男の気が狂ったのは、鈴奈庵が保管する妖魔本が関係しているらしかった。
祐天上人が封印した、とある艶書。
その艶書には、若くして死を遂げた娘の怨霊がこびりついていた。
怨霊となった娘は、生前あった無念の穴を埋めるため、その妖気を異性にあびせて艶書を書かせていたのだという。
しかし、娘の怨霊には体がない。体がなければ、艶書を受け取ることができかった。
そこで操られていたのが。
「おねえちゃんだったわけ、か……」
「そのとおりじゃ。巫女の話によれば、それはもう解決したと見ていたようじゃが」
お花見祭翌日。露店の茶菓子屋にて。
祭に出会った男。その事後を、子狐は街道を行く人々を横目に湯呑みをかたむけながら、二ッ岩マミゾウの話を聞いていた。
本居小鈴はその艶書の怨霊に体を乗っ取られ、若い男性に艶書を書かせていたのだ。
それを博麗霊夢が発見、退治し、再封印をほどこして幕引きをしたのである。
操られていたため、小鈴にはその記憶がない。
そして、男の方にも記憶はない……はずだった。
「小娘の出で立ちが記憶を呼び覚ます一因になったやもしれんな」
煙管をふかしてマミゾウはこう続ける。
「怨霊は白い着物に長い髪だったそうじゃ。そう聞くと、祭のときの小娘の浴衣姿と似ておるじゃろ。おそらく、それで男の記憶が錯綜したんじゃな」
男に浴びせられた妖気は完全には消えていなかった。それを見落としていた巫女の落ち度だと、博麗霊夢は反省していたという。
「自分に惚れるよう怨霊に術をかけられたままだったんじゃ。当時、巫女が男の安否を確認したときは『記憶がない』と報告されたそうじゃが、無意識にか、それとも花見で酒が入ったせいなのか、小娘の姿をみて思いだしてしまったんじゃろう」
そのせいで、あんな凶行に及んだと。
昨夜のうちに、巫女は男にお祓いをほどこしたという。これで間違いなく、小鈴にはもう迷惑はかからないとのこと。
被害を受けた本人には、あれは妖怪の仕業だったと、ある程度ぼかして伝えるつもりらしい。男も被害者であったこと……そこを重点的に話し、示談で済ませるのだ。
「ただし、これで一件落着……とはいかんようでな。巫女は怨霊がどれだけの男に艶書を書かせていたのか把握はしておらんようなんじゃ。だから、小娘はこれからも昨日と同じような危険にさらされるやもしれん、とも言っておったな」
「ふ~ん、別に良いさ。そのときは、またおねえちゃんを守ればいいんだし」
「随分と過信するじゃないか。昨日もワシがおらんかったら危なかっただろうに」
「過信じゃないさ。おねえちゃんを守っているのは僕だけじゃないし」
子狐は不敵に笑ってマミゾウをみた。
「ワシをアゴで使おうという気か? 狐に利用されるのは良い気分にはならんが」
「信頼、って言ってほしいね。おねえちゃんのことに関しては、マミゾウは頼りになる。あのとき僕を助けてくれたのが何よりの証拠だよ。昨日は本当にありがとう」
「ハハッ、持ち上げてもなにも出んぞい。ま、言葉だけは受け取っておくよ」
本居小鈴身辺は、自分と狸が守る。
そう確認がとれたところで子狐は席を立った。
「僕、もう行くよ。おねえちゃんの様子をみてくる」
「そうか。個人的にじゃが、貴様の恋路を応援しとるよ。達者でな」
「うん、マミゾウもね。ああ、それと……」
子狐は顔だけを振り向かせて狸に口端をあげた。
笑顔ではあるが、瞳孔が開いた威圧的な視線。
それを浴びせてこんなことを言う。
「本心ではなにを考えてるのか知らないけど、全部が全部あなたの思い通りになると思ったら大間違いだからね。僕とおねえちゃんとをくっつけて何がしたいのか、きっと曝いてみせるから」
吐き捨てるように言って子狐は去って行く。
一方、二ッ岩マミゾウはキョトンと目を丸くしていた。
煙管を咥えなおし、肩で一つ息をつく。
(やはり狸と狐は相容れんか。それにしたって、良い眼をするじゃないか。小童かと思っておったが、あやつはいつか化けるな。力をつける前に芽は摘んでもおきたいが……)
それだとマミゾウの目的に反する。
なにせ、この化け狸は本気で、「恋」が今の人里のルールを変えうるものだと思っているから。
が、それは副次的な望みでしかない。
(やれやれ、思ったよりも嫌われたものじゃな。元から信用はされておらんかったわけか。あんなふっかけかたをしたのだから当然……というより、ワシがキツネを巫女から助けたのが決め手になったんじゃろうなあ。ただより高い買い物はない、か)
キツネの正体も誤魔化しておいた。彼と本居小鈴との関係を続けさせるために。
その利点のウラに、キツネは策謀のニオイをかぎつけたのだろう。
二ッ岩マミゾウの真の目的とは。
本居小鈴がたどり着く未来をみること。
彼女の力がもたらす影響は、監視している博麗霊夢が思うよりも大きい。現に、巫女のあずかり知らぬところで本居小鈴に恋い焦がれる妖怪があらわれているのだから。
貸本屋の娘の行く末。彼女が命尽き果てるまでは観察を続けたいと思っている。
しかし、その過程で本居小鈴が妖怪化してしまえば、巫女に処断されてマミゾウの願いは叶わなくなる。
キツネはそのときのための「保険」なのだ。
巫女は妖怪になった人間を慈悲なく退治するが、やむを得ない事情があれば見逃す傾向がある。
後天的に妖怪になった寺子屋の教師。
艶書にとりつき怨霊となった若い娘。
前者には敬意をもって接し、後者は処分することなく封印するにとどまっている。
本居小鈴が妖怪化すれば、キツネが原因だと巫女にふきこむのだ。
そうすれば、本居小鈴は処断されない。キツネは想い人が助かるならと、自ら命を差し出すだろう。二人が恋仲になった状態であれば、なお信憑性が増す。
(とまあ、そんな絵図を描いてはいるが、バレるのも時間の問題かの。はてさて、どうしたものか……)
焦燥はない。むしろ、楽しげにマミゾウはその状況を思い浮かべた。
(狸と狐の化かし合い、か)
クツクツと抑えきれない笑みをもらし、煙管から吐き出す煙を目で追っては空を仰ぐ。
思惑を吸い込んだ白煙は、
染みこむように人里の街道へと消えていった。
「で、なにがあったか説明してもらいましょうか」
「な、なにがってなによ」
貸本屋、鈴奈庵の昼下がり。
お昼休憩をとっていた小鈴のもとに、その親友である稗田阿求が訪ねてきていた。
本の返却を兼ねて、祭でのことを聞きにきたのである。
親友の顔は鬼気迫るものがあった。一挙手一投足すべてを見逃さんという意気込みが見て取れるほど。声を押し殺して、彼女は耳元でこんなことを指摘してくる。
「とぼけないで。おばさまに聞いたわよ、浴衣を土で汚して帰ってきたって。あれだけ節度と風紀を守れって釘をさしたのに。……ふ、不潔よ。まさかあんたがそこまで淫らなやつだとは思わなかったわ」
「あんただってなに想像してんのよ。誤解よ! 浴衣の汚れにはキチンとしたワケが」
「ワケ? あんな小さな子を押し倒すワケなんて聞きたくもないわ」
「そっちに考えを飛ばさないでってば! 押し倒すまではしてないって!」
「押し倒す……までは?」
「ハッ」
親友は一歩ひいていた。
慌てて口を噤んでも、相手は求聞持の力をもつ少女。忘れてはくれない。
自らの墓穴に小鈴は頭を抱えてしまう。
訝しみは一層深くなり、阿求は再び尋ねてくる。
「じゃあ一応聞くけど、どこまでやったのよ」
「キ、キスはしてあげたかな。あ、もちろん唇じゃないわよ。おでこよおでこ」
顔を赤くして、両手の人指し指をトントンと合わせる小鈴。
申し訳なさそうにチラリと親友を見ると、彼女はひときわ大きなため息をついていた。
「あのねえ小鈴。真面目な話よ。あんまり寺子屋の子供たちに刺激を与えないで。教育に悪い影響を与えちゃったら、先生にどやされる程度じゃ済まなくなるわよ。あなたは年長者として、それと、女性としてもっとモラルをもってほしいのよ」
「モラル?」
「倫理とか道徳とか、そういう意味よ。まあ、本気であの子に気があるなら話は別になってくるかもしれないけどさあ」
「私からしたかったのよ。変な意味じゃなくて、お礼のつもりだったの。祭に誘ってくれたお礼。それじゃダメ?」
「ダメってわけじゃないけど、なんなのかしら? あんたが言うと、どこか犯罪臭く感じるのよ。信用ならないっていうか。じゃあさ、浴衣の泥は?」
「えっと、転んだのよ。普段履き慣れない桐下駄だったから」
「ひとけのない神社のウラで?」
「そうそう、神社のウラで……って、あんたなんでそれを」
「私みたのよ。あんたたち二人が神社のウラから出てくるのをさ。なにしてたの?」
口を滑らせてしまって絶句する小鈴。
阿求はずっと小鈴を睨みつけていた。
「えっと……花見よ。境内は人が一杯だったから」
「桜の木が一本もないところで?」
「あ~、間違えた。花火よ花火。あそこから見える花火は温泉にも映って絶景でねえ」
「あんたやっぱりなにか隠してるでしょ」
「…………」
言えない。男に襲われたことは、博麗霊夢に口止めされている。
巫女の話に寄れば、男は妖怪に操られていたとのこと。自分はもう許しているし、彼の社会的立場を鑑みて、誰にも話さないようにと言われているのだ。
だから、ますます怪しまれてしまう。
そんな風に睨まれて数十秒。
話す気はないと悟った阿求は再びため息をつき、代わりにこんなことを聞いてきた。
「あの男の子から迫られたら、あんたどういう返事をするつもりなの?」
「ど、どうしようかな? ま、迷っちゃうわね」
「それ本気で言ってるの?」
「う、うん」
本心だ。受け止めるにしても断るにしても、誠意は必要になる。
想いを告げてきた異性との未来を想像するのは、人として当然──
「ということはさ、迷うほどにはあの子のこと気にはなってるのよね」
「え……」
気になってる? どうだろう?
そういえば、キスをしたあともどこか居心地が悪くなり、そそくさと鈴奈庵に戻った。胸だって苦しかったし顔も熱かった。単にあれは初めてだったから。
「親友の隠れた性癖。少年趣味、か……これはさすがに誰にも話せないわね」
「待って待って。え? え?」
「大丈夫。私も、あなたのことは理解できるよう努力するから」
親指をたてられても困る。
親友の中で出た結論は、小鈴にとってはあらぬ方向に激走してるようで。
「でも、子供に手を出しちゃダメ。そうならないよう、お互い注意していきましょうね」
阿求は涙を流しながら親友の肩に手を置く。
小鈴はふるえていた。
彼女の気遣いに喜んでいるのでは決してなく。
そして、自身の性癖を露わにしてくれたことでも、もちろんない。
誤解をとけない不条理さを込め、小鈴は店先まで聞こえる声でこう叫んだ。
「ち、がああああああああああああああああうっっ!!」
子狐×小鈴はもっと作品増えてほしいですよねぇ。