Coolier - 新生・東方創想話

空想イマイマシー

2019/04/07 21:58:54
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第五章『理想の夢の中へ』

空に打ち上げられた花火の音でこいしは目を覚ました。気が付くと、そこは地上、青天の真下であった。しかし、明らかにそこは幻想郷ではない。謎の広い敷地が目の前に広がっている。こんな場所、幻想郷には存在しない。花火はここから上がっている。こいしは不思議に思い、その場所へと近付く。すると――。
「わっ、な、何……っ?」
 突然、軽快なBGMが辺りに響き渡る。その途端、目の前の敷地に巨大な城が出現する。それも、何の振動も、何の音もなく。立派な城なのに、外装には煌びやかなイルミネーションが飾られており、入り口にはコミカルなキャラクターが大きく描かれた看板がある。こいしの記憶にはない、こいしが全く知らない世界がそこにあった。

『人はここを、遊園地と呼ぶ』

 すると突然、こいしの横にエンペラーが現れる。
「ゆ、ゆうえんち……?」
『うむ、詳しくは知らないが……ここには人を喜ばせたり楽しませたりするようなアトラクションが多く存在するという』
 こいしにはそれがどういう物なのか、上手く想像する事が出来なかった。まず「アトラクション」という言葉を良く分かっていない。
「それって、楽しいの?」
 こいしの問いかけに、エンペラーはにっこりと優しい笑みを浮かべた。そして、こいしに一枚のチケットを手渡した。そこには『古明地こいしちゃん専用パスポート』と書かれていた。
『もちろん、君が本当に『楽しい』と思う物だけがここに集められている。こいしちゃんはね、ここで心ゆくまで遊んでいいんだよ』
 ほんと? こいしは若干期待の表情を浮かべてみせた。
「何があるのっ? 私、ここで遊んでみたい!」
『ふむふむ、では、早速行ってみるとしよう』
 ・・・
 ゲートを潜ると、明るい音楽と共に様々な着ぐるみのキャスト達による壮大な出迎えが待っていた。着ぐるみ達が軽い足取りでこいしの元へやって来て、無言のまま握手やハグを求めてくる。どれもこいしが好きそうな緩いキャラクター達だ。そこで、キャストの一人がたくさんの風船を持ってこいしに近付いて来た。赤白黄色、色とりどりの風船がフワフワとこいしの目の前で揺れている。「赤色の風船がいい!」とこいしが言う。そこで、隣にいたエンペラーが合図を送った。それに気付いたキャストが突然音高く指を鳴らす。その瞬間、赤色以外の風船が一斉に破裂したのである。こいしがびっくりして目を閉じる。そして再び目を開けると、先ほどまで青と黄色だった風船が全てトマトのように真っ赤に染まっていたのだ。全てがこいしの望んだ通りになる、という事だ。まず、ここでこいしは警戒を解いた。後はもう、なし崩しである。
「ねぇエンペラー! 私、まずはこれに乗りたいな!」
 最初に、こいしは施設内でも最も目を引く巨大なジェットコースターを選んだ。他の客は一人もいない。一切並ぶ事なく、望む場所に行き、望むアトラクションを利用する事が出来るのだ。
 ジェットコースター、無論、こいしがこれに乗るのは初めての事であった。こいしはコースターに乗り込み、意気揚々と安全バーを下した。ついでに、こいしの後ろの席にエンペラーも乗る。
 機械音と共にコースターが動き出す。ゆっくりとチェーンリフトを登る際、徐々に遠ざかっていく地上を見てこいしは悲鳴を上げた。それは恐怖ではなく、スリルを楽しんでいるかのような歓声であった。ジェットコースターはこの瞬間が一番緊張する。息を呑むような時間を経て、コースターは頂上へと到達する。
「ねぇねぇ、ここからどうなるのっ?」
『そりゃもう、落ちるのさ』
「え?」
 その瞬間、今まで自重を支えていた床が無くなった気がした。こいしは妖力で身体を宙に浮かせる事が出来るが、ここまでの高度を飛んだ経験はない。そもそもこいしは弾幕勝負の際でも滅多に空中を飛ぶ事はない。そんな彼女にとって、ジェットコースターは勿論、この空の世界も、初めての経験であった。そこからの、突然の急降下である。こいしは思わず両腕を上げて気持ちの高ぶりを表現した。
「ぎゃああああああああああ楽しいいいいいいいいいいッ!!」
『ふーむ、高さによる緊張、からの滑空するような爽快感……なるほど、ジェットコースター、なかなか興味深い代物だ』
 コースターは加速する。こいしは空を「走る」感覚に酔いしれた。レーンは続く、何度も何度も世界を回転させる。その度に景色が変わる。日常では味わえない感動があった。こいしは、心は亡くとも、それでも、心の底からそれを楽しいと思った。
「ねぇ! もう一回、もう一回乗りたい!」
 終着地点、こいしは安全バーを上げながらエンペラーに懇願する。エンペラーはその願いを断る事はなかった。
 何故なら、ここは「古明地こいし」こそが正解の世界。こいしの言う事こそが正しく、こいしの思う事こそが常識なのだ。希望通り、こいしは再度安全バーを下ろした。二度、三度、立て続けにこいしはこの疾走感を楽しんだ。このジェットコースター、驚くべき事に、乗る度コースが変化するのだ。つまり、何度乗っても新たなコースへと変わる為、全く飽きが来ないのである。
『しかし、こいしちゃん。他にもたくさんのアトラクションが君を待っているんだ。しかも、いくら遊んでも時間は無限だ。いつまでもここに居ていい。いつまでもここで遊んでいていいんだよ』
 まさに夢のような世界。
 いや、実際ここは夢の世界だ。
 その後も、こいしは様々なアトラクションへと赴き、満足するまで遊び倒した。フリーフォール、バイキング、メリーゴーラウンド、コーヒーカップ、観覧車、中でもお気に入りだったのは観覧車である。上昇すると同時に景色が、世界が広くなる、その解放感が好きだった。人の心も分からない、自身の心も分からない、そんな自分とは正反対の存在だと思った。だから、好きだった。
 ・・・
 観覧車の中、こいしの向かいにはエンペラーが座っていた。ゴンドラの中にはこいしとエンペラーだけ。若干遊び疲れたように見えるが、それでもまだまだ「これから待っている楽しい事」に胸をときめかせている様子のこいしであった。そんなこいしを、エンペラーは満足そうな表情で見つめていた。だが、こいし達のゴンドラが頂点へと辿り着いた時、こいしの笑顔が少しだけ歪んだ。
『こいしちゃん、楽しいかい?』
 ゴンドラの中で赤い風船が揺れている。何故か、風船がとても悲しそうだ。こいしは少しだけ迷った表情を浮かべていた。
「……うん、楽しいよ」
 先ほどまではしゃいでいたのが嘘みたいに、こいしは落ち込んだ声を出した。明らかに「楽しんでいる」とは言えない様子だ。
 その瞬間、先ほどまで雲一つない青空だった筈なのに、突然、何の前触れもなく太陽が傾き始めたのである。
『……おかしいな、ここでは時間経過の概念など存在しない筈……なのに、どうして日が暮れるんだ?』
 空が見る見るうちに橙色に染まっていく。ゴンドラにオレンジ色の夕暮れが入り込み、備え付けられた窓に反射し、ノスタルジーな雰囲気が漂い始める。悲しくなるような光景であった。
『こいしちゃん……本当に楽しいのかい?』
 エンペラーは再度、確認するようにこいしに問う。
「楽しい、楽しいよ……だけど、だけどね……」

 それ以上に、何だか寂しくなってきた。

 こいしがそう言うと、エンペラーは困ったような表情になる。ゴンドラは少しずつ地上へ向けて降下していく。景色が狭まっていく。まるで瞳のように、黄金色の世界を閉じていく。
『……困ったな。この世界は、こいしちゃんが望む全てが用意されている筈なのに……どうして、悲しい気持ちになるんだろう?』
 こいしは答えられなかった。どうして遊園地の観覧車に乗ると、寂しい気持ちになるのだろうか? その答えが、分からなかった。
 ゴンドラを降りてすぐ、こいしは悲しそうな表情でエンペラーを見つめた。そろそろ家に帰してほしい、そんな顔だった。
『一体何が気に入らなかったんだい? ひょっとして、まだ乗り物の数が足りないのかな? それとも、何かキャストが不愉快だったのかな? あ、もしかしてお腹が空いたのかな?』
 あくまで分析するようにエンペラーはこいしに質問していく。こいしはその全てに首を振って応えた。こいしは黙ったまま、惜しむ事も無く、先ほど手渡されたパスポートをエンペラーの前に差し出したのである。これは、こいしなりの拒絶のつもりであった。
「私、楽しかった。楽しかったよ。だけど、このままずっとこの遊園地の中にいるのは、何だか悲しいな……」
『分からないな……ここにいれば、君は何かに悩む事もなく、誰かにいじめられる事もなく、いつまでも幸せに遊ぶ事が出来るというのに……分からない。こいしちゃんの考えは分からないよ』
 エンペラーの言う通りだった。ここには、こいしの害になる者は存在しない。こいしが嫌だと思う物はあり得ない。ここにいれば、こいしはいつまでも幸せに、誰かに脅かされる事もなく遊び続ける事が出来るのだ。しかしここで、こいしはそれを否定している。
 矛盾だらけだ。理解出来る筈が無い。
「お家に帰りたい……お姉ちゃんに会いたい……」
 こいしが泣きそうな表情を浮かべたので、エンペラーはオロオロと慌ててこいしの頭を撫でた。正直な話、こいしは一刻も早くこの「遊園地」という場所から抜け出したかった。いつもの、自分のよく知る景色に戻りたいと願った。エンペラーには理解出来ない事であった。今すぐ帰ろうとするこいしを、エンペラーは何度も引き留めようとする。そこで、こいしは癇癪を起してしまった。
「分かってもらえなくていいんだよ! とにかく、私はもう嫌なの! 出口は何処! 私、帰る、幻想郷に帰るの!」
 こいしはこの世界を否定する。もはや、この空間に存在する何もかもが気持ち悪く思えてしまう。このままではどうにかなってしまいそうだ。こいしはパニック状態に陥ったように喚きだし、そのままエンペラーから逃げるように走り出した。
『ま、待ってくれこいしちゃん!』
エンペラーが慌ててこいしを引き留めるが、こいしは聞く耳を持たず、そのまま当てもなく走り去ってしまう。
『まずい……ここは夢の中の世界、今は我々の創作したデータを設定装置に送る事によって幸福な内容を保っているが、一歩間違えれば……我々の予測できない世界に迷い込んでしまうぞ……』
 ・・・
 こいしは園内を疾走する。しかし、出口へと繋がっていた筈のゲートは全て閉鎖されていた。夢の中にいる者を外に逃がさないための予防策である。楽しい事だらけの遊園地が途端に不気味に思えてくる。こいしは顔を青くする。すると、こいしに気付いた着ぐるみ姿のキャスト達が動きづらそうにこいしの後を追いかけてきた。  
「う、うわああああ! 来ないでぇーッ!」
 こいしは悲鳴を上げながら走り続ける。しかし、何処へ逃げても着ぐるみのキャストがいる。可愛い姿とは裏腹に、着ぐるみ達は容赦なくこいしを追いかけ回した。逃げ場など何処にもない。本当は、とっくの昔に気付いていた。ここは、この遊園地は――。

「ここは、私を閉じ込める牢獄だ……っ! 逃げなきゃ……っ!」

 その瞬間、辺りは一気に夜になる。イルミネーションが煌々と点滅し始める。こいし以外誰も客はいないというのに、全てのアトラクションが稼働していた。もう、ここにこいしを楽しませる乗り物は存在しない。全てがこいしを拒んでいる。全てがこいしの脅威となっている。楽しい場所が、一転して恐怖の空間と化す。
 広い園内を走り回り、こいしはクタクタになった。それでも、着ぐるみ達はすぐそこまで迫ってきている。このままではいずれ捕まってしまうだろう。その時、周りの派手なアトラクションの横でひっそりと佇む、寂れた建物を見つけた。人がいる様子はない。とにかく今はキャスト達に捕まらないように身を隠さなければと思い、こいしは急いでその建物に入る。看板にはこう書かれていた。
『ミラーハウス』と。
 それは、建物内にいくつもの鏡を設置し、建物に入り込んだ客を視覚的に惑わせる、一種の脱出迷路であり――。

 広い意味で言えば、お化け屋敷でもある。

 幸いにも建物内には先ほどまでこいしを追いかけ回していた着ぐるみ達の姿は無かった。内部は暗く、柱に一つずつ取り付けられたオレンジ色の小さな電灯がチカチカと点滅しているだけである。奥から静けさが冷風のように漂ってくる。ここならしばらく身を隠す事が出来るだろう。……だが、それがまずかった。
 入った先でこいしを待ち構えていたのは、鏡によって幾重にも重なった自分の姿であった。こいしは悲鳴を上げそうになった。
「な、何、ここは……」
 こいしはミラーハウスがどういう物なのかをよく知らない。こいしは恐る恐る一歩前へ進むが、自分が動く度に鏡の中の自分が予期せぬ動きでその姿を歪ませる。それが何とも不気味であった。
 奥から冷たい風が流れてくる。その音は、まるで獰猛な肉食獣が牙を剥き出しにしているかのような声にも思える。この園内に存在する他の建物は新しく、安全であったのに対し、何故かこのミラーハウスだけは酷く老朽化していた。こいしが一歩踏み込むたびに木造の床が軋み、悲鳴のような音を響かせるのである。痛んだ木と、古くなったワックスの匂いが充満している。
「うう、どうしよう……ここからどうすればいいの?」
 こいしは鏡に向かって問いかけた。その瞬間――。
 鏡の中の古明地こいしが、微笑んだのである。無論、こいしは笑みなど浮かべていない。その時、ミラーハウスの中からクスクスと笑い声が響いてきた。それも一つや二つではない。幾つもの笑い声が波のように漂っていた。全部、こいしの声であった。素晴らしくゾッとしてしまった。それと同時に、柱に取り付けられていた電灯が奥の方から消えていく。一つ、また一つ、暗闇がこいしを追いかけているかのような光景だ。辺りを見渡しても、鏡に映ったこいしの姿しか存在しない。こいしは立ち上がり、その場から逃げ出す。鏡に映ったこいし達は動かず、目線だけでこいしを追いかけた。
こいしは元の通路を引き返し、建物の外に出ようとした。だが、どんなに戻っても出口が見つからない。まるで生きているかのように通路が変化しているのだ。鏡に映るこいしが、こいしに向かって笑みを浮かべていた。こいしは顔を青くし、それでも出口を探してミラーハウスを彷徨い続けた。十分ほど経ったあたりでこいしが息切れした状態で立ち止まる。何処まで行っても出口は見当たらない。ミラーハウスは唸り声を上げて通路を捻じ曲げる。こいしを決して外に出さないように。まるで怪物の胃袋のように、こいしの行く手を阻む。こいしは恐怖と疲労でどうにかなってしまいそうになる。
「ど、どうなってるの……?」
 こいしがそう呟くと、鏡の中のこいしが返事をしてきた。

『君が本当に望んでいる物は?』

「ひ、ひゃああああっ!」
 こいしは目を見開き、腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。すると、四方八方に反射したこいしが歪な動きをしながらこいしに近付いて来た。鏡の中の存在である筈なのに、まるで個々が意思を持っているかのような動きであった。こいしは怖くてその場から動く事が出来なかった。怯えるこいしをよそに、鏡の中のこいし達は一斉にこいしに語りかけてくる。
『君が本当に望んでいる物は?』
「怖い……怖いよぉ! 誰か、誰か助けてぇッ!」
 こいしは目をつむり、その場で顔を俯かせてしまう。しかし、鏡の中のこいし達は容赦なくこいしに質問を繰り返した。
『君が本当に望んでいる物は?』
「知らない! 知らない! 私には欲しい物なんかない!」
『君が本当に望んでいる物は?』
「消えちゃえ! 消えちゃえ! これは夢、これは夢だ……っ!」
『君が本当に望んでいる物は?』
「嫌だ……っ、怖い、怖いよぉ……」
『君が本当に望んでいる物は?』

 鏡の中に映るこいし達の第三の目が、一斉に開いた。

「ひ……ッ!」
 クスクスと、笑い声が木霊する。まるで、蹲るこいしを嘲笑しているかのように。鏡の中のこいし達、その第三の目が、じっとこいしを見つめている。こいし達の顔は、歪んだように笑っていた。
 途端、弱々しかった灯りが、ついに消えてしまう。
「……嫌ぁ……嫌ああああああああああッ!!」
 こいしが絶叫する。その瞬間、ミラーハウスの内部に設置されている全ての鏡に亀裂が入った。こいしが涙を流しながら、絶叫を繰り返す。途端に鏡は粉々に砕け散ってしまった。鏡に映ったこいし達が一斉に崩れていく。建物は崩壊し、やがて、ミラーハウスは消滅する。そして、周りのアトラクションもサラサラと波打ち際で作られた砂の城のように溶けてしまう。こいしは何も見ず、何も聞かず、黙ったままその場に倒れ込む。遊園地の最後を、楽園の終焉を、心は亡くとも、心待ちにしていた。こいしが望んだ通り、遊園地は跡形もなく消失した。初めから何も無かったかのように。

 残されたのは、星一つない「夜」であった。

 長く続く暗闇の中、こいしは一人、小さなテーブルに座っていた。すぐそばにはチカチカと点滅する眩い外灯。テーブルの上には、一枚の皿と、色鮮やかなキャンディだ。こいしは何も言わず、何も思わず、何も感じず、弱々しい灯りだけを頼りに、ただ黙々とキャンディの包みを開いては、その中身を取り出して皿の上に並べていく。こいしは、別に好きな訳ではないが、赤色のキャンディを多く選んだ。無意識のうちに赤色のキャンディを優先的に選び、その包みを剥がして皿の上に置いた。それが、一体どんな味がするのかも分からないまま、こいしはひたすら皿の上にキャンディを並べ続けた。
 皿の上にキャンディが山盛りになる。鮮やかな飴玉の山を見て、こいしは、こいしは……何も感じなかった。何も、思わなかった。そこで、飴玉の重さに耐えきれず、皿にヒビが入った。これ以上飴玉を皿の上に積むのは無理だ。それは、こいしにも分かっていた。だというのに、こいしは再びキャンディを手に取る。赤色のキャンディだ。包みを開き、こいしはそれを、山の一番上に乗っけようとした。だが、その直前で皿が大きな音を立てて割れてしまった。
 今まで積み上げてきたキャンディの山が、呆気なくテーブルの下へと零れ落ちていく。色とりどりのキャンディが、暗闇の中へと消えていく。後に残ったのは、粉々になった皿の破片と、未だ包みが開かれていないキャンディだけだった。こいしは一つ、適当にキャンディに手を伸ばし、包みを開いて、皿の破片の上に置いた。無論、キャンディはそのままテーブルの上を転がり、暗闇の中へ落ちていった。何度やっても、もう皿の上にキャンディは並べられない。しかし、こいしはそれに気付かず、いつまでもキャンディの包みを剥がし続けた。いつか、いつかもう一度、あの綺麗な飴玉の山を積み上げられると信じながら。こいしは無表情のまま、破片の上に飴玉を置いて、静かに涙を流した。いつまで経っても、飴玉は積み上がらない。何度やっても、闇に溶けてしまう。
 心には何もない。それが、古明地こいしだった。
 すると、暗闇の奥から誰かが近付いてくるのが見えた。顔は見えない。その人は、不思議そうな顔でこいしに語りかけてくる。

「何をしているの?」
 知らない。

「キャンディを並べて楽しい?」
 楽しくない。

「いつからここにいるの?」
 知らない。

「キャンディ、好きなの?」
私、これ食べた事無い。


「なら、食べてみようか?」


 そこでこいしはハッとした表情を浮かべた。こいしに質問を繰り返す人物の顔を見た。それは、紛れもなく自分自身の顔であった。
 古明地「こいし」は、古明地こいしに語りかける。
 まるで鏡に映った姿のようだ。そいつはこいしに近付き、テーブルにあったキャンディの包みを乱暴に剥がし、それをこいしに差し出してきた。赤色のキャンディだ。こいしはそれを拒んだ。だが、「こいし」は強引にこいしの顔を引き寄せ、こいしの唇に飴玉を押し付けた。「こいし」は、笑っていた。こいしは、泣きだした。
 食べろ、食べろ、食べろ、食べろ、食べろ、食べろ。食べろ。「こいし」は嬉しそうに連呼する。こいしは叫んだ。口を大きく開けてしまい、口の中に飴玉がねじ込まれる。最初は、何の味もしなかった。しかし、徐々に口の中に得体の知れない「何か」が広がり始める。甘い、酸っぱい、辛い、苦い、どれとも違う。感情だ。これは、感情の味だ。真っ暗だったこいしの世界に、血のような赤がぶちまけられる。血だらけの世界で「こいし」がケラケラと笑った。笑いながら、こいしに抱き着いてきた。血飛沫が、第三の目に飛び散る。その瞬間、第三の目が、いきなり痙攣し始めた。想像を絶するほどの苦痛を伴いながら、『覚』の瞳が、ゆっくりと開かれていく。
 こいしは人差し指を立てて自身の目の前にかざし、何度も何度もリズムよく折り曲げながら、それに合わせて言葉を発する。
お前の心が見えるぞ、古明地こいし。
ついに、取り戻したのだ。瞳を、心を。
これが、お前の望んだ夢だ――。

こいしは一人、白い空間に取り残された。
 
……。

『やっと見つけた。いやはや、良かった良かった』
 少しして、ようやくエンペラーがこいしの姿を発見した。エンペラーに気付いたこいしは、大急ぎでエンペラーの元に駆け寄り、大泣きしながら、力強く抱き着いた。
「酷い……酷いよ……っ! こんなの、私、望んでいないのに……」
 夢は、まだ続いている。
エンペラーはこいしの身体に繋がった第三の瞳を見た。瞼が開かれている。現実世界ではあんなに固く閉ざされていた瞳が、バッチリと開いてしまっていた。エンペラーは随分と反省した様子であった。そして、現実世界のヤマシタ達に、こいしのヘルメットにデータを送信している空想設定装置を解除するように命じた。
・・・
その瞬間、こいしの視界がほんの少し暗くなった。そして、まるで朝に目が覚めるように瞳を開く。そこは先ほどのヤマシタ達の要塞であった。こいしは夢から目覚めたのである。ヘルメットを外したこいしは慌てて自身の第三の目を確認する。
 通常通り、瞼は閉じている。
 こいしはホッと息を漏らした。そのすぐ横にはエンペラーと複数のヤマシタ達がいた。こいしは頬をプクッと膨らませる。
『ごめんよ。こいしちゃん……完全に我々の計算ミスだ』
 ぷいっと、こいしはエンペラーの言葉を無視し、そっぽを向いた。完全に拗ねてしまっている。エンペラーはどう弁解しようか迷っている様子であった。周りのヤマシタ達も慌てながらこいしの周りをくるくると回り続けた。しばらく経って、ようやくこいしは落ち着いたのか、エンペラーの方を見ながら言葉を発した。
「貴方達って、本当に、幸せな夢を作れるの?」
『うっ……その、計算上は……』
「計算、計算って、エンペラーはソレばっかり! 人の幸せなんて計算じゃ作れないんだよう! 私、何だかガッカリしちゃった!」
 こいしが意地の悪い事を言う。エンペラーもヤマシタ達も揃ってうーっと唸ってばかりである。どうやら、空想設定装置がこいしの望む幸せを正しく導き出す事が出来なかったようである。そこでバグが発生し、こいしの夢は途中から歪になってしまったのだ。
そこでようやく、エンペラーが口を開いた。
『こいしちゃんの夢は本当に、例外中の例外だよ。他の三人は成功しているんだ。あの三人は夢から目覚める事を拒んでいる』
 うっそだー、と、こいしはジトッとした目つきでエンペラーを睨んだ。しかし、こいしは後方に映るモニターに目を向ける。そこには霊夢、魔理沙、咲夜の姿があった。先ほどとは打って変わり、とても安らかな寝顔であった。こいしは不安を感じずにはいられなかった。もしこのまま、三人が目を覚まさなかったら……?
 否、目覚める事を拒み続けたら……?
『どうだろう……こいしちゃん。三人の夢をちょっと覗いてみないか? そしたら、君も我々の技術を認める筈だ……』
 エンペラーはずれ落ちそうになる王冠を支えながらこいしに提案する。そんな事出来るのー? とこいしが問うと、エンペラーは簡単に『可能である』とだけ答えた。
『あの三人は、本当に幸せな夢を見ている。それこそ、現実の世界など手放しても良いと思えるほどの夢を……』
「……」
 こいしは不安気にエンペラーを見た。いっそのこと、あの三人の夢にも何かしらの不具合が起きればいい。そしたら、エンペラー達の計画はご破算になる。そうなれば、何事もなく、全員でここから出ればいい。こいしはそう思いながらモニターの三人に視線を戻す。だが、一向に目覚める様子はない。
「……分かった。エンペラー、私をあの三人の夢の中に連れてって」
 私が直接、三人を起こしてあげるんだからっ、こいしはそう言って先ほどのヘルメットを再度頭に被る。
『残念だけど、それはあり得ない。不可能だよ』
 さっきまでオロオロと弱々しい態度だったエンペラーが何故か今度は自身満々に答えた。こいしは一瞬だけビクッと身を強張らせてしまった。一瞬、ほんの一瞬だけ、エンペラーを怖いと思ってしまったのだ。
『よし……では、まずはこいしちゃんを睡眠状態にして……そこからこいしちゃんの意識を三人の夢へ接続させるんだ』
 エンペラーがヤマシタ達にそう命じると、ヤマシタ達は再び嬉しそうに飛び跳ねながらその作業に取り掛かった。やがて、こいしのヘルメットに設定装置からの信号が流れてくる。こいしは先ほどと同じように、脳の痺れを感じながら、気絶するかのように夢の中の世界へと落ちていった。しかし、今回は二度目という事で、すんなりと夢の中へ入り込む事が出来た。
 こいしは、再び真っ白な空間に立っていた。しばらく経つと、何処からともなくエンペラーがこいしの目の前に出現した。
「それで? 三人はどんな夢を見ているの?」
 こいしは腕を組みながらエンペラーを睨みつけた。エンペラーは落ち着き払った様子でボンボンとその身を弾ませる。
『三人共、傾向としてはそれぞれ全く別の類の夢を見ているよ。やはり、人とは難しい生き物だ。理想の夢もそれぞれ千差万別である』
 すると突然、こいし達の目の前に巨大な液晶モニターが出現する。そこには大きく《十六夜咲夜の場合》と書かれていた。その横には咲夜の顔が映っている。
『そうだな……まずはこの子の夢から見ていこう』
「咲夜の……理想の夢……」
 エンペラーが合図を送ると、突然こいしの身体が砂嵐で歪むTV画面のように歪み始めたのである。こいしは悲鳴を上げる事も出来ず、そのまま液晶の中へとズルズル引き摺り込まれてしまった。
 ……。

《十六夜咲夜の場合》

「咲夜の……望んでいる夢って……これ?」
 液晶の中へと吸い込まれ、最初にその目に映ったのは、大きな丸い氷の塊であった。奇妙な事に、氷の中には咲夜がいた。これは、咲夜の夢。それも、彼女が心から望む、十六夜咲夜の理想の夢の世界だ。こいしは寒気を感じた。妙に寒い場所だ。
 周りを見てみると、そこは見覚えのない一室であった。ここは紅魔館ではない。小さなベッドに、テーブル、クローゼット、有り触れた家具によって囲まれている。テーブルの上には一人分の食事が置いてある。まるで、先ほどまでここに誰かが住んでいたかのような雰囲気だ。そして、その全てに氷が張ってある。肺と喉がヒリヒリと痛むほどの冷気が充満している。しかし、それは「死」の寒さではなく、あくまでこの部屋に存在する生命を停止させるための、妙な言い方をすれば「温かみのある冷たさ」であった。
壁には窓があった。こいしは窓の外を見る。そこは、幻想郷ではない、それどころか、そもそも日本でもない。古臭い外国の街であった。女性はドレス、男性はフロックコートを着ている。十九世紀のロンドンのような光景であった。
 再びこいしは部屋に視線を移す。外の世界は問題なく機能しているのに、この部屋だけは全てが凍っている。こいしは首を傾げた。部屋の中央に鎮座している大きな氷塊に近付き、その中で目をつむり、石像のように固まってしまった咲夜を凝視した。そこである事に気が付く。凍った咲夜の横に、彼女が愛用している懐中時計があった。咲夜と同様、氷の中に閉ざされ、その秒針は固い沈黙を保っていた。まるでこの部屋だけ、全ての時間が止まったみたいだ。
『……彼女の望んだ夢は、自身の『凍結』である』
「と、凍結……?」
 エンペラーの言葉で、こいしは更に混乱してしまう。ここは、対象者の願う事全てが叶う場所だ。それなのに、咲夜は氷の中に閉じこもっている。一体どうして、咲夜はこんな夢を望んだのか?
『彼女の記憶を読み取ってみたが……どうやら彼女は外の世界、つまり幻想郷に来る前の時代の事を、何やら深く悔やんでいる様子だ。それが何かは判明しなかった。しかし、彼女の記憶の中には、この時代のこの場所がとても色濃く、根強く存在している。後悔、というのか……いつまでもこの場所を忘れられない様子だ。詳しくは分からないが、彼女は、ここで何かの罪を犯したのだろう』

『十六夜咲夜が望んでいる物、それは贖罪だ』

 こいしは悲しそうな表情で咲夜を覆っている氷に手を伸ばした。恐ろしいほどに冷たかった。しかし、僅かに、微かに咲夜の鼓動を感じた。こんなにも硬い氷の中で、咲夜は確かに生きている。
『彼女にとっての贖罪が、自身を凍結させる事なのだ』
 氷の中で、咲夜は瞳を閉じていた。何らかの拍子に目覚め、今にも起き上がりそうなのに、こいしは不思議と「それはあり得ない」事が分かった。咲夜は目を覚まさない。ずっと、この冷たい氷の中で、何も言わず、何もせず、何も感じずに過ごすのだろう、と。
「咲夜が可哀想だよ! お願いエンペラー! 咲夜を起こして!」
 こいしがエンペラーに懇願する。しかし、エンペラーは困ったように咲夜を覆う氷を見つめた。
『……我々は強制していない。あくまで、彼女が望んだ夢をそのままデータとして彼女の脳に送信しているだけだ。もしこの夢を拒絶したいと思うのなら、彼女は独りでに現実世界で目を覚ます筈だ。だけど彼女は今、この夢を心の底から受け入れている……十六夜咲夜は、この氷の中にいる事を自ら望んでいるんだよ』
「そ、そんな……そんなの、何が幸せだっていうの……?」
『分からない。人の欲望というのは、それこそ人の数だけ存在する問題だ。彼女にとっての幸せは、我々の理解の外にある』
 こいしは、咲夜の傍で凍っている懐中時計に目をやる。時間は動かない。今の咲夜と一緒だ。もうこの時計は時間を刻まない。咲夜は、十六夜咲夜は完全に凍結してしまった。咲夜はまるで、母胎の中で誕生を待つ胎児のように、身体を丸めている。いや、違う。
この少女は、産み出される事を恐れているようにも見える。
「咲夜……目を覚ましてよ……紅魔館の皆が心配しているよ……」
 無論、こいしの声は咲夜の耳には届かない。そこで、こいしの目の前に先ほどの液晶画面が唐突に出現する。そこには、《霧雨魔理沙の場合》と表示されていた。
『では、そろそろ次の夢へと移動しよう、こいしちゃん』
 つまり、次は魔理沙の夢だ。そこで、こいしは思った。
(そ、そうだ! 魔理沙なら、魔理沙なら何とかしてくれるかもしれない……魔理沙に、咲夜を起こしてもらおう!)
 こいしが頷くと同時に、エンペラーが合図を送る。先ほどと同様に、こいしとエンペラーの身体がぐにゃりと歪み、細く伸ばされて液晶の中に吸い込まれていく……。

《霧雨魔理沙の場合》

 視界が暗転し、一瞬で景色が入れ替わる。ここは建物の中だ。それも、先ほどとは打って変わって広々としている。
 そこは大勢の人間達でごった返していた。随分と賑やかな場所であった。まるで何処かのお屋敷でパーティが開かれているみたいだ。人間だけではない。妖怪やら魔女やら、様々な種族がこの会場に集まっている様子である。中には見覚えのある顔ぶれもあった。ここに集まっているのは幻想郷の住民達だ。こいしとエンペラーは人混みを掻き分けながら魔理沙の姿を探した。すると、広い会場の中でも一際賑やかな人だかりが出来ているのが見えた。こいしとエンペラーが近付くと、その人々の中央に、霧雨魔理沙がいた。
「ま、魔理沙!」
 こいしは喜びの表情を浮かべ、魔理沙に手を振った。しかし、魔理沙はそれを無視し、周りにいる人々に笑顔を浮かべて挨拶をしていた。こいしはムッとした表情になり、少々強引に魔理沙の方へと近付く。そこで、誰かが甲高い声で叫んだ。
「魔理沙さん! 一言お願いします!」
 それはマイクを持ったインタビュアーが放った言葉であった。こいしは一瞬キョトンとした表情になる。すると、魔理沙は普段見せないような柔らかな表情でマイクに向かって話しかけた。

「今日は、私の為に集まってくれてどうもありがとうございます」

 その瞬間、何処からともなくクラッカーが音高く鳴らされた。魔理沙の一言により、その場は拍手喝采の嵐が巻き起こった。途端に、会場の奥に広がるステージに楽団が登場し、うるさく、調子のいい音楽を奏で始めたのである。ステージには垂れ幕が――。

 そこには『霧雨魔理沙、偉業達成!』と書かれてあった。

「……え、ナニコレ……?」
 こいしは呆れた様子で魔理沙を見つめた。そんな視線にも気付かず、魔理沙は自身に集まってくる人々に笑みを浮かべて話しかけていた。否、話しかけているのではない。魔理沙が何を言わずとも、周りが魔理沙に近付いて質問を投げかけている。中には質問ではなく、ただただ夢中になって魔理沙への賛辞を述べる者も。それら一人一人に、魔理沙は屈託のない笑みを浮かべて応えていた。
『ふむふむ……彼女の願望は実に分かりやすい』
 エンペラーは会場の隅に置かれていた新聞を手に取って読んでいた。こいしもエンペラーに引っ付き、その記事に目を通す。
 そこに書かれていたのは、魔理沙が「魔法使い」になる事に成功したという内容の記事であった。だが妙な事に、具体的な事は何一つ書かれていない。そもそもこの記事自体が全体的に稚拙な文章であった。魔理沙がどういう過程を経て、どういう方法で、どのような結果を残したのか、一切分からないのだ。その記事に書かれていたのは、「とにかく魔理沙は努力をした」という内容が延々と書き綴られているばかりであった。

『彼女の願望は、努力に対する正当な「評価」だ……』

 新聞記者達が魔理沙を取り囲み、カメラのフラッシュを激しく焚きまくる。魔理沙は心底ご機嫌な様子でそれに応える。その様子は、達成感による嬉しさと、身の丈に合わない優遇に対する一種の恐ろしさが入り混じっていた。魔理沙は色めき立った目で、自分の為に祝福してくれている人々の顔を眺めていた。こいしは思った。

 夢が叶った人間って、本当にこんな顔をするのかな? と。

 こいしは当初の目的を思い出した。早くこの夢から魔理沙を解放しなければ、そう思い、こいしは魔理沙の付近に集まった人々を強引に押しのけ、魔理沙の目の前まで近付く。その時に気付いたが、魔理沙はいつもの魔女を模した白黒の服ではなく、上等な高級スーツを身に纏っていた。ギラギラと輝く腕時計、金のカフス、絵に描いたような成功者の服装であった。こいしは慌てて魔理沙の裾を掴んだ。
「魔理沙! 目を覚まして! ここから出なきゃ!」
 しかし、魔理沙はこいしの方に一瞥くれただけで、その場から動こうとはしなかった。こいしの事を無視し、再び記者達のインタビューに応じる。こいしが心底傷付いた表情を浮かべる。
 すると、遠くの方から二人の少女がやって来るのが見えた。それは、魔法使いであるパチュリー・ノーレッジとアリス・マーガトロイドである。二人共、見慣れないドレスを着ていた。何よりも違うのは、その表情だ。二人共、心から魔理沙を尊敬しているような目つきをしていたのである。それに気付いたこいしは急いでアリスに取りすがった。数時間前に、こいしはアリスに強く叱責を受けている。しかし、そんな事もお構いなしであった。もう、頼れる人がいない。この人なら、魔理沙の目を覚ましてくれるかも、という淡い期待を込め、こいしはアリスに向かって叫んだ。
「アリスさん! 魔理沙の目を覚ましてよ!」
 しかし、アリスは残念そうな目でこいしを見つめた。
「ごめんなさいね。今は、魔理沙を褒めてあげたいの……」
 そう言いながら、アリスとパチュリーは魔理沙の方へと近付き、丁寧にお辞儀をして見せる。魔理沙はとても喜んでいた。
「魔理沙……ついにやり遂げたのね」と、パチュリーが言う。
 何を?
「魔理沙、素晴らしいわ」と、アリスが言う。
 何が?
 魔理沙は感極まり、思わず涙ぐむ。周りから暖かな拍手が送られる。アリスが随分と楽しそうに魔理沙にハンカチを渡す。
「ありがとう……二人共、私、頑張ったんだ。二人に追いつきたくて、魔法の研究を頑張ったんだよ。良かった……努力を続けて、本当に良かった。ありがとう……ありがとう……」
 ステージの方から人々の涙を誘うようなBGMが流れてくる。会場全体が、魔理沙を祝福している。こいしが、そこでブチ切れた。

「魔理沙ったら、いい加減にしてよ! 魔理沙は別に「偉人」じゃないでしょ! 魔理沙は、まだなにも成し遂げてないじゃない! 現実をちゃんと見てよ! 魔理沙は、ただの人間なんだよ!」

 ただの人間だから、霧雨魔理沙はカッコ良いのに!

こいしは顔を真っ赤にしながら力説するが、誰もこいしの言葉に耳を貸そうとしない。誰もが霧雨魔理沙に夢中になっていた。魔理沙自身も、そんな人々の甘い言葉に酔いしれている様子であった。こいしは落胆する。こんな魔理沙、見たくなかった、と……。
『ふむ、この子の夢は実に人間らしい、素直で眩い願望だ。好感が持てる。願いの成就、周りからの承認、そして、何よりも今まで自らが積み上げてきた努力に対する報酬……こいしちゃん。この魔理沙という子から、この夢を取り上げたいと思うかい?』
「だけど……こんな、夢の中の栄光なんて、何も嬉しくない筈だよ。魔理沙はきっと、こんなの望んじゃいないよ……」
『だが、彼女はこの世界が「夢」だと気付かない。「現実」を受け入れず、この世界に留まる事を心から望んでいる……』
 こいしとエンペラーはしばらく会場の隅に座り、魔理沙の様子をじっと観察していた。しかし、いつまで経ってもパーティは終わりそうにない。魔理沙はいつまでも外面の良い笑みを浮かべて、人々の賛辞を受け続けていた。仮想のヒーローインタビューはいつまでも続いた。……流石に、このままでは埒が明かない。
 そう思っていると、再び二人の目の前に例の液晶画面が現れた。そこには《博麗霊夢の場合》と書かれている。霊夢という文字を見て、こいしは一瞬だけ喜びの表情を浮かべたが、それと同時に不安を覚えた。博麗霊夢、幻想郷の巫女、そんな彼女が咲夜や魔理沙のように夢の中に囚われていたら、もうどうしようもない。打つ手が無くなってしまう、という事だ。
「いや……こんな弱気になっちゃ駄目だ! 私は……霊夢を信じるんだ……霊夢なら大丈夫って、信じなきゃ!」
すっかり弱ってしまった自分に対し、こいしは元気な声を出す。無論、空元気という奴であった。こいしがエンペラーに頷く。再び、二人は画面の中へと吸い込まれていく。こいしは両手を組んだ。まるで神様に祈るように。どうか、霊夢は「大丈夫」でありますようにと願いながら、こいしは霊夢の夢の中へと転送される……。

《博麗霊夢の場合》

 そこは、博麗神社であった。
 こいしが神社の敷地に降り立った瞬間、こいしは賽銭箱の前に座る霊夢と目が合った。意外と呆気なく霊夢の姿を見つけたので、こいしは若干驚いてしまった。しかし次の瞬間、霊夢は更に驚くべき事をこいしに言い放ったのである。
「あら、あなたは……地霊殿の……こいしちゃんじゃない?」
 霊夢がいつも通りの様子でこいしに語りかけてきたのである。こいしはハッと息を呑み、霊夢の元へ駈け寄り、彼女の腕を掴む。
「れ、霊夢! 霊夢は、大丈夫なの……?」
「んー? 大丈夫って、何の事?」
 霊夢が普段の調子で暢気に首を傾げる。途端にこいしの表情が明るくなった。霊夢はまともな様子だ。霊夢の腕には境内を掃除するための竹ぼうきがあった。いつも通りの光景であった。こいしは安心してしまった。どうやら、霊夢は大丈夫だったんだ、と。
「霊夢! 今すぐ私と一緒に来て! 一緒に、咲夜と魔理沙を起こすのを手伝って! ほら、早く……っ!」
 こいしは捲し立てながら霊夢の腕を引っ張ろうとする。
「ちょっと、ちょっと! 一体どうしたのよ……何をそんなに慌てているの? とにかく、説明してちょうだいよ!」
 何が何なのか分からないといった様子で、霊夢はこいしの手を取った。その顔を見て、こいしは確信した。霊夢だけは、夢の影響を受けなかったんだ、と。咲夜や魔理沙と違って、霊夢はいつも通り、幻想郷の巫女としての使命を忘れてはいない。
「良かった……霊夢は無事だったんだ……良かった……っ!」
 こいしが霊夢の身体に抱き着く。霊夢は困惑と同時に若干恥ずかしそうな表情を浮かべた。その時、何処からともなく足音が奥から聞こえてきた。二人の元に誰かが近付いてくる。一体誰だろうかと、こいしは足音のする方を見た。……どうも見慣れない人物であった。こいしと同じように霊夢も足音の主に顔を向けた。そして――。

「……あ、お母さん。おかえりなさい」

「ただいま、霊夢」
こいしは、全身の血が冷たくなっていくような錯覚に陥った。霊夢と同じく、大人用の立派な巫女服を着た女性であった。霊夢と同じ、艶のある長い黒髪である。顔立ちも、霊夢とそっくりだ。何より、こいしは彼女の瞳を見て、彼女が霊夢の「母親」なんだと理解した。こいしは、崩れ落ちるようにその場に膝を付いた。

 博麗霊夢に、母親はいない。

 結局、霊夢も、エンペラー達の夢を受け入れてしまっていたのだ。
「ねぇ、お母さん! 今日の晩御飯は何にする?」
 何よりも絶望的だったのが、母親に対する霊夢の態度であった。母の存在に何の疑問も持たず、無邪気に、とても嬉しそうに母親と接している。霊夢に母親はいない。そんな事実など、一切忘れてしまったかのように……。
「ね、ねぇ……霊夢……霊夢ぅ……ッ」
 こいしが泣きそうな表情で霊夢の名を呼んだ。霊夢はいつも通りの様子でそれに応じた。この空間、霊夢自身には本当に何の問題もない。ただ唯一異質なのが、この母親だ。こいつは、一体誰だ?
 霊夢にお母さんなんていないでしょう?
 ……なんて、こいしは、霊夢には言えなかった。母親に向けて一人の小さな子供のように無邪気に笑う霊夢の顔を見ると、何も言えなくなってしまうのだ。どうすればいいのか分からず、こいしはその場に顔を伏せて泣いてしまった。
「ちょっと、どうしたのよ?」
 霊夢が慌ててこいしの方へ歩み寄ってくる。「大丈夫?」なんて言いながら、優しくこいしの背中を擦る。それが温かくて、それが柔らかくて、こいしは更に激しく泣きじゃくってしまった。
 すると、今度は霊夢の母親がこいしの方に近付いて来た。母親は心配そうな顔でこいしを見つめ、霊夢と同じく、優しくこいしの肩を抱いた。「おーよしよし、もう泣かないで」と言いながら、こいしを落ち着かせようとする。霊夢と同様って訳ではないが、こいしには「母親」と呼べる存在がいなかった。物心ついた時から、古明地さとり、姉と二人きりであった。だから、霊夢の母の温かみが何だかとても安らかに思えたのだ。散々泣き喚いた後に、こいしは母の腕に抱かれながら、ゆっくりと息を吸い込んでいく。
「大丈夫? もう落ち着いた? 何処か痛い所はない?」
 まるで我が子を心配するかのように、霊夢の母はこいしに問う。こいしは無言のまま首を振って応えた。
「そっか、偉いね、こいしちゃん……」
 何だか、とても面映ゆかった。母親がどんな存在なのか今まで知らなかったから、こいしは何だか気恥ずかしくなって、母から顔を逸らしてしまった。母は、とても楽しそうに笑った。
 その時である――。
「……っ!」
 神社一帯に歪な怪物の叫び声が轟く。突然、神社に巨大な体躯を持った妖怪が現れたのだ。突然の事にこいしは怯えた声を上げ、すぐそばにいた霊夢に抱き着いた。
 すると、霊夢の母親がおもむろに立ち上がり、妖怪の方へと歩み出したのである。この光景に、こいしは何らかの違和感を覚えた。妖怪が鋭い爪を伸ばし、母に向かって振りかざす。しかし、母は人間の動きとは思えないスピードで妖怪の攻撃を躱したのである。大きく隙が出来たと思いきや、母は御札を手に取り、妖怪に目がけて容赦なく叩き付けた。弾幕ごっこで霊夢が使う御札である。途端、妖怪は甲高い叫び声を上げ、苦しみながら逃げ出してしまった。こいしはホッと息を吐いた。それは、すぐそばにいた霊夢も同じであった。そこで、こいしは違和感の正体に気付いた。

 これって、霊夢の仕事なんじゃないの?

「流石お母さん! お母さんがいれば、幻想郷は安心ね!」
 やはりおかしい。いつもなら、霊夢の方が率先して妖怪の前に立ち塞がるはずであった。だというのに、霊夢は何もせず、ただ黙って母親が戦うのをじっと見ているだけであった。普段の霊夢だったら考えられない事だ。こいしは、ゆっくりと霊夢から離れた。すると、霊夢は勢いよく立ち上がり、母の元へと駆け寄った。そして力いっぱい抱きしめ、心の底から甘えた様子を見せるのである。
「そうね、霊夢……どんな異変が起きようと、お母さんが守ってあげる。あなたも、そして、この幻想郷も……」
 こいしは、堪らない気持ちになった。
「おかしい……おかしいよ……こんなの。霊夢、それは、霊夢の役目でしょう? どうして、その人にやらせるの? 幻想郷を守るのは、霊夢でしょう……なのに、どうして……?」
 こいしのか細い声は霊夢に届かない。霊夢は心から幸せな表情を浮かべていた。母は、そんな霊夢を優しく抱きしめた。この世に、本当に「幸福」の二文字が存在するなら、まさにそれは今、こいしが見ているこの光景の事を言うのだろう。
「お母さん……私、お母さんとずっと一緒にいたい。離れたくないよ……。私は……お母さんが、大好きだから……」
 照れるような素振りもなく、霊夢は母を真っ直ぐ見据えながら言う。母はその言葉を柔らかく受け止める。一生一緒、というのは産みの親であろうと、いや、親だからこそ難しい物だ。だが母は、何の根拠もなく、霊夢に向かって優しく頷く。

「ええ、霊夢……ずっと一緒よ……」

 こいしは、「ずっと」という言葉がどれほどヤワな存在なのかをよく知っている。こいしはほんの少し前に、早苗が何気なく言い放った「ずっと」という言葉に裏切られたばかりだ。だが霊夢は、その「ずっと」を何の疑いもなく信じた。ずっと、母と一緒にいられる。それが嬉しくてたまらない様子であった。
 そこで、物陰からいきなりエンペラーがボンッと弾みながら登場し、こいしちゃんの元へと近付いてくる。
『……人間、というより、生物として正しい願いだよ、これは』
 母親に甘える霊夢の姿を見つめながら、エンペラーは呟く。

『博麗霊夢、あの子の願いは、純粋な「愛情」だ。母親からの掛け値なしの愛情を、あの子は何よりも欲しているんだ』
 
 それは、こいしにも理解出来た。もう会えない家族との再会。それが、どれほど輝かしく、どれほど遠い物なのかをこいしは知っている。故にこいしは、霊夢の望んだ世界を頭ごなしに「偽物」と言い捨てる事が出来なかった。幸せそうな霊夢の表情に、一体何を言えばいいのか分からなかった。先ほどまで、早くこの夢から目覚めてほしいと願っていたというのに、こいしはもう、夢から覚めなくてもいいんじゃないかと思い始めていた。霊夢にとって、それが何よりの幸せだというのなら、何年も、何十年も、ずっとこの夢が続けばいい。それが、霊夢の幸せ、霊夢の救いになるのであれば……。

 こいしは敗北した。
この忌々しい空想を、否定する事が出来なかったのだ。

こいしはすっかり元気をなくし、悲しげな表情でエンペラーを見つめた。こいしには、正解が分からなかった。こいしの答えは単純だ。人間は、あくまでも現実の世界を生きなければならない。甘くて優しい、仮想の幸せにいつまでも甘えちゃダメなのだ。
 だが、実際はどうだろうか? こいしは、咲夜、魔理沙、霊夢の夢をその目で見てきた。三人共、その理想的な夢を受け入れ、心から幸せそうに過ごしていた。このまま、三人は夢の中で生きていくのだ。誰にも邪魔されず、各々が望む世界で……。
 ・・・
 夢から覚めたこいしは、頭に装着したヘルメットをゆっくりと外す。ヤマシタ達がぴょこぴょことこいしの周りを取り囲んでいる。こうして集まるとクッションのようで心地良かった。
『どうだったかな……あの三人の夢は……それぞれ形は違えど、三人は心から望んだ夢を見ている。それを夢だと気付かずにね』
「うん……咲夜も、魔理沙も、霊夢も……三人共、これじゃあいつまで経っても起きないよ……ずっと、ずっと……」
 こいしはポロポロと涙を流した。もう、自分だけでは三人を夢から連れ戻すのは不可能だと思った。諦めの涙であった。エンペラーが無言でこいしに鼻セ〇ブを手渡す。何でここに鼻〇レブがあるんだよ。こいしが勢いよく鼻をかむ。チーンと。すんすんと鼻を赤くしながら、こいしはエンペラーに問いかけた。
「エンペラーはこのまま、地球にいる全ての人達を眠らせるの?」
『……いや、これはあくまで一つの案に過ぎない。人々にとってこの作戦が「正しい物」ではないと思ったら即座に中止するつもりだ。そもそも、我々がこの星に来た目的はあくまでも観測だからね』
 しかし……、エンペラーはそう呟きながら、眠っている霊夢達が映っているモニターを見つめた。三人共、とても穏やかな寝顔を浮かべていた。この画面に映っていないが、別室にいる早苗も恐らく同様の表情を浮かべているのだろう。こいしは、夢と現実、どちらが「正しい」のか判断が出来なかった。しかし、三人の様子を見れば、どちらがより「幸せ」なのかは明らかであった。
『この地球を豊かに保つ上で、どうしたって人間は「害」になってしまう。我々が何とかしないと、いずれ人間達は自らの星を破壊しかねない。……これが、最善の一手なんだよ、こいしちゃん』
 モニターが拡大される。咲夜、魔理沙、霊夢の順で顔が映される。自分という存在が今まさに「保管」されている事も知らず、夢の中で、そこを「現実」だと思いながら、安らかに眠り続けている。エンペラーの言う通り、全人類がこの三人のように眠りに入れば、この世界から「破壊」の一切合切は完全に失われるだろう。
「……やっぱり、おかしいよ。こんなの……」
 しかし、それでも……。
『……あの三人も、同じ意見だと思うかい?』
 こいしは、真顔でエンペラーを見つめた。そこには迷いも恐怖もなかった。在るのはただ一つ、底知れぬ無意識だけであった。
「やっぱり、良くないよ。こんなの」
 こいしは落ち着いた様子で、エンペラー達の計画を全否定した。誰もが幸せになれる、『全世界空想覚醒』を、真っ向から否定したのだ。これにはエンペラーも困惑してしまった。
『他の人類も同様だ。我々に全てを委ねれば、この星に住む全ての人間に、望んだままの世界を与える事が出来る。そうすれば、この星に争いはなくなる。もう誰も泣かない世界が完成するんだよ。それでも、こいしちゃんは、それを否定するのかい?』
 こいしは力強く頷いた。第三の瞳が悲しげに揺れる。
「……あなた達がどんな研究をしてきて、どんな答えを導き出したのかは分かんない。だけど、多分、人間はそんなに悪い生き物じゃないと思うんだよ……咲夜も、魔理沙も、霊夢も、それに……」
 こいしは、早苗と過ごした数日間を思い出していた。もう一度、早苗と遊びたいと願った。今度は、無意識を操る能力なしで、現実と現実で、現実の世界で、たとえそれが叶わない願いだとしても。
 早苗はもう、こいしを見つける事は出来ない。それでも――。
「私は、これが正しい事だとは思わない。理想とか幸せだとか、それよりも、もっと大切な事がある筈だよ。よく分かんないけど」
 最後らへんで妙に気弱になってしまうこいしであった。エンペラー達は心底困ったような様子でうんうんと唸り始める。他のヤマシタ達と同様にボンボンとバウンドしながらこいしの周りを回りだす。そしてしばらく経った後、エンペラーはボソッと呟いた。
『しかし、それでもやはり人間は恐ろしい生き物だ』
 こいしは悲しい顔を浮かべた。そこで、何かを決心したように、エンペラーはこいしに語りかけた。
『……本当は教えるべきではないけれど、そこまで言うのなら、こいしちゃんにも教えてあげようじゃないか。人間が本来どれほど恐ろしい生き物なのかを……本当の人間の恐怖を。そうしたら、きっと君も思うはずだ。人間は、皆、眠り続けるべきだと……』



『……あの「水晶のような夜」は、二度と起こってはならない』


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