第六章『絶望してはいけない』
エンペラーが再びこいしに空想設定装置から発せられる電波を受信するためのヘルメットを被せる。エンペラー達にとって夢の中は自由自在の空間だ。こいしは瞬く間に夢の中へと落ちていく。
目を開けると、そこは広い建物の中であった。薄暗い照明に、柔らかなカーペット、どう考えても幻想郷に存在する技術では作れない空間だ。そして、独特の匂いがした。新品同様のシートと、甘くて柔らかなポップコーンの香りであった。
「こ、ここは何なの?」
こいしの質問に答えるように、エンペラーが現れる。
『ここは劇場。映画館、とも呼ばれている……』
「え、えいが……?」
実を言うと、上映で商売が成り立つほどの文化として浸透しているわけではないが、幻想郷の中でも「映画」という物は存在している。外の世界で破棄された古い16mmフィルム映写機等が偶然幻想郷に流れ着き、道具屋にて高値で売買されている事もある。ようするに、幻想郷の中でも金銭的に余裕があり、酔狂な事を楽しめるような、かなり上流階級の者が嗜むような娯楽として存在するのである。もっと言えば、こいしの家である地霊殿にも実はこの手の映写機が一式揃っているのだが、こいしは別にそんな物に興味はなかった。これは完全に姉であるさとりの趣味だ。
こいしとエンペラーはシアターの中へと入っていく。中央のスクリーンが良く見える座席を選び、二人は並んで座った。
『こいしちゃん……これから君が見るのは、人間の本性の物語だ。君が心を手放したのは、醜いと思ったからじゃないのかい? これから君が観るのは、それと同等にショックな物かもしれない。もう一度聞くよ、君は、人間を最後まで信じられるかい?』
エンペラーは優しく問いかけるが、そこには薄っすらと警告にも似た念が込められている。こいしはゴクリと唾を呑み、少し考え、少し迷って、それでも、エンペラーをジッと見つめ、固く頷いた。
『そうか……では……もう容赦はしない』
エンペラーの声は無機質で、冷たかった。こいしが一瞬だけビクッと震える。そして、エンペラーは頭上を見上げ、現実世界にいるヤマシタ達に命令を下した。
『それでは、ヤマシタ達よ……スクリーンに恐怖の映画を……』
「あ、あの! あんまり、あんまり怖くないのが良いな!」
こいしが唐突に大声で言うもんだから、エンペラーは思わずシートからずり落ちてしまった。随分ちゃっかりしたリクエストであった。エンペラーの頭に乗っかっていた王冠がころころと床を転がる。王冠を拾い上げながら、エンペラーは「うぐぐ」とうめき声を上げた。再度、エンペラーは頭上を見上げた。
『……では、あんまり怖くない映画を……』
すると、劇場のアナウンスから、現実世界に居るヤマシタ達の声が聞こえてきた。『でもでも、「あの時代」を題材にした映画はどれも怖い物ばっかりだよー』と。
『ぐぬぬ……「比較的」怖くない物だ……資料をもっと探せ! こいしちゃんはまだ子供なんだ! 人の死体があんまり出てこなくて、殺人のシーンも少ない映画だ!』
そこで、再びこいしがエンペラーに叫んだ。
「楽しいヤツが良い! 面白くて、笑えるのが良いな!」
また、エンペラーはシートからずっこけてしまう。
『楽しくて笑えるのなんか無いよーっ!』
アナウンスで、ヤマシタ達の泣き言が鳴り響いた。
エンペラー達がこいしに見せようとしているのは、『戦争』の映画である。第一次世界大戦の「とある国」の物語だ。しかし、そこでこいしがリクエストしたのは「楽しくて」「笑える」作品である。戦争と、全く対極の物であった。ヤマシタ達は頭を抱えた。
『あ、見て見て! コレなんかピッタリなんじゃないかな?』
現実世界のヤマシタ達の話し合いがアナウンス音声で劇場内に響き渡る。こいしは席に座り、映画が始まるのを待った。そこで、こいしは何とも言えない感覚を覚えた。謎の高揚があった。椅子に座り、何も映っていない真っ白なスクリーンを見つめていると、何故か浮足立った気分になる。ワクワクする、と言った方が正しいかもしれない。自分の知らない世界がこれから大きなスクリーンに映し出されるその瞬間を、心待ちにしている自分がいたのだ。
しばらく経ち、シアター内の照明が一つずつ消えていく。全ての灯りが消えた。こいしは暗闇が怖かった。だが不思議と、この映画館の暗闇は怖くなかった。むしろ、何か素敵な事が起こるような気がした。これが、映画館という物なのか。
スクリーンに映像が映し出される。それと同時に、横に座っていたエンペラーがこいしに何かを手渡してきた。大きなカップに山盛りになった、キャラメル味のポップコーンである。
スクリーンが眩い光を放つ。その瞬間、迫力のある音楽が音高くシアター内に鳴り響いた。そして、映画のタイトルが大きく映し出される。The Great Dictator――『独裁者』と。
これは、1940年に公開された、チャールズ・チャップリン監督の映画作品である。白黒の光がスクリーンに映る。大音量で響き渡る軽快且つ壮大なBGMの後、とても印象的な髭を生やした小さい男がひょこひょことコミカルな動きで登場する。彼がこの映画の主人公だ。この映画は、幻想郷の外の世界、第一次世界大戦の時期、架空の国『トメニア』での物語である。
「ふふふ、このおじさん面白いね!」
この映画には二人の主人公がいる。一人はささやかな床屋を営んでいるユダヤ人の男、チャーリー。もう一人は、トメニアを統べる独裁者、ヒンケル。この二人は瓜二つであり、監督であるチャップリンが一人二役で演じているのである。
こいしは外の世界の事を知らない。町を破壊するための兵器が登場するが、どれもコメディタッチに描かれており、その兵器の本当の脅威は隠されている。柔らかなやり取りに、とぼけたキャラクター、こいしは無邪気に笑い続け、そして魅了された。絵画のように美しいカメラワークに、目が離せなくなった。だが、こいしは何処かで予感していた。これは、とても悲しい話なのではないか? と。
やがて、床屋のチャーリーは前線で記憶を失い、後にゲットーにある病院で目を覚ます。ゲットーとは、迫害されたユダヤ人達が強制的に住まわされた居住区である。突撃隊の強襲に怯える日々であったが、チャーリーはそこで恋人となるハンナと出会い、幸せな時を過ごした。トメニアがユダヤ系金融資本に資金援助を求めている間、迫害も緩められていたのだ。再び人間らしい暮らしが出来るようになり、ゲットーの人々は期待を持った。
しかしそれも、トメニアを牛耳る独裁者、ヒンケルによる迫害の強化によって奪われる事になる。資金の援助を断られた事により、ヒンケルは抑圧行為を強化するよう突撃隊に命じたのだ。やがて、チャーリーと恋人のハンナは離れ離れになってしまう。
「……どうして、この人達は意地悪されているの?」
こいしは不安そうな表情でスクリーンに映るチャーリー達を指差しながら、隣にいたエンペラーに問う。エンペラーはこいしの「意地悪」という言葉を聞き、とても悲しい表情を浮かべた。
これはコメディ映画だ。
人が死ぬ描写も、戦争のショッキングなシーンも少ない。表現がかなり柔らかくなっている。実際は、「意地悪」なんて言葉では片付けられないほどの悲劇が、現実で起こっていたのだ。
「この人、本当に酷い人なんだね!」
スクリーンに大きく写るヒンケルを見つめながら、こいしはぷくっと顔を膨らませた。こいしに「酷い人」と呼ばれた髭の男はコミカルな動きをしながら、ユダヤ人達を苦しめる。
……だがこいしは、その髭を生やした独裁者を腹の底から憎む事が出来なかった。それは、ヒンケルがユダヤの財閥に資金援助を断られ、ユダヤ人達に対して強い怒りを露わにするシーンのせいである。こいしは、この映画の底知れぬ「感情」に触れる事になる。
誰もいなくなった部屋で、独裁者のヒンケルが地球儀の形を模した大きな風船で遊ぶシーンだ。穏やかな音楽と共に、楽しそうに地球のバルーンを弾ませるシーンを見て、こいしは、この男も「一人の人間」である事を思い出した。地球儀のバルーンが破裂した瞬間、ヒンケルはとても悲しそうに落ち込んでしまう。ユダヤ人達への迫害が強化されるのは、その直後だ。
心優しい床屋のチャーリーと、命令一つで人々を殺害し続けるヒンケル、顔が似ている二人を交互に映しながら物語は進み続ける。やがて、チャーリーはゲットーに踏み込んできた突撃隊に捕まり、強制収容所へ、恋人のハンナとゲットーの他の住民達は隣国へと避難した。二人は引き離されてしまったのだ。だが、ヒンケルは隣国へと手を伸ばし、ハンナ達は再び迫害を受ける事になる。
絶望。この時、こいしの脳裏に浮かんだ言葉である。スクリーンいっぱいに人々の悲しみが映される。人々の嘆きが、大音量でシアター内に響き渡る。笑いや皮肉を主体にしたこの映画でも、その延長線上に置かれている「本当の悲劇」が鼓膜を通して伝わってくる。このコメディ隔てた先にあるのは、人間が生み出した「地獄」である。戦争、差別、人種、国境、たった一つの歯車が狂い続けた先に生じる人間同士の悲劇を、その映像を見ながら、こいしは隣にいるエンペラーに語りかけた。
「……人は、本当にいなくなった方が良いのかな?」
その問いに対し、エンペラーは重く頷いて見せる。こいしの目に映るのはコメディ、喜劇の映画だ。だが、エンペラーは知っている。この映画の元になった、本物の「悲劇」という物を――。
クリスタル・ナハト――、1938年に起きた反ユダヤ主義の暴動である。ドイツ各地で行われた暴動により、多くのユダヤ人達が殺され、傷付いた。街には割られた窓ガラスの破片が散らばり、凄惨に輝く光景を人々は「水晶の夜」と呼んだ。この一件が、後に続く更なる地獄、「ホロコースト」へと繋がっていく。
あの時代に起きた悲劇の中でも、最も残酷な悲劇は、それが紛れもない「現実」である事だ。これは悪夢ではない。現実で起きた事なのだ。エンペラーは、外の世界の資料でそれを目の当たりにした。エンペラーの意思は固い。人は、現実ではなく、夢の世界で機能を停止したまま生きるべきだと、信じて疑わなかった。
こいしは、徐に席から立ち上がった。
「ねぇ、『怪物』と友達になった人間の話を知っている?」
こいしはゆっくりとエンペラーに告げる。エンペラーは何事かと思い、こいしが話し始めた瞬間に現実世界のヤマシタ達に合図を送る。スクリーンの映像は再生したまま、音声だけを停止する。
映画はクライマックスの場面へと突入していた。収容所から逃げ出したチャーリーと、一人で狩りに出かけたヒンケルが入れ替わってしまうのだ。チャーリーは独裁者になりすまし、そのまま国民の前でスピーチを行う事になる。スクリーンの中でチャーリーが壇上に上がるのとほぼ同じタイミングで、こいしがスクリーンの前に立つ。映写機から放たれる白と黒の眩い光がこいしを包んだ。こいしの背後で、チャーリーが怯えた表情を浮かべていた。
こいしが、エンペラーに向かって怒鳴った。
「……私は、それでも信じていたいよ!」
スクリーンの中で、弱気な顔を浮かべてばかりだったチャーリーが、覚悟の表情を浮かべた。生命を、人間の尊厳を賭けた、魂の演説が始まったのである。
「人間は、確かに間違う事もあるよ。酷い人だっている……。人間なのに、心無い人がいる。だけど、だけど! 独裁者だって、心を持っていた筈なんだ! 誰だって、持ってる筈なんだ!」
チャーリーは疲弊しきった国民達に向かって叫んだ。先ほどまでのおどけた表情ではない。鋭く、真剣な男の眼差しがそこにあった。チャーリーは、チャールズ・チャップリンは、世界全ての人間に向けているかのように高らかに演説を続けた。
堪らず、エンペラーがこいしに向かって言い返した。
『しかし……人々は、その「心」のせいで選択を間違えるのだ。人々に心なんて無い方が良いに決まっている! 君も、映画を観ていただろう? 独裁者は……選択を間違えたのだ! その間違いで、大勢の罪無き人々が苦しめられ、絶望して死んでいったのだ! 心は、悲しみしか生まない……人々は、永遠に脳の中で生きていけばいい。思考の中で暮らす事こそ、正しい事なのだ!』
はっきり言って、こいしには根拠など無かった。打算がある訳でもなく、深い思慮がある訳でもなく、彼女は、ただひたすら「感覚」だけでエンペラーに話しかけているのだ。
「違う! 違うよう! 心は選択を間違える為の場所じゃない! 正しいかどうかなんて関係ないよ! 心があるから、人は誰かに優しく出来るんだ! 脳みそだけで人は生きていけないよう!」
まるで話になっていない。こいしが口にしているのは理論でも何でもない。ただの「我が儘」、単なる感情の声である。
チャップリンの演説が、映画が終わろうとしている。白黒の光に照らされたこいしは、再度エンペラーに訴えた。
「エンペラー達が、人間をどう思っているのかは分からない。だけど、私はこれでも、『覚』妖怪なの。誰よりも多く、人の心を見てきた。……怖かった。醜いとも思ったよ……だけど、それ以上にキラキラしてる物を、私は何度も見た。眩しすぎて、目が開けられなくなっちゃうくらいに……」
『……君は、人の「心」を信じるというのか?』
映画の中に正解はない。映画だけではない。この世に存在する芸術は誰の代弁にもなってはくれない。どんなに雄弁な絵であろうと、詩であろうと、映像であろうと、それらは何の助けにもなってはくれない。芸術に何かを変える力など存在しない。ただ彼らは、憶病な背中を、ほんの少し押してくれるだけだ。
「現実逃避じゃ、人は何処にも行けないんだよう!」
こいしには心が分からない。こいしは一度心を手放した。その理由はもうこいし自身にも分からない。だから、こいしは、今自分が口にしている言葉が正しいかどうかさえも分からない。しかし、そんな彼女にも、確かだと言える事が一つだけある。
「……この先、人間がどうなるかなんて、私は知らない。外の世界の事も、幻想郷の事も、私には知らない事だらけなの。だけど……だけど! とにかく嫌なの! 何も行動せず、理想の夢に甘えるだけなんて、そんなの人間とは呼ばない! お願いだよエンペラーっ! 霊夢達から、現実を奪わないで! 心を取り上げるような真似しないで! あと、あと……っ!」
正直、これがこいしの本音であった。
「……私の友達を、勝手に眠らせないでっ!!」
こいしは霊夢達の顔を思い浮かべた後、早苗と一緒に過ごした時間を脳裏に蘇らせていた。無人となった人里で、こいしと早苗は怪物退治に出かけた。悲しい話だったのに、こいしが無理やりハッピーエンドに作り替えた、歪な遊び、「怪物ごっこ」の事だ。
「人間の心なんて私にはもう分からないよ! 私、もう人の心なんか読めないもん! そうなったらさ、もう信じるしかないじゃん! 読めないんだったらさ、信じるしかないよ! 普通の人間ってお互いに心読めないけど信じ合って生きてるじゃん! すげぇ……人間ってすげぇ! 何考えてるか分かんないような人と一緒にいて、それでも普通に生きてんだもん! こんなすげぇ人達を、何もかも否定しなくたっていいじゃない! 外の世界でさ、この映画みたいな戦争が今も起こっているかもしれない。平和な国で、どうしようもなく苦しんでいる人だっているかもしれない。自分で自分を殺してぇって思っちゃう人だっているかもしれない! いっその事、明日、この星が無くなっちゃうかもしれない! 今日が、この世界最後の日なのかもしれない! 明日、世界は破滅してしまうのかもしれない! 明日、私達は死ぬかもしれない! だから、だからこそ、私達は現実を最後まで生きていかなきゃいけないんだよ! 最後の最後まで、その人が、「その人」でいられるように……」
絶望してはいけない。
「私はそう、信じたいな……っ!」
映画は終わった。映写機が停止し、シアター内の照明に光が戻ってくる。こいしはステージの中央に立ち尽くしたまま、額に汗をかいてエンペラーを見つめていた。エンペラーは反論せず、同じようにこいしを見つめ返していた。
その時――。
突然、シアター内に警報のようなサイレンが鳴り響いた。こいしとエンペラーは何事かと辺りを見渡す。シアター内に設置された非常用の照明が真っ赤にけたたましく点灯する。
「な、何っ? 何が起こったのっ?」
こいしはエンペラーに向かって問う。この映画館は全て「こいしの夢の空間」である。その慌てぶりから、エンペラーも何が起きているのか把握していない様子だ。
『一体どうしたのだ? 何があった?』
すると、アナウンスからヤマシタ達の慌ただしい声が流れてきた。
『たたたた、大変だよ、エンペラーっ』
『落ち着くのだ。何があったのか報告しなさい』
『そ、それが……っ』
『他の四人が……夢から覚めようとしてるんだよーっ!』
その声を聞き、こいしは驚きを隠せなかった。あまりにも想定外だったのか、エンペラーは動揺しながらアナウンスに叫び返した。
『そ、そんな筈ある訳ない! 夢から、覚めるだと……?』
その瞬間、こいし達の目の前にあるスクリーンに現実世界の霊夢達の顔が映し出される。設定装置を頭に装着したままベッドで眠っている。しかし、穏やかな顔はしていない。三人共、何かに耐えるような、苦悶の表情を浮かべていたのだ。些細なショックを与えれば、すぐにでも目を覚ましそうな顔であった。こいしは驚愕し、勝ち誇ったような笑みを浮かべてエンペラーを見た。歓喜の表情であった。エンペラーは「むむむ」と狼狽えるばかりである。
「聞いた? 霊夢達が……早苗が、夢から覚めるって!」
『そ、そんな……』
あり得ない。エンペラーはそう呟く。
『あり得る筈がない! 我々が用意した夢は完璧だった! 皆が現実を忘れ、永遠に眠りを望むような、完全無欠の幸福のシナリオだった筈だ! それなのに……どうして……っ!』
《十六夜咲夜の場合》
氷の中で、十六夜咲夜は瞳を閉じたまま、大昔の、それこそ、紅魔館の主であるレミリア・スカーレットと出会う前の頃を思い出していた。寒く、常に空腹だった時代だ――。
咲夜は物心ついた時から独りであった。両親は行方知れず、救貧院で奴隷同然の扱いを受けながら育った。ある日、咲夜はとある人間に買われる。この時代に孤児を金で買うような人間は相当な善人で尚且つ権力者か、それとも、変態嗜好を持った異常者のどちらかだ。咲夜の容姿は薄汚れながらも少女の愛らしさは損なわれなかった。地獄のような日々から抜け出したというのに、咲夜は怯えた。だが、咲夜を待っていたのは、意外なほど「簡単」な暮らしであった。彼女を引き取ったのは街で暗躍する組織であった。立場上、表沙汰に出来ないような案件を請け負う集団である。そこで、咲夜はシンプルな法律を教えられた。
「一人殺せば、報酬を貰える」
咲夜は組織に武具の使い方を、戦い方を教わった。上流社会に蔓延る闇の犯罪を遂行するために必要な技術だ。端的に言えば、咲夜は「人殺し」のために買われたのだ。
意外にも咲夜は飲み込みが早かった。驚くべきスピードで戦闘の腕を上げた。夜闇の潜む事も、誰より上手かった。悲しい偶然か、咲夜には人を殺す才があった。一瞬で、肉体の何処にナイフを入れ込めば即死するか、人間の壊し方を誰よりも心得ていた。だが、それ以上に特異だったのが、罪悪感の有無である。
咲夜は罪の意識を何一つ感じずに、人を殺せるのだ。その理由は単純だ。咲夜は、自分の標的を「悪人」だと教え込まれていたのだ。死んで当然、この世にいない方が良い、そんな邪悪な人間だけを標的にしていたのだ。この時代、幼かった咲夜は様々な憎悪を目の当たりにしてきた。だからこそ、咲夜は悪を許せなかった。咲夜は、自分のような孤児を一人でも多く救いたいと願った。子供の、残酷なほどの夢想である。悪人がこの世から去れば、自分のような目に遭う子供は居なくなるだろうと、何の根拠もなく、漠然と信じていたのだ。彼女がその手を血で汚す理由は、たったそれだけだ。
殺せと命じられた。咲夜は男を殺した。女を殺した。そこには一切の差別はない。老人を、地主を、娼婦を、何人も、何人も。しかし、いつまで経っても世界は変わらない。何人殺しても、この世は良くならない。それでも、咲夜はこの暗殺家業を続けた。それは生きる為ではない。この薄汚い街で、一杯の粥を奪い合う少年少女達を一度でもいいから笑顔にしてあげたい。それが、咲夜の殺意であった。いつになれば、この街から貧民はいなくなる? いつになれば、世界は平和になる? いつになれば、いつになれば――。
いつになれば、終わる――?
ここは、あの時代の咲夜の部屋だ。その中で、咲夜は気付いた。自分が守れる平和なんて、もうこの世には無いのだと。その結論に辿り着いた時、咲夜は、自分自身を凍結させる道を選んだ。
絶望的な冷たさの中で、咲夜は、今まで自分がその手で奪ってきた命の姿を思い出していく。死んで当然とまで思っていた、悪の命だ。だがこの時、咲夜の心に初めて罪悪感が生まれた。殺す事だけが正義と信じていたのに、初めて、それが「間違っていた」と気付いてしまったのだ。一番の悪は、恐らく自分自身だ――。
咲夜の心情を表すかのように、部屋が冷たく凍り付いていく。硬い氷に包まれながら、咲夜は薄っすらと微笑む。私の世界は、これでようやく平和になるのだ、と――。
そんな曖昧な夢を、最後まで信じてしまった。咲夜は自嘲気味に笑う。瞳から静かに涙が零れ落ちる。氷が全身を覆う。咲夜は、愛用していた懐中時計を手放した。時計は氷に触れ、すぐに針を停止させる。時間はもう進まない。完全に止まったままだ。ああ、一度でいい、一度でいいから、世界を救ってみたかった――。
その時――。
氷の部屋に、誰かが侵入してきたのだ。咲夜の意識は停止している。そいつは氷漬けになった咲夜を見つめながら優しく言う。
「世界を救いたい……どうしようもない言葉よね、それ」
そいつは、小さな身体を寒さに震わせる事もなく、誇らしげに胸を張っていた。背中には、漆黒の羽が生えている……。
「おーい咲夜、さっさと起きろ。仕事しろ、このへっぽこメイド」
背の低い少女である。銀色に輝く髪を靡かせながら、血のように紅い瞳で咲夜を見つめていた。咲夜は何も言わない。何も思わない。何故なら、彼女は全てを停止させたからだ――。その少女は、咲夜が閉じ込められている氷へと歩み寄り、そっと手を伸ばす。まるで拒絶するかのように冷たい。少女は笑みを浮かべた。薄っすらと、鋭い牙が見える。彼女は、吸血鬼だ――。
「起きろつってんだ咲夜、飯を作ってくりゃりゃんせ」
少女は、ふざけた口調で氷の中の咲夜に命令する。氷はいつまでも冷たいままだ。咲夜は動かない。しかし……一瞬だけ、鼓動が早くなった。氷の中で、咲夜が何を思っているのかは分からない。そもそも、吸血鬼は咲夜の耳に向かって話しかけているのではない。吸血鬼は凍てつく氷から手を放さず、少しずつ強くなる心臓の音に向かって、咲夜の心に向かって、優しく語りかける。
「ねぇ咲夜。世界の平和って、何だろうな? 考えた事もないから良く分からんのよ。私は、そういうのに興味はないの……」
そこで、驚くべき事が起こる。氷の中の咲夜が、涙を流し始めたのだ。まるで、吸血鬼の声が聞こえているかのように。
「咲夜、貴女を紅魔館に招き入れた時、そして、メイドとして雇おうと決めた時、私は、貴女に何の質問もしなかったわよね? 何処の誰で、何をやっていたのか……何一つ、私は聞かなかった。なのに、どうして貴女を紅魔館の一員として迎えたか、それは、貴女が何よりも強く「生きていたい」と願っていたからよ」
吸血鬼は、これまでの暮らしを思い出しながら、苦笑いを浮かべた。酷く歪で、デタラメな「家族」の記憶である。
「今の私は、世界の平和なんて考えられない、考える余裕なんてない。だって私は、家族を守るので精一杯だもの……」
貴方も含めてね、咲夜。吸血鬼がそう言うと、氷の中で、咲夜の表情が歪んだ。氷の中で、咲夜は目覚めたのだ。極寒の中で、自身の頬がやけに熱い事に気付いた。どうして、涙ってこんなに熱いのだろう? 咲夜は、目を開ける。そこに立っていたのは、忠誠を誓った我が主、レミリア・スカーレットであった。
「咲夜、貴女がこれまでどんな想いをしてきたかなんて知らないわ。どんな事をしてきたかなんて、何の興味もない。貴女がこれから歩む道にだけ用がある。貴女が何を綺麗と思うか、何を楽しいと思うか、それだけ、私は知りたい……私の家族が、どんな風に幸せになるのか、それだけでいい。だから……」
レミリアは、母親のように深く優しい目で咲夜の顔を見つめた。
「貴女の重い荷物も、一緒に背負わせて。自分一人で抱え込むなんて、そんなの私が許さないわ。だって、それが私の一番の幸せなのだから。貴女達と共に同じ地面を歩き、泣いて、笑って、楽しい日々を過ごす。それこそが、私の「平和」なのだから……」
「本当に、よろしいのでしょうか……お嬢様……?」
氷が溶けだした。咲夜は、大粒の涙を流しながら嗚咽を漏らしていた。重い罰から解放されたかのような、安堵の表情がそこに在った。咲夜は泣きながら、感謝にも謝罪にもならないような言葉を叫び続けた。一人の人間、一人の、少女として。
「ずっと……怖かったんだ……っ! 取り返しのつかない過ちを犯した……誰にも甘えちゃダメだと思った……っ! 本当に、辛かった……生きるのが、嫌に、なるくらい……っ」
これまで、咲夜が心の中に隠していた言葉が、流れ出す涙と共に溢れてくる。これは、いつもの瀟洒で、完璧で、優雅なメイド長の言葉ではない。これは人間の、「十六夜咲夜」の言葉だ。
「私みたいな人間は生きてちゃいけないっ! 私の手は血で汚れている……何にもならない夢の為に、私は……っ!」
咲夜は間違った。それは、何処かの国の独裁者と同じ間違いであった。自分にとっての正義と悪の境界を鮮明にすれば、きっと、世界を浄化出来る。その結果、自分自身が最大の悪へと成り下がってしまう事に気付けなかった。咲夜の人生は後悔で溢れていた。だから、彼女は自分の何もかもを氷漬けにしてしまったのだ。もう二度と、あのような悲劇は起きてはならない。自分は、生まれてはならない。その究極の戒めが、自己の凍結であった。
レミリアは何も言わず、じっと咲夜を見つめた。咲夜だけを、見つめ続けた。否定も肯定も存在しない。在るのはただ一つ、大切な家族に対する「信頼」だけであった。それは、「愛」とも呼べる。
「こんな私を……まだ、従者として扱ってくれますか、お嬢様?」
「勿論だよ、咲夜」
レミリアは、泣きじゃくる咲夜の頬に手を当てた。これまで自信満々だったレミリアの表情が、一瞬だけ弱気になる。
「お前の為に、お前達の為に、私はこの世界にとっての悪になっても構わない。お前が生きるなら、共に「夜」の明けない世界に落ちたって構わない。……その代わり、もし私が何かに挫けて、抱えた物全てを投げ出してしまいそうになったら、その時は……」
明けない「夜」に、私の傍で、「咲」いてくれるか?
「勿論でございます……レミリアお嬢様……」
その瞬間、氷が大きな音を立てて砕けた。咲夜は、懐中時計を手に取り、レミリアの前に跪いた。レミリアは嬉しそうな表情で咲夜を見つめる。咲夜の手元にある時計が、秒針を刻み始めた。
「……さっさと帰っておいで。咲夜……」
時が、再び動き出したのだ――。
《霧雨魔理沙の場合》
永遠に続くであろうと思われたパーティもお開きになり、魔理沙は自宅へと戻っていた。しかし、そこは魔法の森にあるいつもの魔理沙の自宅ではなく、地上から遥か遠く離れた高層ビルの最上階である。そこから見える景色は幻想郷の長閑な風景ではなく、ゴミゴミとした都会の眩く輝く夜景であった。絵に描いたような、人生の勝利者だけが眺める事を許される光景であった。暗い自室で、魔理沙は辺りを見渡した。壁一面に夥しい数の賞状やトロフィーが所狭しと並べられていた。全てに「霧雨魔理沙」の名が刻まれている。魔理沙の部屋は、彼女の功績を讃える物品に溢れ返っていた。
先ほどのパーティ会場とは打って変わり、とても静謐な空間の中で、魔理沙は自身の残した結果に酔いしれていた。そんな時、ふと、魔理沙は、部屋の窓に映る自分の姿を見た。
「お、お前は……っ」
魔理沙は驚愕の声を上げた。そこに映っていたのは、立派な服に身を包んだ今の魔理沙の姿ではない。それは、まだ幼かった頃の、まだ何も成し遂げていない、小さな霧雨魔理沙であった。
魔理沙は窓へと近付き、気持ちを落ち着かせながら、幼い魔理沙をまじまじと見つめた。懐かしく感じた。魔理沙は、小さい頃の思い出を脳裏に描きながら、ゆっくりと口を開いた。
「良かったな、ちび魔理沙。お前の願いは何でも叶うんだぞ?」
魔理沙はそう言いながら両手を開く。魔理沙の後方に広がる部屋には、全てが用意されていた。床には残りの人生を遊んで暮らせるだけの金がばら撒かれていた。大きなテーブルには冗談みたいに大きなデコレーションケーキや、常人は口にする事さえ許されないような美酒、見るからに旨そうな食べ物の山があった。明らかに一人では食べきれない量である。部屋の至る所には賞状やトロフィー、魔理沙の首にはギラギラと輝く一等賞のメダルがぶら下がっている。この世界での霧雨魔理沙は、富や権力、承認、何もかもを手にした人間であった。手に入らない物は存在しない。
「良かったな、ちび魔理沙。「私達」は勝者だ。勝ち組だぜ」
魔理沙は窓に向かって笑うが、窓の中の小さな魔理沙はそうではなかった。魔理沙はほんの少しだけ舌打ちした。幼い頃の自分を思い出した。何に対しても憶病で、泥臭くて、そのくせ「夢」だけはいっちょ前に心の底から「叶う」と漠然と信じていた、どうしようもなく未熟な自分を……。窓の中の魔理沙は、真顔で魔理沙を見つめ返していた。その真っ直ぐ過ぎる視線に腹が立った。
「おい……素直に喜んだらどうだ? お前の望んだものを、全部手に入れてやったんだぞ? 少しくらい礼を言ったって……」
その時であった。
小さな魔理沙が、突然、窓から飛び出し、魔理沙の目の前まで歩いて来たのだ。これには魔理沙も思わず驚き、その場に尻餅をついて倒れてしまった。そして、小さな魔理沙は――。
『ふざけんなよテメェッ!!』
倒れた魔理沙の身体に馬乗りになり、幼くとも力強く、胸倉を掴んで、はち切れそうな勢いで叫んだのである。一瞬、何が起きたか、何を言われたのか分からず、魔理沙は呆けた顔で子供の魔理沙の顔を見つめた。小さな魔理沙は、心の底から怒った表情を浮かべていた。目を大きく見開きながら、視線を一切動かさず、一等賞のメダルをぶら下げた魔理沙を、射殺すように見つめていた。
「な、いきなり何だよ……っ」
視線の鋭さに耐えきれず、魔理沙は目を逸らしながら自身の身体に跨った子供の魔理沙を払い落とし、ゆっくりと後退った。
『誰が……誰がこんなモン欲しがったッ!? テメェ今の今まで何してやがったッ!? ふざけんな……ふざけんなよ……ッ!!』
子供の魔理沙は容赦なく叫び続け、魔理沙の足にしがみつき、悔し涙を流していた。それは、一体何を思っての涙なのか、魔理沙には分からなかった。ただ強く、ひたすら強く叫び続ける幼い自分が怖くて、魔理沙は怯えた表情を浮かべた。相手は、幼かった頃の、未熟だった頃の自分だ。何も怖がる必要はない相手だというのに、魔理沙は、目の前の小さな自分が、心の底から怖いと思ったのだ。
『おい、霧雨魔理沙……まだ間に合う……一からやり直せ……頼むから目を覚ましてくれぇ……っ! お前、こんなのが欲しくて頑張ったわけじゃないだろう……っ! こんな景色が観たくて、私は生きている訳じゃない……ッ! 頼む……頼むから……っ!』
小さな魔理沙は、床に額を力強く擦り付けながら、なりふり構わずに懇願する。その姿に、魔理沙は本気で腹を立てた。これは、現在の魔理沙、この世界の霧雨魔理沙という存在を全否定し、愚弄する行為であった。魔理沙は幼い自分を怒鳴りつけた。
「な、何なんだっ! 何が不満だって言うんだよッ!? 私は、私は努力したっ! 我武者羅に、真剣に……っ、その結果がコレだ! コレは、この世界は、私が受け取るべき報酬なんだっ! おい……おいっ! 何も文句言わせないぞ……っ。私は、私達は、この生活を望んで今までやって来た筈だっ! 皆から羨望の眼差しで見られて、憧れられて、敬われて……勝つためにここまでやって来た筈だ! そうだろうっ!? 見ろよ、この勲章の山を。全部、全部私の残した結果だ。見ろよ……誰もが私を認めてくれた……誰もが私を肯定してくれる……それなのに……どうしてお前は認めてくれないんだ……ッ!? どうして、よりによってお前が……」
どうしてお前は、私を否定するんだ?
魔理沙の問いかけに、幼い魔理沙は何も答えなかった。そして、幼い魔理沙は急に立ち上がり、壁際へと歩いていく。そのまま、壁一面に飾られた賞状を手に取り、思い切り床に叩き付けたのだ!
「おい! 何やってんだ! やめろ、この野郎っ!!」
魔理沙の制止も聞かず、幼い魔理沙は壁にぶら下がった賞状を、トロフィーを手当たり次第に叩き壊した。堪らず魔理沙は立ち上がり、小さな魔理沙を止めようとする。しかし、幼い魔理沙はその小さな身体を駆使し、魔理沙の腕から逃れ、再びトロフィーを壊し始める。霧雨魔理沙の証が、霧雨魔理沙の存在が、片っ端から粉々に破壊されていく――。
「やめろって言ってるんだっ! 私の大事な物を壊すなッ!」
『こんな物、何の意味もないじゃないか! 私が欲しかったのはこんな物じゃないっ! 私が、私が本当に欲しかったのは……っ!』
魔理沙の両腕をすり抜けながら、小さな魔理沙は破壊を続ける。勝利に、承認に、肯定に彩られた霧雨魔理沙の夢が、呆気なくゴミへと変わっていく。しかし、どれだけトロフィーを壊しても、どれだけ賞状の入った額縁を叩き割っても、壁一面に飾られた勲章の数は減らない。次第に疲弊していく幼い魔理沙。そこでようやく、魔理沙は幼い魔理沙の腕を掴んだのである。
「いい加減にしろ……っ! お前が変な意地を張ったところで、この「結果」は変わらない……私は、霧雨魔理沙……誰からも認められた、正真正銘、人生の勝利者だ……っ!」
魔理沙は幼い自分を乱暴に引き寄せる。小さな魔理沙は息も絶え絶えの様子で、その手に何かを掴んでいた。それは、壁に下がっている賞状の一つだ。魔理沙は何も言わず、幼い魔理沙からそれを奪った。しかしそこで、妙な違和感を抱く。この部屋にある賞状はどれも豪華な装飾が施された額縁に収まっているというのに、この幼い魔理沙が手にしていた物は、随分と軽く、安っぽかった。そもそも額縁ではなく、小さな写真立てのような物だった。
魔理沙は、ゆっくりとその写真立てを見た。それは……。
「あ……」
それは、一枚の古い写真だ。
霧雨魔理沙と、博麗霊夢が写っている。
「これ……これは……」
コレは、様々な勲章の奥に隠されていた物であった。写真に写っている二人は共に幼く、無邪気に笑っていた。写真立てのガラスにはひびが入っていた。まるで、二人の間に亀裂が生じたように。
『私が、私が本当に欲しい物は、この部屋にはないよ……』
幼い魔理沙が悲し気な表情で魔理沙を見つめた。魔理沙は写真を凝視し続け、幼い頃の記憶を呼び起こしていた。
霊夢と出会った時の事だ。魔理沙にとって霊夢は、初めてちゃんと心から「友達」と呼べる人間であった。成長するにつれ、魔理沙は、霊夢が背負っている使命の重さに気付いていく。幻想郷を覆う博麗大結界の維持と、異変の解決、その幼い身体にのしかかる大きな運命に、霊夢はいつも気を張って応えていた。
魔理沙が魔法の修行を始めたのはその頃だ。幼かった魔理沙は必死だった。自分が立派な魔法使いになったら、何もかも願いが叶うと信じた。魔理沙にとっての願いは、友達が背負った宿命を少しでも軽くする事であった。同じように肩を並べて、少しでも痛みを分け合えたらそれで十分だと思った。いや、それでも霊夢は気丈に振舞って、魔理沙の考えでは遠く及ばない何かを背負い込み続けるのだろう。魔理沙にもそれは分かっていた。自分は、他人の苦痛を肩代わり出来るほど万能な人間ではない。平凡な存在であった魔理沙も、それは分かっていた。本当に、本当に願っていた事は――。
霊夢が、自身の使命に圧し潰されそうになった時、身代わりになれなくとも、救いの手になり得なくとも、ただ単純に彼女の傍にいてあげられるだけの強い存在になりたかった。それだけであった。二人共満身創痍で、ボロボロになって、どうにもならない状況に陥ったとしても、霊夢は決して諦める事はないだろう。
そんな時、自分が横から「本当は辛いだろ?」と声をかけた時、彼女が無理をせずに泣く事が出来る場所になってあげたい。
それこそが、霧雨魔理沙の「努力」の正体だ。
……。
魔理沙は、粉々になった勲章に囲まれながら、その一枚の写真をひしと抱きしめた。今夜、魔理沙を讃えるパーティに唯一参加していない人間がいた。それが、博麗霊夢だ。魔理沙はまだ、何も成し遂げていない。まだ魔理沙は、本当に欲しい物を手に入れていない。
「ずいぶん、迷惑かけたみたいだな……」
そして、それは決して、この承認欲求を満たす為の世界で手に入れられる物ではない。魔理沙は力強く頷き、再び、幼い魔理沙に目を向けた。血と、砂利の味がする。これは、努力の味だ。栄光も、勲章も、何もいらない。魔理沙は自分に言い聞かせた。私はもっとシンプルだ。全てにおいて、「真っ直ぐ」な方が楽でいい。
魔理沙は、自分の首にぶら下がったメダルを引き千切り、部屋の隅に転がっていた、埃だらけの黒い帽子に手を伸ばした。
「行こうぜ、ちびの魔理沙。そのギラついた目を、もう一度私に寄越せ。どうしようもなく情けねー顔だが、我慢してやるよ」
いつもの調子で悪態をつきながら、魔理沙は夢から覚める。歓声が一つも上がらない道を歩く。ここは、幼い頃に思い付きで始めた一世一代の大博打の続きである。誰にも知られない、誰にも褒めてもらえない、そういう湿っぽい場所が、彼女の生きる道だ。
良いぜ、クソッタレな生涯、ってのも悪くないだろ?
《博麗霊夢の場合》
その日、霊夢は目を疑うような光景に出会った。
幻想郷に、崩壊が訪れたのである。
それは唐突に起こった。まるで、遠い国で顔も知らない他人が銃で撃たれるという内容の報道みたいに、ある朝、急に「幻想郷が終わる」と伝えられたのだ。ただ簡潔に、この世界が終わる事を知らされた。大パニックが起きた。今まで慣れ親しんでいた自分の世界が終ろうとしていた。
この世界が終わる理由は誰も分からない。災害でも、異変でもなく、炎がいつか灰となってしまうように、まるでそれが必然であるかのように、幻想郷は何の予告も無しに幕を閉じるのだ。一生の最後に死が待っているように、この世の全ては「有無」があって初めて意味を成す。始まりがあれば、終わりがある。そんな中、霊夢はただ、愛する母の腕の中で震えてばかりであった。
「ねぇ、お母さん。もうすぐ、幻想郷が終わってしまうわ」
しかし母は、怯えた霊夢に微笑むだけであった。幻想郷に光が降り注ぐ。全ての命を奪うような、死の光であった。夕焼けの世界に風穴が空いたような光景であった。人々が、妖怪が逃げ惑う。幻想郷に大混乱が巻き起こっていた。誰もが自分を、自分の家族を、自分の愛する者を守る為に、他人を蹴落とし、殺し、奪い合っていた。平和が終わったこの郷に、希望は存在しない。また、ある者はじっと死を受け入れて、ある者は、最後の時間を悔いの無いように過ごした。死に直面した時、誰もが重い枷から解放された。人生最後の時間が始まる。霊夢は、母と過ごす事を望んだのだ。
「大丈夫よ、お母さんは霊夢の傍にいるわ」
その言葉が嬉しくて、霊夢は素直に涙を流して母に抱き着いた。最早その姿は、幻想郷の使命を背負った、博麗の巫女のソレではなかった。ただの、死に怯える無力な少女であった。これから何もかもが終わるというのに、全てに満たされた顔で、霊夢は母を見つめた。母も、霊夢を強く抱きしめ返した。これ以上ないほど幸福な終焉であった。心から望んだ幸せがそこに在った。
最高の幸せとは何か、霊夢にとっての答えは、長く続く日々を大切な人と歩んでいく事ではない。人生最後の日、その一日だけを色濃く、強く、愛する人と過ごす事であった。これが、彼女にとっての究極の幸福であり、究極の愛の姿であった。
「もう、お母さんは何処にも行かないよ。霊夢……」
母は寂し気にも、そして誇らし気にも見える顔で笑う。
全てが終わる時に限って永遠の物を手に入れてしまうのだから人生は皮肉だ。それでも、霊夢は満足していた。幼い頃、何の覚悟もなかった自分から容赦なく取り上げられた、ごく普通の、平凡な幸せを、今こうして再び取り返す事が出来た。それだけで霊夢は満たされたのだ。母は笑う。つられて霊夢も笑みを浮かべる。母と子、二人して、笑いながら幻想郷最後の日を眺め続けた。
「お母さん……やっぱり、ちょっと、怖いな」
母の暖かな腕に抱かれながら、霊夢は呆けた顔で幻想郷が崩れていくのを見つめていた。母は霊夢に微笑む。その笑顔さえあれば、霊夢は幸せなまま生涯を終えられると信じた。
巨大な破裂音が幻想郷に木霊する。人間と妖怪の絶叫が響き渡る。慣れ親しんだ故郷が暗黒の中に砕けていく。あと少しでこの郷は闇に包まれる。誰もが平等に死を迎える。肉体ではなく、概念として我々は亡き者になる。その最後の数時間を、母と共に過ごしたい。愛する家族と一緒に、人生を終えたい。
ねぇ、お母さん。
「なに、霊夢」
本当に、人生の最後をこんな形で過ごしていいのかな?
「勿論よ……とても人間らしい終わり方じゃない?」
そうだけどさ、お母さん。
「どうしたの?」
私、どうしても分からない事があるんだ。
「分からない、事?」
ねぇ、お母さん。
どうして私は、こんなに悲しいんだろう?
お母さんと一緒にいられるなら、もうこれ以上は何もいらないって思った。だけど、だけど、どうしてなのかな? お母さん、心が、心が、泣きたくなるほど痛むんだ……。
「……霊夢」
満たされている筈なのに、幸せな筈なのに、心が火傷したみたいに痛むんだ。こうしてじっと、お母さんに抱かれながら、この世界の終わりを眺めるのかと思うと、胸が張り裂けそうになるんだよ。お母さん、おかしい事かな? 私、変な事言っているかな?
「……いいえ、あなたは正しいわ」
母は、そう言いながら、ゆっくりと霊夢から手を離した。霊夢は神社を背にし、幻想郷に訪れた「終焉」を真っ直ぐに見据えた。
まだ、何も試していない。まだ、何も抗っていない。霊夢は、その途方もない「終焉」に立ち向かう決意をしたのだ。一人の少女にどうこう出来る相手ではない。それは霊夢自身も理解している。否、これは勝てる、勝てないの問題ではなかった。
大好きな故郷が終わるその瞬間を、何もせずただ黙って見ている事が、耐えられなかったのだ。
霊夢は無言で母から離れる。母も、黙って霊夢の背中を見つめていた。どうやら母は、最後まで何も言わないつもりである。そのあまりにも痛い静寂に耐えきれず、途中で、霊夢がその足を止めた。
「このまま行けば、私はもう、二度とお母さんとは会えない」
「……そんな事無いわ。何も気にしないで。霊夢、あなたは、あなたの好きなようにすればいい。あなたが望む通りに……」
そこでついに、霊夢は母の方へ振り向いてしまった。
「お母さんだって、本当は分かってる筈よ……っ、もう、これが最後だって、私が行っちゃったら、もう、会えなくなるって……」
「霊夢、行きなさい。お母さんの事はどうでもいいわ。あなたには、あなたのやるべき事がある筈よ……」
「……っ! どうして、どうして止めてくれないのっ!?」
必死に涙を堪えていたのに、母の真っ直ぐな瞳に耐えきれず、霊夢は泣き叫んだ。母は、見守るように霊夢を見つめていた。
「もう、この世界は終わってしまう……そしたら、もう私達は永遠に離れ離れになってしまうんだよっ? 私はこれから、最後まで必死に抗うつもり……命を懸けてでも、幻想郷の終わりを食い止める……だけど、だけど、どうしてお母さんは、それを許してくれるの……? もう、会えなくなるのに……っ!」
霊夢の悲痛な叫び声に、母はようやく悲し気な表情を浮かべた。完全に信念と言葉が矛盾してしまう。引き留めてほしい。そう思いながら、霊夢は、懇願するような瞳で母を見つめた。
「霊夢……もう行きなさい……」
「嫌だ……嫌だ……こんな形でさよならするなんて……っ! ずっと、寂しかった……辛かった……なのに……っ!」
自分の意思で、霊夢は母の元から離れようと決めた筈なのに、どうしても上手く前へ進めない。そんな霊夢への後押しのつもりで、母は慈愛に満ちた表情を保ち続けた……。
遠くで地鳴りが響いている。少しずつ、終末が音を立ててやって来ている。もう時間はない。恐らく霊夢にとって、ここが最後の選択肢となる。母の元へ戻り、最後の一瞬を共に幸せに過ごすか、それとも、母から離れ、最後まで「楽園の素敵な巫女」としてこの終末と対峙するか、である。前者と比べ、後者はあまりにも救いがない。勝算はほぼゼロだ。霊夢の心はその二択の狭間で揺れ動いていた。幸福か、正義か、その両者の共通点は「終わる」という事。巫女としての正しさか、人間としての理想か――。
霊夢の心は、もうすでに決まっている。
彼女は母の温もりではなく、幻想を選んだ。
だからこそ、霊夢はこんなに苦しんでいるのである。
「お母さん、本当に、これが最後なんだよ……お母さん……っ」
幻想郷に眩い光が差し込む。命を消滅させるための光だ。幻想を無へと返す、容赦のない「法」だ。あの光に包まれた瞬間、霊夢は、もう二度と母とは会えない。母は、もう二度と霊夢を抱きしめる事が出来ない。二人の母と子は、永遠に切り離されるのだ。心が砕けてしまいそうになる、そんな「別れ」であった。霊夢は零れ落ちる涙を拭いながら、今にも崩れそうな神社、そこで我が子の帰りを待つように佇む母の姿を、必死に目に焼き付けた。
「行かないで……なんて、言えないよ……」
突然、母が苦しそうに声を上げた。全身を傷付けられたような、魂からの声であった。突然の事に、霊夢は唖然としてしまう。
「本当は、あなたを放したくないって、思ってるよ……だけど、だけど霊夢、もし私が、「行かないで」って、あなたに言ってしまえば、あなたは、何処にも行けなくなるじゃない……っ!!」
母は、霊夢を追いかけようとする気持ちを必死に堪え、身を切るような思いで霊夢を見つめていた。霊夢も、母の方へ引き返そうとする足を懸命に堪えた。母と子の絆だけが、二人を繋いでいた。
本当は気付いていた。この世界は儚い空想だと、母の暖かな腕に抱かれながら、霊夢は気付いてしまっていたのだ。
「ねぇ霊夢……離れたくないよ……あなたを残して、居なくなりたくないよ……ずっと、守ってあげたいよ……だけど、私がそれを願ったら、あなたはそれを叶えようとしてしまう……だから、だから霊夢、もう迷わないで、迷わせないで……。例え、あなたの行く末が行き止まりだとしても、絶望だとしても、それでも、霊夢……」
私はあなたを愛している。いつまでも。
「お母さん……っ」
博麗神社の周りに巡らされた結界にヒビが入っていく。地面が揺れ、神社が少しずつ崩れていく。霊夢と母の間にある道が脆く砕けていく。霊夢は情けない顔を拭い、母に向かって叫んだ。
「私だって、ずっと、お母さんと一緒に居たいよ……もう二度と母さんと会えなくなるなんて嫌だ……だけど、この世界が壊れようとしてる時に、何も出来ない自分でいるのは、もっと嫌だよ……っ! そんなんじゃあ、私……お母さんに合わす顔が無いじゃないか……っ! そんな憶病な生き方したくない……、お母さんに抱きしめられた時、ちゃんと胸を張っていられるように生きていたい。私は、お母さんの、自慢の娘でいたいから……っ!」
霊夢が向かう先に幸福はない。彼女の選んだ道に「母親」は存在しない。それでも、霊夢は自分に課した使命を果たす事を選んだ。一人の少女が、親の元から巣立つように、霊夢はもう一度、母に背を向けた。もう二度と、振り返らないと心に誓った。
「お母さん……私は、最後まで私でいたい。無様でも、不幸でも、最後まで「博麗霊夢」であり続けたい……。例えそれが後悔する道だったとしても、それが私の道なら、私は歩き続けたい。……最後の最後になって、死ぬ数秒前に、もっとこうしとけば良かったって、情けなく後悔してしまうような、どうしようもない人間でいたいよ……。だから……だから……っ!」
行ってきます、お母さん――。
「……じゃあね、霊夢、さようなら……っ」
霊夢は、母の方を振り返らなかった。だから、最後に母がどんな顔をしていたのかは分からない。それでも、その一言だけで、霊夢は勇気を持つ事が出来た。これが最愛の人との決別であろうと、幸福からの追放であろうと、これが正しい道、自分の道であるのなら、最後まで前に進もう、霊夢はそう決めた。博麗神社の鳥居をくぐり、霊夢は上空へと、幻想郷に存在する全ての命を奪う光の中へと飛翔する。母と、もっと長く過ごせたら、もっとこうすれば良かった、ああすれば良かった、霊夢は後悔しながら、少しだけ笑った。
「大好きだよ、お母さん……」
夢が、終わる。
「……霊夢、大好きよ……誰よりもあなたを愛している」
現実が、始まる。
……。
…………。
………………。
《東風谷早苗の場合》
見慣れない公園があった。
人々の生活が密集した団地の中、夕暮れの柔らかな光と静けさの中で、こいしは早苗の姿を探していた。そこに、親の帰りを待つ子供の為に作られた小さな公園があった。少女が泣いている。こいしはフェンスを乗り越え、俯いて泣いている子供へ駈け寄った。
「どうして泣いているの?」
こいしに話しかけられ、少女はしゃっくりを上げながらこいしの方を見る。怯えた表情だ。他に団地の子供は見当たらない。恐らく、先ほどまでたくさんの子供と遊んでいたのに、一人ずつ親が迎えに来て、この子は最後に一人、取り残されてしまったのだろう。このまま、誰も自分を迎えに来てはくれないのではないか? そんなどうしようもなく無邪気な不安に駆られていたのかもしれない。
「お母さんが、まだ来ないの……」
少女は恐る恐ると言った様子で口を開いた。とても恥ずかしがり屋な様子である。そこで、こいしは砂場に作りかけの「城」がある事に気付いた。作っている途中で、この子は一人にされたのだ。
「ねぇ、お城、一緒に作ろうよ!」
こいしは、それが「当たり前」であるかのように少女に笑いかけた。返答を待たず、こいしは砂場へ入り、砂をかき集めて形を作っていく。最初はもじもじと躊躇している様子だったが、少女は少しずつ砂場へと近付き、一緒になって砂をいじり始めた。数分もして、ようやく少女は笑った。こいしの屈託のない笑顔を見て、少女は、先ほどまで自分に纏わりついていた不安を忘れた。
子供に「友達になってよ」なんて言葉はいらない。二人はいつの間にか、共に笑い合える仲になっていた。
そして、最後の仕上げ。こいしはその辺に落ちていた小さな木の枝を手に取り、砂の城の一番上に突き刺す。「完成!」とこいしが喜びの声を上げた時、その場にはもう少女の姿は無かった。
いつの間にか一人ぼっちとなってしまったこいしは不思議そうに辺りをキョロキョロと見渡す。すると、公園の付近に一人の女性が立っているのが見えた。大人の女性であった。
その人は泣きながら、砂場で遊ぶこいしを見つめていた。それは羨望の眼差しであった。無邪気に砂場で遊んでいるこいしを羨むかのような涙を流している。一緒に遊びたいのかな? と、こいしは思った。こいしはその女性に大きく手を振ってみる。
しかし、その人は公園に入る事もなく、その場に膝を付き、悔しそうに泣き続けるばかりであった。その人の心の声が、こいしには聞こえた気がした。彼女はもう、「こっち」には来られないのだ。
ここは、この公園は、とある少女の過去であり、未来である。少女の心は、この公園に囚われたままだ。ここは、この夢は、ただの空想の続きでしかない。とある少女の、確かな過去であり、あり得たかもしれない未来。何気ない、空想の話であった。
こいしが彼女の名前を呼ぶ。
その声に応えてはならない。
……。
…………。
………………?
あれ?
「もういいかい?」
その時、誰かがこいしに向かって語りかけてきた。声の方を振り返ると、そこには早苗が立っていた。過去の幼い早苗でも、未来の大人になった早苗でもない。こいしのよく知る早苗がそこに居た。もういいかい? その一言に何の意味があるのか、こいしには分からなかった。ただ、答えだけはすんなりと用意出来た。
「よくないよ、早苗……」
こいしは砂でぐしゃぐしゃに汚れた手で早苗の腕を掴んだ。早苗は不安そうな顔でこいしを見つめていた。過去で、未来で、そして、今現在でさえ何かに怯えているような、そんな顔だ。
途端に、この小さな公園が檻の中のように思えてくる。公園と現実を隔てるフェンスはまるで鉄格子のようだ。だが、過去と未来、そして、今現在の早苗を見ていると、どちらが正しいのかよく分からなくなる。こいしは頭を抱えた。
この公園が檻なのか、公園の「外」が檻なのか――。
檻に入れられているのは、一体どちらだろうか?
・・・
灯り一つない真っ暗闇、夜の世界、早苗は水中に沈むように何かを、誰かを探していた。誰かの名は忘れた。どんな顔をしていたのかさえ思い出せない。それでも、探さなければならない。長い間、闇の中にいると、何色でもない自分自身も実は「黒い色」なんじゃないかと不安になる。それで思い出した。今探している誰かは、確か、夜が嫌いな子であった。理由は意外に単純で、暗いのが怖いから。その意味が、今、ようやく分かった。
暗闇の中を彷徨い続けるうちに、いつか自分も暗闇の一部になってしまうのではないか? その子は、それが怖かったんだ。
夜の世界を沈み続けているうちに、早苗はいつの間にか夜の「底」へと辿り着いた。そこに、一本の外灯が立っていた。外灯と言っても、それが放つ光は微々たる物であった。頼りなく点灯を続けている。その足元に、誰かがいた。小さな女の子だ。テーブルに座っている。テーブルには、粉々に砕け散った一枚のお皿が中央に置かれ、周りには包みの開かれていないキャンディが散らばっていた。
何となくだが、この子はついさっきまで、キャンディの包みを開いて、皿の上に並べていたのではないか? と、早苗は思った。同じ光景を、何処かで見たような気がしたからだ。無論、早苗にそんな記憶はない。あるいは、ただ純粋に忘れてしまったか。
女の子は泣いている。しかし、その顔は無表情のそれであった。何の感情も持ち合わせず、少女は涙を流している。随分と虚しい涙だ。早苗は少女に近付き、声をかけた。
「何をしているの?」
知らないって、言われる気がした。
「知らない」
「キャンディを並べて楽しい?」
楽しくないって、言われる気がした。
「楽しくない」
「いつからここにいるの?」
知らないって、言われる気がした。
「知らない」
「キャンディ、好きなの?」
この子は、これを食べた事あるのだろうか?
「私、これ食べた事無い」
この子は、キャンディがどういう物なのかを知らずに、永遠とテーブルの上にあるお皿に並べ続けていたのだろうか? その行為にどういう意味があるのか、早苗には分からなかった。
「食べてみたいとは、思わないの?」
「……」
少女はポカンとした表情を浮かべ、そのまま沈黙してしまう。そんな事、考えた事もなかったというような顔であった。
・・・
「こいしちゃん、どうして人って大人になると、公園に戻れなくなるんだろうね? こんなに安全なのに、こんなに幸せなのに」
「そんな事、私には分からないよ、早苗……」
・・・
「どうして、食べる必要があるの?」
「それが普通だから、よ」
・・・
「早苗、帰ろう。この公園には何もない。過去だろうが、未来だろうが、どうでも良い。早苗はきっと、ここにいてはいけないんだよ。早苗の未来は、「行き止まり」なんかじゃないよ……」
「どうして? ここには、何も怖い物なんて無いのに」
・・・
「私、キャンディは積み上げる物だと思ってた。積み上げているうちに、私のお皿は、私の心は、割れちゃった……」
「……ひょっとして、このキャンディの正体は……」
・・・
「夜が来る。早苗、帰ろう。早苗は、早苗の心はここに在ってはいけない。このままだと、早苗は何処にも行けない。心が元気なうちに、今すぐここから逃げ出さなきゃ……」
「こいしちゃん……?」
・・・
「……口を開けて」
「……早苗?」
早苗は、こいしと共に公園の外に出た。
こいしは、真っ赤な飴玉を口に含んだ。
この先は、何もかもが早苗の自由だ。
飴玉は、甘酸っぱい苺の味がした。
早苗は怯えながらこいしを見た。
こいしにとって、飴玉とは『感情』だ。
こいしは、早苗の心を理解出来なかった。
「早苗は「空」じゃないから、何処にだって行けるよ」
早苗は、こいしの心を理解したかった。
「あなたは、あなたを「想」って欲しい」
二人の空想は、ここで終わりを告げる。
それはひどく、歪な夢であった。
こんなに甘いのなら、心を無くす前に教えて欲しかったな……。