「では辰野へは、北科野から二千。両諏訪から五百ずつ、加えて南科野のジクイから合わせて六百。総勢三千六百の軍勢を派するが、それで構わぬか」
評定の場を見渡し堂々と宣した神奈子に、異議を唱える者はもはや誰も居なかった。
みな一様にうなずきを見せ、近く来たるいくさに向けて、その眼のなかに戦意を爛々とたぎらせている。未だ鎧兜も身につけていないにもかかわらず、心のうちは、はやいくさ場めがけて進撃を開始しているのであろう。さすがに、諏訪子は感嘆した。もと敵であったとはいえ、諸国諸州の異人異神を相手取り、十余年を戦い抜いてきただけのことはあると。ユグルのように、燃え盛る自らの正義を剥き出しのまま振りかざすことは決してない。涌きあがる凶気を、戦いのときにこそ振るうべき戦意として、研ぎ澄ますすべを心得ている。それが八坂神奈子たちなのだ。
その事実を称賛すべきか忌むべきか、判じかねて唇を尖らす諏訪子。
すると彼女の態度など気にする風もなく、神奈子がこちらへと顔を向けてきた。諏訪子も、相手の視線に気づいて眼を動かす。応え(いらえ)がごとく、神奈子が口を開く。
「陣構えの詳しいかたちはまた後で議するとして……此度のいくさ、下諏訪勢五百は諏訪子が直々に率いてもらう」
「何を仰せられます……!?」
いささか意に添いかねる決定である。
いけませぬ、と、諏訪子は直ぐに首を横に振る。
「諏訪子には、一軍の将などとても務まりませぬ」
「急に何を申す。下諏訪はそなたの治める洩矢御料にて、その地の兵は洩矢の兵。それにわれら出雲勢とのいくさの折は、自ら戦場に出張っておったと以前(まえ)に言うておったではないか」
「あのときと今とでは、いささか事情が違いまする」
なおも強硬に「否」をくり返す諏訪子であった。
別にいくさをするなと言いたいわけではなかった。南科野を平らげるために豪族たちを用い、その武力によってオンゾを滅ぼすよう仕向けたのは、他ならぬ洩矢諏訪子の仕業である。必要とあらば腹黒い謀略も用いよう。敵する者の首々を地平線の果てまで並べもしよう。だが、このいくさだけはいけない。少なくとも自分が手を下すべきものではない。そういう思いが燻ぶっている。
「何が違う。此度、軍を率いるにいったい何の不都合やある?」
怪訝さのなかに、若干のいら立ちを刻みながら神奈子は言った。
急ぎ事態の収拾を図りたいこのときに、よりにもよって自分に次ぐ地位に当たる洩矢亜相が駄々をこねているのが気に入らぬと見える。彼女は胡坐をかいたまま、頬杖ついてじろと諏訪子を睨みつけた。
諏訪子は、むろん、何がしか答えようとした。
王の命を受けぬと言い張る以上は、そのための奉答は正当な理由を湛えていなければならない。しかし。
「わたしは辰野との交渉に失敗した身。この期に及びてまた彼の地に赴くなど」
「白々しいな。ミシャグジの神は、軍事をも司ると聞いたことがあるぞ」
「なれど此方に在る御方こそ軍神(いくさかみ)。わが采配など無為なものかと」
「采配の上手い下手ではなく……洩矢諏訪子が自ら手勢を率いているということの方が重要なのだ。科野諸豪族の筆頭とも言うべきそなたが参ずればこそ、あらためて諏訪の威を示すことになる」
神奈子は微笑した。
政の一端にいくさを織り込むやり方としては、彼女の主張は特に目新しいものでもない。しかしだからこそ、諏訪子にもよく解る正しさを一分の隙もなく備えている。あっという間に諏訪子は答えに窮した。実のところは、今この場ではっきりと言葉にできるほど自らの出陣を拒む理由はない。かたちにしてはいけないものだからだ。それを言うと、元々の政略自体を揺るがせにしてしまう。神奈子の顔から眼を逸らし、唇をツいと尖らせていたそのとき。
「畏れながら」
と、評定衆のひとりが声を上げた。
皆の視線が一方に集まる。上座のふたりも眼を向ける。
こちらに言を進めていたのは、この度の策の提案者である出都留(いづる)だった。
出都留は、肩がわずかばかり震えるようなごく浅い溜め息を吐くと、それを嚆矢(こうし)としてか語り始める。
「豪族ユグルとの交渉を終えた時点で、諏訪子さまはこの一件におけるお役目を終えられたと考えることもできまする。調略こそ失敗に終われど、辰野方が諏訪への恭順を拒んだことで、われらは武力に恃む口実を得たのです。そして三千六百の軍を動かす発議は、八坂さまの御名によって行われる。嫌と仰せられる御方まで、無理無体に引っ張り出す必要も無きものかと」
「そなたはそう思うか……」
思案気に、神奈子は出都留を見つめた。
「この期に及びては、諸方へ向けて軍勢のきらびやかさを見せつけるは後手に回すべきかと心得まする。今こうして伊那辰野への出兵の発議を行うているあいだにも、諏訪に留まる三千の軍勢は少しずつ財を食い潰しております。諸軍の駐留が長引けば長引くだけ、豪族たちは各々に戦費が掛かるという理屈。冬を越して来春の決戦に持ち込めば、そのぶんまた財を擲つ(なげうつ)必要がございまする。これでは、甚だ具合が悪い」
「なるほど」
神奈子は、いやに間延びした声で答えた。
その響きには、肯いであろうものが宿っているように思われる。出都留の言っていることは、確かに理が通っているのだ。諏訪での狩競(かりくら)を当初の名目とした南科野への出兵については、いくさをせずとも、兵たちの糧食を賄うだけでかなりの戦費が掛かっている。しかもそれがひと月以上も続いてしまう。この辺りですべてを決さなければ、豪族たちへいたずらに負担ばかりを押しつけてしまうことにもなりかねない。さしたる手柄もなく莫大な時と費用を空費しただけとあっては、彼らに反発も生まれるだろう。するとやはり、理が通っていないのは諏訪子の言い分の方であった。このうえさらに、曖昧な反論をするだけの気力は彼女にはなかった。
「では先に申した通り、此度の辰野攻めは三千六百の兵で行う。そして諏訪子、そなたには……」
新たに何が申し渡されるかと、威儀を正す諏訪子。
びくりと、小さな背が震えていた。
「そなたには、後詰めとして五百の下諏訪勢を率いてもらう。なに、相手は小城に籠る手勢がたかだが四百。しかも女子供も多く、みな飢えているという。三千余りの軍勢に取り囲まれれば、その時点で幾らか意気をくじくことできよう」
「諏訪子の手を借りることなく、いくさをする、と?」
「そなたに預ける五百は、いわば万が一(まんがいつ)のときを考えて残しておくもの。輿に乗って、後からゆっくりとついてくるが良い」
そう語り掛けると、神奈子はおもむろに立ち上がる。
そして上座を離れると、評定衆のあいだを足早に突っ切った。今回の評定はひとまず終えるということである。諏訪子と出雲人たちは頭を下げ、神奈子の退出を見送る。しばし経つと、評定衆たちも立ち上がって次々に退出していった。しかし諏訪子はひとり物思いに耽るかのごとく、いつまでも上座から動こうとしない。そんな彼女を、出都留がちらと振り返った。彼に気づき、諏訪子も見返す。しかし出都留は何も言わず、ただ薄い微笑だけ湛えて堂から出ていったのである。無言ながらに、彼の顔つきは雄弁に語っていた。諏訪子がユグルの調略を仕損じたことが、結果として武力に恃む事態になったことを謝するかのように。やがて妻戸が軋り、閉じられて、堂には諏訪子ひとりが残された。
「わたしは、破滅する身と定まったユグルの境遇をあわれんでおるわけではない。……が。自らが為すところのものが悪や不正義などではないことを信じたい。ユグルを討つということが、正しきことであると信じたい」
たとえ、その理想がまやかしであったとしても。
だからこそ、自分は八坂神奈子と誼(よしみ)を通じる気にもなったのだから。
「つるぎ握らねばならぬのか? この諏訪子もまた、あの少年がごとく。棄てた道だと信じていたのにか?」
誰も居なくなった評定堂の沈黙のなかで、諏訪子はぽつりと呟いた。
誰に言って聞かせているわけでもないのに、その言葉はまるで自分自身にそう信じ込ませようとしているみたいに響く。刃を手にした闘争(たたかい)の要に、いつか自分が立ってしまいそうな怖れがある。その相手が八坂神奈子ではないと、言い切れるだけの自信は未だなかった。
――――――
「何だ、話とは」
馬上に在る諏訪子に、やはり馬上の身である神奈子は訊いた。
霜踏む駒音が冬の空気に高々と鳴り渡り、冷たい風がふたりの身を食む。いななくさえも惜しがるほどに神奈子の愛馬は諏訪の野を走りまわっていたから、ふたりの耳には、ぼうぼうという風のこすれる音の方こそより高々と飛び込んでいる。それを乗り越えるかのように、大きな声を出す神奈子である。
「あちらで馬を降りとうございまする。休息がてら、お話を」
神奈子の大声に、諏訪子もやはり大声で返した。
少女の眼は、野の端にぼっこりと突き出た大きな岩に向いている。冬の野ゆえ秣(まぐさ)に代えて馬が口にする野草とても満足にはないが、少しのあいだ休むための目印には最適だろう。「ようし」とひとこと唸り、神奈子は馬首を巡らせた。そして諏訪子の手ごと、手綱をしっかりと握り締めた。その手をすっぽり覆うほどに、神奈子の手は大きい。
今ふたりは、一頭の馬に相乗りをしているのである。
もともと諏訪子は乗馬のすべを心得ていない。だから遠出の際は――その方が威厳を演出できるという意図もあるが――いつも輿に乗って移動している。が、今日は違った。どうしても他人(ひと)に知られたくはない問いを、神奈子にする必要がある。だから、一頭の馬に相乗りをして外に出ようということになった。それに城を出て冬風のきりりとした痛々しさに触れることすれば、熱くなって歪みそうな考えを正常に引き戻してくれそうだったから。
以前、北科野諸軍が集結し、乱声(らんじょう)のもと獲物を追いすがった野に、今のふたりは駆けていた。諏訪の湖のほとりだ。三千の将兵が縦横無尽に動き回った狩競の場とて、何もないではただ寒い野原でしかない。野鳥とて冬風を厭うてか、曇り空の下には一羽も姿を見せていないのだ。静寂(しじま)を一心に突き破るような勢いを殺し、馬は、諏訪子が示した大岩近くに足を止めた。ふたりは順に馬から降りた。途中、諏訪子が足を滑らせぬよう、神奈子がその身を支えてやるところは、まるで親が子を抱きかかえているみたいな光景だった。馬上では、手綱を握る真似ごとをする諏訪子を、神奈子が後ろから支えてやっていたのである。
風にたなびく馬のたてがみを撫でながら、「それで、」と神奈子は切り出す。諏訪子の方は見向きもしない。大岩――子供が二、三人、うずくまったほどの大きさはある――に背を預けながら、彼女は乱れがちになる黄金(こがね)の髪を押さえていた。
「斯様な野原で致さねばならぬ話とは?」
「はい。辰野への出兵の前に、どうしても確かめたきことが」
眼だけ動かし、神奈子はこちらをじいと見た。
同時に彼女は、馬を放して好きに遊ばせてやることにした。軍神がその身を任すほどの賢い馬だから、主人である神奈子の元にも後でちゃんと戻ってくるはずである。元気よく野原を駆けだしていく馬の尾を見遣りながら、諏訪子は深々と呼吸をする。身のうちに溜まり込んでいた要らざる熱が、一気に冷却されていく。そして。
「八坂さまは……よもや初めからユグルを滅ぼすおつもりだったのでは」
もはや躊躇していても意味はない。
諏訪子は、問うべき事柄を一気に言い切った。
「どういうことだ」
幾分、眼を丸くして神奈子が問い返してくる。
仮にこちらの考えていた通りだったとして、そう簡単に認めることはあるまいと諏訪子も重々に承知している。一瞬ばかり皮肉げに笑むと、また話を続ける。
「先日――諏訪子は自ら伊那辰野に赴きて、ユグルとの交渉の席につきました」
「むろん、知っておる。しかしその交渉が失敗したからこその、此度の辰野攻めだ」
「そのとき聞いたユグル自身からの訴えと、諸々の情勢を鑑みて、諏訪子が考えてみたことにございまする」
逸らしていた眼を、今度は真っ直ぐ神奈子へ注ぐ。
神奈子もまた、うなずいて先を促した。
「出雲人による諏訪攻めの折――かの者は、自らの父が八坂さまに従うたがゆえに辰野の土地を安堵された。しかしその父が諏訪豪族とのいくさで死んだ後、あなたさまはユグルを小県に追い遣り、後釜としてダラハドを据えよと仰せになった。……つまり、“ダラハドに土地を与えて仕えさせ、王権が認め得る祭祀のかたちを諸州に広げる”という話は、単なる方便だったのではございませぬか。何より辰野の地は南北科野を結ぶ要衝。かの地が完全に掌握できれば、南科野へ睨みを利かせやすくなる」
風の音を真っ直ぐに越えて、声は神奈子へ刺さったはずである。
「もったいぶった言い方をするやつだ。つまり、何のためにこの八坂が辰野の所領替えを目論んでおると申す」
腰に両手を突いて、彼女は溜め息を吐いた。
呆れからではなかっただろう。厄介なものに巻き込まれてしまったと、そんな風に言いたげな仕草だった。野草の枯れた跡を踏みしめて、諏訪子は一歩前に出る。
「父の死によってまで購った郷里の土地を取り上げられれば、“わが父は無駄死になり”と怒るも無理なきこと。しかしそれを承知で――」
ぐッと握り締めた拳で自らの胸を打ち叩きながら、諏訪子はゆっくりと相手に告げた。
「王権に叛き奉るであろうユグルを討ち、その代わりに御自らの息の掛かったダラハドを送り込む。それをもって南科野の掌握を果たそうというのが真実(まこと)の思惑。つまり、どうあっても初めからユグルを捨て石にするおつもりだったのでは」
睨むでもないが、諏訪子はじいと神奈子を見つめていた。
彼女は一瞬、眼を逸らす。そして今度こそ呆れたように唇を噛むと、
「ユグルは未だ、……確か十四であろう。そのような少年の言を信じ、しかも敵する者に多少なりとも肩入れするのか」
と、逆に問うてくる。
「話を逸らされますな」
「何を申す、話を逸らそうとしておるはそなたの方ではないか。大逆の者であるユグルを討たねばならぬというこのとき、事態の裏に斯様な謀(はかりごと)ありと告発紛いのことをして何になる」
腰にした剣の柄を、親指でトントンと神奈子は叩く。
諏訪子の眉根にわずか皺が寄った。そうだ、これは神奈子に対する告発紛いのことなのだ。今回の辰野攻めに正義があると信じたいがための行いだ。もしかしたら自分が期待していたものは、神奈子が「それは違う」ときっぱり言い切ってくれることだったのかもしれない。それは諏訪子の単なる思い過ごしだと。くだらぬ杞憂であると。そうであるなら、たとえ神奈子の返答が嘘やまやかしであったとしても、自分は心おきなく軍勢を率いることができようものを。
「否……とは、仰せにならないのですか。諏訪子の問いを、お認めになるのでございまするか」
神奈子は、何も答えない。
沈黙に裏打ちされた無間の肯定が、そこには打ち立てられている。
「斯様な謀のもと八坂さまが事態を動かしておられたのだとすれば、父の死を辱められ郷里を奪われんとするユグルが、あまりにもあわれと申すもの。その没落は南科野諸勢力への見せしめとして、晒しものにされるのでございまするか」
さらに数歩、諏訪子はじりと歩み寄る。
すると、それを押し留めようとするかのごとく「諏訪子!」と神奈子が言った。
「大事を成すには、小事ごときは切り捨てねばならぬ。そして政なるものは、小事を切り捨てる痛みに耐えねばならぬ。切り捨てられた小事が積み上がるほど、大事にこの手が近づいていくのだ。その行程がひたすらにうち続く。われらが歩んでおるのは、そういう道ではないか」
奥歯を噛み軋らせながら、諏訪子は神奈子を睨みつけた。
瞬きほどのものとはいえど、その意の一片にまでざらついた感情が湧きあがってくる。
「必要とあらば諏訪子とて人を殺しまする。要らぬと思えば諏訪子とて人を踏みにじりまする。しかし、此度は。小事として切り捨てられた者たちが持つ、何よりの理を目の当たりにしてしまった! かの者らは郷里を奪われんとし、ならばせめても自ら恃む誇りだけは護らんと、勝ち目のない一戦に及ぼうとしておりまする。此方(こなた)と彼方のどちらにより道義があるか、ようくお考えなされませ!」
肩を震わせて彼女は叫んだ。
相も変わらず吹きまくる風が分厚い大気の壁となり、ふたりを取り巻いているようだ。そしてその大気の壁のなかに、諏訪子の訴えは悲痛なほど響き渡る。
「此度のいくさ。小事を切り捨てる不正義を、補うに足るだけの正義は在りや」
再び、問うた諏訪子。
しかし神奈子もまた、まったく何の色もない顔つきで問い返す。
「ユグルを殺すなと、そのように言うておるのか?」
すばやく、かぶりを振った。
ほう……と、どこか拍子抜けしたような声を神奈子が出す。
諏訪子とて、政に伴う非情さを食んできた王だ。今さらになって誰ひとり殺めることなく事態を鎮められるなどとは、露ほども思っていない。一滴の血さえ流さずに伊那辰野の騒乱を収めようと試みるには、今まで自分が為してきた処断はあまりにむごたらしいものであったのだから。
「放っておいてもユグルは辰野において、飢え痩せて死にまする。軍勢に攻められても死にまする。いずれにせよ、もはやあの少年の命を救うことはできませぬ」
と、諏訪子は神奈子の腰を指差した。
その先には蕨手刀が一振り、佩かれている。
「ならばせめてかの者の誇りだけは、救ってやるが武人の“ならい”とは思し召されませぬか。諏訪からつるぎの一振りでも賜い、かの少年に自決の道を選ばせても良いのではと。それならばいくさにて土地を荒らすことなく、ユグル自身をも十四ながらに、いっぱしの武人として死なせること叶うものかと」
告げて、諏訪子は全身から力の抜けていくのを感じた。
事ここに至っては、事態は『南科野をいかにして諏訪王権の威の下に服さしめるか』という段階にまで拡大してしまっているのだ。南北科野を結ぶ要衝である辰野という土地でユグルが叛乱を起こした以上、何としても彼を除かねばすべてが鎮まることはない。ならばせめて、王権の手で土地を取り上げるにしても謀叛人としてではなく、己が信念に殉じた者として死なせてやりたい。それが、洩矢諏訪子の願いだった。
しかし、彼女の言葉に、
「ならぬ。いかに洩矢諏訪子の言とはいえ、聞き入れること罷りならぬ」
と、ばさり、神奈子は断じた。
一瞬の思案の態さえ見せることなく。
「なぜにございまするか!? 八坂神奈子は御自らもまた武人にてあらせられるはず。なれば武人の心意気は、同じ武人にこそ解ろうものを!」
その訴えに対し、神奈子はかすかに舌打ちをする。
「武人である以上に、この身は王であるに過ぎぬ。王とはこの世でもっとも卑しき者でなければならぬ。国家や民人のため公から奉仕する者でなければならぬ。ときにそこでは、武人としての高邁な志さえ棄てる覚悟を持たねばならぬ!」
何がしかのものを、振り捨てるような神奈子の叫びであった。
草を踏んで詰め寄ろうとしていた諏訪子は、その声に押されて足を止める。すると、神奈子の方からこちらに歩み寄ってきた。彼女は諏訪子の肩に手を置こうとしたが、寸前で躊躇が湧きあがってきたか、いちど動かした手をまた下げてしまう。そのぶん、瞳のいっぱいにあわれみと悔いばかり湛えていると、諏訪子には思えた。
「私は……否、私とそなたは。南科野を切り従えるということに、あまり深入りしすぎてしまったのだ。それこそが当初からの企てだったとはいえ、かの地における何もかもを組み替えすぎたのだ。豪族たちを操ってオンゾを殺し、古い商いのしきたりを壊し、天竜川の水運をも手中に収めた。そしてそれは、元はといえば“ユグルを討ち参らせるため”という目的のために行われしこと。かの者の討伐をすべての名目として掲げた以上、最後までそれを貫徹せねば、王権の信ずべき大儀というものがうやむやとなってしまう。それこそは、われらの正義が不正義に取って代わられる事態」
しっかりと、己の『拠って立つ何か』を彼女は知っているのだ。
しかしその『拠って立つ何か』は、ひどく気持ちの悪いものでもある。そのことに、とっくに神奈子は気づいている。気づいていながら、その気持ちの悪さを飲み込まねば一歩も先へは進めない。吐き棄てるかのごとく言葉を繋ぐ軍神からは、そんな意がありありと感じ取れる。
神奈子は、今いちど諏訪子を真っ正面に見据えて言った。
もう、そこには一片の迷いもないはずだった。
神奈子の両の眼のうつくしさは、よく研ぎ澄まされたつるぎの輝きだ。
「ならばこのうえすべてに幕引きを図るには、ユグルに死んでもらわねばならぬ。誇りある武人としてではなく、王権に叛いた大悪人として」
歯を軋らせず唇も噛まず、諏訪子はぼうとしてうつむいた。
何もかも自分の思い通りにはならぬ。いや、むしろ、今までが思い通りに行きすぎたがゆえの反動だったのかもしれない。揺り戻しは神の身ながらに大きすぎると感じる。大義を失った志は脆いものだ。己が意義を喪った神もまた、脆いものである。洩矢諏訪子をかたちづくっていた幾つもの『神』のうち、いま確かに、一柱が押し潰されて死んでいく。
泣きそうなくらい渋い顔をしながら、諏訪子は再び神奈子を見た。
あわれみではなく、優しげな表情をした友人だけがそこに居た。政のために武人の誇りを棄てると言った彼女は――たぶん、そのために彼女のなかの『神』もまた、幾らか死んだのだ――、しばし、どこかに行ってしまったようである。
「念のために言うておくがな、諏訪子。私は初めからユグルを殺そうなどと思っておったわけではない。やつがおとなしう小県に移ってくれれば、軍兵など出さずに済んだはずであった。辰野にダラハドを置き、そこを起点としてじっくりと南科野を従えるつもりであったのに。抜き放たれたつるぎの輝きも、流された血の河も、もはやどうあっても拭い去ること叶うまい」
言いわけにもならない言葉である。
物事を繕うにも針の先は欠け、糸を通してもそれを遊ばせておくだけ。そんな言葉だ。
「諏訪子」
「はい」
「われらは同じ覇道を突き進んできてしまったのだ。今さら足を止め、引き返すことなどできはすまい」
ようやく、――諏訪子は苦笑できるだけの気持ちになって、
「ようく、ようく解っておりまする」
とのみ、答えた。
風が強すぎて、眼の前の景色が滲んでしまっていた。
「ならば、せめて……塚を築いてやってくだされませ。死するであろうユグルの御霊(みたま)鎮めるにふさわしき、立派な塚を」
滲んで消えかけた視界の向こうで、しかし、神奈子は何も言わない。
ふたりのあいだを小さな駒音が駆けてくる。彼方に放され遊んでいた馬が、ようやく戻ってきた気配だった。ざわりざわりと草が嗤う。乾いた土を馬の蹄が叩くに連れて、駒音の源であるその姿がはっきりと見えるようになっていく。やがて直ぐ近くに足を止めた自らの愛馬を、神奈子はよく慈しんだ。彼女がその背を撫でてやるたび、馬も応えてか鼻先を天に向けいななきを漏らす。
「だいぶ寒うなってきた、もう城に帰ろう。ちょうど馬も戻ってきたところだ」
鐙(あぶみ)に足を掛け、再び馬上の者となりながら神奈子は言う。
差し出されるまま、諏訪子はその手を取った。行きのときもそうだったが、鞍の上に人がふたり乗るのはさすがに狭い。それでも、直ぐ後ろで神奈子が手綱を握っているのだと考えると、諏訪子もひどく安心できる。行き先を決めるのは神奈子なのだ。自分はそれに従えば良いし、従うよりほかにないのである。しかしそれがどこに向かうのか、ようく見つめていようと思った。手綱を握る神奈子の手がときに弓矢を射るように、諏訪子の手もまたつるぎを振るうことができる。
「“国譲り”成し遂げるは、いつの世であっても余計なしがらみを生んでしまうものかも知れぬ……」
やがて諏訪の柵へ向けて走り始めた馬の上、懐かしげに神奈子が呟いた。
諏訪子は、その言葉の意味を問うことをしない。
ただ野原の向こう、いついかなるときも蒼々とした水面を見せる諏訪の湖に、眼を向けるばかりである。