下諏訪勢が辰野へ入ったのは、もう夜になった後だった。
日暮れまでには到着するつもりだったのだが、当初の予定より幾らか遅くなってしまったのである。それでも将兵五百は白い息を吐きながら、冬風のなかを過たず本隊の元にまで参着した。ひとまず、いくさが始まる前で良かったと諏訪子は思った。
見れば先立って辰野に入った味方は、すでに陣を布いている。
四方いずれに眼を遣っても赤々と篝火が焚かれ、その合間の闇を縫うようにして兵たちが食事のために起こす火も灯る。加えて、あちこちに兵馬の声もやかましい。何せ、下諏訪勢を除いても三千を超える規模の兵なのである。野営するだけでもかなりの喧騒となろう。それに冬の寒さのなかでは、あえて声を上げて騒がなければ身体が冷えてしまうというやむを得なさもある。兵たちの騒ぎや歌声に混じって、幾つか烈しく咳き込む気配も聞こえてきた。風気(ふうき)か、咳病(しわぶきやみ)か。いずれにせよ、病者を抱えての戦いは長引くほど不利だ。年内の決戦を望む声があるのも解る。
神奈子はじめ諸将が軍議を行っているはずの本陣に向けて、諏訪子は味方の陣を突っ切った。すでに輿からは降りている。周りを護衛の兵で固めた物々しさだが、通りすがる者らは特に諏訪子たちに注意を払うようなことはしなかった。自分を取り巻く男たちより背が低いせいで、諏訪子が通っているとは直ぐに気づかれていないのかもしれない。
途中、兵たちをかき分けるようにして、彼女はユグルが城を構える山を見つめる。
寥々として人の気配もない。澄み渡った冬の夜空の下で、わずかな星明かりを受けて城砦の威容がそびえているばかりである。それと知らなければ、とうに打ち捨てられた廃城と見てしまいかねないであろう。今度は、城と城を臨む一帯が戦場となる。
さして時間もかけず、本陣にたどり着いた。
篝火が発する熱の心地よさを顔に感じつつ、陣幕を自ら手で除けると、
「遅かったな、後詰めとはいえ」
と、もっとも上座に在る神奈子が眼を上げて苦笑していた。
「申しわけございませぬ。……もう、始まっておりまするか」
「いいや。未だだ。しかし、ちょうど良かった。まあ座れ」
神奈子に促されるまま、諏訪子はその隣席の床几(しょうぎ)に腰を下ろす。
途端、軍議に参ずる諸将の視線が彼女に集まった。高井郡のクジャンはじめ、北科野の諸豪族。そして南科野からは伊那赤須のジクイ。どうやらもっとも遅れていたのはやはり諏訪子であったらしい。皆はいちど、深々と諏訪子に辞儀をする。申しわけのなさが先に立ったわけでもあるまいが、少女はたださえ小柄な体格をさらに縮こまらせた。ばさばさと、冬風が陣幕を揺らす。各軍を率いる将たちも、思わず自分の身体を抱くかのごとく寒さに耐える。
「いくさ場ゆえ何の馳走もないが、酒ばかりはある。これで身体を温めよう」
あらかじめ神奈子から言いつけておいたのだろう、将たちの元には瓶子と杯がすでに用意されている。もちろん、さっき到着したばかりの諏訪子の分もだ。神奈子が「ちょうど良かった」と言ったのはこのことだったらしい。皆は各々、杯に酒を注ぎ、好きに飲み始める。諏訪子もまた――ちびちびと、ではあったが――飲み始めた。酒の風味が喉を焼き、腹に溜まる。それを四、五度もくり返すと、どうにか少しは寒さが和らいでくれたような気がする。
だが、にわかに活気づいた本陣のなかで、酒を勧めた本人である神奈子だけは、ひとり未だ瓶子の中身を注ぐことをしなかった。本陣の真ん中には将たちに取り巻かれるようにして、幾つかの矢盾を組み合わせた即席の机がしつらえてある。彼女は未だ酒に濡れぬ自らの杯を、その机に、逆さにして伏せたのである。かたり、という音が鳴るとともに、諸将の注目もそちらに集まった。
「身体も温まってきたところで……皆、ようく聞け」
ひとりひとりの顔を順繰りに見、神奈子は言った。
何があるかと、将たちも残らず身を乗り出す。
「いま我が伏せたこの杯が、すなわちユグルが籠る山だ」
トントンと、指先で杯を叩く神奈子。
おう、と、一同も同意の呻きを漏らす。
「この山の麓にわれらは陣を構えておる。山肌は急峻にて、攻め上れそうな場所は正面の道よりほかになし」
杯を縦にひと筋、神奈子は指先でなぞって見せる。
そこが、味方が目指すべき唯一の進路ということだろう。
「当然、城に通ずる道がこのひとつしかないうえは、城方も全力を投じてこよう。いかにこちらの兵が三千を超えるとはいえ、道が狭隘(きょうあい)な場所ひとつしかなければ、味方はいちどに数十ずつしか敵に当たらざるを得ぬ。いたずらに突撃して周りを囲まれれば、木の実の皮を剥くようにじわじわとやられていくに違いない。対して、敵はそれほど疲弊もせぬ。“一本しかない刃物で、一個ずつ送られてくる木の実の皮を剥けば良い”のだから」
神奈子が言い終わるか終わらぬかのうちに、将のひとりがさッと挙手をした。
高井郡のクジャンである。「どうした」と神奈子が振ると、彼は一礼をして「物見からの報せによりますれば、」と口を開く。
「件の一本道には、矢盾も逆茂木(さかもぎ)も見受けられなかったとのこと。この道だけが敵の本丸に通ずるものなれば、いっそう防御を手厚くしてしかるべきでは? これでは道理に合いませぬ」
至極当然とも言える疑問を、彼は呈していた。
城への行路となる道が山肌に通る一本しかなければ、そこだけを守り抜けば良い理屈だ。少ない兵力でも、大兵力相手にしばらく持ち堪えることができる戦い方である。それは神奈子も先に言った。しかしクジャンが報告したところでは、その守り抜かなければならないはずの道の防御こそ、もっとも手薄だという。これはいかにも不自然である。
「わたしも――、」
と、諏訪子も挙手をした。
「出兵の以前(まえ)。ユグルとの最後の交渉に赴きしとき、同行せる将のひとりが防御の手薄さについて申しておりました」
ふうん、と、神奈子はうなった。
自らが伏せていた杯の縁を指でさらりとなぞると、「あるいは、これもまた策を講じたる所以ではないか」。そのように、思案をする。
「元より、敵も味方も通れるような場所はここ以外になし。となれば、必然としていくさはこの一本道で行われるということ。つまり、城方にとっては自らに有利な戦場であるこの道に、われら諏訪勢を引きこまねばならぬ。そのために、わざわざ道を開けたのではないかとも取れる。厚く防御を敷いたせいで諏訪勢に迂回路なぞ探されれば、墓穴を掘るのは兵力の少ない辰野勢だ。山のあちこちに兵を振り向けられるほど、相手に余裕はないはず」
なるほど、と、皆がうなずいた。
しかし、納得のいかぬ点もむろんある。
将のひとりが言を進めた。
「では、どのように攻めるとの仰せか。山肌は急峻にして兵を進めるにおぼつかず。唯一の道は敵の策が待ち受けている怖れあり。このままではこちらは攻め手を欠いておりまするぞ」
それもまた、当然の疑問であった。
いちどは納得しかけた皆が、眉根を寄せて思案する。春や秋であれば、山上の小城ひとつ物量に任せて押し潰すことも考えられよう。しかし、今は冬なのである。寒さは敵ばかりでなく味方の士気まで削いでいく。そして出兵が長期に渡れば、不利になるのはむしろ諏訪勢の方だ。まして戦力の中核をなす北科野勢は、ひと月以上も郷里を離れて矛を握る将兵たちである。功名と疲労を天秤にかけたとき、後者にいっそう重い傾きの宿らぬ道理はない。
しばし神奈子は黙考した。
いかに短期決戦を望むとはいえ、直ぐに力押しと即断を望まぬあたりが彼女のいくさ神たる所以であった。顎に手を当てて、小雪の舞い始めた空を恨めしそうに見つめる彼女。
「そもそも策の有無を、見極める必要があるが……」
絞り出すような声に、皆が改めて注目した。
「策の在りや無しや。誰かが先鋒の軍を率い、それを確かめねばならぬ。そのうえで血路を拓かねばならぬ」
将たちは、ためらいがちにうなずいた。
山肌の一本道がこの戦いにおいて、いわば『最重要の拠点』でもある以上、ここを掌握せねば諏訪勢は先へは進めまい。誰もがそれは解っているし、頭にも入っている。しかしだからこそ、いくさ神である神奈子がこの状況を打破してくれる秘策なるものを携えていると、思い込んでいた節さえある。少なくとも諏訪子には彼らの様子がそう見えた。
だが、実戦にそのような賭けはあまりにも危険であるということを、やはりいくさ神たる八坂神奈子はよく心得ているのであったろう。いたずらに乾坤一擲の奇策に頼ることなく戦法の定石を踏むのが、結局はもっとも安全な策であるということだ。
机に伏せていた杯を戻すと、今度こそ神奈子は酒を注いだ。
そしてそれを一気に飲み干すと、ぎらと諸将に眼を遣って、
「ジクイ!」
と、大声で南科野の豪族を呼ばわった。
「此度の先鋒は、そなたたち南科野勢に命ずる」
突如の指名を受けたジクイは、多少、肩を怒らせたようであった。
先鋒――ということは、味方のなかで誰よりも早く敵と矛を交えることのできる立場だ。武人にとっては誉れである。しかしその一方、今回の作戦にあってはもっとも危険な役目ともいえた。彼の態度は名誉を受けたことへの緊張とも、あるいは危険な仕事を任されたことへの憤りとも見える。とは申せ一応は、表情(かお)には不満の影さえひとつ滲ますことなく「承りましてございまする」と答えはしたが。一方、その向こう側では、クジャンがどこか悔しそうな顔でジクイを睨んでいた。武人としては、一個の誉れを逃したのを惜しむ気持ちがあったのだろう。
「先鋒を仰せつかったうえは、直ぐに準備に取り掛かりとうございますが」
一礼をすると、甲冑の札(さね)のこすれる音をさせながら、ジクイは本陣を出ようとする。すると、彼の後を追うごとく神奈子も立ち上がった。何かひとつ、申しつけがあるらしい。
「いの一番に敵に当たるとはいえ、性急に軍を進めること罷りならぬ。あと数日のあいだは物見を放ち、敵の次第を見極めることに専念せよ。攻め上るに易しと判断したとき、初めて下知を下す。心得ておけ」
神奈子の言葉を耳にすると、ジクイはほんのわずかに顔を傾げて再びの一礼をした。本陣に残った人々からは、彼の頬にある大きな傷跡が見届けられる。やがて諸将もジクイに一礼を返すと、彼は揚々たる面持ちで自らの陣に引き上げて行った。しかし。
「どうした、諏訪子」
「あ、いや。あのジクイが、ここに及んでまたもわれらに弓を引きはせぬかと……」
「さすがに杞憂と思うぞ。やつもそこまで恩知らずではあるまい」
確かにそうではある。
ジクイには、ユグルとの癒着を諏訪王権に見逃してもらったという、一応の恩義があるのだから。諏訪子は、ゆっくりとうなずいた。
苦笑すると神奈子は再び床几に腰を下ろし、酒を飲み始める。
ジクイひとりを欠いたまま、過去の功名話を肴の代わりに将たちのささやかな宴は続く。そのさなかにあって、諏訪子もまたさっきまでと同じように酒を飲んではいたのだが、心中、小さな緊張もあった。神奈子の言う通り、まさかジクイが裏切るとは彼女も決して思っていない。それに、彼がいま辰野へ軍を率いているということは、ギジチに命じた“裏工作”が成功したということであろう。
しかし、だからこその不安だ。
本陣を出て行くときのジクイがちらと見たのは、神奈子でも他の将たちでもなく、他ならぬ諏訪子その人だったからである。ギジチを通して交わされた『密約』を違えてくれるなと、念押しをするみたいに。
本心において裏切りに等しきことを行っているのは、むしろ洩矢諏訪子の方なのである。
とはいえ、すべてはいくさが終わった後を見越しての策であった。干戈を交えるうえは、すんなりと事が終えられて欲しいと、幾度目かの杯に口をつけながら諏訪子は思う。
――――――
翌日。
まだ夜が西の果てに歿しきらぬだけの早朝に、諏訪勢の陣を抜け出す一軍があった。
数にして六百ばかり、騎馬の者はひとりも居ない。
本来なら馬上にあるほどの身分の者も、今は徒歩(かち)で移動している。
これから、一散に山道を駆け上がらなければならないからだ。鉄の甲冑の鳴り音が響く。朝靄もなく晴れ晴れとした冬の野原を進むのに、その動きは大胆とさえ言えた。とはいえ地を踏む足音さえ、この一軍は殺せる限り殺している。将兵の大半が寝静まった暁の刻限では、彼らの行動に気づく者は誰ひとりとして居なかった。
「足音が高いぞ。もっとおとなしく動け」
自ら先頭に立つジクイが、できる限り声をすぼめて兵たちに命ずる。
伝令のための鉦も軍鼓も未だ鳴らせない。そんなことをしたら今度の策が露見する。冬空が日の出を終え切る前に、わざわざ諏訪勢の陣を抜け出てきたのである。未だ地表に残った夜闇に紛れて山までたどり着くにはよほど静粛に、そして迅速に行軍をしなければならなかった。八坂神の忠告を無視してまでこうして先鋒の役を務めるのだ。失敗した、ではあまりにも格好がつかぬ。
要するに、南科野勢が企図したのは『抜け駆け』である。
八坂神奈子の下知を待たずに独断で、さらにまた独力で敵城に通ずる道を制圧しようと考えたのである。
「何が物見を放って慎重に、じゃ。敵は小勢、道はひとつ。おまけに防御も手薄ときている。朝駆けして奇襲を仕掛ければ、労せずして血路は拓ける!」
やはり声を絞って、ジクイは自らに続く将兵たちをそう鼓舞した。
皆は盾を打ち鳴らすこともなく無言に矛を振り上げて、鬨の声の代わりとした。
『夜討ち、朝駆け』という言葉があるように――敵が眠っている夜、あるいは未だ起き抜けで士気の上がらぬ早朝に攻撃を仕掛けるのは、奇襲戦法の基本とされる。むろん、ジクイが取ったのはその後者である。味方に自らの策を伝えず独断で陣を出たのは、万が一にも敵にこの計略が漏れ伝わらぬようにするためであった。
それに、政を見据えてのことでもある。
八坂の神が先鋒に自分を指名したのは、戦いのなかで王権に対する忠義を示してみよということであろう。畢竟(ひっきょう)、かの軍神は南科野の忠義を未だ完全には信じていないのだ。ここで手柄を上げれば、ひとまずは八坂の神が自分に向ける疑義も解ける。上手くすれば王権に対する発言力も増すというもの。わざわざ味方の眼を忍んで抜け駆けをする理由は、ジクイにとって十分すぎた。
心中に諸々の目論見を宿しながら、彼の率いる六百の軍勢は冬の野を駆ける。
しばし走って、彼らが山の入り口と思しき箇所にたどり着いたときには、すでに日が東の空を明々と塗り染めることを始めている。陣に残った味方の諸軍が、南科野勢が居なくなっていることに気づくのにはいま少しの時間が掛かるだろう。
「ようし、……行け!」
本隊に先立って放った物見が「異状なし」の報せとともに帰ってくると、ジクイは手を振って進軍を指図した。
静粛を貫いて朝駆けの奇襲を成功させるべく、将兵は無言で突き進んでいく。
一方、身につけた武器や甲冑は互いにこすれ合い、小さな音を立てていた。
それに上書きするかのごとく、山道に浅く積もった新雪を踏む、ザクザクという音が皆の耳を染めていった。山中の道は平地より厳しい。まして冬山である。一見すると人が足を掛けられるような地面に見えても、雪に隠れて巨木の根が張っていたということもある。歩き慣れぬ土地のこと、誰かひとりがつまづくと他の者たちまで連鎖して転んでしまいかねない。冬のさなかでありながら、ジクイは首の周りの汗を籠手越しに手で拭った。城に通ずるのがおおよそこの一本道しかないとはいえ、さすがになだらかな道とは言いがたい。これでこそ頂に城砦を構えるにはうってつけの場所だ。
起伏ある雪の山野と木々の群れをかき分けるように、軍勢は急ぎ突き進んだ。
ばさりと音がした方を振り向けば、巨人のように高い梢から雪の塊が落ちてきただけということもあった。顧みればそれは、斯様なつまらぬ現象でさえジクイたちの注意を向けさせるほど、一帯が寥々たる沈黙に包まれているという証である。幾ら進んでも、敵の影ひとつ見出せない。
「よもや、道を誤ったか……?」
行軍をいったん停止させ、ジクイは辺りを見回しながら呟いた。
次第に疲労していく人間たちの姿が奇異に見えるのか、遠くでは狐が小首を傾げて彼らを傍観している。何人かの兵がふざけて雪玉を握り、そんな獣に投げつけたりもしていた。
「まことに、こちらの道で正しいのであろうな」
「元より一本道です。横に逸れるなどあり得ぬと思いますが……」
寒さで痛みだした頬の古傷を指先で押さえながら、側近の一将にジクイは尋ねた。
踏み込む前にある程度、物見に探らせたのだ。道が間違っているとは彼自身にも思えない。しかし、幾ら進んでも敵の姿が本当に見えない。このままでは何も起きぬままユグルの城にたどり着いてしまうだろう。そう思えばこそ、焦りと不安もある。
いや、しかし……。
と、彼はかぶりを振って思い直した。
「抜け駆けまでしてここまで深く踏み入った挙句、敵と戦いもせずに陣に戻ったとあっては、ただ恥ばかり持ち帰ることになってしまう。進めるところまで進むぞ」
言葉の端々には、――ジクイ自身も気づいていないながら――紛れもないいら立ちが混じっている。側近はうなずくと、全部隊に大将の意を伝達させた。
また少しのあいだ、六百の軍勢は雪を踏み越えながら山中を進んでいく。
次第に、荒くなった呼吸の音が高々と籠るようになっていった。山中、いつ敵が現れるか判らぬ、しかしいっこうに何も起きない。この妙に辻褄の合わぬ状況が、短いあいだに確実に疲弊を募らせていったのだが。
「ジクイさま。この先に大勢の足跡を見つけました。おそらくは敵勢の移動せる跡かと!」
本隊に先行させ幾度目か放っていた物見が、そう報せてきたのである。
にわかに軍勢は意気を回復した。朝の寒さのなか、何の実りもない雪中の行軍ばかりでそろそろ嫌気が差していた頃合いだ。将兵みな矛を握る手にも改めて力が入るというもの。
「よし急ぐぞ! きっと敵は近い。一番手柄はわれらのものだ!」
将たるジクイの号令一下、軍勢は行軍を再開した。
やはり矢盾も逆茂木も設置されていない山道を駆け登り、白い息を吐きながら皆はさらに山の奥へ奥へと進んでいく。その道行きをいざなうようにして木々は背丈を伸ばし、先の見通しも白色の闇のなかに埋もれていくかのようである。敵勢の足跡をたどりながら、いくさへの期待に満ちて将兵は走る。と、そのうち。
「待て! …待て、止まれ」
ジクイは再び軍勢を停止させた。
左右から折り閉じさせるような狭い道が延々と続いたと思ったら、今度は急に開けた場所に出たのである。開けたとは言ってもその地形は、歪な縁取りをした鉢が一個だけぽつねんと置かれているような有り様だ。周りは、雪煙りを吹かせる岩場めいた山肌に覆われている。いま南科野勢が踏み込んだのは、その鉢のもっとも底に当たる部分のようだ。山中にて、急にこのような場所に出るのは意外であった。一本道というのであれば、急峻ながらに城までずうっと山道が続いていると思われていたのに。
突如として音が鳴った。
枯れ木を踏み砕くような音だ。しかしジクイ以外は気づいていない。急ぎ辺りを見回すが、誰ひとりとして異状を察知した者は居なかった。
「ここにも、敵は居らぬのか……?」
まるで、延々と続く無間の道に迷い込んでしまったかのようではないか。
舌打ちをし、足下にある雪の塊を蹴り飛ばす。そのさらに下にあった土と混ざり合い、白い雪は黒々と汚れて飛び散っていく。
すると、まさにそのときだった。
ひゅう――――――ッ、という、鋭利な鳴り音とともに、雪を蹴り上げたジクイの足の甲にざくりと何かが突き刺さる。唐突な出来事に頭が対処しきれず、「ん……」と間抜けた声で彼は自分の足を見た。びんびんと尾羽が空気を裂く衝撃さえ未だ殺しきれぬまま、一本の矢が彼の足の甲に突き立っていたのである。
「ぎゃあ、ッ、!」と、断続した悲鳴を上げたのは、痛みよりも恐怖の方が先に立っていたせいであろう。今の今まで何も起きなかったのに、いきなり矢が飛んできた。それが自分の足を貫いている。慌てて後続の将兵を振り返るジクイ。大将の悲鳴に驚いて、皆がどよめいているではないか。ひとまず、これを鎮めて状況を把握せねば。そのための下知をせんと、彼が大きく息を吸い込んだとき。
「今だ! 囲め、囲め!」
響き渡ったのはジクイの声ではなく、味方の将の声でもない。
聞き覚えのないその音声(おんじょう)は、周囲の山肌から放たれるものであった。
この状況では間違いない、敵方の者の声だ。
「矢をつがえ!」
今まで続いていた静寂を突如として破壊した声は、直ぐさま次の『指示』に移る。
ジクイはじめ南科野勢が狼狽して周囲の山肌を見回すと、百を下らぬ数の敵が次々と姿を現したではないか。彼らはみな弓を負い、鏃(やじり)をこちらに向けていた。位置にして、明らかに南科野勢より高所を取っている。一方、ジクイら六百の軍勢のうち前半分は鉢の底、後ろ半分は未だ山道にある。どちらに眼を遣っても、後方を除いて完全に周囲を囲まれている。将兵の顔に、疲労も喜びも塗り潰して絶望が広がった。この早朝に浮かべたどんな表情より色濃い絶望だ。
「構え!」
敵将は過たず、狙いを南科野勢へ向けている。
ここに至って、ようやくジクイはすべてに気づいた。
今まで何の防御もなく、ひとりの敵とも出くわさなかったのは、やはりユグルの仕掛けた罠だったのだ。山の奥深くまで敵を誘い込み、真に包囲に適した場所にまで入り込んできたと見てから一網打尽に攻め立てる。この鉢に似た地形に迷い込んだ時点で、ジクイたちは蟻地獄に落ち込んだ蟻も同然だったのである。
そして、ここまで敵――ジクイたちを誘い込んで行われることはただひとつ。
「放てッ!」
高所から矢の雨を放って行われる、徹底的な虐殺である。
「応!」と岩肌に陣取る敵の弓兵は気勢を上げ、山道から動けぬ南科野勢に次々と矢を放ってきた。前後に細長く、また周囲を高い壁に囲まれたも同然の地形である。連続で矢を放たれれば、ジクイ側にとってはほとんど身動きもできぬまま矢の雨をまともに浴びることになってしまう。真白い雪の山腹に兵たちの悲鳴と絶叫、鮮血の飛沫(しぶき)が絶え間なく飛び散る。初撃に続いて二度三度、辰野勢の矢は放たれた。その度に南科野勢の兵は全身を針鼠にされ、ひとりまたひとりと確実に息絶えていく。むろん、弓矢ならば彼らも装備していた。しかし高所から、加えて絶え間なく飛んでくる大量の矢に対してはそうそうすばやく対処できない。弓を構えているあいだに、自分が敵の鏃の餌食となってしまう。混乱のなかで、南科野勢は瞬く間に数十人もの死傷者を出していく。
「何をしておる、盾を掲げよ盾を!」
混乱の極みでもどうにか今現在のあまりにも不利な状況を把握し、ジクイが皆に怒号を飛ばした。はッ、として、将たちも率先して「盾だ、盾!」と兵らに伝える。うなずく間さえ惜しむほどに、兵らは飛んでくる矢を防ぐべく盾を掲げる。ありふれた木製の盾ではあったが、矢を防ぐにこれを凌ぐほど良い手もない。どちらを向いても敵という状況のなか、混乱しかけた兵たちは盾を掲げることさえ忘れてしまっていたのだから。
「しばしこうして盾で凌ぎ、敵の矢が尽きたところで反撃に転ずるのだ」
自らも味方が掲げる盾の後ろに逃れながら、ジクイはなおも指示を下す。
どうにか弓矢による攻めを凌いでいると、兵たちにも幾らか心の余裕が生じてきたに違いない。盾の陰で頬を緩ませ、ジクイの言葉にうなずく者が幾人か。すると、やがて。
「矢の雨が晴れたぞ。……今じゃ、行け!」
盾の陰からほうほうと這い出、ジクイはつるぎをかざして命じた。
先ほど辰野勢が上げたのと同じくらい軒昂の気勢を、南科野勢も大声で放つ。
敵が陣取る岩場の上を目指して、登攀(とうはん)の邪魔になる盾を棄て、雪に覆われた岩山に手足を掛けて登り始める兵たち。岩場とはいえ人が登れぬほど急峻ではない。現に敵は岩場の上に陣取っているのだ。そして彼らを援護するように、矢の雨から生き残った弓兵も高所へ向けて矢を放ち始める。そのうちの幾本かは、確実に辰野勢の兵を仕留めていった。うめき声を上げて倒れ込む敵。地の利に左右される状況さえ凌げば、依然として数の利を保つこちらにも勝ち目は回ってくる。ジクイは、そう考えていた。だからこそ命じた突撃であった。
しかし。辰野勢の将はいっこうに撤退を指示しない。自分たちが陣取る場所に、もうすぐ南科野勢が到達するという段になってもなお。さすがにジクイも不審を覚えた。だが先に傷つけられた足の痛みが原因となってか、思考の様がはっきりとした落ち着きを見せてくれない。加えて戦いの高揚のせいもあったのだろう、彼の冷静さを乱しているものは、皮肉にも眼前にちらつく功名そのものだったのである。
そして、次の瞬間であった。
ジクイの目論見をあざ笑うかのように、沈黙を貫いていた敵将が再び声を上げた。
「そろそろ頃合いよ。石じゃ!」
へぇッ……?
と、ジクイは思わず意味を為さない声を出してしまう。
岩、とは、何か。敵もさすがに矢が尽きて、攻撃の手段を失っているはず。ここにきて岩とは。まさか、いや、しかし。ぐるぐると渦巻く不安は、次の瞬間、現実となる。
「落とせ! 石を落とせ!」
将からの凛々たる号令一下、さっきまで弓矢を手にしていた辰野の兵たちは一瞬ばかり後ろに下がる。しかし、それは退却ではなく次の攻撃への行程であった。彼らが弓の代わりに持ち出してきたものは、子供の頭ほどもある石であった。それを両手で持ち上げ振りかぶる。直ぐ眼の前で展開される光景に、瞬く間に青ざめていく南科野の兵たち。その幾つもの顔に向けて、石の群れが容赦なく叩き落とされた。
ばきり、めきりという不気味な音が、左右双方の岩場から連続して鳴り渡る。
石をぶつけられたことによって甲冑はおろか、顔面の骨さえ砕かれていく南科野の兵らの死の音であった。先頭に立って登攀を試みていた者たちからまず先に、投げ落とされる石によって鼻を粉々にされ、歯を断ち折られていく。眼窩から目玉が飛び出した者もある。力尽き命も尽き、やはり血飛沫とともに彼らは次々と岩肌から落下していった。最初の死傷者は後続の味方をも巻き込んで、またも鉢の底なる狭隘の場へと押し戻されていく。弓矢による最初の攻撃に続き、ジクイの軍は瞬く間に死傷者の数を倍以上に増やしてしまったのである。
痛い、殺してくれと訴える、瀕死の兵たちのうめきのなか。
こちらを見下ろす敵勢を睨みながら、ジクイは歯噛みをせざるを得なかった。
岩場の上の敵と戦うには、兵たちに登攀をさせねばならぬ。しかし、そうすると邪魔になる盾を棄てねばならぬ。岩による攻撃を防ぐ手段は皆無に等しい。そして、――実質、この場から動けなければこの虐殺はいつまでも続くのではないか。
「おのれ、……たかが十四の小僧めがッ!」
この道行きの奥に居るのだろう、敵方の総大将たるユグルの姿を彼は幻視した。
実際にいくさの指揮を執っているのはかの少年に仕える部下たちであろうが、しかし、地勢の利を確実にものにしているのは紛れもなく事実である。戦えば戦うほど、死屍累々たる惨状を呈するのはこちらの方に違いない。
「ジクイさま、われらだけでは勝てませぬ! いちど退いて本隊と合力を致しましょう!」
死んだ兵の手から取った盾をかざして投石を防ぎつつ、将がジクイに進言する。
今や登攀する味方の大半を叩き落とした敵からの投石は、今度は下方に残る将兵に向けられていた。断続的に兵の悲鳴が上がり、白かったはずの雪の道が惨たり赤々としたものに染まっていくなか、それでも残った弓隊は果敢に応戦する。しかし、敵もまた自らにとって最大の脅威である南科野勢の弓隊を優先して攻撃しているのである。じわりじわりと、ジクイたちはその戦力を削られていく。
この場にもはや勝ち目はなし。
ジクイは将として、悔しさと己の無謀さに歯噛みした。
その両の眼からは血の涙を流さんばかりであった。
「やむを得ぬ……山を下りる。退け、退けぇッ!」
恐怖のためか悔恨か、退却を指示する彼の声は極度に上ずっていた。
なおも降りしきる投石のなか、南科野の兵たちはやれ助かったとばかりに元来た道を一散に駆け戻り始める。少しでも早く麓に帰り着きたいのであろう、無傷の者もそうでない者も、盾や矛を次々と投げだして丸腰で逃げ出す有り様であった。敵に奪われて利用されるかもしれぬという、至極当たり前のことにすら考えが及ばぬほどの恐怖であったのだ。
一方、辰野の将は南科野勢が退却を始めたと見るや、さッと片手を上げる。
すると辰野勢は互いにうなずき再び身を引っ込めた。しかしジクイはじめ、すでに退却し始めた南科野勢には、彼らが何の狙いあってそのような動きに移ったのか、見極めるだけの余裕さえすでにない。投石が止んだのをさいわいと、つまづいて転んだ味方を踏みつけてまで脱兎のごとく逃げ続ける。
雷鳴が地を這うごとき不穏な音が轟いたのは、そのさなかであった。
異変に気づいた将兵の幾人かが、足を止めて後ろを振り返る。しかし狭い山道で急に動きを止められれば、当然ながら他の者たちの移動の妨げとなる。「早く進め!」という怒号が突き出されるなか、振り返った者たちの顔は、自分たちの背に迫るものを知ってみるみるうちに青ざめていった。
「おい。……早く逃げるぞ」
「なに言ってるんだ、逃げるのは当たり前だろう!?」
「そうじゃない。あれだよ。……」
と、力ない素振りで一部の兵が後ろを指す。
釣られて残りの者らもその方向を見、そして、一気に後悔した。
「丸太だ! 敵は丸太を転がしてきた!」
誰かがそう叫ぶと、南科野勢の退却はさらにその速度を増していく。
鮮血に染まった雪の道を砕くかのように、生き残った彼らを襲い始めたのは、最後の仕上げとばかりに辰野勢が投げてよこした丸太の群れだ。大人の男の体格よりも大きく太いそれらが、凄まじい速さで山肌を転がり落ちてくる。狭い坂道に巨大な丸太の群れが殺到したらどうなるか。弓矢や投石以上に除けようがない、圧倒的な破壊力を持つ攻撃である。二度の攻撃でもどうにか生き残った兵たちでさえ、大半がこれに巻き込まれて押し潰されていく。
かくて、かろうじて秩序のようなものを保って退却していた南科野の兵たちは、完全に恐慌状態に陥ってしまった。悲鳴、怒号、号泣。ありとあらゆる苦痛と恐怖の発露が、坩堝となって数百の将兵を覆い尽くす。その渦中にあるジクイ自身も、汗と涙と涎をだらだらとこぼしながら、死んだ味方の骸を踏みつけ我先にと麓を目指して逃げ出していった。
いっさいの疑いようもない完全なる敗走であり、また潰走であった。
麓の諏訪勢本隊と合流するまでのあいだ、抜け駆けを行った六百の南科野勢は、最終的に二百を下らぬ死傷者を数えることとなったのである。(続く)
(語れない…)
筈なのに……
やっぱり作者氏はモレヤにしろユグルにしろあぁ云う子苛めるの好きなの?
SAN値ガリガリ削られそうなアレ描写にしろ(まあケロ邪神ですしね)、殺戮(ジェノサイド)にしろ、
今回は特に筆が乗ってるよう感ずる溌剌とした良い文章でした。ハラショー
艦これに負けないでください何でもしますから!
今作も面白かったです。
次回でいよいよ佳境となりますか。
この騒動の先にあるもの、是非見てみたいと思います。
というわけで次回作を楽しみにしております。
片目をブッチされたウヅロのシーンも…領地から追い出されるのはまあまだしも、信じた神から祟りまで受けるとは…報われない。むごくて無情な仕打ち…。ダラハドもこの祟りを受け継いでいますが、祟りって消してあげられないんですかね。矢は放てても、それを引き戻すことは弓手にはかなわないのかな。それとも本当は祟りを取り消せるけど、面子とか威厳とか今になってとりやめると道理が通らないとか諸々しがらみで消さないだけなのか。
そしてミシャグジ様が相変わらずかわいいです。どくろを巻いて諏訪子のそばに鎮座して、質問に一度答えただけなのに何故こんなに萌えるのでしょうか?しかもそれぞれ特技を持ってて、かなり便利そう。
でも無理な時は休んでもいいんやで、ずっと待ってるからの
敵の潜水艦を発見!
なんかもう、モレヤだけが唯一の和み要素になってきてしまっている。諏訪子も神奈子と対立しそうな感じだし。やはり諏訪子も一角の王なのかな。双頭の獅子は互いを食い合うと言うが・・・
なんにしろ、不名誉に没するユグルが偲ばれる。
諏訪子の心情を視点として話が進みましたが、武将として神として政治家としての情や葛藤が垣間見れて面白かったです
現実にシビアに対処するも理想というか何かを忘れた人間なんかに人の上に立てる魅力なんてあんまりないですからね
結果として自分と部下を傷つけて敵の戦術を持って帰ったのって凄く神奈子に貢献しているような…