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誰かと誰かが何かを言い合う声がした。
一人は何か文句を言っているようで、もう一人はそれを邪険にせず笑って受け流しているような、そんなやりとり。
「う……」
どちらの声も聞き覚えがあった。文句を言っているのは主人である博麗霊夢。にこやかにしているのは幻想郷の賢者――八雲紫。
「あ、気がついたみたいね。大丈夫? どこか痛むところはないかしら?」
「加減はいたしましたわ。痕になるような傷も後遺症もないはずです。少し居眠りが良すぎるほどでしたし」
「あんたの言動はいつも信用ならないっての。とはいえ、あうんも相手は選びなさいよね。妖怪を追い払ってくれようとするのはわかるけど、こいつはさすがに荷が重すぎるわ」
「えっと……はい。……あれ?」
状況が飲み込めず目を瞬かせる。目の前には八雲紫の顔、すぐ横にも自分を見下ろす主人の姿があった。後頭部にはぬくもり……どうやら自分は賢者の膝に寝かされているのだと遅れて気づく。
体を起こして目をこする。
ここは博麗神社だ。さっきまで自分が掃除をしていた。だが、覚えのない時間が経過しているらしく、日を浴びる鳥居の影が記憶とは違う象りをしていた。朝ではなく、ほぼ真昼頃といったところ。
「賢者様。あの、さっきのは――」
先ほど見た光景を尋ねようとしたとき、八雲紫の人差し指が彼女の口元を縦に覆った。
シィ、と。子供のような無邪気さを秘めた沈黙。闇の中での語らいは、二人だけの秘密に。
主人に話さないのは確かに得策だと思った。知られれば、きっといい顔はしないだろうから。
「なに? どうしたの二人とも」
「いえ、なんでもないです。ちょっと寝ぼけてたみたいで」
「そうでしょうねえ。なんといっても、賢者である私の膝枕ですから寝心地が良くて当然」
「賢者絶対関係ないし。まあ柔らかそうではあるけどね。肉付いてて」
「蔑んでるのでしたらお生憎様。これから長い睡眠を取るんですの。ある程度の栄養の貯蔵は必要不可欠。これくらいがちょうど良いのよ」
「いや、貯蔵っていうかそれ単なる怠けなんじゃ」
博麗霊夢の指摘に賢者はどこ吹く風。これ以上の皮肉は無駄と判断したのか、巫女はため息をついてこう話題を切り替える。
「ま、とりあえず上がりなさいよ。ずっとここで立ち話ってのも疲れるしさ。お茶くらいなら入れるわよ」
「嬉しいお誘いですけど、私はご遠慮させていただきますわ。もう用は済みましたし」
賢者は立ち上がり、そばにあったへんてこな形の傘をさして境内へと歩いて行った。
「それじゃあ霊夢、私が留守のあいだここをお願いね。ほとんどのことは藍に任せてるけど」
「はいはい。ま、いつもどおり適当にやってるわ」
霊夢は手をプラプラとふって賢者に背を向ける。
あうんは主人のそぶりを見て少し笑ってしまった。知っているのだ、彼女のそのクセを。顔を背けるのは内心を悟られたくないがため。これから八雲紫とはおよそ三ヶ月ほど会うことはない。それを巫女は少し寂しがっているのだ。
そんな主人を見ていると――
「あうん、霊夢をよろしくね」
その言葉を最後に、八雲紫はスキマの中に消えていってしまうのだった。
「……紫となに話したの? あいつやけに機嫌よさそうだったけど」
「い、いえ。特にはなにも。というより、賢者様はいつもニコニコしてるように見えますけど」
「あ~……あれはフリよ。自分はなんでも知ってるぞーっていうハッタリなのがほとんどなんだけど。でもさっきのは違ったわ。あんたを介抱してくれてたでしょ。あいつ、普段は他人に自分を触らせないのよね。自分はスキマからちょっかい出してくるクセにさ。でなきゃ、介抱せずにそこらへんに放置してたはずよ」
霊夢の指摘に納得する。肉体を手に入れる前、博麗神社で何度か賢者と誰かの決闘を見たことはあるが、八雲紫が相手を介抱している姿は記憶にない。
うまく話題をそらせることに成功したものの、やはり疑問は尽きなかった。賢者はなぜ、ああも自分に好意的なのか。
「ま、あんたはずっとここを守護してきた狛犬だからじゃないかしら。誇って良いと思うわよ。妖怪の賢者に気に入られるなんてそうそうないし」
と、言われてもあうんには実感がなかった。
神霊として自我を持つより前の記憶はおぼろげで、自分がどれくらいのあいだ博麗神社に在り続けたのかはわからないでいる。受肉以前の役目を讃えてくれているのなら、それはどこか他人事のような気もして。
「さ、無駄話はこれくらいにしてお昼ご飯にしましょ。……どうする? 一人分も二人分も作る手間は変わらないんだけど」
「あ、私は――」
いつもどおり「遠慮する」と言いかけて口を噤む。夢の中での賢者とのやりとりを思いだし、あうんは少し考え直すことにした。
主人の厚意に甘えられる好意を。
賢者に頭を撫でられた時のことを思い出す。
あるがままに受け入れられるのが心地よいのなら、それを主人にも分け与えてみたい。
ほんの少しの、小さな言い訳。
「……はい。お言葉に甘えさせてもらっても良いですか? お手伝いもします」
「ありゃ、今回も断られると思ったのに。どういう風の吹き回しかしら。紫となにを話したんだか」
「そ、それは秘密です」
「なんだ、やっぱりなにか隠してるじゃない。どういう関係なのよあなたたち」
苦笑しながらも、巫女はそれ以上問い詰めるようなことはせず、買ってきた食材を持って神社の調理場へと向かっていった。あうんも彼女の後ろをついていく。
「あの、ついでと言ってはアレなんですけど」
「なにかしら?」
甘えついでの提案。次に賢者と会うとき、少しは成長した姿を見せたいと望むあうんの願いがそこにはあった。
「お茶の入れ方を教えてください。賢者様にはお世話になったんですけど、なにもお返しができてなくて」
照れながら言う。おこがましいかな、なんて多少の不安もあったが主人の返答は期待通りもので。
「別に構わないわ。ていうか、そんなに畏まらなくて良いってば。私にも紫にもさ。お茶の入れ方くらいでそんな」
台所へ向かう廊下で不意に主人の言葉が途切れる。思い立つことでもあったのか、彼女は再び笑みを作りながらこんなことを告げるのだった。
「お茶の入れ方は教えてあげるけど、紫に出すんだったらそんな真面目に身構えなくても良いわよ」
「え、どうしてですか?」
「あいつってば、出涸らしですらおいしそうに飲むのよ。ったく、どんな貧乏舌してるんだかねえ」
博麗霊夢は年相応の少女らしく、クツクツと笑う。それを見てあうんもつられて笑ってしまった。
ただし、その意図するところは違う。彼女と同じでおかしく思ったのではなく、八雲紫がどのような気持ちで巫女のお茶をすすっているのか容易に想像がついてしまったからだ。
それは単に、博麗霊夢の出すものならなんだって幸せに浸れる、ということ。
それは、主人と一緒にいるだけで幸せになれる自分とまったく同じで。
(このことは黙っていよう。言ったら、恥ずかしがってお茶の入れ方教えてくれなくなるかもだし)
台所に到着して主人に指示を仰ぐ。
不慣れなことばかりで主人を慌てさせることもしばしばあったが、その日の博麗神社はいつもよりも賑やかで、ささやかな喧噪がこぼれるのだった。