諏訪子たちが通されたのは、ユグルら辰野勢の本陣ではなかった。
まがりなりにも一国の代表との会見に及ぶには甚だ粗末な場所ではあったが――使者の一行が入ったのは、城のうちにて半ば打ち捨てられたようになっていた掘っ立て小屋である。元は山民の炭焼き小屋か何かだったのだろう、直ぐ近くには簡素な竈と、藁で包まれて束にされた木炭が幾つも置かれている。おそらくユグルたち辰野勢が山上に城砦を築くに当たり、元の住人から接収したものと思われた。
「むさ苦しき所ではございますが、お話はこちらにて伺いまする」
自ら先頭に立って使者たちを導き、ユグルは小屋に入った。
こちらを手招く彼に諏訪子は少しばかり躊躇したが、元は自分たちの方からやって来たのだから、結局応ぜぬわけにもいかない。輿から降りて、直に歩き出した。
そして、ここはいったい城のどのあたりかとさらりと視線を巡らそうとする。しかし周りを取り囲む城方の兵が人間の壁となり、その目論見はあっさりと阻まれてしまう。小さな城とはいえど、将兵を擁する軍事(いくさごと)の施設である。これから行われる交渉の結果によっては、再び諏訪勢と辰野勢の戦いが始まるということもあり得る。この小屋が本陣ではないにせよ、『司令部』ともいうべき場所に通じる道筋を簡単に見せようとする道理はない。それも当然か、と、諏訪子は心のうちに呟いた。
ユグルを取り巻く城方の兵と、諏訪子を始めとする諏訪方の使者たち。
それら十数名で足を踏み入れると、もう小屋は満杯の有り様である。身動きが取れないほどではなかったけれど、冬というのに各々が発する体温のために自然と身体が温まっていく。小屋のなかには諸々の武器や道具はおろか、元々の住人がその生活に使っていたであろう調度類もなかった。薪(たきぎ)の足しにでもしたか、それとも客を迎えるために片付けさせたのか。
「案内(あない)、御苦労であった」
促されるまま上座――というほどのものではないが、壁際の席に諏訪子は着く。
そのちょうど向かい側にユグルも着座し、深々と拝跪(はいき)の礼を取った。形ばかりの敬意であろうけれどと思いつつ、彼女はちらとこの小屋のなかでの人の配置を検める。出入り口は土間から通ずる一か所のみ。その場所を塞ぐようにしてユグルと城方の兵たち。一方の諏訪方は諏訪子を中心に、壁を背にして半円を描くようなかたちとなっている。なるほど、上座を勧める体(てい)で逃げ場をしっかりと塞いでいる。狭い小屋のなかで乱闘になれば、悪くすればユグル自身にも危害が及びかねない。しかしその代わり、諏訪方と刺し違えることくらいはできるだろう。端から、退路を断つつもりだったのだ。おそらく交渉の決裂を見越しての備えである。どうやら、こちらはよほどに信用されておらぬらしい。そんな風に、苦笑せざるを得ない諏訪子。
彼女の表情(かお)の変化を確かめようとするかのように、ユグルは礼を解いて顔を上げた。飢え痩せたりとはいえ両の眼に宿る光は、煥発な意気を未だ失っていない。若々しさのうちに宿る、鮮烈な自信と凶気が窺われた。
「此度(こたび)、この洩矢亜相がいったい何のために諏訪より辰野に参ったか。其許(そこ)ももう承知であろう」
その背を正し、相手の放つものに気圧されぬよう諏訪子は言った。
王であり神である彼女の意思が、少女の声となって冬の空気を凛と震わす。しかしユグルもまた怖じる気配すら見せなかった。彼が無言でうなずくと、髻(もとどり)を結わぬ“ざんばら”の黒髪が頭の上でぶわと揺れる。数月の籠城を経るうちに、手入れもできぬまますっかり伸びてしまったのに違いない。細い顎には薄らと髭も生えてきているようだった。斯様ないくさの最中(さなか)でさえ、少年の身体は大人へと成長を遂げようとしている。
ユグルは、うなずいてからしばしのあいだ、諏訪からの使者に対していかに答えるべきかと言葉を吟味していたようだ。互いの瞬きの音さえ高々と響きそうな沈黙が流れる。やがて考えもまとまったか――否、あれこれと言を弄したところで結論はひとつだと気づいたか、
「このユグルに、開城と辰野からの立ち退きを要求するためにございましょう」
と、手短に答えた。
落ち着き払ってはいたものの、声音には紛れもない警戒の色が込められている。
彼が言葉を発したのとほとんど同じ瞬間で、城方の兵たちも朧気な殺気を放っていた。察して、諏訪方の護衛たちまでもぎろりと相手を睨みつける。互いにつるぎの柄に手を掛けこそしていなかったが、見えぬ矢合わせはすでに始まってしまっている。
諏訪子は言う。
「今さらあれこれと回りくどい説明をすることもないが……。単刀直入に申そうか。ユグル、其許はこの伊那から小県(ちいさがた)に移るべし。新たな土地賜うべきことは、王権が確かに保証する」
「お断りいたしまする」
取りつく島もない、というのはこういうことを言うのだろうか。
諏訪子からの勧告に、ユグルは微塵の躊躇も見せずに言い切った。
ううむ、と、溜め息ともうなり声ともつかぬものを吐き出して、彼女はなお続ける。
「強情を張るは良からざる仕儀ぞ。何も元の土地の広さを削り取り、狭苦しい場所へ押し込めようとするのではなし。同じだけの広さの土地を賜うと八坂さまよりの仰せ。それに南科野の要衝たる辰野が安定を欠けば、やがて騒乱の火は科野全土に広がらぬとも限らぬ。さすれば、この伊那辰野そのものの平穏さえ危うくなろう。諏訪からの庇護受ければ、王権のもと安穏と一族の血筋を続かしむることもできる」
「お断りいたしまする」
「あまり逆らうようでは八坂さまに直属する神兵はじめ、諸方の豪族方よりかき集めし兵数千がこぞって其許を滅ぼしに来るぞ」
「何と言われて脅されようと、ユグルはお断りいたしまする。飴も鞭も、この私には通用致しませぬ」
噛んで含めるように言い聞かせたつもりだったが、ユグルは予想以上に意固地であるようだ。鼻から抜けるような溜め息を吐きながら、諏訪子はこめかみを指先でぽりぽり掻いた。すると、何かの仕掛けを動かしたかのように「解らぬ子だ……」と、ぽろりと独りごとが漏れ出てしまう。その言にユグルは耳聡く気づく。多少むッとした顔になると、「お言葉ではございまするが」と即座に叩きつけてきた。
「この身ははや十四と相成りまする。十四なれば、もう立派に父祖伝来の土地を治むることも、一軍を率いていくさすることもできる。子供扱いはよしてくださいませ」
未だ少年の彼にもまた、一軍を率いる将としての自負があるのだろう。
少女の姿に化身しているゆえか、他人(ひと)から侮られる経験は諏訪子にもないではない。とはいえ「しかしな」と、相手の尻尾に噛みつこうとすることも忘れなかった。
「そもそも、ユグル。其許はなにゆえわれら諏訪の王権に叛かんとする。土地は小さい、兵は少ない。多少の軍略があったところで、このような小さき城砦……」
と、諏訪子は両手をぶわりと広げ、空間そのものを抱き留めようとするかのごとき仕草を見せる。
「大兵力の前にはひとたまりもなく踏み潰され、その跡には草の根一本とて残るまい。斯様な小城に留まりて意地貫くより、すがれるものにはすがって生きた方が得ではないか。其許も十四の歳なれば、何をどうすれば天秤がどちらに傾くか、少しは解るはずであろう」
かすかな微笑みを湛え、彼女は再び説いたのである。
とはいえ慈愛などでは断じてなく、多分の打算で骨組みされた微笑である。元はといえば、自分が辰野までやって来たのはユグルを調略するためだ。軍兵の脅しで相手の心を折れずとも、こちら側に靡かせればそれで良い。
ユグルも諏訪子のこの言葉に何となく気を許したのか、さっきまでその表情に絡みついていた険は少しだけだが和らいでいる。顎に手を当て、さらと撫でるものは産毛かそれとも生え初めし髭か。答えるべきものを見出して、彼は再び相手へ眼を向けた。
「諏訪子さま。先にあなたさまは、“意地貫くより”……と、仰せにございました」
「うん、言うた」
「わが身をこの伊那辰野に打ち込める楔のごときものとは、まさしく、その意地にございまする。十四の若僧にも、物事の利害越えたる意地と矜持はありまする!」
言って、少年は少女を睨みつけた。
彼自身が突き刺す精一杯の威圧だったのだろう。声変わりをしてさほどの年数も経っていないはずの、未だ子供の面影を残す叫びだった。意地、とは……と、諏訪子はじわりと顔を顰める。互いの利害を探り合う交渉の場には、いずれ似合わぬ一語である。
「意地、なあ」
唇を尖らせ、諏訪子は応じる。
「斯様なもののために、己が命を、家を、一族を滅ぼすか。飢え痩せる苦しみを甘受すると申すか」
「一族率いるユグルなればこその思い。元は諏訪にさきわう土着の王でありながら、外来の侵略者に尻尾を振る諏訪子さまには解らぬことにございまする」
ずいぶんはっきりと、苛烈なことを言い出す。
いやあるいは、これくらい苛烈な熱情を抱いていた方がいかにも少年らしい。そう思うと諏訪子はつい苦笑してしまう。しかしさすがに、彼女を護衛する兵たちにとっては看過しがたい侮辱であったらしい。きさま……と言を軋らせ、何人かの将が剣の柄に手を掛けた。諏訪子が直ぐさまその手で制さなければ、この場で斬り合いが始まっていたはずである。
溜め息を奥歯で噛み潰しながら、なおも諏訪子は問うた。
「其許の言には、何か特別のものを感ずる。単純な利害のみでは計ることできぬものを」
ユグルは、答えなかった。
「十四の男子(おのこ)が抱える矜持とやらの根、儂(み)に申してみる気はないか」
諏訪子の言葉は、最初のような恫喝や懐柔ではなかった。
策を変えたというほどの自覚もない。ただ、この少年の考えることを知らねば話が先に進まぬと思ったまでのことだ。こうも頑なに誇り、誇りと言い立てる相手には、今さら利害を説いても何の得にもなりはすまい。そんな彼女の意図を知ってか知らずか、しばらく下を向いて考えこんでいたユグルは、少しばかりためらいがちに顔を上げた。凛としたものの宿る両の眼はそのままに――しかし、今まで続いていた凶気の影は鳴りを潜めていた。ありふれた十四歳の少年が、そこに居た。
「八坂の神は、われら辰野の一族をお裏切りなされたのです」
「なに……」
予想もしていなかった言葉だ。
思わず、背筋を正してしまう。
「わが父は伊那郡に割拠せる豪族たちのうち、この辰野数村を治むるのみの小領主に過ぎませんでした。諏訪子さまの仰せの通り、わが辰野は小村ゆえ土地も兵も少ない。それゆえ、西方から攻め込んだ出雲人の軍勢に手向かうことの愚を察し、早くからかの神に恭順を誓っておりました」
ぽつりぽつりと、ひとつずつの筋を追って少年は話す。
「それというのも八坂の神に従うことすれば、いかに小領主とはいえ元の所領を安堵してくれると仰せられたがゆえのこと。ゆえに父は自らの忠誠示すべく、諏訪豪族とのいくさにても真っ先に立って戦い、――討ち死になされました」
南科野勢を加えた神奈子の軍が、諏訪豪族と戦った……となれば、今から一年以上も前のことである。肉親の死のかなしみが癒えるには、未だ時が足らぬというべきだったかもしれない。しかしその悲劇を口にしながら、ユグルの声はどこか誇らしげだった。常に自ら先頭に立って雄々しく戦った父、一族の矜持の体現たる人。今はもう居ないその人物への尊敬と憧れが、彼のうちにははっきりと宿っている。勇ましく誇りだ何だと口にしていた統治者としての少年とは違う、無垢なる何かがそうさせているのだと思われた。
ユグルはなおも話す。
けれどその声音は、最初とは違う険しさが宿っていく。
「いわばわが郷里たるこの辰野の地は、わが父の死という出来事によってユグルが購いしもの。それだというのに八坂の神は、所領安堵という元の約束を反故(ほご)にしたうえ、召し上げた土地にダラハドなる諏訪豪族の末裔を呼び込まんとしておられる。これを裏切りと呼ばずして、何を裏切りと呼ぶべきか!」
なるほど、と、諏訪子は呟いた。
少なくともいくさで死んだというユグルの父は、一族を滅ぼさぬために取り得るなかではもっとも賢明な判断をしたといえる。だが、その果てが自らの身を矢面に立たせた挙句の死だ。あまりにも急なるかたちで家督を相続しなければならなくなったユグルにとって、その後の王権の施策が受け容れがたいものであるのは理解できる。
「これでは、……これでは父はただの犬死に。八坂の神に、ただ殺されたも同然の仕儀にございまする! たとえ同じだけの土地をよそに賜ったとて、一族のために命を棄てて戦ったわが父への許しがたい侮辱。到底、許すことなどできませぬ! そのような不実な王が口にする庇護など、世人が認めてもこのユグルばかりは断じて認めぬ!」
仮にもここが交渉の場であることをつい忘れてしまったか、ユグルは激昂のまま拳を床に叩きつけた。床とはいっても粗末な掘っ立て小屋のこと、この会見に際して用立てられたものか、筵の代わりに薄い木の板を敷いた床でしかない。その板を、少年の拳が強く強く打ち叩いたのだ。自らが信じる誇りのためにである。彼が彼のために振りかざす正義のためにである。
しばらく、彼のさせるがままにさせておいて。
「しかしな、ユグル。それならばなおのこと」
ようやくユグルも怒りが収まり落ち着きを取り戻したところで、諏訪子は再び声を掛けた。
「身罷った(みまかった)父の遺志を無駄にしてはなるまい。其許の父は、一族を永世に続かしめんがために八坂さまの下についたはず。その子である其許が王権に逆ろうて、滅ぼされてしまえば何とする。それこそ、父の猛くして高邁なる志を自ら踏みにじってしまう行いではないか?」
利よりも情を重んずるのなら、こちらも情を引き出すまでである。
ユグルに向けて手を差し伸べるような仕草を見せ、諏訪子は言った。御身を滅ぼしかねぬ意地など棄て、この手を取って生き残れと言わぬばかりに。それでもユグルは諏訪子の手を振り払うかのごとく、
「……それが、あるいは世の道理であるのやも知れませぬ。しかし!」
と、叫んだのである。
「わが父が受けた辱めを雪ぐに、斯様な物言いでは何ひとつ足りませぬ。足りませぬゆえこのユグルは、科野の天下に一族の意気示さんと、つるぎを手に取りていくさする所存」
彼は、相手をきッとした眼で見据えていた。
「父を、一族を、自らを育みし血の流れを辱められたまま自分だけが安穏と暮らすなど、そんなものは人の道に外れている。従容と恥のみ受け容れるも、自らが人であることを棄てるに等しき振る舞い。私はそのような恥に繋がれるばかりの奴隷として、数十年の生を全うしたくはございませぬ」
まったくもって、理の在らざる意志であった。
理の在らざる意志ではあるが、一本の筋は通っている。
それはオンゾやジクイといった者たちが武器としていた老獪さとは違う、少年が少年であるがゆえの苛烈な特権というべきものだ。いかに辰野数村という小さな領土とはいえ、十四歳という年齢(とし)は一族を率いるには未だ若すぎたのかもしれないのだ。彼は父が受けた辱めを雪ぎ一族の面目を護るということにばかり固執して、誇りや矜持といったものにすがるあまり、目前に迫った破滅に対して盲目となってしまっている。危うい兆候(きざし)である。ユグル本人が身を滅ぼしかねないという以上に、彼のその熱情が、今後、何者かに煽りたてられ利用されないとも限らない。そうなれば、危険が及ぶのは科野の政そのものである。
「勝ち目が……あると思うのか?」
眼差しをフと伏せながら、諏訪子は幾度目か問うた。
「麓からこの小屋にやってくるまでのあいだ、ほんのわずかだが城の有り様を見たぞ。兵らはみな痩せ、そのため身体に対して鎧が“ぶかぶか”になっておるではないか。加えて老人や女子供でさえもこの城には多い。それぞれが鍬(くわ)や鋤(すき)、鉈や包丁で武装せるは、戦力が足らぬ何よりの証。おまけに――」
ぐるりと、諏訪子はユグルを取り囲む兵を見回した。
「いまこの場に加わっておる其許の護衛たちでさえ、鉄の甲冑をまとう者は幾人も居らぬではないか。獣の革を張り合わせ、所々を鉄の板で覆った物で間に合わせているに過ぎぬ。あらかじめ貯えておいた武器甲冑は、おおかた水運商人から糧食を買うのに使ってしまったのであろう。総大将である其許を護る立場の将兵でさえこの有り様。城の奥まで進めば、さらなる軽装を余儀なくされた者たちが居ろう。違うか?」
ユグルは、黙りこんで何も答えなかった。
沈黙を肯定と見なし、諏訪子は続ける。
「おもんみるに、辰野勢の与党四百とは女子供まで含めた数でしかない。しかもその大半はろくな武装もなく、飢え痩せておる。最初こそ計略を用いて諏訪勢を打ち破ったかもしれぬが、改めて大軍を送りこまれればひとたまりもあるまい。わが方には八坂神に直属する総勢一万の神兵に加え、諸方の豪族から拠出させた数千の兵もある。これらがいちどに襲いかかれば、このような小城など半日とかからず落ちてしまおう。否、それよりも。立てこもる者全員が討ち死にする方が早いのかもしれぬ」
ずいと、身を乗り出す諏訪子。
「諏訪子から改めてユグルに申し渡す。其許に勝ち目はない。降伏し、小県に移れ」
諏訪子にとっては、いよいよ核心を突いたつもりの言であった。
こうまで言われれば若さゆえの猛々しさが先に立つユグルでさえ、さすがに死を怖れようと。しかし彼が返してきた言葉は、諏訪子の予期したものとはまったく反対だった。彼はやはり、「お断りいたしまする」ときっぱり言い切ったのである。
「わが陣営が諏訪方に比べて痩せ細っているなど、この城に籠った時点で百も承知。まともに戦ったところで万にひとつとて勝ち目がないのも解っておりまする」
「それならば、なぜ……!」
「皆が、この私についてきてくれるからにございまする」
覇気ある反駁に、諏訪子は思わず眼を剥いた。
「勝ち目なきいくさと知りながら、臣下も領民も一丸となって諏訪王権の不正義に怒り、屈辱を雪がんとユグルを盛り立ててくれるのです。これをむざむざ見捨てるなど、決して正当の道理にはあらず。郷里を棄てるは、この忠良なる者たちをも棄てることになる」
「だが、みな飢えておる。このまま籠城を続けていては、いくさが始まる前に陣営そのものが滅び去る」
「そうかも知れませぬ。しかし、――」
突如、にッ、とユグルは笑った。
唐突といえば唐突な反応に、諏訪子も思わず口をつぐんだ。
「われら辰野勢が長く持ち堪えれば持ち堪えるほど、諏訪王権はその権威の脆さを天下へありありと示すことになる。そうすれば、今まで王権への不満を溜めこみながら日和見に徹していた各地の豪族たちも、やがて八坂の神に従うだけの理由なしと見、南科野を中心として次々と叛旗を翻すはず!」
拳をぐっと握り締め、少年はそう熱弁した。
ほう、……と、諏訪子は溜め息を吐く。
オンゾからの支援を受けつつユグルは辰野で籠城する。そして諏訪王権がその叛乱を鎮められぬと見るや、科野各地の豪族がここぞとばかりに八坂神奈子へと叛旗を翻す。なるほど、どうやらこのユグルという少年も、ただ公に叛くばかりの猪武者ではないらしい。彼なりの構想に支えられた戦略あればこそ、自分ひとりでは勝ち目なき戦いを始めるつもりになったのだろう。
もし科野各地で一斉に叛乱が起きようものなら、いかに軍神八坂率いる精兵とはいえ、鎮圧には非常な困難を伴うはずである。確かにユグルの考える通りなら、諏訪に開かれた王権はそれで瓦解しかねない。いや、実際……ジクイたち南科野の豪族は、それを企図していたと思われる。それがためにギジチを通じて秘密裏に武器を買い入れていたのだ。来たるべき決起の日のために。おそらくはユグルとジクイらとのあいだで出兵の約定でも交わされていたに違いない。そうでなければ、籠城で痩せ細ったユグルが『他の豪族たちの蜂起』という切り札を自信たっぷりに示せるわけがない。
けれど、ひとつ。
諏訪子はユグルのその策が成らぬ、決定的な理由を持っている。
ユグルの戦略はあまりに“きれいすぎる”。そのような策が、とっくの昔に破綻していることにさえ気づいていない。それゆえに、彼は未だに自らが諏訪王権との戦いの最前線に立っているという気持ちなのだ。彼のように、ある意味では愚かとも言えるほどの純粋さを汚してしまうのは諏訪子とてためらいが先に走った。しかし、今ここで彼の心を折っておかねば、それは後に大きな災いとなって作用するということも容易に察せられる。
――――止むを得ぬな。
躊躇なるものは腹の奥底に飲み込んで、彼女はその眼に昏い焔を燃え立たせた。
「ユグル。酷い(むごい)ことを申すようだが……斯様な策は、とうの昔に失われておる」
「このうえさらに私を動揺させようと、在りもせぬ話を弄するは無駄にございまする」
ユグルは、余裕綽々といった表情だ。
諏訪子に向けて開陳した自らの策が、王権の上を行くものだという確信があるのだろう。そうやって自らの全能を信じていられるのもまた若さの特権には違いないが、しかし。
「嘘には非ず。断じて嘘には非ず」
諏訪子とて引き下がるわけにはいかない。
余裕の笑みに幾ばくかの怪訝さを混ぜながら、ユグルがごくりと唾を飲む。
「ユグルよ。この城の者がみな飢えておるは、天竜川を下って糧食を売りに来る水運商人との取引が、今やまったく停止されているからであろう」
「斯様なことは……」
少年はぐッと言葉を飲み込んだ。
うかつに認めては、敵に自らの窮状を悟られることになると怖れたのだ。むろん、諏訪子はそこまで読み切っている。
「船乗りたちは、あくまで商いの者。品物と交換できるだけの正当な値打ちを持った物を辰野勢が用立てられぬ限り、糧食を売ることはできまい。そしてこの城は備蓄の糧食を食い尽くし、新たに買い入れるだけの財も、籠城が長引くに連れ次第に乏しくなっていく。そのような状態で水運そのものが途絶えればどうなるか。…………それが、今のこの有り様ではないか。そして、」
大きくいちど、諏訪子は息を吸った。
「水運商人たちが辰野から離反するよう仕向けたは、他ならぬ諏訪王権の策なり。いやそればかりではない。船乗りたちに品物を流していたオンゾは討たれた。そしてオンゾを討ったは、もともとかの者と結びついて河手の権益を保っていた、ジクイら南科野の豪族輩(ごうぞくばら)だ」
ユグルが、瞠目して諏訪子を睨みつける。
ぎりりと奥歯を噛み締める音が、頬の内側から聞こえてきそうなほどの気迫である。だが諏訪子は怖じも動じもしなかった。ただ相手を睨み返し、話を続けるだけだ。
「オンゾの首がな、諏訪には届けられたのよ。他ならぬジクイからな。かの者は諏訪王権に逆らう愚を悟り、すでに恭順を誓っておる。求められれば兵まで出すと申してな」
「とすれば、ジクイどのが私を裏切ったということだ。まさか、そんなこと――――!」
「この期に及びて未だ作り話と思うのか? 自らもまた空きっ腹を抱えてこの会見に応じておるものを。先ほどから何度も、其許の腹の鳴り音が聞こえておるぞ」
くッくと諏訪子は笑みをつくる。
冗談のつもりの発言だったが、どうやらユグル相手には鎌掛けとして作用したらしい。焦った顔で、彼は自らの腹を押さえつけた。
「其許はな、ユグル。大儀とか誇りを天に向け掲げれば、世の人はみなついてくると思うておるのやも知れぬ。其は確かに一面の真実なれど、突き詰めればそれぞれの利害や損得が絡む行いを、美名によりて飾り立てているに過ぎぬ。あたかも――――」
溜め息まじりに、
「人々がこの諏訪子を推戴し、その言を勅として引き出し政を手にするごとくな」
と、諏訪子は言った。
「いかに見目麗しき大儀を掲げ、誇りを護るためと称しても、そこに利なくば人は決してついては来ぬもの。父の受けた辱めを雪ぎ、一族の誉れに報いる。其は大いに結構なこと。御身、一個の武人であれば、後の世までも称賛されることとなろう。しかし、」
決して砕けぬ利剣を、ついに彼女は突き刺した。
「自ら掲げる大儀と誇り以上に人を動かし得る利と益を、他の者らに示せぬ時点で初めから負けは決まっておった。辰野に味方する勢力はもはやひとつも残ってはおるまい。ユグルは、見捨てられたのだ!」
諏訪子にそう断じられて。
ユグルは両の眼をかッと見開いたまま、何もない中空を見つめていた。
やがて彼の眼の端には、涙が姿を見せ始める。少年もまた、ようやく現実を受け入れ始めたらしかった。しかしなお涙が頬を伝うことがないよう耐えていたのは、やはり彼なりの矜持だったに違いない。彼を取り巻く護衛の兵たちも、ユグル同様に色を失い動揺しているのがありありと見て取れる。互いに顔を見合せながらも、諏訪子が話したことの真偽を議するまでのこともしなかった。どうして南科野勢はいつまで経っても兵を出してくれないのか? どうして天竜川の船乗りたちが辰野の渡しを無視するようになったのか? 今まで薄々と気づき始めてはいたそれらの疑問に対する回答が、動かしがたい真実となって押し寄せているのだ。
そのとき。
「われら伊那辰野の一族は、……」
ユグルが、再び口を開いた。
ぽつぽつと、取りとめのない口調である。胸のうちに湧きあがってくる言葉を、吟味することもなく放っているのだと思われた。何があるかと、諏訪子は耳をそばだてる。
「出雲人がやって来るよりはるかに以前、幾十年もの昔から、科野中央――諏訪あたりとのいくさの矢面に立たされてきました。伊那の要衝たる辰野が押さえられれば、南科野全体への諏訪以北からの侵攻が容易になるからにございまする。ゆえにわれら一族は、わが父もまた、南科野の土地を護るために戦い、南科野の諸領主に頭を下げて後押しを願っておりました。北に矢を向けるは郷里がため、南に頭を下げるも郷里がため。そして、八坂の神に従うたも、」
「郷里のためであったか」
諏訪子の言葉に、少年は反目することなくうなずいた。
「多年に渡り、われら辰野の者たちは戦ってきた。たとえ親兄弟が斃れようとも、その屍を乗り越えて。命を失いはしても、郷里とそこにある誇りだけは護らんがために。だというのに南科野の方々はわれらを見捨て、新たな主君と恃んだ(たのんだ)八坂の神は、われらを育んだ郷里を取り上げると仰せになる」
「それが、政というものだ。小事を棄てて、大事を取らねばならぬ。それが先々において、小事をも救うことになる」
「では、“いま切り捨てられる小事”は、いったいどうなるというのです。八坂の神は南科野を怖れておいでに違いありませぬ。それがために諏訪豪族の末裔(すえ)たるダラハドごときをこの要衝の地に置きたがるのだ。元々の辰野の民である、われらを無碍にも追いやってまで!」
ユグルの言っていることは、蓋し(けだし)、本当であろうと諏訪子も思う。
南科野はその腹に王権への叛意を育たせていた場所だ。中科野から南科野への道筋である辰野に王権の息の掛かった者を配置すれば、それだけで南科野へ向けて八坂神奈子の威を示すことにもなる。そして南科野勢力の首班たるジクイたちは、今やそんな施策を表だって攻撃するなどしないはずである。誰もみな、破滅の危機を犯してまで火中の栗を拾おうなどとは思いたがらないからだ。
つまり、この伊那辰野という土地は。
ジクイたち豪族勢からは、諏訪王権との火種を避けるために蜥蜴(とかげ)の尻尾として切り離された。八坂神奈子からは、統治機構の強化の踏み台として捨て石にされた。それぞれの勢力の思惑のもと、ユグルは利用され、その大義を糧に踊らされていたに過ぎなかったのだ。
諏訪子もまた、そこに気づいていなかったわけではない。
しかしながら眼の前で必死に涙をこらえる少年を見るにつれ、ただ憐れみだけが先に立って仕方がなかった。一念に信じてきた誇りも、郷里を護るという大義も、みないちどに穢されてしまったのである。そしてそれを悟らせたのは、他ならぬ洩矢諏訪子なのだ。
「ならば、もう、解ったであろう」
彼女は今までより、一層の慈しみある声を発する。
「争うだけ無意味なこと。おとなしう開城をし、辰野の土地を明け渡すが良い」
床に敷いた板を軋らせ、おもむろに彼女は立ち上がった。
ユグルは座ったまま、その様子を見上げもしない。しばし諏訪子はその場から動かず、少年を見下ろし続けるだけだ。あまりにも惨めな、敗残の姿を。
「私は……」
ユグルが、ゆっくりと顔を上げた。
「絶対に、立ち退くこと致しませぬ!」
彼の叫びを耳にしたとき、両の拳をぎゅうと握り締めてしまったことに諏訪子は気づかない。そしてさっきユグルがしたように、瞠目して彼を見返した。
「何を言うておるのだ! 兵もなく食い物もなく、力を貸してくれる味方もない。政のうえでもいくさのうえでも、其許の勝ちはもはや望めぬ。この期に及びて諏訪の軍と戦い、自らの身を滅ぼすつもりか!」
「先に申し上げました。従容と恥のみ受け容れるは、自らが人であることを棄てるに等しき振る舞いだと。相手が不正義を掲げて軍事(いくさごと)に訴えるのであればなおさらのこと。たとえわが身が死したとしても、この名ばかりは穢させませぬ!」
愕然とするあまり、いちど立ち上がったその身を諏訪子は再び折れさせることしかできなかった。ぐたりと床に座り込み、力なくユグルを見据えた。一方の彼は諏訪子と入れ替わるようにして立ち上がり、腰のつるぎに手を掛ける。
「どうしてもやるのか」
「むろんにございまする」
「死ぬぞ。みな諸共に」
「諏訪に叛いた時点でその覚悟はございました。もはやわれらは破滅の瀬戸際まで来てしまったのです。どうせ滅ぶのであれば、世に向けて花実を咲かせてから滅びとうございまする」
すらりと抜き放たれた鉄剣の先が、諏訪子の鼻先に突きつけられる。
諏訪方の兵らもまた色をなしてつるぎを抜こうとするが、「待て!」と他ならぬ諏訪子に制せられた。「いかなる言にて己が大義を訴えるか、せめて聞き届けてやるだけの義理はあろう」と。するとユグルは一礼し、再び言葉を発する。諏訪子の温情を、この場は受け容れるつもりになったのだ。
「もはや交渉としてお話しすることは何ひとつございませぬ。此度はお引き取りくだされませ。命がけで護ってきた郷里をむざむざと奪われ、唯一の誉れとしてきたものさえも踏みにじられる怒り……それを露ほども思わぬ者たちに、われら辰野勢の最後の意気を示しとうございまする」
そう言った主への同心を示すつもりか、彼を取り巻く兵たちはみな、つるぎの柄に手を掛けていた。偽りもなく、すべての意図を通じ合っているということがよく解る。自らの郷里を護るための闘いへ参ずるという誇りも。そして、目前に差し迫った死と破滅をひしひしと感ずることも。ユグルと彼の部下たちは、みなその手をぶると震わせていたのだから。
――――――
諏訪へと戻る輿の上、諏訪子はひたすらの失望に苛まれていた。
ただ自らの、不甲斐なさのゆえにである。
ユグルとの交渉を取りまとめるために辰野までやって来たはずが、彼の気ぶりをいたずらに昂ぶらせるばかりで、結局は失敗に終わってしまった。当初危惧していたような、辰野勢と小競り合いを起こした末に流血の事態となることだけは避けられたのが、せめてものさいわいと言うべきか。ひとつの失敗をひとつの幸運で糊塗したい思いが、彼女の心のなかでぐるぐると渦を巻いている。
いや、しかし。
そんな考えの愚に気づかぬ諏訪子ではない。
ユグルとの交渉成らず、と、なったときは、諏訪は軍勢を送り込んででも屈服させる。少なくともそのための大義名分は得てしまった。諏訪に帰って交渉失敗の報を神奈子に知らせれば、直ぐさま出兵が発議されよう。遠からず数千の軍勢が編制され、伊那辰野へ向けて進発するに違いない。そして、その後は――。
辰野の地に流されるであろう血の熱さを思えばこそ、諏訪子はぶるりと身を震わす。
夕近くなって冷たさを増してきた風が、少女の身体を否応なく切り裂いていった。寒いな、と、呟いた。大粒の雪が風混じりに舞い飛んでいる。輿に乗っているだけでは、われとわが肩を抱いてやることしかできはしない。此度のいくさは、きっと冬のあいだに行われることであろう。神奈子は何が何でも年内に辰野を制圧したがるに違いない。来春を待っていくさを始めては、その分だけユグルらは余計に飢える。飢えて弱った陣営を攻め取っても、それは武人の誉れにならぬだろうから。
結局、何を考えても最後はいくさに繋がってしまう。
思いきり、諏訪子は溜め息を吐いた。白い息が、風に流されて消えていく。
「冷えまするな」
と、側近の将が声を掛けてきた。
他人(ひと)と話すだけでも少しは温まろうという、この部下なりの気遣いみたいなものが感じ取れる。
「うん。冷える。ひどく冷える」
彼の方には眼だけちらと向け、諏訪子は答えた。
「もう冬も深い。科野の冬は、其許たち出雲の者には堪えよう」
「何の。十余年もあちこちを転戦してきたのです。これくらいの雪など、ちょっとした土産話の種にして然るべき」
その言に諏訪子も護衛の兵たちも笑った。
だが、いちど浮かべた笑みを直ぐに曇らせ彼女は言う。
「わが身を冷えさすは、この冬の寒さばかりではない。辰野の者らの敵意の眼だ。自らの郷里を攻め侵すわれら諏訪方に、何としても抗さんとする眼だ。老いも若きも、男も女も。兵か兵でなきかに関わらず」
「解っており申す。それがしも、諏訪子さまのおそば近くでユグルと相対しておりましたゆえ」
うん、と、諏訪子は大きくうなずいた。
朱鷺色の襟巻きが、びゅうと吹く風に揺れる。
かろうじて温かみを留めている布に、彼女はわずかに口元をうずめた。
「此度、われらが敵対する者は、あの“眼”に他ならぬ。不正義を憎む眼。郷里を護らんとする眼」
「諏訪子さまは、八坂さまの政が不正義であると……?」
驚きの混じった顔で、将が訊ねる。
首を振ることなく、「いいや」とのみ諏訪子は答えた。
「いくさなるものに悪とか不正義の別をつけるは甚だ愚か。いついかなる陣営においても弓矢は正義のために放たれ、矛は正義のために握られる。八坂さまは科野のための正義、ユグルは郷里を護らんがんための正義。しかし、いずれ確かなのは……」
くッ――と、諏訪子は鈍色に曇る雪空を見上げた。
「これからいくさが起こるということだけ。いかに小さきものとはいえ、人々の心を寒からしめる、むごきいくさが」