Blood Meridian of Metropolis: Ex
#Ex.01 フロンティアの血染めの夜明け
薄暗闇の中で眼を醒ますと驪駒早鬼はいつも腰のホルスターに収められている愛銃に手を触れる。穴ぐらに光は差しこんでいなかったが空気の匂いの微かな変化から夜明けが近いことが分かった。早鬼の周囲には配下のオオカミたちがまるで吹き溜まった埃のように身を寄せ合い丸まって眠っていた。すでに命の尽きてしまった者ども。その息吹の搾りかすに変わり果ててなおこの世界で活き続けているかけがえのない形象。早鬼はオオカミたちを起こしてしまわないよう静かに寝床を抜け出した。そして穴ぐらから外に出た。
零下十度で吹きつける大平原の夜風。背の高い草木は一本たりとも生存を許されない赭(あかつち)は地平線を越えてさらにその先まで続いており地獄の無尽の広大さを物語っていた。極北かと見まごう冷たい風をしのげる場所はただひとつ。わずかに隆起した丘にくり抜かれた横穴式の住居だった。開口部に赭の煉瓦を積み上げて壁と窓、ドアが形作ってあり住居としての最低限の景観を遺していた。かつての住人である人間霊たちはすでに去っており家財道具もほとんど持ち出されていた。
空一面に浮かんだ斑(まだら)模様の雲。それらが微かな優しさを帯びた朝焼けに照らされて橙色に彩られている様はまるで空に横たわった砂漠のようだった。大平原の色相はその彩度を変えつつもあくまで深緑を帯びており西から吹いてきた風がひと薙ぎするごとに夢のように波立った。早鬼は黒髪に手を当てて風の唄を聴いていた。背後から足音があり振り向くと最近になって二足歩行を手に入れたばかりのオオカミ霊がボロ切れを身体に巻きつけて寒さをしのぎながら立っていた。
ほんとうに冷えますね。
彼女は云った。
ああ。早鬼は答えた。前の住人に感謝だな。もう消滅してるかもしれんが。
ここ三日、収穫はゼロです。臭いすら辿れません。バッファローなんて贅沢は云いませんが肉の味が恋しいですね。
私も最後にまぐさを口にしたのはいつのことやら。見渡す限りの芝土が広がるばかりだ。
オオカミ霊は白く濁った吐息を漏らしながら夜空を塗り替えていく朝焼けを見守った。足踏みを繰り返したり鼻をすすったりと落ち着かないようすだった。早鬼は首巻きの赤い布を引き下げて口元を露わにして云った。どうした、云いたいことがあるなら云え。
あの。狼は答える。最近入ってきた新入り。コヨーテの連中のことですが。
ああ。
あいつらが組長に生意気を云ってます。なんで草食の獣がリーダーなんだって。狼のわたしが仕切れば好いとか煽ってくるんです。
早鬼は微笑んだ。唇の端だけが人形のように持ち上がり目じりは一ミリたりとも動かさなかった。
……で、なんて返したんだ?
てめェらは驪駒様の凄さを知らないからそんなことが云えるんだって叱り飛ばしてやりましたよ。
ふぅん。――本当にその気はないのか。
どういうことです?
私に取って代わってやろうっていう野心だよ。
勘弁してください。
試してみるか?
早鬼は微笑みを浮かべたまま袖をまくり上げると引き締まった二の腕をオオカミ霊の鼻先に突き出した。狼は眼を丸くして口を半ば開いた。凶悪な犬歯が顔を覗かせた。朝の冷たい空気に唾液を飲み下す音が小さく溶けた。
オオカミは差し出された真っ白な肌に見惚れていたがやがて魔法が解けたかのように首を振った。
いやいやいや……。
早鬼はようやく心からの笑い声を漏らした。
まだ理性は残っていたか。
……冗談でも止めてくださいよ。こんな餓えているときに、そんな、そんな――。彼女は言葉を探して耳をピンと立てていた。……目と鼻に毒です。
忠誠心は結構だが過度な忠義は牙を腐らせるぞ。私に器がないと見切りをつけたら正直にそう云え。足の一本でも二本でもくれてやる。
…………。
可愛い奴だ。
オオカミ霊は肩をすくめた。毛皮でふかふかの頭を早鬼がなでてやると彼女は音を立てずに尻尾を振った。
狼が塒(ねぐら)に戻ったあとも早鬼は大平原を塗り替えていく朝焼けを眺めていた。地獄に果てはなく今も膨張を続けており特に人間の霊の流入は加速度的に増加していると以前に聞いたことがある。その人間霊でさえ滅多に巡り逢うことのない辺土と呼ばれて蔑まれる最外縁の畜生界はまさにフロンティアと云えた。
早鬼は紙巻煙草を口にくわえると黄燐マッチを取り出してブーツの底でこすって火をつけた。そしてマッチの火を息で吹き消して完全に鎮火したのを確認してから地面に投げ捨てた。あまりにも乾燥した大地は火花ひとつで簡単に野火となって燃え広がり夜空を血のように赤々と染めあげることも珍しくない。まだ遠くない昔に早鬼は稲妻によって引き起こされた燎原の火が夜の闇を吹き払って人間霊の集落を跡形もなく焼き尽くした光景を見たことがある。彼らは濡らした穀物袋を手にして何時間も戦った。農地の周りに溝を掘った。それでも火は勢いを止めることはなかった。火の粉は彼らが掘った溝をたやすく乗り越えて畑を火の海にした。霊体となってさえ労働からは解放されずにただ繰り返しの毎日を消化していく彼らの最期は地獄の焔で成分のひと欠片も残さずに浄化されることだった。
煙草を吸い終えた早鬼は続いてスキットルを傾けてウィスキーを舐めた。大切にしながらちびちびと飲みすすめてきたそれは香りが飛んでしまって苦味だけが根を下ろしていたがそれでも命の水はあくまでも命なのだった。早鬼は実に美味しそうに蒸留酒を味わった。そしてその場にゆったりと腰をおろして地平線に浮かぶ朝焼けに過日の野火の幻影を視ていた。
~ つづく ~