまったく同じではあるまいか。しかも気絶しているあいだにそんな行為へ荷担させられてしまうなんて、これはどう謂う不条理なのだろう?
『そう思うなら、素直に死を受けいれたらどう? そうすりゃ腹の痛みもなくなるよ』
馬鹿なことを……どんな理由があろうと、生きのびてしまったならば、生きていたいに決まっている。命にあふれている者ほど死にたがり。死に近い者ほど生きのびようと必死になる。しょせん感情など、あまのじゃくの親戚なんだ……ああ、それにしても、腹が痛い……痛みを感じているあいだはまだ大丈夫なのだと、聞いたことがあったっけ……なんでも雪山で遭難したら、寒さを感じなくなってしまったときこそ、本当の終りなのだと……。
「村紗、村紗あ……」
「どうしたの?」
「なんでもいいから、気のまぎれそうなことって、ないかなあ……」
無茶な頼みだとは、自分でもよく分かっていた。しかし何もせずいると、眠くなってしまうのだ。寝たらそれで終りだろう。なんとなくだが、そんな予感があったのだ。
あまり期待はしていなかったが、意外にも水蜜は、そんな無茶に応えてくれた。
「背中、掻いてくれない」
「背中?」
「うん、見て」
水蜜が、小袖の帯をゆるめた。襟のあたりをたわめて、一輪にその内側を覗かせた。彼女の背中は炎症に痛めつけられていた。
「何よこれ……」
「命を吸いすぎて、人間の感覚が戻ってくると、こんなふうにかぶれたりするのよ。汗、ふだんは流れないんだから、よけいにね……」
もしかすると、生前は病弱だったりするのだろうか? いずれにせよ、自分の分泌物で躰を痛めつけるなど、へんな矛盾もあったものだ。
「ほら、もっと寄りなさい」
なんにせよ、気はまぎれてくれるだろうし、いくらでも掻いてやる。
水蜜をこちらに寄らせて、うしろからうなじのあたりに手を突っこんで、さわさわと掻いてやる。彼女が発情した猫のように、息を漏らした。よほどかゆみを我慢していたらしい。
「掻きたけりゃ、掻けばよかったのに。気を使ってたの?」
「まあ、一輪が死にかけているのに背中を掻くってのも、不謹慎だからねえ……ああ。あ、あ……そこ、強く、爪を使っていいから……」
一輪はなぜか不愉快になっていた。死にかけの自分にくらべれば、人間の命を吸った水蜜は、あまりに人間らしい匂いがした。げんにいまだって、人間らしい代謝をまとって、彼女は発酵しているではないか。
もしかすると、これは村紗が日ごろから見せていた、命への執着なのだろうか……。
いつの間にか、使っていない左の掌をにぎりしめていた。躰が村紗の匂いにほだされて、死ぬまえに分身を産みだそうと興奮しているらしい。だが、あんたとまじわったところで、なんの生産もないことはよく知っている。あんたは永遠の石女《ウマズメ》なんだ。だからこそ、わたしたちの接触をどれだけ深めようと、自慰の延長を乗りこえることなどありはしない……。
右手が疲れてきたので、今度は左手で掻いてやる。
爪には水蜜の垢が詰まっていた。いまなら彼女の切りはなされた一部も、すぐには消滅しないらしい。いかにもきたならしく、気味がわるいと思うものの、つい見てしまう、いもむしの群れにいだくような感情があった。
水蜜が背を向けているのをよいことに、どんな味がするのだろうかと、爪を歯で噛んでみたりする。べつに味もしなかった。
そこで一輪は後悔する。背中を掻くことだの、垢を舐める妖怪の真似ごとだのに気を取られて、雲山がいたことを失念していたのである。いま彼は、水蜜の垢を舐めた彼女を見ていただろう。あまりに迂闊だった。目を合わせられない。
雲山は、わたしたちの破戒を知っているのだろうか? なんとなくだが、うすうすは感づいている気もするのだ。
雲山とのつきあいはあまりに長い。したしい者とのあいだには、ほかの誰にも分からない、心の機敏の察知がある。おそらく彼は水蜜が与えた一輪の変化に、いつか気づいたはずなのだ。それに言及できなかったのは、ナズーリンと同じ理由だったろう。
「産まれながらの、妖怪……」
「一輪、何か言った?」
「なんでもないよ。ねえ、もういい?」
「ええ……」
いかにも残念そうな言いかただったが、気づかないことにした。
気がまぎれはしたものの、やはり一過性のことだった。それどころか、一段とひどい睡魔は押しよせてきた。ふたりに何度も肩を揺らされて、一輪をなんとか起きていた。
不安だった。死の兵団に取りかこまれていた。しかもまだ数を増やそうと、どしどしと音を踏みならして、階段を登ってきているのだ。
「ああ、ああ!」
とつぜん、ふたりが反応するのもかまわずに、気ちがいじみた悲鳴をあげた。
狂ったのではない。むしろ狂わないように、躰が感情を発散させようとしたのである。せめて、精神的な打撃をわめき散らすのだ。しかし、死の圧制はすこしさけんだところで、消えてくれはしなかった。これが、本当の死なんだ……なんて怖ろしいんだろう……村紗が与える死の気配なんぞとは、とてもじゃないがくらべられない……あれは加減してのことだったんだ……殺される! 本当に、矢のごときに、殺されてしまう!
「ちくしょう! もしかすると、本当にこんなところで、死んでしまうのかなあ?」
そんな弱気を言ったばかりに、泣きだしそうになる。しかしさきに泣きだしたのは一輪ではなく、水蜜のほうだった。おどろいて、こちらの涙は引っこんでしまう。
「そんなこと言わないで……死なないで……お願いよ、私を独りにしないで……」
なんて一途さなのだろう。これがわたしをたぶらかそうと画策している者と同一じん物なのだろうか? まあ、そんなことも、あるのかもしれない……画策と好意には、なんのつながりもないのだから……卑怯な手段でも、好意それ自体に罪はない。
一輪はなぜか、非常な感動をおぼえていた。水蜜への憎悪も忘れて、そのしおらしさに深いしたしみをいだいていた。
我慢ならずに、水蜜を抱きよせ、雲山の目も気にせずに、つい接吻してしまう。
水蜜は、最初こそおどろいた顔を見せたものの、一輪が舌をねじこんでやると、うっとりとまぶたをふやけさせた。
代謝のせいか、水蜜の舌は舌苔でひどくざらついていた。唾液は半端に乾いていて、ねばねばとした感触だった。
長らく続けて、息が詰まりきったところで口を放した。
ふたりはしばし、見つめあっていた。
「ねえ、やっぱりあそこに行ってみよう?」 水蜜がそんな提案をする。
「駄目よ。あれが何かもよく分からないのに」
不毛と思われたこの土地も、まったくの虚無ではないらしかった。遠くのほうに街があったのだ。しかしこんな場所にある街へ、そうかんたんに足をはこぶわけにはいかなかった。闇の荒野に、ぽつりとたたずむ、蜃気楼のような街。安全が保障されなければ、よけいに事態が悪化してしまうかもしれない。
それに、あの街の光は尋常ではない。あの発光は、鬼火に特有のあかるさだった。太陽とも、ふつうの火ともまたちがう……旅をしていたころは、野良の鬼火に、よく世話になったっけ……だが、いまは不安を呼びこむ熱に過ぎない……。
街のほかにもわずかだが、不毛を感じさせない物もあった。植物だった。貧相だが、たしかに生きていた。ちらほらと、乾いた土地に、なぜか咲いている曼珠沙華、ほおずき。しかしとくに気になるのは、青いたんぽぽだった。一輪はこれまで、そのたんぽぽを見たことはなかった。しかし知識としては知っていたのである。
稀に夜中、ナズーリンがこっそりと酒を飲んでいるところを見ることがあった。それで、せっかくなのでとなりに座って、いっしょに飲んでみたりする。たしか、そんな席での彼女の言葉だったはずである。
「青いたんぽぽを知ってるかい?」 酒のせいか、饒舌な様子で 「地獄に咲く、青いたんぽぽさ。そいつは、綿が針になっていてね。生きものが近くに寄ると、それを射出する、寄生植物なのさ。そして、抜かなければ獲物の肉に根を張り、血を吸ってしまう……血を吸いつくされた死体からは、またたんぽぽが咲いて、つぎの獲物を待つ……まあ、地獄にはほとんど獲物がいないから、あまり見られないらしいけど」
「地獄……へんなはなしねえ」
「本当だよ」
「なんでそんなことを知ってるのよ」
「それは、私が毘沙門天さまの! ……いや、なんでもないよ。まあ、あれだ……鼠は聡明なんだよ。だからなんでも知ってるんだ。ハハハハ、ハハハハ」
「へんなの……」
ただの冗談なのだと、あのときは気にもしなかった、しかし、まさにその現物が、すこし離れた場所で一本だけひっそりと咲いている。こちらの認識を固着させるように、あざやかな青……。
「地獄」
「一輪?」
「地獄だって……」
「一輪、どうしたの?」
「なんでもない、大丈夫……」
適当にごまかして、一輪は思考に没頭しはじめる。
まさか……そんなことはない……たしかにあのはなしとの一致はあるが、酒の席での言葉には、なんの信憑性もありゃしない……それに地獄は、鬼と亡者がつきものだ……ここにはそのどちらも住んでいない……でも、もしあの街にそれがいたらどうしよう……駄目だ、考えがまとまらない……ちくしょう。聖さまは、どこに行ってしまったのだろう?
不意に、拘束された白蓮のすがたが浮かびあがった。ついで絶えまない拷問とはずかしめだ。最後には、首が土へと落ちていった。
帰りたい、命蓮寺へ帰りたい……ようやく見つけた、新しい郷だったのに……じん生は、こうもかんたんに踏みにじられてよいものなのだろうか? 駄目に決まっているじゃないか! 馬鹿な人間どもめ……死にたくない……それにしても、眠りたい……。
「一輪、あれを見て」
水蜜が何かを見つけたらしく、街の方角にゆびを向けた。
粒のような光が見えた。それも鬼火の輝きだった。おそらく鬼火の提灯か何かだろう。どうやらこちらから向かう必要もなかったらしい。
「どうする?」
「待ちましょう」
どこに逃げようと、どうせ荒野だ。なら相手の善悪を問わずに、ここで待っているのもわるくないだろう。それにそいつの性格で、あの街が安全かどうかも多少は判断できるかもしれない。たとえば粗暴な者は粗暴な者で……そんなふうに、自分の近因と寄りそう傾向があるらしいのだ。むろん、こちらに向かっているあいつだけで、全体を知ることはできないが、できれば悪意のない者であってほしい……。
のろのろと向かってくる相手の影は、しばらくすると鮮明になってきた。予想していたように、鬼火を入れた提灯を持っていた。しかし、そんなことよりも目を引くのは、炎さながらの赤い肌に、頭からはえたふたつの角。背中をいやな汗が流れた。
ナズーリンとの会話が、牙を向けていた。
「なんだ、やっぱり誰かいるじゃないか」
「おい、そこで止まるんだ!」
相手が迫りきってしまうまえに、水蜜が言った。向こうは彼女の言うとおりに、動かなくなった。
「あやしい者じゃない」
「鬼のどこがあやしくないってのさ」
対話は水蜜に任せてしまい、相手を観察してみたりする。鬼は雌であるらしく、声が高かった。半裸で腰に布を巻き、そこに瓢箪をさげていた。胸のあたりで、垂れきった乳房が揺れていた。
「そいつは心外だね。あたいは鬼として、とても正直に生きている。あやしいところなど、これっぽっちもないつもりだ。
「船が封印されるなんて、めずらしいこともあったってのに、そこから誰もこないんだもんねえ。お蔭であたいが、様子を見にいくことになったじゃないか……ウフフフ、フフ」
ひょうひょうとした態度の鬼に、水蜜は歯をむきだしている。張りつめられた警戒が、こちらにまで伝わってきた。
駄目だ。村紗はやはり気を許さない質《タチ》なので、会話に向いていない。心の通路が狭すぎるのだ。
「ねえ」 腹の痛みを、こらえながら 「ここはどこなの」 まず、いちばん知るべき情報を得ようとする。
「地獄の一丁目さ」
「冗談は已めて」 うろたえそうになるのを、なんとか我慢しながら。
「ふん? なんだ、怪我してるじゃないか。その矢、抜かないのかい?」
「抜かないんじゃなくて、抜けないの。破魔矢なのよ。布でくるんでも駄目だった」
「ああ、にぎれないんだねえ……その矢、抜いてやろうか?」
「無理よ、手が焼けてしまう」
「その程度でひるむほど、かわいらしい皮フをしていないさ」
鬼が水蜜の横を通りすぎようとした。それを彼女は手でさえぎった。
「何さ」
「近づくな」
「聞いてなかったのかい? 矢を抜いってやるってんだ」
「信用しない」
「まあ、あたいはべつにいいけど。そいつ死んじゃうよ」
そう言われると、水蜜は言葉に詰まってしまう。そして、すこしにらみはしたものの、すごすごと引きさがった。
「何かしたら承知しない」
「気が強いなあ」
鬼が一輪の傍でしゃがみこみ、矢をつかんだ。掌が焼けつく音がしたものの、べつにひるんだ様子もなかった。
「一、二、三で頼むわ」
「うん……覚悟はいい?」
よくはなかった。しかし早く矢を抜いてしまいたかった。
「ええ」
「嘘は……ま、いいか。じゃあ、やるからね。一、二、三!」
躰をまっぷたつにされるような激痛と、肉に引っかかる感触があった。しかし一瞬だけだった。すぐに痛みがうせたので、とたんに脱力してしまう。躰が軽くなり、傷はすぐにふさがれてゆく。一輪は安堵して、ひゅうひゅうと息を整える。
鬼は引きぬいた矢を、どこかに投げすてる。鏃の形状は剣尻だった。刺さればかんたんには引きぬけない、獲物に喰らいつく陰湿な三角形だ。なんとなく、釣り針が抜けずに暴れおよぐ魚の気分を理解できた。
「一輪!」
水蜜が一輪の傍に来た。
「大丈夫、死なない? もう、死なない?」
「ええ、死なない……」
「そりゃあよかった」 鬼が焼けついた手を、ぷらぷらと振りみだしていた。
「助かったわ」
ひとまず礼を言っておく。
それはさておき、確認だ。ここがどこなのかを、たしかめなくてはならない。鬼は“地獄の一丁目”と言った。おそらくあれは、ただの比喩で、からかいだろう。そうに決まっているじゃないか。じっさい鬼の言いかたは冗談めいて、だからこそ真実に欠けている。本当の答えを知らなければならない。
「ねえ」 さきほどと同じ言葉を 「ここはどこなの」 くりかえす。ちがう答えで、固まりかけていた事実を塗りかえるために。
「地獄だよ」
「ねえ、助けてくれたのは感謝してるけど、冗談は已めてと言ったでしょう?」
「ふん? ひょっとして、封印されたのだと分かってないのかい? 最近は多いんだよ、ここに封印される妖怪が。まったく、ここは姥山じゃない、神聖な墓所なのに」
「嘘よね?」
「嘘じゃない。鬼は嘘を言わないんだ」
絶望に呼応するごとく、舌が乾きをうったえていた。
「地獄……」 水蜜が飲みこむようにつぶやいた。
「まあ、信じたくなけりゃべつに信じなくてもいいが。残念ながら、真実だ」
「そんな……たしかに、聞いたことはあった。手のつけられない妖怪を、鬼門をひらいて地獄に叩きこむ……それでも信じられない。本当に地獄なの?」
「うん、しつこいね」
叫びだしてしまいたかった。血流は、踏みにじられた生活を求めて泣きわめく。
許されることじゃない……こんなふうに、一生をめちゃくちゃにされて……かんたんすぎる……かんたんに終りすぎる!
しかし一輪はあわてない。諦めるにはまだ早かった。乾いたくちびるを舐めてから 「まあ、いいわ。地獄だろうと、なんだろうと」 そう。地獄だろうとなんだろうと、脱出してしまえば問題はないわけだ。どれほど堅牢な牢獄でも出口はある。まず入り口がなければ、罪びとをほうりこむことすらできないのだ。入り口とはすなわち出口である。
「とにかくここから出たいんだけど、どうしたらいい?」
「出る? 分からんやつだね。そんな方法ありゃしない、封印されたんだからね。いや、べつに出口がないわけじゃない。人界につうじる穴はある。とじられていて通れないがね。はいるのは容易だが、出るのはむずかしい。川の流れと同じで、一方通行なのさ」
「じゃあ、そこを開けてよ! 封印されたからって、べつに地獄の囚じんになったつもりはないんだから。私には罪なんてこれっぽっちもない。人間だって殺したことはないんだからね。冤罪はごめんだわ!」
「なんの義理があって生者を助けなけりゃならないのさ。そもそもあたいにはできないし、それにあんたが封印されたのは、厳密には地獄じゃない」 鬼が街のほうを見て 「いい? あそこに地獄がある。灼熱、針山、血の池。その施設こそ、地獄と呼ばれているんじゃないか。少なくとも就業規則ではそう定義されているね。
「この空間は広く、無駄だらけ。だからすべてが地獄ってわけじゃない。そこまで大きくしてしまうと、ひともたりないしね。放置してるのさ。つまり、そうさなあ。この荒野を、地底とでも呼んでみようか。あんたはそこに封印されたんだ」
「だから? ……」
「地獄とはなんの関係ないから、助ける必要はないってこと。本当に地獄のなかに落とされていたなら、誤発注の囚じんとして、人界に返せたかもしれないがね」
「へりくつよ! 就業規則とか、誤発注とか……それならなんの権利があって、人界への道をふさいでるの!」
「亡者と怨霊を逃がさないためさ。言っておくけど、人界につうじる穴はあたいたちが管理してる。だからそこも一応は地獄の一部なんだね。残念だけど、許可がなけりゃ誰も通すことはできないんだ」
「じゃあ、許可をくれ!」
「馬鹿なことを。妖怪ひとりのために、囚じんが逃げだす可能性を踏むはずはないだろう。まともな交渉もできないさ」
「うう……Bengziよ! こんなことは……なんで地獄なんぞにとじこめられなきゃならないのさ、私が何をしたんだ! 聖さま、ナズーリン、星。返事をしてよ! どんな悪人でも、まず本当に罪を犯したか調べてから牢屋に入れるものでしょう? それをなんの勧告もなしに、こんな……ねえ、お願いよ! 出口を開けて!」
「そうは言われても、あたいは偉くないからねえ。まあ、なんだ。せっかく知りあったんだし、仕事くらいは親切してやってもいい。ひともたりてないしね。風呂屋はどう? ……アハハハ、冗談だよ」
死にかけの虫さながらに、地面へうずくまった。目から涙が垂れてしまう。
諦めるもんか……崖から転落することが、転落なのではなく、転落したあとに登ろうとしないことこそ、転落と呼ばれているんだ。ここが錠のない牢屋ならば、牢屋それ自体を破壊してしまうんだ!
賽の河原で積まれた石をくずすには、刹那があればことたりる。小作人を絶望させるには、畑に火を放ってやればよい。
瓦解は、油断した隙に訪れる。
両手を広げて、鬼が言った。
「在るは亡く、なきは数そふ、地の底に、あはれいづれの、日までなげかむ! ハハハハ……そうだ、まだ名前を言ってなかったねえ。あたいは、小野塚××……ようこそ、影の国へ!」
< 光の当たらない牢屋にとじこめられた植物は、しぼんでゆく。根だけは諦めず、床を掘ろうとうねりだす。しかし床さえも、また堅牢な壁だった >
[裁判長に罪はない]
私は平等に被告を裁かなければならない! そんなことは、すでに知っている……
私が判断を誤ることはないし、判断を誤るような者は、最初から閻魔にはなれないのだ……だからと謂って、なぜ心のなかで被告を憎悪し、そして哀憐してはならないのだ?
罪びとがそこかしこに点在する。私はすべてを平等に裁く。だが本心では、心底に叫んでみたいのだ
そして私は心のなかで、本当に怖るべき被告を裁くとき、こう言ったのです
お望みどおり永遠に、地獄へ落ちろ! この、人でなし!