- この作品は、作品集154「ウソを見破るの楽しみ方」の続きとなっておりますが、
そちらを読んでいなくともほとんど問題ありません。
- この作品はミステリーですが、人が死んだりはしませんので、
そういった話が苦手な方も安心してご覧ください。
「お返しにプレゼントなんて結構じゃない。それは何だったの?」
「それがだな……」
慧音は一度言葉を切る。そして、難しい顔で告げた。
「ただの〝木の板〟だったんだ」
「え? 木の板……?」
「ああ。こう、まな板ぐらいの大きさで……」
身振り手振りで四角を表現する慧音。最後には親指を人差し指でつまむように、厚さまで表現してくれた。だけど……。
「ちょっと待って。板って、なんなの、それ?」
「だから、本当にただの木板だよ。いきなりそれを渡されたんだ。それも二枚」
いやまあ、何枚だろうが答えにはなってないんだけど……。といっても、悩んでいるのは当の慧音なのだから仕方ない。
なんでそんなものをお返しに寄越したのかしら? ただの木の板なんかを……。
***
一
『魔法使いの霧雨魔理沙、風邪で寝込み重体』
その記事が視界に入った途端、ちょうど飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになった。
魔理沙が……風邪?
私、アリス・マーガトロイドはリビングで、日課であるモーニング・コーヒーを淹れていた。
暖炉に寄せた椅子に座って体の外から、コーヒーで内から暖める。肌からじんわり広がる火照りと、抽出したてのネルドリップの香気はともに心地よく、情緒不足の真冬の朝を補色するには悪くなかった。
とはいえさすがに、しばらくすると手持ち無沙汰にもなってくる。そこでいつもの習慣で、玄関から新聞を持ってきた。流し見する程度に目を通していたところ、隅っこに見つけた記事がこれだった。
はあ。あの魔理沙がね……。ふーん。
もっとも、頭から信じたわけじゃない。この新聞は、名を『文々。新聞』。とある天狗が趣味で発行している自己満足の産物だ。ゆえにその内容に信憑性はあって無いようなもので、新聞というよりは三流ゴシップ誌だった。
いずれにせよ、だ。三流だろうがなんだろうが、こんな記事を見てしまったからには真偽の程を確かめずにはいられない。コーヒーを適当なところで諦め、まだ冷える体で身支度を整えて、すぐに家を飛び出した。
魔理沙が、風邪。しかも重体……。
……というか、風邪って重体になるものじゃないような?
でもまあ、こうして実際に記事になっているということは、たぶん事実なんだと思う。あの新聞は捏造はしょっちゅうだけど、すぐにばれてしまうようなあからさまな虚偽は書かない。
断っておくけど、決してあいつの体が心配なわけじゃない。風邪で倒れる魔理沙なんてあんまり珍しいから、一度見学でもと思いたっただけだ。例えるなら、一日限定で動物園で珍種が見れると聞いたら、つい行ってしまうような、あんな感じ。それになにせあのバイタリティの塊みたいな奴が寝たきりなんて、軽く想像するだけで面白いし。なんなら当てつけに、目の前で氷菓子でも食べてやるのも悪くない。
まあ、あんまりひどくて死にそうだったら、ちょっとぐらいは看病してやってもいいけど――恩を着せるため。
でも魔理沙に限って、そんなこと……ねえ?
一人自問と相槌に終始していたところで、いつのまにか魔理沙の寝室まで来ていた事に気づく――ちなみにズボラなあいつには、いちいち玄関に鍵をかけるような甲斐性は無い。
一応ノックをしてから、ノブに手をかける。
「魔理沙? 入るわよ」
「……む。アリス……か?」
あれま。
あの記事、よもや本当だったとは。
ベッドの上の魔理沙は、まさに息も絶え絶えといった様子だった。普段馬鹿でかい帽子のせいでまるで日に当たってない生白い肌は、カロチンたっぷりの野菜みたいに赤く熟れている。特に目尻は熱っぽくむくんで、ちょっと淫ぴなぐらいだった。体には達磨のように大量の布団を着込んでいるのに、口はカタカタ震えている。枕元には額に載っていたらしい氷袋があったけど、すでに溶けてただの水袋になっていた。もう丸一日は取り替えてなさそうな有様だ。
総じて……。うん、風邪ね。間違いなく。
とりあえず、側の椅子を借りて引く。
「なかなか難儀してるみたいじゃない」
「ば、馬鹿……言え。こんなのなんでも……ない、エフッ! エフッ!」
布団の中で激しく咳き込む魔理沙。内で爆発でもしてるみたいだった。
まったく……。よくもまあ、こんな状態でも強がれるわね。こいつは。
「ずいぶんいいカッコじゃない。その割には」
「なんでもないって……言ってるだろ。こんなの……大したこと……。蚊に刺されたような、もんだ」
「あら。蚊だって刺されようによっては、マラリアにも日本脳炎にもなるんだけど?」
魔理沙は何か言い返そうとしたけど、ううう……と呻いて後が続かない。強がりもこの辺が限界らしい。
にしても、うーん。改めて見ても、不可思議な光景……。あの魔理沙が風邪ごときでこんなに参っているなんて。なんというか、たとえワニがリビングで刺繍をしていても、こんなに妙ちくりんには見えないと思う。
「で、そんなに辛いの?」
「で、じゃないっての……。わかるだろ、見れば……」
魔理沙はかすれ声で答える。
「あら、でも新鮮な想いよ。魔理沙みたいなのでも、風邪なんて引くんだってね。だってあなた、以前言ってたじゃない。馬鹿は風邪引かないっていうのは間違いだ。馬鹿だから体調管理を怠るんだって」
「う……言ったか? そんなこと」
「それも得意げにね。とすると、あなた。怠ったの? それともやっぱり馬鹿の方?」
「そりゃ……わたしだってたまには風邪ぐらい……。体はただの人間だし、今が真冬ならなおさ――」
ゲホ、ゴホッ、エホッ。台詞の最後は咳にまみれて意味不明になってしまう。
さすがに、いつもみたいに言葉遊びに興じる余裕も無いらしい。ここぞとばかりに馬鹿にしようと思ってたけど……。ま、ここまで参っている奴に鞭打つほど私も鬼じゃない。
仕方ない、少し看てやろうかしら。柄じゃないけど。
「熱は? 今、何度?」
「……知らない。計って……ない」
そんな余裕すら無かったということだろう。魔理沙の前髪をかき上げ、右手を添えてみる。
うわ、熱っ……。
真っ赤に染まった額は、まるで熱した湯器のようだった。ひょっとしたら、四十度越えてるかも……。まともじゃいられないはずだわ。
近くのタンスを開き、ハンドタオルを取り出す。そっと顔の汗を拭ってやった。
「どうやら馬鹿の方だったみたいね。もう、こんなになるまで何してたのよ」
「うう……執筆」
「執筆? 例のあれ?」
「その、例の……小説」
はあ、呆れた。そんなことだろうとは思ってたけど。
こいつは少し前から、推理小説にチャレンジしていた。チャレンジというのはもちろん読む方じゃなく、書く方だ。
その奔放なキャラクターと白黒の意味不明なファッションから、この人間は一見はただのちゃらんぽらんに見える。でも二つだけ、私も認めているところがある。うち一つが、その並外れた読書量だ。
霧雨魔理沙といえばそのやたら奔放なパーソナリティから、アウトドアの印象が強い。なので、意外と読書家で知識人ということはあまり知られていない。読む本は幅広く、専門書でも小説でも限りが無いけど、特に愛読するジャンルが推理小説。現にこの寝室の本棚も、半分近くがミステリ小説らしき本で埋まっている。書斎に行けばこの十倍はあるだろう。その全て読破しているだけでなく、気に入った物は二度三度、あるいは十度二十度と、葦編三絶も甚だしい。擦り切れて表紙だけ交換した本まであるというのだから、ここまでくると趣味というよりは病気に近いかもしれない。
もう一つは、その長年の読書力で培われた集中力。魔理沙は短編程度のミステリの謎ならば、ものの数十分の思考で言い当ててしまう。ミステリにさほど縁の無かった私からすれば、驚嘆に値すると評価してもいい。これまでもたびたび発揮されたその推理力は、たびたび現実でも起きる事件や謎を解き明かしたりしなかったりする。
そんなわけで読むのは得意な魔理沙なのだけど、自分で小説を書いたりはしないのか。ある時尋ねてみた。すると向こうはそんなの余裕だとか、ムキになっていつもの訊いてもいない見栄を張ってきたので、どうやら経験は無いらしかった。あとは売り言葉に買い言葉で、負けず嫌いなこいつはなんなら実践してやると勝手な約束をのたまってきた。こいつが今がんばっている経緯は、ざっとそんなところ。
あれから寝る間も惜しんで執筆してるらしいけど……。まあこの季節にそんな調子じゃ、こうなるのは時間の問題だったわね。自業自得。
「やっぱり馬鹿ね。それも筋金入りの。薬は? 飲んだの?」
「……無い」
「無い? もう全部使っちゃったってこと?」
「いや……最初から、無い」
「はああ? 風邪薬も置いてないっての、あなたの家は」
「し、仕方ないだろ……。こんな熱出たのだって……何年ぶりだか。多少の風邪なら、寝てりゃ勝手に治ってたから……」
つくづくこいつは男みたいな発想をする。大雑把の魔理沙らしいといえばらしいけど。
「その調子じゃ、汗だくなまま着替えてないんでしょ。ちょっと起きて」
手を差し伸べたのだけど、魔理沙は反対方向に寝返りをうった。
「やだ……寒い」
「……何言ってるの。何もしなきゃずっと寒いまんまよ。ほら、これ離して」
無理やり布団を引き剥がす。拠り所を奪われた魔理沙は、代わりに自分の膝を抱き締めて小さくなった。その上ふるふる小刻みに震えてると、なんだか小柄なこいつが余計に小動物みたいに見えてくる。
「はい、バンザイして。バーンザイ」
「うあ~……寒い~……暑い……死ぬ~……」
などとたわ言をうめくばかりだったので、強攻策に出ることにした。力任せにバンザイのポーズをとらせると、そのまま下着ごとすっぽり引っこ抜いてやる。
脱がしてみて気づいたのだけど、魔理沙の体型は思ったよりも小さかった。いや、もともとちんちくりんだとは思っていたけれど――でも、細く白い上腕や首周り、ウエストは普段着の上から見るよりはるかに華奢で、なんだか儚いぐらいだった。こんな体で、よくあんな馬鹿でかい帽子を支えていたものだ。
胸やら背中やらをタオルで手早く拭き、替えのシュミーズ、パジャマの順に着替えさせる。裸の魔理沙にこんなことをしていると思うとなんだか妙な気恥ずかしさがあるけれど、いつも家で等身大の人形相手にやってることだからと思ってとっとと済ませた。
さて。しばらく何も口にしてないようだから、次はご飯でも作ってあげたいわね。
でもこれだけの熱、薬を飲まないことにはいつまで経ってもよくなるわけがない。優先するならどう考えても食事より薬だろう。
この寒い中遠出するのも、若干気が退けるんだけど……。
「……私が薬屋まで買いに行くしかない、か。やむなしね、それも」
「か……かたじけないぜ」
再び布団に包まった魔理沙は、そんな普段言わないような侘びまで口にする始末……こんな殊勝なこいつも、まあ珍しくて可愛げが無くも無いんだけど。でもやっぱり、いつも通りの不遜さがすっかり引っ込んでいるのはなんだか気持ちが悪い。
「永遠亭にでも顔出してみようかしら。用意してきてあげるから、あなたは大人しく寝てなさい」
行くなら早いに越したことはない。腰を浮かし、さっと外に出る支度を整え終えたところで、声をかけられる。
「……ちょっと、待て、アリス」
「何? 他に欲しいものでもある?」
「いや、欲しいものって……いうか……エフッ。ケフッ、エフッ」
さすがに話しにくそう。咳も激しいけど、喉も相当辛いみたい。
「薬……買ってくるんだよな? なら、頼みが……」
「この期に及んで遠慮なんてしないでいいわよ。こんな時ぐらい、何でも聞いてあげるから」
魔理沙はなんとか、布団から顔を半分覗かせる。そして蚊の鳴くような声で、「か……」
「か?」
「漢方……」
「……え?」
漢方?
「駄目……あれは嫌い、なんだ。漢方だけは……。だから、薬は、あれ以外で……」
「…………」
どうやら、漢方薬のことらしいけど。
「嫌いなの? 漢方」
ちょこ、とリスみたいに頷く魔理沙。
「ちなみに、どの辺が?」
「……匂い。あと……味。あれだけは、ほんとに無理……エフッ、エフッ」
子供か、こいつは……。
「何言ってるの。選り好みしてる場合じゃないでしょ。だいたい急性の病気の早期治療には、漢方が一番効くのよ」
「……イヤダ」
「嫌だって、あなたね……」
「いやだ、イヤダイヤダイヤダイヤダ……エフッ! ケフッ! ううう……」
よほど苦しいほど咳き込んだのか、それとも漢方のトラウマが脳裏に蘇ったのか、魔理沙はすっかり涙目になって震えていた。
まあ……よくよく考えれば、こいつも年齢的にはまだまだ十そこらの少女なんだった。普段の横柄な態度を前にすると、すっかり忘れちゃうけど。
「わかったわよ。一応聞いたことにしてあげる。いい? 私が薬持ってくるまで、そこ動かないでよ。悪化しても知らないんだから」
永遠亭なら普通の風邪薬もあるはず。とっとと行って、とっとと帰ってくるとしますか。
早々に部屋を退出しようとした時、なにやら布団からもぞもぞ腕が生えたのに気づく。魔理沙はわずかに手の平を左右に揺らしながら、か細い声を鳴かせた。
「た、頼んだ……ぜ」
まったく、動くなって言ってるのに。溜め息を一つ置いて、後ろ手にドアを閉めた。
二
「なるほど。症状は大体把握しました。珍しいこともあるものね。あの娘が風邪なんて」
「ええ。行ったらわりと真面目にひいてたわ、風邪」
軽く肩をすくめてやる。一通り事情を聞き終えた八意永琳は、カルテに向けていた万年筆を置くとこちらに椅子を回した。
「それで、漢方薬が飲めないというのは? アレルギーだとか、体質的にという意味ではないのでしょう?」
「違うと思うわよ、きっと。あいつの舌が勝手に拒んでるだけで」
「好き嫌いかしら。最近多いのよね、漢方飲めない人。特に若い人達に。困るわぁ」
と、まるで自分は若くないみたいな言い方をする永琳。こいつが言うと嫌味に聞こえるのは私だけかしら……。
永遠亭の薬師、八意永琳。実際のところ、この目の前の月の人間は、外見的には成人前の女学生と大差ない。むしろ陶器のような肌艶と凛と光るまつ毛は、化粧を加える余地の無いぐらいの瑞々しさと張りにあふれている。いつもは膝に届くほど長い髪を大きな三つ編みにしているのだけど、今日はちょうど訪問したのが朝風呂あがりだったらしくストレートだった。彼女が軽く首を捻るだけで、水気を含んで重くなった銀髪がさらりと波を描き、しかし新開発のコンディショナーでも使っているかのような仕上がりで乱れも絡みもせず、またサラサラと素直なストレートに戻る。そんな新聞の写真広告然とした完璧さは、美しさ余って小憎らしいくらいだった。天然パーマの私からすれば、それはもう。
そんな彼女の若々しさには理由がある。そう、彼女は不老不死。過去に月の薬学より禁忌である蓬莱の薬を服用したことで、老いることも死ぬこともできなくなった――ついでに美容にも一仕事貢献していた。すでに千年以上もの時を生きていて、その見た目の若々しさとは裏腹の、はるか円熟の域に達した佇まいからもそれは感じられる。不老不死特有のある種浮世離れした存在感は、やはりどこか御簾の向こうの人間という雰囲気を醸し出しているのだった。
「とりあえずわかりました。じゃあ、ただ本人の希望ということかしら」
訊きながら、トントンと永琳はカルテをまとめる。
「そんなところよ」
まあ、希望っていうより駄々だけど。ただの。
でも永琳はなぜか少し考えるように、胸の前で腕を組んだ。
「そう。それは少し弱ったわね」
「なんで? まさか漢方以外の風邪に効く薬が無いってことないでしょう」
「というより、漢方薬以外は出せないわね」
「……は? 出せない?」
どういう意味かしら。あるのに出せないとは。
それは、つまり……。
「……意地悪?」
「違います。別に深い意味ってわけでも無いのよ? 普通ちゃんとした薬というのは、きちんとした診断を通さないと処方できないの。それだけの話」
「はあ、そうなの」
「原則というわけじゃないけどね。あなたも自律する人形を研究しているなら、人体について少なからず見識はあるでしょう? 西洋医学は患者の体質じゃなく症状で病巣を判断するのが基本なの。医学モデルは、病理が疾病単位を満たしているのを確認して初めて、診断を行える。そして適した薬というのは、本人を直接診療しないと選べないのよ。だからせめて、彼女が自力でここまで来れればよかったんだけど」
ふむ。そういえば確かに、そんなことを本で読んだことがある気がする。元々西洋医学の原点は実証主義であり、病気を治すといった考えではなく、体内の構造や仕組みの解明・研究が目的だった。私は職業柄人体には詳しいつもりだけど、医学には中枢神経や骨格以外興味無いから、あまり深いことは知らない。でも治療行為全般には診断に重きを置いているということは確かだと思う。
「でも、あなたでも無理? 月一の天才なんでしょう?」
「いやまあ、ツキイチって言われると月一度に聞こえますけど。月医学の文献はここには無いし。そもそも私は薬剤師。医者というわけじゃない。もともと臨床は専門外なのよ。内科ぐらいはどうにかなるけど、本人の診断も無しに処方できるほどでもないし。又聞きの話から出す薬よりは、漢方の方が効くし生薬だから安心だと思うわよ。副作用の心配も無いしね」
ふむ、なるほど。それはそうよね。
ま、そういうことならしょうがない。できることならあいつの言うようにしてやりたかったけど、だいたい苦手だろうがなんだろうが、あいつが我慢して飲めばいい話。良薬口に苦しっていうし。そもそも根本的な原因はあいつの不摂生なんだから、それぐらいの自業自得はちょうどいい。文字通り、あいつにはいい薬だ。
「わかった。じゃあそれで。おいくら?」
魔理沙からお金預かってないし、とりあえずここは払ってあげないと。先月いろいろ出費多かったから、安いと助かるんだけど……。
そうねぇ、と呟きながら、永琳はそろばん片手に弾き始める。
「寒気がひどいなら裏寒に一つ。鼻水もあるようだし、それ用に参蘇飲……。あと喉、頭痛、体のだるさに効くのを三種ほどにして、それで熱が下がれば葛根湯を飲んでおけば大丈夫でしょう。しめて……二十七万八千円ってところかしらね」
財布を探そうとポーチに突っ込んだ手が、カチンと凍った。
「……あの、もし」
永琳は相変わらずの微笑で、「はい?」
「ええと。それって、一年分とかじゃないわよね? さすがにそんなにいらないんだけど」
「とりあえず七日分ですけど。それだけあれば充分でしょう」
「…………。ということは、二十万とかなんとかいうのは、その七日分でってこと?」
「ですよ。お安くしておきました」
…………。
ま、ここまで我慢したんだから、そろそろいいだろう。いい加減大声出してやりたい。
エヘンと一つ咳払いする。次の瞬間、床を蹴って立ち上がってやった。
「言うに事欠いてお安くってなんなのよっ! なんでたかが風邪薬がそんなにするのっ、この藪医者っ!」
結構な声量のつもりだったけれど、永琳にとってはちょっと風に吹かれた程度のことらしい。ひょいと余裕気に肩をすくめられる。
「医者じゃなくて薬剤師って言ってるんだけどね」
机の引き出しから書類のようなものを取り出す。それは薬品のリストかなにからしく、永琳は読むように文章に指を沿わせた。
「実は漢方も数が少なくなってきてね。実は幻想郷じゃ既存の生薬の材料がほとんど採れないのよ。代わりに森に行けば未知の薬草や魔法草は多いんだけど、新薬開発は時間がかかるし。ようするに希少品なの。だから今のは正当な値段よ」
「どこが正当なのよ。その辺の家具より高いじゃないの」
「薬も時価ですから。材料が手に入りづらい昔なんかは特にね。今でも一瓶で七十万以上する薬もあるし。代金でのお支払いが嫌なら、物々交換でも構いませんけど?」
にっこり、目を細める永琳。
「…………」
うぬぬ……足下見よってからに。よく見ればその完璧すぎる微笑も、詐欺師のそれに見えなくもない。というか見えてきた、だんだん。
どんな大金でも人の命には代えられないけど。でも風邪薬程度のためにこの金額を素直に払うのも馬鹿らしい。というか、払う奴がいたらそいつは馬鹿だろう。間違いなく。
とはいえ……どうしようかしら。
幻想郷に他に薬局なんて無いし。私の家には妖怪に効くやつしかないから……。結局薬を手に入れられるのは、永遠亭しか無いのよね。
…………。
盗むか。また。
「そうそう。うちの薬庫の錠は鍵が三重になってるから。紅魔館みたいに誰でも入れたりしないからね」
「――ゲホッ、ゴフッ」
なんてよからぬ企みを見透かされたように言われたものだから、さっきの魔理沙みたいにむせてしまう。月一番の天才ともなると、他人の心も読めるのかしら……。
むー。これはますますどうしよう……と、心中で頭を抱えた時だった。パタンと資料を閉じた永琳が、またこちらに向き直る。
「でもまあ、お金を払いたくない気持ちもわかるわ。私としても病人をみすみす放っておきたくないのだけど、でも無償でおすそ分けってわけにもいかないのよ。なにせ、こちらも生活がかかっているからね」
「生活~?」私は声色を捻り上げた。「あなた不老不死なんでしょ。なんで餓死の心配なんかするのよ」
「肉体的には問題無いけど、精神的に空腹は感じるのよ。だから苦痛なのは変わらないから、ちゃんと私も朝昼晩摂取してるわよ。うちの姫なんてグルメだから、月一回はビフテキ食べたがるしね」
「飢え死にしないのに、かえって食費かさんでるじゃないの……」
「だから商売も已む無しというわけ。でもお代を払っていただけないならどうしましょうか。物々交換しようにも、人形の価値なんてわからないしねぇ」
私は人形しか高価なものを持ってないと思っているらしい。一応家に行けば宝石とかいろいろあるのだけど……。
「だからものは相談なんだけど……。物々交換じゃなくて、交換条件なんてどうかしら?」
「……交換条件?」
ええ。そう永琳はにっこり、軽く首を横にもたげる。
「ちょっと仕事をお願いしたいの。うまくこなしてくれたら薬は安くしてあげる。そうねえ、七割引きぐらいでどう?」
「えっ、七割……? って、いやいや。それでも六万円もするじゃない」
「出来次第でタダでもいいわよ」
タダ……。
…………。
って、いかんいかん。タダって響きに心を奪われている場合じゃないわ。
世に交換条件というものほど怪しいものも無い。ましてや相手が永琳となれば、尚更……。
少し怖い顔になっていたらしい。永琳は微笑に載せた眉を、少し困ったように曲げていた。
「そんなに警戒しないで。仕事といっても、ちょっとしたお使いだから。本当に」
「お使いですって? なんでわざわざ部外者に頼むのよ。そんなの、あなたの部下の妖怪兎達にやらせればいいでしょう。この寒い中、掃いて捨てるほどいるくせに」
「寒さは関係ないけどね。あいつらだと、ちょっと頼りないから」
頼りない……。ま、兎だし。
でも、タダというからには……。そうね。現金かもだけど、話ぐらいは聞いてあげてもいいか。うん。
「で、そのお使いだっけ? いったいどんな秘境に行かせるつもりかしら」
少し覚悟して聞いてみると、永琳はくすくす笑った。
「秘境だなんて。本当に警戒しちゃってるのね。ちょっとしたって言ってるじゃない」
「じゃあどこなのよ」
「里よ。人間の里」
里……? なんでそんな身近なところに?
「正確には、里にいるある人物のところになんだけど」
「はあ、人物。そいつに会って、私に何をしろと?」
「まあ何ってわけでもないんだけどね。ちょっと話を聞いてきてほしいの」
「話?」
「どうやら彼女、少々困っているらしいから。だから言うなら〝悩み相談〟よ」
……は? 悩み……何?
にこりとまつ毛を光らせるその表情は、おそらく彼女のとっておきなのだろう。こちらが首を捻っているのをいいことに、今日一番のうつくしスマイルで告げた。
「そういうわけだからお願いね。あなたなら、簡単でしょう?」
三
あなたなら簡単でしょう、ですって?
フンだ。永琳の奴、なーにを根拠に。
梢に載った積雪が、ぼさりと落ちる。気づけばもう一月。先月はいろいろあって長い師走だっけど、それが正月となっても、この肌寒い景色がさほど変わったとは思えない。
そもそも四季とは、季節でなく人の心の移り変わりを指す……なんて話も聞く。季節の定義は実は曖昧で、明確な線引きが存在しない。でもその人がああそろそろ冬だなと思えば、今が冬だと定義できる。少なくとも、その人の内面では。その季節特有のイベントも、それぞれが四季を実感するために存在するという。どこの誰か知らないけどうまく言ったものだと思う。
その身を魔法使いと成してしばらく、人の文化から遠のいて久しい私にとって、正月なんてものはあってないようなものだ。今さら新年だからめでたいなんて気もしないし、ようするにどうでもいい。さっき魔理沙の家のキッチンで手の平大の鏡餅を見つけなければ、年を越していたことすら気づかなかっただろう。
思いつく楽しみと言えば……博麗神社のコタツでみかんを食べるぐらいかしら。
「はあ~。みかんが恋しいわ」
……ちなみに、今の台詞は私ではなかったりする。隣に並んで歩いている、鈴仙・優曇華院・イナバのものだ。
この鈴仙。永琳から道案内がてらとこうして同行させられたのだけど、どうやら本人の意思ではないらしかった。なにせ永遠亭を出てからというもの、およそ十秒間隔で溜め息をこさえている。
というのもこの娘、私が永琳を話していた時は実際にコタツでみかんをしていた最中だったらしい。そんな極楽からいきなりこんな雪だらけの寒空の下にほっぽり出されたのだから、こうふて腐れるのもわからないでもなかった。
「……あの、ちょっといいかしら?」
「あー? なんですかいきなり」
鈴仙はのっけから不機嫌な調子で返した。
「その、いい加減誰に会いに行くのか教えてほしいんだけど」
「誰にですって? 師匠から聞いてるんでしょ? 何で私までついて行かなきゃならないんですか。あなただって、道ぐらい知ってるでしょうに」
「だから道も何も、誰に会うかすら聞いてないってのよ」
「それぐらい聞いとけって話よ。ああ~寒い」
兎は寒さに弱いらしい。軟弱な動物だこと。
改めてよく見たのだけど、鈴仙はえらい厚着だった。いつもはネクタイにスカートと割とタイトな服装なのだけど、今日は真冬らしく上はブレザー、中にセーター。スカートからは桃色――というよりは気が狂いそうなショッキングピンク――のジャージが伸びていた。鼻が隠れるほどぐるぐる巻きにマフラーを巻いて、両手は毛糸で繋がった可愛らしい手袋をしてポケットに突っ込んでいる。外に繰り出すというよりは、暖房を止められた部屋で篭城でも決め込んだみたいな服装だった。
対して私はと言えば、もともと寒暖に強い体質なので防寒らしい防寒はしていない。せいぜい厚手の黒いレギンスくらいで、首にはストールをコサージュにしているけど、一応これは防寒じゃなくてファッションの意味合いが強い。道端の雪は、普段からロングブーツなのでまったく気にならない。
こうしてよくよく考えてみれば……私が季節に対して興味をなくしたのは、体質が変わったからかもしれない。寒くも暑くもないので、妖怪になってからは冬も夏も、大した違いを感じなくなった。今思えば、人間だった頃は不便だったのかも。昔のこと過ぎて忘れたけど。
まあ、そんなどうでもいい記憶は感傷にもならない。とりあえず、私はひょいと肩をすくめてやった。「訊くまでもないと思ってね。あなたについていけばいいんだから」
「だったら今私に訊く道理も無い気がしますけど。こちとら口開けるだけで寒いんですよ」
「だってあなた、歩くの遅いから。いい加減合わせるのも面倒なのよ」
口ではこちらに敵わないと悟ったらしい。鈴仙は憎々しげにこちらを睨んだけど、その視線もこの寒さのせいか二秒ともたなかった。マフラーから漏れる溜め息が、また白く染まる。
「ハクタクのところよ」
「ハクタク? 慧音のこと?」
私は聞き返す。沈黙で答えられたけど、是ということだろう。さっき話したように、必要以上に口を開きたくないらしい。
上白沢慧音、か。
ワーハクタクという珍しい種である彼女は、見た目は割と普通の女の子――若干古風な帽子はしてるけど。でも満月の夜には、禍々しい姿の妖怪に変貌する。そのルックスの反動なのかコンプレックスなのか、人間という種族が好きで好きで仕方ないらしい。特に幼い子供は目に入れても痛くないとか。
そんな大好きが高じて、彼女は里にもちょくちょく顔を出している。で、出しているだけでなく、寺子屋で子供達相手に授業もしているらしい。つまりは学校の先生。まったくもって、奇特としか言いようが無いけど。
あいつが悩み、ねえ。
魔理沙に続いて、なんだか〝らしくない〟は続くものらしい。一体何に悩んでるのか、早速尋ねてみる。
「で、どういったことで彼女は頭を抱えていると?」
「は? 頭を抱える? あの人ケガしたの?」
「……いや、ケガじゃなくて。悩み相談なんでしょう?」
「悩み相談~? 占い師の真似でもする気?」
「…………」
……こいつときたら、肝心なことはなんにも知らされてないのか。そういえばさっき永琳も、頼りないなんて評価をくれてたし。本当に永琳と師弟の契りを結んでいるのかと、疑わしく思う。ただいいように扱き使われてるだけなんじゃ……。
まあ、そんな評価の要因は予想がつかないでもない。おそらく先月に永遠亭であった、お酒の盗難事件。あの件で鈴仙は、ちょっとばかりヘマをした――ということになっている。永琳や輝夜にそれなりに叱責を受けて、それなりにしょげ返っただろうけど、あれから一ヶ月も経った今ではすっかりけろりとしていた。時は偉大な証左。喉元過ぎれば、コタツでみかんも食べようというものだ。信頼は戻らないけど。
「師匠からは、慧音さんのところには様子を見に行けって言われてるわ。先日どういうわけか、薬をもらいに来なかったのよ。あの人」
「薬って、どこか悪いの?」
「悪いのはあの人じゃないわ。人間よ。人間の子供」
「子供……なるほど。うん、ますますわからないんだけど」
「なら、なるほどとか口走らないでください……。もともと慧音さんには、その子の薬のためにちょくちょくうち(永遠亭)に来てもらってたんです。ほら、うちって竹林の中にあるじゃない? 普通、人間が一人で辿り着けるような場所じゃないのよ。こっちから出張で里に顔を出すことはあるけど、せいぜい月に二度ぐらいだし。その子の薬は、ちゃんと毎日服用してもらわないといけないものだから」
うん、今度こそなるほど。確かに永遠亭のある一帯は、迷いの竹林なんて呼ばれたりしている。深い霧のうえ、前を睨んでも後ろを仰いでも、ひたすら続く竹やぶの群れ。竹という植物自体がすぐに成長するため、目印になるものが少ない。おかげで来るたびに違う景色になっていることもザラ。迷いの云々の名の通り、普通の人間なら十分ともたずに迷い子と化す。もっとも、私は何度かおじゃましているうちにすっかり慣れてしまったけど。
「それにしても毎日飲まなきゃいけないってことは、その人間の子供、だっけ? その子の病気は慢性的なもの?」
「は? 病気? そんなの話せるわけないわ。患者さんのプライバシーってのがありますからね。だいたい、今その子の病気が何かなんてのは話に関係ないじゃない」
なんだかムキになって返された。まあ話の本筋と違うのは確かなので、こちらから軌道修正する。
「だからその子供の代わりに、慧音に永遠亭に来てもらってたわけね」
「そう。今までは週に一回、同じ時間に、慧音さんが薬を受け取りにきてたの。でも……」
「でも?」
「いきなり来なくなったのよ、あの人。予定の日になってもね。今日でもう三日目かなぁ。あんまり音沙汰無いから、そろそろ様子を見に行かなきゃっては思ってたんだけどね、私も。で、噂じゃあの人、なにか相当悩んでいるらしくて。たぶんそのせいだと」
慧音は確かに堅物だけど、決して理も非もわきまえない頑迷な人物じゃない。むしろ破天荒な性格がほとんどな幻想郷の妖怪の中でも、道理がわかる人物だ。
でも。こと人間が事態に関連してくると、あいつは目の色を変える――ついでに角まで生やす。とすると、その悩みとやらもその辺に関係してたりするのかな。
「ふむ。なんでかしら。あの娘律儀だから、そういう期日だとか習慣的なことは間違えなさそうなのに」
それがわからないから私達が駆り出されてるんでしょ。そんな具合に、鈴仙は嘆息を放つ。
「ま、とにかくちょっとよくわからないんです。いずれにせよ、今から行けばはっきりするでしょ。あの人が夜逃げでもしてなければ、だけど」
まあ、それは同感。夜逃げは知ったことじゃないけど。
「でも、なんで私がわざわざそんなのに付き合わなきゃならないの?」
「そりゃこっちの台詞なんですけどね。でもあなた、紅魔館じゃえらい活躍だったらしいじゃないですか。新聞に載ってましたよ」
あー……そういえば、あれ。記事にされたんだっけ。
実は少し前、師走が顔を覗かせて間もない頃に、紅魔館という洋館で事件が起きた。と言っても、蓋を開いてみれば自作自演も甚だしいものだったので、事件というよりは茶番だったのだけど。それでも後に新聞で大々的に一面を飾るほどには、大きな出来事だったと言える。
その事件は傍から見るとちょっとばかり事情が複雑で、要はミステリ的な様相を呈していた。そして図らずも巻き込まれた私は、その難題を解決する役割を押し付けられたのだ。で、丸一日考えた末、結果見事に謎を紐解いてみせた……〝ということになっている〟。
というのも、確かに実際答えを解説してみせたのは私なのだけど、そのほとんどが魔理沙の受け売りだからだ。後からこっそり合流したあいつは状況を聞かされると、一刻もせずして見事真相を推理してみせた。ようするに魔理沙に全部答えを教えてもらっていたわけで、私はそれをそのまま口にしてみせたに過ぎない。
でも実際に解説してみせたのが私ということには違い無い。なので当然新聞でも、推理したのは私ということになっている。とすると……なるほど。永琳もその記事を見て、一つ私に頼む気になったわけか。
「ま、正直意外に思ったのは確かですけど。師匠も感服してましたね。女は見た目によらないとかなんとか言って」
「悪かったわね。見た目通りじゃなくて」
「言ったのは師匠ですから。でもねぇ~、別にこれぐらいの仕事、私一人で充分なのに。何もわざわざ同伴させることないと思いません?」
「あなたはコタツが恋しかったり、行きたいのか行きたくないのかどっちなのよ」
「行きたかないけど、行くなら一人で行くって話です。おかげで倍めんどくさいじゃない」
……めんどくさいのはどっちなんだか。まったく。
「口を開くのも億劫なんでしょ? なら無駄話しないで、とっとと行くわよ」
おそらくマフラーの下でぶっすり膨れているであろう鈴仙を尻目に、雪道を先に進んでいく。
何が何でも急ぐわけじゃないけど、場所がわかれば急ぐこともできるというもの。慧音がいそうな場所といえば、おおよそ見当がつく。自宅か寺子屋。それ以外に無い。正月で寺子屋は休みと考えれば、本命は自宅の方だろうか。
彼女の家は確か、里の外だったはずだ。人間が好きならいっそ同居でもなんでもすればいいと思うけど、ワーハクタクは満月の夜になると人間から妖怪になるという、ちょっと面倒な特徴がある。両目を赤眼にし、角まで生やしていかにも凶悪といった調子に変貌する。一般人にそんな姿を見せたら目の毒だということで、少し離れた所に住んでいるというわけ。
ここからだと、彼女の家は里を挟んで向こう側にある。なら里を突っ切って、ついでに念のため寺子屋にも寄るのが効率がいい。おそらく、鈴仙ももともとそう考えていたのだろう。ちらと様子を窺うと、特に文句も言わず後ろをついてきていた――仏頂面ではあったけど。
ハァ、と一つ、溜め息が白く染まる。
確かに最近魔理沙に付き合わされるようになって、まめに推理小説を読むようにはなったけど……。あんまり期待されてもねぇ。
先の紅魔館の件は世間でこそ派手に活躍したことになってるけど、私としては苦い記憶の部類に入る。本来なら、あの時魔理沙の助けは許されなかった。私一人で挑んだはずなのに何もできず、結局他人の手を借りてしまった。たかが茶番とはいえ、ちょっとばかし無力感を感じてしまったのも否定できない。
魔理沙の奴にできるなら、私もって、初めはそう思ったけど……。やっぱり私って、そういう才能は無いのかな。
先日の雪山でも、あいつに言い負かされたし。最近一日一冊はミステリを読むようにしてるから、力がついてないはずはないと思うんだけど。
……ん? 待てよ。
そう思うならどうして、私は今ここにいるのだろう?
自信が無いなら、断ればいいだけの話なのに。魔理沙の奴なんか放っておいて。なんなら今すぐにでも、永琳との約束なんか反故して帰ってもいい。
そもそも、看病する気なんてさらさら無かったはず。本当なら寝込んだ魔理沙を適当に笑いものにして帰るつもりだったのに、気づけばあいつの薬のために人間の里くんだりまで足を運ぼうとしている。
ということは、ふむ。
ここまで考えて気づいたのだけど……どうやら私は魔理沙にあの時の借りを返したがっているらしい?
自己分析は不得手ゆえ、疑問系になってしまったけど。きっとそんなとこだろう。よくよく考えれば、あいつに借りなんてまっぴらだしめんどくさい。いつどこで、「そういえばあの時は~」なんて引き合いに出されるかわからないし。だいたい、天涯孤独の私が他人に借りなんてこと自体、いい加減気持ち悪い。それもたかだか人間なんかに。
そう考えればこれはいい機会だ。お使いでもなんでもこなして、あいつに薬を持って帰る。それでわけのわからない借りも負い目も、さっぱりきれいに無くなる。うん、ばっちりじゃないの。
とすれば。早いところ用を済ませて、薬を持って帰るとしますか。
さて、やがて到着した人間の里。そこには先の感慨――四季は季節でなく人の心の移り変わりが云々――のとおり、やはり、人々の四季への思いが表出していた。
町は新年を祝う正月の飾りで溢れている。家々ごとに、門前にはきらびやかな玉飾り。広場では凧揚げに興じる子供達。商店が櫛比した大通りに至っては、景気がいいのか店先に立派な門松なんかも置いたりしていた。それも入り口の左右に一個ずつ。計二つ。竹で換算すれば、計六本――至極どうでもいいけど。
う~ん。しばらく来ないうちに、こんなになってたとは。
魔理沙の家にはしょぼくれた鏡餅くらいしか無かったから、気づかなかった。まあズボラなあいつに限って、正月だから過度に部屋を装飾しようなんて気は起こさないだろう。ひょっとしたら、年を越す前から寝込んでいたせいでもあるのかもしれない。
なんにしても、寄り道してる暇なんて無い。確かに派手だけど、正月なんて何度目か覚えちゃいないぐらいだし、何も珍しいことじゃない。早めに済ませて、薬を持って帰らないと。
人々の四季への想いにちょっと圧倒されつつも、早足を維持して進む。
「あー、いいなぁ~……」
振り返ると、鈴仙は露店の焼き餅屋に見惚れていた。人差し指をくわえて、それはそれは物欲しげに。
「……あなたは何やってるの。急いでるんだから、行くわよ」
「あっ、ちょっと! 耳引っ張らな……痛い、痛いったら!」
作り物みたいな耳でも、それなりに痛いらしい。そのまま目的地まで引き摺ってもよかったけど、正月だしめでたいので許してやった。もっとも手を離した後には、その部分から骨折したみたいにひん曲がっていたけど。
尚も鈴仙は露天に後ろ髪引かれた目を向けていたけど、やがて仕事の方が大事と判断したようだ。寒がりながらもついてくる。
慧音が出入りしている寺子屋は、町のやや北側、外れにあった。
入り口には、門松の代わりに賀正の札が貼られていた。鈴仙が先に前に出る。たかが場末の寺子屋だからといって勝手に入るわけにもいかないので、一言声をかけた。
「すみませーん。どなたかいらっしゃいますかぁー?」
ま、正月真っ盛りの学校に誰もいるわけないだろうけど……。そう後ろで青空に生あくびしていたところ。応えは意外にあっさりとあった。いや、応えというよりは、なんだかドタバタ戸の向こうが大騒ぎしただけだったけど……って、ん? ドタバタ?
ねえ、中で一体何が……。そう鈴仙に話しかけようとしたその時。戸がいきなり癇癪でも起こしたみたいに、ピシャリと開かれる。
現れたのはやはり、上白沢慧音だった。でもなんだかその顔はやけに必死の形相で、目を見開いたまま上下に息を弾ませている。
「あ……」
と声を漏らしたと思ったら……ああん? なんなのかしら? こちらを見るなり、慧音の見開いた目は心底がっかりきたように沈んでしまう。
察するにどうやら、期待した誰かさんと間違えたらしい。とはいえ、目が合ってこうもあからさまにガッカリされたら、ガッカリされたこちらとしてはなんだかえらい癪な気分だった。
「ええと……こんにちは。いきなり、何? どうかしました?」
同じく、隣の鈴仙も癪だったらしい。頬をヒクつかせて憮然顔を向ける。
「ああ……すまない。あなた達だったか。その、そうだ。あけましておめでとう」
ぺこり。とりあえず挨拶される。
ぺこり。こちらもとりあえず腰を折った。
とりあえず、中へ。そう案内される。上り框で靴を脱ぎ、後をついていく。
「さきほどはすまなかったな。非礼を詫びよう」
前を歩く慧音は、そうわずかに横顔を向ける。
「いえ、まあわかってくれてるなら別に。こちらこそ、何やら忙しい時にすみません」
建物に入って暑苦しくなったらしく、告げられた鈴仙はマフラーをほどきにかかっていた。
「構わないよ。しかし、珍しい組み合わせだな。もっとも珍しいと言えば、あなたの方からの訪問自体そうなんだが」
「いやまあ。組み合わせも訪問も、どっちも私の本意じゃないんですけどね」
「ということは……もしやわざわざあの子の薬のために?」
そういうこと。と、鈴仙は首巻が無くなって軽くなった肩をすくめた。
「……そうか。それは重ね重ね申し訳ない」
尚更落ち込んだように、背中がうな垂れて丸くなる慧音。正月だっていうのに、なんだかねぇ……。
「して、そちらの用件は?」次に振られたのは私の方だった。目線をこちらにふらつかせる。「冬休みと知ってわざわざ寺子屋の方に尋ねてきたということは、新年の挨拶というわけではないのだろう?」
「まあね。幻想郷にそんな律儀な妖怪はいないし。石部金吉のあなたならともかく」
「褒められてるのか貶されているのかわからないな。いつもの副業をしに来たのなら、申し訳ないが今は冬休みだ。子供達はここにはいないよ」
「副業? 何それ?」
……案の定、さっそく鈴仙が食いついてくる。実は私はたまにだけど、金銭が要りようの際に里に降り、路肩の人形劇で日銭を稼ぐことがある――ちなみに、思いのほか好評をいただいている。特に幼い子供達に人気があり……って、こんな説明は面倒なうえに話が逸れるので、無視して慧音の方に続けた。
「私も永琳から頼まれたの。あなたの話を聞いてやってくれってね。薬を取りに来ないのは、何か悩んでいることがあるかららしいって聞いてるけど?」
「……そうか。さすがは八意氏、お見通しというわけか。しかしなぜ永遠亭の関係者でもないあなたが? 新しいアルバイトか? あなたも生活が大変だな」
「いや、勝手に貧乏なイメージもつのやめてほしいんだけど……。ま、それはともかく、せっかく来たからには有言実行しておきたいってわけ。だから、話してくれる?」
「そう、だな。そういうことなら……」
と、慧音はあやふやに視線を迷わせる。でも、やがてこんな腑抜けた調子じゃ自分でもダメだと思ったらしい。ぶんぶん首を左右に振ると、いきなりこちらに振り返る。そして切実な顔で訴えてきた。
「いや、むしろこちらからお願いしたい。恥ずかしながら今抱えている問題、私一人では答えを見出せそうにないみたいだ」
四
『一生懸命』
『力戦奮闘』
『汗馬之労』
『大器晩成』
何かというと、壁一面に飾られた習字の作品だった。
廊下を歩いて到着した部屋。コタツが設置されているような話しやすい場所を期待したけど、結局連れられたのはそこらの教室だった。この広い空間に女三人はなんだか寂しくてチンケだけど、さっきまで慧音がいたらしく暖房は効いている。一応畳に座布団もあるので、かろうじて客をもてなす体は為していた。
おそらくこの作品群は、学童らが書いたものだろう。といっても、今が正月だからといって書初めというわけではないらしい。一番上に横書きの題目があり、『今年を振り返る四字熟語』とある。
そういえば、慧音は今は冬休みと言っていた。今時の寺子屋はどうか知らないけど、普通考えて学校の冬休みといえば始まるのは先月のクリスマスあたりから。とすれば、これらの作品はそれ以前に書かれたんだろう――しかしまあ、小学生が大器晩成なんて掲げるのはのんきな話だけど。
「おや、書道に興味がおありか?」
壁から目を離すとちょうど、お茶を淹れに行った慧音が戻ってきたところだった。
「ああいえ、そういうわけじゃ……。でも、こうして眺める分には悪くないわね」
「そうだろうそうだろう。書の道は深いぞ。ただ一言の語句で、書き手の主張・感情を表現できる。筆圧の圧力、穂先のコントロール。それにより構築される躍動感ある空間美。かつその上に、技術の得手不得手より優先して介在する魂の余地がある」
この娘にして珍しいことに、やけに熱っぽく語る。せっかくなので話を合わせてみることにした。
「へえ。魂。書き手の気持ちが文字に表れるってこと?」
「如何にも。そこにはただの一つとして同じ文字など無い。字はその人の心を具象する。ここにも子供達のはっきりとした心が載せられているんだ。教育とは人間性の涵養だと、私は考えている。これほど心躍る遊びは無いよ。古来では、行書は芸術であると同時に華族の遊戯として嗜まれていた。子供達も初めは書道と聞くと堅いイメージがあったようだが、今は皆楽しんでくれている」
遊び……遊戯、ねえ。ふーん。
過去書道に遊びの要素が含まれていたという話は、なんとなく聞いたことがある。平安時代の貴族、特に女性にとって書道は、和歌や雅楽、香と並んだ教養だったとされる。貴族の淑女が嫁入りのために励んでいたということかしら。なるほどね。
でも私としては、やっぱりまだお堅い感じがするけど。まあ生真面目が生きがいみたいな慧音にとっては、唯一趣味らしい趣味なのだろう。子供達にも熱心に教えるくらいだし。それにこんなに饒舌な彼女は見たことが無い。
漆塗りの座卓を中心に、用意された桔梗色の座布団にぞろぞろと腰を降ろす。どうぞと出された茶菓子と引き換えるように、鈴仙は懐から紙袋を差し出した。
「はいこれ、お薬。とりあえず一ヶ月分だそうです」
「ああ。預かっておこう、一応」
「一応じゃなくて、ちゃんと渡してくださいね。はむはむ」
さっそく鈴仙は、前に並べられたモナカに手を出す。まったく、節操の無い。兎は雑食じゃなかったのかしら。
「でも、一体どうして今回は取りにこなかったんです? 今まで期日はおろか、時間だって毎朝同じ時間きっかりに来てたのに」
「ああ……うん。少し、な」
いきなり声を沈ませる。それはそれは今しがたの饒舌ぶりが嘘のようで、何か悪い物にとり憑かれたみたいだった。
「行かなかったのは……その、失念していたからだ。正直な話、それどころではなかった。こんな弱音を吐くのも、甚だ情けない限りなのはわかっているんだが」
「はあ。そりゃ、なんというか余計に珍しいですね。よっぽどの事なんでしょうけど、何があったの? 下着でも盗まれました?」
そんなくだらない事ならどれだけよかったか。そんな具合に、慧音は自嘲気味に苦笑する。
「よっぽど、か。いや、だが……どうだろうな。正直なところ、たぶんたいしたことじゃないんだ」
なんだか妙な言い草だ。私は聞き返した。「たぶん?」
「ああ。傍からすれば、きっとたいしたことじゃない。他人が聞いたら一笑に付されてもおかしくないことだろう。でも、私にとっては真剣な話なんだ。それはわかっている。わかっているんだが……」
座布団に正座の慧音は、ももの上の握りこぶしを固くする。
話の内容はともかく、今抱えている問題がこの娘にとって相当のことなのだろう。それこそ、薬を取りに行く習慣も忘れるぐらいに。普段取り乱すことのない彼女のこんな姿を前にすれば、その深刻さは十分すぎるぐらい理解できる。
「大丈夫、笑いなんかしないわ。だから話してみて。ね?」
少しでも話しやすくなるようにと、できるだけ優しく微笑みかける。するとおずおず、慧音は口を開いた。
「その……喧嘩、したんだ」
「ケンカ?」反射的に、鈴仙が返す。「誰と……って、あっ。もしかしてその薬の子?」
慧音は畳に向かって頷く。どうやら鈴仙は察しがついたらしいけど、部外者の私はそうはいかない。でもすぐに慧音は置いてかれたこちらに気づき、気を回してくれた。
「私の筆子(教え子)なんだ。この薬もその子のためのもので……」
ふむ、筆子。
「教師と生徒ってことよね、一応。でも、それなのにケンカ?」
「いや……わからない。ケンカと呼ぶと少し違うかもしれない。私が一方的に避けられているだけだから。それに、悪いのは私の方なんだ……たぶん」
台詞が後の方になるにつれて、自信でも無くすように慧音の声はしぼんでしまう。こうも絵に描いたような落ち込み様だと、さすがにいたたまれなくなってくる。
にしても、うーん。わからないとかたぶんとか、いちいち要領を得ないわね。
「ああ~……そうだ。きっとそうだ。里の人間にもよく言われるんだ。上白沢さんはたまに融通利かないところがあるって。おまけに、物腰のわりに童顔だって。こんなへそ曲がりで強情張りな妖怪なんて、いつ愛想つかされてもしょうがなかったんだ~、きっと~」
ついには外に連れ出された日射病みたいに、頭抱えて苦悶し始めてしまった――いやまあ、童顔は関係無いと思うけど……。
とにかく。ここは一つ、腰を据えて話をしてもらう必要がありそうね。うむ。
五
当の学童の少年。彼の名は《コヘイタ》といった。
年の頃は八歳。彼は、もともととても慧音に懐いていた。内気で自己主張の少ない子だが、授業でも熱心に取り組んでいた。親が仕事で忙しいため、休みの日も個人的にその子の家に行って世話をすることも少なくなかったという。要するに、傍から見れば姉弟のように親密だったらしい。
そんなに仲が良いのに、どうしてケンカになったのか。心当たりは無いのか、改めて訊いてみた。すると慧音は、先日の件だろうと語った。
「書道道具?」
年が明ける前のこと。慧音はその子にプレゼントを贈ったという。普段から学業を頑張っているその子のために、わざわざ見繕ったらしい。
「正確には硯箱なんだが。筆と墨と墨池が入っていて……。その子にあげようと思って町の古典品店で買ったんだ」
「わざわざ? なんだか上等そうね」
「椎の実筆というやつだ。当然、それなりには値が張る」
硯箱と聞くだけでも、高級なイメージなのに。
とにかく、渡したのは悪い物ではなさそう。
「で、実際それをプレゼントしたんでしょう? ということは、不仲になったのはそれが原因ってことでいいのかしら」
「いや、そういうわけじゃない……と思う。現にあの時、あの子は快く受け取ってくれた。はしゃぎながら喜んで……それに、約束もしたんだ」
「約束?」
「遊ぶ約束だよ。年が明けたら正月に一緒に、とな」
その時、《コヘイタ》はこのように言ったという。『正月にうちで遊ぶ約束、絶対だよ。せっかくこんなプレゼントをもらったんだから』、と。
「《コヘイタ》は、本当に内気なんだ。普段は目すらあまり合わせない。そんなあの子が、珍しく自分から誘ってくれた。だから書道道具が原因とは、とても思えない」
とはいえ、他に何か決定的と呼べる出来事があったわけではないらしい。冬休みに入った後日、一人慧音は寺子屋に教室の大掃除に来ていたのだが、そこにひょっこり例の《コヘイタ》がやってきた。そして、先日のお返しという体で、今度は慧音が贈り物をもらったという。
「お返しにプレゼントなんて結構じゃない。それは何だったの?」
「それがだな……」
慧音は一度言葉を切る。そして、難しい顔で告げた。
「ただの〝木の板〟だったんだ」
「え? 木の板……?」
「ああ。こう、まな板ぐらいの大きさで……」
身振り手振りで四角を表現する慧音。最後には親指を人差し指でつまむように、厚さまで表現してくれた。だけど……。
「ちょっと待って。板って、なんなの、それ?」
「だから、本当にただの木板だよ。いきなりそれを渡されたんだ。それも二枚」
いやまあ、何枚だろうが答えにはなってないんだけど……。といっても、悩んでいるのは当の慧音なのだから仕方ない。
なんでそんなものをお返しに寄越したのかしら? ただの木の板なんかを……。
正直なんでいきなりそんなものがでてくるのか、さっぱり見当がつかない。とりあえず、その時のシチュエーションを詳しく語ってもらうことにした。
*
それは年の瀬の先日。
慧音が《コヘイタ》にプレゼントをした日の、三日ほど後のことだったという。寺子屋の大掃除を一人で頑張っていた慧音のところに、ひょっこりその子がやってきた。先生、と声をかけられる。
『どうした? 今日は冬休みだぞ』
それはわかっている。《コヘイタ》は相変わらず目を合わせないで告げた。今日は先生に会いに来た、と。
『ははは。嬉しいことを言ってくれるな。だが、どういう用件だ? 一緒に遊ぼうという約束は、年を越してからだと思っていたが』
もちろん、その約束は忘れていない。今日来たのは別のことだ。
『何だったかな。その別の用とは。せっかく来てくれてすまないが、今は少し忙しい。かなり待ってもらうことになるが』
それでもいいか? と慧音は顔を覗き込んだ。《コヘイタ》はなんだかまごつきながらも、いや手間はとらせない、渡したい物があるだけだ。そのような旨を告げてきた。
『渡したい物? もしかして、それのことか?』
《コヘイタ》が背中に後ろ手に例の板を隠していたのは、彼が部屋に入った時から慧音も気づいていた。機先をとられたのが予定外らしく一瞬言葉に詰まったが、やがて意を決したようにそれを前に突き出してきた。
『な、なんだ? これは』
準備は、先生にお願いしていい?
『え?』
残りは僕が準備するから。その……楽しみにしてるから。じゃあ、また来年ね。
*
「……それで終わり?」
そうだが? と、慧音は小首を捻り返してくる。
「いや、そうだがって。早すぎでしょ。詳しくってお願いしたじゃない」
「もっともだ。だが、あの日のやり取りは今ので全て。これでも委曲を尽くして報告したつもりだ。無理やり板を渡されて、その子はすぐに帰った。どうやら気を使われたらしいな。こちらから引き止める暇も無かった」
「変な話ですねぇ。で、あなたはどう反応したの? 困ったでしょ、いきなりそんな物渡されたら」
横から尋ねたのは鈴仙だった。彼女はモナカを平らげすっかりご満悦らしく、プカプカと煙草みたいに口の端に楊枝を咥えている。
「まあな。ただその子の方に悪意が無いことだけは確かだった」
「そうなんですか? どうしてそう言えるの?」
「どうして? そんなもの、顔を見ればわかる」
慧音はさも当然にように言った。
「はあ……。そういうとこは自信満々なんですね。でも、それなら余計に事情がわからなくなるような気がしますが」
「だから困っているんだ。何か意味があるのは違いないはずなのだが……」
少し考えてから、私は尋ねた。
「その板というのは、詳細はどのような? まな板みたいなって言ってたけど、まさか本当にまな板そのものをもらったわけじゃないんでしょう?」
「違うな。あの板は全くの未加工の木材だった。まな板のつもりだったとしたら、表面がそれらしく多少の加工がされてるはずだ。木の種類がどうかは、私に知識は無いから説明はできないが」
「だいたいまな板なんて、そんなのいきなり渡されて喜ぶ奴いないでしょうしねぇ。というか、渡す方の頭が理解不能です」
鈴仙の汚い合いの手を無視して、私は慧音に質問を重ねる。
「でも、先日のお返しには違いないわけでしょう? それただの板らしいけど、プレゼント用の包装はされてたの? ほら、リボンとか」
「いや。無かったな、そういうのは」
ふむ。ということは。
本当に装飾も何も無いただの板切れを、ハイとそのまま渡されたということかしら。その人間、子供とはいえ、贈り物のなんたるかぐらい常識的な範囲で理解しているはずでしょうに。
とすると、さっきの会話で引っかかるのは……。
「その、〝準備〟というのが気になるわね」
「うん、ですよね」隣の鈴仙が首肯で同意する。「何の準備なんです?」
それがわかれば苦労はしないんだよ。そんな具合に慧音は嘆息する。
「無論、私もその言葉は引っかかっていた。まあ、年越しや新年の中元というわけではないのは確かだろうな」
「なにそれ。じゃあさっぱりじゃないですか。というか、あなたその時聞けばよかったでしょ。なんの準備をすりゃいいのかって」
「いや、それはそうなんだがな。でも、目が……」
「目?」
「その、あの子の目が凄く期待するような澄んだ目だったから。聞くに聞けなくて……」
「……は、はあ」
見守る鈴仙の額には汗が一つ垂れていたけど、どうやら呆れた末の産物らしかった。モナカの次は団子に手を出したので、後は勝手にやってくれということらしい。
「で、その子の機嫌を損ねたのはどうして? 今のところは、ちゃんとあなたに懐いているようだけど」
続けて軽く尋ねてみたのだけど。なぜかいきなり、慧音はじろりと睨みをきかせてくる。
「懐くだと? 飼犬のような言い回しはやめてくれ。私はそのような不誠実な心で人間達に接したことなど無い」
はあ。人間の子も豚の子も似たようなものでしょうに。面倒くさいけど、本音を言ったら話があさっての方向に行って余計面倒になる。とりあえず一つ肩をすくめてやると、慧音は荒い語調を引っ込めた。
「……しかし私とて、ただ無定見に手をこまねいていたわけではない。丸一日かけて、ひとまずの結論を出してみた」
「結論。どんな?」
「あの子のいう準備、という点についてだ。話の流れから私は、あの子の言う準備は正月に遊ぶという約束の件と考えた。とすると、だ。当然その木の板は、その準備のためのものと推測できる。私へのプレゼントという意味合いではなく、文字通りの材木ということになる。少なくとも、このままの状態で使用するわけではない。つまりこの板を加工することが、あの子の望む準備に該当する。そう判断した」
「ふむ。一応筋は通ってるわね。丸一日かけただけあって」
「……一言余計なのはこの際置いておくとしよう。では肝心の、その準備というのは何か? そして加工するとして、どのようにすればいいのか? さらに一日考えた結果、私は間違いないと結論づけた。それは〝絵馬〟だ」
「……絵馬?」
観戦していた鈴仙も聞き返す。「どういうこと? 絵馬って」
「さすがにあの子も、何の予告もヒントも無しに、ただの板切れを渡して準備などと言い出すはずがない。そこまで非常識ではない子ということは、毎日教えている私がよく理解している。つまりあの時の会話以前に、何か手がかりがあったのではないか、まず私はそう考えた。要は、その手がかりを見落としていただけというわけだ。そこで思い出したのが、私があの子に贈呈した出来事。つまり、あの書道道具だ」
「あ、そっか」鈴仙はポンと手の平を拳で打った。「筆と墨、そして木の板。二つが関係するのは、絵馬づくりってことね」
ふむ、なるほどね。
絵馬を描くには、最低でも墨と筆。そして、土台となる板が要る。確かに、丸一日――というか二日――かけただけあって、慧音の推測は理に適って聞こえる。プレゼントした書道道具。それを受けてリアクションされた木の板。二枚だったのは、自分と慧音の二人分ということだろう。そして、もともとの約束。ついでに時期が正月ということも考えれば、実にしっくりくる。
「とすれば、その子の言う準備というのは、板を絵馬の形に加工すること。そうあなたは推理したわけよね。で、実際その通りに板を削って絵馬の形にしたと」
「ああ、した。あの子の望む物が絵馬と考えれば、最後の『残りは僕が準備するから』の台詞も説明がつくからな」
「残り……あ、なるほど」鈴仙は、一人勝手に頷く。「絵馬の穴に通す紅白紐のことですね」
「うむ。だから私は、徹夜でその板を成形したんだ。だが……どうやら、それがまずかったらしい」
慧音はいよいよ困ったように、右手でうつむいた顔半分を覆った。それを受けて、鈴仙が聞き返す。
「えっ? それってどういう……」
「年が明けて、約束通り私は《コヘイタ》の家に会いに言った。その完成した絵馬の板と、きちんと自分の分の書道道具も持って……。会った時はあの子もとても嬉しそうだった。だが、絵馬の木型を見せた途端……」
態度が急変した、と。そういうことか……ふむ。
慧音にとって、その時のショックは相当だったらしい。感極まったのか、左手でもう半分まで覆い隠してしまう。おまけに小さく震えだす始末だった。
「……本当に、唐突だったんだ。血相を変えて泣きだして。わけもわからず面罵するばかりで、私が何を言ってもまるで取り合ってくれなかった……」
うーん……。何があっても型崩れしない四角四面だと思ってたのに。落ち込むとこんなに丸くなるなんて。
さすがに多少はかわいそうにもなってくる。なるべく優しいトーンをイメージして、話しかけてやる。
「その、ほら。確かによくわからないけど、相手は子供なんだし、一時の感情かもしれないじゃない。その子はもともとあなたに好意的だったんだし、とりあえず謝ってみれば? もう一度その子の家に行って」
「行ったさ。そのあと何度も。でも出てくるのはご家族の方々だけだった。あの子が言うには、しばらく会いたくない、と……。もう何がなんやらわからなくなってしまった。本当なら薬ももらいに行かなきゃならないというのに、悩んでいるうちにそれも失念して……。いったい何が悪かったのか……」
「そんなの、あなたの作った絵馬が下手くそだったからじゃないんですか?」
今にも泣き崩れそうな慧音とは裏腹に、鈴仙はすこぶる軽い調子で告げる。
「ば、馬鹿なことを言うな。事前に五角形の型を取って、寸分も違わず完璧に大きさを揃えて作ったんだぞ。板はもらった分しかないから、絶対失敗しないように予め設計図まで書いて……ええい、今見せてやる!」
そう翻ると、慧音は膝立ちですぐ後ろの文机――たぶん教卓――ににじり寄る。腕を突っ込んでしばらくガサゴソさせ、おもむろに取り出した物体を放り投げた。放たれたそれは、弧を描いてちょうど鈴仙の胸に着地する。
「すごーい。ちゃんと表面をヤスリで削ったんですね。きれいにツルツルじゃないですか」
どれどれ。せっかくなので横から覗いてみると……なるほど確かに、見事に均整のとれたシンメトリーの五角形だった。縁にはわずかに光沢も光って、まるで絵馬というよりは将棋の置物みたいだ。
どうだ、と慧音は勢いよく座布団に座り直す。
「さらに言わせてもらえば、この作業にも半日かけたんだ。大晦日にずっとやってたら、気づいた頃には年を越していた。これでも不出来と言うか」
「いやまあ、言いませんよ。むしろ出来が良すぎてちょっとひくレベルですし。でも、ですよ? だったら何でその子は泣いちゃったんです?」
ぐぬ、と顔を引きつかせる慧音。絵馬を馬鹿にされた時は眉を逆ハの字に逆立ちさせてたけど、たちまちふにゃりと歪んでしまった。
ふむ。どうやら……そうして今に至る、と。そういったところらしい。
慧音の悩みの全貌、とりあえずは把握できた。そして把握した上でその印象を語るとするならば……。うん、なるほど確かに、内容だけ聞けば少々おかしな話。ミステリ狂いの魔理沙が聞いたら諸手を上げて喜びそう……。
とはいえ、毎度毎度あいつの手を借りるわけにもいかない――というか、借りたところであの体たらくじゃ役に立たないだろうし。麒麟も老いては駑馬にしかずね。
とにかく、どうやらこれで思考材料は揃った。とすれば。ま、薬のためにも、少し真剣に思索してみましょうか。
五
「まず、はっきりしている点から明示していきましょう」
会話が途絶えて三十秒ほど。特別何か思いついたわけじゃないけれど、ひとまずそんなふうに切り出してみた。
「慧音。あなたの作った絵馬は、文句のつけようのない出来だった。にもかかわらず、子供は喜ぶのとは正反対の反応を示した。ということは、その子の望んでいたものは絵馬じゃない。慧音の推測は間違っていた、ということ。そうよね?」
あえてはっきり言ってあげたのだけれど、やっぱり本心では認めたくないらしい。でも他に頼るものも反論できることも無く、「うむ……」と渋々頭を垂れる。
「その結果、《コヘイタ》君は望んだ結果を迎えられず失望を買ってしまった。だとしたら、その子が本当に望んでいたのは何かしら? その辺、心当たり無い?」
「そんなこと、決まっている。私と一緒に正月を過ごすことだ。そのためにわざわざあの子の方から約束してきたんだ」
「そうは言うけど、実際どうなんでしょうかね」
横から口出しする鈴仙は、団子の櫛を口の端でぷらぷら遊ばせていた。うすうす感じてはいたけど、この娘は私ほど真剣に話を聞く気はないらしかった――だとしても、少しは空気を読んでほしいものだけど。
「泣くほど嫌われるって、よっぽどじゃないのかなー」
「べ、別に泣かせたわけでは……! 確かに、多少邪険にされたかもしれないが……」
「でも、帰れって言われたんでしょ? おまけにそれからずっと口も聞いてくれないんじゃ、蛇蝎の如くってやつじゃないんですかね?」
「だ、蛇蝎……」
なんとも遠慮のない比喩に、慧音はひたすらフリーズしてしまった。言葉のナイフで急所を一突き。おかげでフナみたいに口をパクパクさせている。
ハァ……まったく、好き勝手言いよってからに。おかげでフォローがめんどくさそう。どうして幻想郷の奴はどいつもこいつも言動が無神経なのだろう。
「ちょっと、あなた」
一言言ってやりたくなって、キッと一つ鈴仙を睨みつける。
「はい?」
「ものには言い方ってものがあるでしょ。切り身に塩やってどうするのよ」
「切り身? なにそれ。というか、私なにかおかしいこと言いました?」
鈴仙は目をぱちくり広げて、きょとんと首を傾げすらしている。このほうけ顔ときたら、兎というよりはブロイラーだった――というか、この娘、天然だったのね……。
……もういいや。天然は嵌まると怖いので、これ以上構わないとして。先にフォローの方を済ましておくとする。とりあえず、慧音の肩にポンと手を置いてやった。
「そんなに気にすることないわよ。一時のことじゃない。あなたのことを根っから嫌いなのなら、そもそも約束自体とりつけるはずないでしょう」
「……そ、そうか。そうだな。仮に嫌われたとしても、根本からというわけではないはずだな」
ほとんど自分に言い聞かせるみたいに呟くあたり、必死さが垣間見える。で、そこにまったく懲りない様子で、またしても隣の天然が口を出した。
「じゃあー。ただ単にその子、習字が嫌いなんじゃないの?」
「なっ、それこそありえん! 私があれをあげた時は、あの子は大層喜んでくれた。本当だ。本当なんだ!」
髪振り乱して訴える様は、いよいよ切実じみてくる。これは今日中に解決しないと、満月でもないのに角を生やしかねないかもしれない。
んー。でも、不思議ね。
これだけ必死に訴えるということは、慧音の言うことが間違いじゃないのは確か。ただのこの娘の願望じゃないはず。ならいったい《コヘイタ》は、何を考えていたのかしら……。
う~む。現実が推理小説のように、いつも都合のいい真相が用意されているわけがないけれど。でも、『事実は小説より奇なり』ということわざを、全て切って捨てることができないのも事実。このところ魔理沙に付き合わされた出来事から、それは私もすっかり、さんざんに学んでしまった。
ならいっそ、ミステリ的に突飛な角度で発想してみようかしら。例えば……
「プレゼントじゃなかったのかもしれないわね」
軽く呟いたつもりだったのだけど、それは意外なぐらい室内に響いた。ほぼ同時に二人が顔を上げる。
「その木の板は、あなたにあげるためのものじゃなかったのかもしれない。それ以外の目的だったのかも。つまり、物を渡すという行為自体に意味があった」
核心から話してみるも、どちらもいまいちピンとこない顔をしていた。先に慧音が訊いてくる。「どういう事だ、それは?」
「意味を含めた行為、すなわちメッセージってこと。一見おかしな行動は、実はあなたに何か別のことを伝えるためのものだった。その可能性もあるってこと。さらに平たく言えば、暗号ね」
よもや、とは思う。相手はたかが子供。そんな洒落た真似が思いつくものかと。
でも……使われたのは、本当にただの木の板。一見してプレゼントのお返しにはまるで見えない点が、信憑性を高めている。そう言えなくもない……。
と、いつしか腕組みしつつ思索に耽っていたところ……ふと、妙な視線に気づく。
「……なによ?」
視線の送り主は鈴仙だった。目が合うと、ぴょこん、兎の大きい耳が反応する。
「ああいえ。凄い真剣だなーと思って。もしかしてやっぱりアリスさん、こういうことわりと慣れてたり?」
「え? そんなつもりはないけど。慣れてて悪い?」
「いや誰も悪いなんて言ってないですけど……。ぶっちゃけ、ほんとは新聞のことあんまり信じてなかったから、なんだか意外だなって。普段わりとポヤンポヤンしてるのに」
「してたつもりは無いわよ……」
またしても勝手なイメージをもたれていたらしい。私のキャラは、クールで知的な深窓の淑女……てな具合で売り出してたつもりだったのに。これだから天然は嵌まると怖い。
「暗号、か」
ふむ、と慧音は鼻を唸らせて頷く。
「なるほど一理ある。確かに、よくよく考えてあの妙なシチュエーションは、その暗号の存在を誇張していたようにも思えなくも無い。だが……」
「何?」
「あの子がそのような突飛な案を考え付くかといえば、やはり疑問が残る。なにせ、まだ十歳に満たない子なんだ。そんな凝った趣向を凝らすだろうか」
「まあ、ね。言ったでしょ。あくまで可能性の話。ちなみに、そういう心当たりは?」
「そうだな……内気なあの子の性格を考えると、そういった間接的な主張はどちらかというと合っているようにも思う。普段話す時すら、ほとんど目を合わせない子だからな。感情を言葉で表現するのは不得手だから、あえてそのような手段をとったという可能性も無くは無いかと思ったんだが」
ふむ……。もし暗号だったのなら、〝なぜその子がわざわざ暗号を使ったのか〟といった謎も生じるけど。根がシャイだからという理由で、一応説明はつくわけか。
でもそれもまだ暗号だという確証が無い以上、なんとも言えない。今のところ特に論理的というわけでもないし。
うーん。ただの木の板、まな板大の……。
いっそ単純に考えたらどうかな。例えば……。
「慧音」
「む……! なにかわかったのか?」
いきなり、ずいと顔面を迫られる。おかげでこちらは、寄られた分腰を反らせることになった。
「い、いや。そんな期待の込めた顔で寄られても……。ちょっと確認したいことがあるだけなんだけど」
「何でも構わない。話してくれ!」
こっちが反ったぶん、さらに詰め寄られる。ほとんどキスでもしてしまいような距離だったので、遠くに視線を逸らした。
「いや、その。その子と最近新しいまな板が欲しいなんてこと話した、なんてことは……ないわよね?」
「……はあ? あるわけないだろう。なぜそんなことを訊く?」
期待に大きくしていた瞳は、なんだかみるみる胡散臭いものでも見るように変わっていった――華厳の滝のつららみたいな目つきとは、こういうのを言うのかしら……。
「あいや、単にあなたがもともとまな板を欲しがってたなら、普通にその子はプレゼントのつもりで贈ったってことになるかなー……と」
「……あのな、アリス氏」
ポンと肩に手を置かれると、不意になぜか親身な調子で呼びかけられた。
「私がまな板と言ったのは、あくまでそのぐらいの大きさだったというだけの例えだ。加工してない木の板の材木なのは明白だし、さっき言ったように贈呈用のリボンや包装も何も無い。百歩譲って本当にまな板をプレゼントするとしても、素材じゃなくて本物を用意するはずだろう。そもそも、うちにあるまな板はもう三年使っているが、むしろようやく包丁と馴染んできて気に入ってるぐらいだ」
「いや……ま、その通りなんだけどね」
うう、何でも構わないって言うから話したのに。そんなに正論を連発されても……。
「あなた本当に慣れてるんですか? んなもんいちいち訊かなくてもわかるでしょ」
一方の鈴仙も、えらく尖った視線を向けてくる。すっかり前言撤回したような呆れ顔だった。
「念のため確認しただけよっ、念のためっ」
「ああわかったわかったっ。いずれにせよ、だ」
くだらないやりとりを制するみたいに、一つ慧音は語尾を強くする。
「暗号でもなんでも、あの子がああした行動をとるには何か意味があるには違いないんだ。それたただのお返しなのか、もしかしたらさらに深い事情があるのかは定かではない。絵馬を作ったのは私の考えすぎだったのか、あるいは考えが足りなかったのか……。先日のお返しと考えるのが妥当としても、それがただの板切れなのはどうしてなんだ……?」
という慧音の自問ともぼやきともつかぬものを最後に、室内はしばし静寂に包まれた。
「あっ、そっか!」
不意に鈴仙が、虚空に目を見開く。
なんだかいかにも何か思いついたという風情……ということで、まあ、一応聞いてみる。
「何かわかったの?」
「いやぁ、何かどころじゃないですよ。私、全部わかっちゃいました」
「ほ、本当かそれはっ!?」
いきなり、慧音はバネでも仕込んでたみたいに座布団から飛び上がる。
この娘がこういう反応をするのは当然として、正直私は……ううん、どうなのかしら。この鈴仙、すっかり得意げに顎を立ててるけど――ついでに耳もピョコピョコ喜んでいるけど。この娘の頭を疑う気は無いけど、そんな簡単に解き明かせるものかしら。とりあえず、事の成り行きを静観することにする。
ほとんど詰め寄るみたいに聞き返す慧音に、「ええ」。鈴仙は余裕げに頷いた。
「まず、これだけは言えます。やっぱりその子は木の板を、まな板のつもりで渡したんですよ」
「まな板? いやしかし、何度も言うように私はそんな物欲しいとは一言も……」
「もちろん、ただのプレゼントのお返しってわけじゃないわ。さっき話してましたよね、メッセージだって」
「そうなのか! やはり物そのものではなく、渡すこと自体に意味があったんだな」
「うふふ。ポイントはね、《コヘイタ》君が小さい子供っていうことです。八歳ぐらいなんでしたっけ? それならそれで、そのぐらいの男の子の、男の子らしい気持ちになって考えなきゃ駄目なんですよ」
ふむ。男の子の気持ちになって考える、か。
なにげに新説。これは本当に期待できるかも……と、先を促してみる。
「つまり、その子はどういう気持ちで木の板を贈ったと?」
「それはですね……」
もったいぶるように間を空ける。やがていきなり、ビシッと慧音の鼻先に指を突きつけた。
「慧音さん、その子はあなたを好きだからです!」
…………。
はあ?
「何言ってるのあなた?」
「ふふん、単純な話です。《コヘイタ》君は、ちょっとばかし思春期をこじらせたってわけですよ。かねてから慧音さんに恋心を抱いていた彼はプレゼントをもらった時、衆目を気にせず喜んでしまった。浮かれるあまり、あろうことか好きな人の前で隙を見せてしまったんです。きっと不覚だったんでしょうねぇ。その子はそれが恥ずかしかったんじゃないでしょうか」
「……いやそういう意味じゃなくて。なんで好きだの恋心だの、そんなトンチンカンな話になるの?」
心底あっけにとられた顔で訊いてやったのだけど、鈴仙はかえって自信満々に返してきた。
「だから言ってるじゃない。その子の気持ちになってみれば、一目瞭然。そのぐらいの男の子は、年上のお姉さんに憧れちゃいたくなる年頃なんですよ」
「それにしたって、慧音は妖怪でしょう。里の人間もみんな知ってる事よ」
「満月が出てないなら人間なんでしょ? だいたい妖怪だとしても、人が誰かを好きになるのに境界なんてないもんです。たとえそれが人間と妖怪だろうが、ハブとマングースだろうがね。昔の人は言いました。私たちが天から心を授かっているのは、人を愛するためだ、と。あなた、自分ちの本棚恋愛小説ばっかりのくせに知らないんですか?」
「いや、そんな一般常識みたいに言われても……。てか、何で私の家の本棚知ってるのっ」
「え? それこそ一般常識ですけど。なんせ新聞に書いてありましたし」
新聞……あの天狗か。
書く記事に飢えてるからって勝手に他人のプライバシーを公表するなんて。マスメディアの風上にも置けない奴。今度会ったら、出会い頭で人形を爆発させてやる。
「あれは……あれは昔の捨てれないからとっておいてあるだけなのっ」
埒が明かないので、つい声が大きくなってしまう。おかげで余計に言い訳ぽくなってしまった。こっちの興奮を余裕で受け流すように、鈴仙は肩を――同時に耳を――すくめた。
「ま、あなたの趣味はどうでもいいですけど。思春期の男の子は繊細ですからねぇ。気になる異性には一片たりとも弱味をさらしたくないものなんですよ。恋のプロの私が見るに、今の《コヘイタ》君はすでに恋愛感情形成プロセスにおける後期に差し掛かっています。第一の結晶作用が始まる状態、すなわち相手を理想化して自分を卑下してしまう段階です。些細なことに後悔し、子供だから気分変動の原因にも気づけない。結果周りに当り散らしちゃうって寸法ですよ。いやぁ、思春期にありがちな負のスパイラルってわけですね~」
もうなんだか好き放題言っている。なるほどどうやら鈴仙の頭の中は、履いているジャージさながらのピンク色らしい。正月早々おめでたい話だった――いや、兎は年中発情期だから時期は関係ないのか。
勝手にいろいろ不躾に決め付けられて、先方はなんとも思わないのかしら……と、慧音に目を配ったのだけれど。意外にも当人はいたって涼しい顔をしていた。
「しかしだ。その子が私を好きだとして、なぜあの板に繋がるのだろうか。状況に関連する要素がどこに……ん? 何だその顔は?」
じっくり見ていたせいか、訝しげに睨まれる。
「……いや、なんで平気なのかなって。失礼に思わないの? 好きだのなんだの言われて」
これだけ四角四面の堅物なんだから、そういった話には抵抗無いと踏んでたんだけど。そんなこと言われたらひたすら憤慨するか動揺するかだと思ったのに。その割には慧音は将棋で難しい手でも迫られたみたいに、顎に親指を当てて真面目に悩んでいる。
「む? 別に驚かないが。仲はよかったと話しただろう。相応に好かれていてても不思議じゃない。そもそも、嫌いな相手と私事と取り付ける者などいるまい」
……どうやら好きの意味を履き違えているらしい。そんなことだろうとは思ってたけど。
「あらあら。当の慧音さんがこんな体たらくじゃ、彼の初恋も実る可能性は薄そうですねぇ。哀れ少年の純情は、磯のあわびの片思いで終わるのです。せつないわぁ~」
と、もじもじ体を揺らす鈴仙はせつないどころか、すっかり水を得た出歯亀だったのだけど……というかこの宇宙兎、どこでそんな言葉覚えたのやら。子供向けの恋愛漫画でも拾い読みしたのかしら。
ううん、にしてもこの娘の推理……どうなんだろう。
個人的に恋だの愛だの浮ついた単語は、飛び交うだけで呆れて家に帰りたくなる気分なのだけど。でも冷静に考えれば、あながち間違っているとも言い切れないのかな。
んー……。人間が妖怪に恋、ねえ。
本当にありえるのかしら? そんなもの、ミジンコが三葉虫を見初めるようなものでしょうに。
なんだか論理的に否定できないのが悔しいけど。とはいえ反論するような根拠も無い。なにせ自分はそういった感覚はとっくの昔に壊死しているし、慧音に至っては辞書程度の知識しかないらしい。誰も言い返せない以上、ここは大人しく話を聞くしかないのかもしれない。
「まあ、とりあえずそれでいいわ。で、仮にそうだったとして、それがどうして木の板になるの?」
「ここまでくれば自然とわかるでしょ。照れ隠しですよ」
「は? 照れ隠し?」
首を捻り返してやると、鈴仙は朗らかにまくしたてた。
「ほらぁよくあるじゃない。ついつい好きな子をイジメちゃう、年頃相応の男の子の心理。要は恥ずかしかったんですよ。自分が好きだとばれたのかもしれない、そう思ったからわざと相手の嫌がることをして本心を隠そうとする。そういうやんごとない心の事情があるわけ。とはいえ立派なプレゼントをもらったんだから、こちらも何かお返しはしなきゃならない。そこで悩んだ末、彼の選んだのがその板ってわけなのよ。この板には、ちゃんとその子のメッセージがこめられていたんです」
「ど、どんなメッセージなんだ?」
ごくりと一つ喉を鳴らして、慧音が尋ねる。そんな反応は、余計に鈴仙の得意気を助長させたらしい。「いいですか?」と、ピンと肩の高さに人差し指を立てる。
「そのまな板は、慧音さんそのものを指していたんです。すなわち……」
慧音は、固唾を呑んだ。
「すなわち……?」
「すなわち、〝胸がまな板〟だと!」
……駄目だ、こりゃ。
とりあえず、はっきりしたことが一つだけ。どうやらこの鈴仙に推理の才能はさっぱりだということ。
「胸が……まな板? どういう意味だそれは?」
で、それをわりと真面目に訊き返す慧音。おかげでさらにずっこけそうになってしまった。
「だからですねぇ。その子は本心を隠したいあまり、心無い主張を繰り返しているんです。要するに慧音さんの事を、幼児体型で色気が絶無の女だと――ふぎゃっ! い……いきなり何すんのよ!」
と、罵られたのはどうやら私らしかった。あんまり聞くに堪えなかったのか、どうやら私は――というより、私の右手が――いつの間にか座布団ごと鈴仙をひっくり返していたらしい。
右手が勝手にやったことなので、謝る道理はさらさらない。代わりといっては何だけど、床に這いつくばる鈴仙ににこりと微笑んでやった。
「お疲れ様、うどんげさん。あなたもう黙ってていいから」
「……うっ、うどんげって呼ぶのはやめてくださいっ!」
そういえばこの兎は、主人から与えられた渾名が気に入らないのだった。すっ転ばされたことよりそっちを気にする辺り、相当。
「で、結局どういう意味なんだ?」
成り行きを眺めていた慧音は、一人首を真横に傾げていた。
「気にすることないわ。この娘の親切心よ。考えすぎて疲れた私達の頭を、冗談でほぐそうとしてくれただけ」
「む。そうなのか……」
言いつつ定位置の座布団に戻る顔は、わかったようなわからないような表情だった――まあわからなかったろうけど――。ただ寂しげに床に戻す視線には、ちょっとばかり悲壮感を感じないでもなかった。
無理も無い、か。期待はしたももの、結局肩透かし。振り出しに戻されたわけだし。聞く人が聞けばくだらない悩みかもしれないけど、彼女にとっては本当に真摯な問題なのね。
魔理沙の薬の件もある。やっぱりここは、私がなんとかしなきゃ。うん。
鈴仙の推理――なのか妄想なんだか――は、聞けば呆れるくだらなさ加減だったけど。ただ一つだけ興味を引かれた点があった。それはその子供の気持ちになって考えてみる、ということ。
私はその《コヘイタ》の事を、今の慧音の話でしか知らない。人となりはもちろん、性格、趣味趣向すらも。
そんな相手の考えていることなんて、わかるものかしら……。
ふと、壁に貼られた四字熟語の作品達に目をやった。
そういえば、さっき慧音が言ってたわね。字はその人の心を具象する、とかなんとか。
なら、その子書いた字を見れば……彼の心も見えてくるのかな。
「ねえ、慧音さん」
「何だ? 話せることは全て話したつもりだが……ん? 作品がどうかしたか?」
私の視線につられたのか、慧音もそちらに目をやる。目的のそれを探しつつ、尋ねた。
「その、《コヘイタ》君のはどれ? 彼も書いたんでしょ?」
「ん? ああ、勿論。そこの左のやつだ。だが……」
だが、なんでそんなことを訊く? 続きの口はそんなふうに言いかけたのだけど。とはいえ、こちらもさして理由があるわけじゃない。
彼の書いた字を見れば、心も見えてくる。本当にそれを真に受けるわけじゃない。でもなんとなく、その《コヘイタ》という少年がどういう子供か知れると思ったからだ。慧音の言うように心とまではいかないけど、筆跡で性格分析ができるように、人の記する文字というのは少なからずその者の個性が表れる。なら第三者的にでも、なにかしらの印象は感じられる……はず。
慧音が言った左のやつ……は、ちょうど一番下列の隅を指していた。さて、彼はどんな言葉を残したのか……。
『一上一下』
……いちじょういちげ?
ふむ、おかしな言葉を書くのね。というか、なんで?
確か、『今年の反省』ってお題だったと思うんだけど。うーん? 反省というには、なんかずれてるような。《コヘイタ》君は慣用句も使い分けられないトンチンカンなのかしら……。
「で、どんな意味でしたっけ?」
隣の鈴仙はトンチンカンな顔で訊いていた。面倒だったけど、代わりに慧音が答えてくれた。
「その一見の通り、上げたり、下げたりすること。転じて、その場に応じて適切に処理するたとえのことだ」
そんなことも知らないのか、と教師らしい呆れた視線をくれたけど、鈴仙は鼻笑いして肩をすくめただけだった。慧音が典型的な教師なら、こっちは典型的な落第生なのかもしれない。兎は卑屈な生き方しかできないから困る。
それはともかく。何か《コヘイタ》のことがわかるかと思ったけど……うーん。余計に混乱してしまった。一上一下というと、どちらかというと反省というより目標の方がしっくりくる気がするんだけど。
しかも、こうして眺めてると……ううむ。こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、字が汚い。
いや……この際ハッキリしましょう。これはヘタクソだ。
『一』の字は……まあ横に一本引くだけだからともかく、『上』や『下』が特にひどい。一画同士が接する部分が、接するどころかどこもかしこも突き抜けている。『上』というよりは『土』だ。留めや払いみたいに部分的な技術はなんとかなっているけど、それもかろうじてってレベルだし。それになんだかバランスも危うい……。なんていうか、二次元というよりは三次元で、書道というよりはピカソだった。まあ、八歳という年齢を考えれば、こんなものなのかな?
いやでも、こんな簡単な漢字もまともに書けないなんて。確かに、個性的と言えば個性的なんだけど……。いや、一歩間違えれば才能に満ちていると言えなくも無い、のかしら……。
そんなふうになんとも言えない出来だったものだから、私はしばらくの間閉口してしまっていた。自分から見せてくれと言った手前どうコメントすればいいのか、困惑していたところ、鈴仙が実に客観的な意見を出してくれた。
「しかしまあ、随分すっとこどっこいな作品ですね」
……いや、まあ。この娘の場合悪気は無いんだろうけど。
慧音は特別怒鳴りはしなかった。代わりに、辛気臭い面持ちで溜め息を放つ。
「初めはこれほどひどくはなかったさ。だが授業でやるにつれて、次第に荒が目立ってきてな……。特にご覧の通り、ここ最近は調子が悪いようだ。だから家でも気軽に練習できるようにと思って、書道道具を贈ったんだ。この寺子屋はさほど予算が無いから、道具は備品扱いで普通家には持ち出せない。組ごとに使いまわしているのが現状だからな。せめて自分用の道具があれば、家庭でも練習できると思ったんだが」
「練習するほどひどくなってってるんですか? へんなの」
「筆というのは、一度変な癖がつくとなかなか直らないものだ。楽器の弾き方と同じだな。矯正するには集中して練習するしかない」
「ふーん。それで正月にその子の家で一緒に、ていうのがあなたの目論見だったわけね。それで習字道具をプレゼントしたと」
「そうだ。というか、目論見じゃなくて予定と言ってくれ。そんな不穏当な言葉じゃなく」
「なんにせよ、それがなんで機嫌を損ねたんでしょうね。案外、その練習だか特訓が嫌で癇癪起こされたんじゃないんですか?」
言われて、ムッと慧音は不服そうに眉をひそめる。
「さっきも言ったろう。私がプレゼントした時は、ちゃんと喜んでくれたんだ。嫌なはずがない。確かに、最近はスランプのせいか、紙に向かう時はあまり楽しそうには見えなかったが……。しかしもともとあれだけ楽しくやってたんだ。単純な憶測だけでものを言うのはやめてもらいたい」
「いやまあ、推理なんだから憶測しか言えませんし。だいたい習字じゃないんなら、やっぱり嫌いなのは先生の方じゃないですか」
「う……。そ、それも言わないでくれ」
「いや、んじゃどう言えってんですか。……どうします? このままじゃ埒があかないけど」
最後はこちらに困ったような表情を向ける鈴仙。もうすっかり帰りたがっている顔だった。
この娘の用は薬を届けるだけだろうから、もう済んだんだろうけど。でも、こちらはそうはいかない。私は私で、魔理沙の方に届けなきゃならないんだから。なにせ二十万もの大金がタダになるなら、なんとしてもそうしたい。我ながら主婦みたいな考え方だけど。
というわけで、とりあえず私の分のモナカの皿を鈴仙の方に寄せる。すると案の定、鈴仙は「きゃあん」と黄色い声で喜んでくれたので、どうやら少しは時間が稼げそうだった――この変わり身ようときたら、先刻すっ転ばされたことなんて百年先に置き忘れてきたらしい。
嫌いになったのは、習字なのか。それとも、慧音本人なのか。
どちらかだとしたら、それはなぜか。《コヘイタ》が憤りを見せた理由は……?
正直、まったく見当もつかないという印象じゃない……気がする。
きっと事は凄く単純で、何か少しのズレがあるだけなのだ。そこには積み上げる論理も、過程から見出す演繹も必要無い。求められるのは、たった一つのインスピレーション……なのではないか。
そう、インスピレーション。その子が一体何を考えていたのか、それさえわかれば……。
もう一度、《コヘイタ》の作品に目をやる。
彼はどんな気持ちで、これを書いたのかしら?
…………。
いや……待てよ。
ふと、一瞬何かが光った。それは目に見える輝きではなく、脳内に差した可能性という光だった。
まさか。いやでも、もしかして……。
「ねえ、慧音」
名前を呼ぶと、慧音はすっかり憔悴した顔を寄越す。
「む……。まだ何かあるのか」
「確認したいの。あなたがあげたその書道道具。いや、硯箱って言ってたわね。中身は?」
慧音は一瞬、こいつは習字もしたことがないのかと慄然とした顔を見せたけど、さすがに失礼だと思ったらしい。すぐに引っ込めて真面目に答える。
「普通だよ。筆と墨、あと墨池がセットになっている」
「半紙や文鎮なんかは無しってことよね?」
「普通はそうなるな」
「そう。じゃあ、もう一つ。その子、ここ最近習字の調子が悪いって話だけど、具体的にいつから?」
「いつ? いや、はっきりとは言えないが、半年から一年前ぐらいだと思うが……」
なぜそんなことを訊くのか。たぶん慧音は今そんな顔をしているんだと思う。でも答えてやる余裕は無かった。すでに私の右脳左脳は脳梁を介し、めまぐるしい回転を始めている。
基盤に電気が走るように。あるいは、溜めていた馬の脚を解き放つように。思考は階乗的な勢いで稼動する。頭の中の弁が開かれる感覚。加速度的に処理と理解を折り畳んだ私の脳内は、迅速に一つの結論へと導いた。
……そうか。そうだったんだわ!
複雑に見えるものほど、実はシンプル。その逆も然り。そして、その逆も。
話に聞く《コヘイタ》の人柄。慧音が勘違いで板を加工して怒ったこと。習字がスランプだった理由。そして彼の書いた、『一上一下』という言葉……。
うん! この感触、たぶん合ってる。確信って言っていいかもしれない。そんな感覚。
でも、だとすると……〝こっちの事実〟、ひょっとして慧音は知らされてない?
「ちょっといいかしら、うどんげさん?」
あえて渾名で呼んでみる。すると呼ばれた方は、耳にひんやり青筋こさえて凄んできた。
「あのねぇ、うどんげ言うなって何度言わせれば……」
「その子にいつも渡してるっていうそれ、何の薬なの?」
「えっ、薬? ……ちょっと、なんで今そんなこと聞くのよ」
「いいから。教えてよ。お願い、いいでしょ?」
両手を合わせて、ちょっと下手に出る振りをしてみる。でも通じないらしく、鈴仙はハハッと空笑いした。
「残念でした。生憎だけど、こういう話は患者の親族の人にしかするなと師匠にきつく言われてますから。守秘義務ってやつでね。というか、ここ来る時も似たようなことを言った気がしますが」
「ああ、そうだったわね。そういえば」
と惚けた振りをしておくけど、もちろん覚えている。今のは一応の再確認だ。
「まあもっとも、そんな決まりが無いとしても、今の私の気分的にあなたに教えたくなんてないですし。だいたいそんなこと、今関係無いでしょ」
「親族ってことは、その子の家族だけってことよね。ということは、あなたは知らないの?」
今度は慧音の方に尋ねた。いきなりで面食らいつつも、「ああ」と慧音は告げる。
「薬の受け取りはしているが、病気については何も聞かされていない」
「先生のあなたでも? 一応立場は担任ってことになるんでしょう? なら知ってて当然なんじゃないの?」
「無論、私とて実情は把握しておきたかった。あの子は大事な教え子なんだ。本来なら立場上守秘義務の範囲内で、当然知っておくべきなのだが……。しかし、八意氏に直に言われてはな。私に専門的な知見が無い以上、引き下がる他あるまい。ただ……」
「ただ?」
「ただ八意氏からは、命に関わるような重病ではないとだけは聞いている。だから決して心配するようなことではない、と。事実、あの子は他の子達と野外で運動もするし、様子を見た分にはさほど生活に支障は無さそうだった。今となってはさほど気にしてはいないな」
やはり。思ったとおり。この娘は病気のことは何も知らないんだわ。そもそもそうでなければ、プレゼントに書道道具なんて渡すはずがないだろうし。
どうやら、今日の私は調子がいいらしい。偶然の閃きとはいえ、普段ミステリ読んでる時だって、こんなにぽんぽん考えが湧いてくることは無いのに。不謹慎かもしれないけど、なんだか楽しくなってきた。
でも、調子に乗りすぎるのは禁物ね。ここはとりあえず、私は私の役目を全うしておくべきだわ。
「わかったわ」
「……ん? 何がだ」
やや間を置いて発言したせいか、慧音の反応はやや遅かった。これまでの議論で憔悴していたせいもあっただろう。でも何がと訊かれれば、答えは一つしかない。
「全部よ」
「えっ?」
「その子が急に態度を変えた理由も、お返しの板切れの意味もね。全部っていうのは、そういう意味」
もはや全ての点が線になり、線は連なり面となった。あとは、この口で言語化するだけ。それなら……うふふ。もう容易いことね。
「だから、もうそんな顔青くしなくても大丈夫。まだ仲直りには間に合うわ。きっとね」
・・・・・・Leading to the true part
相変わらず答えは解らないがとっても面白いです。ここからどう転ぶか、答えが何なのか今すっごいワクワクしています。
少し落ち着いてよく考えたら後半行ってきます!
わかりそうでわからん…
答え見てきます