朝が来るたびに、霊夢は箒を手にする。
博麗神社の石畳に、散った花びらを掃く。 淡い光が差し込む境内に、足音は一つだけ。
昔と何も変わらない。 春も、夏も、秋も、冬も、繰り返される日々の中で、霊夢は今日も変わらず、巫女としてそこに立っていた。
....ただ一つ、変わったことがある。
「....誰も、来ないのよね」
そう言っても、声には何の揺らぎもない。 感情の波は、もうとうに失われているはずだった。
それでも、霊夢は今日も神社を整え、湯を沸かし、茶を淹れた。
誰も来ない縁側に、湯呑みを二つ並べて。
「魔理沙は、来ないの?」
誰にともなくつぶやいたその名は、 遠い記憶の底から、風のように浮かんだ。
もう、何十年も前に亡くなった。 けれど、その事実を、霊夢は“認識”できていない。 理解はしている。
ただ、「実感する回路」が失われているのだ。
そしてそれは、霊夢にとって苦痛ではなかった。 ただ、奇妙に“足りない”だけだった。
「ここで、誰かとお茶を飲んでいた気がするの。笑って、何かを話して....」
「....でも、思い出せない」
霊夢は空を見上げた。
風が吹いて、桜が舞う。 今日も幻想郷は、平和で、美しい。
異変も起こる。
妖怪もまだ跳ねている。 幻想郷は、表面上“正常”に動き続けている。
けれど、霊夢はうすうす感じていた。
この世界は、もう“終わりの入口”に足を踏み入れていると。
なぜなら....
「私が、もう“誰とも関われない”から」
霊夢自身が“止まり続ける存在”である限り、 周囲は老い、変わり、失われていく。
紫を除いて、誰も残っていない。
巫女としての役目を果たす“構造”は生きているが、そこに“心”はもう、ない。
霊夢は、自分でも気づかぬまま、ただ一人、過去に閉じ込められた存在になっていた。
ふと、山の方から、あの紫の気配が近づいてくるのが分かった。
霊夢は、微笑んだ。 それは十年前も、五十年前も変わらない、作られたような微笑みだった。
けれど、紫の心にだけは、それが痛みとして届いていた。
紫が手にしていた封筒は、やや色あせていた。
羊皮紙のような手触り。
表に墨で書かれた簡素な宛名。 『博麗霊夢へ』
その筆跡は、見覚えがあった。
紫は、霊夢の前にそっと差し出した。
「....魔理沙が残した手紙よ。渡すのが、随分と遅くなったわね」
霊夢は封筒を受け取った。 けれど、すぐには開かず、指先でその表面をなぞるように撫でた。
「....懐かしい気がする。
でも、どうしてかしら。名前は分かるのに、その顔が、声が、思い出せないの」
「当然よ。あなたは“そう作られている”んだもの」
紫は、どこか諦めたように言った。
「それでも、読んでみて。もしかしたら、何かが残ってるかもしれない」
霊夢は、静かに封を切った。
便箋は、一枚だけ。
そこには、簡潔な言葉が並んでいた。
『よぉ、多分これが届く頃には私はいないだろうな。それでも、書いておくよ。
お前はずるいよ、霊夢。
ずっとそのままなんて、ずるすぎる。
私は、歳を取って、シワもできて、手も震えて、文字も滲むけど。 それでも、“お前を好きだったこと”だけは、何十年経っても消えなかった。 だから、最後に言うよ。 ありがとうな。出会ってくれて。 霧雨魔理沙』
霊夢は、黙って手紙を見つめていた。
数秒後、彼女の肩が、ほんのわずかに震えた。
紫は目を細め、見守っていた。 そこにあるのは、泣くことすら忘れた存在の、“身体だけが思い出した反応”。
「霊夢....」
「....“好き”って、どういう感じだったかしら」
霊夢の声は、どこか風のように軽かった。
「それを、教えてくれる人が....いなくなってしまったのね」
そう言って、霊夢は初めてほんの一滴、涙をこぼした。
目が潤んだわけではない。 泣き顔になったわけでもない。
それは、ただ一粒の水が、頬を伝って落ちただけ。
紫は、何も言えなかった。
ただ、かすかに首を垂れ、目を閉じる。
霊夢が“泣いた”という事実を、心に刻むように。
それは、止まった巫女に訪れた、最初で最後の、感情の波だった。
紫は、結界の綻びを感じていた。
空の色は薄くなり、風はどこか乾いている。 空間を包んでいた幻想の膜が、ゆっくりと、しかし確実に崩れていた。
幻想郷の境界は、もはや絶対ではない。
異変は起こる。巫女は応じる。 だが、その“物語”に対して、誰も強い関心を持たなくなった。
妖怪は、数を減らし、人間との接触を避けるようになった。 人間は、外の世界からの風に晒され、次第に“信仰”という概念を手放しはじめた。
幻想は、“信じる者がいなければ、消えていく”。
その理が、ゆっくりと世界全体に広がっていた。
紫は、それをずっと感じていた。
けれど、言葉にはしなかった。 “巫女がいる限り幻想郷は保たれる”という前提が、崩れてしまうことを恐れていたからだ。
しかし今....
魔理沙が去り、霊夢が“涙”を流した。
その瞬間、紫は思った。
「あぁ....もう、この世界は“終われる”のかもしれない」
夜。神社の本殿の屋根に、紫はひとり腰を下ろしていた。
霊夢は、いつものように境内を掃いていた。 変わらない所作、変わらない姿。 けれど、そこには確かに“何かが揺れた痕跡”があった。
紫は静かに呼びかけた。
「霊夢。話があるの」
霊夢は顔を上げ、紫のほうを見た。 そして、無言のまま近づいてきた。
紫は、静かに、語った。
「幻想郷の境界が、崩れはじめてる。もう、あなたの力だけでは保てない。....むしろ、あなたが“ここに居続けること”が、世界の重しになりはじめてる」
霊夢は、目を細めた。
「....私は、ずっと“役目”でここにいたはずなのに」
「そう。だからこそ、今は“あなた自身の意志”が、必要なのよ」
紫は、すっと立ち上がり、そして正面から霊夢を見据えた。
その瞳には、長い後悔と、祈りと、今ひとつの願いがこもっていた。
「....霊夢。あなたは、どうしたい?」
それは、永遠に問われなかった問いだった。 博麗の巫女に、博麗霊夢に、“自分の意思”を問われたことなど、かつて一度もなかった。
霊夢は、その言葉を聞いて、ゆっくりと目を閉じた。
境内の風が止まり、世界が一瞬、静止する。
そして
「....終わって、いいと思うの」
霊夢は、ただそれだけを言った。
迷いも、戸惑いもなかった。 けれど、その声には、わずかに本当にわずかに、“やわらかさ”があった。
紫は、その言葉を聞いて、深く、深く、頭を下げた。
「....ありがとう。私にその言葉をくれる日が来るなんて、思ってもいなかった」
春だった。 けれど、風の匂いはどこか乾いていた。 木々は葉を落とさず、花は散らず、時間の輪郭があいまいになっていた。
幻想郷の境界は、ついに“閉じ始めて”いた。
霊夢は、最後の異変を鎮めて帰ってきた。 それは、もはや形式的な出来事だった。
神社の石段は崩れかけ、参道には誰の足跡もない。 結界はほつれ、空は少しずつ“外側”と交わり始めていた。
紫は、本殿の前に立っていた。
いつもと変わらぬ装いで、しかしその目は、深い闇と祈りをたたえていた。
霊夢が歩み寄ると、紫は静かに口を開いた。
「....霊夢。あなたに、伝えておかないといけないことがあるの」
霊夢は、首をかしげた。 淡い表情のまま、紫の声を待っている。
「私は、あなたの“時間”を奪ったわ」
「....うん」
「あなたを、“少女のまま”閉じ込めた。
恋も、夢も、未来も。....全部、私が奪ったのよ」
「....そう」
「それでも私は、幻想郷の安定のために、あなたを使い続けた。それが、地獄であると知りながら」
紫の声は震えていた。
「ごめんなさい、霊夢。本当に、ごめんなさい」
霊夢は、しばらく黙っていた。
そして、春の風が吹くなかで、ふわりと笑った。
「....私ね、ちゃんと“ここ”にいたよ」
紫は、目を見開いた。
「春も、風も、お茶の香りも....魔理沙の声も。 全部、覚えてないの。でも、たしかに“ここにあった”のは、分かってるの」
霊夢の声には、涙も怒りもなかった。
それでもその言葉は、あまりにも“人間”だった。
「....地獄だったかは、分からない。 でも、私は“この世界の中で、生きた”って思ってるの」
「霊夢....」
「ありがとう、紫。....全部、もらったから」
そして、彼女は一歩、紫に近づいた。
その声は、ずっと変わらなかった巫女の、けれど今だけ確かに“生きていた”少女の声だった。
「だから....終わって、いいと思うの」
紫は、何も言えなかった。
ただ、その言葉に膝を折り、頭を下げた。
そして、その瞬間。
世界が、風のようにほどけていった。
結界が、音もなく消えていく。 空が割れずに、静かに、穏やかに“終わる”。
博麗霊夢は、最後まで巫女だった。
けれど、その最期の言葉は、誰よりも人間だった。
春が終わった。 幻想郷が、終わった。
そして、巫女の時間もまた
そっと、終わりを迎えた。
博麗神社の石畳に、散った花びらを掃く。 淡い光が差し込む境内に、足音は一つだけ。
昔と何も変わらない。 春も、夏も、秋も、冬も、繰り返される日々の中で、霊夢は今日も変わらず、巫女としてそこに立っていた。
....ただ一つ、変わったことがある。
「....誰も、来ないのよね」
そう言っても、声には何の揺らぎもない。 感情の波は、もうとうに失われているはずだった。
それでも、霊夢は今日も神社を整え、湯を沸かし、茶を淹れた。
誰も来ない縁側に、湯呑みを二つ並べて。
「魔理沙は、来ないの?」
誰にともなくつぶやいたその名は、 遠い記憶の底から、風のように浮かんだ。
もう、何十年も前に亡くなった。 けれど、その事実を、霊夢は“認識”できていない。 理解はしている。
ただ、「実感する回路」が失われているのだ。
そしてそれは、霊夢にとって苦痛ではなかった。 ただ、奇妙に“足りない”だけだった。
「ここで、誰かとお茶を飲んでいた気がするの。笑って、何かを話して....」
「....でも、思い出せない」
霊夢は空を見上げた。
風が吹いて、桜が舞う。 今日も幻想郷は、平和で、美しい。
異変も起こる。
妖怪もまだ跳ねている。 幻想郷は、表面上“正常”に動き続けている。
けれど、霊夢はうすうす感じていた。
この世界は、もう“終わりの入口”に足を踏み入れていると。
なぜなら....
「私が、もう“誰とも関われない”から」
霊夢自身が“止まり続ける存在”である限り、 周囲は老い、変わり、失われていく。
紫を除いて、誰も残っていない。
巫女としての役目を果たす“構造”は生きているが、そこに“心”はもう、ない。
霊夢は、自分でも気づかぬまま、ただ一人、過去に閉じ込められた存在になっていた。
ふと、山の方から、あの紫の気配が近づいてくるのが分かった。
霊夢は、微笑んだ。 それは十年前も、五十年前も変わらない、作られたような微笑みだった。
けれど、紫の心にだけは、それが痛みとして届いていた。
紫が手にしていた封筒は、やや色あせていた。
羊皮紙のような手触り。
表に墨で書かれた簡素な宛名。 『博麗霊夢へ』
その筆跡は、見覚えがあった。
紫は、霊夢の前にそっと差し出した。
「....魔理沙が残した手紙よ。渡すのが、随分と遅くなったわね」
霊夢は封筒を受け取った。 けれど、すぐには開かず、指先でその表面をなぞるように撫でた。
「....懐かしい気がする。
でも、どうしてかしら。名前は分かるのに、その顔が、声が、思い出せないの」
「当然よ。あなたは“そう作られている”んだもの」
紫は、どこか諦めたように言った。
「それでも、読んでみて。もしかしたら、何かが残ってるかもしれない」
霊夢は、静かに封を切った。
便箋は、一枚だけ。
そこには、簡潔な言葉が並んでいた。
『よぉ、多分これが届く頃には私はいないだろうな。それでも、書いておくよ。
お前はずるいよ、霊夢。
ずっとそのままなんて、ずるすぎる。
私は、歳を取って、シワもできて、手も震えて、文字も滲むけど。 それでも、“お前を好きだったこと”だけは、何十年経っても消えなかった。 だから、最後に言うよ。 ありがとうな。出会ってくれて。 霧雨魔理沙』
霊夢は、黙って手紙を見つめていた。
数秒後、彼女の肩が、ほんのわずかに震えた。
紫は目を細め、見守っていた。 そこにあるのは、泣くことすら忘れた存在の、“身体だけが思い出した反応”。
「霊夢....」
「....“好き”って、どういう感じだったかしら」
霊夢の声は、どこか風のように軽かった。
「それを、教えてくれる人が....いなくなってしまったのね」
そう言って、霊夢は初めてほんの一滴、涙をこぼした。
目が潤んだわけではない。 泣き顔になったわけでもない。
それは、ただ一粒の水が、頬を伝って落ちただけ。
紫は、何も言えなかった。
ただ、かすかに首を垂れ、目を閉じる。
霊夢が“泣いた”という事実を、心に刻むように。
それは、止まった巫女に訪れた、最初で最後の、感情の波だった。
紫は、結界の綻びを感じていた。
空の色は薄くなり、風はどこか乾いている。 空間を包んでいた幻想の膜が、ゆっくりと、しかし確実に崩れていた。
幻想郷の境界は、もはや絶対ではない。
異変は起こる。巫女は応じる。 だが、その“物語”に対して、誰も強い関心を持たなくなった。
妖怪は、数を減らし、人間との接触を避けるようになった。 人間は、外の世界からの風に晒され、次第に“信仰”という概念を手放しはじめた。
幻想は、“信じる者がいなければ、消えていく”。
その理が、ゆっくりと世界全体に広がっていた。
紫は、それをずっと感じていた。
けれど、言葉にはしなかった。 “巫女がいる限り幻想郷は保たれる”という前提が、崩れてしまうことを恐れていたからだ。
しかし今....
魔理沙が去り、霊夢が“涙”を流した。
その瞬間、紫は思った。
「あぁ....もう、この世界は“終われる”のかもしれない」
夜。神社の本殿の屋根に、紫はひとり腰を下ろしていた。
霊夢は、いつものように境内を掃いていた。 変わらない所作、変わらない姿。 けれど、そこには確かに“何かが揺れた痕跡”があった。
紫は静かに呼びかけた。
「霊夢。話があるの」
霊夢は顔を上げ、紫のほうを見た。 そして、無言のまま近づいてきた。
紫は、静かに、語った。
「幻想郷の境界が、崩れはじめてる。もう、あなたの力だけでは保てない。....むしろ、あなたが“ここに居続けること”が、世界の重しになりはじめてる」
霊夢は、目を細めた。
「....私は、ずっと“役目”でここにいたはずなのに」
「そう。だからこそ、今は“あなた自身の意志”が、必要なのよ」
紫は、すっと立ち上がり、そして正面から霊夢を見据えた。
その瞳には、長い後悔と、祈りと、今ひとつの願いがこもっていた。
「....霊夢。あなたは、どうしたい?」
それは、永遠に問われなかった問いだった。 博麗の巫女に、博麗霊夢に、“自分の意思”を問われたことなど、かつて一度もなかった。
霊夢は、その言葉を聞いて、ゆっくりと目を閉じた。
境内の風が止まり、世界が一瞬、静止する。
そして
「....終わって、いいと思うの」
霊夢は、ただそれだけを言った。
迷いも、戸惑いもなかった。 けれど、その声には、わずかに本当にわずかに、“やわらかさ”があった。
紫は、その言葉を聞いて、深く、深く、頭を下げた。
「....ありがとう。私にその言葉をくれる日が来るなんて、思ってもいなかった」
春だった。 けれど、風の匂いはどこか乾いていた。 木々は葉を落とさず、花は散らず、時間の輪郭があいまいになっていた。
幻想郷の境界は、ついに“閉じ始めて”いた。
霊夢は、最後の異変を鎮めて帰ってきた。 それは、もはや形式的な出来事だった。
神社の石段は崩れかけ、参道には誰の足跡もない。 結界はほつれ、空は少しずつ“外側”と交わり始めていた。
紫は、本殿の前に立っていた。
いつもと変わらぬ装いで、しかしその目は、深い闇と祈りをたたえていた。
霊夢が歩み寄ると、紫は静かに口を開いた。
「....霊夢。あなたに、伝えておかないといけないことがあるの」
霊夢は、首をかしげた。 淡い表情のまま、紫の声を待っている。
「私は、あなたの“時間”を奪ったわ」
「....うん」
「あなたを、“少女のまま”閉じ込めた。
恋も、夢も、未来も。....全部、私が奪ったのよ」
「....そう」
「それでも私は、幻想郷の安定のために、あなたを使い続けた。それが、地獄であると知りながら」
紫の声は震えていた。
「ごめんなさい、霊夢。本当に、ごめんなさい」
霊夢は、しばらく黙っていた。
そして、春の風が吹くなかで、ふわりと笑った。
「....私ね、ちゃんと“ここ”にいたよ」
紫は、目を見開いた。
「春も、風も、お茶の香りも....魔理沙の声も。 全部、覚えてないの。でも、たしかに“ここにあった”のは、分かってるの」
霊夢の声には、涙も怒りもなかった。
それでもその言葉は、あまりにも“人間”だった。
「....地獄だったかは、分からない。 でも、私は“この世界の中で、生きた”って思ってるの」
「霊夢....」
「ありがとう、紫。....全部、もらったから」
そして、彼女は一歩、紫に近づいた。
その声は、ずっと変わらなかった巫女の、けれど今だけ確かに“生きていた”少女の声だった。
「だから....終わって、いいと思うの」
紫は、何も言えなかった。
ただ、その言葉に膝を折り、頭を下げた。
そして、その瞬間。
世界が、風のようにほどけていった。
結界が、音もなく消えていく。 空が割れずに、静かに、穏やかに“終わる”。
博麗霊夢は、最後まで巫女だった。
けれど、その最期の言葉は、誰よりも人間だった。
春が終わった。 幻想郷が、終わった。
そして、巫女の時間もまた
そっと、終わりを迎えた。
長い長い営みが消えようとしている儚さを感じました
最終章が楽しみです