鈴蘭畑は毒で空気が淀んでいるので、ここは流石に『襲撃』されていなかった。派手な損壊箇所もなく、毒人形の女の子も元気にしていたのでホッと胸を撫で下ろす。話を聞くと、某ドS妖怪さんが体を張って花達と自分を守ってくれたんだとかなんとかで。
(昔から子供にだけは普通に優しいのよね……)
理由など知りはしない。ただ事実として知っているだけだ。
紫はメディスンと挨拶を交わして、踵を返す。向かうのは最後のサブイベント箇所、太陽の畑である。
スキマの中でなんとなぁ~く心の準備をしてから、出入口を展開させる。
そこで心の準備をしておいて良かったと心底思った。
何故なら、太陽の畑はなんというか……何も無くなっていたからだ。
ひっそりと佇む小さな家くらいしかなくなっていた。あとは抉られたような大地、隕石でも落ちて来たんじゃないかと思われる窪みがあり、あとは栄養分豊富そうな土だけになっていて。
「ぅぅ……私のお花畑が……」
そしてそのクレーターの中心には、蹲くまって「の」の字を描いている妖怪がいた。
(うわぁ。声掛けるのに勇気いるわぁ……)
棒読みで心の中で呟く紫。
今声を掛けたら絶対的に八つ当たりをされそうで恐い。思わずもう此処は放ってさっさとゴールしちゃおうかなとも思ってしまう。
「……ゆうか……」
小さく小さく声を掛ける。聞こえない程度に呼びかけてみる。
これで気付かなかったら、「声は掛けたけど、貴女無視したじゃない」とか言い訳が出来る。と思ったが、どうやら聞こえてしまったらしい。地獄耳だ。
「紫!?」
クレーターの中心から立ち上がるゆうかりん。
幽香は涙でぐじゃぐじゃになった顔で、平地と窪みの境界にいる紫を見上げた。
「っ」
幽香はそのまま走って行く。紫に向かって走って行く。
「ゆぅーかぁーりぃ~」
涙をキラキラと春の陽光に零しながら走って来る。
そうして両腕を大きく広げて、紫へと伸ばし、
「てめぇっ、おせぇーんだよ!」
殴り掛かった。
唐突に顔面に迫ってくる右ストレートを、紫は「やると思った!」と叫びながら体を横にずらして回避する。
「何避けてんのよ?」
「いや、避けるでしょ」
「じゃあ、もう一回」
「ちょっ」
ひゅんっと空気を裂いて幽香の拳が迫って来る。
あるぇー、この会話どっかでもした覚えが……なんて思い出す間もなく、右から左から、下から上から幽香の拳と足が強襲してくる。
どれもこれも避けるが、その度に胃の中が激しくシェイキングされて、紫の顔は蒼くなるばかりだった。
「なーんか顔色悪いわね」
にやにやと笑いながら、妙に楽しそうに攻撃してくる幽香。
紫はぱしっと幽香の拳を受け止めた。
「貴女なんでしょう?」
「さぁ、何のことかし、らっ!」
受け止めていた手が翻り、逆に手首を掴まれて引き寄せられる。そうしてガッチリと体をホールドされた。
「ぐぅっ!?」
幽香の両腕は紫の背中の真ん中で組まれ、そのまま力を込めて来る。背骨が危ない。
「くっ……ぁ、ふ……」
「うふふ。おはよう、紫」
幽香は呑気に言いながら、両の腕に込める力を徐々に強くしていく。
紫は両腕の動きも封じられた上、ぐっと持ち上げられてしまい、踏ん張る事も出来ない。
地面から浮いてブラブラする足を動かそうにも、密着した状態では何の効果もない。
「っ、ぅ……おは、よ……ゆーか……」
「どーしたの? 苦しそうね?」
「っ、ぅ、そっなの、とうぜっ……早くはなし……」
「あら、再会を喜ぶ抱擁がそんなにお嫌い?」
「あ゛っ!」
ぐっと締め付けられて、紫の体が弓なりにしなる。背筋がギリギリと音を立てて、背骨が軋んだ。
「だっ……ぐ、ぅぁ……やめっ、背骨がおれっ」
「だいじょうぶだいじょうぶ。まだイケるって」
「っぐぅ! がっ、ぅ……ま、まっ……は、吐くって」
「えー、それは困るわね」
「だから、はなしっ、いぃっ!?」
折れる折れるマジで折れる! ってか、その前に吐いちゃう! リバっちゃう! やっ、折れる!
「貴女の背骨が逝っちゃう音は、どんな音かしらね~」
「あ、ぐぐ、ぅ、うぅ」
背骨がみしみしと軋む音に合わせて、まるで歌でも歌うかのように幽香が呟く。物凄い良い笑顔をしていた。
(こ、この……っ、ドSぅ……昔はもっと、っ……お姉ちゃんって感じだったの、に……)
紫は走馬灯のように昔を思い出して、「ゴメン、嘘ついた」と訂正した。
幽香は昔からいじめっ子だった。
「ほぉ~ら。もうちょっとはイケるでしょ?」
「うぅっ!? ぐぁあ、あ゛、あ゛」
ニヤニヤニヤと笑う顔に頭突きでもしてやろうか、と一瞬考えたが、そんなことして頭を縦に振ったら今度こそリバーするする。いや、もうしそうだけど。もう喉まで胃の内容物が来てるけれど。ダメ、吐くな。耐えてってば。ほら、飲み込んで。
(……っ、息、が……)
「っ、はっ、ぅあっ」
紫は唇の端から唾液を零し、生理的な涙をポタポタと零した。
「エロい顔ねぇ~」
幽香は紫の苦しむ顔をニヤニヤと笑いながら堪能する。物凄く楽しそうだった。超が付くくらいに楽しそうだった。そうして満足したのか。幽香はぱっと唐突に手を離す。
途端、その場に崩れるように紫は膝を付いた。両手を地面について上体を支えるが、下を向いていると吐きそうで、でも上を向くと背骨が辛い。呼吸もしづらいし、涙が止まらなくて、どうしようもない。
「ほんと良い泣き顔するわよねぇ~」
しゃがみ込んで紫と視線を合わせる幽香。幽香は紫の顎を掴んで、もっと良く見せろと言わんばかりに自分の方へと顔を向けさせた。
「けほっ、ごほっ……こ、のっ、はっ、はぁ……イジメ、っ子ぉ……」
「うぅん。反抗的な目が堪んないわ~」
甘ったるい猫撫で声で言い、満面の笑みをその顔に咲かせる幽香。
本当に根っからのドSだ。まさに『ゆーえすしー』の名に相応しい。
「スキマ使って逃げない辺り、あんたってバカねぇ……まぁ、わざとなんだろうけど」
幽香の意地悪な言葉は、息を整えている為反論している場合じゃない。という体を取ってやり過ごす。
ドS妖怪はもう片方の手で紫の髪を一房取ると、指先にくるくると巻き付けて、ニヤニヤと笑っていた。
「で、なんだったっけ?」
「だから、貴女なんでしょう? 幻想郷中に苺を配って回ったのは……」
お陰でここに来るまでどれだけの苺を喰わされた事だろうか。そう、紫は涙がまた引かない目で睨む。だが幽香は「あぁ」と何の臆面も無く頷く。しかも肯定するばかりでなく「気に入ってくれた?」とニッコリ笑う。
「っ、このドS」
「なによ、そんなに苺が嫌いなの?」
「お陰さまで嫌いになりそうなの」
顎の角度をぐっと変えて、幽香の手を振り解く。
幽香は何がそんなにおかしいのか、今度はケラケラと笑い出した。
「罰ゲームは面白かった?」
「えぇ、それはもう」
「そんなに怒んないでよ。これくらい虐めたっていいでしょう? 原因は何だと思ってんの?」
「…………」
「その所為で……私のお花畑が……」
笑っていたと思ったら、今度はしくしくと再び泣き始める幽香。
この妖怪は意外に感情の起伏が激しいのだ。但し花に対してのみである。
(ほんと、花にだけはベタ甘なんだから……)
紫は呆れつつ、スキマに手を入れた。取り出したのは幻想郷では手に入らない物まで各種取り揃えた、様々な花の種が入った小さな紙袋。それを幽香の前に差し出す。
「……くれるの?」
「えぇ。元に戻してあげてもいいけれど、それは嫌でしょう?」
「あら、分かってるじゃない」
幽香は泣き顔が嘘のように表情を一変させて、「私のお花畑に私以外の者が手を出すのは許せないから」と、サディスティックな笑みを浮かべる。
立ち上がり、紫から貰った種の入った袋を両手で掲げてルンルンと行った様子でその場でくるくると回る幽香。スカートの裾が体の回転に合わせて広がった。可愛い仕草の筈なのに、相手が幽香だと戦々恐々としてしないから不思議なものだ。
「あ、そういえばもう行ったの?」
「さぁ、何処へかしら?」
「あっそ。その様子じゃこれからなのね」
幽香はくるっと紫に振り返り、呆れた顔を向けた。
まるで「バカじゃないの?」と言わんばかりの顔だった。
「仕方ないでしょ。幻想郷中が大変だったんだから」
「そんなの後回しにすればいいじゃない」
「そう言われてもね……」
幽香は大仰に溜息を吐いて、またしゃがみ込んで紫と視線の高さを合わせた。
「逢いたくないってわけ?」
「……まさか」
紫の答えに幽香はまた溜息を吐き、むにっと紫の頬を軽く抓った。
「もっと自分の感情に素直になりゃ良いじゃない」
「私はいつだって自分に素直ですわ」
抓まれているのでしゃべりにくい。
紫はぺしっと幽香の手を払い落すが、今度は逆側を抓られた。
「はいはい。相変わらず嘘つきちゃんですねー」
「いたひいたひっ」
抓る力が強くなって、紫は涙をまた滲ませた。
透き通っているのに不透明な、底の見えない紫紺色の夜。その夜から雨が零れて行く。
幽香はその様を見て薄く笑い、抓っていた指を離した。
「久しぶりの幻想郷はどうだったの?」
紫が紅くなった若干腫れた頬を押さえて痛いと小さく呟いていると、幽香がふと穏やかな声を発してきた。
そんな幽香の質問に、紫は苦笑する。
「みんな可愛いかったわよ」
紅魔館は賑やかで、人里は元気が良くて、永遠亭は緩やかで、命蓮寺は仲良しで、白玉楼は綺麗で、天界は暇そうで、彼岸は静かで、妖怪の山は騒がしくて、守矢神社は穏やかで、地霊殿は温かくて、魔法の森は愉快で、鈴蘭畑は毒々しくて、ここは意地悪で。
みんなみんな、愛おしい。
「そ。じゃあ、一番可愛い子んトコにさっさと行ってやんなさいよ」
コツンと指先で額を小突かれる。
幽香は呆れたように笑っていた。
「紫ってドMよねぇ~」
「いきなり何?」
「だって、自分を殺すのが大好きじゃない」
「残念ながら自傷癖はないわよ?」
「ふんっ。よく言う」
幽香は鼻先で笑い飛ばすと、紫の額を小突いた指をピンと弾く。
たかがデコピン。されどデコピン。普通にやっても痛いのに、この妖怪にやられれば相応な威力を持つ攻撃となる。
紫は「いたっ」と控えめな悲鳴が上げながら、どうしていちいち攻撃されなければいけないのだろうかと、目の前にいる妖怪の理不尽さに憤りを覚えた……フリをした。
「一番さびしかったのって、一体誰だと思う?」
「いちばん?」
紅くなったおでこを手の平で擦りながら小首を傾げる紫。そうすると幽香は「あーぁ~」と大きな大きな溜息を吐いて、大袈裟に肩を竦めた。
「ほら、なんでそこで誰だろうって考えるのよ。なんで『自分』だって即答しないのよ。それが『殺してる』って言ってるわけ」
「ほんと妖怪っぽくないわね~」と付け加えながら、幽香は紫へと手を伸ばす。
またデコピンでもされるんじゃないだろうかと、体が反射的に幽香の手を避けてしまう。でもいじめっ子の癖に土いじりが大好きでお花が大好きだという妖怪の手は、思いのほか優しく触れて来た。
意外に小さな命を愛でる事を好む手は、紫の前髪を掻き上げるようにしてから、頭をくしゃくしゃと撫で付ける。
「紫は幻想郷の奴らに優し過ぎ。そして幻想郷に甘過ぎ。だーからいつまで経っても弱虫の泣き虫なのよ」
「そんな事を言われてもねぇ……」
言わんとしている事はなんとなく分かるけれどね。
そうは思ったが、そのことについてはわざと目を逸らし、理解できないフリをしておいた。
幽香はそんな紫を知ってか知らずか、「バカよねぇ~」と呆れたように笑う。
「じゃあさっさと行って来るといいわ。そして死んで来なさい」
「もう色々な意味で瀕死なんだけど……」
紫をそこまで追い込んだ張本人はケラケラと楽しげに笑う。でも唐突にその笑みを治めて「ちょっと待ってなさい」と告げると、太陽の畑(今は更地)の隅にある家へと走って行き、そして程なくして戻って来た。
「はい、プレゼント」
そしてにっこり笑顔で何かを手渡された。
それは三つの小さなで、一つは八意印の整腸剤で、一つは霧雨印の栄養ドリンク、そしてもう一つがノーレッジ印の活力剤だった。
と思ったら、八意印の整腸剤は表面に張ったシールの端が剥がれていて、めくるとその瓶に入っている液体の本当の名前が現れた。
「……絶倫、薬……?」
せめて普通に媚薬って書きなさいよ。
紫は胸中で頭を抱えながら、後でこれは竹林の薬師に付き返しておこうと決めた。
「それから、これも」
「げっ……」
そうして更に、籠いっぱいの生苺を手渡された。
嫌がらせ以外の何物でもない。
「もう苺は懲り懲りよ……」
「貴女にじゃないわよ」
だけれど、そう言われると突き返すわけにもいかない。
紫は不服そうに唇を尖らせて、貰ったものをスキマへしまった。
「じゃあ今度こそ死んで来なさい」
「大きなお世話ね」
意地悪な笑みを浮かべて見送って来る幽香に背を向け、紫はスキマへと消えて行く。
「春ですよー」と呟きながら。