Ⅱ 式神の警告
翌日。
春における妖夢の仕事と言えば、庭の手入れに加えて花見の会場を準備したり、また後片付けをしたりすることだ。
白玉楼の広大な庭園を一人で切り盛りするのは決して楽なことではないが、何年も同じことを繰り返している妖夢にとっては最早慣れっこである。
昨日より新たな仕事が追加されたが、桜の観察程度なら片手間にやってのけることができる。
「卯月の十三……晴天っと」
帳面に日付と天候を書き込み、蕾の様子をじっと観察する。
(昨日とあまり変わらないけど……ちょっとだけ膨らんだかな)
簡単なメモ書きに蕾のイラストを添える。観察日記以外の何物でもないが、幽々子に頼まれたのはつまりこういうことである。
幹から少し離れると蕾の桃色がはっきり見え、確実に開花へと向かっていることがわかった。
(幽々子様はこの桜が満開になると何者かが復活すると仰ったけど……もしかすると本当にその瞬間が見られるかも)
観察を終えた妖夢は、引き続き庭園の手入れに戻った。
*
観察を始めて三日後となる卯月の十六。
(順調に膨らんでる……)
西行妖は幹から少し離れて見ても分かる程度に桃色が混じりはじめていた。
この分だと一週間以内には開花するだろう。その旨を帳面に記し、再び庭仕事に戻ろうとしたところで後ろから声をかけられた。
「ちょっとよろしいでしょうか」
「はい?」
妖夢が振り返ると、八雲藍が立っていた。先日訪れた紫の式神である。
「お忙しいところ失礼します。どうしてもお伝えしたいことがありまして」
「はい、何でしょう」
「この桜なのですが――」
そう言って西行妖を指す八雲藍。妖夢の表情がわずかに変化する。
「どうでしょう。開花の兆しは見えていますかね」
「ええ。日を重ねるごとに蕾は膨らんでいて、あと一週間以内には開花するのではと思っていますが」
「――あなた、桜に何かしましたか?」
「へ? ……いや、何も」
少し考え込んで回答する妖夢。
「そうですか。いえ、この桜はとある事情によって普通は開花することがないんですよ」
「とある事情……とは?」
花が咲かないはずであることは妖夢も承知だが、その理由は当然知らない。藍が知っているならぜひ教えてほしかったが、
「私にはそれをお知らせする権限はありません。しかし、何の前触れも無く開花が始まることはあり得ないはずだったのです」
「そ、そうなのですか。では一体、何が起こっているというのですか?」
妖夢の質問に、藍はやや考え込むような仕草を見せてから口を開いた。
「この桜が満開になると、ある者が復活することはご存知ですね?」
「はい、一応……具体的に誰がというのは私も幽々子様も分からないのですが」
「成る程……では、一つお願いしてもよろしいでしょうか」
「何ですか?」
「もしこの桜がある程度開花したら――白玉楼に花見客を入れないでください」
藍の言葉に、妖夢は己の耳を疑った。
「……幽霊も人間も?」
「両方が望ましいですが、少なくとも生者だけは近づけないように。これは、お願いというより紫様からの指示です」
「あの、この桜ってそんなに危ない物なんですかっ……!?」
「西行妖は多くの人間の屍を糧に成長し、妖怪化したのです。水分の代わりに血液を啜り、養分の代わりに亡骸を貪ってきたのですよ。危なくない筈がありません」
「そんな……」
「今までは封印されていてその力を失っていましたが、なぜか最近封印が解かれたのです。開花が始まったのはその証拠と言えます」
「封印が解けると――桜が満開になると、何が起こるのですか?」
「完全には予想できません。しかし、西行妖が本来持っていた『人を死に誘う能力』は復活するでしょう。人払いをお願いする理由はこれです。そしてもう一つ、」
「…………」
なんとなく、この後藍が口にすることを妖夢は予想できてしまった。故に、そうならないで欲しいと切に願ったのだが、
「西行寺幽々子様は、亡霊として存在することができなくなるでしょう」
「…………ぁ」
言葉が出ない。
妖夢の予想には根拠が無かった。だからこそ、的中してしまうと途方もない絶望感に苛まれる。
藍にもその様子は伝わっているようだが、彼女は敢えて事実だけを述べることに徹した。不用意な気遣いは逆効果であるし、妖夢の表情を見ていると、先ほど自分を送り出した主人のそれが想起される。
「あくまで可能性の話ですが、紫様が仰っるからにはそれなりの高確率であると思った方が良いでしょう」
「一体……どうすれば……」
「…………」
勿論、簡単なことではないが打開策はある。しかし、それは藍の一存で伝えて良いことではなかった。
それを伝えるということは紫の指示にはない。式神は主人の指示通りに行動しないと、その力を著しく落としてしまうのだ。それ以前に、主人の命令通りに行動するのは従者の基本である。
そのため藍は、ここで具体的な方法を述べることはできなかった。
「紫様から承った伝言は以上です。失礼します」
そう言って帰るためのスキマを開こうとしたが、
「ま、待ってください! 何か、何か方法があるんじゃないですか!? 完全に解決できなくとも、ちょっとでも事態を動かせる何かが!」
「…………」
絶対に、告げるわけにはいかない。藍の立場でその行動は不可能である。
しかし――告げないこともまた、藍の意思によるものではなかった。
「――西行妖の根元を掘ると、何かが分かるかもしれません。では」
そう言い残して、結界のスキマへと消えていった。
「…………」
振り返り、件の桜と相対する。一度も花が咲いたところを見たことがないのに、幹だけは時代を感じさせる大きさである。
「幽々子様……」
あの式神が言っていたことを、そのまま幽々子へ伝えてよいのだろうか。
しばらく考えたのち、やはり秘匿とすることにした。主人を守るのも妖夢の勤めであるし、余計な気を使わせたくはない。
(その代わり――)
何としても、この事件を単独で解決してみせる。絶対に、失敗するわけにはいかない。
「……よし」
とりあえずはあの式神が言ったように、この桜の近くを掘ってみることにする。それで何かが見つかるかもしれない。
スコップを取りに物置へ向かう妖夢は、先ほどまでの哀しみに暮れる半人前の庭師ではなく、覚悟を決めた一人前の従者となっていた。
*
「ただいま帰りました」
「ご苦労様」
屋敷に帰還した藍は、白玉楼でのやり取りを紫に説明した。自分が予定になかった助言をしたことも、全て。
「申し訳ありませんでした」
「あなたの行動は人道に反したものではないわ。助かる方法があるならそれを教えるのが普通であり常識でしょう」
「はい」
「でもね、藍。今のケースは普通じゃないわ。幽々子は元々亡霊なのだから、人間が死ぬ時などとは場合が違うの」
「…………」
「人は死ぬと、肉体を手放して霊魂として生きていかなければならなくなる。でも幽々子は――亡霊は、肉体を持っていないし、そもそも『死ぬ』という表現では亡霊の消滅を現すことはできないわ。『成仏』と言うのが一番近いかしら」
「それは心得ていますが、やはり今の状況が変わってしまうのは本望ではないのでは……?」
「どうかしらね。亡霊が成仏すると、その存在は概念のみとなってこの宇宙に残り続ける。霊という身体すら持たなくなった亡霊は、すべての世界、すべての時間軸において存在することなり、それまでとは全く違う価値観や意思を持つようになるわ」
幽々子は既に、人間から亡霊になる際記憶を失くしている。人間だった頃の幽々子を知る者にとって、それはとても悲しいことだろう。しかし、亡霊となった幽々子はそのことを知りもせず、また悲しいとも思わない。今の生活を十分に満喫しているのだ。
「つまり亡霊にとって、成仏することは悲しいこと、避けなくてはならないことと等号を結ぶことはできないの。亡霊にも成仏する権利があるってことね」
「成仏する権利……」
「具体的な回避方法を妖夢に教えてしまうと、彼女は否応なしにそれを実行するでしょう。しかしそれは、幽々子本人の権利を無視した行為ともいえるの」
「ですから私は、曖昧な助言しかしなかったのです」
「ええ。その判断は正しいわ。でも、そもそも私はヒントを与えることを指示していない。彼女が成仏するかしないか、最終的な判断は幽々子本人がするべきよ」
「……はい。申し訳ありません」
「まあいいわ。あなたのヒントは正直――あの庭師には難しすぎたかもしれないしね」
四苦八苦するであろう妖夢の姿を想像し、わずかに微笑みを浮かべる紫だった。