Coolier - 新生・東方創想話

Four better phrase, for better days. - ルナサと魔法のヴァイオリン

2024/04/07 14:17:28
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Vn.1||

 もし演奏の中で「理想の音色」を奏でられるとして、それはどんな音だろうか……。
 世界一のヴァイオリニストの演奏が「理想の音色」なのか? なにをもってその人は世界一と称されるのか。
 あるいは世界で一番売れた音楽が「理想」なのだろうか。なにをすれば世界で一番売れるのか。

 ただ、少なくとも。「理想の音色」とは、あらゆる音楽家が向かうべき道の先にあるものなのだろう。
 私の手元にはまだ「無い」ものだ。私の手元にはまだ「無い」音色。

 もし演奏の中で「理想の音色」を奏でられるとして、それはどんな気分だろうか?
 何もかもが満ち足りた完璧な気分だろうか?
 あるいは極限の集中の中で刹那に過ぎ去る体験かもしれない。

 ただやはり、少なくとも。「私」は世界一のヴァイオリニストでもないし、世界一売れた音楽家でもない。
 だからこの物語はそんな私が「理想の音色」に向かおうとする話だ。また同時にそれは、「私」自身を再考する道でもある。

 ……とかく人生というステージの幕は、その演奏が終わる一秒の果てまでも降ろされることはない。

 しからば私は弓を引く。幕が降ろされるその時までは、狂ったように弓を引く。「理想の音色」が降りてくるまで。そうなることを願って。そうなることを祈って。すがって。夢を見て。

 だって私には、それしかないから。

 だって私にできるのは、それだけだから。


 ◯

Vn.1||
Cond.||

 この頃よく夢を見る。
 
 ゴッホの「星月夜」のような、というと……あまりに月並みすぎるだろうか。でも、そんな夜の日の夢を。
 また厳密に言えば、それは夢ではなかった。
 それは記憶。私に刻まれた、私たちプリズムリバーの姓を授かる騒霊に刻まれた、レイラ・プリズムリバーとの切なき刹那の日の記憶だった。

 始まりはいつも、まだ幽霊屋敷と呼ぶには整っていた頃の私たちのお屋敷。
 「ルナサ」の……自室の大きな窓からはまだ若い幻想郷と「星月夜」の眺めがよく見えた。
 慰めを求めるように月夜に近づく私。そして窓の外から漏れ聞こえてくる、心の底を震わすような歌う声。
 レイラの歌う声。
 はっとして私は踵を返し、ふらりと自分の部屋を出る。廊下に満ちる生暖かな寒気。セイレーンの誘いにかかった船乗りのように、歌の聞こえる源を目指す。
 
 よせばいいのに、と夢を見ながらいつも思う。
 けれどそれは記憶であり、魂に焼き付いた原風景であり、どう思えども私の足は進む。燭台の照らす薄暗がりの廊下をおっかなびっくり進む私を、時にその瞳の内側から、時にその背中から……いずれにせよ私は眺めることしかできない。
 よせばいいのに。ああ、よせばいいのに。
 だが夢とは目蓋を下ろして見るもので、ゆえに、私はその記憶から目を逸らせない。目蓋は既に降ろされている。

「レイラ?」

 ギギギと重い音をあげて扉を開くそこは、レイラの両親の部屋「だった」場所。
 誰も住まわなくなった空間はたちまち埃のにおいを纏うものだけど、その部屋はずっと変わらず――レイラが去るその時まで――ずっと生活のにおいが保存されていたのを憶えている。
 室内にはいっそう生暖かな空気が吹き込んでいる。初夏の夜の空気だった。ゆらぐレースカーテンのはためきに合わせてゴッホ的な月光の差し込むラインたちが、三々五々に束ねられたり、分かたれたりしつつ、絨毯に陰影のダンスを踊っていた。
 歌声は止んでいた。私の扉の開いたのに気がついたのだろう。カーテンの白幕に、私よりも頭一つ分小さな少女のシルエットが映り込んでいた。

「レイラ……風邪をひくよ」

 それは果たして誰の言葉だったのか。
 紛れもなく私の発した言葉ではある。しかし私が心からレイラの体調を案じて発された言葉なのかは、もう遠く忘却の彼方。
 むしろ姉のような響きだった。姉として、妹を気遣うような言葉の音色だった。
 事実、私は姉だった。プリズムリバー家の長女たるルナサ・プリズムリバーであった。そうであることを願われた存在だった。他ならぬレイラによって。

「ルナサ……?」

 今にも壊れてしまいそうな震え声。さりとて、火傷しそうなほどのみずみずしい生命を宿す声。

「ごめんね、起こしちゃったよね。もう寝るね、私も」
「なんの歌をうたっていたの……なんて名前の……」

 それにしても私ときたら! 本当に、よせばいいのに。それでも一つだけ言い訳をするのなら、この時の私はまだ「生まれたばかり」で。眼前の妹は私より十数年も長く生きている。だから興味を示そうと思ったんだ。姉は妹によく興味を持って、慈しむものだと。知ろうとすることが少しでも「ルナサ」に近づく方法で、レイラに近づく方法なんだと、そう思ったから。
 けれど……微か理解した先にはむしろ理解したくない心の震えがあること、珍しくない。そういう覚悟があったかと問われれば、答えはノー。
 風が吹く。銀のカーテンに生じた僅かな隙間越しにレイラの表情が覗く。その瞳は、頬は、月光に輝いてた。ゴルゴーンに魅入られた愚かな勇者のように私は凍りつき、言葉を失った。

「なんでもないわ。なんでもないの! 心配かけてごめんね。ただ少し、姉さんたちのことを思い出してしまっただけ。本当に、それだけなの……」

 それで、どっともたれ掛かった扉は微動だにしなかった。本来騒霊には必要のない酸素を求めるように私は口元ばかりパクパクさせて。
 言葉を探して。だけれど見つからなくて。
 私は姉ではなくて。
 それでも――どうしようもなく私は、ルナサ・プリズムリバーでもあって。

――姉さんたちのことを思い出してしまっただけ。

 残響する夢の中の言葉。ゴッホの「星月夜」のような夜だった。曲がりくねった夜の囁きが私の心を満たそうとする生暖かな夜だった。
 レイラの涙は引き裂かれた姉妹の苦悩の線なのだと、持って生まれた知識がその夜に初めて記憶となった。
 
 いったいどんな言葉なら姉として相応しかったんだろう?
 
 それから私たちがどうしたのかは……憶えていない。
 夢はいつもそこで終わるから。
 代わりに自室の大きな窓を満たす壮年の幻想郷と、暁の空。
 きっとこれは戒めなのだろう、と思う。レイラが去って数十年、私は幻想の日々の中に浮かれて生きてきた。されども胸に刻み込まれた十字架は消えないのだろう。
 
 姉であれ、と。
 
 もう二度と妹を泣かせることのない程の善き姉であれ。もう二度と姉妹がバラバラにさせることのない強き姉であれ。
 夢見る度にそう決意する。だって私はルナサ・プリズムリバー。愛しき四姉妹の長女なのだから。


 ◯

Vn.1||
Tp.||

「……さん。姉さん? ルナサ姉さん! ねえ聞いてるの?」

 はっとして、顔をあげた。
 夢のことを考えていた。起きてるときですら、私の心は夢うつつというわけか。あのレイラの涙。姉としての未熟さ。そうあるべきという呪いのような後悔は、よほど私の心に焼き付いているらしい。
 だけども今はもう、星月夜も、少女の歌声もどこにもない。
 そこは私たちの……そう、私たちプリズムリバー三姉妹の邸宅で、妹のメルが顔をタコみたいに膨らませていた。

「誰がタコよ」
「あれ……言葉に出てた?」
「出てないけど、考えてることくらいわかる!」
「かわいいじゃない、タコ。写真でしか見たことないけど」
「しらない!」

 微睡んでまた突っ伏そうとして、両肩を掴まれる。珍しく気が立っているらしい。

「姉さん、大切な話! ちゃんと聞いてよ」
「あ、うん……聞いてる聞いてる」

 慌てて背筋を正し、メルがどこからか持ってきた黒板……そこに刻まれていく白い文字を眺める。
 黒板のてっぺんに大きく書かれた「プリズムリバー楽団第一回決算報告会」。意図はわからないが、なんとも憂鬱な気配がする。
 文字列のせいじゃない。メルランの放つ気配のせいだ。マニシー(※躁状態のこと)は、どうしたのよ。

「リリカは?」
「あの子は無理よ、寝ちゃう」
「私は起こすのに……」
「だって姉さんは、リーダーだし」

 リーダー。その言葉が胸に重い。
 そうとも、私はプリズムリバー楽団のリーダーだ。なにもかも私が始めたことだから、責任もまた私にある。
 ため息がこぼれ出る。
 リーダー、リーダーか。はたして私はその役割をどれほどに全うできてるんだろう?
 例えば紅魔館の悪魔の少女がいる。彼女は紛れもなくあの館のリーダーなのだろう。誰も彼もを傅かせ、その上で悠然と構えているのだろう。そして時には力強く従者たちを導くのだろう……。
 私はそうじゃない。カリスマ。リーダーシップ。縁のない言葉だ。
 力強く妹たちを導く力があれば良かったと思う。姉として、リーダーとして。
 でも現実はそうじゃない。
 世界はいつでも残酷だ。

「……で? 今まで決算報告会なんてなかったじゃない」
「そう。だから第一回って書いたでしょ!」
「なんだって急に」
「いいからこのスライドを見てよ!」

 すらいど? と首を捻る私の前に、ひらひらと模造紙が飛んできて、黒板の中央に広がる。
 ポルターガイストの有効活用。
 そこに書かれた棒グラフに、再び私の首がひねられる。メトロノームみたいに、90度近く。

「読めない」
「首を戻して、姉さん。私が真面目だからってボケなくていいのよ」
「うっ……」

 妹の雰囲気を和ませようと小ボケをかましてみても、これだ。

「姉さんって、少し真面目過ぎる」
「長女の私がしっかりしないと」
「ど、どうせ私は頼りがいのない次女ですよ。それより、そんなに真面目でどうしてこんなデータが無視されていたのか疑問だから!」

 首を戻し、真面目にグラフを見る。いわゆる山型のグラフというやつで、初めは少なかった数値が徐々に増えている。で、頂点を迎えた後は緩やかに減っていくのがわかる。
 憂鬱がまた首をもたげる。真面目、真面目すぎる、か。今すぐ立ち去り逃げ出したいのにそれができないのも、真面目さゆえなのだろうか。

「これはプリズムリバー楽団のライブ動員数の推移よ」
「右端、ゼロになってるけど」
「それは傾向に基づく予測。現在の値はこの辺り」

 頂点から三分の一ほどくだった地点が指さされる。心臓に悪い……幽霊だけど。

「ライブの観客、減り続けてるの。ここのとこずっとよ! 結成以来右肩上がりだった数値が、この数年で一気に三分の一失った!」
「そ、そんなに?」
「もちろん全部のライブで集計したわけじゃないけど、ちゃんと箱を借りてやったイベントに関しては正確。チケットの販売数をまとめてあるの」

 いつの間に調べ上げたメルの熱量にも驚きだが(どっちが真面目?)、さすがに心が揺れる。鉛のボールを投げ渡されたみたいな気分。
 数年で三分の一も? 本当に? 私は、私たちは、いつでも観客のためを思って……みんなが楽しめるようなライブを目指してきたはず。
 
「なんで?」

 自然と問い返していた。待ってましたとばかりにメルは二枚目のスライドを呼び出す。偏執的にちまちま貼り付けられた無機質な新聞のスクラップたち。

「今やベテランロックバンドの鳥獣伎楽、弦楽デュオの九十九姉妹、神楽舞師の秦某まで出てきて、幻想郷は正に大エンタメ飽和時代なのよ、姉さん」
「エンタメ飽和……」
「ほんの十数年前までは、娯楽と興行で私たちに並ぶ者は無かったわ。でもね、歌は世につれ世は歌につれと言うし、流行り廃りよ。はっきり言って……」

 メルが少し、言い淀む。
 柔らかく噛み締められる下唇。
 けれどすぐに両瞳を真っ直ぐルナサに差し向けて、言葉を放った。

「私たち、飽きられてる」

 それは……実際のところ、メルの思い違いなのかもしれない。
 けれど聞いてくれる人が減っている。それは事実でもある。
 メルのマニシーが爆発する。躁はべつにポジティブな感情だけを強めるわけじゃない。

「姉さんっ、私悔しいよ! わ、私たちすっと頑張ってきた! 頑張ってきたよね!? なんで飽きられちゃったのかなぁっ……!」

 私は答えを持ち合わせない。飽きられるとかどうとか……考えなかったわけじゃない。ただ、これまでは必死すぎて。
 レイラが去ってから数十年。私は楽団を導くリーダーとして、姉妹を束ねる長所として、皆を繋ぎ止めるもやいとして……周りを見つめる余裕なんて無かったから。
 メルの目に光る涙。
 歌声も聖月夜の背景もなかったけど、それは……。

「……大丈夫だよ、メル」

 いったいどんな言葉なら姉として相応しかったんだろう?
 その答えはいまだにわからない。わからないままここまで来てしまった。
 悔やんでも遅かった。
 それでも、もう妹の涙は見たくない、私はただその一心で、

「私がなんとかしてみせる」

 そう答えたんだ。
 進む道など見えないままに。紡ぐ音など聞こえないままに……。


 ◯
 
Vn.1||
Timp.||


 とにかく、プリズムリバー楽団の今後の方針を決めなければ。郷で人気のお団子屋さん(リリカ情報)の低めな机を間に挟み、私は事の経緯を雷鼓さんに話した。
 落ち着いた目つき、長いまつ毛とスラリとした両脚。落ち着いた大人の雰囲気。
 事実、彼女は私たち三姉妹とは違う視点と違う過去を持つ。たくさんの音楽家たちの勃興と滅びを横目に見てきたこの人は、私なんかよりずっとずっとリーダー向きのすごい人。

「……と、いうわけなんです。観客の数が減ってるみたいで」

 だけど私の話を聞き終えた雷鼓さんは、ため息ついて肩をすくめた。

「うーん、ちょっと考えすぎじゃない?」

 考えすぎ……確かにそうなのかもしれない。それでも無視するわけにもいかない。メルの苦しげな様子はまだ脳裏に焼き付いている。
 小さな不協和音も、放置すれば、演奏そのものを破滅に導くものだ。

「そうなんでしょうか。でも事実、人は」
「ごめんね、それを否定したいんじゃなくて。ただ……分析通りだと思うわ。狭い狭い幻想郷じゃあエンタメが飽和するのもあっという間。私たちはあれこれ考えて演奏したりするけど、多くの消費者はそこまで深く考えたない。ただ各々好みに素直なだけ」
「そんな無責任な」
「そりゃあね。観客に責任なんて無い。努力は斟酌されないものよ。べつに楽団の演奏に問題があるわけじゃないわ。ただそういうもんだって思えばいいじゃない」
「はぁ」
「私は外の世界をちょっち知ってるからね。ここはマシな方よ。外じゃあ例え世界一の演奏家だったとして、世界一売れるかどうかはまた別の話。世界一はあくまでセールスポイントの一つでしか無いから。エンタメ業界はベリーベリーレッドオーシャン。売れるかどうかはマーケティングとターゲッティングの世界だわ」
「まーけちんぐ、ですか……」

 呪文のような言葉の意味はわからないけど、雷鼓さんの言いたいことは理解できる。
 たしかに、幻想郷中の音楽活動を一手に担っていた頃は、特異な状態ではあった。
 結局、こんなにもショックを受けるのは驕ってたせいもあるのかもしれない。私たちは一番なんだって。

「はぁ……私もそんなふうに論理的な説明が出来たら良かった。そうしたら、メルを泣かせることもなかったのに」
「メルランちゃんは、自分の感情に素直だからねぇ。いいことじゃない? 溜め込むよりはさ」
「うちの妹たちは感情に素直すぎますよ。おかげで私は大変で……」
「あはは。そうね。ルナサもきっと疲れてるのよ。あなたはほら、真面目すぎるから。さあさ、甘味でも食べてリラックスリラックス! せっかく素敵なお店を教えてくれたのに。残したらバチが当たるわよ」

 言われて気がつく。注文したお団子にまだ手もつけていなかったことを。
 一つ食むと、昔気質なみたらしの甘さが抜けていく。教えてくれたリリカ曰く、ここは他の「浮ついた」店と違ってずっとこのみたらし一本で勝負してるのだとか。曰く「地道な努力は裏切らねぇ!」だとか。客が他になんと注文しようと、どんなに新しいお店ができようと、ずっとずっと同じ味。
 不安にはならないのかな。もし私が店主だったら、同じようにできるだろうか。

「どう? 落ち着いた?」
「少しは……」
「結局はね、なぜ音楽を奏でるのかってことよ。最初はちょっとした喜びから始めたはずが、評価されたり、お金が絡んだり、そういういろんなゴタゴタの末に、始まりの気持ちを忘れてしまう」
「始まりの気持ち、ですか……」
「そう。引き換えに良い音だけを求めるようになって、だけど良い音が必ずしも良い演奏になるとは限らない。理想と現実のギャップ。苦悩……そして音楽そのものが嫌になる。そんな例を、たくさん見てきたわ。楽器の側からしてみれば、それより悲しい結末もない」
「私も……どうして音楽を始めたのか、よく覚えてないです。もう何十年も前のことだから」
「そっか。ま、自分の演奏の音色ほど聴き分け難いものよ。道に迷ってるなら、たまにはルナサ自身の原点を振り返ってみるのもいいんじゃない?」

 そう言って微笑んだ雷鼓さんはとてもとても頼もしくて。
 だから私もまた笑顔で返そうとして。
 あたりがにわかに騒がしくなって。
 広場へと駆けていく人々の後ろ姿。わっと噴き上がる歓声。私たちが顔を上げた先で――べべん、と。琵琶の音が響いた。

「おい急げ! 九十九姉妹のゲリラコンサートだってよ!」

 その音に惹かれたのか、隣で緑茶ブレイク中だった二人組の片割れが立ち上がる。
 腕を掴みあげられた相方が、団子の串をくわえながら面倒くさそうに答えた。

「まだ食ってる途中だってば……喉に詰まる」
「うああ早くしろよ! 俺、弁々ちゃんの大ファンなんだよぉ! ああもうあっという間に席埋まっちまってる、俺だけでも行こうかなぁ」
「好きにしたら……」

 そう言って団子との対話に戻りかけた相方が、ふと、顔を上げた。

「あれ? おまえずっとプリズムリバー楽団の追っかけやってなかった? ルナサちゃん単推しだって」
「ん、ああ……前はな。もう飽きたんだよ。そんなことより早く食え! ライブ終わっちまうだろ!」
「浅いやっちゃなぁ。まあ待てって――」

 あくまでマイペースに団子を口に運ぶ彼に、背の高い影がかかる。
 雷鼓さん? いつの間に?
 彼女の手がそっと伸びて、せわしなく外を眺めていた方の男の肩に触れた。

「ねえお兄さん、肩に糸くずが付いてるわよ」
「え? ああ、こりゃどうも――」

 瞬間、バチン! という電撃音。
 だらりと崩れ落ちる男の体躯を相方が慌てて受け止める。ほんのりと、焦げ臭いにおい。

「び、びびび、びりりっ……しびれれれっ……」
「お、おい? 大丈夫かよ? 痙攣までして大袈裟な奴だな……」
「まあ怖い。静電気かしら? まだまだ寒いからねぇ」

 呆気にとられている相方を残して、雷鼓さんは足早に私のもとまで戻ると「行きましょう」と外に誘った。
 九十九姉妹のライブを目指す人の流れとは逆向きに、私たちは路地を歩いていく。
 琵琶の音はもう聞こえない。雷鼓さんがため息を一つ、吐き出した。

「あんなのは気にしないでいいから。所詮、観客に責任なんて……」
「わかってますよ。べつに悪態だのやっかみだの、慣れっこです」

 言われるまでもなく、あんな浮ついた「お客様」の言葉なんかに惑わされたりはしない。
 それよりもむしろ……気を使わせてしまったんだな、って。雷鼓さんだってわかっているはずだ。自分の言う通り、観客に責任なんて無いって。
 だというのに私に暴言が入らないよう、あんな(もちろん気がついてるわよ)乱暴な手を使って。

 ダメだな、こんなんじゃ。
 私が惑えば楽団全体が道に迷う。私が未熟だから楽団全体が未来を失う。
 悩んでいる時間はない。不協和音は放置すればするほど、取り返しのつかないものになっていく。
 
 じゃあどうすればいい?
 
 私はしがない音楽家で、おいしいお団子を作ることも、周囲に気を使って回ることもできない。
 なら、できることは一つしかないよね?
 今よりもっと良い音を。今よりもっと良い演奏を。そうすれば離れた観客の心も取り戻せるし、メルは泣かずに済むし、雷鼓さんに気を使わせることもない。

「雷鼓さん、このあと練習に付き合ってもらってもいいですか」
「え? ええ……もちろんいいけれど」
「私、もっともっと頑張ります。いつだって努力は裏切らないですから……そうですよね?」

 雷鼓さんの曖昧な微笑み。なにか言いたげな、だけどついに雷鼓さんは何も言わなかった。
 きっと……雷鼓さんは知っていたんだろう。沢山の音楽家たちの栄枯盛衰を横目に見てきた彼女こと。
 確かに、努力は裏切らない。でも私は気がついていなかった。努力は気難しいマエストロのようなもので、浮ついた心を持って臨めば、たちまち跳ね飛ばされてしまう堅物だということを。


 ◯
 
Vn.1||
Tp.||
Key.||
Timp.||

 プリズムリバー邸宅・音楽練習室。
 手広い空間にさっきまで満ちていたカオティックな音の波――それがふっと凪ぐ。代わりにジャンジャンドジャンと響き渡る、疲れ切ったリリカの罵声。キーボードを無茶苦茶に叩きつけたみたいな、容赦のない……。

「ちょっとルナ姉まただよ! 鬱の音強すぎだって言ってるでしょ!? メル姉は音が死んでる! ああもう! 私の幻想の音じゃ調整しきれない! 観客死ぬよ!?」

 いったい……どれくらいぶっ続けで練習していたんだっけ?
 あまり良く覚えていないけど、私たち三姉妹と雷鼓さんの荒い息遣いが、ずいぶんと長い時の経過を告げている気がした。

「雷鼓さんもなんか言ってやって!」

 悲鳴に近い再度の絶叫を受け、雷鼓さんが申し訳なさげな瞳を向けてくる。
 ああ、憂鬱だ。なにもかも。

「ルナサ、少し落ち着いて」
「わかってます」
「ルナ姉もメル姉も変だよ! 急にどうしたの!? なに? 私への負荷試験? パンクだよーパンクしまーす! もうぜーんぜん無理ー!」
「大丈夫だから。ちょっと長めの休憩いれよう」

 どっと空気が弛緩する。みんないっぱいいっぱいになっていたんだ。メルなんて、練習を始めてから一言も口を開いてない。よほど、今朝のあの話が堪えているのか……いや、もう昨日? この練習室には窓がないか……ああとにかく! 
 しっかりしないとだ。長女の私がしっかりしないと!

 ……とはいえさすがに、疲れたな。私も休憩をいれよう。このままじゃ本当にリリカがパンクする。

「はぁ……」

 練習室を出ると、廊下の薄ら寒い空気が私を出迎えた。その冷たい抱擁を自ら求めるように私は、さらに屋敷の階下へと降りていく。
 こんな時、人間の音楽家なら水でも飲んでリラックスするのがいいのだろうけど、あいにく私は騒霊で。「渇き」は喉よりもっと抽象的な側面が先んじる。ようは、身体よりまず精神の調子を整えるのが先決だって。
 だから、カビくさい階段を降りていく私の向かう先は、プリズムリバー邸地下倉庫。

「失礼します……」

 ギギギと入室者を拒むような重い音をたてる扉を押し開く。据えた湿気に満ちていた地下への階段とはうって変わって、清浄な空気に取り囲まれる。なんでも、倉庫にしまわれた綺麗好きなマジックアイテムの力らしい。
 そう、ここにはレイラの……もとい、私たちのお父様が遺したマジックアイテムが保管された地下倉庫。魔力に満ちていて騒霊の身には過ごしやすい場所。
 けれどなにより、ここは私だけの秘密のシェルターなんだ。「ルナサ」としてレイラに託された役割の中には、地下室の鍵の管理も含まれていた。だからメルもリリカもここには入れない。存在すら知らないかもしれない。
 レイラはもちろん知っていたけど、家族の崩壊を招いたこの部屋と、この部屋にしまわれた道具たちが大嫌いだった。だから私は、一人になりたい時はよくここに来た。それも随分と久しぶりな気がしたけれど。

「久しぶり、みんな」

 そう言っても応答があるわけじゃない。ただ何となくの親近感。
 ここに納められたアイテムたちはみな魔法によって生み出された存在。そう、それは私と少し似ている。
 感覚としては兄弟姉妹……というほど近しいわけじゃない。同じ言葉を話し、同じ神を信じる、けれども顔を知らない人々。そんな感じだろうか。
 でもそれが却って心地良かった。ここにいる時だけは、「ルナサ・プリズムリバー」でも「四姉妹の長女」でもなく、ただの私でいられるんだもの。別にそうあることが嫌ってわけじゃないんだ……しばし肩の荷をしばし降ろしてみたくなる時があるってだけで。

「少し休ませて……」

 ほんとうはわかってる。私は、私はただの騒霊で、気を抜くとすぐ道に迷ってしまう頼りのない存在で……わかってるから、ここに来る。
 誰も知らない弱い私は。あるべきでない弱い姉は。束の間ここに留めておくんだ。
 そう、これはほんのしばしの一休み。ほんのちょっぴりでいいんだ。そうしたらまた上に戻るから。
 そうしたらまた私はルナサになって、メルとリリカの姉に戻って、私が皆を導くんだ。もう二度と姉妹をバラバラにさせることのない、強き姉に戻るたけだ。
 だからせめて……今だけは……。

――ガタン。

 霞の出始めていた意識が物音に覚醒する。猫のように飛び上がって私は、慌てて扉の方を見やった。
 ……誰もいない。鍵、閉めたんだっけ? 
 いや、音はむしろ倉庫の奥から聞こえた気がする。

「誰かいるの!?」

 いるわけない。
 いや、いる。
 誰もいないけど、この倉庫にはたくさんの魔力が満ちている。
 もっともここのマジックアイテムは殆どが抑制下にある。なにせ私が封印を施してまわったから間違いない。他ならぬレイラに頼まれたんだ。この場のマジックアイテムは彼女にとって家族の仇そのものだから、私が解錠しない限りその封が解かれることはない。
 じゃあ、今の音は幻聴? それともポルターガイストだと? 騒霊が騒霊に冷や汗をかくなんて、あまりにトートロジックでナンセンス。

「たしかこっちの方で聞こえた……」

 なんにせよだ。実際に確かめてみれば済むこ話。
 自然と忍び足で物音の元に向かう。たいして広い倉庫じゃない。元凶はすぐにわかった。なんとはなしに吐息が溢れた。人間なら鳥肌の立つところだろうか。全身の皮膚をつつつと撫で滑られる感覚。

「ヴァイオリン……」
 
 どこか棚の上から落ちたのか……ひとりでに開かれた楽器ケースの中で、薄暗がりに剣呑な弦楽器の輝きが私を見上げていた。製作者のものか、持ち主のものなのか、「Bevitore(酔いどれ)」という銘が彫られているそれは、間違いなくヴァイオリン。
 ……どんなマジックアイテムだったかは思い出せない。封印の時にあらかた調べたはずだけど「お父様」の蒐集品は多すぎたし、なにより随分と昔のこと。
 さりとて、だ。この倉庫にある時点でなんらかの魔力を秘めた品には違いない。仲間意識を覚えておいて薄情だけど、この手のものは、関わらないのが一番いい。

「恨まないでよね」

 だから私は、それを戻そうと身をかがめた。ケースの蓋を閉めて、棚にしまう。たったそれだけの簡単な仕事を済ませてしまおうとした。
 そうしようとしたんだ。
 そのはずなのに。
 どこか冷静にヴァイオリンの状態を確認している私がいた。ピンと張られた弦に目を見開く私がいた。まるでたった今チューニングを済ませたかのような状態。弓の毛色の艶やかな。惚れ惚れするくらい……だけれど、そんなことありえない。ありえないんだ。
 だって楽器は生き物だから。最適な条件で保管し、怠らず手入れをしなければあっさりと死ぬ。それがヴァイオリンという生き物。
 なら、目の前にあるこれは?

「……」

 手に取る。少し、眺めてみる。けしてちゃちな品ではないけど、普段私の使うストラディヴァリの幽霊よりは数段劣ると言わざるを得ない。
 顎当ては私のために誂えられたみたいにぴったりだった。
 今すぐケースに戻して棚にしまっておくべきだ。
 それにしてもなんて軽い弓だろう。いったいどんな木材を使えば、こんな……

「ルナサ?」

 はっとして我に帰った。そう、やっぱり鍵を閉め忘れたんだ。
 雷鼓さんの声だった。彼女が倉庫に入ろうとする前に急いで外へ出る。後手に扉を慌てて閉める。今日は雷鼓さんに迷惑をかけ通しだな。こんなんじゃ、ダメだ。

「なんだ、ヴァイオリンを取りに行ってたのね……あはは、私ったら何を心配してたのかしら」
「すみません。もう戻ります。再開しましょう」
「ルナサ……大丈夫なの? 今日はもうやめにしたっていいのよ。休むことも強さなんだから」
「ありがとうございます。でも、辛い時こそ頑張らないと。現実から目を背けたってなにも解決しない」
「……そう。わかった。戻りましょう。みんな待ってるわ、あなたのこと」

 雷鼓さんは優しい。優しいからこそ、この人まで巻き込んでいるのが心苦しい。
 少しでも時間を無駄にしないよう足早に練習室に戻る。
 だけど……あれ? おかしいな。なにか忘れている気がする。なにか……

「あーやっと帰ってきた!」

 待ち侘びたリリカの苛立った叫び。不服そうに頬を膨らまして、それこそ、タコみたいに。

「ルナ姉ったら今度はちゃんとしてよ!? なんかメル姉も調子悪いしさ!」
「ごめん、ごめん。ヴァイオリン変えたから、チューニング手伝って」
「はやくしてよねー」

 急かすリリカに背を押され、弓をそっと弦に乗せる。このヴァイオリン、たしかに見てくれはシャンとしてる。だからって演奏前のチューニングを欠かすことはできない。
 楽器は生き物であるように、音色もまた生き物だ。望む音を出せるよう、理想の音色を弾けるよう、焦らず落ち着いてヴァイオリンと対話するのが肝要なんだ。だから、

「じゃーいくよー。まずは基本のAの音から~」

 だから、ありえないはずだった。
 ぽーんと跳ねるようなリリカの幻想の音。追随して私も弓を引く。
 そして……思わず息を呑んだ。かたやリリカは拍子抜けしたように笑う。

「なんだ。もう調弦してあんじゃん。パーペキだね」

 いや違う。そんなのはありえないはずだ。完璧な音が出るなんて、そんなのはありえない!
 だっめ調弦作業はイチかゼロかで割り切れるディジタルじゃない。濃い薄いのアナログ入り混じる世界。
 それなのに……今響いた音はなに?
 完璧なAの音。完璧な……完璧だって? 音楽とは要するに空気の震えを媒介する魔術。だけども肝心の「空気」って子は気まぐれで、温度、湿度、空間の広さ狭さ、奏者たちの息遣い……ありとあらゆるものに影響を受ける。
 なればこそ、ぴたりと私の望む音が出るなんてありえない……はずだった。

「さ、最後までやらせて」
「でたよールナ姉のクソ真面目! リリカちゃんが姉思いの優しい子でよかったね~。じゃあいくよー、お次はD線上のアリア~」

 ひとつ早いでしょと突っ込む余裕もない。
 祈るように私は弓を引く。

 肝が冷える。
 
 幽霊の身体がどう冷える? ナンセンスだわ。だけど仕方ない。またしても完璧な音が響くなんて、そんなの肝を潰す他にない。

「……やっぱり合わせてあるよね?」

 リリカの不可解げな瞳は、正しい。その後も意地になってチューニングを続けてみたけれど、だけれども最後まで私は、ペグに触れることすらしなかった。
 「Bevitore」のヴァイオリン(とりあえず私はこいつをそう呼ぶことに決めた)は完璧に仕上がっていた。それ自体が深酒の悪夢のようでもある。
 いや、本当にそうだろうか? ようは自動的に調弦が行われる魔法のヴァイオリン。それだけだ。ずいぶんと便利な品物じゃない。メンタルが鬱々としてたから大袈裟に心が反応しただけだ、きっと……。

「ルナ姉? 済んだなら始めてよー。それとももう、お開き? 私みすちーと約束あるんだよねー」
「み、みすち?」
「鳥獣伎楽のミスティアね。こんどコラボやろって話してるの」
「そう……」

 そう、そっか。ヴァイオリンのことは、一旦いい。
 リリカは素直だ。自分の心にも、自分の言葉にも。そして私たちの中で誰よりも音楽へのセンスを持っている。
 コラボ、コラボか。この子はそのセンスでもって私たちの右肩下がりな調子を敏感に察知しているの? 沈みゆく船からの素早い離脱……はあ、ダメだ。心の弦が歪んでる。どうあっても碌でもない音が出る。
 シャンとしろ、ルナサ! 弱い私は地下倉庫に置いてきたでしょう。強い姉であれ、強いリーダーで! そうでなきゃ楽団の音色はたちまちバラバラになってしまうのよ。

「ごめんなさい、みんな。再開しようか」

 だから爪弾こう、ピツィカート。なんの因果か調弦は完璧。流々細工を施せば、あとは仕上げを奏じるのみ。
 デタッシェに弦が震える。空気が震える。完璧なる振動。理想の音色。
 ああ、とても心地良い。弓を取る前の不安が嘘のように消える。音楽とは合法的な麻薬のようなものだと誰かが歌っていたけれど……たしかに良い演奏を弾く時だけは、心が癒されるものね。


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