出兵の日取りは、十二月二十五日と決まった。
決まったからには、それまでのあいだにすべての備えを完了していなければならない。糧食の確保、武器や鎧の調達、兵の徴集など……それほど長いいくさにはなるまいと誰もが見越してはいたが、三千を超える人数の将兵が一軍となって動くのだ。諏訪周辺はいくさの気配と、それに伴う儲け話でにわかに活況を呈していた。むろん諏訪子の治める下諏訪御料でも、兵の徴集や武器の調達には余念がない。あくまで後詰め――予備の戦力とはいえ前(さき)の諏訪王が軍勢の一翼を相努めるのだから、いくさの備えを怠るわけにはいかないというわけだ。
自身の御所でも神人(じにん)たちに準備を進めさせるかたわら、併せて諏訪子は領内の視察も行った。神奈子から拠出を求められた下諏訪勢五百のなかで、そのうち百に関しては自らに仕える神人のなかでも身体壮健なる者を選びだした。洩矢勢における諏訪子直属の部隊である。残りの四百を領民から徴集し、兵五百を構成するつもりでいる。出兵までそれほど時間に余裕があるわけでもない。今回の下諏訪視察は幾つかの集落をさらりと通り過ぎただけに過ぎず、行幸(みゆき)としては規模の小さいものであったが、備えは各々で滞りなく進んでいたようである。矢の蓄えや剣の砥ぎ直しはもちろんのこと、魔除けとして盾に真新しい目玉模様を描き入れるさえ愉しげだ。糧食も武器も、兵らは自弁で用意しなければならぬのに、いやに陽気でさえあったのだ。
御所へと取って返した輿の上で、うつらうつらと眠りかけながら、物思いに沈む諏訪子。
冬場のいくさはもちろんきつい。あまり雪が降ると兵は身動き取れなくなるし、そもそも寒さを押してまでいくさをしようという者は、あまり多くないはずである。しかし兵を集めるということに関していえば、むしろ春を待たずにユグルを斃すという神奈子の策が功を奏した感もある。農閑期に行われるいくさは――というよりも、いくさに伴って敵地で行われる略奪は、農民たちにとって何よりの『臨時収入』の当てになるのだ。となれば、むしろ自ら進んで兵の徴集に応じたがる者が多いのも納得がいく。“上”の者らがいくさをする大義名分の確保に汲々としているさなか、“下”の連中はうらやましくなるほど呑気だった。
ひとまず、どうやら――いくさについてあまり気は進まぬながら――求められただけの兵を率いることは、問題なくできそうである。何とも言えない苦々しい満足を覚えながら、諏訪子は御所の門をくぐった。そのころには、もう眠気もだいぶ醒めている。
そうして輿から降りて拝殿の適当な部屋に入り、喉が渇いたと思って白湯(さゆ)を一杯飲んでいると、神人頭のアザギが侍者の少年に手を引かれながら、諏訪子の元へとやって来た。盲人の閉じられた目蓋へ横目を遣りながら、「いくさの備えは滞りないか」と、視察へ出かける前にも訊いたことを、彼女はもういちど口に出す。
「は。諏訪子さまが何らの御心配に及ぶまでもなく」
「それは良かった」
火鉢に手を当てながら、土器(かわらけ)に半分ほど残った白湯をごくりと飲み干す。
すると、彼女がすべて飲み終わるのに気づいたか、アザギが「さりながら」とつけ加えた。「うん?」と首を巡らして再び彼に訊く諏訪子。
「御来客がございまする」
「誰だ、斯様に忙しきときに」
「ギジチさまにございまする」
「……ほう」
ことりと、空になった土器を床に置く。
「何用で来たと申しておった」
「御出陣のお祝いとか」
「なるほど」
とは言いながら、諏訪子は心中、わずかながらに怪訝さを覚える。
いまギジチは、その頭を諏訪の介入によって“河城の丹鳥”に代替わりさせた天竜川の水運商人たちと、諸々の折衝の最中だったはずだ。南科野の水運を諏訪が手中に収めたとはいえ、血を見ぬまま穏便に、とはいかなかったのが実情である。利害の配分や対立などで、後に尾を引きかねない危うさもある。諏訪王権が辰野攻めに忙しいから、事実上の『事後処理』のために、ギジチの方では砕身を余儀なくされているのではなかったか。
「ただいま謁見の広間にてお待ちにございまする。お会いになりまするか」
「うん。一応、あいさつくらいは聞いておこうと思うが」
「承知いたしました」
深々と辞儀を見せると、アザギは直ぐさま部屋を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、諏訪子はまたぼやりと取り留めのない考えにふけり始める。
ギジチは忙しい男である。自身、王権からの求めに応じて水内からの兵を提供しつつ、同時に岡谷で水運商人との折衝に当たっている。それ以前には諏訪子と共謀し、オンゾ抹殺の策さえ打ったのだ。今や彼は伊那辰野のユグルの叛乱という事件において、諏訪子と神奈子と並び、事態の大半を概観し得る数少ない人物のひとりと化してはいなかったか。
となれば、どうにも扱いかねる男ではある。
否、使いどころを誤れば、“こちら”の方が害を被りかねないような――――。
と、考え考えしているうちに、火鉢に向けていた手のひらが、とても熱くなっていることに諏訪子は気づいた。ほのかな温かさとはいえ、ずっと一面を火に向けていると火傷しそうなほどになる。熱さを通り越してゆるやかに痛みだしていた手のひらを、慌てて着物に擦りつけてごまかしながら、彼女はすくと立ち上がった。
「これもまた、諸刃のつるぎというものか……」
――――――
「この度は洩矢諏訪子さまの御出陣、まことにもっておめでとうございまする」
諏訪子を広間の上座に据え、ギジチは深々とひれ伏した。
言祝ぎにしては静けさが先に立っていて、落ち着き払った声ぶりだ。もっとも、感情を剥き出しにすることほどこの男において珍しいこともあるまいが。諏訪子は、ギジチの辞儀を見届けてゆっくりとうなずいた。
「面を上げて良い。……しかし大げさな。此方(こなた)は、初陣を飾る少年の身でもなし」
「御身、神たる諏訪子さまが御いくさにお出になられるのです。これを祝わざるは甚だ不誠実というもの」
見え透いた世辞を……とは、思う。
諏訪子の注目は、ギジチが謁見に際して持ちこんだ木箱の群れに向けられ始めていた。特段の装飾もなく、上薬の類が塗られているわけでもない。それでも三つばかり重ねられたその木箱は、木地を剥き出しにしたごく簡素な拵えながら、ギジチの礼節のかたわらに在っては奇妙な気品を漂わせている。諏訪子のそんな視線に聡くも気づいたか、この豪族はすかさず面を上げ、さも親愛あるといったようにその眼に笑みを顕わとする。
「これなる物は、此度の御出兵に際して用意し奉った進物にて。お差し支えなくばお納めくださいますよう」
「中身は?」
「北国(ほっこく)の蝦夷どもを通じて手に入れた、鷹の羽にございまする。直ぐにご披見あそばされまするか?」
「いや、今はよい」
なかなか良い物を持ってきたなと思い、諏訪子は思わず笑んでしまう。
鷹の羽なら矢の尾羽はもちろん、鎧兜を装飾する目的にも使える。幾らあっても多すぎるということはない品だ。気の進まぬいくさであるとは思えど、少なくとも不足なく一軍を仕立てて責を果たす役には立つ。ちょっとばかり身を乗り出し、諏訪子は皮肉めいた口調を発した。
「それにしても其許にしては殊勝な振る舞いではないか。ギジチが進物を献ずるは、八坂さまを除いて他にないものと思うておったがな」
「お人が悪うございまするな。そこに利ありと思わば何ごとも行う覚悟にございまする。この身は過たず商人にて」
ギジチもまた、微笑を浮かべて返した。
しかし、どこかしら含みを感じさせる物言いであるとも取れる。やはり何らかの腹ありか。さっきとは種類の違う笑みが、諏訪子の胸のうちには湧きあがってきた。けれども表情(かお)は、いっさい色を違えることがない。
「重ね重ねの心遣いは嬉しきものあるが、此度、儂の軍勢は後詰めだ。進物はありがたく受け取れども、其許の言祝ぎに応えられるとは限らぬぞ。それにな……」
自らの顎を指先で撫でながら、諏訪子はさらに訊ねる。
「このようなときに諏訪子を訪ねてきては、またあらぬ疑いをかけられるぞ」
ギジチが含みある笑みを見せるように、諏訪子もまた曖昧な受け答えをする。
辰野攻めの主力を形成する北科野諸軍の豪族たちや、総大将である上諏訪の神奈子の元へ赴くならいざ知らず、わざわざ後詰めである下諏訪勢の頭、洩矢諏訪子を訪ねて来るのだ。そこに何らか出陣祝い以外の目的がないはずはない。
一瞬ばかり逡巡にも似た素振りを、ギジチは見せた。
しかしそれが演技だったのか本心からのことだったのか、それと察させるほどの間も諏訪子には与えることなく、彼は、「御出陣祝いのために赴くこそ、もっとも自然な名目でございましたゆえ」と言った。
やはり魚が餌に食いついてきた。
否、魚の方でそれと解ってわざと向かってきたと言った方が正しいだろう。
沈黙を保ち、無言のまま相手に先を促さんとする諏訪子。ギジチもそれを承知してか、深々とうなずく。
「伊那赤須のジクイどのに、辰野への出兵を渋る気配あり」
「どういうことだ。兵を出すという王権との約定を、反故にするということか?」
「未だ決めかねている……といったところにございましょうな。諏訪方より求められたという兵六百を満たす分には明らかに足りておらぬにも関わらず、糧食や矢の買い入れの日取りが先延ばしにされているとの報せが入っておりまする」
はっきりと、彼はそう言った。
報告を受けた諏訪子は眉ひとつ動かさぬながらに、胸中、穏やかではないものがある。
ジクイは先にオンゾを誅せる際、諏訪王権の動員し得る戦力を脅威と見て恭順を誓った身だ。辰野攻めに際して兵六百を提供せよという命令を受け容れたのも、正面切って諏訪に対抗する力は自らにないと考えたからに相違ない。然るに今回、出兵を渋るということは、諏訪軍の戦力に穴を開けるということに他ならない。そうなると、後々に咎めを受けるのはジクイ自身のはず。意趣返しや仕返しというにしては、どう考えても割に合わないはずなのに。
「いったい何があったのだ? ギジチは詳しく知っておるのか」
「むろん、事態の詳らかなるをお伝え申し上げるために参上いたしました。赤須の渡し場と上流とを繋ぐ水運商人の弁に曰く――“天竜川の船乗りたちから河手を取れなくなったがゆえ、支払いの目途が経たぬから買い入れを遅らせている”と、ジクイ方は申しておるとのこと」
「河手が、なあ……」
「おそらくは、」
ギジチは少し息を整えて、
「水運散所の頭が“河城の丹鳥”に代替わりし、その河城がジクイに背を向けて諏訪に近づくことを求めているがため、その動きに対して威し(おどし)をかける狙いがあるものと思われまする」
そのような推測を述べた。
なるほどなあ、……と、諏訪子は考えこむ仕草を見せた。
かすかに顔を伏せ、さも難しき問いに嘆息する少女の姿だ。が、その実、彼女の眼ばかりは黙考に沈んではいなかった。自らの膝近くにとぐろを巻く一柱のミシャグジに、心中において命令を下していたのである。
――――この男の申すことに、何らか嘘は混じっておるか。
蛇神を除いては誰にも聞こえることのない霊的な呼びかけに、ミシャグジは、
――――いいや。この男はひとつも嘘をついていない。
とのみ答えると、また直ぐに黙り込んでしまった。
洩矢諏訪子に数多仕えるミシャグジ蛇神のうち、いま諏訪子に答えた者は、特に嘘を見抜くことに長けた者だ。相手の身体から発する熱、汗、におい、眼の動き、心の臓の鼓動……それらの有り様に不自然な変化あらば、直ぐに見つけ出すことができる。もしかしたら、それは蛇が獲物を狩るとき作用する感覚器官が、より高度に鋭敏になったものであるのかもしれない。ともかくも、ミシャグジによればギジチが嘘をついている気配はない。ようやく、諏訪子は眼を上げた。
「やはり古くからその手にしてきた利権ゆえ、棄てよと言われても直ぐに棄てる決心はつかぬか。……しかし、少々ながら不味いことではあるな。南科野勢の戦力が得られぬとなると、かの軍勢が主力に非ずとはいえ格好がつかぬ」
ジクイが神奈子からの出兵命令を無視するということは、取りも直さず諏訪王権の影響力が未だ南科野へは及んでいないことの証左となってしまう。それは、さすがに望まざる仕儀だ。となると、出兵前にどうにか片をつけてしまうか、あるいは向こうを戦場まで滞りなく引っ張り出さなければならない。
「要は……ジクイは王権の介入によって、自らの利権が脅かされるのを怖れておる」
「左様にございまする」
「ならば、“われらがその利権を保証してやれば良いのだな”」
知らぬ人が見れば、きっと諏訪子の笑みはひどく悪辣に思えてしまったことだろう。
しかし彼女と正面切って相対するギジチは、何らの動揺もきたすことはなかった。いつも通り、涼しい顔をして次の言葉を待っているだけだ。
「其許はもう上諏訪へと行って、八坂さまにその旨を言上し奉ったのか」
「いいえ。未だ、上諏訪への御報告には至らず。斯様なときに八坂さまへと御報告を奉らば、火種が増えるばかりにございまする。いま、ジクイの元まで下手に軍勢を動かせば向こうをいたずらに怖れさせ、今度こそユグルとの合力を招きかねず、ために南科野の擾乱(じょうらん)はさらに長きに渡るものと化してしまうと。ならばまず諏訪子さまのお許しを得、手を回して解決されるべきものと思われまする」
ふうむと、今度こそ本当に諏訪子は思案した。
南科野を切り崩すための独断専行は、すでに神奈子からの指弾を受けている。このうえさらに何の許しも得ずに動いたとあっては、今度こそ詮議の段は免れ得ぬだろう。しかし顧みれば、神奈子が辰野の小豪族に過ぎないユグルを潰してまで南科野の完全掌握を求めているのは、そこに棲まう勢力が自分に叛くことを怖れているからであろう。確かに直属一万の出雲兵に加え、北科野から数千の戦力をも引き入れる神奈子の力は大きい。
とはいえ、今や天竜川の水運と深い繋がりを持ったギジチが――現在のところは――諏訪子に接近している。ギジチを通して水運商人と、そして水運商人と関わり浅からぬ南科野の豪族たち。見返りとして利権の保障をちらつかせつつ、当初の予定通り兵を出すよう求めれば、その心を引き寄せることができるかもしれない。そして彼らを味方につければ、少なくとも北科野と南科野という対決の図式を組み上げることが紛れもなくできるのだ。
必ずしも、今の諏訪子に八坂神奈子への叛意があるわけではなかった。
けれども同時に、辰野でユグルとの交渉を行った際、郷里を護らんとする十四歳の少年の熱情を目の当たりにしたこともまた事実だった。神奈子がユグルをただ攻め滅ぼし、彼のその誇りを喪わせたまま最期を迎えさせるは、いかにそれが政の大局を慮ったやり方とはいえ、到底、武神の面目に適ったものとは思えなかった。
史上、滅び去った国家なるものは、創建の時の志をいずれは忘れ、眼前の利害にとらわれることばかりくり返し、やがてその矛盾を解消してすべての帳尻を合わせることを望む新たな国家によって、跡形もなく消し去られてしまったのだ。諏訪子は、科野にはそうなってほしくなかった。自分と神奈子とが手を携えて創らんとする新たな国は、そのようなかたちで腐り落ちて欲しくはなかったのである。
なれば、何が必要か。
その腐敗が全体にまで広がらぬよう、腐りかけた果実の一部を切り離す、鋭利な刃ではなかったか。
――――――
「此度のいくさが、……間違いなく最後となろう」
頬を覆う髭を撫でながら、ユグルは呟いた。
少年を取り巻く数人の将たちは、一斉に自らの総大将を見遣る。
ひとりの例外もなく、ひどく疲れ切った眼をしている。その彼らが顔をうつむけて、ユグルの次の言葉を待っているのだ。落ちる涙はないとは申せ、色濃い疲弊は隠しようもない。ただ意地にも似た気力ばかりが、皆を未だに支えている。
「それゆえ、皆もしかるべき“覚悟”をしてほしい」
未だ十四歳でしかないユグルの言葉に、諸将、各々うなずいた。
程度の差こそあれ、誰もみな剃ることもできぬ髭に顔を覆われている。飢えのために頬はこけ、眼は骨格に沿ってがくりと落ちくぼんでいた。それでも疲れのなかにあるとはいえ爛々と、幾つもの眼は絶えず輝いていた。城のもっとも奥に据えられた『本丸』ともいうべき場所には、射られた矢のごとく早く落ちる夕暮れの光がぼやりと差し込んでいる。日一日と夜が長くなっていく。山に築かれた城のなかにあっては、平地に居たころよりも余計に強くそのことが気遣われた。
次第に濃くなっていく夕闇のなか、城のいずこからか一筋の煙が上がっていた。夜を待ってのみ現れる黒い煙は、しかし、竈(かまど)から立ちのぼるものではないのである。夜にならなければ、どこかに潜んでいるかもしれない敵の物見に見つかる。だから闇に紛れることをしなければ、骸を焼いてやることもできはしないのだ。昨日に一筋、今日に一筋と、次第に煙の上がる間隔は短くなっていった。ユグルはそれを見て、ごく小さな溜め息をついた。この城のなかで死んだ者たちから、永劫、自分は恨まれることだろう。
「皆には……ずっと苦労をかけ通しであったような気がする。父が死んでからというもの、ずっとこの若輩のユグルを盛り立ててくれた。いくら感謝してもしきれぬほどだ」
沈むような声ではあったが、少年の顔に悲嘆はなかった。
むしろ今まで自分を支えてくれた者たちへの、感謝ばかりがほとばしっている。けれど同時に、一抹の不安めいたものもまた彼の表情には滲み出ていた。何もかもを隠し通して人々を鼓舞するのに、十四歳という歳は未だ若すぎるのかもしれなかった。ユグルは、本丸の床――剥き出しの土に筵を敷きつめて、一応は将が身を置く体裁を整えた程度でしかない――に用意された瓶子を手に取る。
そしてにわかに立ち上がると、あらかじめ将らに配られていた土器の杯に、自ら酒を注いで回った。今まで手をつけずに取っておいた、最後の酒である。集まった者たちにひとりも余さず酒を注ぎ終えると、彼は自らの座に戻り、最後に自分のぶんの杯にも注いだ。酒の水面が揺らぎ、すっかり衰えた少年の顔が映る。それを見て、ユグルは皮肉げに笑んで見せた。
ここまで辰野の人々を連れてきてしまった者は、いったい誰なのだろう。
死んだ父か、父の誇りを汚させまいとする自分か。自分を利用しようとする豪族たちや八坂の神か。……いや、今さらそれを考えたところで意味はあるまい。自らの意志で選んだ道だ。つるぎと弓矢を手に取って選んだ道だ。引き返すことなどできはしない。しかし、ただひとつ心残りは。
「覚悟を求める前に、少し確かめておかなければならぬことがあった。将である皆は、それぞれに家を率いる男たちでもある。私のような何も知らぬ子供の道連れとして、自ら従わねばならぬという道理はない」
「何を申すのじゃ」
ユグルの、もっとも近くに坐していた初老の男が問うた。父の弟、つまりはユグルの叔父である。同時に、これまで少年の副将としてもっとも彼を支えてくれていた人であった。そのぶん、信頼も篤い。その彼が、笑いとも涙ともつかない顔をしている。申しわけのなさが先に立ったか、ちらりと眼ばかり叔父に向けた。
「いかに諏訪王権の不誠実に抗するため兵を挙げたとはいえ、皆が皆このユグルに従って戦わずとも良いと言っているのだ。こちらは与党四百の小勢。それに比べて向こうは、その気になれば万にも達する兵を用意できるというではないか。今や南科野勢からの援軍も当てにはならぬ。戦っても勝てる見込みはまったくない。そのようないくさに、皆を巻き込むは忍びない。城のなかに居る家族らを連れて、諏訪方に降っても良いのだぞ。わが敵はあくまで八坂神。たとえ身内の誰が向こうに降ったとて、その者たちを恨みはすまい」
言って、ユグルは大きな溜め息をついた。
対する将たち――大半が血縁によって寄り集まった小豪族たちは、終始無言を貫いていた。少年の様子が、説得というにはあまりに消沈していたからであろうか。兵たちは糧食の底が見え始めるに及んで疲弊の度を強め、おまけにさして多くもない戦力には老人や女子供でさえも混じっている。そのような者たちを、何の咎もなき者たちを、一族の誇りなるものに巻き込む形でいくさの道具にしているのは他ならぬユグルだ。彼らに対してその罪を贖わなければ、少年の自尊心は今しも壊れてしまいそうだった。八坂神に踏みにじられた誇りを護るという大義のゆえ、その誇りをこそ自らは汚せぬという自縛の態に陥っている。
そうして、筵の上であぐらをかく彼の膝は小さく震えていた。
いかに勇ましいことを言いながらも、しょせんは少年である。死の恐怖を容易に払拭できるほど、その精神は完成されたものではなかったのである。やはり震える自らの手を見つつ、ユグルは言う。
「……あの洩矢の神に“辰野勢の意気を見せる”と凄んでおきながら、いざ決戦が近づくとこの有り様だ。正直を申せば、怖いと思う。死にたくないとも思う。諏訪に降って小県に移り、そこで安穏と暮らすもまたひとつの道であった」
籠手を外して素肌を晒し、その手でユグルはむりやり膝の震えを抑え込んでいた。冷たい空気に触れる彼の手の隅々には、垢がこびりついている。指先で少し擦っただけでもぼろぼろとこぼれ落ちてくるほどだった。べたつく肌への不快も、もうすっかり慣れきってしまっている。
「けれども、そこはもうわれらの郷里にあらず。王権のために戦ったわが父の死が蔑ろにされ、それを受け容れて恥知らずに生きていけるほど、このユグルは器用にはなれぬ。ここまで来てしまった以上は――皆を斯様なところにまで連れてきてしまったうえは、私はわが身の責を全うしなければならぬ。たとえ膝が震えても、手からつるぎを取り落としても」
ぐるりと巡る少年の視線に、諸将も応え(いらえ)と眼を交わす。
ユグルは、途端、申しわけのないという顔になった。
「私は、このように情けない男だ。このユグルという男とともに屍の列に加わるは、皆の名までも貶めることになろう。諏訪に降りたい者は、名乗り出てくれ。敵の軍勢が城を取り巻く前に、いずこへなりと逃げおおせよ。そしていつまでも生き延び、わが一族の血と名を後の世までも伝えてくれ」
深く深く、頭を下げるユグル。
それこそ、床を頭で擦ろうかというほどに。
ただでさえ沈鬱としていた本丸に、さらに一層の静けさが宿った。勝ち目がないなどというのは、城を築いて籠ったその初めから解りきっていたことなのである。自分たちだけでは諏訪に勝てぬから、南科野勢と裏で手を結んでいた。しかし、その協調はとうの昔に断ち切られていた。辰野だけが、利害を云々する蚊帳の外に放り出されてしまっていたのだ。とどのつまり、この場の誰もが情勢の動きを見誤っていた。誰もみな勇敢であり、誰もみな無謀であった。
「……わが甥よ。この期に及んで、われらの覚悟を見くびってもらっては困る」
副将である叔父が、膝を進めて言った。
食い物の代わりに意地ばかりが詰まっているその腹の奥から絞り出すような、しかし、静かな闘志の満ちる声だった。ユグルにとっては懐かしい声である。かつてこの叔父を師として弓の稽古をつけてもらったとき、的を外すたびに叱咤したのはこの声なのだ。父に似て、けれど幾らか温和な響きである。その声の持ち主が、一心にユグルへの信を顕わとしている。
「その通り。今この杯にユグルどのの酒を受けたうえは、ひと思いに飲み干して死に奉る所存なり」
従兄弟でもある将がにッと笑うと、その右の眉の上に残った小さな傷が、くわりと動く。幼いころ彼に肩車をしてもらいながら、他人の邸にある柿の木から勝手に実をもぎとって食べたものだった。従兄弟の肩の上で食べた柿は未だしっかりと熟れる前だったので、幼いユグルはその渋さに驚いて大声を上げてしまった。それに驚いた従兄弟がつい足をもつれさせて転んでしまい、ユグルの方こそ無傷だったが従兄弟の方は額を割って、それで眉の上に傷が残ったのである。そのときに数倍する不幸を恨みもせずに、今まで彼はユグルに従ってくれているのだ。
他にも、将らはその出自に関わりなく等しく笑みを浮かべていた。
死にに行く者だけが得ることのできる、諦観の笑みだった。しかし、恨みや憎しみのない笑みであった。
「ユグルよう。昔から、おぬしはそうやって無茶をしすぎるところがある。誰かが、おぬしが何をしておるかを見届けねばならぬ。わしがその役目を負おう。われらは城に残るぞ」
「そうじゃなあ。私も最後まで戦うぞ。そなたがお父上どのと乗馬の稽古中、手綱を放してしまい馬から落ちたことがあったが、あのときも痛くないとは言いながら、鋭い石ころで膝を切って血がだらだら流れておった! 危なっかしいにも程があるからのう。敵にほえ面かかせる前に死なれては困る、困る」
まるで暗中に灯す火の鮮やかさであるように、諸将から明るい声が上がる。
ユグルの、そして彼にまつわる思い出の数々が述べられていく。
少年の脳裏に蘇る古い思い出が、皆の心にまで広がっていったかのようであった。
俺も残る、自分も残る。……と、自身、家族や縁者、従者ぐるみで城に入り、相当に疲弊しているにも関わらず、将らは次々とユグルとともに城に残って戦うという意思を表明した。同時に話される今までの手柄話、笑い話、艶話などは、それこそ枚挙に暇がない。死ぬ前に、少しでも『荷物』の整理をしなければならないと気づいたに違いなかった。
ざわりと、沈鬱だった将たちがにわかに活気づいていく。
覚悟することが皆の意気を復活させたのだった。しかし。
「……申しわけござらぬ!」
と、ただひとりだけ叫ぶ者があった。
一気にユグルらの視線が彼に集まる。
「おれは、もはやこのいくさについていくことできぬ。恥知らずと罵られようとも、父祖以来の名跡を絶えさすことは耐えがたい。…………諏訪に、降りたいと思う」
そう言って、ひとりの将が皆の顔を順々に見回した後、ユグルに向かって土下座をした。
以前に決死隊を率いて諏訪方の軍勢八百を奇襲、これを撃退した男であった。
「そうと決めたうえは、せっかくの酒だが飲むことはできぬ」
そう言って、彼は自らの杯から顔を背ける。
将たちのうちでもっとも勇敢であり、しかも戦果を上げた男が真っ先に降伏を願い出る。意外といえば、意外な事態ではある。ついさっきまで元気よく笑い合っていた人々が、一気に口をつぐんで黙り込んだ。互いに眼を見交わし、次に言うべき言葉を探している。けれど見つからない。そこに穴を開けるように、ユグルが口を開いた。
「止めはすまい。他ならぬ私が、逃げたい者は逃げよと言ったのだ。それにあなたは、このなかではただひとり諏訪勢と直に刃を交えたお人。敵の怖ろしさもようく知っておろう。それもまた、覚悟の為せる技」
件の将は、何も返せずただ頭を下げ続けている。
「……しかし、最後にひとつ頼まれてくれ」
けれどユグルの言葉に、彼はフと顔を上げる。
やはり垢じみたその額は、緊張による脂汗でてかりと光っていたのである。
ひとりの将として苦渋の決断であったに違いない。だからなのか、せめても最後の務めを受けようと「何なりと」と言った。うなずくユグルは、微笑んでいた。
「では、頼む。最後に皆で酒だけは飲もう。おそらくは、もはや二度と相まみえること叶わぬであろうから」
ユグルからの離反を表明した将は、再び頭を下げた。
最後の仕事を、確かに仰せつかったということである。
彼が自分の座に戻ったのを見届けると、入れ替わりにユグルの方が立ち上がった。その手には杯が握られている。少年の瞳が、改めて将たちを見回した。戦う者も、逃げる者も、等しく彼の仲間である。郷里を護り、一族の名と誇りを繋げていくという志を共にした同胞(はらから)である。
「……では、決意を固めようぞ。これが今生における最後の酒だ。生きて再会を期するつもりは、ただのひとつももはや無しと思って欲しい。たとえこの身は野に屍を晒すとても、必ずや諏訪勢に一矢報いて敵方の心胆寒からしめ、われらの名と誉れとを刻みつけん!」
おう――ッ! と諸将は雄叫びを上げ、一気に酒を飲み干した。
直後、もはやこうして酒を飲み語ることもすまいとばかり、床に杯を叩きつけ、木っ端微塵に打ち砕いたのである。すると、その割れ音に紛れるようにしてユグルが咳き込んだ。げほ、げほ、と、口元を抑え込む少年の目元は、しかし、笑っていた。
「は、は、……! 思いきり格好をつけてみたが、そういえば私は酒が苦手だった。慣れぬものは、土壇場になったところでやはり慣れぬのだな」
どっ、と、場が笑いに包まれた。
誰もみなにわかな幸福に包まれていくのは、酒の酔いが回るせいではなかっただろう。
束の間の温かさに満たされたユグルは、八坂の神を父の仇と恨む気持ちも、そのときばかりは消え去っていた。