Coolier - 新生・東方創想話

雛たちは羽繕いされたい

2024/08/06 01:13:19
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***1***


「そういえば、阿求に聞いてみたいことがあったんだけど」
 刷毛を伸ばしたような白雲が、穏やかな青空のキャンバスに彩られる秋。稗田邸の庭に植えられている菊たちも、おめかしを決めた淑女のように白々と咲き誇っている。
 涼しげな風に揺られる花々を見て、そろそろ重陽の宴についても考えないとね、とぼんやり思案していた阿求に、本居小鈴が不意に声をかけて来た。
「博麗神社のお花見に参加していた時、あの神社まで一人で来たの?」
 あまりに突拍子もない友人の質問に、阿求は思わず口許を綻ばせる。我が家の飼い猫のように気まぐれで好奇心旺盛な少女とのやり取りは、全く阿求を退屈させることがない。
「どうしたのよ。そんな前のことをいきなり」
「なんでも。ただふと気になっちゃっただけ」
 「体も弱いからって、なかなか行こうとしてなかったからさー」と呟く小鈴を、阿求はじっと見つめる。ほら、今の彼女と来たら、畳の上に敷いた座布団にうつ伏せになって、足をぷらぷら前後させながら本を読み進めていて。まったく、稗田邸にあってこんなだらだらとくつろぐことが出来るのは、お猫様とこの子だけのものだ。
 ふふ、とおかしげに笑いながら、阿求はその時のことを思い出す。そうね。あの時のことは、忘れようと思っても忘れられるものではない。
「あの時はね、天狗にお願いして連れて行ってもらったの」
「天狗…」
 すぐにある一人の存在が小鈴の頭に浮かぶ。今や鈴奈庵にとって重要な商売相手の一人であり、誰よりも早く妖怪の知り合いとして認知した鴉天狗。
「文さん?」
 首を傾げてそう告げてみると、阿求はにやり、得意げに笑ってみせる。
「そう。鴉の大きな翼に抱えられたまま、神社までひとっ飛び」
「ひとっ飛び!」
 あまりにも魅力的な発言を聞いて、小鈴は目をきらっきら輝かせながら勢い良く起き上がる。
 それはつまり、あの時阿求は、里から神社まで、文さんに連れられる形で空を旅していた、ということ。常日頃から霊夢達と接して来た二人にとって「空を飛ぶ」ことは何よりの憧れでもあった。
「ど、どうだった?実際に文さんに空に連れて行ってもらって」
「まぁ…」
 どこか緊張に満ちた小鈴の質問に、阿求は目を閉じながら回想する。自分が空高くに居ることを教えてくれる、冷え冷えとした夕風。ばさ、ばさ、と間近で聞こえる羽ばたきの音。広大な空間にぽつんと取り残されたような寂しさにあって、けれど天狗の細腕が、自分を支えてくれることをはっきりと伝えてくれて――
「悪くは、なかったわ」
 ただ一言だけ返す阿求は、想い出を噛みしめるように手を合わせて、頬を赤らめさせていて。いつもなら見ることの出来ない友人の様子に、小鈴も思わず感嘆の息を吐く。
「…良いなぁー…」
 自分も文に空に連れられたら…ということを小鈴は想像する。あの文のことだ。慣れない空に興奮しっぱなしなこちらのことを、むしろうるさいくらいに気遣ってくれるのだろう、そう考えるだけで笑みがこぼれてしまう。決して落とさぬようにと身体を引き寄せられれば、鈴奈庵に似たあの匂いを間近で感じることが出来るのだろう。あの夕陽色の瞳は目的地に向けて真っすぐに伸びていて、翼も大きく…
 と、ここで、小鈴は再び座布団に突っ伏す。そうだ。いつしか会うのが当たり前みたいになっていたから、最も身近なことを忘れていた。
「そういえば私、文さんの翼、間近でちゃんと見たことなかったなぁ…」
「あら。そうだったの?」
「うん。鈴奈庵(うち)で見る時はいっつも記者さんとして来るから」
「あぁ…」
 「あのお花見の時、ちゃんと見とけば良かったなー」と小鈴はぱたぱた足をばたつかせる。鈴奈庵に来る時の射命丸文は、一人のしがない「社会派ルポライター」としての姿。その出で立ちや接し方は、意識しないと妖怪であることすら忘れてしまいそうな程人間と違いが無くて、当然、鴉天狗の特徴である翼は見ることがない。
「今度新聞を置きに来た時に、羽を見せてくれないかってお願いしてみようかなぁ」
「やめておきなさい。鈴奈庵(あそこ)はいつ誰が来るか分かったものじゃないでしょう」
「そうだよねー…」
 ぴしゃりと阿求に指摘され、小鈴がごろごろと転がる。座布団を抱き枕のようにして唸る親友の様に、あぁどうして今この家には猫耳がないのかしら、と阿求はますます嘆息する。うずうずして仕方ない。この後すぐにでも買って来させよう。
 それに、と阿求は思案する。仮に小鈴が鈴奈庵を訪れた文に翼を見せて欲しい、とお願いしても、文はきっとやんわりとそれを拒むと思う。あの天狗、ふざけているように見えて、実は相当意固地だ。たとえ自分の正体を知っている相手だったとしても、ここは人里だからと、あくまで「人間」でいることを徹底させようとするだろう。
「それだったら、私から機会を作ってあげましょうか」
「え?良いの?」
 飛びつくように体を起こす小鈴に、阿求はにやり、口角を曲げてみせる。
「もちろん。私もちょうどあの天狗と話したいと思っていたところだから」
 ちょいちょいと、猫じゃらしを振るように阿求は手招きする。小鈴は一度、意味もなくまわりに誰も居ないか視線をさ迷わせると、物音を立てぬように阿求の傍までにじり寄る。
 その光景は、普通とはちょっとだけ違う立場に居る少女たちの、けれど他の人間と何ら変わらない一面を映し出すもので。阿求の提案を聞いた小鈴は刹那目を見開いて阿求に振り向く。けれどすぐに、友人のちょっとした「悪だくみ」に、いたずらっぽく笑い合った。


***2***


 はぁ。本当この季節というのは、掃いても掃いてもキリがないわねぇ。

 赤、黄、黄緑、焦茶。彩り豊かに散り積もった落葉たちを箒で一ヶ所に集めながら、博麗霊夢は小さく欠伸をする。
 冷たい風が露出した肩に直撃し、霊夢は身体を震わせる。すっかり青の薄くなった空を見て、霊夢はため息をつく。この様子じゃ、この吐息が白く曇る時期もそう遠くはないだろう。
 こんもりと積もった枯葉の山に目を向け、これくらいで良いかな、と霊夢は額を拭う。境内の紅葉も見ごろであるとはいえ、今日の肌寒さでは、参拝客が来るのもあまり期待は出来ない。だからいつもなら、この後枯葉を使って焚火をして、この前人里でいただいた甘藷(かんしょ)でも焼こうかしらと考えていたところだが、今日に関してはそういう訳にもいかなかった。
 先日、稗田阿求から、博麗神社で話を聞かせて欲しい、という申し出があったのである。
 なんでも、彼女の友人でもある本居小鈴の一件も経て、彼女の中で人間と妖怪の関係について改めて考えるところがあるとのことで、一回博麗の巫女である霊夢と妖怪の間で、対談のような形式で意見を聞いてみたい、ということである。これも「阿礼乙女」としての「記録」なのだろう、それ自体は霊夢も異論はなかったのだが、場所として「博麗神社」を指定していたことに少し引っかかっていた。身体の弱い阿求は、余程の事情がないと博麗神社を訪れることがなかったためである。
 それを阿求に聞いたところ「人間の目から離れた神社の方が、お互いに積もる話もやりやすいでしょう?」とのことで、こちらから迎えに行かなくても良いか、という申し出にも大丈夫と断られたのだが…いつになくにこやかな笑顔に、何故だか別の意図があるような気がして、霊夢は頭を傾げたのである。
 とはいえ、そう言われた以上、こちらとしては神社で待つしかない。日の高さから考えて、そろそろ来ると言っていた時間帯だ。お茶の準備くらいはしておこうかしらね――そう足を踏み出そうとした時、先程までとは異なる方角から風が吹き付けてきたのが分かった。
 自分にとって馴染みのある空気に、刹那胸の鼓動が速まっていく。ささやかではあるが、こちらを圧迫しているかのように全身を揺るがす、重厚な風。これは、ある鴉天狗が空から降り立つ時に吹き上がる風だ。
 そう。今日対談する相手というのは「アイツ」のことだったのね。ならば確かに「積もる話」なんて月まで届く程にも積みあがっている。
 記者として里に潜入しては、ムカつく記事を人間にまき続けている天狗。常にこちらをするりと躱すように立ち回って、勝手を続けている天狗。なるほど確かに、今回の阿求のテーマにも最も適任な存在だ。
 厨(くりや)に歩きかけていた足を傾け、鳥居に向けて駆け出していく。それまで緩んでいた気持ちが一気に引き締まっていくのを感じる。そういうことなら望むところだ。一回「博麗の巫女」として、アイツにはガツンと言ってやらないと…
「来たわね――」
 けれど、そう意気込んでいた霊夢の熱は、ソイツの姿を見つけたことで、あっという間に固まってしまった。
 大きな黒翼を翻して立っていたのは、想像通りあの腹立つ鴉天狗――射命丸文だった。
 けれど、よく見てみると、そこに居たのは彼女だけではない。まるで童話に出て来る王子様のように、小柄な少女を一人、文は抱えていて。
「阿求さん?到着しましたよ」
「はい。ありがとうございます」
 鈴を転がしたような声が聞こえて、霊夢は思わず目を大きく震わせる。少女が立てるように文がしゃがんでみせると、少女はゆるりと文の手を取って、からり、軽やかに下駄を鳴らす。お気に入りらしい夏椿の花飾りは、菫色に真っすぐ伸びた髪に儚げに映えていて。
「お身体を冷やされたりはしていませんか」
「おかげさまで。快適な空の旅を過ごせました」
 ふらつかないよう丁寧に支えてあげる文へ優雅に微笑んでいたのは、紛れもなく、本日の主役の一人、稗田阿求だった。
 見た目だけで言えばあまりに「お似合い」の光景に霊夢がぽかんと突っ立っていると、阿求が「あぁ」とにこやかに笑いかける。
「お待たせいたしました、霊夢さん」
 慇懃にお辞儀をするのにつられて、霊夢もぺこりと頭を下げる。横で一息整える文と阿求を交互に見回して、今の出来事は現実なので霊夢は我に返る。
 むかむかとした熱を何とか抑えよう、真一文字に口を結ぶ。こうしていないと、すぐにでもこの熱は噴火となって身体から飛び出していきそうだ。
「…どういうことなの、これは」
 搾り出すような低い声で二人を睨みつけるも、当の阿求はにこやかな表情を崩さぬまま、手で文を指し示す。
「文さんにここまで運んでくださらないか、私からお願いしたのです」
 文を見つめる顔には、イタズラっぽい無邪気さと共に、どこかうっとりとした妖艶さすらこもっているように感じられる。
「『護衛』としてもとても優秀なんですよ。ですから最近は、里の外まで出る時には決まってお願いするようになりまして」
「『護衛』って…」
 「あっ」と霊夢は声を上げる。そうだ。そういえば過去に一度、阿求は文に博麗神社まで連れて行ってもらっていたことがあるのを、霊夢は知っている。そしてその時、この二人をある意味で「信用」してそうさせたのは、他ならぬ自分たちだったのだ。
 あれは、事情が事情だったのもあった。それに、この二人が特別仲の良いという話も聞いたことがない――どころか、小鈴の一件で阿求が警戒していると考えていたから、何も気にしていなかったのだ。それが、まさかこんなことになるとは。
「あ、アンタだって分かっているでしょう?コイツは人攫いなんてお手のものな天狗なの。そんな奴に気を許したら、いつ何をされるか」
「あら」
 もはや焦りを隠せていない声でなんとか説得を試みようとするも、阿求は紫水晶の瞳をまんまるに見開いて。

「天狗に攫われるなんて、どの阿礼乙女も経験したことがない出来事ですもの。きっと良い記録になるわ」

 逢瀬を楽しみにする乙女のような軽やかな声音に、霊夢は今度こそ絶句してしまう。けれど同時に、秋の陽に照らされ艶々と輝くその笑顔が、とても魅力的に感じられて。
 ほんのちょっと見なかっただけなのに、「稗田阿求」という「人間」はすっかり大人の美しさを身に宿していた。
「…この有様なのよ」
 霊夢の様子を見て、それまで口を挟んでこなかった射命丸文が、小さくため息をつく。彼女は刹那、咎めるように阿求へ流し目を向けると、大仰に肩をすくめてみせる。
「冗談でもそういうことを言ってはいけません、と何度も申し上げているのですけど」
「冗談なんてとんでもない。貴方にならと、私は本気で想っているのですよ」
 阿求は下駄を軽やかに弾ませながら文に近寄ると、そのまま試すような視線で彼女を覗きこむ。
「それで?いつ攫ってくださるの?」
「それも何度も言っています。私は貴方に、誰からも危害を与えさせることを許さない――私自身が貴方を攫うことも、決してありません」
 一切の躊躇いもない毅然とした拒絶に、霊夢もなんとか落ち着きを取り戻す。「あら、残念」と、まるで堪えていないように首を傾げる阿求から視線を外し、文はくたびれたようにまたため息をつく。
「全く、いつからこうなってしまったのか…」
「まさか、冗談でもどこかでそういうことを言ったんじゃないでしょうね」
「それはあり得ません。天狗の名誉にかけてお誓いします」
「むぅ…」
 それくらいは信用なさい――諭すような視線を向けられ、霊夢は小さく口を尖らせる。
「ま、アンタが来たのならちょうど良いわ。この件も含めて、今日はこってんぱんに叩きのめしてあげる」
「そういう趣旨の会ではないと聞いているんだけど…そもそも、霊夢が私に会話で肉薄したこと、一度だってあったかしら」
「うるさいうるさい!私だってちゃんと成長してるんだから。今日こそはアンタに」
「はいはい。それではお手並み拝見といきましょうか」
 噛みつく霊夢ににやにやとした笑みで構える文、お馴染みとなった二人の準備万端な様子に、阿求はくすくすとおかしそうに笑う。
「改めて、此度はお時間をいただきありがとうございます。本日の対談、よろしくお願いします」
 再び丁寧に頭を下げる阿求を、霊夢はちらりと睨む。彼女からも、後でコイツとの関係についてみっちり聞き出さないと、と、ピリピリした危機感が囁いている。これは、無垢な人間が悪い「天狗」に「篭絡」されている、放っておけない事態だ。だからこれは「博麗の巫女」として必要な責務なのだ、と何度も自分の中で納得させる。
「とにかく、お茶淹れて来るわ。先に部屋で待っていなさい」
「あぁ、それでしたら私もついて行きます」
 今度こそ厨に向かおうとする霊夢に、阿求は手持ちの風呂敷を掲げる。
「対談のお供にと、舶来の菓子を持って参りましたの。飾りが少し特徴的ですので、私も傍に居た方が良いかと」
「そう?……なら、お願いするわ」
 少し訝しげに首を傾げるも、霊夢は阿求がついて行くのを許可する。そうして一足先に神社へ入る二人を見送ると、文は落ち着いて呼吸を整えて。居間に向かう前に、神社の紅葉でも撮っておこうか、とカメラを構えた。
 朗らかに広がる青空に、油彩画のような落葉が一枚、また一枚と踊っている。短い時間でも、こんな景色を独り占め出来ているなんて考えてみるとなんだか悪い気がしなくて、つい得意げに微笑んでしまう。それが大切な巫女の神社、ともあらばなおさら。
 何を撮ろうか、レンズを巡らせていると、神社の屋根の上に止まっているカラスが目に入る。陽だまりにぽかぽかと温まっているそのカラスは、柔らかな羽毛を靡かせながら穏やかに眠っていて。ぱちり。紅葉が舞い込んだところを狙ってまずは一枚。シャッター音の手ごたえにふふっと息をこぼすと、もう一枚写真に収めようかしら、と文は再びレンズを覗きこむ。

 ――そんな彼女の後ろ。鳥居の陰に隠れながら、文の背中を一人の少女が見つめていた。

 より正確に言えば、見つめていたのは文の背中から顕現している黒い翼。日向になって柔らかな艶がくっきり浮き出ているそれは、話に聞いていた通り織物のように細やかで、ふわっふわに整えられていて。かと思えば、ぴこぴこと軽やかに弾み、彼女がいかに上機嫌であるかを語ってくれる。
 初めて観察する翼に、思わず感嘆の息がこぼれてしまう。あの羽根に今すぐにでも触れてみたい――そんな衝動を抑えることが出来ぬまま、その少女は文のもとへと歩き出す。
 一歩、また一歩。決して足音を立てぬように。呼吸音にすら気を使うように接近しながら、人影は文の翼を見つめ続けている。
 未だに文は、屋根の上のカラスさんを撮ることに夢中で、こちらに気が付いていないみたい。今が絶好の機会だ。模様の一つ一つが紫青色に輝く羽根を目の前にした人影は、ぐっと唾を呑み込む音をこらえると、震える手をその翼に伸ばそうとして――

 直後。手首を強く握られる感覚と共に、少女の視界は急激に回転した。

 …後から思い返しても、あの瞬間のことは、熱く熱く、強い火傷のように焼き付けられている。
 それはまるで、猛禽の鉤爪に捕らえられた、哀れな小動物のような。恐怖とかそういうのとは違う「あぁ、これから私、食べられちゃうんだ」っていう、何故だか客観的ですっきりとした感想で。
 目まぐるしく揺れ動いた意識の中で、あの時文がどんな顔をしていたか、少女には分からない。けれど、暗闇の中に禍々しく走っていた二本の赤は、紛れもなく少女が見た「真実」。

 間違いない。あれは、初対面の時でさえ見せることのなかった、禍々しい「妖怪」の眼だった。

「…小鈴さん?」
 驚きに満ちた、けれど確かにこちらを気遣うような声が、直ぐ近くで聞こえて来る。
 少女の――本居小鈴の視界には、夕陽色の瞳をいっぱいに見開いた、射命丸文の顔が広がっていた。
「どうされたんですか、こんなところで」
 慌てて手首をつかむ力を弱めると、背中をしっかりと支えながら、文は小鈴に問いかける。
 けれど、赤の残光が反復している今の小鈴には、ぼーっと文の顔を見つめることしか出来ない。
 頬はじんわりと紅潮している様子で、微かに聞こえて来る吐息も、気のせいか熱を帯びているように感じられる。
「小鈴さん?本当に大丈夫ですか?」
 声をより鋭くさせて、文は再び問いかける。けれどそれでも小鈴からの反応はなく、ただ文を恍惚とした表情で見つめ続けるまま。
 まさか、また何か妖魔本に憑りつかれたのだろうか――文は難しそうに眉を顰めると、さらに小鈴に顔を近付ける。けれど改めて視野を研ぎ澄ましてみても、小鈴から妖気の気配は全くなくて。
 ならば、と文は小鈴の身体を抱きかかえる。「ひゃ」と声をあげた小鈴は、熟れた林檎のようにますます真っ赤になっていく。
 この様子、どこか体調を崩しているのかもしれない。いずれにしても、彼女は脆い人間だ。肌寒さの残る外に居続けるのは得策ではないだろう。先ずは神社の中へ入れて、落ち着かせてあげないと――そう文が結論付けていると、厨の辺りから、耳馴染みのある足音が聞こえてきた。
「あぁ、ちょうど良かった霊夢、」
 急いで毛布を運んでもらえるかしら――そうお願いしようとした文の声は、けれどすぐ止まってしまう。
 足音の主である霊夢は、眼前の光景に唖然と口を開けていた。何せ、文のことを呼びに外に出てみれば、さっきまで居なかったはずの本居小鈴が、文にお姫様抱っこされている訳で。しかも、その小鈴といえば、もはやうっとりとした様子で、文をじっと見つめていて。
「…ちょっと?霊夢?」
 訝しむような文の発言も、今の霊夢の耳には入って来ない。真っ赤にさせた小鈴の顔が、霊夢の思考を捉えて離さない。
 異界に対する憧れだけでは納得させることの出来ない、小鈴の表情。ある意味阿求よりも分かりやすいその正体に、霊夢はひゅっと息を呑む。
 自分だけが知っている、そう得意げになっていた場所に、いつの間にか二人に入り込まれたような。それどころか、そのさらに先、自分がまだ辿り着いていないところまで追い越されているのではないかという焦燥が、霊夢を蝕んでいって。
「…ふぅん、なるほどなるほど」
 焦りを無理やり塗りつぶすように、ぽつりと呟く。開けっぱなしだった口が、だんだんと歪んでいくのが分かる。
 怪訝そうに首を傾げていた文も、かげろい立つ霊夢の激情を全身に感じ取って、ぐぃ、と小鈴を抱え直す。
「あんな偉そうなこと言っておいて、結局アンタは『天狗』だったってことね」
 にっこり、満面の笑み。背景の紅葉も相まって、その笑顔は、事情を知らない者が見たら立ち止まる者などいないくらい、魅力的に見えることだろう。
 けれど。迫る危機を本能で察知した文にとってそれは、さながら般若のように恐ろしいものに感じられた。

「神社(ひとんち)で何をおっ始めとるんじゃーーー!!!」

 幾数もの御札が、霊夢のまわりに顕現する。文は咄嗟に積み上がった落葉を巻き上げることで霊夢の攻撃を遮ると、小鈴をがっしりと抱えたまま素早く飛び上がって。御札が狙いを外したことに気付くや否や、霊夢も大幣を握り直して後を追う。
「ごるぁぁ、この誘拐天狗!今すぐに小鈴ちゃんを返しなさい!」
「そうしたいのはやまやまですがねぇ!こんな状況で小鈴さんを放せる訳ないでしょう!まず貴方は落ち着きなさい!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぎ合う声と爆発音が、神社の上空に響き続けていく。何時からか二人の喧騒に叩き起こされていたカラスは「またやってるなぁ」と言わんばかりにのんびり空を見上げると、またうとうとと、夢の世界へ羽ばたいていく。

 あぁ、まったく。今日も博麗神社という場所は、平和そうで何よりだ。


***3***


「はぁ~…本当に綺麗…」

 しばらく経って。博麗神社の居間。
 角度によってきめ細やかに色彩を変える射命丸文の翼を見て、本居小鈴は朱色の目をきらきらと輝かせていた。
「今までちゃんと見たことなかったことが信じられない。文さん、こんなに格好良い翼を持っていらしたんですね」
「ありがとうございます…その、小鈴さん?」
 背中にある付け根から風切羽の先っぽまで、博物館の展示品を鑑賞するようにぐるりと凝視し続ける小鈴に、文は頬を引きつらせる。
「そうまじまじと見られると、さすがに私もむず痒いのですが…」
「艶もあってとっても柔らかそうで…こんな翼に包まれたら、気持ち良く眠れるんだろうなぁ…」
「あ…あはは…」
 あぁ、今日は自分の話を聞いてくれる子は居なさそうだ、と諦めまじりに笑う。それに結局、こうも無邪気な好意を示してくれるような相手を文は無碍にすることは出来なくて、なすがままにさせてしまう。
 その様子を、博麗霊夢はムスっと頬を膨らませながら睨んでいる。あの騒動の後、我に返った小鈴から、自分から文に近付いた旨を説明されたため誤解は解けているのだが、それでも二人が仲睦まじそうに近付く事実をこうして見せつけられるのは、やっぱりもやもやしてしまうのだ。
「…ちょっと」
 横で優雅な所作でお茶を飲んでいる稗田阿求に、霊夢は小声で問いかける。
「結局なんで小鈴ちゃんはここに来てるのよ」
「私が第三者として声をかけたんです」
 眼前で小鈴が天狗と戯れるのを気にする様子もなく、阿求はにこりと笑う。
「人間と妖怪、どちらの視点にも接してきて、お二人との交友もある稀有な存在ですから。聞き役としてまさに適任でしょう?」
「…」
 筆を流すように澱みない返事を聞かされ、霊夢は怪訝そうに眉をひそめる。けれど阿求は、余裕に満ちた光を、なおも菫色の瞳に宿していて。なんだか試されているような視線に胸がざわついて、霊夢はつい目を逸らしてしまった。
「あの、文さん」
 頬を上気させながら、小鈴は問いかける。好奇心のあまり、鈴の髪飾りも弾むように鳴る。
「この翼って、いつもお手入れとかされているんですか」
「あぁ、それは勿論。天狗とはいえ、鳥の妖怪である私にとっては最も大切なところですからね」
 そう頷くと、文は腰に結び付けていた鞄から小さなポーチを取り出してみせる。閉じている紐をほどいてみると、紅葉があしらわれた櫛やヘアブラシが綺麗に収納されているのが見える。
「外に出る時も、こうして取材道具と一緒に羽繕い用のブラシを持ち歩いているんです」
「へぇぇ…」
「煮詰まった時なんかは、人気のないところを選んで羽を弄ったりして。翼の調子がすっきりすると、頭も働きやすくなるんですよ」
 朗らかに微笑む文を見て、小鈴は羽繕いの様子に思いを馳せてみる。取材が一段落し、人通りが無い事をしっかりと確認してから、巨木の枝まで身軽に飛び乗って。そうして、小鳥たちの囁きに耳を傾けながら、そのポーチからブラシを取り出して、動き回った翼を労わるように梳かしてあげて――あぁ、すごく画になることだろう。
「その、ひとつお願いがあるんですけど」
「?なんでしょう」
 つややかな翼と小さなブラシを見比べ、意を決したように小鈴は文を見上げる。

「一回、羽繕いしてみても良いでしょうか」

 そのお願いを聞いた文は刹那、紅葉色の瞳を大きく見開かせた。
 けれどそこには、驚きこそあれど、さっきまでのような動揺は全く見えない。何も穢れを知らない小鈴の瞳をしばらく見つめてから、納得したように一つ頷いて。身を乗り出していた小鈴の肩を、優しく剥がしてあげる。
「申し訳ありませんが、それを小鈴さんにさせる訳にはいけません」
 穏やかな、けれど毅然とした拒絶を聞いて、小鈴ははっと我に返る。先程までと一転、神妙な空気が流れだしたことを悟り、霊夢と阿求も二人の会話を見守ることにする。
「ごめんなさい…文さんにとって大切な体の一部なのに、軽い気持ちで…」
「あぁ、こちらこそ説明不足ですみません。そういう意味ではないのです」
 落ち込む小鈴を優しく宥めながら、文は説明を始める。
「他の鳥の羽繕いをするということは、相手がその鳥にとって最も大切な存在――例えば、番(つがい)であることを表しているのです」
 「ぇ」と小さな吐息のような声が小鈴から漏れる。
「鳥というのは、自分の嘴では届かない場所について、二羽でぴったり身体を寄せ合いながら、相手の嘴で整えてもらうことがあります。ですがそれは、相手と強く結ばれていないと出来ない営み。番の仲を確かめ合う行為でもあるのです」
 にっこり、慈しむような笑みからは、とにかく真っ直ぐに彼女と向き合おうとしてくれているのが伝わって来る。
「天狗としての生を受けてから千年程経ちますが、それでも私は、鳥だった時分の心を、今もはっきり持っています」
 つまり、鴉の出身である射命丸文にとって「羽繕いをさせる」行為は、自分の番(つがい)であると認めることになってしまうということ。
 本居小鈴が、射命丸文の伴侶になるのを意味しているということ。
「それは小鈴さんにとって、決して本意ではないでしょう?」

 ――ですから、貴方に羽繕いをさせる訳にはいきません。

 一連の話を傍らで聞いていた霊夢と阿求は、呆れたように眉尻を下げていた。本当、おかしなところで真面目で融通の効かないところがあって、それでいてしっかり彼女なりに誠意は見せているつもり。憎たらしい程に射命丸文らしい返事と言えるだろう。
 小鈴はというと、説明を聞いてもぽかんとしたまま文を見つめ続けている。それもそうだ、と文は眉尻を下げる。ほんの好奇心からお願いしてみたことが、相手から見れば「求婚」を意味している行為であるなんて、普通は想像出来ないだろう。
 それに、憧れを持つことはあれど、婚姻の話は小鈴にとってまだ現実味のない話題のはず。あの様子では、立ち直るまでにはもうしばらく待つことになるだろう。文を含め、その場に居る誰もがそう考えていた。

「文さんなら、良いですよ」

「…は?」
 それは、すとんと、本当に何気なくこぼれ落ちたような本音だった。
 その場に居る全員が――阿求でさえも、大きく目を見開きながら、その場に固まってしまう。誰もが呆けている沈黙の中で、それでも小鈴の目は純粋なまま、文に向けられていて。
 どれだけの時間がたっただろうか。大きなため息と共に、文はゆぅらりと頭を横に振る。
「小鈴さん?ご自分が仰っていることの意味が分かっているのですか?」
「はい」
「『はい』って……いえ、いえ。絶対に分かっておられない」
 呻くような声をあげると、敢えて威嚇するように、文は端正な顔を歪めてみせる。
「私は天狗なのですよ?たとえ今こうして貴方に対し善良を演じていたとしても、れっきとした妖怪なのです。それをどうかお忘れなきよう」
「文さんこそ。そうやって他人のことを自分だけで完結させようとするの、文さんの悪いところだと思います」
 けれど小鈴は、そんな警告にも全く怯むことのないまま、はっきりと文に反論する。その堂々と張り上げられた声に、むしろ文の側が気圧されてしまう。
「確かに私は、文さんから見れば何も分かっていない雛鳥なのかもしれません。けど、短いなりにたくさんの方と接してきて、自分の『眼』を磨くように頑張っているつもりです」
「しかし」
「今だって自分が危険な存在だからなんだって、私の心配ばかりしてくるじゃないですか」
 「妖怪でそんなことを何度も言ってくるのなんて、文さんくらいですよ?」と微笑む小鈴に、文は口を挟むことが出来ない。どう返せば良いか目を迷わせる時間すら与えず、小鈴は一気に攻め込む。
「文さんみたいな優しくて誠実な方と一緒になれるのなら、私は拒みません」
 再び沈黙が部屋を包み込む。
 目の前で繰り広げられた衝撃的な光景に、霊夢は完全に置いてけぼりになっていた。先程にも増して、身体のざわつきがますます激しくなっていくのを感じる。
 本当だったら今すぐにでもこんな場面叱りつけないといけないのに。文から小鈴を引き剥がさないといけないのに。どこまでも清らかで、悪いところも含めはっきりとぶつかって受け入れようとする想いに、圧倒されてしまっている。
「けど、そうですね。こういう大切な話は、私だけ一方的に言うものではありませんよね」
 小鈴はそう呟くと、未だ呆然としている文の前で髪飾りを解き始める。清らかに揺れる鈴と共に、二つ結びにしていたくせっ毛が柔らかな艶を持って流れ落ちていく。あぁ、小鈴の髪はこんなにも長くて綺麗で、そして「おいしそう」だったのかと、文は初めて気付いた気がした。
「ですから、こんな不束者の私を、もし文さんが受け入れてくださる、というのでしたら」
 すっかり髪を解き終えた小鈴の姿は、自分を差し出すように頭を下げる。若い人間特有の甘い香りが、文の本能を撫でるように誘惑してくる。

「どうぞ私の髪に、櫛を通してください」

 それは、私の「羽繕い」を文にして欲しい――という、実質的な「求婚」だった。
 夢にでもいるのではないか、そう文は思った。たとえそれが紛れもない「事実」だと分かっていても、それを易々と認める訳にはいかなかった。それを認めるのが何を意味するのか、文は良く分かっていたから。
「ぁ…」
 汗が一滴、畳に落ちる。上目遣いで緊張している様子の小鈴を見ると、喉がからからに乾いていく。
 いくら勢いで言っているとはいえ、小鈴にとってその告白は、一生分の決意を背負うものだ。半端に誤魔化すなんてことをしたら、文は自分を一生許せないだろう。諦めてもらうにも、その想いには誠意をもって向き合わなければならない。
 けれど、記者として培った語彙をどれだけ掘り下げていっても、小鈴の決意に足る返事は、全く出て来ない。もう晩秋というのに、灼熱の真っただ中にいるような沈黙が、射命丸文の肌をじりじりと差し続ける。すると、そんな文に手を差し伸べるかのように、滑らかな衣擦れの音が近付いて来るのが聞こえて来た。
「駄目よ小鈴。それは私が許さないわ」
 毅然とした声で、稗田阿求が小鈴に告げる。思わぬ展開に目を剥きつつも、心のどこかで安堵している自分が居ることに気付く。
 阿求からすれば、里の人間が天狗と結ばれることは、人間側の立場として認められるものではないはずだ。卑怯かもしれないが、まずは阿求から説得してもらった方が、小鈴も落ち着きを取り戻すことだろう。
「その前に文さんには、私に対する返事を聞かせてもらわなければいけないもの」
 そんな文の目論見は、妖艶に微笑んだ阿求の発言で、あっという間に消し飛んでしまった。
 むしろ、さらなるがけっぷちにまで追い詰められてしまっている状況にあることを、文はすぐに悟った。
 『天狗に攫われるなんて、どの阿礼乙女も経験したことがない出来事ですもの。きっと良い記録になるわ』
 あぁ、そうだ。あんなシャレにならない「冗談」を言うようになった阿求が、何故この局面で文を助けてくれると思っていたのか。
 頭を抱えたくなるのを懸命にこらえながら、それでも文は阿求をいさめようと頭を働かせる。
「あのですね。そのような冗談は決して言うべきではないと」
「『そうやって他人のことを自分だけで完結させようとするのが、文さんの悪いところだ』」
 けれど、強く張りのある声の前に、文は呆気なく言葉を詰まらせてしまって。そんな文の様子を見て、阿求は再び口許を綻ばせる。
「…さっきそう指摘されたばかりでしょう?」
 行き場を失いさ迷っていた文の手を、阿求は両手で握ってあげる。白くてすべすべしてて、そしてあまりにも小さな手で、精一杯包み込むように。
「文さん。私は一度、貴方に絶望から救っていただいたことがあるんですよ」
 あまりにも透明感のある清らかな声で囁かれ、文は思わず息を呑む。
 今回に限らず、事実として、文は阿求に同行するのが多くなっていた。けれどそれはあくまで「阿礼乙女」である阿求の使命を全うさせるために出来ることをする、「天狗」として当たり前のことをしただけのこと。仮に何らかのことで阿求を助けてあげたとしても、それはあくまで業務としての範疇に入ることだ。
 彼女が阿求にしてあげていたことなど、それ以上でもそれ以下でもないと思っていた。
 だから本来、そこに特別な想いが入る余地なんて、どこにも存在していなかったはずで。
「…申し訳ありません。私が何時そのようなことをしたのか、本当に心当たりがなく…」
「まぁ、そうだろうとは思ってました」
 「貴方はそういう天狗(ひと)ですものね」と阿求は眉尻を下げる。透き通った紫水晶の瞳には今まで見せていたようないたずらっぽさはもうどこにもなくて、むしろ純粋な光がいっぱいにたたえられている。
「ですが私は、その時のことをずっと、宝のように想い続けているのです」
 そうして阿求は、夏椿の髪飾りにゆっくり手をかける。繊細な手つきで飾り紐を解いていくと、柔らかな髪がさらり、流れるように靡いて。
「もし、こんな儚い人間の心を受け入れても良い、そう言ってくれるのでしたら」
 衣に焚きしめられた上品な香りが、文の心を三度揺さぶる。阿求は改めて姿勢を正しながら文に向き合うと、流れるような仕草で頭を下げる。

「どうか、この髪に櫛を通してくださいませんか?」

 「わぁ…」とうっとりとした吐息が、小鈴からこぼれ落ちる。「阿礼乙女」の立場すら脱ぎ去って、自分の想いだけを残している親友の姿は、本居小鈴にとっても初めて見るもので。そしてそれは、今まで見たどの阿求よりも大人っぽくて、けれど幼い子供のようにも見える、なんとも不思議な魅力をたたえていて。
 すごいなぁ、やっぱり阿求はすごいなぁ。自分じゃ勝てないなぁ。
「な…」
 一方で、文はぽかんと口を開けることしか出来なかった。本当に、この二人に何があった?一体どうしてこうなった?何とか二人の告白に向き合おうとするも、疑問と焦燥がぐるぐる渦巻く頭では、これからどうすれば良いのか、考えることすらままならない。
 そうだ。霊夢。霊夢は何をしているのか。経緯はどうあれ、これは口実としては「天狗が人間を誑かしている」光景だ。先程と同様にこの光景を糾弾し成敗するのが「博麗の巫女」のはずだ。
 もはや縋るように霊夢が座っていた方へ視線を向ける。けれどそこからは、いつの間にか霊夢の姿は居なくなっていて、文は再びその場に固まってしまう。ものすごい胸騒ぎに襲われながら一体どこへ、と身を乗り出そうとすると、くぃ、と背後から誰かがスカートの裾をつかんでいることに気が付いた。
「…ちょっと」
 躊躇いがちに発されるか細い声に、思わず文は息を呑む。胸の奥底が爆発しそうになるのを懸命にこらえながらゆっくりと振り返ると、そこには、いつの間に回り込んだのか、博麗霊夢が座っていた。
 霊夢は耳まで真っ赤っかにさせながら、顔を俯かせている。さらさらとした前髪に遮られて、彼女が今どんな顔をしているのか、はっきりとは分からない。けれど、何かを言おうと口を開いて、けれどなかなか言えずもごもごと閉じてしまう、それを何回か繰り返しているのは何となく見えて。
 いつの間にか、小鈴と阿求は二人から少し下がっている。霊夢を見つめる眼には敵対心など欠片もなく、むしろ背中を押すような温かな光に満ちていて。そんな二人をちらりと横目で認めると、霊夢は意を決したように、後頭部に結ばれたリボンに手をかけて。しゅるり、しゅるり、布地が擦れる音と共に、大きな羽を休めていた紅い蝶々が、霊夢のもとからゆっくりと解かれていって。

「私を置いて行かないでよ…」

 とても馴染み深い、安心させてくれる香り。手入れの行き届いている黒髪は柔らかく垂れて、あどけない艶を放つ。こちらに身を乗り出して来たことでやっと見えた栗色の瞳には、懇願するような涙に潤んでいて。
 長く見知っていた巫女の、けれど全く知らなかった弱々しい一面を目にし、それまでの葛藤すら、文から吹き飛んでしまう。とにかくまずは霊夢を宥めなければ、そんな言い訳に操られるように、小さく縮こまっている肩に手を伸ばしていく。その意味を悟った霊夢はぴくりと身体を震わせるも、すぐに覚悟を決めたように固く口を結んで。文が黒髪に触れやすくするように身体をしなだれさせて、そのまま文の温もりを、匂いを全身に浴びるように瞼を閉じて――

「おーっす、霊夢!」

 文の手が霊夢を撫でようとしたまさにその直前、居間の障子が勢い良く開け放たれる。未だ活発に戯れている落葉を背景に、霊夢の悪友である霧雨魔理沙が元気いっぱいに笑いながら立っていた。
「邪魔しに来てやった…ぜ…」
 籠いっぱいに詰められた果物を土産として突き出した彼女は、けれど眼前に広がる光景に、あっという間に声を落としてしまう。
 何せ、この神社の主である博麗霊夢が、懸想している射命丸文に身を委ねた瞬間を今まさに見てしまった訳で。そして傍には、二人の様子を固唾を呑みながら見つめていた稗田阿求と本居小鈴が居て。しかもよくよく見ると、文以外の三人は、何故かいつもつけている髪飾りを皆解いている様子で。
「あー…」
 しんとした沈黙が落ちる中、魔理沙は素早く状況を把握する。これは本当に「邪魔」をしてしまったらしいと気まずそうに頬を引きつらせ、ぽかんとしたままの文に視線を向ける。
「その、なんだ。お前がその気になってくれたのはほんっとうにめでたいことだな!めでたいめでたい」
 うんうん、と頻りに頷く姿もなんだか虚しく感じてしまって、目を逸らしてしまう。
 いや、本当にめでたいとは思っているのだ。本当だぜ?これでも私はコイツのもどかしい様を最も近くで見続けて来た訳だからな?
 けどそうは言っても、残りの三人が今どんな顔してこっち見てるんだろうなぁ。
 あー視線が痛い気がするなぁ。ちょっと今はアイツらの顔まで見る勇気は出ないなぁ、ははは。
「せ、正式なご祝儀はまた今度持って来てやるからな!今はどうぞごゆっくり」
「魔理沙」
 籠を置いてそそくさと立ち去ろうとする魔理沙に、低く掠れた声がかけられる。錆びた人形のようにぎこちなく声の方を振り返ると、何とか我に返ったらしい文が、真っ赤っかになったまま魔理沙を見つめているのが見えて。文は羞恥やら安堵やらを強引に呑み込むように眉を顰めると、弱々しい声で、言葉を続けた。

「…今すぐ手を貸しなさい」


***4***


 夕刻に差し掛かり、茜色を帯びた日差しに、博麗神社の紅葉はますます艶やかに照り映えている。先程まで掃き清められていたはずの参道は、いつの間にか再び落葉でにぎわっている。
 眠っていたカラスもすっかり目を覚まし、壮観な景色をほぼ独り占めにしている屋根の下、三人の少女が仲良く並びながら――というより、一羽の鴉天狗にぴったり寄り添うように眠っていた。
 規則正しく胸を上下させているあどけない寝姿を見ると、心の中で何かが弾けそうになる。かと言って危機感から目を逸らそうとすると、皆不機嫌そうにうなされながら身体を密着させてきて。大声が出そうになるのをこらえながら視線を戻すと、また頬を緩めながら穏やかに眠り続ける。
 さっきからこの繰り返し。霊夢、阿求、小鈴の三人を寝かしつけている射命丸文にとって、今はひたすら本能と戦い続ける時間でもあった。
「ちょっと」
 三人を起こさないよう十分注意を払いながら、素知らぬ顔で座っている魔理沙へ話しかける。
「そんなところで笑っていないで、彼女たちを引き剥がすのを手伝ってもらえませんか」
「なんでだよ。そいつらはお前の傍に居るのが良いんだろ?」
 「また馬に蹴られるのはごめんだぜ?」と肩をすくめる魔理沙に、文はため息を吐く。
「ならばせめて、そこにある毛布を持って来てください。このままでは三人とも身体を冷やしてしまいます」
「そんなことしなくても、お前のその翼で温めてやれば良いじゃねぇか」
 背中から出ている黒翼を指し示しながらも、魔理沙は気だるげに立ち上がる。確かに、雛を温める親鳥がするように、大きな翼で包むように抱き留めてあげれば、彼女たちを温めるだけでなく、さらに満ち足りた想いで寝つかせることが出来るだろう。けれど文は、魔理沙の提案に対し、毅然と首を横に振る。
「しませんよ…彼女たちはもう子供ではないのです」
「ふぅん?」
 魔理沙は持って来た毛布を丁寧にかけてあげながら、大仰に目を丸くさせてみせて。
「一番『子供』扱いしてるお前には言われたくないなぁ」
 ぴしり、あっという間に文の顔が凍りついてしまう。やれやれこういう話題になるとコイツは本当分かりやすくなるなぁ、と魔理沙はため息を吐く。
「お前のことだ。そいつらの行動は一時の『気の迷い』だって自分に『言い聞かせてる』んだろ?」
「…」
「だから『ままごと』みたいに受け取っておくことで、何とかこの場を乗り切ろうと試みた。違うか?」
「…だったらどうしたと言うの」
「別に…と、言いたいところだが、そいつらの友人として忠告はしとかないとな」
 精一杯の抵抗のように弱々しく睨む視線にも、魔理沙にとっては慣れっこだ。

「そんな考えがバレてない程、そいつらは馬鹿じゃないぞ」

 図星を突かれた文は再び、視線をあちらこちらへ迷わせてしまう。そうして行きついた先は、やっぱり、彼女を慕うように身体を寄せている少女たちの寝姿で。
 鴉天狗である自分を信じきってしまう程に甘く幼く、けれどそれ以上に強い意志と信念を持ち合わせた少女たち。
「…『気の迷い』でなければいけないのよ」
 分かっている。魔理沙の言う通りだ。賢い彼女たちは、きっと文の考えになどとっくに気付いているだろう。
 けれど文にとって、彼女たちの想いは泡沫(うたかた)のものでなければならないのだ。
「私という天狗と共に生きるのが、どれだけ残酷な運命を背負うことを意味するのか、この子たちは知らない…涙を流すことすら許されない、不自由な未来を強いることになるのか、知る由もない」
 射命丸文と共に生きるということは、天狗の社会で生きるということを意味する。
 少女たちが、今まで生きて築き上げて来た幸福を――「人間」として生きることを全て捨て去らなければいけないということを意味する。
 たとえ妖怪の世界に足を踏み込んでいると言っても、彼女たちが居るのはそのほんの一歩目だけ。その事実がどれだけ重い意味を持っているのかを、この子たちは知らない。
 知る必要もない。
「立場など関係なく、一人の人間として自由に生きる権利が、この子たちにはあるの。それを手放させることなど、私は許せないのです」
 射命丸文は「人間」として精一杯輝いている少女たちを、何よりも大切にしたいと思っている。
 自分が入り込んだせいで彼女たちの魅力を消してしまうことなど、射命丸文には到底受け入れられない。
「だから私は、決してその気持ちに応えることは出来ません」
 自分はただ記者として、天狗として、少女たちの生きざまを見届けることが出来れば、それで良いのだ。
「そこまではっきりしてるなら、正直にそう言えば良いじゃねぇか」
「…彼女たちが、それであっさり引き下がってくれると思っているのですか?」
「まぁったく?むしろ、お前を縛っている現実に抗おうとますます奮起するだろうなぁ」
 「お前、良い奴らに愛されてるよなぁ」とけたけた笑う魔理沙に「面白がっている場合ではありません」と唇を尖らせる。
 本当、清らかな彼女たちがどうしてこんな自分に惹かれることになってしまったのか。どれだけ長い時を生きて来ても、人間というのは未だに全く分からない存在だとつくづく思う。
「まったく…」
 けれど。こうして穏やかに眠っている三人を見ていると、どこか懐かしい温もりがこみあがってくるのも、また事実で。手放したくない、この手で慈しんであげたい――そんな気持ちがあることも、どうしても否定出来ない。
 それは親としての愛情?それとも師として?姉として?友人として?あるいは――それこそ番(つがい)のように?どれをとっても、きっと正確に言語化出来ているとは言い難い、複雑で、けれど大切にしたい感情。
「…」
 滴を受け止めそうな程に長い睫毛に目を落としながら、文は唇を綻ばせる。結局一番良く分かっていないのは、自分のことなのかもしれない。
「ま、何にせよだ。そこまで考えているなら、なおさら早めに決着をつけとけよ」
 一頻り笑い終え、滲んだ目尻を拭いながら、魔理沙は言葉を続ける。

「人間の時間というのは、想像してる以上に短いんだから、な」
「分かってます」

 はっきりしていることは、一つだけある。
 こうして彼女たちが自分を選んでくれたからには、この手ではっきりと正しい方向へ導いてあげるのが自分の責務だ。
 それは、自分が「天狗」だからそう想うのか?自分の目指す理想の「天狗」がそうだから、そう決めているのか?…否、それは決して正しくない。
 彼女たちの幸せを願う「射命丸文」として、やらなければならないことなのだ。
「…この様子じゃ、今日こいつらは泊まりになるだろうな」
 紅葉色の瞳に決意の光が灯ったのを確認すると、魔理沙は満足げに立ち上がる。
「ちょっくら里まで飛んで、二人のことを伝えて来るぜ」
「助かります」
「良いってことよ。あ、またそのうち『山登り』に行くつもりだから、そん時はよろしくな」
「駄目です。言っておきますが、白狼天狗たちに見つかっても今度は庇ってあげませんからね」
「なんだよー」
 相変わらず真面目な文の態度に「ケチ」と舌を出しながら、魔理沙は箒に跨る。里の方向にはすっかり夕陽が沈みかけ、天頂に向かって紫に藍にと、空全体が虹になったようにグラデーションを作り始めていて。この様子だと、もう少ししたら穏やかな星模様となるだろう。
 かぁ、という鳴き声が聞こえる。声のした方に振り向くと、神社の屋根から、一羽のカラスがこちらを見つめていることに気が付いて。カラスは魔理沙と目を合ったことを認めると、もう一度張りのある声で魔理沙に鳴きかけてくる。
 それはまるで「ここは任せておけ」と頼もしく格好をつけているように見えて。魔理沙はいたずらっぽく「あぁ、任せたぜ」と返事をすると、そのまま地面を蹴って、神社から飛び立っていった。
***おまけ***


 本居小鈴が人間の里から失踪し「神隠し」に遭ったのではないかと囁かれていた、あの春。
 博麗神社からの花見に招待され、稗田阿求が射命丸文と向かうことになった、あの夕。

 あの天狗と会うまでに自分がどう歩いていたのか、今となってはもう記憶にない。
 気を使ってくれたらしい使用人が頻りに話しかけてくれていたような気もするが、彼女にも申し訳ないことに、それもまったく覚えていない。
 けれど、から、から、と、無機質に響く下駄の音だけは、今もやたら耳に残っている。
 多分それだけが、あの時の自分の感情を、的確に表現するものだったから。

 待ち合わせ場所である門の外まで到着すると、約束の相手――射命丸文は、既に阿求を待っていた。阿求をここまで案内してくれた使用人に丁寧なお礼をもって返してあげると、社交的な笑顔で阿求に向き直る。
「それでは、参りましょうか」
 差し出された手を取ると、流れるような動きで身体を抱きかかえられる。猛禽の鉤爪に捕らえられたかのように身体は細腕の中にがっしり収まっていて、それでいて楽な姿勢が取れるよう細かく配慮されていて。あぁやはり、天狗は本当にこういうことについて「慣れている」のだな、とぼんやり考える。
「窮屈で申し訳ありませんが、しっかり捕まっていてください」
「…お願いします」
 阿求の腕が文に回されたことを確認すると、妖の証たる黒翼を大きく現出させる。ばさりと風を薙ぎ払う音に、これから空へ羽ばたきだすのだと確信し、反射的に回す腕の力を強くさせる。
 ほの昏く暮れかけている夕闇の空、袖がめくり上がる浮遊感に、ぎゅっと目をつむる。ばさ、ばさ、激しい音と共に、自分が高く、さらに高くまで浮き上がっているのが伝わって。その度に、冷たく重々しい空気が小さな身体を包み込むようにのしかかる。
 さむい。さむい。自分でも良く分からない、経験したことのないざわつきが、阿求の中で急速に増幅する。
 なんとか表に出さぬようぎゅっと息を殺して、さらに身体を縮こまらせようとして。
 けれどもう溢れるのを堪えることは出来なくて、震えとなって表れようとした、その時。ぐぃ、と射命丸文が、抱えていた腕で阿求を引き寄せるように密着させた。
「申し訳ありません。お身体を冷やされてしまいましたか」
 思いがけず優しい声で囁かれ、ようやく阿求は目を開ける。紅葉色の双眸が夕陽の朱光を反射して、穏やかにこちらを見つめているのが分かって。宝石のような美しさを間近にし、思わず阿求は見とれるように固まってしまう。
「…なるほど。少し失礼します」
 文はにこりと笑うと、阿求の背中に片手を添え、子供をあやすようにさすり始める。インクや古紙が微かにしみこんだ、筆を執る者特有の匂いが、阿求の鼻孔をくすぐる。ゆっくりと息を吸っているうちに、鳥の性質に由来するのだろう体温が、じんわりと身体に染み渡っていくのが分かって。荒々しいだけに思っていた羽ばたきが、だんだんと耳心地の良い音に聞こえるようになって、力が抜けていく。
 自分の身体がすっかり天狗に甘えてしまっていることを、阿求は悟る。けれど一回身を委ねてしまった本能は、もう文を突き放すことなんて出来なくなってしまっている。
「恐怖心が落ち着くまで、一先ずここで休憩しましょうか。微力ではございますが、お手伝いしますよ」
「…こわくなんか、ありません」
「何を仰います」
 僅かな抵抗とばかりに目を逸らそうとする阿求の声に、文は眉尻を下げる。

「飛ぶことが出来ない貴方が、初めて空高くまで来たのです。心細く思うのは当たり前です」

 それを恥じることはありません――文の言葉を聞いた刹那、すとん、と阿求の中で何かが落ちたような気がした。
 紫水晶の目を大きく見開きながら文をしばらく見つめると、後ろの空をゆっくり振り返る。
 透き通った空気に擦り切れて、夕空は橙黄色に薄く輝いている。里の家々は既に小粒となって霞んで見えて、上空の風は一羽の鳥にすら遮られることもなく、菫色の髪を冷たくはためかせる。
 誰も居なくなった世界で、一人ぽつんと漂っているような寂寞。助けを求めたところで誰に届くこともなく、さりとて自分から動く方法すらも封じられて。
 さむい。さむい。さむい。さむい。
 こわい。こわい。こわい。こわい。

 ――さみしい。

 ぱちん、と弾けるような感覚と共に、未だ行方知れずである小鈴の笑顔が、はっきりと浮かび上がる。
 あぁ、そうか。そうだったんだ。
 私、寂しかったんだ。
「文さん」
「なんでしょう」
 淡い夕空を見つめたまま、抑揚のない声で文に話しかける。
「今さら花見に『行かない』という選択は……許されるでしょうか」
 いつもだったら阿求が参加することのない、博麗神社での花見。今回自分が招かれたことには、何かしらの意図があるのかもしれない。
 自分や射命丸文が知る必要のある事実が、そこにはあるのかもしれない。
 けれどそんなこと、今の自分にはどうだって良い。
「このまま花見に参加したとしても、楽しめる気がいたしません」
 神社に集まった者たちは人間妖怪の別などなく豪快に笑い合いながら、満開に咲き誇る桜を愛でることだろう。
 けれど、他の者たちには美しく可憐なものに見える桜の花弁も、今の自分には鈍色に濁った破片にしか見えない。
 だって。そのお花見に集まっている者の中に、本居小鈴は居ないのだから。
 いつも一緒に桜を見ていた親友(とも)が、隣に居ないのだから。
「もう小鈴の顔を見ることが出来ない――その事実を認めざるを得なくなりそうで、怖いのです」
 『あんた友達少ないもんね』
 そういえば。あの時も、桜が満開に咲いていた。
 お花見に浮かれていた小鈴に対して言った軽口だった。けれど今となってみては、それは残酷なまでに自分に跳ね返って来る言葉だった。
 「阿礼乙女」として特別な存在として生きることを宿命づけられた阿求にとって、「友達」は耳馴染みのない単語だった。同い年の子供と遊ぶ経験などロクに経ないまま、ただ記録者としてこの生を捧げるだけ。そう決めていたはずだった。
 けれど、稗田家との縁がある貸本屋の娘は、そんな彼女の立場を知りながら対等に接してくれた。最近読んできた妖魔本のこと、不思議な出来事のこと、自分と関心を共有する様々な事柄を知的好奇心いっぱいに輝かせて、阿求と語り合った。
 その好奇心はしばしば危なっかしい方向に向いたりもして、とにかくやきもきさせられたけれども。稗田阿求にとって、本居小鈴という「友達」と巡っていた時間は、どんな重厚な書物よりも大切で、きらきらと輝いている「記録」だった。
 どうして、今になるまでこんな大事なことに気付かなかったのだろう。
 本居小鈴を失ってしまったら、自分はどう生きていけば良いのだろう。
 考えることが出来ない。考えたくなんかない。
「だからもし、小鈴が『神隠し』に遭っているのが『真実』なら――もう、小鈴と会うことが叶わないのなら」
 消え入るような掠れ声で文を見上げた瞳には、涙がいっぱいに溜まっていて。縋りつくように弱々しく破顔する様子は、文がこれまで見てきた中で最も幼いものに見えて。

「どうか、このまま私を攫ってくださいませんか」

 このまま憔悴して生きていくくらいなら。独りぼっちの生活を強いられるのが運命というのなら。
 いっそもう、妖怪の「贄」になってしまった方が良い。
 「阿礼乙女」としての役目などすべて放り投げて、このまま。
「……そのようなこと、決して仰いますな」
 鳥一羽、雲一片も通らない黄昏時の空。既に稗田阿求をその手に収めている、並の妖怪なら喜んですぐにでも貪りそうな状況下にあって。
 それでも射命丸文は、たっぷりと時間をかけた後、未だ余裕を保った笑顔で、阿求を宥めようとする。
「もう小鈴さんと会うことが出来ないと、決まった訳ではありません」
 あぁ、やっぱり。この天狗ならきっと、そう言うだろうと思った。
 乾いた笑いと共に、絶望が激情となって昇華していく。
「彼女が帰って来た時、最も顔を見たいだろう貴方がそのような気弱な様子でどうします」
 うるさい。うるさいうるさい。
 そんな言葉、よりにもよってお前の口から聞きたくない。
「だから今はどうか、貴方の出来ることを」
「薄っぺらい気休めを言うなっ!!」
 振り落とされる危険性など構わず、文の胸倉を引っつかむ。今度こそぶん殴られたかのように顔を固まらせた文に対し、阿求は声を荒げる。
「お前がっ!お前自身がお手上げだって私に言ったくせにっ!」
 日が落ちかけ、夜との境界が曖昧となった薄闇に、阿求の絶叫が虚しく反響する。菫色の髪を振り乱しながら、がむしゃらに胸を叩いて、喚いて。文に当たり散らしたところで何ひとつ進展しないと頭で分かっていても、そうせずにはいられない。
 そもそも。小鈴の失踪について「神隠し」の説を提起したのは、射命丸文だ。
 今までの調査を経て考えられることを筋道立てて、阿求を納得させたのは、射命丸文だ。

 『もうお手上げですね』

 小鈴を見つけ出す方法はないと阿求を諦めさせたのは、他ならぬ、射命丸文なのだ。
 それを。棚に上げて。今さら。どの面下げて。
「そう、でしたね」
 呆然となすがままにされていた文の表情に、ぴきり、ひびが走る。空を真っすぐ吹き渡っていた風は重い乱流に歪められて、暴れていた阿求をびくりと震えさせる。
 視界がかき消される宵闇の中、文の口許が禍々しく曲げられたのが辛うじて見える――あぁ、逆上させてしまったか。とうとう越えてはいけない一線を自分は越えたのだろう、と阿求は達観する。
 動きを完全に封じられてしまった空中。今ここから放り出されてしまったら、飛べない阿求に出来ることはない。足掻くことも許されぬまま、地上に叩きつけられてしまうことだろう。ぺしゃんこになった挙句、獣の餌だ。
 けれども、もうどうでも良い。その方がこちらとしては、願ったり叶ったりだ。悪いのは全部、不用意に妖怪を逆上させた自分になるのだ。良いお手本として、記録者の最後の務めも果たすことが出来るだろう。
 だからどうか。私をさっさと、楽にして欲しい…
「まったく、その通りですよ」
 けれど、射命丸文もまた、阿求と傷を共有するかのように、小さく喘ぐ。阿求を支えていた細腕は、放り出すどころかむしろ抱きしめるように彼女を引き寄せて来て。文の震えを全身に感じたことで、滾り出す覇気に阿求も気付く。

 本居小鈴が人間の里から失踪した――その知らせを耳にしたあの時、射命丸文は、誰よりも早く捜索のために動き出していた。自分の足で行方について聞き込みを行う傍ら、知人の天狗二人のもとを訪ね、小鈴の捜索に協力してくれないかとお願いした。
 二人の天狗は、刹那驚いたように顔を見合わせるも、見ず知らずの人間の捜索をすぐに引き受けてくれた。射命丸文のことを知る彼女たちは、何度も頭を下げて来る文の姿から、事がただならぬ事態であることを瞬時に把握したのだ。けれど、彼女たちの誇る「念写」や「千里眼」をもってしても、小鈴の行方について、痕跡すらつかむことが出来なかった。
 費やした時間が全て徒労と化していく中で、それでも歩みを止めず頭を下げ続ける文を、白狼天狗はずっと見つめ続けていた。
 『待て』
 一体何度、この件で集まったことだろう。今日も手がかりがないと聞いて、また聞き込みに出ようとした文を、白狼天狗は遂に制止する。
 『忠告する。この件からもう、お前は手を引け』
 無慈悲に聞こえるその言葉に、文はその胸倉につかみかかる。けれど、いつもと比べあまりにも中途半端な剣幕を見せつけられた白狼天狗は、却って対峙する決意を固くさせる。たとえどれだけ緻密に取り繕おうとしても、白狼天狗の「眼」は文が消耗しつつある事実を見逃すはずがなかったのだ。
 『その娘が、お前の考えている通り『神隠し』に遭ったのなら、手がかりが全く残っていないのも道理だ。たとえ幻想郷の隅々まで視線を巡らせようと、娘を見つけることは決して叶わない』
 だって小鈴は、異界――幻想郷の「外」に居るのだから。自分たちが導き出していた結論を正面から改めて告げられたことで、文の手が怯んでしまう。
 その隙を捉えんとばかりに、白狼天狗は文の手首を強く握る。僅かな震えを掌越しに噛みしめる。本当は、こんなこと自分だって告げたくない。自分も、きっとあの人だって無念なのは同じだ。けれど自分は、残酷な事実をコイツに告げなければならない。
 コイツが取り返しのつかないくらいにボロボロになる、その前に――鬼灯色の瞳に鋭い光を宿し、白狼天狗は真っ直ぐに文を見据える。

 『もう天狗に出来ることなどないのは、お前も分かっているだろう』

 分かっている。そんなこと、言われなくても分かっている。
 「神隠し」に遭ったという仮説を掲示したのは他ならぬ自分だ。それが事実である場合、自分たちになす術などないということは、その時に気付いていたはずだ。
 だとしたら、文がこうして捜索を続ける意味などない。「念写」や「千里眼」すら、何の意味もなさない。
 二人には、もう無理をさせるつもりはない。もとより、万に一つの望みすら消えかかっている有様なのだ。ここで背中を向け降りたところで、どうして文に責めることが出来るだろう。
 それは、今小鈴のことを気にかけ続けているだろう、他の知人たちも同様だ。当人のことを考えたら、文だって小鈴を諦めるように促すだろう――あの時、阿求にお手上げであることを告げたように。
「…それでも」
 だからこそ。ここで自分が折れてしまったら、小鈴を見つけ出そうと動いている者が、誰も居なくなってしまうかもしれないのだ。
 自分のことなど、どうなっても良い。本居小鈴が「忘れられる」までの時間を僅かにでも延ばせるなら、むしろいくらでもくれてやる。
 だから。たとえ自分一人だけが限界まで這いつくばる結果になったとしても。
 
「――誰が、諦めなどするものか」

 吹き荒ぶ風を跪かせるように、獣の唸り声がこぼれ出る。闇に包まれた空間を打破するかのように、天狗の双眸が赫灼と燃え出していく。
 逢魔が時の空気を取り込んで妖気を咆哮させ続ける射命丸文を前に、阿求は目を離すことが出来ぬまま、圧倒されるばかりだった。
 恍惚と見とれているうちに、自分の中で巣喰っていたはずの絶望が嘘のように霧消していく。荒れ狂う空気に黒翼を振り乱しながら、けれど決して離さないという決意とばかりに阿求をしっかり抱き続けていて。
 この天狗は、いつも本心を何層にも重ねて繕ってきた。たとえ書記として接する場においても、射命丸文は敢えて「天狗」の仮面を被りながら自分に対していることに、阿求は気付いていた。
 知りたいと思わなかったかと問われれば否ではあったけど、天狗というのはそういうものなのだろうと完結させてしまっていた。
 けれどそれは、もしかするととんでもなく勿体ないことだったのかもしれない。

 射命丸文という鴉天狗は、本当はこんなにも「美しい」妖怪だったというのか。

「ぁ…」
 阿求の存在を思い出したように、文は我に返る。名残惜しい気持ちが阿求に去来すると共に、暴れていた気流がだんだんと穏やかに晴れ上がっていく。
 ぽつぽつと星の光り始めた宵の空に、文の姿が微かに照らされる。いつも余裕を保っていたはずの顔は、見せるつもりのなかった素顔への戸惑いのあまり、おろおろ視線を迷わせていて。その様子は、まるで巣立ちしたばかりの若鳥のようにおぼつかなく見えて、可愛らしくすら見えてしまう。
「…阿求さん」
 誤魔化そうとしているのか、励まそうとしているのか、続ける言葉を見つけ出そうとそのまま押し黙ってしまって。文からすれば気まずく、けれど阿求からすればどこか心地良い静寂が流れた後、文はにこり、いつもの笑顔を貼り付ける。
「そろそろ、参りましょう。皆さんが待っています」
 へたくそ。そう呟きそうになるのを抑えながら、けれどやっぱり、こらえきれずに笑ってしまう。
「………はい」
 こくり、頷く阿求を見た文は安堵の息をこぼすと、再び神社へ飛行を始める。漆黒の翼は星を包み隠す雲のように空へ溶け込んでいき、緩やかな羽ばたきの音だけが引き続き耳にさざめいていく。
 もしかしたら、射命丸文という天狗は、ものすごく不器用なだけなのかもしれない。
 口八丁でいつも他人を揶揄うように見せているのは表だけで、本当は見えないところでずっと背伸びをし続けていて。
 けれど意地っ張りで自己表現も不得手なものだから、そんな自分を他人には誤魔化してばかりで。
 だから、誰からも誤解され続けているし、本人もそれで良いと本気で考えている。とことん面倒くさい天狗(ひと)だ。
 けれど、それで良かったのかもしれない――文から顔が見えないように身を埋めながら、阿求は口端を綻ばせる。だってそれは、この天狗の「真実」に迫ったのは自分一人かもしれない、ということなのだから。小鈴も、魔理沙も、もしかしたら霊夢すら気付いていないかもしれない、文の一面。
 記録者として、あってはならない考えなのかもしれないけど。この「真実」だけは、出来れば「稗田阿求」だけで独り占めしてしまいたい。
 そして、もっともっと知りたい。「射命丸文」が一体どのように生き、何を考えている天狗なのか、ということを。
 花冷えの残る夜空にあって、鳥の体温がとても温かい。古紙のしみこんだ匂いは、慣れ親しんだ空間を思い出させてくれて、阿求をやはり安心させてくれる。

 もう少しだけ、広大な空で天狗と二人きり。自分が経験したことのない感情がほんのり灯りつつあるのを、阿求は感じていた。
UTABITO
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コメント



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1.100名前が無い程度の能力削除
文さんが皆に愛されている様子がひしひしと感じられて、その中でも、阿求と小鈴が霊夢の気持ちを解った上でなお文さんにアタックしている、でも霊夢への気遣いもしている、というのがめちゃめちゃ良かったです。
それからおまけパートでは、阿求や文さんの心中がビシバシ伝わってきて、どちらも苦悩していた中で、阿求が文さんのその漏れ出る「射命丸文」を見て、そこに惹かれている様子に心打たれました。
2.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
3.100名前が無い程度の能力削除
愛され文ちゃんいいですね。関係性はしっとりとしていながら、嫌味がなく思いをぶつけあっているのが良かったです。
4.100南条削除
面白かったです
文ちゃんが顔真っ赤にして困ってる姿がとてもよかったです
5.100名前が無い程度の能力削除
あまあやでしたね。すばらしかったです