Coolier - 新生・東方創想話

ひとり救えなかった

2025/05/02 22:45:02
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朝だった。
けれど、陽は昇っていなかった。
幻想郷の空は濃い霧に覆われ、あらゆる音を吸い込んでいた。
博麗神社の境内で、霊夢は静かに立っていた。
手には封印札。背には、これまで救ってきた数多の“祈り”が積もっている。
 
「また、異変....か」
その声に、もはや驚きも疲労もなかった。
ただ、次に何が起こるかを知っている者の冷静さだけがあった。
 
異変は、急だった。
夜明け前から幻想郷全体に広がった霧は、
霊脈を乱し、動植物を狂わせ、人々を怯えさせた。
里では混乱が起きていた。
家を飛び出した子供、倒れる老人、焦る者、逃げる者
 
霊夢は、巫女としてそれらに応じた。
異変の発生源を調べ、山を駆け、妖怪たちと交渉し、霧の“芯”を封じた。
その過程で、彼女は無数の命を守った。
風で飛ばされた幼子を抱え、
足をくじいた村人を背負い、
混乱する妖獣を札で鎮めた。
彼女は、すべてをこなした。
……ほとんどの命を、救った。
 
けれど――
その霧の中で、
小さな少女がひとり、手を伸ばしていたことだけが、
霊夢には見えていなかった。
 
異変が終わった後、霧が晴れた神社の階段の下で、
少女の亡骸が見つかった。
その小さな手は、今でも空を掴むように伸びていた。
 
霊夢が気づいたときには、もう遅かった。
間に合わなかった。
封印も祈りも、あの手には届かなかった。
 
それが、この幻想郷における――
博麗霊夢、初めての“犠牲者”だった。
 
「....どうして」
自分の口から漏れたその言葉が、
誰に向けられたのか、霊夢自身にもわからなかった。
風は吹いていなかった。
霧が去っても、幻想郷の空は晴れなかった。
 
それでも、異変は終わった。
多くは救われた。
数えきれないほどの命が残った。
だが――
たったひとり、救えなかった。
 
そしてそのことが、
どんな異変よりも、霊夢の胸を深く裂いた。
 
神社の境内に、風が吹いていた。
けれどそれは、清らかなものではなかった。
地を這い、頬を打ち、喉を震わせるような、重くて冷たい風だった。
 
霊夢は、拝殿の前に立っていた。
今日だけは、神前に背を向けている。
視線の先にいたのは、ふたりの人間の男女――少女の両親だった。
娘の遺体はすでに里へと戻された。
霊夢が、巫女としての責務を終えた“はず”の、そのあと。
彼らは訪れた。
霊夢の前で、膝をつくことも、叫ぶこともなく、ただ――静かに言った。
 
「どうして、うちの子は戻らなかったんですか」
 
霊夢は、その声を、まっすぐに受け止めた。
否定も、反論も、言い訳もしなかった。
 
ただ、ひとつ――言葉を絞り出すように、呟いた。
 
「....ごめんなさい」
 
それしか言えなかった。
どれだけ命を救ったとて、たったひとつの命を救えなかった事実は消えない。
どれほど力を尽くしたとしても、
その手が届かなかった者がいるならば、
霊夢の「完全」は破られる。
 
母親は、ぎゅっと拳を握った。
その指先は震えていた。
「....“仕方なかった”って、そう言われるんでしょう?」
「....言いません」
「でも、思ってるんでしょう? “他の誰かは助かったんだから”って....!」
「....思ってません」
霊夢の声は、小さかった。
けれど、それは紛れもなく本心だった。
 
父親が、一歩だけ前に出た。
「巫女さん。....あなたは、立派だと思います。こんなに多くの命を救った。里では皆、感謝してる」
「........」
「でも、それでも――うちの娘は帰ってこないんです」
その声は、怒りではなく、崩れそうな祈りだった。
 
霊夢は視線を伏せた。
「....救えませんでした」
 
空気が張り詰める。
謝罪も、理解も、何ひとつ“埋める”ことはできなかった。
巫女の力は、奇跡ではなかった。
万能でもなかった。
 
霊夢は、自分の拳が小刻みに震えていることに気づいた。
なぜ、気づけなかったのか。
なぜ、もっと早く、もっと正確に、もっと速く――
“もしも”が、胸の中を渦巻く。
 
だが、その問いに答える声は、どこにもなかった。
 
やがて、母親がそっと父の腕を引いた。
「....もういいの。言っても、何も戻らないわ」
「でも....」
「この人も、傷ついてる。....きっと、ずっと、忘れられないわ」
 
その言葉に、霊夢は思わず顔を上げた。
母親の目には、涙が滲んでいた。
でも、そこに怒りはなかった。
ただ、深い哀しみだけがあった。
 
「....娘のこと、覚えていてくれますか?」
「....はい」
「名前は、“すず”です」
 
霊夢は、唇を噛んだ。
強く、強く、記憶に刻み込むように。
 
「すずさんを....忘れません」
 
それだけを、心の底から誓った。
 
ふたりが神社を去っても、霊夢はその場に立ち尽くしていた。
境内に、風が戻ってくる。
けれど、それはやはり、冷たく、鋭かった。
 
巫女は、神に仕える者でありながら、
救いきれない現実にも、ただ頭を垂れるしかない。
 
この胸に刻まれた“ひとりの名前”は、
いつまでも、霊夢の祈りのなかで鳴り響いていた。
 
神社の奥、本殿の裏にある小さな石段に、霊夢は腰を下ろしていた。
蝉の声すら戻ってきた幻想郷の昼。
空には雲が流れ、木々はざわめいていた。
けれど、霊夢の中には、何ひとつ動かない空白があった。
 
いつもなら、異変が終われば賑わいが戻る。
妖怪たちは騒ぎ、里の人間たちは感謝の品を持って神社を訪れ、
霊夢はそれを面倒くさがりながら、どこかで喜んでもいた。
だが――今回は違った。
異変は終わった。
幻想郷は無事だった。
でも、すずという名の少女は、戻ってこなかった。
 
「....祈ったのに」
霊夢は、ぽつりと呟いた。
「ちゃんと....祈ったのに。間に合うように、って。誰も失いたくない、って....」
その声は、誰にも届かなかった。
神は沈黙したまま。
風も葉も、答えを返してはくれない。
 
霊夢は、自分の手を見た。
何人もの命を引き上げ、守り、運んだ手。
無数の封印札を使い、障気を払い、幻想郷を鎮めた手。
けれど――
「....この手は、すずさんに届かなかった」
 
なぜ、自分だったのか。
なぜ、あの場にいて、誰よりも早く動いて、
誰よりも近くにいたはずなのに、届かなかったのか。
霊夢は、巫女としての力を持っている。
でもそれは、万能ではない。
「“みんなを救う”って....言葉、無責任だったのかもしれない」
今までは、なんとかできてしまっていた。
だから、自分を神のように錯覚していたのかもしれない。
異変のたび、霊夢は結果を出してきた。
“博麗の巫女がいれば安心”――誰もがそう思っていた。
自分も、そうであるべきだと思い込んでいた。
 
でも今回、それは崩れた。
 
「“全てを救う”なんて、できないのに」
 
言いながら、霊夢の喉に熱がこみ上げた。
自分は、祈りを捧げる者。
けれど、祈りは届かないこともある。
信じてもらえない。理解もされない。
それでも、黙って受け止めるしかない。
「....それが、巫女ってやつなんだな」
 
霊夢は、そっと目を閉じた。
すずの名前を、もう一度だけ、心の中で繰り返した。
失った命に、もう何も返せない。
でも、忘れずにいることだけは、できる。
 
沈黙のなかで、霊夢は一つの答えにたどり着こうとしていた。
救えなかった命がある。
それでも、自分はまた“祈る”しかない。
それしか、できないから。

朝だった。
今度こそ、ほんとうの朝だった。
霧は晴れ、雲は散り、陽の光が神社の屋根を金色に染めている。
鳥が鳴いていた。
木々がざわめいていた。
日常が、何もなかったかのように、また戻ってきていた。
 
霊夢は、掃き掃除をしていた。
何も変わらないように見える日常の一部。
けれど彼女の中には、確かに一つの穴が残っていた。
それは、いつまでも埋まらない。
そして、埋めてはいけないと思っていた。
 
あの夜から、何度も人々が神社を訪れた。
異変の終息に感謝し、品を置いていった者もいた。
笑顔で手を合わせた子どもたちもいた。
その中に、すずはいなかった。
もう、来ることはない。
 
「....ありがとうって、言ってくれた子もいた」
霊夢は独り言のように呟いた。
「でも、すずさんは....何も言えなかったんだよね」
彼女はまだ生きたかった。
助けを待っていた。
あの伸ばされた手は、間違いなく“誰かを求めていた”。
けれど、それに応えることはできなかった。
 
それでも、朝は来る。
幻想郷は、何事もなかったかのように、また回り続ける。
それが、恐ろしかった。
世界が自分を置いていくような、
何か大切なものだけが抜け落ちたまま続いていくような――
 
だが霊夢は、静かにほうきを止めた。
空を見上げる。
すずという名前を、心の中で呼ぶ。
 
救えなかった命は、数では語れない。
誰にとっても、それは“すべて”だった。
 
霊夢は、深く息を吸った。
そして、口の中で、もう一度小さく呟いた。
「....ごめんなさい」
それはもう、誰かに届く言葉ではなかった。
けれど、自分の中でずっと響き続けるべき声だった。
 
「....また、祈ろう」
 
どれだけ祈っても、全ては救えない。
それでも祈る。
それが、巫女の役目だから。
 
朝の光の中で、霊夢はひとつ、境内の落ち葉を掃いた。
それはたった一枚の枯葉だったけれど、
その音が、静かに空気を震わせた。
 
幻想郷の朝は、今日も静かに始まっていた。
誰かがいなくなったことを知らないまま、
誰かが今日も笑う世界。
霊夢は、そんな世界のなかで――
ただ、まっすぐに立っていた。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
皆様に楽しんで頂けましたら幸いです。
Mr
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コメント



0.60簡易評価
3.90名前が無い程度の能力削除
良かったです
4.80名前が無い程度の能力削除
悲しい文ではありますが、それでも顔を上げるのには尊さを感じます。
ご馳走様でした