三、阿求の問われ問わず語り
起き抜けに格子窓から朝靄の彼方を見やればまさに日が顔を出す間際で、青い山脈の稜線が次第次第に浅葱にふちどられていく。だが何より眼をひくのは傍らの深山よりたなびきたる淡い噴煙である。なにあらかた新たな異変であろう、そもあれは妖怪の山、また守矢か、折をみて天狗の新聞記者にでも事情を問えばよかろう。
かような思考の中で着替えを済ました阿求はにこりと鏡を一瞥し、柄杓と汲み置きの水を抱えて庭先に出、水を打ち始める。厳冬に行うべき所作でなきことは元より承知のこと、炎暑の盛りでもあれば隣家への気遣いともなれど、今は凍結の恐れもある。阿求としては単なる流感からの快気祝いのつもりであった。床から這いで病の臭気が抜けるのを知る、ただそれだけのこととはいえ自らの生の薄弱さに怯えて暮らす身としてはうれしくてたまらないのである。喜色満面に四角四面に水を打つ容姿ははたからみれば気狂いのそれと大差はない。
そろりそろりと近づいてくるまさかの朝まだきの来客の影に、阿求は無心に振り続けたる腕をぴたりと止めた。柄杓を無造作に打ち捨て何事もなかったかごとく応対の用意に取り掛かる。茶箪笥から芥子色のハンケチを取り出し顔をうずめた。
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来客は人物目的共に予想外のものであった。自らの圏域から滅多なことでは出やらぬ竹林の犬猿が二人してやって来たのである。聞けば両人のいさかいの種となった人物への理解を深めんという目的の旅の途上という。
「碩学であらせられる先生の手を煩わせすぎぬよう、あらかたの予習はして参りました」
たおやかに観世水の綾織を羽織る黒髪の女性が訪問の意図を述べる。優なるアウラを自然に肢体にまとうその姿はまさしく女御のそれである。
「個人的なことで済まないけれど、ちょっとけーねには聞けない事情があるんでよろしく頼むわ。これ、一応お礼の筍だから」
洗いざらしのサスペンダーもんぺに身を包む白髪の女性が続ける。こちらは対照的に身なりはみすぼらしく、例うるなら女工のそれであった。
「そんなに気を使っていただかなくても結構でしたのに。藤原不比等についての現在の専門的な評価、ですか。当人と縁深い生き証人の方々の前でそんなことを話すなんて奇妙な話ですね」
「ただ同じ時を生き多少の縁があったというだけではその人となりの深いところは窺い知れませんわ。存外に自分の生きている時のことが一番わからないものではないでしょうか」
「ええ、案外そんなものかもしれませんね。わかりました。まずはお二人が今の時点で藤原不比等についてどこまでご存知かお聞かせください」
朝一から重っ苦しい役務が舞い込んでしまったものである。私の一言一言が甚大な影響を及ぼしうる、この二人にとっても、幻想郷全体にとっても。阿求は我知らず下唇を噛み締め集中を高めた。
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「ありがとうございました、ええ、多少誇張は見受けられますが、お二人がおっしゃって下さった理解の仕方で基本的には間違っていないと思います」
「はー、父上はとんでもなく重い仕事をしょってたのね。娘ながら全然わかってなかったわ」
妹紅の声音には明白に安堵の色があり、顔肌はうっすらと紅潮している。イディプスコンプレクスをこじらせる者でない限り、おのが亡父への賛辞を前に喜ばぬ子はいまい。
「とはいえ史上の人物の死後の評価がそこまで一方的に傾くということがございますでしょうか。良き名声を得たものには必ず留保がつけられ、悪名をとどらかしたものは必ず何がしかの弁護がつく、歴史を物語る後代の人間のさがとはそのようなものではないでしょうか」
慎ましやかに小首を傾げる輝夜の方には、平静を装えど、あからさまに不満が表れていた。なんと易く心理を見透かせることか。永き時を生きてなおかくの如き素直な感情表出をする二人に阿求は例ならず嫉妬を覚え始めていた。
「ええ、そうですね」
ことに輝夜の長口上も関せずにへらにへらと昔を懐かしむ様の妹紅に対し、ふつふつと、責めたし、虐めたし、という思いが沸き起こってくる。二人に比べられば雀の涙のごとき生長、空元気でむりくり回す日々、少しばかりの悪戯も許されてしかるべきなり。一流の職人なればこそ、大仕事のうちに遊びを繰り込むたくなるもの。
「藤原不比等については最近面白いことが言われています。どうも彼は歴史を都合のいいように捏造していたのではないかという疑惑が持たれているのです」
刹那輝夜がにんまりとほくそ笑んだのを阿求は見逃さなかった。
「不比等が生涯に渡って権力の中枢に有り続けたのは事実です。しかしその力がずっと安定していたというわけではありません。実は不比等と近しい関係にあった皇太子の草壁皇子、そして娘の夫だった文武天皇の二人が若くして亡くなるという事態に見舞われているんです。不比等はその度に中継ぎのための女帝をたててしのぎました。そのかいあって、最終的には孫の聖武天皇が即位することになります。ですが自分の息のかかった皇子を即位させるために女性天皇を立てるという方法はやはりイレギュラーであり、当時としても反感を買うものだったろうと推測されています。そのような皇室の危機の真っ只中にあった時に不比等が関わることになったのが、『古事記』と並ぶ最古の歴史書『日本書紀』の編纂でした」
妹紅は今や身を乗り出して話に集中していた。彼女の不安げな双眸に加虐心を煽られ阿求の語調はだんだんと熱を帯びていく。
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不比等はそこでこう考えたわけです。自身の権力の正統性を高めるような話に歴史を書き換えてしまえ、と。不比等の戦略は大きくいって二つのものでした。一つは当時の王朝の出発点だった大化の改新の正当化、もう一つは政府として奨励していた宗教、仏教の正当化です。
大化の改新とは、一人の皇太子と不比等の父の中臣鎌足が朝廷を牛耳っていた豪族、蘇我氏を倒して革命を起こし、体制の変革をおこなった一連の流れを指します。しかし現在では改新で行われた諸改革は、その多くが元々蘇我氏が進めていた政策を引き継ぐものだったことがわかっています。しかし不比等としては改新後の皇室の権威を正当化するためにも、駆逐された蘇我氏にはとことん悪者になってもらわないと困るわけです。だが蘇我氏は仏教を率先して朝廷にとりくんだ一派でもある。なんとか仏教を正義にしたまま蘇我氏を貶めたい、そこで不比等が考案した起死回生の策こそが、「聖徳太子」という架空の天才の創造でした。
崇仏論争での勝利から改新まで連綿と蘇我の支配が続いていた。不比等はそこに仏教信仰に篤い聖徳太子によって治められた期間があったという嘘をねじ込んだのです。太子は仏教を保護したばかりか、豪族たちの横暴を抑え天皇を中心とする政治を志向した正義のヒーローとして描かれます。しかも彼は女性天皇の代理として政治を行ったという設定のおまけつき、聖徳太子という存在の全てに不比等の政治手法を正当化する論理が組み込まれていたわけです。そして太子の死後については、再び権勢を握った蘇我氏に彼の息子を殺害させます。これで蘇我氏が悪、不比等の父たちが善という改新の構図が完成します。
以上のような不比等の目論見は完全に成功しました。聖徳太子は人間離れした稀代の偉人として尾ひれがついて、長きに渡り人々に愛される存在になりました。太子は十人が同時に話すのを聞いてそれぞれを聞き分けることができたなんて伝説も生まれたんですよ。そして不比等は聖徳太子の意志を継ぐ者として自らを演出し、権力基盤を確かなものとしたのでした。
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「まこと世の頂を追い求めた男の業の深さを思い起こさせる逸話でございますね」
品の良さが一層怜悧さを際立たせる微笑みを浮かべ輝夜が感慨をこぼす。妹紅はと言えばはづかしそうな、口惜しそうな面持ちで黙して語らない。一気呵成の語りを終えた阿求は、わかりやすく沈むこむ妹紅を目にし、自涜の直後に感ずるあの背徳感と悔恨に襲われた。少々やりすぎたかしらん。輝夜は嬉々としてしゃべるのを止めない。
「どんなに偉大な人間といえど必ず瑕疵はあるものですわ。かえってその卑小さが世人の共感を呼ぶというもの。ねえ妹紅、あなたもそう思わなくって?」
妹紅は苦りきったような顔で適切な答えを探している。さすがに助け舟を出すべき頃合か。
「待ってください。今の話はあくまでも学者の仮説の一つに過ぎません。実は最近この説に対する強力な物証が現れました。命蓮寺の地下より新参者たちが出現したのは御存知ですよね?」
「ええ、先日宗教家の人気取り合戦を見物した折に直で見ましたわ。なんでも古代から復活した道士らとか」
「そうです。その新勢力の指導者、豊聡耳神子は己こそがかつての聖徳太子その人であると名乗っているのです」
「!?」
こたびに限ってはさすがの蓬莱山輝夜も呆気にとられた様子を隠せない。藤原妹紅がここぞとばかりに口を挟む。
「おかしいじゃない。さっきの話ではまずそいつが実在するのもおかしいし、元々の前提だった仏教の保護者ってところからして矛盾してるわ」
「ですから、彼の存在そのものが先ほどの説の反証となるわけです」
阿求は妹紅の方へ向き直り正座をただした。
「妹紅さん、あなたにとっては不愉快な話を長々とすみませんでした。豊聡耳神子の復活が我々の歴史にとって何を意味するのか、私の考察を話してしまってもよいのですが」
阿求は妹紅の眼球を見据える。薄ぐろい、憂いが堆積する、まめまめしき者の目なり。
「もしこれがあなたの来歴を探る旅だというのであれば、おそらくあなたが直接復活した太子に会いに行き話を聞くのがよいでしょう。そこでこそ一番正しく、そしてあなたが納得できる答えが得られるはずです」
ここで阿求は今回の接見の中で初めて破顔した。
「ご安心ください、妹紅さん。決してあなたにとって悪いようにはならないはずですから」
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「それじゃ、世話になったな、ありがとう」
「朝も早くからお邪魔をしてしまい申し訳なく思います。お仕事に差し障りがなければよいのですが」
「いえ、とんでもありません。人と合わずに日暮し書いてばかりですと、もの狂おしくなってしまいますから」
むしろ竹林の住人と生で触れ合えたことは次回の著作への良き題材となりうる、とはさすがに口には出さない。
「それではお元気で」
「ええ、私たちも先生のご健勝をお祈り申し上げます、お達者で」
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仙界へと飛び立つ二人を見やりつつ、阿求は肩をなでおろす。
なんとかお役目は果たせり。これでみんなが幸せと思える結末に話は向かうはず。
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白髪 「ちょっと何さっきのあの口調、あの猫かぶり。まるで別人じゃない」
黒髪 「いやー、だって彼女には後世に私の素晴らしさを書き遺してもらわないと困るじゃない?」
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阿求は心静かに机に向かう平時の仕事に戻っていた。その日出会った妖怪や人間の印象
については即座に覚書として書き留めるのを習いとしている。曰く
「蓬莱山輝夜、所作出で立ち優なりといえども、その本然は計算高き稲荷なり。相対しては侮るべからず。」