短いというには長く、けれど長いかと問われれば短い物語。
それは、たった数年の物語。
それは稗田ではない、阿求の物語。
幻想郷縁起に刻む、最後の稗田。
時間は限りある。
袖を捲り、たすきを締めて、生き急ごう。
笑って死ぬ。それだけの為に。
稗田ではなく。九代目の御阿礼の子でもなく。
ただ一人の自分として生きる。
さぁ、これで終いにしてしまおう。
これぞ華の、正しき有り様。
この生き様こそ、阿求式なり。
「それでは当代、九代目、稗田阿求を以て、転生の儀の終了をここに宣言します」
迷いのない声で、阿求はそう告げた。
それは、阿求が二十二歳のことであった。
阿求は、幻想郷縁起の編纂を今までの代よりも早く、二十を終える頃には終えてしまった。
そしてその編纂の終了と共に、阿求は幻想郷縁起を公開した。歴史や妖怪に興味のある者は集い、そうでないものは人混みを眺めに、連日大勢の人が稗田の書庫に押しかけていた。
そこで、阿求は問うた。
―――この幻想郷縁起を、まだ私が書き続ける必要はあるか―――と。
妖怪は天敵と言える。だが、最近ではそればかりではない。礼を持って接すれば友好的な妖怪もいる。襲われれば、守ってくれる妖怪さえいる。それに、襲われたといって命を失うことなんてほとんどないだろう。その点で言うなら、妖怪よりも餅の方が怖いくらいなものである。
今、幻想郷はそういう穏やかなバランスを保っているこの状況で、何も一人、歴史を記し続けることもないように、阿求には思えたのだ。
死にたいと思ったわけでもない。ただ、疑問があった。自分が続ける意味が、本当にあるのか。そしてもしも意味がないのなら、自分は何によってこの世に縛られているのだろうか、と。
問いに対する答えは、一ヶ月の後に長老の口より阿求の耳に届いた。
―――阿求様の望むままに。―――
この答えに、阿求は戸惑った。それはどちらとも取れる。必要とも、不必要とも。
その答えを、阿求は考えた。これからの選択。続けるべきか、終えてしまうべきか。
桜の散る頃に考え始めたそれは、新らしい桜の咲く頃まで続いた。
縁側をふらりと歩いている時に、阿求はふと、桜の花を見て思う。
―――花は散って、また咲く。その有り様は、私に似ているのかもしれない。―――
と同時に、別の思いも過ぎる。
―――けれど、御阿礼の子という花は、新たに咲くまでに時間が掛かりすぎる。憶えているものなどいないに等しい。それだというのに、さも咲き続けてきた花のように威張るというのは、無粋だ。―――
花ならば、他にも咲いている。何も自分のような花ばかり、大切にされる理由はないように思えた。
―――そう。かつては他に、私のようなことのできる者がいなかった。けれど、今は違う。読み書きを習う場所もあり、後に残せる者は他にもいる。なら、そろそろ散っても良いのかもしれない。―――
阿求は自覚していなかったが、思考は常に、終わる方向に傾いていた。誰かが背を押せば、阿求は終わりを選んでしまうほどに。
そしてその背を、妖怪が押した。
「答えは出たかしら。阿求」
「ひゃん!」
考え事に夢中だった阿求は、突如目の前に現れた紫に驚き、腰を抜かした。
「ゆ、紫さん……お、驚かさないでください!」
「ふふふ、ごめんなさい」
全然反省のない笑顔で、紫は笑う。口元を扇子で隠す仕草が、どこか艶っぽかった。
「そろそろ、時間でしょう。決まったの? 阿求」
「いえ……まだです」
申し訳なさそうな顔で阿求は答える。
二人の間に、穏やかな風が吹く。
阿求が悩むことの出来る時間は、もうあまりない。何せ、転生の儀が間に合わなくなってしまうからだ。我が儘を言って、今は延期という形を取っている。既に準備は整っているので、阿求の選択次第では、すぐに取りかかれるようになっているのだ。
「なかなか難しいです」
俯いて笑う阿求の顔に、紫は自身の顔をグッと近づけた。
「ねぇ阿求」
「ひゃう!」
接吻直前という接近ぷりに、阿求は顔を真っ赤にして飛び退いた。
「にゃにをにゃしゃいますかっ!」
湯気出そうだった。
けれど、それを気にせず、紫は言葉を続ける。
「時間切れじゃ、あなた、残りの人生で後悔をし続けるわよ」
浮かんだ色は、悲しみと、心配であった。
「……え?」
真っ赤な顔が、すぅっと冷めていく。けれど、何を言われたのか判らない。
そんな顔の阿求に近づき、そっと頭を撫でた。
「ちゃんと自分のことを見ないと駄目。もうとっくに、結論は出てるじゃない」
「……えっと、そうでしょうか」
判らない。阿求には、自分の結論というのが判らない。
誰かの為。そう言った考えが邪魔をして、答えが見えなくなっていたのだ。
「あなたは自信がないだけ。だから、時間に結論を出させようとしてる。でもね、それはいけないわ。時間に解決を任せたら、それはあなたの意志じゃない。自分の意志じゃない決断じゃ、華は美しく散れず、醜く朽ちるだけ」
それは嫌だ。そう、阿求は反射的に思った。
けれど、ならばどうすれば良いのかといえば、答えを出すしかない。その答えが、阿求にはまだ判らなかった。
焦りが出て、思わず目が潤む。
「私は……どうしたいんでしょう」
「それはあなたに問いなさい」
突き放したような解答。でも、紫の目は優しかった。
「紫さんは、判っているのですか?」
「良く見えるもの。多分、知らないのはあなただけ」
ふぅと温かな溜め息を吐いて、紫はそっと阿求の頬を撫でた。
「もう、理由に悩まなくて良いの。これからどれだけ時間を掛けて考えても、それは全て嘘。あなたの心は、もう道を選んでいるわ」
見守っている。どんな道でも。そんな言葉が、紫の言葉には込められているように思えた。阿求は思わず、目の前の妖怪に抱きつきたくなった。が、それは堪える。
自分の中に答えがある。それは判った。でも、たった一つ。阿求は不安を覚えたことを訊ねた。
「……私が選んだその道は……正しい道ですか?」
自分が出した答え。それは本当に正しいものなのか。それが判らず、怖かった。
その質問に、紫は不思議そうな表情を浮かべる。
「正解と不正解が、ないと駄目なのかしら?」
それは、何気ない言葉だった。けれど阿求にとっては、それが答えだった。
翌日、阿求は自らの心を決めた。そして、それから数週間後、阿求は転生の儀を止めることを告げた。
まだ、胸がどきどきとしていた。
宣言から既に十日が過ぎたというのに、胸が痛いほどに高鳴っている。悩んでいる時はそうでもなかったというのに、いざ結論を出してみれば、すごいことをしたのだという思いが強かった。後悔や恐れは、勿論湧いてきた。けれど、後悔よりも満足感の方が、今はずっと強かった。
浮かれたような、照れたような、緊張したような、複雑な感情。顔が緩み、頬に朱が差し、目が潤んで、鼻の奥が詰まる。
そんな浮ついた頭で日々を過ごしていた。そして普段通りに厠に出たところで、普段は存在しないスキマから上体を覗かした妖怪と遭遇した。
「こんにちは」
「……こんにちは」
驚きで反応が数瞬遅れた。
紫は嬉しそうな顔で、阿求の表情を眺めている。
「すっきりした?」
その質問に、思わず阿求は顔を真っ赤にした。
「と、トイレのことですか?」
「誰がわざわざ便通を訊ねますか」
「あたっ」
ピシリと扇子で頭を叩かれた。
「い、今の勘違いは紫さんが悪いと思います」
「……あら、厠から出たばっかりだったのね。それならしょうがないわね」
「気付いてなかったんですか」
紫は納得したようで、うんうん頷いた。謝る気はないらしい。
厠の目の前で話すのはあまりになんなので、とりあえず二人は阿求の自室へと移動した。紫もスキマから完全に抜け出し、スキマを椅子代わりにしてのんびりとしていた。一度で良いからあれに座ってみたいなぁと阿求は思っていたが、たぶん腰を下ろした直後にスキマに落とされるだろうと思い、頼んだことはなかった。
「で、もう一度訊くわよ。どう、すっきりした?」
改めて訊かれれば、何を訊ねられたかすぐに判った。
「はい。とても、すっきりしました」
「それは良かったわ」
この間と異なり、紫は無邪気に微笑んでいた。
「あの、紫さん」
「ん?」
少し緊張しながら、阿求は紫に訊ねる。
「私は私の心に、従えましたか?」
「従えたと思うわよ。今、良い顔しているもの」
紫の言葉は、一々阿求の心を軽くした。
「良かった」
「ふふ。さぁね、とでも言った方が良かったかしら。残念なことしたわ」
嫌らしい笑みを浮かべ、くすくすと笑う。
意地悪な人だなぁと、阿求もくすくすと笑った。
しばらく二人は、実のない雑談を続けた。そこで不意に、紫が話を変えた。
「あなたが死んで、また生まれたら……そうね。橙の式にでもなってもらおうかしら」
あまりに突拍子もない言葉に、阿求は一瞬魂が抜け掛けた。
抜け掛けた霊魂を必死に手繰り寄せて我に返ると、阿求は形容しがたい悲鳴を上げた。
「ひゃーー……」
驚きすぎているのか、めちゃめちゃ棒読みで、でもやたら感情のこもった変な悲鳴であった。
そのへんてこな阿求の様子に、思わず紫は吹き出してしまった。
紫の笑いと阿求の混乱が引くまで、一分近い時間が掛かった。
「冗談、ですよね?」
「あら、私は本気よ」
「わ、私がですか?」
「稗田なんて大きな姓を背負ってたあなたなら、似合うと思うわ」
にこにこと微笑む紫と、何かすごいプレッシャーを感じてしまう阿求。
半分は阿求を困らせたくて、半分は本気で式にしたくて、紫はにこにことしたまま阿求を眺めていた。橙の式か、自分の式か、それはそこまで深く考えてはいない。ただ、転生を繰り返した魂が何かに宿ったなら、面白いものになる気がしたのだ。
「でも、私何に転生するか判りませんし」
「探してあげるわ。あなたが獣でも虫でも、例え草木でも。そして捕まえて、みっちり調教して素晴らしい式にしてあげる」
「こ、怖いんですが」
にたにた笑う紫に、少し戦慄する阿求であった。
「それで、あなたはどうかしら? あなたが頷けば、きっと私はあなたを見つけられる」
言霊、である。
今阿求が紫の言葉に頷けば、きっとそれは契約となるのだろう。それがなんとなくわかるものだから、阿求は言葉に詰まってしまう。
「全て、忘れていると思いますよ」
「構わないわ。万に一つ、何かを覚えていたら面白いだけ」
発見しても、興味が湧かなければ気にとめない。ただ、それだけであった。
「そうですか」
その素直な言葉が、阿求には嬉しかった。
「では、来世でお世話になります」
「あら、安請け合いね。ふふ、後悔させてあげるんだから」
二人は笑った。とても楽しげに。
ひとしきり笑ってから、阿求は、清々しい笑顔で紫に言葉を投げる。
「私は、悔いを残さずに死にたいと思っています」
その言葉に、ぴくりと紫の眉が動いた。
「……それって、何一つかしら?」
「はい。難しいかも知れませんが」
はにかむ阿求と対照的に、どこか紫の笑顔には影が差し込んだ。僅かすぎて、判りにくいものであったが。
「そう……」
阿求の言葉を、ゆっくりと咀嚼する。そして少しだけ考えてから、小さく口を開いた。
「でもね、阿求。それはきっと、とても残酷なことだわ」
「え?」
さぁっと吹いた風の中で、紫の言葉はひどく鮮明に阿求の耳に届いた。
「何がですか?」
「んー……」
口元に指を添え、少しだけ考える。そして視線を戻した時には、また普段通りの笑みを浮かべていた。
「その答えは、あなたが探しなさい。それを見つけられたら、きっとあなたは良い顔で死ねると思うわ」
「あははは。また答えを探すんですか、私」
「大丈夫、今度は難問だから」
「わーい」
少しばかり引き攣った顔で阿求は答える。そんな顔を満足そうに眺め、紫は満足そうに微笑む。意地悪め、と阿求は心の中で文句を言った。
ヒント少な目で相手を翻弄する紫に対抗意識が燃え、阿求は不敵に笑いながら宣言をした。
「紫さん。私は、笑いながら死んで見せます」
強気な言葉に、紫はへぇっと笑みを消した。
「それ、目標かしら? それとも、約束?」
「約束です」
強い意志の込められた目。それがとても生き生きとしていたので、紫は一層嬉しく思った。
「それなら、期待しているわね、阿求」
「はい」
阿求は胸を叩き、似合わぬ不敵な笑みを浮かべ、そんな不格好さを紫に笑われる。
その後も、二人は楽しげに笑い続けたのだった。
紫と話してから数日後、阿求はのんびりと散歩をしていた。見るものをメモしたくなる自分の癖に苦笑いを浮かべながら、吹いてくる風に前髪を遊ばせて、あてもなくゆっくりと道を歩いていた。
ちょっと強い風にふらふらと弄ばれながら歩いていると、目の前から、見覚えのある女性が歩いてきた。死神の小町であった。
「やぁ、阿求。元気そうだねぇ。千鳥足で散歩なんて、酔い覚ましかい?」
けらけらとその死神は笑った。
「違いますよ、風が強くて着物が右往左往なんです」
「肌寒いからって、そんな厚着するから」
そうでしたね。風を失念してました。そう答えながらもフラフラする阿求を見て、笑いを堪えもせずに堂々と笑っていた。むしろこっちが酔っ払いっぽかった。
「それで、小町さんが何故ここに?」
「あ、サボりじゃないよ?」
何も言ってないのにそう返答するものだから、かなり怪しかった。
小町自身も、咄嗟にそう返してしまったことをしまったと思ったが、もう遅い。それなので、これ以上無駄な弁解はしないようにと、話を一気に変えることにした。
「八雲の主に聞いたよ。転生、終いにするんだって?」
「え、あ、はい」
突然の話題の変化に、阿求はちょっと驚いた。
「そうかいそうかい……なるほど。良い顔してる」
「え、そうですか」
話を急に変えられたことに対する戸惑いはどこへやら、褒められてなんか照れる阿求であった。
「やっぱり、自分の進む方向を決めた奴の面は違うね。格好良いねぇ」
「そんなたいそうなものじゃないですよ」
両手を頬に添え、赤い顔で照れていた。
「しっかし、残念だなぁ」
「え?」
「いやほら、あんたが手伝いに来なくなると思うと、なんかさ」
転生までの間、御阿礼の子は映姫の下で手伝いなどをしている。その為、映姫や小町からすれば、阿求は馴染みの存在なのである。阿求からすればなんとなく憶えているだけなので、そう接されても恐縮する外ないのだが。
「四季様も、けっこうあんたのこと気に入ってたみたいだから。結構がっかりしてたんじゃないかな」
「そ、そんな」
悪いと思う反面、もっと照れてしまう。
阿求を楽しげに見詰めながら、小町は空を仰ぐ。晴れ晴れとした、良い天気であった。
「まぁ、でも、やっぱり寂しいのは本当だよ。死んで冥界に来て、その癖また幻想郷に蘇る。記憶をなくして性格が変わっても、やっぱりどこか、残して戻ってくる。そういうの見るの、結構悪いもんじゃなかったし」
その声に本当に寂しそうな音が混ざったので、阿求は途端に申し訳ない気がしてきてしまう。
「すみません」
と、阿求が謝ったものだから、今度は小町が慌ててしまった。
「あ、あぁ、悪い。詫びはいらないんだ。ごめんごめん」
小町は思わず阿求の頭を撫で回した。かなり乱暴に。
「あう、あう」
阿求の髪型が大きく崩れ、阿求は困った表情を浮かべた。
ただ、この表情は小町的には問題ないらしく、ホッとした顔をしてから改めて笑う。
「それに、他の幻想郷の連中と違って、私たちはあんたが死んでから会えるしね。まだ時間はある。惜しむのはまだまだ先だぁね」
小町はそう言いながら、髪を手櫛で整えている阿求を見て笑う。毛の跳ね方が、思いの外面白かったのである。
「酷い人です」
「神様ですから。一応」
そんな阿呆なやりとりで、二人は綻ぶ。
「はははは。四季様、別れを惜しんで、転生までまた雑用させるんじゃないかな。それも、わざわざ長い期間転生させないで」
「えー」
困ったような、嬉しそうな、そんな笑顔。
道ばたの雑談は、立ったままと言うことを忘れるほどに楽しかった。時折困らせられるのは、まぁ、なんか仕様と化していた。
十分ほど雑談を続けてから、小町は咳払いをして、真面目な顔を作った。
「阿求」
そして、厳かに呟く。相変わらずの笑みが少しだけ残っているが、ちゃかせる雰囲気でないことは良く判った。
「あんたの生は、転生の儀をしようがしまいが短いまんまだ。あと十年は生きられない」
それは要するに、遠くない未来に死ぬ、ということであった。
知ってはいたものの、初めて誰かにそれを言われ、阿求は少し胸が痛んだ。
「判っています」
「そうかい。なら、急ぎなよ。どっかのメイドを除けば、時間は結構早いよ」
表情が、まるで子を愛でる母のような、そんな優しげなものに変わった。
「何事も惜しまず、怖じず、素直に生きてみるんだね。どんなことになっても、素直なら笑ってられる」
似合わないことをしていると思ったのか、途端小町は強引に笑顔を浮かべる。そして声にも、弾むような勢いを混ぜた。しんみりするのもさせるのも、小町は嫌いであった。
「例え明日死んだって、あの世には私や四季様がいる。白玉楼の連中だっている。だからさ、今しかできないことやり残しちゃ駄目だよ」
一番言いたかったことを、小町はようやく言えた。照れくさくて、今までずっと言えないでいたのである。
言ってから、少し照れたように頬を掻く。
照れながらチラチラと小町は阿求の顔を見る。阿求は言われた言葉を反芻してから、笑顔で小町の目をじっと見た。
「はいっ」
そして、
「んー、良い返事。お姉さん嬉しくて泣けてきちゃう」
溜まらず抱擁。
「あう、あう」
小町の乳に溺れそうになり、阿求は苦しげにうめき、ばたばたと体を揺らしていた。ただ、温かくて居心地が良かったので、無理に引きはがすようなことはしない。
……引きはがそうとしても自分の力では無理だという、そんな諦めもあったわけだが。
しばらくして、小町は優しく阿求を解放した。結構力強く抱かれていた阿求は、少しふらふらとしながら、ぽかぽかする体にほのぼのとしていた。
「もしかして、それ言いに来たんですか?」
「それもあるけど、単に顔見たくなってね。さてと……にしし、四季様に阿求の顔見てきたって自慢して、たんまり説教もらいに戻りますかねぇ」
心底楽しそうに、死神は笑う。やっぱりサボりだったらしい。
背を向けて、手をひらひらと振りながら去っていく小町に、阿求もまた小さく手を振っていた。
風が、段々と温かくなってきていた。
阿求は、遊んでいた。
今までを取り戻すということはできないから、新しく得るために。
今日も、七人で遊んでいた。
神社の境内で、少女と呼びづらい年頃に成長した元少女たちははしゃぐ。
阿求が転生を止めたあの日から、既に三年という月日が経過している。つまるところ、阿求は当年で二十五歳だったりする。
平均してそんな年代の面々が、まさか神社境内でサッカーボールを蹴り飛ばし遊んでいるとは、そうそう思いもよらぬ光景であろう。ただし、それはサッカーじゃない。ボールはあるが、ルールは誰も知らないので、横にいる誰かにパスをしたり、かと思えば保持したり奪おうとしたりと、ただ気の向くままにボールを蹴るだけの球遊びである。
まず、この神社の巫女の霊夢。そして魔法の森の魔女、魔理沙とアリス。吸血鬼の館のメイド長、咲夜。そして妖怪の山の神社の巫女、早苗。そして、氷精チルノと阿求が加わり、境内を騒がす七人を構成していた。約一名が人外であるが、些細なことである。ここにレミリアやフランドールを始めとして、集まるメンツには人間以外の方が多いほどだ。ただ、気まぐれでなく、習慣的に集まるのは人間が多いので、レギュラーは人間率が極めて高かった。
少女たちは笑う。時に怒るし泣いたりもするが、やっぱり最後は笑う。笑っていた方が楽しいと判っているから。
けれど、姦しい時間はすぐに終わる。
あと数年間も遊んでいられるというのに、どうしても別れ際だけは名残を惜しんでしまう。それが、阿求には自分のことながら不思議だった。
「それじゃ、また明日」
そう口にしながら、まだここにいたいと思ってしまう。食事をして眠り、また食事をしてここにくる。それだけなのに、とても待ち遠しい。
別れの挨拶を告げたチルノは、早々に去ってしまった。また別の場所で遊ぶのだろう。飛び去る速度が尋常ではなかった。
霊夢が「またね」と全員に向けて言った後、魔理沙は小さく手を挙げそっと口を開く。明日は実験に丁度良く干したキノコを使って魔法を作ろうと思っていたので、来ないと言おうとしたのだ。
「あ、私は明日」
「すみませんが、私は明日、神社の片付けがあるのでこれそうにないです」
「私も魔法の実験があるから、明日はパス」
「お嬢様に頼まれた仕事があるから、私もしばらく来れないわ」
が、三人が明日の欠席を主張したので、魔理沙は思わず口をつぐんでしまう。三人連続で休むと言われ、言いづらくなってしまったのである。
気まずげに手を下ろし、僅かに目を伏せる。
それに霊夢が気付く。魔理沙が何かを言おうとして止めたと言うことで、何を言おうとしたのか悟ったのである。その後、ふとアリスと目が合ったので、誰からも見えないよう手を隠して、こっそりと魔理沙を指さした。アリスもなんとなく気づいていたようで、ふぅと溜め息を吐いてから、指でOKとサインをした。
「魔理沙。明日の実験、少しだけ面倒なところがあるのよ。だから、そこだけ手伝ってくれない?」
「え? あぁ、いいけど」
突然の誘いに、少しも悩まず答える。来ないと悪いかなぁ、と考え事をしていた所為で、ついサラッと肯定してしまったのだ。
答えてから、ハッとする。そこで自分が何に対してどういう返事をしたのかを考え、明日はどうすれば良いのかを考えた。
「じゃ、霊夢、明日は少し遅れてから来るぜ」
その回答に、霊夢とアリスは内心目を覆った。そうじゃないだろ、と思ったのである。
「そう。明日は少し歩き回ろうと思っていたんだけど……合流が厄介になるわね」
「あ、そうなのか……あっ」
ここまで言われ、魔理沙はようやく、気を遣われているということに気づいた。と同時に、もじもじしていたことが知られていると判り、なんだか照れくさそうに頬を掻いた。
「そうだな、私は明日は休ませてもらうぜ」
「そう? 悪いわね」
ほんの僅かに、ホッとした顔を霊夢とアリスが浮かべる。一方、照れ笑いの魔理沙。早苗と咲夜は、何なのかよく判らない表情で三人を眺めていた。
こうして、遊びの時間は終わり、それぞれがそれぞれの家へと帰っていった。
「さぁ、阿求。行くわよ」
「あ、はい」
阿求だけは、霊夢が送る。魔理沙たちが送ってくれる場合もあるのだが、一人のんびりと霊夢がするのはずるいという魔理沙の意見もあってこうなっている。
送ることに不満はないが、それならほぼ毎日の昼食を振る舞っている分の労いはしてもらえないのだろうかと、霊夢はなんとなく思っていた。
そんな霊夢の横顔を見ながら、阿求は呼吸をするように訊ねる。
「私、気を遣わせているでしょうか?」
少し目を伏せながら訊ねる。言われた霊夢は、少しだけ驚いた顔で振り返った。
送り迎えのことではない。それは、先ほどの魔理沙の件であった。
それがなんとなく判り、霊夢は決まりが悪そうに頭を掻く。
「……目敏いわね」
「良く見ることが仕事でしたから」
困ったような笑顔が浮かぶ。訊ねない方が良かったかなと言う気持ちが、訊ねてから浮かんできた。
何を言われるかと少しびくびくしながら待っていると、霊夢は大袈裟に溜め息を吐く。
「別にあんたの為じゃないわ。そりゃ、阿求がたぶん最初に死ぬのは判ってるから、みんなにあんたを優先したいって気持ちがあるのは確かだけど」
少しだけ、阿求の胸が痛んだ。
「迷惑、掛けてます?」
「少しの迷惑も、掛けてないと思ってる?」
言葉と裏腹に、優しい声。何かを言おうとして、阿求は言葉を止める。霊夢がまだ何か言いたいのだと、判ったから。
「毎日毎日、大勢が神社に来て、昼食食べて、ろくに片付けもせずに帰って行くのよ。いい迷惑だわ」
何気なく言葉を続ける。本当に迷惑と思っているのか判らないほど、淡々と。
「でも、楽しいからどうでもいい」
これも同じように、淡々と。
霊夢が何を言ったのか、一瞬阿求は気づかなかった。だが、それが肯定的な意見だったと気づくと、阿求は目を丸くした。
呼吸も表情も変えることなく、口にしていく霊夢。その言葉を聞いていていると、段々と気が楽になってきている。そんな心の変化を感じると、阿求はなんとなく理解した。
霊夢は納得している。流されているわけでもなく、今の状況を選んでいる。
だから、安心できる。
知らずに頬が緩んでいく。でも、やはり迷惑を掛けているという気持ちもあるわけで、少しだけ悪いことをしている気持ちを感じながら、阿求は訊ねる。
「……もうしばらくの間、迷惑を掛けてもいいんですか?」
すると、今まで以上に大きな溜め息が聞こえてきた。
「迷惑も掛け合えないような間柄じゃ、友達なんて恥ずかしくて言えないわ」
きょとんとした顔。そしてやがて、阿求の顔は綻んでいく。それを見ると、霊夢は少しだけ恥ずかしそうな顔をして、軽く鼻先を掻いた。
「ありがとう。霊夢さん」
「……ねぇ。感謝はさ、別れた後にして欲しいな」
少しだけ歩く速度を上げて、霊夢の後ろ姿しか見えなくなる。
「照れてるとこ見られるの、恥ずかしい」
夕日に照らされた霊夢の背中が、阿求にはとても大人に見えた。
それから、更に三年の月日が経った頃、阿求は病に倒れた。
数日前から具合が芳しくなく、遊びに出ても、座っているだけということが増えてきていた。それはなんとなく、誰にも判っていたことであった。
阿求が倒れてから、多くの見舞客が稗田家を訪れた。中には、珍しいもの見たさや、からかいにきた妖怪もいる。だが、それでも心配しに来た妖怪も、少しだけいた。
ぼんやりと、阿求は自分の死ぬ日が判っていた。死に慣れているからかなぁと思うと、少しだけ笑ったものだ。
そして、自分が死ぬであろう日には、誰も部屋に通さないでくれと、阿求は言った。死ぬ顔を見られたくなかったのである。
だから、みんなと会う最後の日は、恐らく死ぬであろう日の、前日であった。
みな、泣いていた。
そこに居たのは、もっとも良く遊んだ者たち。一番多く集まった内の五人。霊夢が遅れているが、合流すれば、普段通りの七人になる。霊夢は葬儀の準備の関係で、少しだけ遅れていたが、すぐに来ると言っていた。
思い思いの言葉を掛け、また泣いて、会話もろくに進まない。チルノも、良く判らない表情をしていたが、ぼろぼろと止まらない涙に困惑しているようだった。
妖精も泣くのだと思い、そんな希少な光景に出会えたことを喜び、悪いことをしたと悲しみ、また普段通りの困ったような笑顔になっていた。
しばらくして、霊夢が現れる。その表情を見て、全員が息を呑んだ。
「………? ……どうしたの?」
きょとんとした顔で辺りを見回す。それに耐えきれず、魔理沙は吹き出す。
「あ、あは……霊夢、お前、酷い顔だぜ」
霊夢は泣いていた。いつもの顔のまま、大量の涙をこぼして。
「悲しいから。泣くでしょ」
「馬鹿、そういう時は、もっと悲しそうな顔をするもんだぜ」
「そうですよ。霊夢さん泣いてるみたいに、見えないです」
「霊夢、目から水だけ出してるみたいだ」
「無理に泣いてる演技してるみたい」
「一々酷いわね」
くすくす、あはは、声が上がる。霊夢は溜め息を吐き、そして自分も笑う。それに釣られ、横になっていた阿求も声に出して笑う。
全員で笑い合った。このメンバーで笑い合える、最後のチャンスと判っていたから。無理をして、声を上げて、泣きながら笑い合った。悲しくて、楽しくて、でもやっぱり悲しくて。それでも無理に、全員は笑い合ったのであった。
その笑いが引く前に、全員は帰ることにした。何もわざわざ、湿っぽくして別れることもない。今が一番良い別れ際だと、後ろ髪を引かれながら、全員が納得した。
一人ずつ別れの言葉を口にしながら、部屋を出て行く。それを見送りながら、笑い会えたことを、阿求は本当に感謝した。
そして最後に霊夢が立ち上がり、阿求に背を向けた。
「またね、阿求」
それは、普段通りの挨拶。まるでまた明日、会えるみたいな挨拶。
「……はい。また、いつか」
それに、阿求も応じた。無理した笑いに、涙がこぼれる。
これで七人の内、一人が欠けた。
翌日、一人で天井を眺めていた。
もう、終わる。それが、どうしようもなく鮮明に理解できる。
阿求は、苦しげに泣いた。
転生の儀をおこなわなかったことを悔やみ、やり残したことを嘆き、死ぬことに怯え、阿求は震えている。
あまりに短かった時間。自分として生きられた、ほんの僅かな時間。
「怖い……怖いよ……」
自分の肩を抱き、小さく、弱々しく震えている。
けれど、不思議と表情は軟らかい。
阿求は、笑っていた。
「……あぁ、嬉しい……」
強がりでもなく、本心から、阿求はそう口にした。
前世の記憶が、そう鮮明というわけでもない。だが、憶えている限りなら、前世は死を苦しむことはなかった。ただ役目を終えたことに安堵して、静かに死んだはずだ。
「こんなに悔やんでる。こんなに惜しんでる」
前世と今世は違う。こんなにも違う。
「こんなに、幻想郷が好きでいられた」
死が怖いほど、今の自分は、ここが好きなのだと気づけたから。
紫の言った、悔いのない死が残酷ということ。それが、ようやく判った。
「知らなかったなぁ……私、こんなに、大好きだったんだ……」
ぼろぼろとこぼれる涙は止まらない。昨日あれだけ泣いたというのに、まだ、涙はこぼれ続けた。
どうしようもなく怖くて、どうしようもなく嬉しくて、頭の中が白んでいく。でも、その中で一つだけ、嬉しくない悔いが残っていた。それだけが、阿求の心を自由なものにしていなかった。
「ごめんなさい、紫さん……約束、破ってしまいました」
こんなに泣いて、こんなに悔いて。自分は結局、最後の約束を果たせなかった。その思いだけが、心残りで仕方ない。
そんな阿求の耳元を、そっと風が吹いた。
「阿求。約束守ってくれて、ありがとうね」
それは、紫の声のように聞こえた。
「え……?」
目を開けて回りを見るが、そこには誰もいない。都合の良い空耳かと思った。
その途端、阿求は思い出す。自分が約束した言葉は何だったのかと。
「あぁ、そうなんだ……そうか、良かったんだ」
阿求のした約束は、泣かないことでも、悔やまないことでもなかった。
「約束、果たせていたんですね」
それはただ、笑って死ぬということだった。
心のつかえは取れた。最後の杭が、消えた。
「……良かった」
繋ぎ止めるものを失った心に、風は優しく吹く。
恐怖がなくなる。
風に魂が溶けていくかのように、意識が、記憶が削れていく。
終わる。
霞み、薄れ、けれど鮮明に、世界が見える。
それが、稗田の愛した世界。阿求の愛した世界。
もはや声にならない感情が胸で弾ける。
―――ありがとう。―――
感情と共に、意識が、眩みそうな白に溶けていく。
稗田阿求は、笑顔のまま去った。
黄泉路はそれほど、寂しくなさそうである。
そうですよね・・・いくら転生の儀を終了するからといっても寿命は
短命のままなんですよね。
でも、その短い生の中で様々なことを体験したのだなぁ・・・と。
いや、短い生だからこそ・・・なのでしょうか?
だからこそ阿求の人生は輝いていたのかな。
ともあれ、良いお話でした。
確かに、悔いのない死に際ってある意味では残酷なものなのかもしれませんね。
で、誤字かな、と思った部分なのですが、終盤の部分の
>>阿求の言った、悔いのない死が残酷ということ。それが、ようやく判った。
ここ、文脈からすると阿求でなくて紫じゃないかなーと思うのですが、いかがでしょうか? 正しかったらごめんなさいです。
大崎屋さん自信が殻を破った感じがしますね。
いい人生というのは死に際で、いい人生が続かないことを悔やむのでしょうか。
キャラもなんだかそれっぽいですし、話の展開も良いです。
この作品を称える適切な形容詞が出てこない全く自分の語彙力の無さに呆れますがとにかく良かったです。
誤字報告
>座ったいるだけ
座っているだけ かと。
やはり文章に阿求というキャラクターが良く表現されていた証拠なのでしょうかね。
読みやすく、面白かったです。
誤字と思われる部分が……
>「それでは当代、九代目、稗田阿求を以て、転生を儀の終了をここに宣言します」
転生の儀の終了を、ではないでしょうか?
>>スキマから状態(上体)を覗かした(覗かせた・のぞかせた)妖怪と遭遇した。
>>温かくて居心地が良かったの(ので?)、無理に引きはがすようなことはしない。
いやあ、氏の幻想郷はまっことあたたかですなあ。ごちそうさまでした。
稗田ではない阿求は新鮮
ただ、七人のうち人外はアリスとチルノの二人なのでは?
阿求の逝くシーンは蛇足なんかではなく
逆にあって然るべきものだったと思う。
悲しさではなく、優しさ、暖かさに包まれた
とても良いものだった。
次回は長編に挑まれるとの事で…渾身の長編…楽しみにしてます
読んでいて安心感がある
余韻の残る読後感も好みでした。
死を題材にしているのだから、死を書ききることが貴方に出来る善行です、なんつって。
感動した!
> その重いだけが、心残りで仕方ない。
いちばんいい場面だけに、惜しかったです!
陳腐ですが、これ以上の言葉は浮かびませんでした。
素晴らしい作品をどうもありがとうございました。