レッドオークの床に、シックな色合いの壁紙。銀色のシンクに、凹凸の無いコンロ。そこには広々としたシステムキッチンがあって、甘ったるい匂いが部屋中に充満していたが、霊夢の関心はそこには向いていない。
霊夢の瞳が見つめる先には、そのキッチンにボール抱えて立っている妖怪(ヤツ)。ふわふわとした金色の髪は後頭部で纏められていて、来ている服もいつもと違っていて。黒い色の腰巻のような物(俗に言うダブリエエプロン)を纏い、上は真っ白なワイシャツに黒のネクタイとシンプルな格好をしていたけれど。でも、
「あら、早かったわね。約束の時間にはもう一時間はある筈なんだけれど?」
そんな微笑を湛えてながら、そんな優しげな眼差しを自分に注ぐヤツを間違えはしない。
「な、ん……」
色々言いたいことがある気がする。でも、何も出てこない。
辛うじて言葉になったのは「なんで?」とかいう疑問を表すそれくらいの言葉で。
「だって、逢いに行くっていったでしょう?」
ムカつくムカつく、ムカつく。
なんでそんな風に当然だって言うみたいに。
なんでそんな余裕な態度で。
こっちがどれだけ……!!
(どうしよ……泣く、か……も……)
バカみたい。
逢えただけなのに。
夢の中でなら何度か逢ってるのに。
まだ春じゃないのに。
「なん、で……どぉ……し、て……」
「……そうねぇ」
抱えていたボールを置いて、その女性、いや妖怪は霊夢を驚かせないようにとゆっくりと近づいていく。そうして、
「貴女にチョコレートをあげたかったから」
霊夢を抱き締めた。
そっと、ぎゅっと。
「ごめんなさいね……淋しかった?」
「……うっさ、い……バカ……」
「……ごめんね?」
「バカ、ばか……ゆかりのばか……」
優しい手のひらが、頭を撫でる。指先が頭皮をなぜる。少し低めの体温。ひんやりしてる指先。あぁ、紫の指だぁって、その感触に酷く安心する。
逢いたかった……なんて素直には言えなかったから。恋しくて堪らなかった妖怪の背に腕を回す。ぎゅっとぎゅっと、ぎゅっと。
強くぎゅっとしたら、このぬくもりを冬の間ずっと探してたんだと、改めて気付いた。
「……夢じゃない?」
「貴女はどっちがいいかしら?」
「……そういう意地悪はいらない」
言ったら、紫はふふっと笑って、ごめんなさいと囁きながら瞼に唇を落された。ふわりとした心地よい感触に、止めた筈の涙が溢れそうになる。
「こんな回りくどいことしないで直接逢いに来なさいよ」
「そうしたいのは山々だったんだけど……」
見上げた紫はちょっと苦笑を漏らして言葉を濁す。問い質そうとしたら、頬に鼻にキスが降って来て。それと一緒に甘い甘い匂いにも包まれて。誤魔化されるつもりは全然なかったのに、何も言えなくなってしまった。
「ゆかり……」
ぎゅっとぎゅっと抱きつく。
甘い匂いと一緒に紫の匂い。
それをいっぱいに吸い込んだら、なんだかそれだけで満たされた気がした。
「……さびしかった?」
また同じ問い。
優しげな音なのに、その裏に申し訳なさが滲んでいるような声音が、じわぁっと耳に奥に染みる。
まるで、『あいたかった』というように。
「……ん」
霊夢は顔を隠すように紫の胸に顔を埋(うず)めて、コクッと小さく頷いた。
ぎゅっとぎゅっと抱きつく。さびしかったよ。あいたかったよ。って、腕から手の平から伝えるように、ぎゅっと。そうしたら、また瞼に額に、耳に柔らかな感触。
夢の中よりも確かな感触で、温度で。夢の中で感じたよりも、ずっと柔らかくて甘くて。欲しい場所が違うから、少しだけ顔の角度を変えて、紫を見上げる。
紫は相変わらず微笑んでいた。桜の蕾みたいな、綺麗な淡い微笑。視界が、とろりと蕩けそうになった。
「もうちょっと待って。後は型に流して焼くだけだから」
「……は?」
紫は霊夢の唇に人差し指を当てて唐突に言った。
せっかく良い雰囲気だったのに、なんなのよ。そう言いたげな霊夢を離して、紫は元いた位置に戻っていく。取り残された霊夢は、仕方が無いので紫の隣に並んで作業の工程を眺めることにした。
紫が抱えているボールの中には、甘ったるい匂いの元凶。甘そうな茶色の生地を、泡を潰さないように丁寧に掻き混ぜていた。
「何してんの?」
「見てわからない?」
問えば悪戯げな眼差し。
(あ、そういえば今日は……)
今更なことに気付いて、霊夢は「今さっきあの天狗から皆の話を聞いたばかりなのに」と内心で自分を小突く。
何もかもぶっ飛ぶくらいには逢えて嬉しかったのか。否定しようにも上手く出来ない自分がいて、ムカつくことこの上ない。
紫はボールの中身を薄いシートを敷いたまあるい型に移していく。チョコレート色の甘い湖みたいになった型を少しだけ持ち上げて、トントンと落とした。それを型を回しながら何回か繰り返してから、オーブンへ。
オーブンのタイマーとかいう物を弄って時間をセットする紫の袖を、霊夢をちょんちょんと引っ張った。視線で「もう終わり?」と少し首を傾げて尋ねると、「あとは焼きあがるのを待つだけよ」と返って来る。
「これから焼くの?」
「だって、霊夢ったら来るのが早いんだもの」
本当だったらお洒落なカフェみたいな部屋を用意して、おめかしして迎えてあげたかったんだけど。
紫はそう呟きながら、スキマから椅子を出した。
「だって、あんな文字読めないし……」
「読む方法は幾らでもあったでしょ?」
「どうせ恥ずかしいこととか書いてあったんでしょ? そんなもんを他人に見られるのなんて御免よ」
それに、一番に読みたいから。そして、その手紙を読むの奴は、自分が最初で最後がいいから。
霊夢はそう言わずに、椅子に腰掛ける紫のを目で追っていた。
改めて見ると、本当に珍しい格好をしている。
白いワイシャツに黒いネクタイで、下も黒いジーパンとかいうやつで、腰巻みたいなエプロンも黒い色。全体的にシックにカキっと纏めているのに、ちょっと外された首元のボタンから覗く、見えそうで見えない鎖骨が醸し出す色香はなんだろうか。
「相変わらず良い勘をしてるわね」
紫は組んだ足に頬杖を着いて小さく笑った。
(全くコイツは……)
霊夢はふんっと鼻を鳴らして視線を逸らし、不機嫌そうな態度を取ってみた。けれど、紫にしては珍しい格好をしているから。紫が眠る前みたいに、相変わらず甘い顔をしてコッチを見ているから。だから視線を逸らしていられなくなって、紫に一歩近づいて俯いた。ずるいコトに身長は高いクセに座高の低い紫からは、多分顔が見えているんだろうけれど。
「……どうせ、全部計算どおりなんじゃないの?」
悔しかったから悪足掻きに憎まれ口。
紫は霊夢の手に触れて、そっと握って。
それから思案するように「そうね……」と苦笑と共に漏らした。
「でも、いつも計算を間違うのよ?」
「……なんで?」
紫が触れてくる手に、やんわりと力を入れて、霊夢も紫の手を握る。
調理していた所為もあってか、いつもよりちょっぴり暖かい。
冷たくたって、その手がどんなに柔らかくて優しいかなんて、知っているけれど。
「貴女が可愛いから」
触れていた手の甲に、紫は口付けを一つ落とす。
ぽわっと、手が一気にあったくかってしまって。ほっぺも一緒に熱を帯びた。
「ほら、可愛い」
「っ! バカっじゃないの!?」
「馬鹿とは失礼ね。でも、仕方ないでしょう?」
――霊夢の可愛さは計算できないもの。
楽しそうに笑って、今度は人差し指の爪にキス一つ。紫に「ん?」と見上げられて、霊夢は真っ赤に染まった顔を苦し紛れに顰めることしか出来なかった。
ずるい。そうやって、いっつも。いっつもあたしのことをむやみやたらと振り回して。ココロのなかを、アンタでいっぱいにして。
「抱き締めていい?」
「っ……聞くな、バカ」
握っていた手が自分を引き寄せる前に、霊夢は紫の膝の上に乗って額を紫の肩にくっ付ける。
案外華奢な肩に腕を回して、顔を見られないようにぎゅっと抱き締めて。そうすると紫の腕が背中に回って。
子供のじゃれ合いみたいに、ぎゅっと密着して。
そうしたら胸の奥もぎゅっとして、言葉が一瞬出なくなった。
「ふふ。夢の中だとあんなに素直なのにね?」
「……なんの話よ?」
紫は霊夢の頭を撫でながらまた小さく笑んで、「夢の話」と囁く。
紫の見せてくれる夢は酷く曖昧で、記憶には鮮明に残らないから自分では全然覚えていない。もしかしたら物凄く恥ずかしいことを言っていたのかもしれない。そう思うと恥ずかしさで死ねる。けれど、なんだか紫は嬉しそうにしているから、今は耐えておこうとかなとも思って。そうやってムスっとしていると、紫の唇がまた頬へと滑ってくる。
それだけで、ほにゃんと顔の筋肉から力が抜けた。ダメだ。なんかもうダメだ。ぜんぜんダメだ。紫がいま傍にいるってだけで、全身がふやけてくる。
「溶けかけのチョコレート」
「……なによ、いきなり?」
「今の貴女、そんな顔してる」
甘ったるい匂いが漂う部屋で、それ以上に甘ったるい顔で、妖怪とは思えないくらいに優しく笑う。
そんなんでよく妖怪の賢者とかなんだか呼ばれてるわね。とか軽口も叩けずに、
「アンタと一緒にいんだから、しょーがないでしょ……」
霊夢はただ眉根を寄せて、困り果てた顔で小さく零した。
アンタがそうやって甘く笑うから。
そうやって、あたしを甘やかすから。
だから、コッチだって甘くなるしかないじゃない。
「……霊夢」
「ん……」
こつりと額を合わせて、名前を呼ばれる。
小さく返事をする。
「れいむ」
「……ん」
ゆっくりと名前を呼ばれて、また小さく返事をする。
(これスキ、だなぁ……)
その声で。そうやって、ゆっくりと名前を呼んでくれるの、好き。
心がぽわんってなって、胸の奥の方があったかくなる。
「れいむ」
「……ゆかり」
ゆっくりと名前を呼んでみる。
紫もおんなじように、胸の奥の方があったかくなればいいのに。
「……れいむ」
吐息で紡ぐように名前を呼ばれて。音が切れるのと同時に、唇が重なる。
その瞬間、ふわりと甘い味と匂い。この部屋を満たす、チョコレートと同じ匂い。
(ん……あま……)
紫が言った『溶けかけのチョコレート』という言葉が過ぎった。
少しの時間重ね合わせていた温もりが離れる。
でも全然足りなくて、もっと欲しくて、紫の頬に手を添えて引き寄せた。
何度も何度も。
紫が離れようとしても放さないで、何度も。
「そんなにガツガツしないの」
「うっさい」
漸く唇を離した時には、お互い酸欠で顔がほんのりと紅く染まっていた。
若干熱を持った紫の頬に指先を這わせながら、霊夢はふと真面目な顔になって紫紺色の双眸を見つめた。
「……顔色悪い」
「誰かさんのお陰で血色は良くなった筈だけれど?」
「ばか。そーじゃなくて……」
霊夢は当然のコトに今になって気付いて、溜息を漏らしながら強く紫を抱き締めた。
「……無理してる?」
まだまだ春は遠いこんな寒い日。眠っている筈の妖怪は、こんな小娘のちっぽけな願望を叶えに起きてきた。
嬉しいのに、なんだかもどかしくて。苦しい。
耳元で紫が「だいじょうぶ」と囁きながら笑った。
賽銭箱に自分にしか開けられないように封をした手紙を。
わざわざ夢の中で鍵を。そうして不思議な扉を。
わざわざこんな回りくどいことをしたのは、きっと。
「まだ寝たりないんでしょ?」
「そうね。もう少し……」
「……なんで起きてきたのよ?」
「もう、言ったでしょう?」
くすくすと紫は笑って、霊夢にもう一度キスをする。貴女にチョコレートをあげたかったから。と、そうもう一度霊夢に伝えながら。
「夢の中でね。貴女はいつも私にあいたいって……さびしいって……好きだって、何度も伝えてくれたから」
そんな恥ずかしいこと言ってたのか。ヤバイ。顔アツイ。本気で火が出そう。
霊夢は紫の言葉に顔を真っ赤に染める。
そんな霊夢の顔を見て、紫は「ふふっ」と小さく笑みを漏らして、その熱いほっぺにキスを一つ。
そうして、
「霊夢ばっかりじゃあ、ずるいでしょう?」
と、悪戯っぽく言葉を紡いだ。
「霊夢」
吐息で囁かれて、前髪を掻き上げられる。
そこに口付けが一つ降る。
「……霊夢」
頬を撫でられて、そこにも一つ。
「れーむ」
甘い声が脳みそに響く。
紫の声が近くて、紫の手の平がそこにあって。
紫の指先がここにあって。唇が触れていて。
嬉しくてしょうがなくて、でもそれを素直に顔に出せなくて皺の寄る眉間にも、降るキス一つ。
泣きそうになって震える瞼にも。紫みたいに筋の通ってない鼻の頭にも。
「好きよ、霊夢」
そうして、ふやけてトロけてしまいそうな口付けを、唇に。
甘くて、優しくて。
甘くて、甘くて。
泣けるくらいに甘くて、全身が溶けたチョコみたいになりそうで。
「ゅ……か、り……」
「ん……」
「……あいたかった……」
「うん……」
「さびしかった……」
「……うん」
「……好き………」
「……知ってる」
冬が蕩けて、春が溶け始める。
そんな冬と春の境界(あいま)。
おしまい
(o ̄▽ ̄)=◯)`3゜)
ええと、いつも甘いSSをありがとう!!すばらしいバレンタインゆかれいむでした!!
ああもう恥ずかしくて嬉しくて幸せでどうしてくれますの(キャー
何気に入っているジャスティスたちもうまうま。
ああでもこの紫の優しさ・・・とてもよかったと思います。こんなすばらしいSSにネタを使ってくださって本当にありがとうございました!
ゆかれいむ!
ゆかれいむ!
やはりゆかれいむは最高ですわ…
描写が暖かくて柔らかでニヤニヤとまらんですばい
紫様との会話や、おまけ話も面白いお話で詩t。
脱字の報告です。
>「あそ……それで皆どーしんのよ?」
『どうしてんのよ?』かと。
あ、どうもご馳走様でした。
血の代わりに砂糖がッ!!
ご馳走様でした…! がふっ。
心があったまりました。
霊夢と紫だけじゃなく、その周辺の恋模様も面白そうだw
ゆかれいむ is my justice!
甘ッ…ごぶっ
うp主ありがとうっ!
…妄想が加速する。