Coolier - 新生・東方創想話

Four better phrase, for better days. - ルナサと魔法のヴァイオリン

2024/04/07 14:17:28
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「本日は、私たちのコンサートにお越しいただきありがとうございます」

 ステージに立つ、という経験を続けて数十年経つ。経つが、未だに慣れない経験だと思う。というか、慣れてはいけないんだろう。
 万感の緊張感をもって観客に臨む――いつだってこの高台に立つ時は、ぴりぴりと肌が煮え立つような心持ち。
 手のひらに「人」の字を書いて呑み込めとか、観衆を馬鈴薯と思えとか……ちまたには緊張対策の呪言呪術が満ち満ちている事実、それこそが、人がステージの緊張から逃れられない証左だろう。
 じゃあ、なぜ、緊張するのか……それは失敗が怖いからだ。大勢の前で失敗すればすべてを失う。積み上げてきた信用。音楽への愛情。すべてを失うんだ。
 それがわかっているから、否応なく緊張する。それがわかっているから、私たちは努力する。結局、表現とは危うい破滅の上にこそ建つものなのかもしれない。

「演奏の前に、一つ……この頃、私たちの演奏はマンネリのきらいから逃れられていませんでした」

 だけど今日ほど苦しい気持ちでステージに立ったことはない。
 これは分岐点。どうにも右肩下がりな私たちが再起するための、流れを変える分水嶺。
 死んだように静まり返る聴衆を前に私は努めて声を張る。

「私たちは音楽家ですから、言葉で多くを語ることはしません。それでも……生まれ変わった私たちの音、聞いて下さい。ブラームス、ヴァイオリン協奏曲……ニ長調」

 かくして私の声の残響も止み、凪いだ音の世界。
 こんな時は自分が幽霊で良かったと思う。生身の肉体を持っていればきっとまともに立っていられない(少なくとも幽霊なら、浮けばいいもの)。
 そんなことは、いい。
 ブラームスは後に三大ヴァイオリン協奏曲と称されるこの曲を書き上げるのに寝食を忘れて、死にかけたとか。
 そんなことも今はいい。

――弓が弦に触れる。

 そこからは一瞬だった。なにもかも。
 極限の集中力は時も世界も置き去りにする。
 それは全神経を注ぎ込んで行う会話のようなもの。時は驚くほど刹那に過ぎ去り、後で思い出そうとしても思い返せないように――私がはっと顔を上げると、すべては終わった後だった。
 代わりに、演奏が過ぎ去った空隙を埋めんとするような観客の拍手喝采。
 幻想郷にブラボーブラボーのコールは無いけれど、それでも……ああ。フィードバックだけが救い。うまくやれたという救い。
 
 そう、やったんだ、私たちは。
 
 やったんだよね? そうだよね……?
 
 歓声に地が震える。足元が震える。指先が震えて、たわみ、ほつれていく。ヴァイオリンに張られた弦のように細く、細く、細く。
 ひっと喉から漏れる悲鳴は、私のものだ。がちゃんがたんと取り落とされたヴァイオリンがたてる音。
 拍手の音が聞こえる。拍手喝采が。
 それなのに――どうして? どうしてこんなに静かなの? リリカの跳ねるような歓声がない。メルの賑やかな返礼もない。雷鼓さんのファンサービスめいた奏打も、なにもかもがない。

「メル? リリカ……? どこ!? どこにいるの!?」

 振り返ってもステージに立ったいるのは私一人で。その半身もみるみる弦にほつれていって。そして、足元のヴァイオリンに飲み込まれていく。
 悲鳴が響く。拍手の音が響く。E線のハイポジションめいた金切り声。違う、ちがう、いやだ、こんな、こんなっ――

「……姉さん?」

 はっとして目を覚まし、顔をあげた。指先は元通りそこにあった。拍手喝采は遠ざかり、自分の荒い息遣いだけが響いていた。
 そこは私たちの……そう、私たちプリズムリバー三姉妹の邸宅で、妹のメルが不安げに私を見つめている。
 いや、メルだけじゃない。前の席に浅く腰掛けたリリカが、雷鼓さんが振り返り、怪訝な顔をしていた。その前方、見覚えのある黒板に刻まれた「プリズムリバー楽団第二回決算報告会」の文字列。第一回から一ヶ月後の日付。もうそんなに経ったんだっけ……なんとも実感がわかない。

「大丈夫? なにか叫んでたけど……」
「あ、うん。ごめん」
「きっと疲れてるのね。この一ヶ月は姉さん、まさに鬼気迫るって感じだし。だけど今回の発表を聞いたら、きっと疲れも吹き飛ぶわ! さあさあ皆様、こちらのスライドを御覧くださいな!」

 ぱんぱらぱーん、と待機していたトランペットのファンファーレ。
 相変わらずえっちらおっちらやってくる模造紙のポルターガイストが、べたり、黒板に張り付く。
 そこに記されたグラフの形状は前回の山型に近い。が、急降下していた終端がその途上で持ち直して、上向きに転じていた。

「じゃーん! 皆さんの尽力のおかげでみごと! 来場者数が再び上昇に転じましたー! ぱちぱちぱちー!」

 ぱちぱちぱち、とにこやかに拍手するのはメルだけで。
 雷鼓さんのまばらな拍手。
 リリカは椅子にお行儀悪くもたれかかったまま、横目にそのさまを眺めている。
 私は……

「あ、あれ? あれれれ? 反応悪くないー? もっと喜ぼうよ! はっぴーはっぴー! わ、わーい!」

 わーい。
 そう口に出すだけの体力が残っていない。このまま寝てしまいたいけど、まだ瞼の裏にさっきの悪夢がへばりついてる。
 メルはめげずに(どうも躁がかってるみたいだ)三枚目のスライドを呼び出して、続けた。

「ほ、ほら見てよみんな! 天狗の新聞にもまとめられてるんだよ! 『プリズムリバー楽団リニューアル?』だって! リニューアルってほどじゃないのにね! それでえーっと、『プリズムリバー楽団といえば長らく安定したパフォーマンスを我々に提供してくれる人気音楽グループだったが、先日開催のコンサートでは打って代わって新しい演奏の境地を切り開き』……あーもう堅苦しい! あ、でもここ! 『最大のポイントは楽団のリーダーであるルナサ・プリズムリバー氏のヴァイオリンを前面に押し出したソロパートだ。極限まで心を震わせる鬱の音色を堪能しよう』……うわあ凄いねえ! 姉さんのヴァイオリン、この間からすごいもんね! わーいわーいわーい!」

 わーいわーい。
 わーい……。
 
 沈黙。

 皆、なにも言わない。
 私も言うべき言葉が見つけられない。
 ただ少なくともメルランの読み上げた内容は正しい……はずだ。私たちは、私たちプリズムリバー楽団の人気は今、再びの絶頂期に返り咲いた。それは確かな事実。
 ならなぜ、こんなにも私たちの雰囲気は悪いのか。
 もちろん……私はその理由がわかってる。なんとか笑顔を振りまこうとしているメルだってそう。

 あるいはこのまま永遠に口を閉ざす、そんな選択肢もあるのかもね?

 だけどこんな時、いつだって彼女は我慢しない。彼女は――リリカ・プリズムリバーはそういう子だから。

「それで? いつ元に戻すの?」

 にべもない問い。メルのぎこちない笑顔が(それと多分私のも)凍りつく。
 リリカは遠慮しない。遠慮、忖度、我慢、そういうものを「めんどくさい、きもちわるい」と断じる心の強さは、間違いなくこの子の強さだ。
 羨ましくもある。同じレイラという存在から生み出されたはずの私たちは、なぜだか「同じ」よりも「違う」のほうが多かった。
 
 ……なんて、現実から逃れようと思考を飛ばしても、その先に逃げ場はなくて
 
「ずっと変だとは思ってたんだよ。ルナ姉もメル姉も、ぎこちないっていうかさ。ちょうど先月くらいからかな? 観客数なんかのせいだとは思わなかったけど……」
「なんかって言うけど、大切な指標だわ!」

 メルの反論を遮り、リリカはあくまで淡々と、むしろ姉が妹に聞かせるような調子で続けて、

「でも回復したんだ? 良かったじゃん。ミーハーな人間たちに受けて満足できた?」

 リリカの辛辣な言葉が私たちを突き刺す。
 そうだ。わかってる。特に……一番リリカが不満を感じているであろうことも。
 
 プリズムリバー楽団リニューアルと言っても、それは実際、幻想の音で私とメルの間を取り持たなければならないリリカに最もしわ寄せの行くものだ。
 じゃあ私たちは――というより、私は何をしたのか。
 極めて端的に言えば「強引にまとめた」と、それに尽きるかもしれない。私のヴァイオリンによってメルを、リリカを、雷鼓さんの音を強引にまとめ、束ね、一つの音にする。ポンプの口を小さく切り詰めれば、当然、水の勢いは強くなる。私がしたのはそれと同じこと。

 ……もちろん今までだって私は皆をまとめようとしてきた。

 だけどそれで足りなかったから、飽きられたんだ。
 もっと、もっと、もっと! もっとまとめることが必要だった。
 でもそれは口でいうよりずっと難しい。ポンプの口を切り詰めすぎれば、水の勢いは強くなりすぎる。はね飛んだ水を浴びてたちまちずぶ濡れになってしまう。

 じゃあ、どうすればいいのか。どうすればバラバラな四つの人格を、それが奏でる音を一纏めにできるのか。
 
 手元のヴァイオリンに視線を落とす。そこに刻まれた「Bevitore」の銘。
 もちろんこれがただのヴァイオリンじゃないってことを、私はとっくに理解してる。このヴァイオリンに秘められた力。これに刻まれた魔力の意味。

 このヴァイオリンは「理想の音色」を奏でる力を持っている。

 うん、最初にリリカと調弦をした時からそれはわかってた。ヴァイオリンのチューニングは理想の音色へと徐々に徐々に近づけていく作業。だけど、このヴァイオリンは最初から完璧な状態だった。
 完璧――それはつまり、私にとって理想の音色を奏でていたということ。もちろんそれだけならちょっと便利なヴァイオリンに過ぎない。ソリストにうってつけの便利アイテムでしかない。

 ……問題は、協奏曲の中で奏でられた時だった。

 無数の音が飛び交う協奏曲の中で「理想の音色」なんか毎秒ごとに移り変わる。なれどもそれを奏でるためにこいつは、このヴァイオリンは、たった一つの賢しいやり方でもってそれに応じるみたいだった。
 なにかと言えばこのヴァイオリンは周囲のあらゆる音を支配して、そんな無理矢理なやり口で「理想の音色」を形作ろうとする。
 トランペットを、キーボードを、ティンパニたちを強引に押さえつけ、奏者(つまり私)の望む音色を引き出すんだ。ようするに「Bevitore」のヴァイオリンを弾く者は誰であれ、楽団のアンサンブルそのものを「弾く」ことができる。それも完璧に。
 まさに魔法の力だ。あらゆる音楽家が夢に見るような力だ。
 このことを私はまだ誰にも話していない。リリカも雷鼓さんも、メルでさえ、私が技量でもって強引に楽団をまとめ上げていると思っている。

「ところでルナ姉、どこからそんな荒っぽいやり方を仕入れてきたわけ? まるで人が変わったみたいじゃん」

 それにしても恐ろしいのはリリカの勘の鋭さだった。
 たしかに私は「Bevitore」のヴァイオリンを使って強引に楽団を「弾いて」いる。とはいえそれは魔法の糸で皆の手足を縛り付け、傀儡人形のように操って演奏させている……というわけでもない。
 あくまで静かに、さり気なく、けれども狡猾に誘う響きでもって、こいつは(私は)それを為している。おそらく一種の暗示のようなものなのだろう。音の調子とか、リズムとか、そういうものでもって知らず知らずに皆の手を取り、演奏の方向を導いている。きっと並の演奏家じゃあ気が付かないどころか、むしろパフォーマンスが上がってるように思うはずだ。
 それを踏まえてみればやはり、リリカの音楽センスは姉妹の中でも頭抜けているんだな。もっともそうでなきゃ、極端な鬱の音色と躁の音色を取りなすなんて不可能だったろうけど……。

「私はただ聞いてくれる人にもっと良いものを届けたい。それだけ」
「あっそう……悔しいけどたしかに、私たちの音は前よりずっと良くなってる。でも……あぁ、私って口に出すのは得意じゃないんだよ! とにかく嫌だ! 今のやり方は気にいんない!」

 わしゃわしゃと頭を抱えるリリカを見るのは……心苦しい。
 でも仕方のないことだ。もしメルランの予測通り観客が減り続ければ、いずれは楽団の活動にも目に見える影響が出る。そうなればリリカの「もやもや」も、きっとずっと大きくなるだろう。
 そしてそうなれば、私たちの間に存在する「楽団」という繋がりそのものが揺らいでしまう。それはダメだ。それだけは絶対にダメ。そうさせないことこそが私の使命。姉としての役割。

「あーもう! 雷鼓さんはなんとも思わないの!?」

 水を向けられて雷鼓さんが顔を上げる。全身を駆け抜ける緊張感。雷鼓さんはある意味で楽器そのもので、「Bevitore」のヴァイオリンの魔力も直に感じている可能性がある。
 事実、さっきからずっと一言も発していない。ひょっとしたらもうマジックアイテムの効果に気がついている……?
 だけど彼女はただ、押し殺したような声で

「この楽団のリーダーはルナサでしょう。あなたがこれでいいなら、私もそれに合わせる」

 とだけ。
 リリカに悟られないようこっそりと胸を撫で下ろす私。

「リリカ、あまり姉さんを困らせないでよ。きっと成長痛みたいなものだわ。良い演奏をするには、時に慣れ親しんだやり方を捨てる必要だってある」

 成長痛のようなもの、ね。時間が解決してくれるのだろうか? そう願いたい。

「あっそうですか!」
「メル、いいよ。今日はもうお開きにしよう。今月はつめつめのスケジュールだったけど、その分来月は少し余裕があるし……次で、最後だよね?」

 問いかけに、メルが首肯く。

「ええ、次が今月最後のお仕事よ。それが終わればしばらく休暇をとれるはず。だけど気は抜かないで。なにせ――紅魔館の当主から直接のご指名なんだから」

 魔法のヴァイオリンの次は悪魔の演奏会……か。

「みんな頑張ろう。力を合わせれば、きっとうまくいく」

 それにしても、ああ。
 まったくひどいおためごかしだな。


 ◯

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 紅魔館中央ホール、ツェペシュの間。既に日は落ちて、月光差し込む空間で私たちプリズムリバー楽団は本番前のリハーサルを行っていた。
 手元には変わらず「Bevitore」銘のヴァイオリン。演奏を終えるとどっと汗が吹き出す。あのヴァイオリンに食われる悪夢は、ある意味では紛れもない現実とも言える。弾き終えるたびに私自身の魔力が喰われているような気分になる。
 それでも……代償に見合う結果は確実についてきていた。ぱち、ぱち、ぱち、と鷹揚な拍手をするのは他ならぬ当主レミリア・スカーレットその人で。
 鋭い牙を隠すこともせずニカっと笑い、十字架のように両腕を広げて彼女は快哉を叫ぶ。

「ブラヴォー! 500年以上生きてきたけれど、こんなに素晴らしい演奏は久方ぶりよ! ねえパチェ、アマデウス坊の演奏を生で聞いた時以来じゃない?」

 水を向けられた悪魔の友人は、けれどつれなく肩をすくめてそれに応じる。

「私、まだ産まれてない」
「あらそう。それは勿体ない事をしたね」

 本気なのか冗談なのかけらけらと笑いながら、レミリアは壇上へふわりと飛び乗って私の前へ。
 もちろん彼女に敵意はない。それはわかってる。それでも、ただ側に居るだけで強大な妖力に空気が震えるようだ。

「ルナサ・プリズムリバー。こうして話すのって初めてだっけ? 私より背が高いのね」
「お呼びいただき光栄です」
「堅苦しいのはいいのよ。ああしかし本当に勿体ないな! いまのがリハーサルだなんてね! この頃のあなたがたは飛ぶ鳥も落とすような勢いと聞いている。噂通りね、前に聞いた時よりずっと良い。知ってて依頼をだしたの、咲夜?」
「特にそういうわけでは。お嬢様の日頃の行いでしょう」

 銀髪のメイドが厳かに頭をさげる。「そう」と吸血鬼の気のない応答。

「ま、いいわ。今回の主役は私じゃないの。話は聞いてるでしょ?」
「伺っています。妹君のお誕生日会ですよね」

 少なくとも十六夜咲夜の話では、そうだった。
 吸血鬼の妹、フランドール・スカーレットの誕生日会だと。つまり私達の役目は祝いの音色を奏でること。バースデイソングの演奏者。

「そう、そう。まあ本当の誕生日なのかは知らないけど。なにせ500年も前だからねぇ。あっははははは!」
「は、はは……なのにちゃんとお祝いしてあげるとは、お優しいんですね」
「そんなんじゃないよ。放っておくと五月蝿いからさ。ああ、そういえばあなたも長女なんだっけ? 姉ってのは大変よね! なにかとさ。もしよければ今度うちでお茶でもしましょうよ」
「それはどうも……私は未熟で、妹たちに助けられてばかりですけど……」
「ふうん。謙虚なのねぇ。ま、いいわ。咲夜ぁ! 会はいつから始めるんだっけ!?」
「もうそろそろの予定ですが、妹様がまだお目覚めでないようでして」
「そう。楽しみで眠れなかったのかな?」
「サプライズパーティーですわ」
「あ、そう。悪いわねルナサ、あいつ無理やり起こすと死人が出かねなくって」
「はぁ」
「メイドたちに個室を手配させるよ。たぶん一息つくくらいの時間はかかると思うから」
「ありがとうございます。お心遣いいただいてすみません」
「こっちこそ、忙しいとこ申し訳ないわ。欲しいものがあったらメイドに言いつけてくれて大丈夫。それじゃ、本番楽しみにしてるよ!」

 バチコンと悪魔のウィンクひとつむり。
 それは実際ありがたい申し出だった。リハーサルだというのにすっかり疲弊している私がいる。まだ慣れない奏法に体が追いついていない。プロとしてあるまじき体力配分ミス。
 そのまま慌ただしく個室に通され、一息つく。ふかふかのベッド、うれしい。心地良いアロマの香り、とっても素敵。私たちの邸宅も幻想郷的には相当に豪奢な方だけど(幽霊屋敷である点を差っ引けばだけど)、流石にこの館には負ける。
 ベッドに身を投げ出す。本当に柔らかい。そのまま眠りに落ちてしまいそうな浮遊感。実際……ノックの音が響かなかったらそうしていただろう。
 でも、そうはならなかった。ノックの音は現実だ。私の返事も待たずに入ってきたのは、

「リリカ?」

 彼女は何も言わずにすたすたと歩み寄り、私の寝転がっていたベッドに腰掛ける。その表情は伺えない。でも、ぴりっとした空気の色合いくらいはすぐにわかった。
 だって、リリカは私の妹で、私はリリカの姉なんだから。

「ルナ姉……この後の演奏会についてちょっと、いい?」

 見えてないだろうけど、私は頷きでもってこたえる。どうあれ、リリカは言いたいことを引っ込める気はないだろうし。

「あのさ……いつもの、今まで通りのやり方で演奏しない?」
「どうして?」
「どうしてって言われてもさぁ……私が伝えるの下手だって知ってるでしょ!? なんかこう、うまく察して! 姉さんなんだしさ!?」

 そんな無茶な。いくら姉だからって、心を読めるさとり妖怪みたいにはいかない。
 いかないけれど……とはいえ、半分はわかる。

「やっぱり嫌なの?」

 「Bevitore」のヴァイオリンの魔力を、それに誘われた演奏になることをリリカが嫌がってるのは理解してる。「理想の音色」を弾くコツは両極端な躁鬱の音色の統合にある。つまり、リリカを「弾き尽くす」ことにある。そりゃあ嫌だろう。私は目の回るような気分でリリカを「弾いて」いる。それはとりも直さず、彼女自身の苦労でもある。
 それはわかる。だから半分。
 だけど事実として今のやり方のほうが良い音を出せるんだ。リリカだってそれは自覚しているはず。
 それなのにあえてこのタイミングで待ったをかけにきた、その心まではわからない。
 
「嫌は嫌よ。ああ……ルナ姉の言いたいことはわかる。さっき、レミリアさんは演奏を絶賛してたもんね? そのやり方を土壇場で変えたら楽団の信用に傷がつく。私にもそれくらいはわかってる」

 彼女の理解もまた半ば、ということらしい。私たちは互いに半分ずつを理解できているが、半分ずつを理解できていない。掛け合わせて、意思疎通度はクオーターってところだろう。
 無論そんな状態は、相互理解とは程遠い。リリカは早口で言葉を続ける。刺々しい雰囲気が薄絹のように部屋全体に絡まっていく。

「でもさ、誕生日会なんでしょう? 妹さんと話したことないからどんな奴かは知らないけどさ、誕生日っておめでたいものだよね? そりゃまあ、本当の誕生日じゃないとかどうとか言ってはいたけど……でも、みんなが認めてるならそれは本物じゃん。ルナ姉ならわかるでしょ?」
「私ならわかる……なぜ?」
「え……あ、そうなんだ? ほんとに? あっそう……まぁ、いいよ。それはいい! とにかくさ、おめでたい席ってことじゃん! だからやめようよ、もうやめよっての! こんな弾き方は!」
「ま、待ってよ。言ってることがチグハグだわ。リリカさっき自分で言ったじゃない。そんなことをしたら……」
「楽団の信用が傷つく? それは、そうかもしれないけど……でも別に、今までがすごい悪かったってわけじゃないよね!? そりゃ確かに今の方がずっと音はいいけど……あ~~っ言葉出てこない! なんていえば良いのかなぁ!?」
「あなたの立ち位置が大変になってるのはわかる。明らかに負担を集中させてしまってる。嫌になって当然だわ。でもそこはこれから少しずつ調整していくつもりで、」
「違うんだよ! 大変かどうかじゃなくてさ! そんなのどうだっていいから! だって音楽やるって大変なことじゃん、それは最初に三人で決めた時から受け入れてる! レイラが死んだあの時からとっくに――」

 言いかけて、リリカの表情が凍りつく。彼女からレイラの名前がでたのはいつ以来だろう?

「あ……いやちがっ、そういう話したいんじゃなくてっ……」

 しどろもどろになるリリカには……本当はまだなにか、きっとなにか言いたいことが合ったはず。
 でも、先に彼女の心のコップが溢れてしまったようだった。きっとレイラの名前がそれをした。べつに嫌な思い出だっていうんじゃない。むしろ私たち三人は最終的にレイラのことを大好きになっていた。彼女は本当に、最期まで愛すべき妹だった。
 とはいえどんな人生も順風満帆には行かないし、特にレイラとの日々はあまりにも濃密で生き生きとしていて……どんなに素晴らしい演奏も何重奏と合わされば聞き取りきれないことと同じく、リリカはその思い出の質量に堪えきれなくなったんだろう。
 あるいは紅茶にひたしたマドレーヌを片手に、三人でゆっくりと失われた時を求めるなら、きっと素晴らしい時間になるのだろう。けれど、あの日々はいうなれば私たちの「第一の生」そのものであり、既に破裂寸前だった私たちの間にはあまりあるものだった。
 部屋も閉めずに出ていくリリカの背中。彼女の服の赤色が廊下の奥に消えていく。
 
 結局、結論は有耶無耶になってしまった。さらに告白すれば私は安堵していた。あのまま向かい合えば私たちはもう、結論を出さずにはいられなかっただろうから。
 後ならいい。演奏会が終わった後でなら。でも今はダメだ。今すぐに崩すことはできない。さっきリリカが言った通り、それはプロフェショナルとしての矜持の問題だ。

――本当にそうなのかしら?

 でも観客たちは、レミリア・スカーレットは、褒めてくれたじゃない。
 あるいはメルが言っていた。これは成長痛のようなもの。必然的な痛み。事実、いい音を奏でられているのだから、音楽家としてそれ以上に望むことがあるだろうか?
 音楽家として……あれ? でも、おかしいな。そもそもの私の望みはなんだっけ……? 私の、望みは……私の理想の音色は……わたしは……


 ◯

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「どうしたのよ? ボーっとしてるけどさ」

 スポットライトを浴びていた。
 壇上の私たちを見上げたレミリア・スカーレットが首を傾げる。その周囲で慌ただしく行き交う妖精メイドたち。
 振り返り見るとメルもリリカも、雷鼓さんも、既に演奏の用意を終えていた。
 いけない、いけない、ステージに立ってからこんな風に呆けているなんて。
 個室で中途半端に眠ってしまったからだろうか? リリカと話をして、喧嘩みたいになりかけて、それでええと……

「ちょっとお姉様! いったい誰に対してものを言ってんの!」

 鋭い声音が響いて、弛緩した神経がピンと張り詰める。
 フランドール・スカーレット。悪魔の妹君。本日の誕生日(推定)会の主賓がすでに壇下の特等席に腰掛けて、キラキラした瞳をステージに向けている。
 隣りに座った姉君に向け、彼女は口をとがらせて苦情を呈す。

「彼女たちはあのプリズムリバー楽団なのよ! あの幽霊楽団! ファントム・アンサンブルなのよ? 演奏前に集中してんだってわからないわけ!?」

 そう言われればさしものレミリアもたじろぐ他ない。

「わ、わかってるってば。まったくそんなに興奮しちゃって……ま、喜んでもらえたようで何よりだわ。ねえルナサ?」

 と、私に向けてウィンクを送る。その横でまた「なによその気さくな呼びかけは!」と激しい抗議。
 こっちは気が気じゃない。気を引き締めないと。誕生会(本当の誕生日じゃないにしても)がうまくいくかどうかは、私たちがいかに盛り上げられるかにかかっているんだから。それもこんなに期待してもらってる。失敗はできない。
 演奏前の挨拶のため私は口を開く。喉が渇く。声がかすれてうまく声が出ない。それでも、振り絞る。

「ええと……本日は、バースデイという特別な日にお招きいただきありがとうございます。祝いの曲を奏でさせていただきます、ルナサ・プリズムリバーと申します」
「自己紹介なら大丈夫! 私、あなた達の大ファンなの! このクソ姉貴に地下室に縛り付けられてるからさ、ほとんど地上にでられないんだけど……パチェに連れ出してもらった時、たまたまライブを聞いたらもう感動しちゃって!」
「ちょ、ちょっとそれいつの話よ」
「パチェは優しいなぁ~どこかのお姉様とは違うねぇ~」
「な、今日だって私が会を準備してあげたのよ! それを――」
「わかってるよ! はぁ、鈍いなぁ。プリズムリバー楽団の演奏が聞けて嬉しいって、そう言ってんのがわかんない? ナイスチョイスだって言ってやってるの!」
「あ……ふ、ふん。まあ当然ね。妹の好みくらいしっかり把握してるんだから」
「パチェから聞き出して?」
「ぐぬっ」
「まあ、いいや! そういうわけだから! 演奏とっても楽しみよ! さ、さ、お姉様静かに静かに」
「なによぉ。一番騒いでたのは自分じゃないの……」

 それにしても、顔が輝くというのはまさに彼女のような状態を言うのだろう。そう思わずにはいられない活気と期待の熱放射に、自然、緊張が高まる。
 大丈夫、大丈夫だ、今の私達の音色ならきっと大丈夫。
 息を吸い、ヴァイオリンに弓を当てる。口火を切るのは私の役目。姉である私の。そして震え、満ちる、理想の音を引き出す。メルのトランペットで吐き出す躁色の激しい語らい、リリカのキーボードを使って私たちの衝動をつなぎとめる。ペースメーカーは雷鼓さんのリズムで創り出す。協調が、共鳴が途切れぬよう、私は細心の心遣いで「Bevtore」から理想の音色を引き出していく。
 そうね、理想の音色が出せる魔法のヴァイオリン。素敵だわ。でも実際の姿はこれだ。自動的に完璧が訪れるわけじゃない。千変万化のアンサンブルの機微を経験と感性でもって掴み、乗りこなし、導くこと。
 こんなのはきっと憎まれ役。だけどいいんだ、それこそが私の役割だ。

 姉妹の苦境は私が導く。だって私はお姉ちゃんだから。

 楽団の不調は私が導く。だって私はリーダだから。

 自由闊達な私たちの音は、演奏は、すぐにいつでもバラバラになってしまうから。
 感情に振り回されて止まないメルの心も。自由気ままを愛するリリカも。
 まとめあげる。私がやるんだ。私がやってやる。ハッピーバースデートゥーユーを奏でてやる。そうだ、最高の演奏を。最高の体験を届けるのが私たちの仕事だ。
 力強くも繊細なデタッシェを。メルは柔らかな金管楽器のアルモニアを! さあリリカは幻想の音を強めて。雷鼓さん、リズムが遅れていない? あなたらしくもない。
 さあほらもっと、もっと真剣に。もっと没入を。プロフェショナルでしょう? 一つほつれば全体がほつれる。知っているでしょう――ああ、いいわ、とってもよくなった。
 そう、そう、すべてはとってもいい感じ。けど足りないわ。もっと理想の音色を。聞き惚れるような演奏を。観客が酔いしれるくらいの演奏を! 私たちはもっと、もっと! 
 
 もっと……

――ルナサ、あなたは本当にそれでいいの?

 バチン、と。電流の流れる音を聞いた気がした。
 霞がかったような視界が唐突に取り戻され、はっと息を呑んだ。

 今のは……レイラ?

 いやダメだ、何をしてるのルナサ?
 まだ演奏の途中でしょう、こんな風に取り乱してはダメじゃない。
 本当にそれでいいのかなんてわかりきった話。理想の音色を伝えるよりも大切なことがあるの? それこそがあらゆる音楽家の夢――

「違うっ!」

 空気が揺れた。今度は現実の声だった。
 ふと気がつくともうステージの空気は、私たちの空気は、ぞっとするほど冷え切って収まっている。
 いったい、どうして?
 どうしてフランドール・スカーレットの真紅の瞳は揺らいでいるの? そこに満ちた涙の色は……私たちの演奏に感動してくれたから、じゃ、ないだろうな。
 握られた両の拳がわなわなと震えている。吸血鬼の生の「怒り」だ。私は無意識に一歩、たじろいでいた。

「違う、違うわ……私が好きになった演奏じゃない! お姉様どういうことよ! いったい誰を連れてきたの!?」
「な、なにがよ? プリズムリバー楽団だってば! 素晴らしい演奏でしょう? とっても! 私への当てつけならちょっと雑すぎるんじゃあない!?」

 すっと胸の底が冷えていく。
 間違えた? 私はなにか間違えたの? 妹君のあの表情……たじろぐレミリアよりもずっと私は恐れ、怯え、困惑し、立ち尽くすしかできなかった。

「前に私が聞いた彼女たちの演奏は……あれは、こんなんじゃなかった! もっと生き生きとしてて、楽しそうで、賑やかで、騒々しくて! だから良かったのに! 地下室のカビ臭さを拭い去ってくれるような……そりゃあ今のほうが上手かったかもしれないけど、でも、それだけだわ。ちっとも楽しそうじゃない! 演奏が苦痛で苦痛でしかたがないって感じがするもん!」
「フラン……ちょっと意味がわからないけど」
「ふん! そんなんだから私を地下室に閉じ込めてても平気だったのよ。500年も生きてると感受性も腐り切るんだ?」
「んなっ――ちょ、ちょっとどこ行くのよ!? フラン! ねえ!」
「もう寝る。好きなものが減るって悲しいのね」

 バタン、扉が拒絶の音をたてて閉まった。
 レミリアの呆然とした瞳が私に向けられる。指先が震えだす。そのさきからたわみ、ほつれ、またヴァイオリンの弦のように細くなっていく。

「私には、妹の心がわからない。でも一つだけ確かなことがあるようね」

 ため息。残悔と、ほんの少し怒りの滲むため息が一つ。
 ちがうっと喉から漏れる悲鳴は、ああやっぱり、私のものなんだ。がちゃんがたんと取り落とされたヴァイオリンがたてる音。
 そしてレミリアの瞳は私を見上げて、恨めしそうに、悔しげに。

「どうやら……あなた達を呼んだのは間違いだったみたい」

 そうして、カーテンコールも拍手の音もないままに演奏が終わる。
 終わってしまったんだ。
 ばっと私の全身が弦になり、バラけていったんだ。


 ◯

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Timp.||

「いやああああああああっ!」

 E線のハイポジションめいた金切り声が再びステージに響き渡った。
 いや違う。そこはステージじゃなかった。
 ふかふかのベッド、心地良いアロマの香り。
 ここは、そうだ、紅魔館の個室……? 混乱する頭を起こすと、けほけほと、息苦しい喘息の咳が聞こえた。それに被せるように、私に呼びかける聞き慣れた必死な声。

「ルナサ! ルナサっ! 大丈夫!? ああ酷い汗……よっぽど酷い思いをしたのね。かわいそうに……」

 私の両手を掴んだのは、間違いない。雷鼓さんだった。その背後で、椅子に腰掛けたまま私をじとり見つめる全身紫色の少女・

「あ、あれ……雷鼓さん? それに、えっと」
「パチュリー・ノーレッジ。別に名前は覚えなくていい」

 そうだ。彼女は悪魔の友人、動かない大図書館。雷鼓さんの声がしっかりと響く分、彼女の声はかすれて消え入る寸前のよう。集中しないと聞き取れない。

「えっと、あなたがフランドールさんを私たちのライブに連れてきてくださった、でしたっけ? あれ? でもそれは夢? いや、さっきのは現実……?」
「べつに妹様を特別贔屓してるつもりはない。私はただ、盟友が涙ぐましくも姉妹関係の改善に向けて踏み出そうとしているのを、横から邪魔されたくなかっただけ」
「邪魔って……私のことですか……?」
「どうかしら。例えば、妙なマジックアイテムに魅入られた騒がしい幽霊とかのことを言ってるけれどね……」

 マジックアイテム。私の背筋を正す響き。
 それと、今の言葉でようやく理解する。パチュリーさんのじとりとした目つきは、ただの性格の問題じゃない。警戒と敵意が隠されもせずに宿っている。私に向けた警戒と敵意……。

「ごめんなさい、ルナサ」

 かくてたじろぐ私を見つめる雷鼓さんの、神妙な声音。

「彼女には私から相談していたの。あなたの様子がおかしいのはわかってた。人郷での定期コンサートならともかく……っていうと失礼だけど……そのまま紅魔館での仕事をするのは、あまりに目に余ったから」
「いい判断よ。うちの当主は我儘で有名だからね。怒らせたら何をされるかわからない永遠に幼き紅い暴君」
「あーいや、そういうわけじゃなくて……まあ、それもあるかな? あっはは……」

 こほん、と。今度は喘息のものではない咳払いが一つ。
 じとりとした苛立たしげな瞳が、私を見やる。

「それで……何を見たの?」
「えっと、悪夢の話ですか? やっぱりさっきのは、夢……?」
「そう。それは夢だけど、ただの夢じゃない。私が構築した一種のシミュレーション世界」

 唐突な話に理解が一瞬追いつかない。当然それを予期していたというように、彼女はきっちり間髪を入れてから続ける。

「いやその言い方は正しくないか。構築したのはあくまであなたの魂だけど、そうするよう仕向けたのは私の魔術。それに妹様に関する知識も幾ばくか渡したかな」
「す、すみません、仰ってることがよくわからなくて」
「あそう。まあわかりやすく言えば……私はあなたに予知夢を見せた。現実に潜む変数を掴みだし、煮詰めて、帰納的に未来を演算する魔術の奥義。つまりあなたが今見た光景は、起こり得るかもしれない仮想的現実のヴィジョン」

 まあ結局、淡々と告げられる説明の半分も理解できなかったけれど(たぶん当てつけも混じってる気がした)、とりあえず要点は理解できた。
 予知夢のようなもの。起こり得るかもしれない現実のヴィジョン。
 そう、たしかに今見たものは限りなく現実に近い質感だった。そういう生々しさがあった。正直今この瞬間までは、私は現実にフランドール君を、観客を傷つけてしまったんじゃないかと。失望させてしまったんじゃないかと……そう思っていた。
 強張った肩から力が抜けていく。

「そっか……あれは夢なんだ……」
「なにをホッとしてるのよ。私は予知夢を見せることはできても、内容までは知らないんだから。一体何を見たの? まあその様子じゃ、碌でもない未来だったのは間違いなさそうね」

 否定することはできない。私が顎を引くと、雷鼓さんのため息。二人にも大方の予想はついてるみたいだった。
 でもそれは感謝すべき事柄だよね? 少なくとも隠すことに意味はないん――って、すんなり受け入れられたから。

「あなた達を呼んだのは間違いだった、と。レミリア・スカーレットはそう言いました。私が好きになった演奏じゃない、と。フランドール・スカーレットはそう言っていました。間違いなく」

 その他にも私の経験した仔細を伝える。
 俯く雷鼓さんの暗い表情が胸を締め付ける。雷鼓さんのせいじゃないんだ、申し訳なさと後ろめたさだけが募っていく。

「まあ断っておくと、それはあくまで可能性。やれば必ずそうなるってわけじゃない」

 束の間優しいパチュリーの声音は、けれどすぐに厳しさを取り戻し、

「でも、蓋然性は極めて高いでしょうね。妹様はあなたたちの楽しそうで、賑やかで、騒々しいところに惹かれたんだと言っていた。それは彼女に欠けたものだから」
「そう言われました」
「まあね、私は私の独善に依って動くだけよ。妹様の好みは世界標準では確実にない。彼女の好みを受けてそれに全ベットするのは、まあね、最適解とはほど遠いわ。べつに貴方たちの演奏が間違ってるなんて保証はどこにもないんだから。そんなことは誰にもできない。それだけはフェアに伝えておくわ」
「それは」
「とはいえ、このままあなた達を妹様の前に出してやるつもりもない」
「は、はい……」

 ふう、と息を吐き、喘息がしんどいのか水差しで喉を潤した彼女は、改まって私の瞳と向き合った。

「さてと。これでやっと本題に入れる」
「本題……?」
「そ。さっきも言ったけど私は私の独善に依って動く。私は親友の頑張りに報いたいだけなの。だけど問題が一つ現れた。妙なマジックアイテムに魅入られた騒霊が」

 再びにその言葉だ。無意識に背筋が伸びる。緊張が走る。
 この「Bevitore」のヴァイオリンがマジックアイテムであることは、まだ誰にも伝えていないはず。事実、雷鼓さんは不思議そうな顔をこちらに向けている。

「どうして……どうやって気がついたんでしょうか」
「ただの知識に基づく予測。プリズムリバー家の当主はマジックアイテムの蒐集を趣味としていた。それは知識の範疇。そして、その趣味のせいで厄介を招き寄せることになった。ならそれらマジックアイテムが関与しているかも、と疑うのは妥当な予測」
「……はい」
「まだ残っていたとは驚きだったけどね。一目見てわかったわ。ルナサ・プリズムリバー、あなたの纏う胡乱な魔力。明らかに騒霊のそれじゃない。まあ……厄介なものに手を出したわね」

 だって知らなかったの、という言葉を喉奥にとどめる。
 確かに最初は知らなかった。でもそんなのは最初のうちだけ。私はすぐにあのヴァイオリンの力を理解し、使いこなした。いや、使いこなしたつもりだった。理想の音色を奏でるために。
 返す言葉もない、とはこのことを言うのだろう。

「どんな代物なんです?」

 と、雷鼓さんの当然の疑問。結局私はこのことを、仲間の誰にも打ち明けられなかったな。
 言わないで、と思う反面、自分で言うよりはずっと楽だという小狡い気持ち。私は口をつぐむ、つぐむ、つぐむ……

「さあ? 名の知れた物じゃないわね。たぶん比較的に新しいものでしょう。どんな力を持つのかは――」
「や、やっぱり私から話します!」

 つぐむ、はずだった。咄嗟に声が出ていた。パチュリーが開きかけた口を閉ざし、「どうぞ」と目で答える。
 覚悟なんかなかった……そもそも自分で話す必要があるのかさえ。それでも衝動は過ぎ去っていたし、こういうのは初めでてもなかった。鬱の音色の裏にはいつだって強い衝動があったから。

「えっと……」

 とはいえ語るのは、気持ちいい体験じゃなかった。理想の音色を響かせる「Bevitore」のヴァイオリンについての話は。
 雷鼓さんたちはずっと神妙な顔色を崩さず、茶々一つ入れずに聞いてくれた。
 ふわふわと落ち着かない浮遊感が胸にわだかまっていく。話し終えてもまだそれは消えなかった。

「なるほど……話してくれてありがとうね、ルナサ。技量でこなしているにしては、あまりに高度すぎる業だとは思ってたの。って、あなたの腕が足りないって言うんじゃないのよ。千変万化の音の世界をリアルタイムに束ねあげ、望むまま操ろうなんて、それは神の所業。私はてっきり、ルナサが音楽の神様かなにかになっちゃったんじゃないかと心配したわ」

 冗談なのか本気なのか。他ならぬ付喪「神」の彼女に言われると冗談には聞こえない。
 とはいえ、しかし、これは神の力でもなんでもない。そういうふうに見せているだけだ。酔いどれて、神がかったふりをしているだけ。本当の神の御業なら、きっともたらされるのは完璧なるアルモニア。
 だけどそうではないから、所詮これは人の域の業だから、ほころびが生まれる。音にならない不協和音が奏者達の内側に凝り固まっていく。酔いどれた翌日の、ひどい二日酔いのように。

「わかってはいたんです。でもこれは成長痛のような物だと、良い演奏のために必要な痛みだと思った。実を言えば今も思ってはいるんです。良い演奏をしなきゃ、と思うんです。良い演奏をしないと人々の心が離れていくと、それはわかっているから。だけど綻びは、不協和音は、もう無視できないほどに響いていて。それもわかってる。というより、わかりました。パチュリーさんの見せてくれた予知夢のおかげで。だから私は……わかってるから、全部わかってるから、だから……どうするべきなのか、もうわからないんです。リリカの言うように昔の音を戻すのか。今の音を続けるのか。どちらも私にとっては正しいとわかるから。別の正しさなんです。別の……たださっきパチュリーさんの見せてくれた夢は、本当に悪夢そのものだった。あんな未来が訪れるなら、私は、」
「おっと。繰り返すようだけど私の行動はすべて恣意的なもの。あなたに都合よく演奏させるためにただの幻覚を見せた……という可能性も忘れないように。元より魔術(マジック)とは他者の精神に影響を与える秘儀としての側面を持っている。あなたの持つマジックアイテムと同じく」
「せ、誠実ですね……」

 たじろぐ雷鼓さんに向け、パチュリーさんは首を横に振る。

「違う。私のせいにされたらたまらないから。言っておくけど、付喪神さん。あなたが声をかけてしまった相手は魔女なのよ。ボランティアのメンタルケアマネージャーだと思ってたなら、悪かったわね」

 そして、沈黙が降りる。
 どうしたらいいのか……まだ頭の中が混乱している。いや、この一ヶ月ずっと混乱し通しだったかも知れない。
 時計の刻む音が沈黙をちくちく刺突する。時間だけが過ぎていく。いつまでもこうして呆けてるわけにはいかないのに。
 だって誕生日会はこれから始まるんだ。けれどこのまま演奏すれば間違いなく先の悪夢のようになる。
 さりとて、今更急に方向転換をすることも、できない。
 悪夢に堕ちる前に見たリリカの沈痛な面持ち。
 今のプリズムリバー楽団を私はもうまとめられる自信がない。あのヴァイオリンの力が無ければとても、無理だ。あれの存在を前提に私は私たちをチューニングしてしまった。再度の調弦には時間がかかる。だけどそれでは間に合わない。

「……はあ。このままだと話が進まないわね? いいわ。恣意的な魔女から恣意的な提案を一つしましょう」

 私たちが顔を上げた先で、すっとパチュリーさんの指が伸びる。スラリと長い人差し指が一本だけ。

「もう一日だけ待つ。元より本当の誕生日じゃないんだからね、適当に私から言えばレミィも納得するでしょう。はあ、妹様にはサプライズでよかったわ」
「えっと、つまり」
「延期よ延期! 明日、陽の沈むまでにどうするか決めてよ。私のオーダーに合わせた演奏をするのか……もっとも、それができればの話だけど……あるいは、くだらないクレームと一蹴して今のやり方を貫くのか」
「ですがそんな……あまりに都合が良過ぎませんか。すべては私たちの、いえ、私の至らぬところのせいなのに。あまりに私に都合が良過ぎませんか」
「ふん。言ったでしょ? 恣意的だって。これはただの『のほほん』としたお誕生日会じゃないの。一度はバラバラになってしまった姉妹がその絆を取り戻すための、魔術的儀式なのよ。失敗は許されない。だから私はただレミィの願いが叶うように、妹様の心が癒されるように、あなたたちの音を使いたい。それがもっとも確実だから。そうでなきゃとっくに追い出して他の連中に声かけてるわよ。この頃は幻想郷にも音楽家が増えたみたいだし」
「ルナサ、ありがたく受けましょうよ。これはあなた達が積み上げてきた信頼の証だわ。確かに今は少し、道に迷っているのかも知れないけれど……フランドールちゃんの心を掴んだのだって、紛れもなくかつてのあなた達なんだから」
「でも……それは、だってそれは、当たり前のことだわ」

 私は長女なんだから。楽団を導くのは私だ。姉妹を導くのは私だ。それが私に与えられた役割だ。
 それが、それこそが、レイラが私に与えてくれた……

――ルナサ、あなたは本当にそれでいいの?

 ふと思い出す言葉の響き。
 あの悪夢の中で私の意識を目醒した……レイラ? レイラなの?
 それとも単に私の後ろめたさと不甲斐なさがもたらした幻聴か。
 どうにも手元が震える。酔いどれたアルコール依存症患者のように。
 メトロノームのように左右に震える。揺らぐ揺らぐそれは、揺らいでいるのは、私。私だ。

「……ま、期待せずに待ってるわ。次善の策は、いくらでもある。それじゃあ」

 パチュリーさんが立ち去り、雷鼓さんと私だけが残される。
 その雷鼓さんも、私が何も言わず身じろぎもしないのを見て、ゆっくりと立ち上がった。

「ルナサ。助けになれることがあればいつでも言って。あなたは……やっぱり、真面目すぎるわ。一人でなんでも抱えるのは、きっといつか無理が出る。一本の弦から出せる音は一つきり、でしょう?」
「ありがとうございます……でも、少し一人にさせてもらっていいですか。まだ頭の整理がついていないから……」
「そうね。他の二人には私から伝えておくから、しばし休息ってのもありだと思う。楽器をチューニングするように、奏者にも調弦の時間は必要よ。自分の音、聞き漏らさないでね」

 そして雷鼓さんも部屋を後にして、望み通り私は一人きりになった。


 ◯

Vn.1||
Vn.2||
Cond.||

 最初に自分の気持ちを確かめてみた。
 私は私の調べを調べていつも通り。落ち着いている。カッとする躁もなければ、泣き出したい無気力の鬱々もない。
 極めてとってもニュートラル。自分でも、驚くほどに。
 でもそれは吹っ切れたとか悩みの雲が晴れたとか、そう言うわけじゃない。許容量を超えた心が全ての弁を閉ざしてしまっただけだ。
 それでも今は構わないと思った。
 中途半端な精神状態じゃあ余計に取り込まれるだけだから。目の前に置かれたヴァイオリンに。「Bevitore」のヴァイオリンに。
 イタリア半島の言葉で「酔いどれ」を意味するそれは結局、製作者の銘なのか、持ち主の名前なのか、このヴァイオリンそのものの式別名なのか、いまだわからない。
 それでも、兎にも角にも……これと向き合わないことには始まらない。そんな静かな確信が私の中に揺らいでいた。
 だから、問いかける。

「あなたは……いったい、なんなの?」
 
 もちろん答えはない。マジックアイテムと言っても基本はただのヴァイオリン。身を起こして「やあ」と返事をするわけじゃない。
 まあ、いいでしょう。どうせ楽器との対話は言葉じゃない。それは媒介にはならない。
 重要なのはその音色。あなたの音色。私の音色。

――自分の音、聞き漏らさないでね。

 雷鼓さん、私にはよくわからないんです。何が私の音なのか。何が正しい音なのか。

「あなたを弾きこなせばわかるのかな?」

 顎当ての冷たさを感じる。相変わらず「完璧」な調弦の状態。弓を構える。
 いったい何処で間違ってしまったのか。それとも間違ってすらいないのか。
 こんな風に悩み、苦しむ、それはいつ以来だろう?

「いくよ……」

 音があふれる。相変わらずの理想の音色だ。だけど今、誘い導く他の音はない。あるとすれば……それは私だけだ。
 弾きながらも私は私の内側に潜っていく。仏僧がメディテーションによって内なる神と対話しようとするように、私はわたしの音色を思い出そうと弓を引き続ける。
 そう……そして、ここには二つの考え方がある。一つはこのヴァイオリンを完全に弾きこなしてやるって野望、野心。うまくいかないのは単に私の力が足りないせいかもしれない。私の力が足りないから、吸血鬼の妹君を満足させることができなかったのかもしれない。リリカが不満に思うのかもしれない。
 事はずっと単純なのかもしれない。私の力量さえ追いつけば、そうすれば、完璧な形で理想の音色を奏で続けられる。そうすれば、もう誰も私たちを無視できなくなる。妹たちを導ける。姉として。力強い、揺るぎのない、姉として……。
 ああ、なんて荒々しい音色。私はあてどもなく音をかき鳴らす。それが気持ちいい。心臓を鷲掴みにして震わすような激しいヴィブラート。落ち着きのないスピッカート。これもまた私の音色。

――だけど、それだけが私じゃない。

 夢の中で吸血鬼の妹君は叫んでいた。これは違うって。プリズムリバーの演奏はもっと楽しそうで、賑やかで、騒々しいんだ、って。
 わかるようで、わからないような話だ。賑やかさとか、騒々しいとか、演奏の出来栄えとは関係のない指標だ。初学者が楽しむことを目指すのはわかる。でも、私たちはプロでもある。自己満足で弾いていては観客を喜ばせることはできない。
 できないはずだ。しかし、自己満足を殺して弾いた「理想の音色」は彼女を喜ばせることはできなかった。
 そりゃあ、たった一人の観客の好みに合わせて弾くなんて馬鹿げている。パチュリーさんもそう言っていた。
 なのに私は……妹君の言葉を切り捨てられない。残響めいた絶叫が頭の中でわなないている。
 ああ、なんて弱々しい音色。私はおっかなびっくり音を紡ぎ出す。消え入るようなグリッサンド。語りかけるレガートを。そう、これもまた私の音色。

――まいったな。これじゃなにも決まらない。

 相克する二つの音色。コンポーザーは私。私は楽団の指揮を取り、姉妹の指揮を取る総指揮者であるべきなのに、その私自身が私を指揮できないでいる。お笑い種だ。笑えない。かきならす音に力が籠もる。普通、こんな感情のままに弾き続ければ綻びが出るというものだ。だというのに酔いどれた魔法のヴァイオリンは理想の音色を外さない。
 それがなんだか無性に腹立たしくて、悔しくて悔しくて悔しくて、私は尚尚弓を引く手を止められない。
 もうなにがなんだかわからないんだ。どうしたらいいかわからない。それでもただ、ヴァイオリンを奏でる私は残る……。

 弓を引く、引く、引く……。

 弦を押さえる左手の指先に伝わる震え、震え、震え……。

 全身の筋肉が駆動する、機械のように。

 弾くことは全身を使うことだ。
 
 きっと、魂までも、すべて。
 
 すべて、震わす。

 そして。
 
 私は、ステージに立っていた。
 
 舞台に注がれる光が眩しすぎて観客の様子は伺えない。
 私はソリストだった。ヴァイオリンをかき鳴らしていた。背後には沢山の演奏家たちがいたが、彼らは黙って私の演奏を見つめていた。
 冷たい視線だった。

「おいベヴィトレ、まただ。エマヌエレが楽団を離れた。ルチアーノもだ。もう我慢できんとさ」

 私は楽屋で荒い息を吐き出していた。髭面の男がやれやれと首を振った。

「正直言って……俺もこのやり方はもう限界だと思う。たしかに楽団の人気は飛ぶ鳥を落とす勢いだが、おまえとコンチェルトをしたがる奴はこの半島中探しても残っちゃいまい」
「何故だ!」

 飛び出す言葉。それは私の口から出ていたが、私の声とは程遠い男の声音。
 それと胸のうちにわだかまる怒り、衝動、苛立ち。自分のもののように感じるが、けれどどこか余所余所しい。借り物なんだ、この怒りは。私であって私でない、誰かの怒り……それでも確かに私の胸のうちにある。

「俺はやってきたぞ! ちっぽけだった楽団をここまで成り上がらせたのは誰のおかげだ!? 俺が死ぬ思いでここまで連れてきてやった! それが何を、今更!」
「おまえ、また演奏前に酒を飲んだな。こんな安いヴィーノ・ロッソ(赤ワイン)……禁酒すると言ったろ」
「それなら、もっと協力してくれよ。俺が酔いどれずに済むように……」
「してるさ。してるとも。皆を率いるカーポはおまえだからな! だが皆、これ以上自分の音楽を蔑ろにされるのは我慢できないんだよ」
「蔑ろに! はっ! 戻ってもいいのか!? ちっぽけだったあの頃に! みんなバラバラになっちまってもいいのか!? Vaffanculo(こんちくしょう)!」
「なあ、べヴィトレ……そんなに俺たちのことが信用できないか? お前だけが楽団を背負ってるんじゃないんだぜ……なんて、言ってもお前には届かないんだろうがな」

 髭面の男の冷ややかな瞳。
 それから逃れるように私は――私の身体はワインボトルを引っ掴む。熱い液体が喉を、胃を、全身を焼いていく。
 私は弓を引く。ヴァイオリンを弾いている。そこはまだ紅魔館の個室で、遠慮がちなノックの音が響いた。
 ヴィーノ・ロッソの葡萄の香りがまだ、喉の奥から香っていた。

「どうぞ」

 窓辺に差し込む朝日が優しく私の瞳を灼く。いつしか夜は明けていた。どうも一晩中弾き続けだったらしい。
 じゃあつまり、夜通し館中にヴァイオリンの音を響かせてたってことか。さすがに、怒られるだろうか……そう思って扉の開くのを身構える。けれど顔を出したのは、紅魔館に多く仕える妖精メイドたちだった。
 緑、白、赤の三色カラフルな三人組が、私を見つめてはこしょこしょとささやきあっていた。

「ごめんなさい、うるさかった?」

 私が頭を下げようとしたら、赤い妖精が溌剌とした声で、

「そんなことないです!! すっごい素敵な演奏なので聞きに来ちゃいました!!!!」

 鼓膜を突き破った勢いのまますっ飛んでいきそうなラブコールに、たじろぐ。
 それに白い妖精が慌てた様子で飛び出し、赤い子をふん縛って引き下がらせた。

「ちょっとローテ! ご迷惑だわ! ていうか掃除中だわ! 咲夜様にどやされるわ!!」
「えー!? ハクが一番目をきらきら~ってさせてたじゃん! ねえ、リュイ?」
「うん……ハク、おんがく好きだから……こっそりばいおりんの練習してるの、知ってる……ていうか、プリズムリバー楽団の大ファン、でしょ……」
「とわーっ!?」

 ワチャワチャと白い髪をかき乱しながら妖精が慌てふためき、残る二人がけたけたと笑う。
 なんだか毒気を抜かれてしまった。妖精って存在が寸劇みたいな生き物だな、とぼんやり思う。
 けれど白い妖精――ハクと呼ばれた子が改まって私に向き合い、かわいらしい咳払いを一つした。

「ば、バレてしまっては仕方ないわ。ルナサお姉様、どうかお気になさらず演奏を続けてくださいな!」
「お、お姉様……?」
「私たちー、恐ろし~いメイド長にこき使われて娯楽が少ないんですよっ! 一日に十二時間しかお昼寝できなくて!」
「おやつの時間も……一日三回まで……飢死必至……」

 充分だと思うけど……という突っ込みは意味がなさそうなので、飲み込む。妖精って存在がナンセンスみたいな生き物だ。

「わ、私はちゃんと働いてるわ! 憧れのルナサお姉様に近づけるように! こほん……とにかく、私たちはちょっとサボ――休憩に来ただけなので、練習の邪魔はいたしませんわ」
「まあ……存在が邪魔かもだけど……ふふ、妖精はうるさいから……」
「卑屈だなぁ! もしタダがダメならお部屋のお掃除とかしますよ!!」
「いや……べつに、ダメじゃないけれど。ただちょっと今は調子悪いから、あまり良い演奏にならないかも……」
「「お構いなく!」」
「……なく」
「はぁ」

 そうまで言われては断れない。泣く子と無邪気な妖精には勝てぬ、だ。
 ヴァイオリンを構え直す。それから、何を弾けばいいかわからないと気がついた。

「なにかリクエスト、ある?」
「私は音楽わからない!」
「ハク……」
「あ、じゃあえっと……亜麻色の髪の乙女、とか、お願いできますかしら……」

 クロード・アシル・ドビュッシーか。
 とても有名な曲だから、もちろん弾くことはできる。ただ妖精はもっと賑やかな曲が好みかと思ったから意外だった。

「好きなの? ドビュッシー」
「そ、それもありますわ……でもそれだけじゃなくって、その……」
「その?」
「ルナサお姉様みたいな曲だから……亜麻色の髪、でしょう?」
「ああ、私が……」
「それが素敵で……わ、私、ルナサお姉様みたいになりたいんです……! ヴァイオリンを弾いてる姿、とてもかっこよくてっ! あぅ、えっと……」
「あっははは! ハク顔真っ赤! 私の髪より真っ赤っ赤だ!」
「わかりやすすぎ……」
「あぅあぅ……」
「私みたいに……? そんなこと、あるのね……」

 憧れるなら明るいメルランやリリカの方が良さそうなものだけど……まあ、ファンから見える私は私の印象とも違うんだろうな。
 それでも、じんわり胸の奥に宿る熱いもの。

「やっぱり、ダメかしら……?」
「ううん。心を込めて弾かせていただきます」

 そう、心を込めて。
 目の前で身を強張らせている小さなファンに向ける一曲。
 もちろんいつだって心を込めて弾いている。それでも……いつ以来だろう? こんな風に楽団も仕事も関係なしに弓を引くのは。
 相も変わらずこの「Bevitore」は素晴らしい音を響かせるが、なんだかそれもどうでもよかった。どんなヴァイオリンであれ、今なら不思議と理想の演奏ができる気がした。

 それより私は……優しくも懐かしさを思わせるこの曲について思いを馳せていた。
 La fille aux cheveux de lin(亜麻色の髪の乙女)。『Préludes(前奏曲集)』の一部としてドビュッシーがこの曲を発表したのは50手前の頃だったはず。他の曲とは明らかに異なった趣。元となったのはシャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールという詩人の、同名の詩の情景だ。

 小さな農村がすべての世界だった若者の詩だ。
 情熱的で、それなのに、そっと胸に秘め続けた愛の詩なんだ。

――こんなにも強く焦がれながら、なんでそんなに明るく諦められるんだろうね?

 ふと蘇る言葉。これはレイラの言葉だ。私には理解できないわ、と笑うレイラの表情を憶えている。
 そうだ。この曲はレイラが好きだったんだ。私が最初に知った彼女の好きなものだった……。

 ああ、思い出した。
 
 冬の寒い日だった。暖炉の炎があたたかだった。私の髪に通される彼女の指の細くしなやかな。壁にかかった鏡に映るその光景は、どっちが姉かわかりやしなかった。

「素敵な曲でしょう? La fille aux cheveux de lin……亜麻色の髪の乙女、という曲なのよ」

 当時まだ最新の発明品だった蓄音機を通して、レイラはよくそれを聞かせてくれた。ヴァイオリンとピアノによる「亜麻色の髪の乙女」の演奏。ほんの数分の記録を。
 たぶんレイラは、空っぽだった私を――空っぽだった「ルナサ」の中身を、少しでも満たしてあげようとしたんだろう。優しい気遣い。少し不器用な。
 けれど正直言って私は、音楽の良さがわからなかった。本物の「ルナサ」とは違う。本物の人間らしい情緒を秘めた少女とは違う――と、少なくとも当時は思っていた。私はただの騒霊で、蓄音機の震わす音も空気の揺らぎにしか思えないって、そのことを申し訳なく伝えると、彼女は「いいんだよ」と微笑んで、それがなおさらに申し訳なくて。私は釈明の言葉を慌てて口にして、

「わ、私、勉強するから。音楽のことも勉強して、ちゃんと楽しめるようになるから! ちゃんと、レイラのお姉さんになれるように、私――」

 けれどそんな私に向けて、レイラはただただ優しく首を横に振るだけで。

「ありがとう。でも、音楽はそういうものじゃないんだよ。誰かにやらされたり、無理に勉強したりするものじゃない。音楽は、楽しむためのものなんだよ。そこには愛がないとダメなんだよ」

 それにしても、ああ。あの時レイラだってまだ十歳そこらの女の子でしか無かったはずで。それなのに、自分の姉の姿を取った者を辛抱強く諭すのはどんな気分だっただろう。
 あるいは姉たちの――もしかしたら「ルナサ」の――単なる受け売りだったのかもしれないけど、それでも。

「ねえ、ルナサ。あなたは姉さんと違ってとっても真面目なんだね。私と同じだね。真面目すぎるのはダメだって、リリカ姉さんが言ってたな。なんでも自分のせいにしようとしちゃうんだって。もっと私みたいに自由きままに生きなさいって」
「でも」
「だから私は音楽を聞くの。辛い時、一人ぼっちだとぜんぶ自分のせいに思えてきてしまうから。パパやママや、ルナサ姉さんやメル姉さんやリリカ姉さんがいなくなったのは、ぜんぶ私が悪い子だったせいだって思えてきてしまうから。ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ嫌いになってしまうから。だから……音楽が好きなの。音楽は誰かの好きが形になったものだから。それを聞いているとね……ぜんぶ嫌いにならなくていい、って思えてくるの。そうだそういえばね、日本の言葉で音楽は『音を楽しむ』って書くんだよ。いつかルナサも音を楽しめるようになるよ、きっと」

 そこには、彼女の言葉には、励ますための虚飾なんか一片たりとも混じって無くて。ドビュッシーが描き出した旋律が美しく流れる中でレイラは本当に……本当に、それまで見たこともないほど楽しそうだった。
 楽しそうだったんだ。
 だから……私は音楽を始めた。レイラを楽しませようとした。姉としてかけられる言葉が何もなくても、してあげられることが見つからなくても、ただ――笑ってほしかったから。そしてレイラは音楽に顔を綻ばせる少女だった。それだけの話。それが、音楽が私の原点になるなんて考えもしない、遠い昔の日の話。

 まあ、どこにでもありふれた、なさけのない話だ……。
 
 ふと気がつくと私は三人分の厚い拍手に包まれていた。ぬくもりが目元をつたっていった。
 短い曲だな、とぼんやり思った。


 ◯

Vn.1||
Cond.||

 またあの夢を見た。
 ゴッホの「星月夜」のような、と。月並みな比喩の似合うありふれた日の夢を。
 そしてまた厳密に言えば、それは夢ではない。
 それは記憶。私に刻まれた、ルナサ・プリズムリバーという騒霊自身に刻まれた――なのに今まで忘れていた、レイラとの切なき刹那の日の記憶だった。

「レイラ……風邪を引くよ」

 それは果たして誰の言葉だったのか――ねばついた後悔が記憶に固い蓋をしていた。
 だけども私は忘れなかった。忘れたい記憶であり、また忘れたくない記憶でもあったから。その結果はずいぶんと中途半端だったけど。夢という残響。煮えきらないリフレーン。

「ルナサ……?」

 今にも壊れてしまいそうなレイラの震え声、さりとて、火傷しそうなほどのみずみずしい生命を宿してもいた声音。忘れられるはずもない記憶。
 バルコニーと室内を隔てるカーテンの白幕に映り込む、私よりも頭一つ分小さな少女のシルエット。

「ごめんね、起こしちゃったよね。もう寝るね、私も」
「なんの歌をうたっていたの……なんて名前の……」
「なんでもないわ。なんでもないの! 心配かけてごめんね。ただ少し、姉さんたちのことを思い出してしまっただけ。本当に、それだけなの……」

 それで、どっともたれ掛かった扉は微動だにしなかった。本来騒霊には必要のない酸素を求めるように私は口元ばかりパクパクさせて。
 言葉を探して。だけれど見つからなくて。空洞のような心を通り抜けていく夜風の音を、私の心ははっきり記憶していた。
 繰り返しに見る悪夢。たぶんそれは、私が私自身に嵌めた戒めという枷なんだ。姉妹を導ける強い姉であるための、痛みというセーニョ記号なんだ。
 だから……セーニョ記号に戻るよう示すダル・セーニョから先の旋律を、私はずっと忘れていたんだろう。
 あの日、あの時、私はヴァイオリンを片手に持っていた。夢の光景に一つ、楽器の曲線が描き足される。
 暖炉の燃ゆる炎の前で聞いたドビュッシー。私、練習したんだ。レイラから教えてもらった「亜麻色の髪の乙女」。私は少しだけ弾けるようになっていた。メルにもリリカにも内緒で練習した秘密の旋律。
 涙落つ妹に掛ける言葉を持ち合わせていなかった愚かな私だけれど、思いだけは手に持っていた。息を呑み込み、そっと弓を弦に添える。震える音色。伴奏もない、練習を初めてまだ数ヶ月――それも独学――の演奏は、まあ、今なら笑ってしまうような拙いものだった。というより、誰もあれが「亜麻色の髪の乙女」とは思えないような出来栄えだったことは、間違いない。
 だから笑ってくれても良かった。私はただレイラを喜ばせたかっただけだから。レイラを笑顔にできるならどんな道化にでもなってやるって、半ば捨て鉢で。

 けれど。
 
 もしも返ってきたのが居心地悪い嘲笑であったなら、私は二度とヴァイオリンを弾くことは無かったに違いない。
 レイラは笑わなかった。
 私はといえば一心不乱に練習の成果をなぞってなぞって、気がつけば、一人分の柔らかな拍手の音。

「ルナサ」

 演奏を終えて汗びっしょりになった私。それを抱きしめたレイラのぬくもり。
 バルコニーで歌うレイラには何も声をかけられなかったけれど、なぜかその時はもう、憑き物が落ちたみたいに声が出た。

「私、レイラに喜んで欲しくって……! お姉ちゃんだから! レイラのこと笑わせてあげてくて、それでっ」

 それはたぶん、言い訳のつもりだったんだろう。下手くそな演奏の。突然のサプライズの。今までの不甲斐なさへの。
 とはいえレイラだって喜んでくれる……なんて考えは甘すぎて、彼女はけっこう難しい声を出していた。

「……ルナサ、あなたは本当にそれでいいの?」
「え?」
「だって全部私のわがままなんだよ。無理して付き合う必要なんてないんだよ!」

 それにしても、ああ……確かにレイラは私と似ているんだな。いや逆か。私がレイラに似ているんだ。
 彼女が自分で言ってた通り、なんでも抱えすぎる真面目な子。それがレイラ・プリズムリバーという女の子だった。そして私たち三姉妹は、そんな女の子が願ったことで生まれた存在なのだから、そりゃあ似てもいようというもの。
 要するにレイラは善き妹であろうとしすぎるし、私は善き姉であろうとしすぎるわけだ。
 噛み合わない旋律。それでも。

「いいに決まってるでしょう!? だ、だって私は、お姉ちゃんだから! 私はルナサなんだから! だ、だから! 辛かったら、い、言ってくれてもいいから! 甘えてくれてもいいからっ!」

 レイラを抱きしめる、私。抱きしめられる、震えるちっちゃな肩。
 たぶん私はレイラの願いを叶えてあげたかったんだ。理由は今でもよくわからない。言葉にできない衝動。
 だけど……考えてみれば当然のことでもある。だって私はお姉ちゃんだから。姉が妹の願いを叶えてあげたいと思う、それはとても普通のことだ。姉妹がバラバラになってほしくないと思う、それはとてもとてもとても普通のことなんだ。きっと。


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