Ⅰ 小さな大異変
いつまで続くのかと思われた冬も開け、例年のように春が訪れた。
草花が芽吹き、揚羽蝶が優雅に羽ばたく卯月の中旬。
幻想郷と結界を隔てて繋がっている冥界では、幽霊と人間を交えた花見が毎日のように催されている。
何故冥界に生きた人間がいるのかと言うと、ここ十年ほど冥界と顕界にまたがる結界が緩んでいるからなのだが、詳しい話は博麗神社の巫女にでも訊けば武勇伝としていくらでも語ってくれるだろう。
冥界には一軒の広大な屋敷がある。白玉楼という、冥界一の屋敷である。
一般開放されている白玉楼の庭園には無数の桜の大木があり、花見は主にそこで行われていた。
桜は現在七分咲き。もうじき見頃を迎えるだろう。
花見をしている幽霊たちは喋ることができないが、生者の花見客は酒を酌み交わしながらやんややんやと騒ぎ立てている。
そんな喧騒が微かに聞こえる、白玉楼本殿。ここでも静かな花見が催されていた。
白玉楼の主人にして西行寺家のお嬢様、西行寺幽々子。そして、西行寺家に仕える庭師兼剣術の指南役、魂魄妖夢。二人の少女は縁側に腰掛け、枯山水の中庭と、その奥に広がる無数の桜を眺めていた。
「もうすぐ満開になりますね、幽々子様」
妖夢がお酌をしながら語りかける。対して幽々子はその酒を宙に掲げ、
「うちの桜は決して満開にならないわよ。他の全てが咲き誇ったとしても、唯一咲かない木があるじゃない」
「ああ、あの桜ですね」
あの桜とは、庭園の片隅にある妖怪桜のことである。歌聖であった幽々子の父がその桜の本で眠り、生前の幽々子もそこで最期を遂げた。その後も同じ場所で亡くなる者が続き、いつしかその桜は「西行妖」と呼ばれるようになった。
現在の幽々子は亡霊であるが、生前のことは何も覚えていないようだ。故に、その桜が西行妖と呼ばれるようになった所以は妖夢の祖先より受け継がれる伝説からしか分からない。
「もうあのさくらを満開にさせることは諦められたのですか?」
「そうね。あれだけ周囲を巻き込んだ挙句に結果が出せなかったのだから、もっと根本的な要因を探す必要があるわ」
数年前、幽々子がこの桜を満開にさせようと幻想郷中から春を集めたことがあったが、努力も空しく失敗に終わっている。なぜ失敗したかという理由は、実ははっきりしていた。生前の幽々子をはじめとした多くの亡骸がその木を封印しているからだ。
幽々子本人はその事実に気付いていないのだが、薄々勘付いてはいるようで、
「無理を通せば咲くというわけではなさそうだし、きっとどこかにジレンマがあるはずなのよね」
「ジレンマ……」
妖夢が顎に手を当てて考えるが、答えは出なかった。もっとも、そう簡単に答えが出るならとっくに出ているはずだ。
「西行妖が満開になると復活する者……興味が無くなったわけじゃないけど、それを突き止めるのはひとまず保留。案外そのうち、いい考えがポッと浮かぶものよ」
「そういうものですか」
「気長に待てってことね。果報は寝て待てって言うじゃない」
「確かに。ところで幽々子様、さっきからお団子の食べ過ぎではないですか?」
「果報を寝て待ってるのよ。花より団子ともいうでしょ。花が無ければ団子を食べればよいのよ」
幽々子の言うことは支離滅裂だったが、とにかく説得力だけはあった。
「程よく食べて程よく寝る。程よく酒を呑んで程よく花を見る。これ以上に優雅な春の過ごし方があるのかしら」
「幽々子様は程よく食べ過ぎです。食べて寝てばかりいると牛になってしまいますよ」
「牛は胃袋が四つあるんですってね。より多くのお団子が食べれて好都合だわ」
話にならない、と妖夢は溜息をついた。そんな折、背後から第三者が声をかけてきた。
「亡霊が牛になるとは滑稽ですこと。牛頭馬頭みたいな感じになるのかしら」
基本的に白玉楼には人を招くことはない。よほどの特別な客人か、あるいは勝手に入ってきた場合しか第三者の声はしないのだ。今は後者である。
「何か御用かしら、紫」
幽々子が振り返らずに名を呼ぶ。
八雲紫。妖怪の頂点にして幻想郷の創生者とも言える。また、幽々子とは千年以上前からの親交があった。結界を操る程度の能力を有しているので、結界の隙間を潜ることで白玉楼の立ち入りも自由自在である。
紫は幽々子の背中を、そしてその奥に広がる枯山水の中庭と一面桃色の庭園を眺めながら、
「今年は満開になるかもしれないわね。ここの桜」
「……どういうことかしら」
「そのままの意味よ。もしかすると、今年は冥界中の桜が一本残さず咲き狂うかもしれないわ」
「一本残さず……たった一本の例外も無く?」
「そう。すべての桜が満開を迎えるかもしれない。それを教えに来ただけよ」
「あのー、紫様?」
妖夢が振り返って訊く。
「あの西行妖すらも咲くというのですか?」
「ええ。先ほど式神に調べさせたら、いくつかの蕾が開きかけていたそうよ」
「…………」
それを聞いた幽々子は、盃に残っていた酒を一気に呑み干し立ち上がった。
「あ、待ってください幽々子さまー」
黙って庭園に飛んで行こうとする幽々子を、慌てて妖夢が追う。
「伝えることは伝えたし、私はお暇させていただくわ」
返事はない。紫は構わず、帰るための“スキマ”を作るために扇子を構え、
(ここから先は貴女の選択よ、幽々子――)
庭園へと飛んでゆく幽々子と妖夢の間を裂くように、扇子を一閃させた。
*
「あっ、確かにちょっと咲き始めてますよ、幽々子様」
西行妖の蕾を見ながら、妖夢は嬉しそうな声を上げた。
妖夢が見ているのは比較的低い位置にある蕾。ほんのわずかだが先が割れて、桃色の内部が顔を覗かせている。
今までどんなに苦労しても決して蕾を開かなかった桜。それが何故、こんなにも簡単に花開こうとしているのだろうか。
「妖夢。しばらくの間、毎日この桜を観察しておいてくれるかしら。何となく、嫌な予感がするわ」
「念願の開花だというのにですか」
「ええ。ただ花が咲くだけだったら、わざわざ紫が警告に来ることはないわ」
「あ……確かに」
紫は基本的に、異変が起きた時しか姿を現さない。自ら異変を起こした時にも現れるが。
その紫が現れたということは、何か事件が起こるとみて間違いないだろう。しかも今回は西行妖に関わる事件の可能性が高い。
(そうなると、私も直接腰を上げないといけないかしら……)
僅かながら確実に変化が起こっている西行妖を見上げ、覚悟を決める幽々子だった。
いつまで続くのかと思われた冬も開け、例年のように春が訪れた。
草花が芽吹き、揚羽蝶が優雅に羽ばたく卯月の中旬。
幻想郷と結界を隔てて繋がっている冥界では、幽霊と人間を交えた花見が毎日のように催されている。
何故冥界に生きた人間がいるのかと言うと、ここ十年ほど冥界と顕界にまたがる結界が緩んでいるからなのだが、詳しい話は博麗神社の巫女にでも訊けば武勇伝としていくらでも語ってくれるだろう。
冥界には一軒の広大な屋敷がある。白玉楼という、冥界一の屋敷である。
一般開放されている白玉楼の庭園には無数の桜の大木があり、花見は主にそこで行われていた。
桜は現在七分咲き。もうじき見頃を迎えるだろう。
花見をしている幽霊たちは喋ることができないが、生者の花見客は酒を酌み交わしながらやんややんやと騒ぎ立てている。
そんな喧騒が微かに聞こえる、白玉楼本殿。ここでも静かな花見が催されていた。
白玉楼の主人にして西行寺家のお嬢様、西行寺幽々子。そして、西行寺家に仕える庭師兼剣術の指南役、魂魄妖夢。二人の少女は縁側に腰掛け、枯山水の中庭と、その奥に広がる無数の桜を眺めていた。
「もうすぐ満開になりますね、幽々子様」
妖夢がお酌をしながら語りかける。対して幽々子はその酒を宙に掲げ、
「うちの桜は決して満開にならないわよ。他の全てが咲き誇ったとしても、唯一咲かない木があるじゃない」
「ああ、あの桜ですね」
あの桜とは、庭園の片隅にある妖怪桜のことである。歌聖であった幽々子の父がその桜の本で眠り、生前の幽々子もそこで最期を遂げた。その後も同じ場所で亡くなる者が続き、いつしかその桜は「西行妖」と呼ばれるようになった。
現在の幽々子は亡霊であるが、生前のことは何も覚えていないようだ。故に、その桜が西行妖と呼ばれるようになった所以は妖夢の祖先より受け継がれる伝説からしか分からない。
「もうあのさくらを満開にさせることは諦められたのですか?」
「そうね。あれだけ周囲を巻き込んだ挙句に結果が出せなかったのだから、もっと根本的な要因を探す必要があるわ」
数年前、幽々子がこの桜を満開にさせようと幻想郷中から春を集めたことがあったが、努力も空しく失敗に終わっている。なぜ失敗したかという理由は、実ははっきりしていた。生前の幽々子をはじめとした多くの亡骸がその木を封印しているからだ。
幽々子本人はその事実に気付いていないのだが、薄々勘付いてはいるようで、
「無理を通せば咲くというわけではなさそうだし、きっとどこかにジレンマがあるはずなのよね」
「ジレンマ……」
妖夢が顎に手を当てて考えるが、答えは出なかった。もっとも、そう簡単に答えが出るならとっくに出ているはずだ。
「西行妖が満開になると復活する者……興味が無くなったわけじゃないけど、それを突き止めるのはひとまず保留。案外そのうち、いい考えがポッと浮かぶものよ」
「そういうものですか」
「気長に待てってことね。果報は寝て待てって言うじゃない」
「確かに。ところで幽々子様、さっきからお団子の食べ過ぎではないですか?」
「果報を寝て待ってるのよ。花より団子ともいうでしょ。花が無ければ団子を食べればよいのよ」
幽々子の言うことは支離滅裂だったが、とにかく説得力だけはあった。
「程よく食べて程よく寝る。程よく酒を呑んで程よく花を見る。これ以上に優雅な春の過ごし方があるのかしら」
「幽々子様は程よく食べ過ぎです。食べて寝てばかりいると牛になってしまいますよ」
「牛は胃袋が四つあるんですってね。より多くのお団子が食べれて好都合だわ」
話にならない、と妖夢は溜息をついた。そんな折、背後から第三者が声をかけてきた。
「亡霊が牛になるとは滑稽ですこと。牛頭馬頭みたいな感じになるのかしら」
基本的に白玉楼には人を招くことはない。よほどの特別な客人か、あるいは勝手に入ってきた場合しか第三者の声はしないのだ。今は後者である。
「何か御用かしら、紫」
幽々子が振り返らずに名を呼ぶ。
八雲紫。妖怪の頂点にして幻想郷の創生者とも言える。また、幽々子とは千年以上前からの親交があった。結界を操る程度の能力を有しているので、結界の隙間を潜ることで白玉楼の立ち入りも自由自在である。
紫は幽々子の背中を、そしてその奥に広がる枯山水の中庭と一面桃色の庭園を眺めながら、
「今年は満開になるかもしれないわね。ここの桜」
「……どういうことかしら」
「そのままの意味よ。もしかすると、今年は冥界中の桜が一本残さず咲き狂うかもしれないわ」
「一本残さず……たった一本の例外も無く?」
「そう。すべての桜が満開を迎えるかもしれない。それを教えに来ただけよ」
「あのー、紫様?」
妖夢が振り返って訊く。
「あの西行妖すらも咲くというのですか?」
「ええ。先ほど式神に調べさせたら、いくつかの蕾が開きかけていたそうよ」
「…………」
それを聞いた幽々子は、盃に残っていた酒を一気に呑み干し立ち上がった。
「あ、待ってください幽々子さまー」
黙って庭園に飛んで行こうとする幽々子を、慌てて妖夢が追う。
「伝えることは伝えたし、私はお暇させていただくわ」
返事はない。紫は構わず、帰るための“スキマ”を作るために扇子を構え、
(ここから先は貴女の選択よ、幽々子――)
庭園へと飛んでゆく幽々子と妖夢の間を裂くように、扇子を一閃させた。
*
「あっ、確かにちょっと咲き始めてますよ、幽々子様」
西行妖の蕾を見ながら、妖夢は嬉しそうな声を上げた。
妖夢が見ているのは比較的低い位置にある蕾。ほんのわずかだが先が割れて、桃色の内部が顔を覗かせている。
今までどんなに苦労しても決して蕾を開かなかった桜。それが何故、こんなにも簡単に花開こうとしているのだろうか。
「妖夢。しばらくの間、毎日この桜を観察しておいてくれるかしら。何となく、嫌な予感がするわ」
「念願の開花だというのにですか」
「ええ。ただ花が咲くだけだったら、わざわざ紫が警告に来ることはないわ」
「あ……確かに」
紫は基本的に、異変が起きた時しか姿を現さない。自ら異変を起こした時にも現れるが。
その紫が現れたということは、何か事件が起こるとみて間違いないだろう。しかも今回は西行妖に関わる事件の可能性が高い。
(そうなると、私も直接腰を上げないといけないかしら……)
僅かながら確実に変化が起こっている西行妖を見上げ、覚悟を決める幽々子だった。