* * * * *
真夜中、ふと目が覚める。
隣に目を向けると、一緒の布団で眠っていた筈の紫も起きていて、顔を上げて何処かを見詰めていた。
いつもののんびりとした様子ではなく、何かを見逃さないように、まるで獣が獲物の気配にじっと耳を欹てているかのように、紫は障子の先の先を見据えている。
「ゆか、り……?」
目を擦って、少し起き上がる。
返事は無く、紫は不意に起き上がって裸のまま障子に近づいて行ってしまう。
何も纏っていない紫の体は、常夜灯の微かな光の中でも真っ白に見えた。
紫が障子を半分くらい開けて、雨戸も半分くらい開ける。夜の空気と冬の寒さが部屋の中にするりと侵入してきて、その冷気が紫の挙動をぼんやりと見守っていた霊夢の意識が覚醒させた。
「ったく。何やってんのよ」
霊夢は欠伸を噛み殺しながら、素肌の上に直接どてらを羽織った。掛け布団を退けてその下にあった毛布を掴み、その場にぺたりと座ってじっと空を見上げている紫の傍へと行く。
霊夢は外から入ってくるあまりにも低い温度の大気に体を震わせたが、その空気の出入り口となっている所に座っている紫は、別段そうした様子は無い。ただ何かを待っているかのように、空をじっと見上げていた。
寝惚けて寒さを感じる神経が機能してないのかもしれない。とそんな下らない事を考えながら、物凄く寒々しい格好というか、一糸纏わずな格好の紫を、布団からずるずると引き摺って持ってきた毛布で包んでやった。
「そんな恰好で何やって」
裸で何考えてんだ。いや、同じように裸の上にどてらしか羽織っていない自分が言うのもなんだけど。
そんな風にとりあえず文句を言うが、
「ほら」
それは途中で中断された。
寝惚けて無垢な光を灯している、深い夜のような紫紺色の瞳。
そこには。
「……ぁ」
空を見上げる事なく、ただ紫の眼を見て理解する。
夜に映っているのは、真っ白な真っ白な……別れを告げるもの。
(……降っちゃった、か……)
そしたら、自分でも気付かない内に嘆息していた。
「霊夢」
そんな顔しないで……って言われると思った。言われたら「どんな顔よ」とか悪態を吐けるのに。
なのに紫はそう言う事無く、ただ霊夢を抱き寄せる。
裸のまま、二人で毛布に包まる。
夜の空を覆う重たそうな雪雲から、ひらりひらりと白が舞う。
風になびいて流されて、不規則な軌道を描いて。
ひらりひらり、ふわり。
静かに静かに、しんしんと。
「綺麗ね……」
雪が降る音に混じるような、静かで穏やかな声が一つ。
霊夢は頷く代わりに、紫にもっとくっ付くように肌を擦り寄せた。
寒いからくっ付いて寄り添って。
寒いから、その肌から感じる温もりがとてもあったく思えて。
触れて感じ合うから、それを大切なモノなんだと実感する。
でも、この温もりを今年はもう感じられないんだと思ったら。
そう思ってしまったら、酷く切なくなった。
空を見上げる。
霊夢の目には、雪雲で覆われた空は少し暗過ぎて、降ってる雪がよく見えなかった。
だから紫を見る。綺麗だと笑っている紫の横顔を見て、その瞳を見詰める。
深い深い、底の見えない紫紺色の瞳はゆったりとたゆたって、ふわりふわりと大気を舞う雪を映している。
それは、夜色の深い深い海に、花弁みたいな泡沫が舞っているように見えた。
「うん……」
霊夢は今度こそ頷いて、綺麗だと囁いた。
本物の海なんて生まれてから一度だって見た事は無いけれど。
あるといったら、月に行った時に見た生物のいない海くらいだけど。
勘だけど、そう思う。
夜と朝の色が混じった、昼と夜の色が混じった、そういう紫の海があってもいいと思うから。
雪がしんしんと降って、幻想郷を染めて行く。
真っ白に染まって行く幻想郷を見て、紫が嬉しそうに笑う。
そんな紫を見て、霊夢もそっと笑った。
「ねぇ……」
肌を擦り寄せて、紫の背中に手を回す。
「その……別に、無理しなくてもいいんだけどさ……」
紫の肌の感触を確かめて、温度を確かめる。
布団から出た所為でさっきよりは冷たいような気がしたけれど、紫の体は霊夢の体温と混じって温まっていた。
「ん?」
穏やかな光を湛えた瞳に見詰められる。
雪がチラチラと映り込んで、なんだか神秘的な色合いになっていた。
「来年も……」
霊夢はふと、言葉を止めた。
紫から視線を外して、目を伏せる。
(……願っても、いいのかな………)
叶う? 叶えてくれる?
巫女なんてやってるけど、そんな願いを聞いてくれる神様なんてちょっと思い付かない。
だって相手は妖怪だし。しかも、八雲紫っていう一筋縄ではいかない妖怪で。
下手したら、神様を敵に回したって上手く立ち回れる奴で。
「……来年も?」
紫が言葉の続きを待っている。
視線を上げると、どこか嬉しそうな、柔和な顔をしていた。
その顔に、霊夢もふっと力を抜くように笑う。
紫のその顔を見たら、「いいんだ」って思えたから。
別に誰にお願いしなくたっていい。
別に誰に祈らなくたっていい。
ただ、この妖怪と約束をすればいい。
「一緒に、雪見ようよ」
他愛もない口約束。
なのに紫はとても柔らかく破顔した。
なんだか、花が綻ぶみたいな笑顔だった。
「来年も?」
「そっ。来年も」
「再来年は?」
「それは来年にまた約束すんの」
「そう」
楽しみだと、紫が笑う。
鼻先どうしをくっ付けると、雪降る寒さに冷えていて、思ったよりも冷たくて思わず笑った。
「くくっ……犬の鼻みたいに冷たくなってる」
「それは霊夢でしょう」
「あ、犬の真似してよ」
「わんわん?」
「違う。もうちょっとリアルに。初雪に遠吠えなんてどう?」
「恥ずかしいからイヤ」
「えー」と不満を漏らすと、その冷たい鼻先を首筋に押し付けて来た。予想外の不意打ちに「ひゃっ」と声を上げてしまう。
「だっ、冷たいってば……」
くすくすと笑う声が肌をくすぐる。冷たさとくすぐったさが混じって、なんとも言えない。
紫は押し付けた鼻先はそのままに、くんくんと匂いを嗅いできた。
「バカ。そういう犬の真似は求めてないっつーの」
「どうして?」
良い匂いなのに。とか言われた。
くそっ、恥ずかしい。
「大体さっきまで、その……超くっ付いてたし、同じ匂いしかしないってば」
恥ずかしいついでに恥ずかしい事を言い返す。
「まぁ、確かに匂いも混じっちゃってるけれど」
でもなんだか遠回しにもっと恥ずかしい事を言われた。
匂い『も』ってなんだ、『も』って。
「霊夢の匂いも、ちゃぁんとするわよ?」
鼻先をちょんと触れ合わせて、茶目っ気混じりに言う。
「バカ」とか「変態」とか言えれば良かったが、「確かに紫の匂いするしね」とか思っちゃった自分はもうダメだと思った。
紫の手が背中を這う。手の平は温かいけれど、指先が冷たくて。そんな不思議な感触に、また声をあげそうになったけど、今度は危ないところで「くっ」と息を飲んで耐えた。
引き結んだ唇をぺろりと舐め上げられる。犬かコノヤローと思うが、さっき犬の真似してと頼んだのは自分だったのを思い出す。数秒前の自分を殴りたくなった。
「もっ、犬の真似はもういいってば」
「そう?」
「バカ。犬とじゃ、その……」
「キスできない?」
「ぐっ……この、ハッキリ言う暇があったら」
「早くしろ?」
「…………」
全部読まれてる。悔しさと羞恥で顔が熱くなってくる。
そんな熱い頬に、紫が唇をちゅっと押し付けてきて。けど、その唇はとても冷たくなっていた。
「……冷たい」
呟くと、「この気温だしね」と言いながらキスされた。
唇はやっぱり冷たくて、でも口内はそうじゃなかった。
「……熱い」
唇を離すと同時に、はぁーと息を吐き出す。
真っ白な息の塊が空に溶けて、雪に混じって消えて行った。
「もう、どっちなの?」
「しょうがないでしょ。どっちもホントだもん」
紫の肩から落ちかけていた毛布を引き上げる。
少しの間寒気に晒されていただけなのに、その肩先はもう冷たくなっていた。
「中入ろうよ」
言うが、紫はなんとなく嫌そうな顔をして、また空を見上げた。
「もうちょっとだけ」
「……体冷えてんじゃない」
「大丈夫だから……」
だから、お願い。
そう紫が「くぅ~ん」と犬みたいに鳴いた。
「……ぅ」
んな可愛くお願いされたら、断れるものも断れない。
霊夢は眉間に皺を寄せて溜息を吐く。
せめて、これ以上寒くならないようにと紫を抱き締めた。
「先に布団に戻っていて良いのよ?」
「……イヤ」
そんな事出来る筈がない。
毛布から出ないように気を付けながらもぞもぞ動いて、もっと紫に密着する。
着ていたどてらは脱いで、紫の肩にかけてやった。
「寒くないの?」
「……うん」
毛布をすっぽりと被り、鎖骨に鼻を埋めて頷くようにして俯く。
紫の柔肌に口唇を寄せて、ついでにゴニョゴニョと呟いた。
「あんたがいるから、平気よ」
聞こえなくてもいいけれど、聞こえてしまっても良い。そんな音量で呟く。
紫の手が頭を撫でてくる。いい子いい子って。
(……ったく、子供扱いして)
確かにそんなに大人じゃないけれど。でも、そこまで子供でもないのに。
霊夢は『お返し』とばかりに、紫の背に回した手をもそもそと動かした。
肩甲骨の窪み辺りを指先でなぞると、紫の体が微かにひくりと反応する。
「悪戯しないの」
「ヤダ。する」
「もう……」
眉尻を下げて困ったような顔。そんな顔で紫は苦笑して霊夢をそっと引き寄せる。
胸もお腹も腰も密着する。霊夢からもぎゅってする。
じんわりと温もりが伝わって、きゅっと胸の奥が痛んだ気がした。
約束の雪が降った。
だからもう、今年はこれでおしまい。
(……次起きた時には、もう………)
いなくなってるんだろうな。
そう思うと、ぎゅぅっと胸が締め付けられたようになって。
切なくて切なくて、泣いてしまいそうで。
泣かないように、何度も紫の名前を呼んで。
そうやって、紫の声を、体温を、感触を、たくさん求めた。