* * * * *
「ゆかり……ゆかりぃーってば……」
「ん……ぅ、ん……」
いや、そんな色っぽい出してないでさ。
霊夢は思わず紫の肩を揺さぶる手を止めてしまったが、早くしないと朝食、いや、昼食が冷めてしまうので再び手を動かす。
「もう、起きなさいってば……」
「んぅ~」
あと五分~。とか寝言を言っている。しかも「らぁ~ん」とかとも甘えた声を出している。
流石に「嫁とお母さんを間違えんな!」とイラッとしたとかは内緒にして、霊夢は「おーきーろぉ!」と声を張り上げながらペチンッと紫の頬を軽く叩いた。
「ふにゃ?」
ふにゃって。ふにゃっとしてるのはあんたの寝ぼけ顔でしょーが。
そう言いたかったが、紫が漸く起きたらしいので黙っておいた。
紫は眠そうに目を擦って、大きな欠伸を無防備に晒す。妖怪らしい鋭い犬歯が見え隠れして、ちょっぴりドキっとした。
「起きた?」
一応問うてみる。紫は緩慢に目を擦りながらコクンと小さく頷くが、起き上がる気配は全く見せない。
「おはよう」
「はいはい、おはよ。ったく、早く起きてよね。ご飯冷めちゃうじゃない」
「ん~」
のんびりと相槌を打つが、やっぱり起きる気配はない。
うつ伏せになって枕を抱き寄せると、その豊満な胸の下敷きにして、ふぁぁとまた大きな欠伸をする。そして、とろりとした眠そうな眼で、コッチをじっと見つめて来た。
「ご飯の用意まで出来るなんて……本当に霊夢は元気ねぇ……」
「何よ、急に?」
元気だけが取柄で悪かったわね。と、付け加えて視線を返す。
昨日メチャクチャ運動したからお腹減ってんのよ。なんて事はやっぱり言わないでおいた。
「だって、私は腰が怠過ぎて起きれないもの」
若いわねぇ~。なんてのんびり呟いて、再び欠伸をする紫。
そんなゆかりんの頭に、
「黙れエロ妖怪!!」
「ぷぎゃっ!?」
顔を真っ赤にした霊夢さんの脳天チョップが炸裂した。
「いっっ……あの、脳細胞が結構潰れちゃったと思うんですが……」
「あんたがバカなコト言うからでしょ!」
そんな脳細胞死滅しろっ! と霊夢が怒鳴る。
紫は「酷い」としなを作って……いや、寝転がってるからあんまり作れていないんだけれど……なんとなく妖艶な眼差しを送ってきた。
「昨日は『もっとキスして』とか、『もっとコッチに来て』とか、『たくさんぎゅぅして』とか、『やめちゃイヤ』とか……物凄く可愛かったのに……」
「っっ!!」
妙に甘い声で囁くその悪戯な口を黙らせようと、霊夢が拳を振り上げる。
だがその鉄拳は簡単に受け止められてしまい、悔しくて堪らなかった霊夢は、
「いいからさっさと起きろっ!」
と、掛け布団を剥いでやった。
「やんっ」
「変な声出す……」
なっ! と言う筈だった喉が、声を発するの唐突にやめる。
言葉を堰き止めやがったのは、ほんの少しの罪悪感を含有した計り知れない程の羞恥以外のなんでもなかった。
「な、こ、これ……」
霊夢は信じられない物でも見たかのように、ふるふると声を震わせる。
紫の背中には、深く抉られたような赤黒い爪痕がたくさん鏤(ちりば)められていて、猫に引っ掻かれたというには太くて大雑把で大胆で、なんとなく切羽詰まった感が滲み出ている(と霊夢には見える)蚯蚓腫れが幾筋も走っていた。しかもそれらは背中だけじゃなくて、項とか腰や太股にまであったりして。
「霊夢?」
顔を真っ赤にしたまま急に動きを止めた霊夢を不審に思った紫は反射的に起き上がろうとして、でもやっぱり失敗して、ぐきっと肘を折って顔を枕に埋めた。それでもなんとか起き上がって、霊夢の顔を覗き込む。
「どうかした?」
「……っ!」
心配そうな紫を余所に、霊夢の言葉は喉の奥で詰まり続ける。今度は背面ばかりでなく、紫の軆(からだ)の表側も直視してしまったからだ。
(か、噛み痕……)
霊夢の目に映ったのは、首筋に付いた容赦のない噛み痕だった。歯型がくっきりと残っていて、その手の職業の者に見せれば「おっ、歯並びいいですねぇ~」なんて言葉を頂戴しそうなくらいにクッキリガッツリと残っていて、表面を赤黒い瘡蓋が覆っていた。それは首筋だけでなく、首の付け根や肩、二の腕、前腕、鎖骨、そして更には胸にまであって、もうどうしたらいいのか分からない。とも思えば、やっぱり爪の痕が肩にも首にもあって、動けば腹筋のラインがうっすら見える窪んだお腹にもあった。
(な、なによこれぇ……つ、付けるんならせめてキスマークくらいに……)
とか思うが、よく見ればちゃんとあった。爪とか歯型のインパクトで霞んではいるが、ちゃぁーんとあった。超あった。ガッツリあった。もうカラダ中にあった。
赤々とした、なんかもう赤い花びらとかそんな可愛い表現が使えないくらいの、物凄く下手クソで容赦も手加減も無い赤い痕が。
「ぅ……ご、ごめん……」
爪跡とか歯型とか、んでもってそんな下手くそなキスマークとかが、紫の綺麗な肌を好き勝手に蹂躙している。
なんかもう恥ずかしい通り越して申し訳なさが沸き起こって来て、霊夢は小さく謝るくらいしか出来なった。
紫はきょとんとしていたが、霊夢のなんとなく外し切れていない視線に気付いて「あぁ」と頷いた。
「どうして謝るの?」
「だって、その……」
だってどれもこれも結構深い。きっと流血ものだってばこれ。なんで気付かなかったかなぁ……そんな余裕は……確かになかったような気がするけれど。でも、これはないって。だって……うん。ないって。いくらなんでも激し過ぎるってば。
(でもそんなに激しくされた記憶は……)
ぶっちゃけ無い。紫は終始優しくて……すごく優しくて。
逆にそれが切なさを倍増させて泣きながらきつく抱き付いていたような気もするけれど。
(……ってことは、激しかったのって……あたし?)
もう何もかもが居た堪れなくなってきて、霊夢は耳まで真っ赤に染めて俯いた。
「あ、その……い、痛くない?」
「大丈夫」
「ほ、ほんと?」
「これでも妖怪よ?」
「そうだけ、ど……」
紫はくすりと喉の奥で笑って、俯く霊夢の旋毛にちゅっと唇を寄せた。
「お相子でしょう?」
「いや、お相子じゃないって……こんなの、ただの傷じゃない……」
肩にクッキリついている歯型を、指先でなぞる。
紫はくすぐったそうな吐息を唇の端から漏らした。
「そう? なかなか消えなさそうでいいじゃない?」
「……バカ」
アホだコイツ。でも、さっき起き抜けに自分のカラダを見下ろして、嬉しいなって思ってしまった自分も同じようなものだから、きっとこっちも相応にアホなんだろう。
なんとなく悔しくて、「むむっ」と口を尖らせるが、そんな唇をもふっと覆う紫の唇。
気付けばおはようのちゅーまでしていて、もうアホとしか言いようがなかった。
「バカ」
「酷いわね」
「バカゆかり」
「まぁ、バカでも良いけれど」
「ゆかりのバーカ」
「……照れているの?」
「…………」
マジでムカつく、このバカスキマ。
拗ねて顔を背けるけど、紫は楽しそうに笑っていた。
「もっ、いいから風呂にでも入ってサッパリしてきなさいよっ」
ご飯は冷めちゃうけど、またあっため直しとくから。
そう伝えるが、紫は不服そうに「えー」と声を漏らした。
「何よ、そのイヤそうな顔は……」
「霊夢の匂いをこのまま持って帰るの」
「はぁ!?」
「だって、そうすればよく眠れそうでしょう?」
ころころと紫が笑う。
霊夢は握った拳をふるふると震わせていたが、やがてまた俯いて。
「……好きにすれば……」
と、素っ気無く答えた。
「え?」
「な、何よ? あんたが持って帰るとか言ったんじゃない……」
「そうだけれど……」
自分で行ったクセに、なんでそんな困った顔するかなぁ。
そう思っていると、紫は頬を軽く掻いて、溜息混じりに呟いた。
「……そうしたいんだけど、ね……」
「?」
「藍に怒られるから……」
そうして、なんとなく遠い目をした。
紫の背後に、笑顔の裏で凄まじく嫉妬する藍を幻視すると同時に、そんな九尾(獣型の方)にバックンされる紫が見えたような気がして。
霊夢はなんとも言えぬ顔で溜息を吐くのだった。