第一章『UMAハンターこいし爆誕!』
この世には人類の想像を凌駕する驚くべき生物がいる。人知を超えた存在、全ての謎がベールによって包まれている、誰も見た事のない生物。人はそれらを未確認生物(UMA)と呼んだ。
それは人類に破壊をもたらす悪の化身か、はたまた幸福を呼ぶ天使か、全知全能の神なのか、地域、宗教、価値観、それらの善悪は見る側の立場によって左右される。ビッグフット、チュパカブラ、ネッシーなど、化学では到底説明がつかない、まさに奇跡のような生き物達だが、現代においてそれらは「空想上の生き物」と呼ばれ、人々からその存在を否定されようとしていた。
「そんなの、いる訳ないでしょう」
と、幻想郷の妖怪賢者である八雲紫は語る。その話を聞いていた白玉楼の亡霊、西行寺幽々子はその通りだと思った。
そう、この世にそんな不思議な生物などいる訳がない。紫と幽々子はそんなおとぎ話を信じるような子供ではない。だが、どういう訳かこういうオカルトな話はいくつになっても楽しい。二人はそのまま人里の居酒屋で酒を飲み、語り合い、さらに後から鬼の伊吹萃香を呼び出してそのまま二次会へと向かった。彼女達の言う通り、未確認生物など、この世には存在しないのだ。そうだね。
だが、その神秘のベールに包まれた生物達の謎を解明し、その存在を白日の下に晒す為に、とある一人の少女が立ち上がったのである。その少女の名は古明地こいし! 人は彼女を『UMAハンターこいし』と呼んだ! 勝手にやってろ!!
・・・
ある日の事、天気は晴れ、曇り一つない空である。
妖怪の山の麓にある守矢神社にて、緑髪の少女、東風谷早苗が宗教活動の一環で守矢神社のテーマソング『ジャスティス☆フォーエバー』の作詞をしていた時の事である。大サビの一か所を「守矢神社フォーエバー♪」にするか「ファンタステック・フォーエバー♪」にするか迷っていた時、ふと、居間で何もせずただボケーっと虚空を見つめる作業をしていた八坂神奈子が早苗を広間へ呼び出したのだ。八坂神奈子、守矢神社にて祭られている山の神である。好きな言葉は「日帰り」で、嫌いな言葉が「車中泊」である。枕が変わると眠れない体質で、最近は疲労の為か布団がやけに重く感じるらしい。そんな状態で車の中で寝るなんて拷問に等しい。
「おーい早苗、ちょっと話があるんだが」
神奈子に呼び出され、早苗がいつものように元気よく返事をする。ちなみに、大サビの部分は「ファンタスティックフォーエバー♪」に決めた。こっちの方が何となくしっくり来たからである。そのせいでもう守矢神社全然関係なくなってしまったけどね。
「神奈子様、何か御用でしょうか?」
「まあ、ちょっとな。とにかく早苗、こっちに来て座りなさい」
まるでジジイが孫とスキンシップを図るかのような口調であった。早苗は「?」と首を傾げながら、言われた通り神奈子の前に正座した。胡坐をかいていた神奈子がジッと早苗を見つめている。
「……」
しかし、神奈子は何も言わず、真正面にいる早苗の顔を凝視し続けるばかりであった。いつも物言いがはっきりとしている神奈子にしては珍しい事であった。早苗は思った。「多分、何かある」と。早苗がまだ外の世界に住んでいた時、神奈子がいきなり「おい幻想郷行こうぜ」と言い出した時もまさにこんな感じであった。大学の先輩が「おい海行こうぜ」って言うのとほぼ同じノリであった。嫌な予感がした。静か過ぎて遠くから小鳥の囀りが聞こえる。
「早苗、最近のお前は少し精神的に緩みが目立つな」
「え……?」
神奈子は穏やかな表情のまま、少し鋭い口調で早苗に告げた。早苗は困惑した。それもそのはずである。神奈子は少々怒りっぽいところもあるが、誰かに上から目線で説教をするのだけは何故か昔から嫌いだった。神奈子の嫌いな物リストの五番目辺りに「飲み屋で若者にくどくどと説教する事」と書いてあるほどである。ちなみに、一番は「いちいち動作音がデカい奴」と書いてある。歩く音とか扉を閉める音が無駄に大きい奴が嫌いらしい。本当に嫌いらしい。
「最近、ちょっと弛んでいるんじゃないか?」
「そ、そんな……自分で言うのも何ですけど、私これでも結構真面目に頑張っている方だと思うんですけど……」
その実、早苗は神社での家事はそつなくこなしている。人里での布教活動も熱心に取り組んでいる方である。だが、神奈子は柔らかくも厳しい表情で話を続けた。
「いいか、早苗? この幻想郷は人と妖怪が暮らす場所だ」
「はい……それは分かっていますけど……」
「早苗、お前はいずれ幻想郷の守護者である博麗霊夢を倒し、この里を統治する使命を背負っているんだぞ?」
「そうなんですかッ!?」
そんな使命が課せられているなんて聞いた事が無い。早苗が思わず声を荒げる。すると、隅っこでずっと足の爪を切っていた洩矢諏訪子が二人の方へ振り向いた。
「えっ、そうなのッ!?」
早苗と諏訪子にとってそれは初耳であった。神奈子が極めて正常な様子で「せやで」と応える。その不自然な態度で、早苗はすぐにこれは「冗談」であると気付いた。長年一緒に過ごさないと分からない事であるが、神奈子はたまに平気な顔でとんでもない冗談を言う時がある。あまりに剣呑過ぎる。早苗の嫌な予感は的中してしまった。こういう時、神奈子はロクな事を考えていない。
「とにかく、えー、まぁそういうアレな訳だから、そういうアレだから、早苗は少々妖怪や怪物に疎いと思ってな、それは由々しきアレだと思ったんだよ。早苗って最近アレだもんな、アレ」
「ど、どういうアレですか? た、確かに私は霊夢さん達に比べて妖怪に対する知識はまだまだ乏しいですけど……」
指示語だけで会話するのはあまりにも疲れる。早苗は少々慌てた様子で弁解する。彼女は予感していた。早苗の経験上、こういう時の神奈子様は高確率で涼しい顔をしながら「変な命令」をしてくるのだ。例を上げるなら、急に空を見上げながら「空に船が飛んでいるから落としてこい」とか、「地面に潜って神霊を集めてこい」とか、「何かアレだから月に行ってこい」とか、事あるごとに早苗は散々な目に遭ってきている。言われる側は堪ったものではない。
「そこでだ……妖怪、怪奇と呼ばれる存在への理解を深めるために、今日は早苗に一つ、試練を与えようと思う」
「試練、ですか……?」
「その内容は、どぅるるるるるるる……じゃん!」
「うわあああああドラムロールを口でしないでください! 唾が飛びますから!」
神奈子が「じゃん!」って言った瞬間、突如空中に大きなテロップが出現する。まさに神の力である。こんなくだらない事で神の業を使わないでほしい。テロップの内容はこうだ。
『スカイフィッシュを捕獲せよ』
「す、スカイ……フィッシュ……?」
聞き慣れない単語に、早苗は困惑の表情を浮かべた。
「説明しよう!」
すると突然、先ほどまで隅っこでずっと足の爪を切っていた洩矢諏訪子が二人の会話に入ってきた。「うわ急に入ってきた」と早苗は若干ビクッと肩を震わせた。
「スカイフィッシュとは、長い棒状の身体を持ち、空中を高速で移動すると言われている一種の『未確認生物』の事だよ」
「うわはははははははははは!」
諏訪子の説明を受け、突然、何故か早苗は大爆笑する。
「……え? 何がそんなに面白いの?」
諏訪子は困惑の表情で早苗に問う。もっともな疑問である。
「いや、え? ちょっと待って。本当に、今の説明の何がそんなに面白かったの? 怖いんだけど」
「……すいません。本当に何一つ面白くないのが逆に面白くて」
諏訪子の説明のとおりである。スカイフィッシュとは文字通り空中を「泳ぐ」魚、未確認生物である。棒状の姿で、両脇には魚のヒレのような物が生えている。
このスカイフィッシュの存在が世間で認知されるようになったのは、1994年、アメリカのニューメキシコ州ロズウェルにて、ホセ・エスカミーラ氏が撮影したビデオ映像に偶然その姿が映っていた事から始まる。しかし、現代においてその存在は大きく否定されており、検証によって証拠映像のほとんどがその映像に映り込んだハエや小さな虫がモーションブラー効果によって細長い棒状のように姿が伸びているように見えるだけという結果が出ている。
「……という訳でな、今から早苗には幻想郷に生息する、そのスカイなんとかを捕まえに出かけてもらう」
神奈子が極めて真顔で告げる。早苗が「い、今からですか?」と狼狽して見せるが、神奈子は相変わらず何を考えているのかよく分からん表情で頷くばかりであった。
「行っておいで早苗」
諏訪子が笑みを浮かべていた。
「行っておいで早苗」
諏訪子に合わせて神奈子が重ねて言う。この時点でハッキリした事がある。この企画に一体どういう目論見があるのかは知らないが、どうやらこの二人はグルのようだ。二人して早苗を「スカイフィッシュ狩り」に駆り出そうとしている。
「捕まえるまで帰ってくんなよ」
神奈子が物凄く非情な事を言う。
「ちょちょちょ……待ってください! お願いですから待ってください。少しでいいから何も言わないで下さい!」
流石にこれ以上お二人に勝手な事を言わせてなるものかと、早苗は途中で口を挟んで二人の「行っておいで早苗」コールを阻止する。分かりきった事であるが、早苗は無論この件に関しては全然乗り気ではない。乗り気であってたまるか。当然、そんな訳の分からない生き物を好んで探しに行くシュミなんて早苗にはない。
「どういう事情があるのか知らないですけど……いくら何でも無茶振りが過ぎますよ! 私が何をしたって言うんですか? というか何でそんな事をしなくてはならないのですか?」
「まぁ分からん」
早苗の疑問に、神奈子が即答する。まぁ分からんって。
「え、じゃ、じゃあやめましょうよ……? やめましょうっていうか、やめてください。試練とかじゃないですよコレ。凄まじい悪ふざけですよ。なんで私がそんな、存在するかもわからない生き物を捕まえに行かないといけないんですか? 天気良いのに」
こんな天気の良い日は神社に籠ってずっと日向ぼっことかしてダラダラしていたい、というのが早苗の本音であった。出かけるにしたってそんな意味の分からない理由で出かけたくない。どうせ外に行くなら日当たりのいい場所でバドミントンとかしていた方がよっぽど有意義である。
「観念しろ。観念するんだ早苗」
しかし、どういう訳か神奈子は一歩も退かない。意地でも早苗をスカイフィッシュ狩りに行かせたいらしい。何故か、何処となく嬉しそうな表情を浮かべて早苗に詰め寄る。そこで、早苗はふと、「ひょっとしてこれは新手のイジメなのでは?」と思った。
「……ひょっとして、これはいじめなんですか?」
早苗は恐る恐るといった様子で神奈子と諏訪子を見つめながら問いかけた。すると、神奈子が突然怒りの表情を浮かべたのである。鋭く早苗を睨み、力強く彼女を一喝する。
「愚か者ッ!」
え、何なの? と早苗は顔を青くする。無理もない。今のところ早苗は何一つ悪い事をしていない。それなのに何故ちょっと強い感じで怒られなきゃいけないんだろう? という疑問を胸にそっと閉じ込めながら、早苗は両目を見開いて神奈子を見つめ続けた。
「……っていう、ね」
神奈子が、何か耳からため息が出そうな表情で早苗から視線を逸らす。「そういうところ、だよね」と言い、チラチラと失望の眼差しを早苗に向けながら寂しそうな笑みを浮かべていた。
(え、何なの?)
早苗の頭に浮かぶ言葉はただ一つ、そう、「何なの?」である。本当に、神奈子はどうしちゃったんだろう?
「あの、神奈子様……えっと、何なんです?」
「いや、まぁ、早苗ってそういうところあるよね」
(……何を言っているんだこの人は……)
早苗は思った。一体何のつもりでこの人はこんなに怒っているんだろうか? いずれにせよこのまま話が進んでもきっとロクな事にはならない筈だし、何より足が痺れてきた。早苗は正座を三分以上続けるのが苦手であった。すると、先ほどから黙って二人の様子を見つめていた諏訪子が突然早苗の方を見て口を開いた。
「……という訳で、ね?」
「いや、何が「ね?」なんですか」
その次は神奈子が間髪入れずに言葉を続けた。
「行っておいで早苗」
そこで、早苗はついに爆発した。もう止まらないぞ。
「行かないですよ、っていうか行かないよッ! 何なんですかさっきから二人してッ! 訳分かんないよッ! 怖いよッ!」
わたくし、グレてしまおうかしら? 心の底からそう考えてしまった早苗であった。何でさっきから神奈子と諏訪子は頑なに早苗をスカイ何とか狩りに行かせようとするのか、理由がさっぱり分からない。早苗は怒りの視線を送るが、神奈子も諏訪子も聞く耳を持たない。というかさっきから二人共、目が死んでいる。まるで地球外生命体に操られているかのような顔だ。無論、別にそんな伏線はない。怒り狂う早苗を無視し、神奈子が話を元に戻す。
「まぁ、確かに早苗一人だけじゃあまりにも可哀想だから」
「っていうかもう既に可哀想な目に遭っていますよね、私。お二人に突然そんな訳の分からない生き物を捕まえてこいとか言われてね、これもう究極ですよね。究極のイジメですよね?」
自分で言っておいてどんどん落ち込んでいく早苗。もう完全に自暴自棄の一歩手前である。早苗の瞳からハイライトが消え始めている。色んな事を諦めた際、人はこういう瞳になる。
「早苗のお助けキャラとして、とあるハンターを雇ったから」
「は、ハンター……ですか?」
ここに来てついに話が本格的な方へ進み始めた。これは非常にまずいと早苗は思った。何とか話を誤魔化し、どさくさに紛れてこの件をうやむやにするつもりであったのだ。しかし、見ず知らずの第三者が絡んでくるとそれも難しくなる。
「ちなみに、もうそろそろ到着する頃だな……」
「もう到着って……もうここに呼んでるんですかッ!?」
「はい、呼んでます」
神奈子は簡単にそう応える。
「呼んでるって事は……呼んでるって事ですよね!? ハンターを! ここにッ! そういう事ですよねッ!?」
「はい……え? いや、はい」
すると、まさにこの瞬間を狙っていたかのようなタイミングで境内へと続く階段から「ザッ、ザッ」と足音が聞こえてくる。
(ハンターがわざわざウチに来たって事は、もう……もうよっぽどの事が無い限り、私もその……何とかフィッシュを捕まえに行かないといけないわけで……あああああ嫌だわ! めんどい!)
完全に決定事項となってしまった瞬間である。こんなにも早苗がスカイフィッシュ狩りに行くのを嫌がる理由はまさにそれだ。「ただただめんどくさい」からである。あと、これはネタバレだが、神奈子には「早苗にはこの経験を通してもっと幻想郷に住む者達への理解を深め、成長してほしい」という若干ハートフル感漂うような思惑は何一つない。本当に、コレはただの悪ふざけである。
そしてついに、足音の主が境内に姿を現した。女の子である。早苗にとって、それは見覚えのある者であった。
彼女の名前は、古明地こいし、地霊殿の主である古明地さとりの妹である。まさか、ハンターとはこいしちゃんの事か?
「あの子が、ハンターですか?」
早苗が困惑の表情を浮かべながら神奈子に質問する。
「ハンター、だね」
どうやらそうらしい。二人がそんなやり取りしている間、こいしちゃんは何故か機嫌の悪そうな目つきでこちらを見つめていた。
「あの子、アレですよね? 地霊殿の妖怪ですよね?」
「それは知らん。だが、とりあえずあの子はスカイフィッシュハンターだ。スカイフィッシュハンターなんだ」
「スカイフィッシュハンターですか」
「スカイフィッシュハンター……的な人だ」
「スカイフィッシュハンター的な人ですか」
「ああ、スカイフィッシュハンターっぽい人だ」
……。
「……スカイフィッシュハンターっぽい人って事は、正確にはスカイフィッシュハンターではないって事ですか、あの子」
何かこのままだとスカイフィッシュハンターっていう文字がゲシュタルト崩壊を起こして「あれ? スカイフィッシュハンターってこんな字だったっけ?」ってなりそう。怖い。
「うむ、まぁどちらかというとスカイフィッシュハンターっぽい人じゃなく、スカイフィッシュハンター……みたいな人だな」
「はぁ……。……いや、同じじゃないですかそれ、どちらにしたって正確にはスカイフィッシュハンターじゃないですよ。え? じゃあ結局何なんですかあの子は」
早苗がこいしちゃんに向かって指を差す。何故か、さっきからこいしちゃんは機嫌悪そうな目つきで二人を見つめていた。
「何か、すっごい、こっちを睨んでいますけど……」
不穏な空気を感じ取ったのか、諏訪子が早苗の背に隠れながらこいしちゃんの様子をうかがう。すると、こいしちゃんは表情を変えず、そのまま三人の方へゆっくりと近付いて来た。
「何か、こっちに近付いて来そうだね」
諏訪子が恐る恐るこいしを見つめていた。
「いや、近付いて来そうっていうか、近付いて来ている……いや、近付いて来ているっていうか、いる、目の前に、既に」
ザッと、こいしちゃんが三人の目の前で立ち止まる。何か言葉を発するでもなく、ただじっと三人の顔を不機嫌そうな目で見つめるばかりであった。何この子、怖い。じーっと、こいしちゃんに見つめられながら、神奈子が若干目を細めて早苗に告げる。
「これからずっとコイツと一緒にいてもらうからな早苗」
「凄い、嫌なんですけど。この子とずっと一緒にいるの」
早苗は嫌だという思いを隠す事もなくそのまま表情に出しながら答えた。それでもこいしちゃんはじっと、何も言わず、ひたすら三人にガンくれてばかりであった。何この子、怖い。
「とりあえず早苗、一応挨拶だけはしとけ」
「はぁ……、こ、こんにちは。こいしちゃん……」
早苗はこいしと目を合わせないように俯き気味に挨拶をする。
「……」
だがしかし、こいしからの返事はない。まさかの挨拶ガン無視であった。早苗は余計落ち込んだ。こんなのとずっと一緒にいないといけないとかどんな罰ゲームだ、と。
「すいません神奈子様、もう無理です」
「確かに私もコレはきついなって思ったけど、流石に諦めるの早すぎるだろ。あの子が登場してからまだ5分も経ってないぞ」
「挨拶をシカトする人と一緒になんか居られませんよ。初めて肉眼で見ましたよ。「こんにちは」をシカトする人って。どんなに根暗でも「こんにちは」って言われたら会釈ぐらいしますよ普通」
「これからずっとコイツと一緒にいてもらうからな早苗」
「同じ事を二回言わないで下さいよ! 嫌ですよ!」
子供みたいに駄々をこねる早苗を見かねて、諏訪子が諭すような口調で語りかけてきた。
「まあまあ、好き嫌いは良くないぞ早苗」
その穏やかな口調に、早苗は余計腹を立てた。
「好きとか嫌いとかじゃなくて無理なんだって! だってすげぇ睨んでんじゃん! 眉間からレーザー光線出そうと思わない限りあんな目つきしないですよっ! ひょっとしてガチでレーザー光線出そうとしてるんじゃないですかあの子! ヤダあの子!」
スカイフィッシュのスの字も出ていないうちから波乱の予感! 果たして早苗はスカイフィッシュを捕まえる事が出来るのか!?
・・・
守矢神社から出た早苗とこいしは重たい足取りで妖怪の山を降りていた。会話が弾むはずもなく、二人は、というか早苗は心底気まずそうな表情を浮かべていた。
そもそも、早苗はあまりこいしとは接点がない。一度こいしは何かの機会に守矢神社にやって来た事があるらしいのだが、その時早苗は何故か霊夢と魔理沙にボコボコにされた後だったので記憶があまり無いのである。何故ボコボコにされたのか、当時の早苗はまだ幻想郷に来たばかりであり、とりあえず目に映る全ての者が敵だと勘違いをしていたのだ。シバかれても文句は言えない。
とにかく、早苗はこいしが一体どういう存在なのかをよく分かっていない。古明地こいし、地底に広がる旧地獄に存在する地霊殿、その館の主、古明地さとりの妹である。さとりと同様、相手の心を読む妖怪『覚』である筈だが、こいしは何故か心を読むと言われている第三の目が潰れているのだ。その理由を知る者はいない。目薬と間違えてポ〇カレモンでも垂らしたのだろうか?
とは言え流石にこのまま終始無言という訳にもいかない。まったく意味のないただの散歩になってしまう。早苗は意を決し、こいしに語りかける。適当に世間話でもすればある程度は心の距離を縮める事も出来るかもしれない。
「あ、あのさ……こいしちゃん……」
だが途中で早苗の言葉を遮り、こいしが口を開いた。
「早苗さ、ひょっとして、ハンター舐めてるんじゃない?」
ジトッとした目で早苗を見つめる。え、何この子。しかもいきなり呼び捨てである。早苗は目を見開きながら絶句する。返事が思いつかない。脳が止まってしまった。しかし、早苗だって物を言われて無言で返すような子供ではない。なるべく、ゆで卵の殻を剥くぐらい慎重に、出来るだけ優しく聞き返した。
「何がだコラッ、テメーいい加減にしないと泣かしてやるぞ!」
今のなし。
「な、何の事かな……こいしちゃん……」
早苗は脳内でこいしちゃんに思いつく限りの罵声を浴びせる妄想をしながら言う。こいしはじぃっと、まるで値踏みをするような視線を早苗に注いだ。冷たい目であった。まるで右も左も分からない職場の新人を蔑むような目つきである。
「まずさぁ、体力とかあるの? 並みのスピードじゃあスカイフィッシュには追いつかないよ? ……はぁ、大丈夫かなこの新人……」
スカイフィッシュに「追いつかない」って何だよ。ギリギリ聞こえるぐらいの小声でこいしちゃんが不穏な事を呟く。早苗は心の中でムラムラと音を立てて膨らんでいく「怒り」を必死に抑え、とりあえずこいしちゃんの言葉に耳を貸す。
「とにかく、まずは私達の『アジト』に招待するよ……」
そう言ってこいしは早苗より一歩ほど先を歩きだす。早苗は心のどこかで思った。恐らく、というか確実に、こいしちゃんにとって今のこの状況はただの「ごっこ遊び」でしかないのだろう。だからこそこいしちゃんは「ハンター役」を真剣に演じているのだ。子供がごっこ遊びをする時の熱量は半端ではない。例えば、子供が悪の魔王を演じる時は、心の底からこの世界を滅ぼすつもりで演じる。本気で世界を闇のどん底に突き落とすつもりで遊びに興じるのだ。つまり今のこいしちゃんは、本気で自分の事を「スカイフィッシュハンター」だと信じて疑わない状態なのだ。
そして、こいしちゃんの言う『アジト』というのは、恐らく彼女の遊び場、つまり『秘密基地』のような物だろう。早苗は少しだけ心を落ち着かせる事に成功した。妖怪と言えど所詮は子供である。そう考えてみると、こいしちゃんの小憎たらしさも何だか可愛く思えてしまう。ちょっと素直じゃない子供の遊び相手をする、そう考えればいいのだ。早苗は自分の体内で密かに流れている「お姉ちゃんチャクラ」を臍下丹田に込め、『優しく甘やかしてくれる素敵なお姉さま』モードへ自分をシフトさせた。
「あはは、優しいねこいしちゃんって。お姉ちゃんに秘密の『アジト』を教えてくれるなんて。嬉しいなぁー」
とっとと終わらせてバビュッと帰るんだ。そうだ。そうだよ。
早苗は出来る限り最大のお姉ちゃんスマイルを浮かべながらこいしに付いていく。大人は子供の言う事にいちいち腹を立てたりしない。適当に彼女の「スカイフィッシュ狩りごっこ」に付き合った後は、ある程度の所で切り上げてとっとと守矢神社に帰ろう。と、早苗は考えた。しかしそうなってくると、何故神奈子と諏訪子がこの件に一枚噛んでいるのかが分からなくなる。
ちなみにこれは完全にネタバレだけど、神奈子と諏訪子が何故早苗をこいしに会わせたのか、実を言うと特に理由はないです。別に何も伏線とかないし、後から二人が登場して活躍するというような事もありません。この神々は、ただの悪ふざけのつもりで二人を引き合わせました。何かちょっと面白そうだったから。
・・・
こいしちゃんの後をついていく。どうやらそのアジトとやらは妖怪の山の登山口付近にあるらしい。早苗は想像した。アジトと言っても所詮は子供の秘密基地。どうせ茂みとかに段ボールとかを敷き詰めたような「いかにも」って感じのトコだろうなと。しかし、着いた先で早苗は言葉をなくしてしまった。
普通の人間は絶対に近付かないであろうこの場所に、謎の巨大砦が建っていたのである。竹や丸太で作られた大掛かりな物であった。どう見ても子供騙しの秘密基地ではない。これほど立派なアジト、一人で建てるのは明らかに不可能だ。ドアの付近に立て掛けられた看板には『うっちゃれ! ファイヤーこいし組』と大きく書かれていた! 何だそれ。 冷たい視線を向けられながらこいしに手招きされて砦の内部へと入る。中は意外と狭い。
「困るんだよねぇ……。そんな急にハンターになりたいだなんて言われても。早苗さぁ、ウチを小規模なチームだと思って舐めてんじゃない? そういうの多いんだよねぇ」
まるで排他的な田舎の工場の面接みたいなことを言われてしまう早苗。しかもいつの間にか自ら志願したみたいな感じに思われてしまっている。これはまずい。
「べ、別に私はハンターになりたい訳じゃ……」
「まぁいい。とりあえず入団のテストをしようか?」
人の話聞かないなぁコイツ。早苗の言葉を遮りながら、こいしが小屋の中央にある椅子をあごで指す。早苗は戸惑うが、ここで変にグダグダと文句言ったってどうせ聞いちゃくれないだろうと思い、大人しくその指示に従った。何なんだこいしちゃん。
「テストと言っても、簡単に面接をするだけよ」
こいしが早苗の向かいにもう一脚椅子を用意する。このまま面接が始まるのかと思うと、早苗は耳からため息が出そうな気持になった。どうして不本意に面接なんて受けなくちゃいけないんだ?
(……いや、待てよ……?)
ひょっとしたら、この面接で不合格になったらここで解放してもらえるのではなかろうか? そうなったら後はもう帰るだけである。何だよ、それ最高のハッピーエンドじゃんか。
(そうだ、このまま面接に合格しなければ帰れるんだ……)
こいしが向かいの椅子に座り、品定めの目つきで早苗を見つめる。
「……ところで、お腹は空いてない?」
面接の質問をぶつけられると思いきや、突然のフリートークが始まってしまった。早苗は困惑しながらも「え、いや、まぁ大丈夫だけど……」と応える。こいしはそれに「ふーん」とだけ返事する。
「ちなみに、今朝は何を食べたの?」
「え? いや、普通に……パンだけど」
「パンか……いいね! 採用!」
はぁッ!? と、思わず早苗は声を上げてしまう。まさかの採用通知に混乱してしまったのだ。採用の基準が何一つ分からない。朝、パンを食ってきたというだけで採用されるような組織にいるのか私は、という何とも悲しい気持ちであった。
「ちょちょちょ、待って! わ、私……採用なの……?」
「前のめりの姿勢を感じたよね。すごく良い事だと思うよ」
そんなこと言い出したらもういよいよ大変だ。一体何が「前のめりの姿勢」だと言うのか。そんな理由が通ってしまえばもう何でもアリになってしまう。まるで自分の人生の選択権を全て他人に握られたかのような慌てぶりで早苗は訴える。そもそも納得がいかない。不採用ならまだしも採用されるには必ず何かしら明確な理由が必要である。何を隠そう、早苗は、不採用になりたいのだ。
「ほ、本当に大丈夫? もっと考えた方が良いと思うよ? 私、こいしちゃんが思っているよりずっと使えない人材だし、例えば……私アレだし、アレ、逆上がりとか出来ないし、鉄棒の」
ごちゃごちゃと文句を言う早苗に対し、こいしは憤りの表情を浮かべる。早苗の言葉を遮り、こいしは声を荒げた。
「何なのッ? せっかく採用してあげるって言っているのに!」
こいしが頬をぷくっと膨らます。ようやく子供らしい一面である。早苗はそう思い、少しだけ慎重に考えた。ここで変な事言ったら、もっと変な事になる可能性があるからだ。もう少し子供っぽく、それでいて分かりやすく説得する必要がある。低姿勢で諭すように早苗は説明に入った。
「あのね……こいしちゃん。良く分かんないけどあなたは、ココのリーダーなんでしょう? リーダーだったら、もう少し考えて面接をした方が良いと思うのよ。そうでしょう?」
こいしが良く分からないという表情で「うー?」と首を傾げた。ここでようやく上手い具合に頭が働いてきたのか、どうしてもこの面接で不合格になりたい早苗はそのまま言葉を続ける。
「例えば、私が悪者だったら、例えばの話よ? 私が悪の組織のスパイだったらどうする? この砦を乗っ取っちゃうかもしれないのよ! だからね、こいしちゃん。チームのリーダーだったら、そういう悪い人を見抜く力も必要ってワケ、分かるかな?」
我ながらそれっぽい言い分でつい感心してしまう早苗であった。それを聞いたこいしは納得した様子で嬉しそうに手を叩いた。早苗がちょっとお遊びに付き合った瞬間、こいしは今までの心の距離を急激に縮めてきたのである。先ほどの冷たい態度が嘘のようだ。
「確かに……早苗の言う通りだね! じゃあ採用で!」
人の話聞かないなぁコイツ。
「もう! 採用ったら採用なの! 決定!」
耳からため息が出る。実を言うとそれの正体は「ため息」ではなく「気力」であった。ごっそりと身体から気力が逃げていく。しかし早苗は気付いた。「採用!」と言いながら、初めてこいしが自分に笑顔を見せたのだ。不思議な感覚であった。さっきまではあんなに「訳の分からない子」という印象だったのに、その笑顔を見た途端、何故だろう、今までの不条理を許してしまいたくなった。
「それじゃあ改めて……ようこそ早苗、我が『うっちゃれ! ファイヤーこいし組』へ! 歓迎するね!」
先ほどの意味不明な冷淡さが嘘のように、まるで初めて友達が出来たかのようなはしゃぎっぷりであった。その様子に早苗は少しだけ気圧されながら、苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。
「な、何でもいいけど、そのチーム名だけはどうにかならないかな? 私、多分この先、何があってもそのチーム名だけは耐えられそうにないんだよ。それ以外はもう何だっていいから」
「えー何でぇ? カッコいいじゃん! キマッてるじゃん!」
そうだね、キマッてるね。早苗は心臓の奥で次々と生み出される不満を吐き出さないように押し込めながら相槌を打った。
もう私、優しいお姉ちゃん辞める。そう心に誓った早苗であった。このままいい人フェイスを続けても何の意味もない事に気付いたのだ。元々最初からおかしいと思っていたのだ。早苗は思った。私の目の前にいるこの妖怪は、何一つ「考える」という事をしないのだ。まぁそれも別に珍しい話ではないのかもしれない。何せここは幻想郷である。人や妖怪、そして自分のような神様が一緒になって暮らしている「楽園」なのだ。何も考えない、という妖怪だって存在しても不思議ではないのかもね。それはさておき――。
「それじゃあさっそく、ハンティングに行こうか!」
「えぇー本当に行くの? ずっとここに居ようよー。ずっとここで動物の話とかしてダラダラ過ごそうよぉー」
うだうだと駄々をこねる早苗であった。ただでさえ訳の分からない子供の相手は疲れるというのに、その上「スカイフィッシュ狩り」に連れていかれるなんて堪ったものではない。
「何の為に来たのさ! いいから、早く行くよ!」
こいしはそう言ってアジトから出て行こうとするが、すぐに部屋へと戻ってきて、部屋の隅にある木箱を漁りだした。そして、中から何かを取り出すと、それを早苗の方へ差し出した。
「早苗、これがチームメンバーの証だよ。早苗にあげるッ」
こいしが手に持っていたのは、虹色に輝く宝石であった。
早苗は悲鳴を上げた。どう見ても本物の宝石である。子供が持っていい物ではない。明らかに価値のある宝石だった。どういう事だ、と、早苗はこいしを見つめる。
「私さ、一人で幻想郷の色んな所を旅しているからさ。この宝石も岩山で偶然見つけたんだっ、ね、いいでしょう?」
ゴクリ、と早苗は唾を飲んだ。売れば相当の金になるような代物だ。ずぶずぶと心の奥から欲が出てくる。神社の資金、新しい服や美味しい食べ物、リッチな生活、セレブな人生、恥ずかしくなってしまうほどの甘い夢想を頭の中で繰り広げた。
早苗は「何処でコレを?」と質問するが、「内緒!」と即答された。早苗だって別に疚しい気持ちがあって聞いた訳ではない。ただ、この宝石がまだ存在するのではあれば、それは人間達の争いの火種になる可能性がある。そんな悲しい事が起こる前に、是が非でも全て回収しなければならんだろう、うん、そうだ。早苗は下種な笑みを浮かべてこいしに手もみをして見せる。こいしは呆れていた。
「うーっ、早苗の考えは分かっているよ! どうせ、この宝石が採れる場所が知りたいんでしょう? 絶対教えないからね!」
「ぐへへへ、こいしちゃ~ん。そんな冷たい事言わずにぃ、教えてくださいよぉ、私ぃ、別に横取りしようだなんて思っていませんから、いや本当に、マジでマジで、ぐへへへ……」
早苗の汚い笑顔を無視し、こいしは先にアジトの外へ出る。ガックシと肩を落とす早苗に、こいしは大声で告げた。
「もっと早苗の事を好きになったら、教えてあげる!」
・・・
こいしの秘密の砦から出た後、二人は霧の湖へと向かった。こいしは片手に新聞を持っていた。早苗がそっとその新聞を盗み見る。天狗の新聞記者、射命丸文が発行している『文々。新聞』であった。その一面記事には大きく『謎の飛行物体・空魚現る?』と写真付きで書かれている。その写真の背景に霧の湖が写っていたのだ。こいしが意外にもしっかりリサーチしていて早苗は感心してしまった。もっと無鉄砲で計画性ゼロな冒険を想像していたからだ。
「確か目撃情報があったのはこの辺だね……」
こいしが背中に荷物を背負いながら言う。随分と大きなリュックサックであった。それに比べ、早苗は手ぶらであった。いくら何でも手持ち無沙汰なので何度か「荷物を持とうか?」とこいしを気遣ってみたが、何故かこいしはそれを拒んだ。
これは何となくの想像だが、多分、今のこいしは完全に「ハンター」になりきっているのだ。その小さな身体に背負っている如何にも重そうなリュックでさえ、役になりきる為の舞台装置の役割を果たしているのである。つまり彼女は今、重たい荷物を背負う事さえも、「真剣に」楽しんでいるのだ。
「それにしても、一体どうやってスカイフィッシュを捕まえるの?」
「ふっふっふー、よくぞ聞いてくれた!」
霧の湖の畔に到着し、こいしはようやくその重い荷物を地面に下した。そこからさっそく中身を取り出そうとする。早苗がそのすぐ横に立ち、一体リュックに何が入っているのか確認してみる。中には沢山のお菓子や小さなぬいぐるみ等が入っていたが、それとは別に、何だか良く分からない、奇妙な形をした器具が何個かあった。見た事もない道具だ。それらは全部鉄製である。重たかろうに。
「これだよ。私が作ったスカイフィッシュ捕獲用の武器、名付けてこいしちゃんバズーカだ!」
頭がバズーカになったみたいなネーミングセンスである。こいしは嬉しそうに細長い筒状の器具を取り出した。銀色に光るこいしちゃんバズーカ、見た目からしてかなりハイテクノロジーな代物である。どう見ても今の幻想郷の技術力で作り出せるものではない。
「こ、これを撃ってスカイフィッシュを捕獲するのね?」
何だか怖くなってきた。何が怖いって、こんな訳の分からない道具を作り出してしまうこいしちゃんの「謎の技術」である。
「そう、でもそのためには早苗にも協力してもらわなくちゃいけないんだよ。私、ちょっと作戦を考えたんだ!」
こいしが嬉しそうにバズーカを掲げて見せる。まるで母親に工作を見てもらう子供のような無邪気さがあった。早苗はちょっとだけ不思議な気分になった。初めはめんどくさいと思うような事だらけだったのに、こうやってこいしの嬉しそうな笑顔を見ると、自然と心が穏やかになるのだ。早苗は自然に思った。多分、私にも妹とかがいたらこんな風に遊んであげたのかな、と。
「作戦? どんなの?」
別に大した興味もなかったが、一応早苗は聞いてみた。
「えっとね、まずは――」
その一、早苗が囮になります。
「……続けてみろ」
その二、スカイフィッシュが早苗を襲います。
「……続けてみろ」
その三、遠くでスタンバイしているこいしちゃんが早苗に向かってバズーカを発射します。
「……そんで?」
その四、作戦終わり。
「何でだよッ!?」
ついに我慢できずに早苗はツッコミを入れてしまった。ひょっとしたら万が一の可能性で実はナイスな作戦かも知れないと期待して聞いていたのが馬鹿だった。前言撤回である。やっぱりこの子はロクな事を考えていない。すると、こいしがリュックの中から小さなタッパーを取り出す。中には薄くスライスされたゆで卵が入っていた。こいしはそのゆで卵の一枚をぴっと人差し指で摘まみ、それを早苗の大きなおでこにぺたっと貼り付けたのである。
「え、いや、何をやってんの貴様?」
「データによると、スカイフィッシュの好物はゆで卵、らしいの」
こいしの考えた作戦を要約するとこうだ。
まず、おでこにスライスされたゆで卵を貼り付けた早苗が湖の上に浮かび、スカイフィッシュをおびき寄せる。そして、スカイフィッシュがゆで卵に釣られて早苗の方へ近付いてきた瞬間に、岸で待機していたこいしが早苗に向かってこいしちゃんバズーカを放つ。スカイフィッシュは皆殺し、早苗は気合でバズーカに耐える、という物である。非の打ち所がない完璧な作戦であった。
「スカイフィッシュ死んでんじゃん!」
「まぁまぁ」
「いや、まぁまぁじゃないよ! しかも何なの早苗は気合でバズーカに耐えるって! 耐えられる訳ないじゃん! 私死ぬじゃん!」
そもそも本当にこの銀のバズーカが武器として機能するのか、甚だ疑問である。仮にこれが本物のバズーカだとして、威力の程も分からない。しかも、こいしちゃんはどうやらスカイフィッシュを捕獲するのではなく、殺す事が目的のようだ。
「ね、ねぇ、こいしちゃん……」
「ん? なぁに、早苗?」
早苗は何かを言おうとしたが、急に黙り込んでしまう。
(待て、待て待て早苗、やめろ、言うな。それ以上は言ってはいけない。こんな子に言ったってしょうがない事なんだ……っ)
「どうしたのー? 言いたい事があるならハッキリ言いなよっ!」
こいしがぱっと明るい顔を向けてくる。早苗は躊躇したが、少し考え、苦笑いを浮かべながら、慎重にその言葉を口にした。
「あのさ、こいしちゃん……私、漢検二級持っているんだ……」
こいしは、絶句してしまった……。
「あの、その、準二級じゃないよ、ちゃんと、二級だよ……」
「早苗……」
どんな言葉を送ればいいのかよく分からない様子であった。
「だからさ、その……何て言えばいいのかな……」
「漢検二級を持っている人間はさ、その、もっと大事にされるべきなんだよ……こんな危ない事、してちゃいけないんだよ……漢検二級持っている人間は、すっごく偉いんだよ……」
これは外の世界に住んでいた、中学生の頃の早苗の記録だ。漢字検定、早苗はあたまがおかしくなるんじゃないかというくらい勉強してその資格を取った。漢検二級。いや、いや、この際、何級かは大した問題じゃない。早苗の考えはこうだ。
例えば地球が明日爆発するとして、別の惑星に移住するための船に乗らなければならなくなった時の事を想像してほしい。恐らくだが、人間全員が船に乗る事は難しいだろう。となれば、いつか必ず取捨選択の瞬間がやって来る。多分、優秀な人しか船には乗れない。
そこで、だ。
今までの人生、何もやってこなかった人間と、漢検二級持っている早苗、どちらか一人しか船に乗れないとしたら、あなたはどっちを選ぶ? どっちを船に乗せる?
答えは明白だ。漢検を持っている早苗を選ぶに決まっている。理由は単純だ。そう、漢検を持っているからだ。
漢検を持っている奴は、
漢検を持っていない奴より、偉い。
漢検を持っている奴は、生きる価値がある。漢検を持っている人間は、全てにおいて優遇されるべき存在である。早苗は自分の能力を他者にひけらかすような人間ではなかった。どちらかと言うと、早苗は謙虚な性格をしている。驕らず、実直に今まで生きてきた。
そんな彼女が、必死な顔で訴えている。
私は、漢検二級持っているんだ、と。
「それって、地球を救うのに必要な資格なの?」
こいしは早苗の瞳を真っ直ぐ見つめながら、真面目な顔で問いかける。早苗は怯み、言葉を詰まらせてしまう……。
「う……そ、それは……」
早苗は想像する。地球最後の日、漢検二級を持っているという理由で救いの宇宙船に乗れる優待チケットを手にしたとして……。その宇宙船は、きっとアメリカ製だ。という事は、機内に書かれている文字は全部英語だ。このメリケンの船に乗ってしまえば、恐らく、二度と漢字を使う機会はなくなるだろう……。そうなった場合、「漢検二級持っている」という称号は、何の意味も成さなくなる。
「で、でも……漢字は文字として優秀だから……」
アメリカは「HAHAHAHA!」と笑いながら早苗を迫害するに違いない。そして、早苗は一生その船の隅っこで漢和辞典を読みながら肩身の狭い思いをして過ごさなければならないのだ……。
・・・
「大丈夫だよぉ、早苗には絶対に当てないから!」
「そ、それならいいんだけど……」
いや、本当は良くない。早苗はおでこに引っ付いたゆで卵がずり落ちないよう慎重に宙に浮く。そのまま湖の中央まで浮遊し、辺りを見渡した。こいしが遠くの岸で手を振っているのが見える。しかし、それ以外は特に動きはない。人っ子一人いないのだ。思わずため息が出る。何をやっているんだろうか私は、と。
すると、こいしが何やらジェスチャーをしていた。湖の中央でスタンバイする前に二人で簡単な合図を決めていたのだ。
『早苗、どう?』
こいしが身振り手振りで聞いてくる。早苗は宙に浮きながら身を捩って応えた。『異常、なし』と。当たり前だ。この作戦が始まってまだ二分も経っていない。そう簡単に捕まえられたら世の中に未確認生物という概念なんて綺麗さっぱりなくなるだろう。
と、思っていた時だ――。
「え……ッ?」
早苗は我が目を疑った。遠くの方から、岸を越え、森林を越えたその向こう、空の遥か彼方から、一筋の小さな白い閃光がこちらへと猛スピードで向かってきているのが見えた。新手の妖怪かと思ったが、あまりにも早い。飛翔する天狗のトップスピードにも匹敵するほどの勢いである。早苗が大声を上げようとした瞬間、その閃光は目にも止まらぬ速さで早苗の頬を掠めていった。頬に赤い筋が入り、そこから静かに血が滲み出てくる。言葉をなくした。
(な……なに……今の……?)
あれが、スカイフィッシュかッ!?
頭でそう理解した瞬間、早苗はこいしちゃんの方を見て力いっぱい合図を送った。『標的出現! 迎撃用意!』と。だが、ああ何という事だ……予想外の事態であった。まさかのアクシデントである。こいしが待機している方角を見た瞬間、早苗は絶望を顔に浮かべた。
なんとこいしちゃんは、居眠りをしていたのである……ッ!
「うっそだろッ! オイッ! 起きてこいしちゃん! バズーカ! 早くバズーカ撃って! ねぇ! オイッ!」
早苗がわーわー叫びながらジェスチャーをするが、こいしは鼻ちょうちんを膨らますばかりで何も答えなかった。ずいぶんと暢気な寝顔であった。早苗は必死に叫ぶが、ここからだと距離があり過ぎて何一つ聞こえない。そうしている間にも、先ほどの閃光が次々と姿を現し、早苗めがけて突進してくる。日頃の弾幕勝負で鍛えられた反射神経で間一髪躱し続ける早苗、難易度でいうとコレもうルナティックに等しい。グレイズし、かすり点を稼ぎまくるが、スカイフィッシュの猛攻は止みそうにない。そのうちの一匹が顔面に引っ付いたゆで卵を狙って飛んでくるのを、早苗は凄まじい動体視力で避ける。その際に、スカイフィッシュの姿がチラと目に映った。正真正銘、空を飛ぶ魚のようなフォルムである。針金のように細く、空中をホバーするためのヒレのような物が脇についていた。コイツが、スカイフィッシュか! 早苗はこいしからの援護を諦め、群れに向かって弾幕を放った。しかし、スカイフィッシュの鱗はまるで鋼鉄のように硬く、早苗の弾幕を容易く防いだのだ。自分の攻撃では傷一つ付ける事は出来ないだろう。そう悟った早苗は再度、こいしの方を見た。どうか目を覚ましていますようにと祈りながら。だが……だが……こいしちゃんは、未だに涎を垂らして眠っていた!
カチンと、早苗の中で何かがキレた。
早苗は辺りを飛び交うスカイフィッシュではなく、岸の方で眠りこけているこいしに向かって両手を掲げた。
「おのれッ! 畏れ多くも神を愚弄する不届き者めがッ! 死を持って償うがいい! 喰らえッ! ゴッド・スパイラル・キャノンッ!! 消し炭となれええええッ!」
怒りによって豹変した早苗の両腕から凄まじい光が放たれる。これぞ、早苗の超必殺技『神光破(ゴッド・スパイラル・キャノン)』である! 何だそりゃ! 光は螺旋を描き、キュイイイイインと音を立てながら真っ直ぐこいしの方へと飛んでいく。しかし、僅かに軌道が逸れたのか、本当は顔面を狙って撃ったのに、早苗のゴッド・スパイラル・キャノン、略してゴッパンはこいしちゃんのぷよぷよと膨らんだ鼻ちょうちんを破裂させる事しか出来なかった。
「うぅーん……むにゃむにゃ……うるさいなぁ……って、えッ! 何ッ!? スカイフィッシュいっぱいいんじゃんッ!」
ようやく目を覚ましたこいしは早苗の異常に気付き、慌てながら手元にあったこいしちゃんバズーカに手を伸ばした。
「おぉーーいこいしちゃあーーんッ! 撃てッ! 早く撃って! 死ぬ! 死んじゃう! スカイフィッシュに殺されるぅッ!」
ゴッパンを撃った反動で体力を著しく消化してしまった早苗は群れとなって襲い来るスカイフィッシュにボコボコにされていた! スカイフィッシュが空を飛ぶスピードは時速300キロ近くと言われている。直撃すればひとたまりもない。
「早苗! 今助けるよッ!」
こいしがバズーカを早苗に向かって構え、勢いよく引き金を引いた。その瞬間、銀色に輝く銃口からビームが放たれた。
そう、ビームが放たれたのだ。どうしようコレ。
「ビームが放たれたぁーーーーーッ!?」
早苗が叫んだ。ビーム、というより最早波動砲に近いほどの威力であった。早苗は咄嗟に身体をABCの「C」の字ように曲げて何とかそれを回避する。髪の先がチリチリと焦げていた。辺りに群がっていたスカイフィッシュは衝撃に耐えられず、その場から一目散に離れていった。早苗は両目を見開き、心臓をバクバク言わせながらこいしちゃんを見つめていた。コレ、洒落になっていない。
こんなモンまともに喰らったら流石に危険が危ない(は?)。早苗は額に付いているゆで卵を手に取り、すぐさまそこから逃げようと思った。何から逃げるって? 無論、こいしちゃんからである。コイツヤバい。このままじゃ殺される。そう思った瞬間、再びスカイフィッシュの群れが早苗の方へ戻ってきた! ダブルパンチである! 空中にはスカイフィッシュが、岸にはこいしちゃんがバズーカを構えてこちらを狙っている! 果たしてどうなる早苗!
「た、助けて……助けて神奈子様、諏訪子様ッ!」
一方その頃、神奈子と諏訪子は……。
「なぁ諏訪子、当分早苗は帰ってこないけど、夕飯どうする?」
「一回呼び戻せば? 夕飯作りに帰って来いって」
それではあまりにも威厳に欠けるのである。神奈子はそう言ってのそのそと冷蔵庫を開けた。栄養剤しか入ってなかった。
「こんな事なら早苗を行かせるんじゃなかった!」
悪ふざけが過ぎたと二人は反省する。ちなみに、二人の今夜のディナーはほっ〇もっとに決定した。人里で買い物して普通に料理すればいいじゃん! と思うかもしれないが、二人共、特に神奈子は、自分でも頭がおかしいと思う程手先が不器用なのだ。神奈子は、「米は洗剤を使って洗う」と勘違いしていた。キツイ。
ちなみに、早苗は自力で何とかしました。早苗って凄い。
息も絶え絶えの状態で、早苗は岸へと戻ってくる。あれから何度もスカイフィッシュの連打から逃げ、その脇から放たれるこいしちゃんバズーカの襲撃を間一髪で躱し続けたのだ。
(すげぇ……私ってすげぇ……)
人間ってその気になれば何だって出来るんだと知った早苗であった。ボロボロになりながらこいしへと近付く早苗。もう流石に笑えない。これはもう折檻だ、説教パーティーだ。眉間にしわを寄せ、早苗がガルルッと唸りながらこいしを見つめる。すると――。
「凄い! 早苗ッ、凄いカッコ良かった!」
突然こいしが早苗の方へと駆け寄り、ものすごい勢いで抱き着いて来たのである。先ほどまで怒りに支配されていた早苗であったが、こいしに抱きしめられた瞬間、言葉をなくし、ポカンと口を開けたまま固まってしまった。そういや、こんな風に誰かに抱きしめられたのっていつ以来だろうか? なんて、早苗は考えてしまった。ここまで他人を信用して飛び込んでくるような奴は滅多にいない。ましてや、相手は妖怪である。しかし、だからこそ早苗は思い直した。ここで気を許してはいけない。
そう、コイツは妖怪なんだ。許してはならない。
早苗は自分に抱き着いているこいしをキッと睨む。だが、心から嬉しそうに笑う彼女を見て、早苗は何だか妙な気分になった。本当は、本当は、一発くらいぶん殴るつもりだった筈なのに、どうしても拳を固める力がスカスカと抜けていく。キャッキャッと楽しそうな声を上げるこいしの頭を、早苗は優しく撫でた。
「えへへ……早苗は凄いなぁ……」
照れ臭さからか、早苗は無言のままそっぽを向いた。いつの間にか日が暮れていた。湖畔が綺麗なオレンジ色の夕焼けに染まる。
「こいしちゃん……そろそろ離して」
しかし、いつまでもこいしは早苗に抱き着いたままであった。不自然なほど長い時間、こいしは早苗から離れようとしなかった。その間に、早苗は決断した。早苗は少しだけ強引にこいしを引き剥がし、そのまま何も言わずにスタスタと歩き出してしまう。
「何処行くの、早苗?」
早苗の背にこいしの声が飛んでくる。少々気弱な声であった。
「帰るんです。もうこれ以上付き合っていられないんで」
本当は無視する事も出来たが、早苗はあえて吐き捨てるように応えた。それを聞いた途端、こいしは「えーッ!」と悲鳴のような声を上げてしまう。
「そんな! スカイフィッシュ、まだ一匹も捕まえられてないじゃん! ねぇ待ってよう! ねぇ、早苗ったら!」
こいしが悲痛な声を上げながら追いかけてきて、そのままぎゅっと早苗の手を掴んだ。まさかここまで取り乱されるとは思っていなかったのか、早苗は少し呆気にとられた表情を浮かべる。
「離してください! 帰るったら帰るんです! 「あなた」の遊びに付き合っていたら命がいくつあっても足りないんですよ!」
今まで砕けた口調で喋っていたのに、つい敬語に戻ってしまう早苗であった。そもそも、作戦の説明で「早苗を囮に」と言われた段階で帰るべきだった。まさかあんなにスカイフィッシュが物凄い勢いで食いついてくるとは思わなかったのだ。早苗は頑なにグイグイと突き進もうとするが、こいしがそれを許さない。
「やだぁ! 駄目ったら駄目なのっ!」
玩具をねだる子供のようにこいしが喚き散らす。早苗はすっかり途方に暮れてしまった。その時である――。
「……おや、あなたは……」
二人がわーわーと騒いでいる時、森林の方から赤い髪の女性が現れたのである。こいしはどうか分からないが、早苗はその女性に見覚えがあった。確か、湖の付近にある真っ赤なお屋敷、紅魔館の門番をしている妖怪、紅美鈴である。
「あ、貴女は……ベニー美鈴さん?」
「えー何その重鎮女性タレントみたいな名前。じゃなくて、こんなとこで一体何しているの? ……えーっと……」
美鈴が目を細めながら歩み寄ってくる。早苗は何度か紅魔館にも訪れた事があり、美鈴とは初対面ではない。しかし、美鈴は早苗の事を覚えてない様子であった。すると、こいしが急に不安気な表情を浮かべ、そっと早苗の背に隠れた。
「早苗ですよ。東風谷早苗、守矢神社の巫女です。そして、この子は地霊殿の古明地こいしちゃんです。すいません、私達、ちょっとこの辺で遊んでいたもので……」
「ああ、そうか、早苗さんね。そして……こいし、ちゃん?」
美鈴は何故か眉間にしわを寄せてこいしの方を見た。どうも様子がぎこちない。美鈴はしばらくこいしを見つめた後、少しだけ笑みを浮かべてみせる。もうそろそろ帰ります……と言いたいところだが、そこで早苗はある事を思い出した。ここに来る前、神奈子に「スカイフィッシュ捕まえるまで帰ってくんなよ」宣言を受けているのだ。何の成果もなく帰ってしまったら色々と面倒な事になる。グチグチと小言を言われるのだけは避けたかった。純粋にムカつくから。
「あのう……ここらへんに漫画喫茶ってありませんか?」
雨風が凌げればそれでいいんですが……と早苗は申し訳なく言う。事情を察したのか、美鈴は皆まで言うなと制する。
「何だか良く分からないけど、帰れないのならウチに泊まっても構いませんよ。私からお嬢様に頼んでみますから」
ぱーっと顔が明るくなる早苗であったが、ふと、自分の服の裾を力強く掴み続けるこいしに目をやる。どうしていいか分からないような、ぎこちない様子であった。はーーーーーっと長いため息を吐き、「すいません、二人分の部屋、お願いします」と頭を下げる。それを聞いたこいしは少しだけホッとした表情を見せた。
「ところで、美鈴さんはこんなとこで一体何を?」
この時間帯、夕刻はまだ門番の勤務時間である。
「いえ、ちょっと事情がありまして……言ってもいいのかなぁ? 実はね、咲夜さんが出奔してしまったんですよ。そんで、今日一日私が捜し歩いていたってワケ。疲れた。眠たい」
美鈴は随分とくたびれた様子で呟いた。出奔、つまり家出してしまったという事である。咲夜さんは一体何をしているんだ?
「咲夜さんがいない以上、基本的に紅魔館の業務は滞りっ放しで部屋は散らかし放題、洗濯物は溜まり放題でもう何というか凄いヤバいんですよ。だからお嬢様の命令でここら一帯を探し回ったんですけど……収穫は全くなかったですねぇ」
三人は喋りながら紅魔館へと向かう。しかし不思議な事に、その間こいしは一言も喋らなかった。何故かずっと黙ったまま、早苗の手を握り続けていた。歩き辛いから離してほしいと思ったが、それは言わないでおこうと思った。もしここで無理に手放してしまったら……どうなってしまうのだろうか? もしここでこいしの手を離したら、早苗の中で、こいしに対する何かが虚しく狂ってしまうような、何かが大きくズレてしまうような気がしたのだ。そこまで考えて、早苗は疑問を抱いた。
何がズレるというのだ。
自分とこの子が合致した事なんて、一度もないじゃないか。
早苗は少しだけ、自分の手を握りしめるこいしの手を、本当に少しだけ握り返した。その微弱な力に気付いたのか気付かなかったのか、こいしは一瞬だけ早苗の顔を見た。だが、早苗は目を合わせないように歩いた。何ともぎこちない空間であった。
・・・
そうこうしている間に紅魔館へと到着した。美鈴はそのまま二人を紅魔館当主であるレミリア・スカーレットの所へ連れていく。早苗は少しだけ緊張した。何せ、レミリアは正真正銘の吸血鬼である。粗相をしでかして怒らせたらただでは済まないだろう。そんな早苗をよそに、美鈴はレミリアの部屋のドアをノックする。
「お嬢様ー、客人を泊めたいんですけどー」
「いーよー」
顔も見せずにオーケーを出すレミリアに、早苗は思わず「え、いいのこんなんで?」と声に出してしまった。
「いいのいいの、お嬢様っていつもこんな感じだから」
あまりにも拍子抜けである。紅魔館はもっとこう、英国の貴族みたいに格式張った場所かと思っていたのだ。
「でも、タダで泊めてもらうのはいくら何でも気が引けるので、何かお手伝いでもしますよ。洗濯とかお料理とか」
「あー、そこら辺は別に気にしなくていいよ。咲夜さんが居ない時は大体みんな勝手にご飯とか作るし」
「え、咲夜さんってそんなにしょっちゅういなくなるんですか?」
美鈴が言うには、咲夜は過去に紅魔館から家出した事が何度かあるらしい。つい最近だと、レミリアが誤って咲夜の大事にしているスガシ〇オのCDを割ってしまった際はショックのあまり一週間ほど紅魔館を離れていたという。結局はレミリアが咲夜を探して泣きながら謝罪して事なきを得たのだが……。
「まぁつまり、民宿だと思って気楽に過ごしてもらっていいよ」
……。
そこまで言われちゃしょうがない。早苗とこいしは言われるまま客室へと案内された。何が何だか分からないまま部屋で二人きりになる早苗とこいしであった。
「うわーっ、凄く良い部屋だね!」
すると、今まで沈黙を保っていたこいしが急に天真爛漫な笑顔を浮かべて早苗に話しかけてきたのだ。美鈴がそばにいた時とは明らかに違う態度である。早苗は困惑した。
「ねぇ早苗! 明日こそスカイフィッシュ捕まえようね!」
「何言っているんですか! 嫌ですよ! 少なくとも、もうこいしちゃんとは一緒に行動したくないです!」
早苗はついキツイ態度で返答してしまうが、それほど後悔はない。だってこれは本心から思っている事だ。昼間に行ったこいし考案のスカイフィッシュ捕獲法はあまりにも危険過ぎる。これ以上彼女の奇天烈さに付き合っていたら命を落としかねない。
「なっ……何でそんな事言うのさ!」
「当たり前でしょう! 私は私で勝手にスカイフィッシュを探します! ああもう自分で言っておいて凄いバカみたいだなって思いました今! 何だよスカイフィッシュって! 訳分かんねぇよ! 捕まえられる筈ないじゃん、あんな危険な生き物!」
というのも、昼間、早苗は一度スカイフィッシュの猛襲をその身で経験している。あれは最早生物の形をした近代兵器のそれである。あんなバイオレンスな生き物を果たしてどうやって捕まえればいいのか、早苗は頭を抱えて部屋の隅に設置してあるベッドに腰かけた。疲れた、本当に疲れた。泥のように眠りたかった。
(で、今気付いたけど、私達二人共この部屋に案内された訳だけど、ベッドは一つしかないんだよね。ベッドは渡さないぞ、断固)
すっかり塞いでしまった早苗の隣に、こいしが無言のままポスンと座ってきた。何だコイツ、ベッド横取りするつもりか? それだけは絶対に許さんぞ、ベッドは渡さないぞ、断固。
「……早苗、大丈夫だよ。私が手伝ってあげるから……」
……。早苗は何も言わなかった。「どの口がほざくんだテメー」と言いたいが、ここでようやく心を落ち着かせる事が出来た。今日一日この「古明地こいし」という妖怪と一緒にいて、早苗は良くも悪くもこの子の事が分かり始めていたのだ。
この子は、そう、すっかり「空」なのだ。
どういう理由で、どういう理屈でそうなったのかは分からない。どうしてこいしはこんなにも「他者を慮る事」が出来ないのか。
それは妖怪『覚』の特性である第三の目を潰した事による弊害なのか。「人の心を読む妖怪」が「人の心を読む事をやめた」のには、きっと相応の理由がある筈である。それこそが、こいしが本来持っていた筈の心を壊すきっかけとなってしまったのかもしれない。
そして、早苗はこうも思った。
もしもこの子が、今回のような遊びの感覚で人を襲ったら? 空っぽの状態で、何の疑問も持たずに人里で人を殺してしまったら、それは決してあり得ない話ではない。妖怪として、人を襲う行為はどうしようもない性である。幻想郷で生きる以上、そこは否定してはならない。だが、それはあくまで妖怪として生きる上で必要な事だ。幻想郷の取り決めで妖怪は無暗に人を襲わない。だが、そんな理が果たしてこいしに通じるだろうか? もしもこいしが生きる為ではなく、快楽の為に殺戮を始めてしまったら、人を殺す事に悦を見出してしまったら、それこそ恐怖としか言いようがない。何よりも恐ろしいのは、殺人という行為に対し、「何も感じない」という事である。何かのきっかけでこいしが何の意味もなく、それこそ子供が遊びを楽しむのと同じ感覚で人を殺してしまったら、そして、そこに得体の知れない快楽を抱いてしまったら、それはきっと異変の範囲では収まらないほどの大事件となってしまうに違いない。
(ひょっとして神奈子様はそれを危惧して……それを止めようと思って、私とこいしちゃんを会わせたのかもしれない……)
ちょっと前にも言ったけど別にそんな事はない。神奈子が早苗とこいしを会わせた理由はただ一つ、何か面白そうだったからだ。
「こいしちゃん……本当に、私を手伝ってくれるの?」
早苗は意図的に言葉を崩した。こいしを必要以上に警戒させない為にである。すると、こいしはそっと早苗の腕に抱き着き、ゆっくりと頷いて見せたのである。まるで、人間の子供そのものだ。
「うん、私、早苗の力になってあげる……だから、一緒に……」
「じゃあ、二つ約束して。一つ、必要以上に危険な事はしない」
「二つ目、もう二度とこいしちゃんバズーカは使わない事。次これ使ったら本気でぶっ飛ばすぞわかったかこのクソボケカス」
こいしは「うん!」と満面の笑みを浮かべた。
私が、何とかしてあげなくちゃ。これはもうスカイフィッシュどころの話ではない。幻想郷の運命がかかっているのだ。早苗は決意した。きっとこいしちゃんを、超絶良い子に仕立て上げるのだ、と。
と、その時――。
「おっすー、初めまして、当主のレミリア・スカーレットでっせ」
突然ノックの音が響き、ゆっくりとドアが開かれた。そこには赤色の芋いジャージ姿で寝癖そのままのレミリアがだらしなく突っ立っていた。人前に出る時は常にしゃんとした服を着て優雅に振舞っているが、従者が傍にいるのといないのとでえらい違いである。
「えっと、何度か会った事はあると思うんですけど、改めまして、守矢神社の巫女、東風谷早苗と申します……」
(うわぁだらしない! 何その赤いジャージ!)
早苗は心の中でそう思った。危うく口に出してしまうところだった。冗談じゃない。一泊させてもらっている身なのにそんな暴言を吐いてはいけない。早苗は苦笑いを浮かべた。
「だっさいジャージだねッ! カッコいいッ!」
早苗はギョッとしてこいしを見た。コイツは思った事を口にしないと気が済まないのだろうか? 表情を真っ青にしながらレミリアに視線を戻す。しかし、気にしている様子はない。子供の戯言だと思って聞き流している様子である。
「すいませんレミリアさん。この子、ちょっと頭がグルグルなんですよ。勘弁してやってください。グルグルなんで」
「……まぁ、何でもいいわ。挨拶が遅れたわね。ちょっと自室で『つくってこわそ』を見ていて、つい夢中になっちゃって……」
『つくってこわそ』というのは、幻想郷に住む子供の為の教育番組である。出演者の「ワナワナさん」と、血塗れのマスコットキャラである「ドロリ」の二人で身近な物を使って工作をするという内容の番組だ。ワナワナさんの作る物がゲロを吐くレベルのチープさであり、ドロリが「こんなの楽しくないよ」と茶化した瞬間に「じゃあ何作ったら楽しいんだよッ!?」とせっかく作った物を蹴散らしてドロリと掴み合いの喧嘩を繰り広げ、撮影スタッフがカメラを止めようとするのが毎回の定番であった。視聴率は0.0001%くらい。もう幻想郷でこんな番組を見ているのは恐らく一人ぐらいしかいない。それがレミリアだ。打ち切り待ったなし。
「それにしても、咲夜さんは一体どうしちゃったんですか?」
「それが分かったら苦労しないんだけどね。買い物に行ったきり帰ってこないのよ……まぁ、あの子ってぶっちゃけ私より強いから全然心配していないんだけど」
レミリアは余裕のある様子で笑ってみせる。「ぶっちゃけ私より強い」というのは恐らく謙遜である。レミリアは自身の力ではなく、優秀な部下を持っている事に誇りを持っていた。人間と吸血鬼が本気で殺し合いを始めたら、吸血鬼が勝つに決まっている。人間はどうしたって怪物には勝てないように出来ているのだ。そもそも、レミリアはそんな事、微塵も興味はないだろうが。
「ウチの心配はしなくていいのよ。そんな事より、あなた、達はどうしたの? 何か事情があるのかしら、早苗ちゃんと、えっと……」
誰だっけ、と言いながらレミリアは首を傾げた。こいしの事だ。しかし奇妙な事に、レミリアはこいしの方を見ず、全く違う方向を見つめていたのだ。早苗は不思議に思ったが、そもそもレミリアは元々変な性格の持ち主だ。早苗は、あまり深くは考えなかった。不思議、というより不自然、としか思わなかった。
「ああ、この子は、古明地こいしちゃんですよ」
「古明地……ああ、あの地霊殿の。貴女は家に帰らないの?」
そこで早苗は色々と起きた事をレミリアに洗いざらい説明する。神奈子の思い付きのせいでスカイフィッシュ狩りをしている事。自称スカイフィッシュハンターであるこいしをお供に連れている事。粗方事情を把握したレミリアは静かに答えた。
「すげーバカな事させられているのね……同情するわ……」
ですよねぇッ!? と、早苗は泣きながらレミリアの手を取った。ああ、やっぱり私がやってる事って、傍から見て「すげーバカな事」なんだ! 良かった! これが世間的に普通の事だったらどうしようかと思って、私の中にある常識を疑い始めていたところなんですよぉ! と泣きながら捲し立てる。
「そんな訳分からん生き物を捕まえる事なんて出来るの?」
「ああ、それなんですけど……こいしちゃんがスカイフィッシュを捕まえる為の道具を一式用意してくれているんですよ。見てくださいコレ、滅茶苦茶凄くないですか?」
そう言いながら、早苗はこいしのリュックの中に手を突っ込み、昼間こいしが容赦なくぶっ放しまくっていた『こいしちゃんバズーカ』を掴み、レミリアに見せてみる。
「へえ……あら? これ……」
すると、レミリアは一瞬だけ怪訝な表情を浮かべた。
「凄いカッコいいじゃない!」
しかし、すぐに顔を笑顔に戻し、こいしを褒めた。こいしは「へへーん」と言いながら指先で鼻を擦ってみせる。何かレミリアの琴線に触れる物があったのか、レミリアはこいしちゃんバズーカをまじまじと見つめ続けた。レミリアのセンスは分からん。
「まぁ、事情は分かったわ。別に館には何日居ても構わないわよ」
そう言いながら、レミリアは「おやすみ」とだけ言い残して部屋からスタスタと出て行く。早苗とこいしは去り行くレミリアの背中に深々と頭を下げた。これで当分野宿は免れる。
……。
「お嬢様、どうでしたか?」
「……ああ、何とか声だけは聞こえた。美鈴がいて助かったわ。貴女の『能力』が無けりゃ、きっと何にも分からなかったでしょうね」
レミリアが早苗達の部屋を後にし、長い廊下を歩いている所に美鈴がやって来る。レミリアは口元だけで笑ってみせるが、その表情には少し曇りがあった。全面真っ白なルービックキューブを延々と組み替えながら、「それは正解ではない」と言われたかのように疲労していた。心底うんざりした様子であった。
「早苗さんは、その、気付いているんでしょうか?」
「恐らく、あれは気付いていないだろうね……」
「問題はないと思いますけど、一応監視しておきましょうか?」
それは余計なお世話よ、と言いながらレミリアは背伸びをした。背に生えた漆黒の羽がガタガタと音を立てながら激しく震える。
「アレはきっと、早苗ちゃんと、そしてあの子、二人だけで解決するべき事だ。部外者である我らが手を貸す必要はないの」
そう言ってレミリアは影の中へと歩き、羽音を立てて夜の闇へと消えていってしまった。美鈴はため息を吐いた。
「お嬢様……私は、こいしちゃんという子をあまり信用していません。その子からは、何も感じない。あんな『生き物』、見た事が無い……。お嬢様、私は、怖くて堪らないのです……」
……。
「それじゃあ早苗、一緒に寝よう!」
その後、紅魔館のシャワールームで汚れた身体を洗い流した二人はメイド専用のジャージを着て部屋でまったりしていた。
「えっ! やだよ。このベッドは渡さないぞ、断固ッ!」
断固ッ! と言いながら、アリクイが威嚇する時みたいなポーズでベッドを死守しようとする早苗。この部屋にベッドは一つしかない。二人で寝るには小さすぎるベッドである。いや、それ以前にあまり良く分からない妖怪の女の子と同じベッドで寝るなんて正直キツイ。寝てる時に頭を齧られる可能性だってあるのだよ。
「何でよー、女の子同志なんだし別にいいじゃん」
早苗は返答する代わりに部屋の端に備え付けてあるソファーを指差した。てめー妖怪なんだからよー、ぶっちゃけ睡眠とかいらねーんだろー? と視線だけで言い放つ。妖怪差別である。
「酷い! 何でそんな意地悪言うのさ!」
ぶー垂れるこいしを無視して部屋の電気を消し、そのままいそいそとベッドに潜り込む早苗。すると、こいしが横からずかずかと毛布の中に乱入してきたのである。
「やだぁッ! 早苗と一緒に寝るーッ!」
「勘弁しろよもーッ! 寝かせてくれよーッ!」
……。
しんと静まり返った部屋の中で、早苗はこいしに気付かれないようにジャージのポケットからある物を取り出した。それは、昼間、こいしから手渡された虹色の宝石であった。
(……)
早苗も人間だ。人並みに欲という物を持っている。宝石を見つめながら早苗は夢想した。大量の札束に囲まれた自分の姿を。これだけの金があれば、一生遊んで暮らせるだろう。何一つ不自由なく、ありとあらゆる物を意のままにする事が出来る。それこそ、この幻想郷を買い取る事も出来るだろう。なんてバカな妄想だろうか。早苗は宝石をポケットに戻し、瞳を閉じた。
もし、こいしから、この宝石が採れる場所を聞き出す事が出来たなら……その時、恐らく自分は最強になれるだろう。
(……なんてね、それは、罪深き事ですわ)
早苗は自嘲気味に笑った。笑いながら、決意した。何もかもが片付いたら、この宝石はこいしに返そうと。自分は、今の暮らしで十分に幸せである。それに……金の為にこの子と一緒にいるわけではない。それを証明したかった。誰が見ている訳でも、聞いている訳でもないのに、早苗はそう心に誓った。その時――。
……もぞもぞもぞもぞ。
こいしが毛布の中で突然早苗に抱き着いてきたのだ。
「あのさ、もぞもぞしないでよッ! あーもう絶対寝れねぇ……」
「ねぇ早苗、眠れないよ……。何かお話してよ」
真っ暗闇の中でこいしがそう呟く。勿論、早苗は無視しようとした。明日もスカイフィッシュ狩りに出かけないといけないのだ。これ以上夜更かしして体力を消耗するわけにはいかない。背を向けて聞き流す事にした。だが、こいしがバタバタとベッドのスプリングを軋ませながら「ねぇねぇ」としつこく駄々をこねるので、早苗は思わず枕を掴んでこいしの頭をぶん殴ってしまった。軽めに。
「うー……ひどいよ……悲しいよう……しくしく……」
早苗はハッとして身を起こし、こいしの方に振り向く。こいしは涙を流して縮こまってしまっていた。その姿に心を痛めたのか、早苗は「仕方ない」と小さく舌打ちして、そして……。
「はぁ……昔々ある所に、おじいさんとおばあさんが……」
「えぇー何かそれつまんないよー、楽しくないー」
「じゃあ何だったら楽しいんだよッ!?」
殺されてぇのかあああッ! そう叫びながら早苗はこいしの顔に枕を押し付けた。無論、全然手加減している。それが何となく楽しかったのか、こいしがキャッキャと笑い声を上げた。
「だって早苗の話ってありきたりじゃん! 私のお姉ちゃんが毎日してくれるお話はすごく面白いのに!」
私のお姉ちゃん、つまり古明地さとりの事だ。
「……じゃあ、そのお姉ちゃんとやらは一体どんなお話するのよ」
「えっとね……確か……昔々ある所に……」
何だよ、全然普通の語り口じゃん。と、早苗は思った。そのまま転がっている枕にバフッと倒れ込む。うろ覚えなのか、こいしは話を思い出すのに夢中の様子であった。このまま寝てしまおう。
「おじいさんAとおじいさんB、そして、おばあさんの三人が同じ家に住んでいました」
「おい待て、何その複雑な事情を抱えた家は」
何でジジイ二人と、ババア一人が一つ屋根の下で暮らしているんだ。早苗の眠気が一気に吹き飛んでしまった。そんな訳アリの家族構成で問題が起きない筈が無い。
「ある日の事、おじいさんBは泣きながら言いました。『もうこんな暮らしは沢山なんだよ! 耐えられねぇよ!』と」
「そら見ろ! やっぱ何かトラブル起きてんじゃん! そりゃそうだよ! 何で今まで一緒に暮らす事が出来たんだよ! おじいさんBが可哀想だろ! おばあさんは何も思わないのかよ!」
「おじいさんBは……おばあさんに詰め寄りますが、おばあさんは……『何よ、今までこの関係で上手くいっていたじゃない』と、話を……最後まで聞いて……くれず……ぐぅ……ぐぅ……」
早苗は我が耳を疑った。まさかコイツ、寝息立ててないか?
「おいちょっと待て。こいしちゃん起きろ! おじいさんBはどうなったんだよッ? おい! なぁ、おじいさんBはどうなっちゃうんだよ! 続き言えよ! 気になって眠れねぇじゃんかッ!」
まるで猫のように丸まって気持ちの良さそうな寝息を立てるこいしがそこにいた。コイツ、私一人置いて寝やがった!
なんてひどい妖怪なんだ! 信じられねぇ!
しかし、何でだろう。早苗は疑問だった。どうしてこの子相手だと、何でも許してしまいたくなるのだろうか? 早苗は深々とため息をついた後、少しだけ自嘲気味に笑った。丸くなって眠るこいしに毛布を被せ、そのまま隅のソファーへと移動したのである。
(光栄に思ってよね、こいしちゃん……。私が寝床を明け渡す事なんて、滅多にないんだから……)
案の定、ソファーの方は寝心地が悪い。だけど、これくらいなら我慢してやろう。早苗は瞳を閉じ、眠りが訪れるのを待った。
……。
…………。
………………。
『?』
私、博麗霊夢は叫び声を上げてしまいました。
皆は、目が覚めた瞬間に「ワオ!」と声を出してしまうような状況に陥っていた経験はないだろうか? 今の私がソレである。
例えば、早朝に目が覚めた時、横に全く知らない人が寝ていたらどう反応する? そりゃもう「ワオ!」としか言いようがない。いや、この例えはちょっと変だわ。つまり何が言いたいかというと、私はたった今、目が覚めたという事。そこまでは普通ね。今は恐らく朝の七時くらいだ。そこら辺はちょっと曖昧になる。何故なら私は今「ワオ!」って叫びたくなる状況にあるからだ。
いつまでもこんな合宿免許みたいな単語ばっかり連呼していても仕方がない。簡潔に説明しましょう。
結論から言うと、目が覚めたら幻想郷が無くなっていたの。
私がさっきから何度も「ワオ!」って言う理由が良くわかるでしょう? 何これ、ドリーム? 私はまだ夢の中にいるの?
幻想郷が無くなったって言い方はちょっと大袈裟だったかもしれない。目が覚めたら、一面真っ白な「部屋の中」にいた。そりゃ悲鳴も上げるでしょ。見渡す限り白い壁で塗り固められた世界だった。部屋って呼ぶのも正しいかどうかわからない。そもそも、一面全てが白い部屋って遠近感狂うからここがどれほど広いのかすら把握できない。まず、私は立ち上がってしばらく辺りを歩いてみた。壁に向かってね。だけど、いくら進んでも壁には到達出来なかった。ここからはるか遠くに白い壁が存在しているのは確かなのに、何故かどれだけ進んでも壁に辿り着く事は出来なかったの。
それならば、上、つまり天井はどうだろうか? 私はそう思って天井目指して浮遊してみた。だが、これも向こうに見える白い壁と同じである。どれだけ浮上しても天井に到着できない。
ならば、下、ちょっと乱暴だけど床を壊してみようと思った。陰陽玉を取り出し、床へ思い切り叩き付ける。しかし、まぁ予想はしていたけど効果はまるで無い。床の材質は……幻想郷には存在しない物だ。石ともガラスとも違う。ヒビくらいは入るかと思ったけど、陰陽玉は大きな音を出すだけであっけなくその場にコロンと転がるだけであった。
今の説明で伝わったかどうかわからないけど、私は何もないドームのような空間にいるの。それも、ど真ん中に。そこからどれだけ移動しても空間の端には辿り着けなかった。かなり不気味だった。まるで、私の詮索を拒んでいるかのような……。
……さて、どうする。
普通こういう時、人はどうするか? 何処か良くわからない場所に監禁され、逃げ道が見つからない場合は……。
「ちょっとぉーーーーーーッ! 誰かぁーーーーーーーーッ!」
今年一番の大声を出したかもしれない。だが、反応はなかった。……落ち着きなさい霊夢、これはあくまでプランBくらいの作戦よ。奥の手は考えればまだ出てくるはず。泣くのはまだ早い。
「あのぉーーーッ! 困るんですけどぉーーーッ! すっごい困るんですけどぉーーーーッ! わぁーーーーーーーーいッ!」
しかし、私の叫びに応える者はおらず。悲しい静寂が広がるばかりだった。その後も、私は無謀に歩き回ったり大声で喚いたり空を飛んだりふて寝してしみたりを繰り返した。そんな事を多分二時間くらいやっていた辺りでようやく、「打つ手がない」事に気付いた。
「誰かいないのぉ……」
意図せずに言葉が漏れ出る。そう、正直何が一番きついかと言うと、それは孤独感であった。急に何もない真っ白な空間に連れてこられ、傍に誰もいないのは心細過ぎる。とにかく誰かに会いたかった。こういう時は少し能天気な奴が良い。暢気で何も考えてなさそうな奴、例えば、魔理沙とか丁度良いかもしれない。こんだけ静かなんだもん。魔理沙みたいに騒がしい奴がいたらだいぶ落ち着くでしょうね……。魔理沙に会いたいなぁ……。
それは一瞬、いや、瞬きの時間すらなかった。私が白い床に横になり、ふと霧雨魔理沙の事を考えていた時に、それは起きた。
私の目の前に、魔理沙が急に「出現」したのである。
「まっ、魔理沙……ッ!」
急な友人の出現に、私は堪らずガバッと起き上がった。その瞬間、頭の中で数えきれないほどの疑問符が合唱し始めた。
「ここは何処なの? さっきまで何処にいたの? っていうか何処から出て来たの? 幻想郷は、私の神社は何処? 紫は何処行ったの? あと、えっと、ああもう……ッ!」
その疑問符を次々と口にしようとしたもんだから呂律が上手く回らない。いっぺんに疑問を投げかけられても魔理沙だって答えようがないだろう。なので、質問を分かりやすく一つにまとめた。
「何が、あったの?」
すると、魔理沙は真顔のまま、口をゆっくりと開いた。
「まぁ霊夢、とりあえず落ち着くぜよ」
何その語尾。と思ったが、確かに今の私はちょっと冷静さを欠いていた。見慣れた相手なのに、魔理沙と会うのはかなり久々に感じた。そのぐらい私は疲弊していたという事だ。
「霊夢、お腹空いてないかぜよ?」
「いや……言われてみれば確かに、ちょっと空いてるけど」
「そうじゃないかと思ったぜよ。ちょうど『どら焼き』を持っているんだぜよ。これを食べて元気を出すぜよ」
「さっきから何なのその「ぜよ」って。……というか、えっと……」
何か、コイツと話していると混乱しそうになる。まず一から説明してほしい。私はそう言って魔理沙から手渡されたどら焼きを頬張った。餡子の甘さが口いっぱいに広がる。
「とにかく……ここは、一体どこ?」
そうだ、何を聞くにしてもまずは自分の現状を把握しない事には始まらない。私が質問すると、魔理沙は相変わらず無表情のまま、ムカつくぐらいゆっくりと呟いた。
「それより霊夢……どら焼きの「どら」の語源って知ってるか?」
「は? いや、まぁ……知らないけど」
「まぁ私も知らんけどな。うわははははははははははっ、ぜよ」
……何なの?
なんで、そんな取って付けるような感じでいちいち語尾に「ぜよ」を付けるの? いや、その前に、何で知りもしないくせにわざわざどら焼きの「どら」の部分の話題を出したの? 何コイツ。
「何だよ霊夢。何をイライラしているんだ? ぜよ」
「アンタがトンチンカンな事言うからでしょう? それより、私の質問にちゃんと答えてよ!」
「……まさか、霊夢、お前……」
さっきまで変な笑い顔を浮かべていたのに突然表情を真顔に戻して喋るもんだから、少し身構えてしまった。何この魔理沙。
「まさか……どら焼き……嫌いだったのか?」
「もういいのよどら焼きの話は! 急に神妙な面持ちになるから何を言い出すかと思えば何を言い出すのよ……」
「いや、でもどら焼き嫌いなんだろう? だからそんなに機嫌が悪いんだ。ごめんな霊夢。お前がどら焼き嫌いなの、知らなかったから、そんな事考えずついお前にどら焼きを渡してしまった。本当に申し訳ないと思っている。私さ、どら焼きって世界の誰もが好きな食べ物なんだって思ってたからさ。まさかお前がどら焼き嫌いだとは思わ」
「いや! だからもういいんだってどら焼きは! 別にそんなに嫌いじゃないわよ! って言うか何で私がどら焼き嫌いだからってそんな食いついてくるのよ! アンタ別に私がどら焼き嫌いだからってそこまでグイグイ来るキャラじゃないでしょうが!」
「じゃあ霊夢は……どら焼きが、好きなのか……?」
「……何で、そんな重要なセリフっぽい感じで聞いてくるの?」
それも物凄く真剣な顔して。
何だか魔理沙に会いたいと思っていた数分前の自分を殴りたくなった。というか、さっきから何故魔理沙はこんな馬鹿みたいな事ばっかり言うんだろう。話が一向に進まない。
「なぁおい! お前の口からちゃんと聞かせてくれよ! 霊夢は、どら焼きが好きなのか? どうなんだ! ぜよッ!」
ここで、我慢の限界に達した。
「ねえ、ちょっと待ってよ! 別に私がどら焼き好きか嫌いかなんて今はどうでも良い事じゃない! なんでそんなに私がどら焼きをどう思っているかについて質問するの? 今までそんな話した事一度もないわよね? っていうか何でさっきからいちいち語尾に「ぜよ」を付けるの? いい加減にしてよ!」
「……あ、その、すいませんでした」
「……え?」
何なの? その後、魔理沙は約数分間ずっと「何か、調子乗ってすいません……」と呟きながら下を向くばかりだった。
そもそも最初から疑問だった。ひょっとしてこの魔理沙は「私の知る魔理沙」ではないんじゃないか? そう考えた途端、目の前にいる「魔理沙の姿をした何か」がとても気色悪い物のように思えた。一瞬だけ、私が脳内で「こんなの魔理沙じゃない」と考えた時――。
「あ、あれ……魔理沙……?」
突然、魔理沙の姿が消失したのである。出現した時と同じく、何の音もなく、パッと、まるで魔法のように消えてしまったのだ。何度か魔理沙の名を呼んだが、返事はなかった。
「何だったの……?」
この時点で思った事。それは、ひょっとして私は何らかの異変に巻き込まれてしまったのではないのだろうか? もしくは、私はまだ眠っていて、何処かの妖怪が私の夢の中に干渉してきたのか? 今の段階ではこの二つが最も有力な説である。
あの魔理沙は、私の無意識が生み出した幻影にすぎなかったのではないだろうか。というか、その方がはるかに可能性が高い。だって、あんな訳の分からない魔理沙なんて見た事が無い。
ところで、再び沈黙が訪れる。こうなってくるとますます何らかの打開策を見出さなければならない。しかし、移動しても移動してもこの空間の淵には辿り着けない。真っ白なドームのど真ん中、途方もないぐらいの解放感だというのに、まるで人が一人分入るのがギリギリな棺桶の中に閉じ込められたように窮屈な気分だった。
「うわはははは! うおおおおおおおおおおッ!」
私は立ち上がり、思い切り爆笑しながら走り回った。もう何でもいい。とにかく走った。私は今、山の中で遭難した時に一番してはいけない事をしている。闇雲に動き回る事だ。見知らぬ場所でそれをやっても無駄に体力を消耗するだけで終わる事が多い。
だから案の定、数分もしないうちに私は息切れしてしまった。さっきと景色が一切変わってない。相変わらず、ど真ん中。
「あぁ……何か凄い余計な事した……」
明らかにこの空間は異常だ。動き回れば動き回る程、この白いドームは膨張している気がする。無限の宇宙に放り出されたような気分だ。どうしようもない。超絶マジ無理踊るぽんぽこりん(は?)。
そう言えばそんな能力使う奴いたな。紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だ。彼女は時を操る能力がメインだが、時間と空間はかなり密接な関係にある。彼女はその能力を利用してあの無駄に広い屋敷で家事を行っているのだ。それに、紅魔館の図書館だって彼女の力を利用してあの広さを保っている。理屈は分からん。
大切な事は、咲夜ならこの状況を打開出来るのではないか、という事である。「咲夜がここにいてくれたらなぁ」と私は心の底から思った。すると……。
魔理沙の時と同じである。何処からともなく、目の前に咲夜が出現したのである。「登場」ではない。「出現」である。まるでTVのチャンネルを変えるように、音もなく咲夜がそこに現れたのだ。
「咲夜……ッ!」
私は咲夜の顔をじっと見つめる。何を考えているのかよくわからない表情である。この段階で嫌な予感がした。こいつ、さっきの魔理沙と全く同じ顔つきであった。
「咲夜、聞きたい事があるんだけど……」
恐る恐ると言った感じで私は咲夜に話しかけた。
「……聞いてあげましょう」
おお、ようやく話が通じた。何かそれだけで涙が出そうになった。カザフスタンで日本語分かる人に巡り合えたような安心感があった。言葉が通じるって、普通なようで幸せな事なんだね。
「ここは何処? みんなは? 私の神社は何処へ行ったの?」
人と人とのコミュニケーションっていうのは「言葉」だけで成り立つ物ではない。話す人間の仕草や表情、目線、様々な要素が合わさって初めて「会話」と呼べる。そして、咲夜は?
先ほどの魔理沙と同じだ。私の質問を聞いても、眉一つ、瞬き一つしない。まったくの無の表情であった。話をちゃんと聞いているのかすら怪しい。永遠のような間が空き、そして……。
「そんな事より霊夢……私の新しいモノマネを見てくれない?」
嫌な予感が的中した。
何? モノマネって。咲夜は普段そんな事を言うような人間ではない。もう少しクールで、如何にも瀟洒って感じのメイドさんである。そんな彼女が、一体何のモノマネをするというのか?
すると咲夜はおもむろに立ち上がり、右手にバナナを持ちながら珍妙なポーズと珍妙な表情をして見せた。
……何のモノマネだろう?
「見てわからない? 『スーパードンキーコング3 謎のクレミス島』の左のゴリラのモノマネなんだけど」
「……何なの?」
何で、このタイミングでドンキーコング3のディンキーコングのモノマネなんかするの? しかも私の話、「そんな事より」って言いながらサラッと流したし……え? 何コイツ? 本当に咲夜?
「ちょっと霊夢! ドンキーコング3、じゃなくて、『スーパードンキ―コング3 謎のクレミス島』よ! 二度と間違えんな!」
「いや正式名称とか別にいいでしょう! 無駄に長いし! 何なのそのドンキーコング3に対するこだわりは」
「……んだよ……」
なんでちょっとガチギレな感じで非難されないといけないんだろう。私そこまで罪重い事したの? 何コイツ……。
念願の話し相手の出現だというのに、変な空気がお互いの間に流れる。咲夜は不貞腐れたようにそっぽを向いたまま黙り込んでいた。何しに来たんだコイツは。登場してまだディンキーコングのモノマネしかしてない。というかモノマネする意味が分からない。
「……ひょっとしてアンタ達、私を担ごうとしてない?」
私は疑問をそのまま口にした。もしかしたら、これはいわゆるドッキリなのではなかろうか? みんなして私を困らせて面白がっているのではないか? 私が眠っている間にこの変な空間に連れ込んで、私のリアクションを見て楽しんでいるのではないだろうか? いや、その可能性は大いにあり得る。だって私の周りにいる奴らって馬鹿なんだもん。
「ねぇ咲夜、真剣に答えて。アンタ、何か知っているの?」
「……」
すると、咲夜は少し困ったような表情を浮かべた。私の質問には訳あって答えられない、といった様子である。
「霊夢、その質問は……」
また、今度という訳にはいかない?
咲夜の返事に、私は心の中でガッツポーズをした。もしかしてこれはチャンスなのではないか? 今のこの現状を打破する唯一の突破口である。……恐らく、咲夜は何かを知っているのだ。
「何でもいいから、知っている事を教えて。咲夜、あなただけが頼りなの。これ以上此処にいると頭がおかしくなりそうなのよ!」
事実、この時点で私はかなり参ってしまっていた。目覚めてから時間の経過が一切分からないし、この空間には窓もない。分からない事尽くしの場所でただただ疲弊するばかりだったし。
「落ち着いて霊夢。……分かったわ。少しだけ話しましょう」
咲夜の表情に変化があった。困ったような、仕方なさそうな顔をしていた。私は固唾を飲んで咲夜の言葉に耳を傾けた。
「……あまりショックを受けないでほしいんだけど、結論だけ言うわ。霊夢、あなたは死んだの……」
「……ッ!」
あまりの真実に驚きを隠せなかった。頭の中が真っ白になった。私は死んだ? 一体咲夜は何を言っているの? いや、まさか、だが……そう、それだとこの状況の説明がついてしまう。
「昨日、あなたは夜中いつものように博麗神社で眠っていたの。しかし、そこに運悪く雷が落ちて、霊夢の顔面を綺麗さっぱり打ち抜いてしまったの。顔面に大きな穴が空いていたわ……。その後、霊体、つまり今のあなたは死んだ事に気付く事が出来ず、是非曲直庁の判断で『天国でも地獄でもない名前も付いていない空間』で待機する事になったのよ。それがここ。そして、あなたが見ているこの咲夜という人物は、あなたが生前の頃に記憶していた「十六夜咲夜」の情報を元に具現化した幻影でしか無いのよ」
「そんな……私、本当に死んでしまったの……?」
「いや、まあ全部嘘なんだけどね、えへへへへへ」
……。
ぶん殴っちまえ。
私は涙目になりながら咲夜を睨み付けた。一体どういうつもりだこのいかれポンチは。何でそんな嘘をつく? どうしたいの?
「ごめんって。そんな怒らないでよ。えへへへへへへ」
コイツさっきから笑い方が気持ち悪いなぁ。
「いや、もういいから。全然怒ってないから。とりあえず、咲夜が知っている事を今すぐ吐け。全部吐け。さもないと殺す!」
ここまで本気で「殺す」という言葉を使ったのは人生初だ。私は今そのぐらい追い詰められている。正直もう限界だった。
「悪いんだけど、今は何も喋る事は出来ないのよ」
「なんでよ! いいからこの状況を説明してよ。さもないと殺す!」
「どうしても無理なのよ! 私だって本当はあなたに『秘密』を教えてあげたいんだけど、今はどうしても出来ないの!」
「『秘密』って……何……?」
その瞬間、突然白いドームの中でけたたましいサイレンの音が鳴り響いたのだ! 咲夜はハッとしてその場で身構えた。何が何だか分からず、私は呆然とする事しか出来なかった。先ほどまで白一色だった世界が赤く点滅する。警報のような音が鳴り続ける。
すると、咲夜は突然、先ほどとは打って変わって必死の表情を浮かべていた。そして私の方を見て、何かを叫んでいた。
「 ッ!」
しかし、私の耳には何も聞こえなかった。得体の知れない恐怖があった。咲夜の声が聞こえないのは、サイレンの音でかき消されたからではない。咲夜の声が、切り取られたかのようにこの場から「消失」してしまっているのだ。まるで、この世界に、咲夜の声が存在しないかのように……。
「なっ、何? 何なの咲夜! 聞こえないよ! どうしたの!」
咲夜は死に物狂いで私に何かを訴えていた。だけど、声が一切聞こえない。私は咲夜の唇を凝視した。読唇術なんて私には出来ない。
だけど、何を言っているのかは何となく分かった。
咲夜は「たすけて」と言っている。