本居小鈴は子狐からの祭の誘いをあっさりと承諾した。なんでも、祭の日は客の入りも悪く、両親から夕方は休みをとっても良いとのこと。
子狐は至福をかみしめた。どうして躊躇う必要があったのか、勇気を持てなかった自分を恥じたくらいだ。あまりにも興奮しすぎて寺子屋での授業中や街道での往来中、危うく人前で変化が解けて正体がバレそうにもなった。
そして、彼と同様に喜んだのは、ことの発端を運んだ二ッ岩マミゾウ本人もだった。
彼女は自分の申し出を請け負ってくれた子狐に対し、お礼として男女間の外出におけるノウハウを、祭当日まで子狐に教え込みもした。
恋心を証明するための誘いではあったが、当日になってみればそんなことは天の彼方へとかき消され、どうすれば二人での夜を失敗しないか、それだけが気がかりになっていた。
『良いか? おなごというものは、外に出かけるときはある程度身だしなみを整えてくるのじゃ。男以上に気を遣ってな。まずは普段とは違うところを見つけて、それに対して感想を言うが良い。それだけで嬉しくなるものなんじゃよ』
脳内に響くのは、二ッ岩マミゾウの声。その小言は子狐にしか聞こえていない。
式神を利用した通話術だ。前日に彼女から受け取ったモノで、肌着にそれを縫い付けてある。念じるだけで、秘密裏に会話ができる優れもの。
(もし、いつもと同じだったらどうするの?)
日没直前の人間の里。子狐は鈴奈庵の外の壁にもたれかかっていた。マミゾウから祭での動き方をある程度指南してもらったものの、その要領はイマイチわかっていない。
やれ男がリードするものだの、やれ食事は男がおごるものだの、会話は常に楽しませるものだの。
『まあ、小娘の場合その可能性は充分にありえるの。だったら容姿に触れず、祭の話題を出せば良い。どんな催しがあるのか、何を食べようか、とかじゃな。大事なのは会話を途切れさせんことじゃ』
(ふうん、そういうものなんだ)
『そういうもんじゃよ。キツネや、お主だって小娘と話すのは楽しいじゃろ?』
(うん、おねえちゃんとはずっと喋っていたい)
『だったら心配はなさそうじゃ。お主と小娘、両方が楽しむにはどうしたらいいか、それを常に考えておけ。そうすればお互い不幸にはならん。ま、話題に困ったら、天気の話でもすればええ。誰もができる無難な話題じゃからな。ただし、これは最終手段だと思え。天気の話は万能であるがゆえに、一度使えばそれで打ち止めじゃからな。特別な日のはずがただの世間話をした日になるぞい』
(う、うん……気をつけるよ)
マミゾウに念をおされて子狐はたじろいだ。
年の功だろうか。彼女から聞かされる話は鬱陶しく思うものの、説得力は確かに存在していた。
(経験談なのかな?)
『聞こえとるぞ。……ったく無礼なやつじゃな。せっかくワシが』
そのときだった。
店の中からカランコロンと下駄の音がした。それと同時に暖簾から人影が覗く。
「ごめんね待たせちゃって。準備にちょっと手間取っちゃった」
「…………」
『…………』
鈴奈庵から出てきたのは本居小鈴本人に相違なかった。
が。
その姿は普段の割烹着姿とはまるで違った。
白桃色の生地に鈴の模様をあしらった柄の浴衣。そして、葡萄模様の花緒がついた高級そうな桐下駄を履いている。
普段との違いはそれだけではない。
髪が鈴で結わえられておらず、その赤髪は背中まで降ろされていた。鈴の髪留めは手首に巻かれ、チリンといつもよりおとなしめに鳴いている。
そして、向き合ってみないとわからないが、少しだけ化粧もしていた。
夕焼けの残滓に照らされる唇は、ほのかに果実のように瑞々しく。
少量のおしろいで塗った肌は、木綿のような柔らかさが感じられた。
着物にお香も焚いたのか、それとも匂い袋なのか、仄かにゆかしい香りもあって。
「…………」
「……? どうしたの?」
端的にいって、子狐は見とれていた。彼が固まっているのは無理もない話だった。
憧れであった本居小鈴との外出。それが叶い幸せに満ちた感情であったところ、その許容量を振り切るような出来事が今まさに起こったからである。
自身では処理できない情動と、子狐は必死に戦っている。
『……ハッ!? い、いかん、ワシまで見とれてしもうた。やいキツネ! さっさと何か言ってやらんか。最初が肝心じゃぞ!』
「今日は良い天気だね!」
『たわけ! それは最終手段だと言ったじゃろうが! 他にあるじゃろう!』
直前に伝えられたマミゾウの指南は、むなしくもあっさりと忘れられていた。
とうの小鈴はそんなことを知るよしもなく。
「そうね。雲はほとんどないし、桜も打ち上げ花火もキレイにみれそうね」
小鈴は空を見上げていう。その、彼女が髪を耳にかける仕草だけでも、子狐は胸が張り裂けそうな思いがした。
直視できないほどに恥ずかしさがこみ上げ、自分ももっと上等な服を着てくれば良かったと猛省する。
「じゃ、行こっか」
手を差し出されてたじろぐ。
触れて良いのか。雰囲気が違うどころか神々しささえ感じられる彼女に、自分の小ささが耐えられるかどうか不安になった。
当然ながら、そんな悩みは彼女に通じてるはずもなく。
「ほら、キチンと手を繋いでないと迷子になるでしょ。なんだかんだでお祭りは人がたくさん集まるんだから、はぐれちゃうと帰れなくなるわよ」
「う、うん……」
自分よりも大きな手に包まれて、子狐は顔が熱くなっていくのを感じた。
多分、今なら顔で目玉焼きができる……そんなどうでも良いことを考えてしまうくらい、彼には余裕というものがなかったのである。
賑やかな祭り囃子が聞こえている。
子狐と小鈴は手をつないで、博麗神社へとつづく街道を進んでいた。行き交う人々はみな笑顔で提灯を構え、各々夜道を夕凪色に染めている。二人もその波にのまれ、子供たちの騒ぐ声や商人の呼び込みがそこかしこから聞こえてきていた。
「どこもかしこも盛況してるねえ。私も一応は商売人だから、みんなが気合いを入れる気持ちわかるなあ」
「…………」
「まあでも、貸本屋って基本暇つぶしに使われるところだから、こういう花見とか外に出て楽しむ日になると、売り上げが落ちちゃってね。残念な気持ちにもなるんだけど」
「…………」
「年末年始はとても儲かるのよ。寒い日はやっぱり家でゆっくりしたいからかな。雪かきや雪下ろし以外にやることだってないし、そのあとは炬燵でゴロゴロしたいじゃない」
「…………」
「ねえキミ。大丈夫? どこか具合でも悪いの?」
「え? あ、いや、そうじゃないんだけど」
子狐はたじろいだ。
突然目の前にあらわれた想い人を、直視することができなかったから。黙りこくっている自分を心配に思ったのだろう。その表情は不安げだ。
話は耳に入ってはいるのだが、内容が頭に入ってこない。それをどう説明したらいいのかわからず、口がもごもごとして居心地が悪くなっているのだ。
『いわんこっちゃない。受け答えくらいせんと、小娘の機嫌をそこねるだけじゃぞ?』
(わかってる……わかってるけど……)
マミゾウはずっと声をかけつづけていた。しかし、返事をする余裕もないのが現状だ。
なにか。
なにか言わなきゃと子狐は心に決める。
勇気を振りしぼり、それを小鈴に伝えた。
「おねえちゃん、なんだかいつもと違うから……その……」
これだけがいまの限界だった。もっとほかに言うべきことがあるじゃろう、とマミゾウからの呆れを受けつつ、その答えを待った。
すると。
「……ああ、これ? 変、かな?」
おずおずと、小鈴は指で頬をかいた。
同時、手首に巻いた鈴もチリンと頼りなさげに鳴る。
「そ、そんなことないよ! とてもキレイだよ! その、なんていうか、キレイすぎてずっと見てるのがもったいないっていうか」
「え? じゃあ、さっきから俯いてるのはそれが原因なの?」
小鈴の問いに何度も何度も首を縦に振る子狐。
その反応に彼女は吹き出し「ありがとう」と、彼の頭をなでるのだった。
「ゴメンゴメン。本当は前掛けだけ外して支度をしてたんだけど、お母さんが勘違いしちゃってね」
「勘違い?」
「うん。祭に行きたいって言ったら許可はもらえたんだけど、誰と行くのかって聞かれてさ、私うっかりお得意様の男の子って言っちゃったの。そうしたら、お母さんが化粧とか着付けとかいろいろしてくれてさ、未来の婿になるかもしれない人なんだから、無闇にはしゃぐんじゃないよ、とか言われてもうさんざん」
クスクス笑う可憐の人。
母親の心情としては嬉しいはず。自分の娘が異性に誘われるような年頃になったのだと、喜びと不安をないまぜにしながらも、彼女を物言う花に仕立てあげたのだ。
「でも、お父さんのほうがもっと手をつけられなかったかな。なぜかひどくショックを受けてたみたいで、自分もついていく、って言い出しちゃって、お母さんにどやされてたんだもの。フフッ、いい気味よね」
「そ、そうなんだ……」
全ての準備が終わったあと、やっとくだんの男の子との関係を話すことができ、それで父も母も安堵して、妙な雰囲気になったお互いを家族三人で笑いあったのだとか。
「…………」
小鈴から恋の対象と見なされていないのは知っていたことだ。それでも、あまり直面したくのない事実でもあって。
『そうそう気にするでない。キツネのその容姿じゃ子供扱いされるのは仕方なかろうて。今夜大事なのは──』
(おねえちゃんをどう楽しませるか。僕も、どうしたら楽しめるか、でしょ?)
『お。ようやく落ち着きが戻ってきたか。その通りじゃ。あまり気負うなよ』
子供扱いされているなら、それはそれで遠慮しなくて良いと吹っ切ることができる。
子狐はいつもの調子で、朗らかに小鈴にこういった。
「僕ね、この日のためにいろいろと調べてきたんだよ。今日の祭でどんな露店があるのか、どんな催しがあるのかとかさ」
「へ~。じゃあ、今日の案内は任せていいかしら?」
「うん!」
二人は改めて手をつなぎ、境内の階段をのぼるのだった。