世の人々に生国を知られず、はっきりとした素性も知られず、俗人であったころの名もまた知る者はない。ただひとりばかりの肉親である弟が死に、それがために世を儚んで御仏を拝して生きていく覚悟を固めたのだという。“尼そぎ”した髪は、光の当たりようによっては早暁の天にたなびく紫雲めいてうつくしく見える。それから、その性向はとびきりの物狂いであるには違いないのだ。ただそれらのことだけが、その女性(にょしょう)について語られる大半である。
噂だけなら、幾らもある。
曰く、端の擦り切れた薄墨の衣を着た、その諸国遊行の女は、将門の逃げ延びた先を知っているとか、貞盛の手付きであったとか、あるいは俵藤太の娘であるとか、確かめようのない噂だけなら。
そのようななかでも、いずれにせよ確かなことは。
天慶(てんぎょう)のころにひとりの女僧が、旅の途中なのか坂東の辺りから京の都までやって来たという事実が、今ここに、ひとつ。
――――――
九世紀から十世紀にかけての日本国にあっては、天の怒りか魔の戯れか、天変地異が頻々とうち続いていた。こと九世紀は天災の類が際立って多く、今日にその時代の文字史料が多く伝わっているからたまたま多く見えるのだ、という歴史家の理性ある解釈だけではどこか割り切れぬものがある。京の都のみに限っても、百年間のうち実に大風洪水が四十五回、疫病の流行十二回、地震(なゐふり)が六回も起きているという。加えて災害は食物の供給を断ち切り、飢餓の原因ともなる。人の肉を喰うことを目的とした人身の売買さえ半ば公然と行われたというのは、さらに後代における養和の大飢饉でのことであったというが、おそらくは、それ以前の時代であっても多かれ少なかれ同様の惨事が繰り広げられていたのではないだろうか。
一方で十世紀にもまた、当時の世を揺るがすような大事件を見ることができる。
折からの天災の多きに加え、承平七年(九三七年)には富士の御山が火を噴いたというのは『日本紀略』の記述であるが、ここに元号が改まって天慶となると、かねてより私闘略奪を繰り返していた坂東の平将門と瀬戸内の藤原純友が偶然にも相次いで朝廷への叛乱を起こす。一連の凶事にはさすがの帝でさえ疲れ果て、匙を投げるかのように御譲位あそばされるという始末であった。
神や仏への信仰は現代とは比較にならぬほど篤く、反面には崇りや怨霊、妖怪への恐怖心もまた深くあった時代である。なればこそ、天下人心の休まらないのは『不徳の君』が玉座を占めているせいだという考えが、広く受け入れられてもいたはずだ。人民だけにとどまらず、殿上にて大権を司り国家の政(まつりごと)をあずかる人々でさえも、戦々恐々と日々を送っていたであろうことは想像に難くない。
件の女僧が姿を現したのはちょうどそうした事件と相前後する頃合いだ。獄門の刑で晒されていた将門の首が、郷里である坂東の地を目指して飛び立ったとかいう風説が薄れ始めるのと入れ替わるかのように、彼女は京の都へとやって来たのである。
――――――
女僧は決して自らの生い立ちや身の上を語りたがらなかったが、彼女の遊行に付き従う者たちこそが、言外にそれらを証しているものであると余人には見られていたようである。盲目(めくら)の老婆が杖の先で女僧の足先を阻むであろう小石をどかす。癩者たちが重き荷を捧げ持つ。傀儡子(くぐつ)の歌が旅の疲れを紛らわし、獣の革剥ぎの職人が刀で一行の身を護らんとし、拝み屋どもは一瞬たりとも合掌を解かない。自身の春をひさぎもする花売りは、草鞋を履き潰したみすぼらしい行商人と歩を合わせてついていく。
とりわけ女僧のもっとも身辺(そば)に侍るふたりの少女はまた奇妙である。
一方の少女は、癖のあるその髪から絶えず潮のにおいがする。西国から上ってきた者によれば、彼女の話す言葉は隠岐のものに近いらしい。もう一方は尼を思わせる帽子(もうす)で頭を覆い隠している様子だったが、腰から提げた大きな筒にときおり親しげに何かを話しかけていた。うんざん、との名が何を意味するのか知る者は居ない。大方、売られてきた漁民や山師の娘をかどわかして一行に加えているのであろうということにされた。列の真ん中にはひとりの美丈夫が傲然たるまでに存しているが、顔に反して声聞く限りは間違いなく女だ。まるでいまいくさから帰って来たというように錆びの浮いた矛を持つ様が、いかにも神がかりの勇ましさを湛えていた。その縁辺にもまた在る矮躯の従者の影のうちには、どうしたことか、常に鼠の鳴き声が絶えない。
一行の者らは女僧を『尼公』と呼んだ。
その尼公の歩くところ、地の果てまでも海の底までもついていかんとする意気込みがうかがわれた。擦り切れた衣と、すり減った履き物とで。一方で尼公の方でも決して小奇麗とは言いがたい。地を突く錫杖のしゃんしゃんという鳴り音だけは未だしも立派であったけれど、網代笠(あじろがさ)も衣までも余すところなく埃を被ってしまっている様は、何がしかの権力に浴している者でないというのが明白に過ぎるほど明白だ。かと思えばこの一行の傍らを、紫衣(しえ)だの鈍色衣(どんじきごろも)だのをまとった高僧が、大得意で輿に担がれ往来するのも珍しくはない。そうなると、尼公一行の惨めさがよけい際だって感じられるのである。
ゆえに――というべきなのか、尼公とその従者たちは紛うこともなき乞食(こつじき)だ。常民にあらざる非人たちだ。薄汚れた肌で京の辻々を闊歩する、正真の食い詰め者だ。だが、争乱と天変地異ばかりの時代にこの尼公どもがそれだけで何の障りとなろうか。田畑の作物が不作だろうが何だろうが、構わず税を取り立てる役人たちに嫌気が差した農民たちも、やむなく故郷を棄てるような時代でもある。都大路に石を投げれば、乞食のひとりや裳瘡(もがさ)を病んだ屍骸のひとつになど、必ずぶつかることだろう。そして都を出入りする者たちの数は、それらよりさらに多いだろう。
だから、いかに京の人々が物見高いとはいっても、尼公に率いられた異形の一行を、ことさらに歓迎するとか追い出そうとかしたわけではなかった。そんなものは、一日の飯の種にも成りはしない。要するに洛中の人々にとっては、ちょっとやそっと変わった連中がやって来たところで、そんなものは羅城門の柱に影を宿す蜉蝣と大して変わるものでなし。気づけばそれとなく注意を向けるけれど、然して手を伸ばしてちょっかいを掛けようという気も起きはしない。
――――――
そのような中で尼公がにわかに人々の耳目を集め始めたのは、彼女たちが一日の暮れ方から夜にかけて都の東側、賀茂川沿いにたびたび現れ始めたからである。
未だ日の高いうち、彼女たちは取り立てて行列を組んで歩いているというわけではない。皆が皆、広い都を各々の方向に向かって――ある者たちは朱雀大路を、またある者は万里小路(までのこうじ)を、別の者は四条坊門を、といったように、ばらばらになって歩いて行く。が、夜が近づいてくると、誰が号令したわけでもないというのに自然とまた集まって、整然と列を組みながら洛外に出、賀茂川の流れを北へ北へと遡るようにして突き進んでいく。
すると、中途で尼公らとすれ違った幾らかの人々は、昼と夕とで一行の人数がはっきりと異なっていることに気づくのである。最初はせいぜい二、三十人だった彼女たちが、夜が近づくに連れさらに二十人ばかりも数を増やして歩いている。否、しかし新たに加わった顔をよく見ると、それは生きた人間ではない。旅人たちが自身の肩を貸すようにして運んでいるのは、洛中で死に、露天に放置された者たちの骸に違いない。
これにはさすがに、都人も仰天しないわけにはいかなかった。
生きた人間相手の商売なら、氏素性の知れぬ女僧風情でも幾らか生業(たつき)の手段があるはずだ。現に、都には廻国修行の賜物と称して怪しげな加持祈祷を行う拝み屋や陰陽師が後を絶たなかったくらいである。もちろん尼公たちもまた、その類の阿漕な商売に手を出しているという話も立たぬではなかった。川の近傍(そば)には洛中に住居を定めることなく、その日暮らしに浮浪する無宿の者らが数多棲みついている。集めた死体から肉を削ぎ取り、彼らに食い物として売りつけている、それが尼公の商売ではないか、と、考えられたのだ。
しかし、追及や指弾さえろくに為されないまま、それらの噂は次第に立ち消えとなっていった。毎晩、左京のさらに向こうから、かすかな読経の声と黒い煙が立ち昇ってくるようになれば、誰とて嫌でも気づくものだ。――どうやらあの尼公たちは加茂川沿いに屍体を集めて、焼き、弔っているらしいのだということを。
「あの連中、物好きにも屍体を引き取って弔いの仕事をしているのだぜ」
侮蔑というには未だ当たらないが、やがて次には好奇の評が目立ち始めた。
何のつもりか知らないが、そのような慈善を行ったところでぼろ布一反だって買えやしないのだ。肩に寄りかかる、腐りかけた骨肉が放つ悪臭に耐えながら、何の益もない行いを延々と続けるのはまさしく愚か者の所業ではないか。とはいえ、むろん尼公たちの耳にもそのような声々が伝わらぬはずもない。彼女たちが列成して通るとき、一行の頭である尼公は決まって朗々と経を口ずさみながら、錫杖の音を鳴り渡らせて路々を堂々と往く。間違っていることばかりの世の中にあって、自分たちが本当に正しい行いをできているのであればさいわいだという悦ばしい願いが、彼女の表情(かお)は確かに在った。そうして列の真ん中では、あの美丈夫めいた女が周囲にようくよく睨みを利かせながら、尼公の御耳に良からざる言葉の入らぬよう気をつけている、という風なのだった。
一方で、その光景はあたかも、昼日中から闊歩する百鬼の群れかとも衆目には映っていた。それもそのはずである、普段は道の端に縮こまって遠慮がちに歩いているような非人たちが、背を伸ばし、胸を張って自慢げに、堂々たる様子で洛中洛外を――尼公たちが都にやって来てから――練り歩くようになっていったのだから。そう、尼公なる酔狂な女僧が都に居るという噂は次第に都中へ広まっていき、わずかずつながら、眼には見えない熱を帯び始めていた。いかなる妖しの術の為せる業か、当初は二、三十人に過ぎなかった尼公の列も、ひと月かふた月が経つ頃にはその倍の大きさにまで膨れ上がっていたのである。
さて、尼公らに弔われているのが人の眼と口にて賎しめられている者たちであるというのなら、弔っているのもまたそのような者たちなのだ。概して、墓らしいものもなく道端で野垂れ死んでいくなどというのは運の悪い行路病人か、不用意にも夜中に出歩き群盗の餌食となった者か、そうでなければ家も寝床も『死に床』さえもない貧者貧民たちである。分限、財産、持たぬ者でも、少なくとも尼公の元に参集すれば、安楽に死ぬことができるのだ。後には、尼公は重い病も治すことのできる霊験を持つという話さえ出来上がっていく。真偽のほどは誰も知らぬ。ただ、実際にはそれが単なる思い込みだとしても、慈母のごとき尼公の思い遣りにすがって幸福のうちに死んでいきたいと願うのは、疑うべくもないことであった。五十人が六十人に、六十人が七十人に。人の列は日に日に長く大きく、連なっていった。
斯様に増えてしまった者たちを、それではいかに抱えるべきであろうか。
実際のところ、そのときの尼公には何も策なるものはなかった。否、策と言い得るものは、ただその心のうちより尽きせず溢れ出てくる慈愛のみで、これをもってすれば洛中で苦難に喘ぐ哀れな人々を救うことができるのだと、彼女は思っていた節があった。慈悲や利他ということは、ときとして愚かという以外には言い表しようがないほどに、愚かなのだということである。
だからやがて尼公も、弔いと読経を除いてほかに行うべきことができてくる。
自分を慕い集まってきた者たちに、説法らしいものを試みに聞かせるようになったのである。人間は、もう死んでしまった相手よりは、いま生きている相手とつき合う時間の方がはるかに長いではないか。だからこそ尼公は、現今(いま)の生者がいかにして生きねばならぬかを考え抜いて、それを話すことに決めた。とはいっても彼女の場合、凡百の坊主じみて難しい話はいっさいしようとしなかった。あるときの調子はこうだ。
五条坊門の小路に立った彼女は群衆たちに取り巻かれ、あたかも椀の底にその身を置くかのようなかたちとなり、
「そなたたちは神慮によりて賎しめられ、仏法によって辱められておりまする。なれど、乞食とそうでなき者の性にいったい何の惨たらしき違いが認められましょうや。みな手と足が二本あり、目と口があり、ものを食べる口がありまする。そこにいかなる違いがありましょうや。いいえ、それらのもののなけれども、まず心のうちからしてすべての者は同じであり、平らかに、等しくあると認むることに、何の障りがありましょうや」
群衆は熱心にうなずく者もあれば、黙って聞き入っている者も居る。
言葉の意味を黙考している人が見えるかと思えば、何ごとかと足を止め、新たに加わる人々も見えた。誰もみな、尼公の言を耳朶(みみ)に入れるということに関しては貴賎がなかった。今日、貴人たる者も、明日には賤民と同じ気持ちとなって尼公の説法を拝するということもあったかもしれない。
尼公はさらに続ける。
「人ですら怨み積み重なれば悪鬼となりまする。悪鬼ですら功徳積めば人になりまする。人と妖怪、生ける者たち死せる者たち、これらはみなその根において同じもの。われらみな天を母とし土を父とする者たち。御自らの命を誇らかにお思いなされませ。余人に恥じ、自らを賎しむるには及びませぬ」
それは、およそ御仏を拝し仏法を嘉する者としては、到底、世人に肯ぜられることのないであろう考えだと言わざるを得ない。人に貴賎なしと訴えるのは未だしも、悪鬼羅刹や仏敵でさえもが、尼公の説くところの思想においては人と同じく尊いのである。ならば、神だの仏だのの区別さえも虚しいということになりかねない。俗人と僧との違いなど髪のかたちが変わっているかどうかというだけになる。だからこそ、彼女は愚かであるのかもしれなかった。愚かであるからこそ、善人であるのかもしれなかった。そうして最後に、尼公はつけ加える。
「これ、この寅丸どのに御目を向けられよ。此方(こなた)にあるは余人に賎しめられし遊び女(あそびめ)の子なれども、その遊び女とても心のうちにて御仏を信じ奉りたるがゆえ、斯様なる生き仏を子として産み給うたのです」
お、お、……という溜め息が群衆からは漏れ聞こえる。
常に尼公と共にある美丈夫――寅丸は、星明かりが昼の地上に落ちて輝いてきたかとも思えるほどにうつくしい黄金(こがね)の髪を、フと頭巾を取って皆に晒したのだから。これこそまさに、御仏の為せる業であったろうか。そうして最後に、尼公は読経をひとくさり行うのが通例でもある。群衆も、それを真似て合掌したり舌と唇をもごもごと動かしたりする。
とは申せ神仏の尊さや真髄など、しょせんは貴人の富貴に任せたものでしかなかった時代のこと。尼公の説き賜うた事々が、どれだけの人々の心に届いているのかなど、誰にも……尼公自身や尼公に奉じられた寅丸にさえ知ることはできなかった。依然として皆が求めているのは尼公と寅丸の霊験による病の快癒と安楽な死に様、そして説法の後に、その頃までにはすっかり行われなくなっていた賑給(しんごう。朝廷が貧民救済のために食料などの施しをすること。災害時の救援として行われるはずのものではあったが、この習慣は十世紀以降には次第に廃れていったらしい)の代わりとして振る舞われる、わずかの食事――そのくらいのものであった。
――――――
さて――その年の夏はことさら酷暑烈しく、各地の泉も涸れるところ続出し、水を引けなくなった田畑が見る間にひび割れていくという惨状であった。都の周辺にあっても決して例外ではなく、太陽から降り注ぐ絶え間ない熱波は地べた這いつく衆生に死神の哄笑を向けるごとく、ゆっくりゆっくりと数多の命を削り取っていった。かと思えば長い夏が終わった途端、今度は空はおろか山際までも覆い尽くすような黒雲が何日間もの大雨大風をもたらし、川の水をいたずらに増大させた。濁流へと成長した川は周囲のものを手当たり次第に押し流し、跡形もなく飲み込んでいく。
いずれの災禍にあっても多くの人が死に、弔いきれぬ屍体の山は目につく限りあちらこちらに打ち捨てられる。湿った死の香り、腐臭の連なりが、今が盛りと洛中洛外を問わず“華やいだ”。
都の夜の闇はいっそうに濃くなり、群盗はかつて以上に勢威を振るう。わずかの食料を巡って奪い合いや殺し合いが起きる。この異常な気象はせいぜい秋が深まるまでの程度のことに過ぎなかったものの、不幸にも命を落とした者は到底数え切れぬ。先にも書いたとおり、本来であれば朝廷がその権威のもとに行うべき賑給の施しはいつしか行われなくなっていったから、人々は飢えるに任せ、翳り差す都の繁栄もまた絶望的な荒廃とともにあり、留まることを知らなかったのである。
尼公たちが死者の弔いを行っていた加茂川沿いも、むろん、その影響から逃れるすべとてない。晩夏から初秋にかけて荒れ狂った水の暴龍は大地を遠慮なく鋤き返し、人が歩くこともままならぬ泥土に変えてしまった。爾来、大雨のたびに出水をくり返す難儀な川ではあったけれど、この度のこれは図抜けた暴れぶりだ。おかげで川近くで寝起きしていた宿なし者は仮の家をなくして路頭に迷い、代わりにならず者の群盗たちが夜な夜な焚き火を囲んで大酒盛りを始め、略奪品を手に大威張りを始めるのだった。
このような有り様となってしまっては、死者の弔いなど叶わない。
それに、いつまた風雨がやって来て川が溢れ出すかも知れない。心配した供らは尼公をそのように押し留めたが、しかし、彼女は聞き入れなかった。川に呑まれて死んだ者も多いだろうと、夜半、密かに抜けだしては洛外へ向かい、読経を行うのがひところの習慣ともなっていたのである。何度諌められても同じように川に向かうが、女の夜のひとり歩きにもかかわらずそのたび無傷で帰ってくるので、尼公を取り巻く人々は「これが仏の加護であることかよ」と、よりいっそう崇敬を深くしたという。
しかし、気が気でないのは寅丸の方。
尼公の一番弟子をもって自任するこの美丈夫は、ならばせめても……と、自身の腰にしていたつるぎをひと振り、尼公に奉った。衣のうちに隠しさえすれば、外からは決して見えないであろう短刀だ。長物でないから、振り回すに際だった技量も必要ではない。もしものときには、と、執拗に念押しをする寅丸には「仮にも御仏を奉じる者が、不殺生戒を侵す覚悟など」と逆に諌めはしたものの、何か嘘でもついて弟子の厚意を押し退けるだけの狡猾さも、尼公は持ち合わせていなかった。その晩よりは、寅丸の短刀が彼女の懐刀となった。
寅丸から借り受けた短刀と共に、いつものように複数の大路小路を折れ曲がり、また次には真っ直ぐに歩き、闇の中を洛外に出で川沿いに向かった尼公は、しかし、いつもの晩とはどこか違った不気味さに気づいた。まず何より、おそろしいまでに静かである。静かすぎるといっても良いほどだ。酒盛りをしてげらげら笑っている群盗たちの焚き火の明かりも、酒の香を感じ取って羨ましそうにしている貧者たちの溜め息もない。ことによっては川からの水音さえ鈍く在り、大気の震えが木々の枝葉を揺らす気配も消え去っていた。月光さえも分厚い雲の衾(ふすま)に押し包まれて眠りのさなかか。
亡者や物の怪がさ迷い出るときには生温かい風が吹くものだと人はよく言うが、汗ばんだ肌を撫でる風もそこにはない。本来夜に現れるべきいっさいの現象が消え去ってしまっているというのは、見様によっては鬼や怨霊よりも気持ちが悪いではないか。そこにはただ、都から離れて後さらに広がる無間の闇がある。闇の黒みは、人の妄念に描かれるいかなる悪鬼怨霊をも喰らい尽くすだろうほどに、鮮烈なのだ。
それでも、意気を鼓舞して一歩を踏み出す。
泥濘(ぬかるみ)を踏む音に軽いものが混じって聞こえる。そこにはかなりの量の砂利も混じっていることが察せられ、いつもよりかは足の運びが楽である。何ということはない。歩き慣れた川沿いの道だ。暗がりに惑わされ、川と地面との境を見失わぬよう気をつければ良いだけのこと。安堵してのち合掌し、指の間に数珠を揉み、一心に読経をくり返す尼公である。幾度も行い慣れたことをすることで、心は暗中にある一点の光としての澄明さを取り戻していく。
――――――そうして二、三十回ほど、経を唱えたころに。
何か、不可思議なものが彼女の肌にも気づかれた。
錆びきった刃物で撫でられるような……しかし、錆びきっているがゆえにこちらには何の傷も残らないような、そんな感覚である。危うくはないが害意、否、害意に“近い”ものはひしひしと在る。闇の向こうに潜んでいるらしい何者かは、自らはその姿を現すこともなくひっそりと、息を殺しているままだ。群盗であろうか、とも尼公は考える。だが、それにしては妙だ。読経のさなかであれば隙だらけだから、何を憚ることもなく襲いかかることができたものを。
「そちらに。そちらに、誰かが居られるのですか」
たまりかねて、尼公は自ら問いかける。
返事のようなものは何もない。その代わり、相手の息遣いはよりはっきりとしたかたちに変わりつつあった。ごくりと、尼公は唾を呑んだ。再び泥濘のなかを歩きだす彼女であった。草鞋が地面を踏むごとに、じゃりじゃりという音がした。だが、それは最初に聞いたものとは違っている。一定の間隔を有しているらしいこの音は、そう、両の手指で地面を掘り返している音ではないか――――?
そのことに気づくと、足取りは否も応もなく早まる。
この洛外の河原で、何かただならぬ出来事が起こっているのではないかという不安が心のうちに兆してきたからだ。相も変わらず月はその金色を見せてはいなかったが、自身の眼が暗闇に慣れてきたことばかりが今の彼女の助けであった。ほんの数間先までしか見えなくとも、もはや“そこ”で何が行われているかまでは察せられる。
「ああ……!」
尼公は、かなしみのあまり顔を覆った。
流れ出る涙を抑えることができなかったのだ。
腰を屈めて後ずさると、二、三度よろけて尻餅を突きそうになった。それでも決して転ぶようなことがなかったのは、眼の前でいったい何が起こっているのか、そのかなしさを知らなければならないという思いのためだ。尼公はそのとき初めて、御仏を怨みに思った。もしもわが手に悪徳と力のあらば、斯様なる苦しみをおつくりになる者を打ちすえねばならぬとさえ感じてしまった。それほどまでに、その行為は惨たらしかったのである。
もういちど向けられた尼公の眼には、やはりはっきりと映っている。
枯れ木を何本か束ねただけに見えるほど痩せた腕で、泥濘を懸命に掻き分ける女がそこには居る。掘り返された地面から覗いているのは――洪水に巻き込まれた者であろうか、それとも群盗による人殺しの犠牲者であろうか――黒々と腐りかけた人間の屍骸であった。女は必死の形相でその屍骸の骨から肉を剥ぎ取り、砂利まで一緒に噛んでしまうのも構わず口に運んでいたのである。
女は衣服の類をいっさい身につけてはおらず、砂と泥と垢にまみれた膚(はだ)を夜の底に押し沈めたまま、一心に屍骸を貪り喰っていた。頭の頂きにあるはずの髪の毛は薄らと禿げ、身体中が皺だらけだ。老人じみた姿だが、両の眼(まなこ)には、年寄りではあり得ないだけの生命の光と熱が確かに輝いている。尼公がこの者を女と思ったのは乳房があることに気づいたからだが、それとてもまるで萎びており、飢餓者に特有の膨らみを持った腹と重なり合うほどに、だらりと垂れ下がってしまっていた。
餓鬼だ、と、尼公は判じた。
この者、哀れにも餓鬼道から人間の骸を喰いにさ迷い出でた鬼女の類だと。
だが「いや、それは違うのではないか」とも思われた。極限の貧困と飢餓は、人の胎から産まれ人として育った人をして、物の怪とまるで変わらぬ何者かへと化さしめることがある。人間(ひと)は、自らが生きんがためには修羅道だろうが餓鬼道だろうが踏み越えていく。眼前で骸を貪るこの女も、あるいは生きながらにして人であることをやめ、餓鬼と化した者なのか。そうまでしなければ生きることのできなかった者なのか。
「それほどまでに飢えておいでか。土中より骸掘り返し、腐りかけた骨肉を喰らわねばならぬほど、飢えておいでなのですか」
濡れた気色の声で、尼公は女餓鬼に語りかける。
やはり返答はない。爛々と輝くふたつの眼が相手を一瞥し、しかし直ぐに自身の『獲物』へと向き直る。女の唇はすっかり乾ききっているが、反面、骨の髄までも吸い尽くさんと試みる舌使いからは、ぺちゃぺちゃという粘ついた音がかすかに聞こえてくる。黄色く濁りかけたその眼はいったい何を見つめているのだろう、尼公には到底解らない。だが、他の何にも喩えようがない絶望のさなかに、この女餓鬼が置かれているのは確かなことであったろう。絶望は人を殺す。命という以上に、人間であることそのものを殺すのだ。それを覚ってしまったとき、人間は自身が人間であることを諦める。
「名も知らぬ餓鬼よ。人が人を、斯様に喰ろうてはなりませぬ。鬼子母神でさえも、釈迦の導きにより柘榴の味を知ってからは子攫い人食いを止めたと申します。正しきこと致せば、そのように罪科(つみとが)を重ねることはないのです」
餓鬼を人である、と、そう尼公ははっきりと言いきった。
人も悪鬼も救われるべきである、いわんや人から悪鬼に堕ちた者が救われずして何が仏の道かよという、彼女の決意であった。未だ己を人扱いする者が居ることに驚いたか、餓鬼は一瞬ばかり手を止めて相手を見つめた。だが、また直ぐに屍体の肉を剥ぎ取る手つきに戻っていった。
単なる美々しき言葉だけで餓鬼道の巷をさ迷う者が救われるはずなど、万にひとつもあるはずがない。否、『あってはならない』のだ。ただの言葉だけで救われたように見える苦しみがあるのなら、それがごとき救いなどは単なる詭弁への盲信である。人を救うということは、得てして自身の心身にもまた深く傷を負わなければならないものだ。それと承知しているから、彼女は懐に手を差し入れ、寅丸より奉られた短刀を取り出した。鞘より抜き放つと、反りの少ない真鉄(まがね)の刃は洛外の暗中でも、どういうわけかかすかな輝きを放って見えた。その銀色は何を跳ね返す光であったのだろう、尼公は、鏡面にも似た刃へと映り込んだ自らの瞳の色の凄烈さにはとうとう気づかない。
相手が突如として刃物を取りだしたので、餓鬼はびくりと肩を震わし、身構えた。
あれだけ執着していた屍体を突き放し、まるで泥濘に溺れるみたいに地面を這いずり、逃げ出そうとする。尼公は、あえてそれを追わなかった。ただ彼女は努めて柔和な笑みだけを浮かべていた。自分の衣の裾を躊躇なくめくり上げると、片脚の腿の部分、陰部の毛の端さえ見えるかと言うほどの位置に刃を突き刺した。そのまま切っ先をくるりと回すと、膚はぷつぷつとちぎれ、肉が抉られていく。歯を食いしばるということもなく、笑みのままでの苦行である。この苦しみに酔うてはならぬ。苦しみに酔うて行えば、それは自らを肯ずるための苦しみでしかない。苦しむのは、どこまでも衆生の御為でなければならぬのだ――――。
やがてひとかけらの肉を切り出したとき、今まで痛みに耐えてきた尼公の肌から、ぶわりと、一気に汗が噴き出した。止めどもなく流れ出る腿からの血を衣に吸わせ、彼女は、少し離れた場所からこちらを観察していた餓鬼のもとへと歩み寄っていく。重々しき足取りの様は、病んだ老犬にも似ている。
未だ血の滴る己の腿の肉は、手のひらにすっぽりと収まる程度の大きさでしかない。
尼公は、その肉を恭しいまでに餓鬼の眼の前へと差し出した。わなわなと震える相手の唇が見える。はっきりと、『彼女』は息を呑んでいた。
「生者の肉にござりまする。それも、この尼の肉にござりまするぞ。死者の肉しか食むことできぬ餓鬼の身には、さぞかし美味でありましょう。ですからどうか、この肉に免じて人の骸を掘り返すことをお止めなさい」
両の手を伸ばす餓鬼の背筋は、もはや遙拝のそれに近い。
大きく見開かれた眼は、もう先ほどまでの食物であった屍体になど向いてはいなかった。闇の中、濃い血の香と共に立つ尼公をのみ見つめていた。餓鬼は尼公の肉を口に含み、ゆっくりゆっくりと咀嚼していく。『彼女』は依然として無言であったから、その味を尼公自身が知ることはない。だが、きっと――釈迦が鬼子母神に与えたという柘榴の味を知るよりも、はるかに勝る甘美の体験だったのではないだろうか。
噂だけなら、幾らもある。
曰く、端の擦り切れた薄墨の衣を着た、その諸国遊行の女は、将門の逃げ延びた先を知っているとか、貞盛の手付きであったとか、あるいは俵藤太の娘であるとか、確かめようのない噂だけなら。
そのようななかでも、いずれにせよ確かなことは。
天慶(てんぎょう)のころにひとりの女僧が、旅の途中なのか坂東の辺りから京の都までやって来たという事実が、今ここに、ひとつ。
――――――
九世紀から十世紀にかけての日本国にあっては、天の怒りか魔の戯れか、天変地異が頻々とうち続いていた。こと九世紀は天災の類が際立って多く、今日にその時代の文字史料が多く伝わっているからたまたま多く見えるのだ、という歴史家の理性ある解釈だけではどこか割り切れぬものがある。京の都のみに限っても、百年間のうち実に大風洪水が四十五回、疫病の流行十二回、地震(なゐふり)が六回も起きているという。加えて災害は食物の供給を断ち切り、飢餓の原因ともなる。人の肉を喰うことを目的とした人身の売買さえ半ば公然と行われたというのは、さらに後代における養和の大飢饉でのことであったというが、おそらくは、それ以前の時代であっても多かれ少なかれ同様の惨事が繰り広げられていたのではないだろうか。
一方で十世紀にもまた、当時の世を揺るがすような大事件を見ることができる。
折からの天災の多きに加え、承平七年(九三七年)には富士の御山が火を噴いたというのは『日本紀略』の記述であるが、ここに元号が改まって天慶となると、かねてより私闘略奪を繰り返していた坂東の平将門と瀬戸内の藤原純友が偶然にも相次いで朝廷への叛乱を起こす。一連の凶事にはさすがの帝でさえ疲れ果て、匙を投げるかのように御譲位あそばされるという始末であった。
神や仏への信仰は現代とは比較にならぬほど篤く、反面には崇りや怨霊、妖怪への恐怖心もまた深くあった時代である。なればこそ、天下人心の休まらないのは『不徳の君』が玉座を占めているせいだという考えが、広く受け入れられてもいたはずだ。人民だけにとどまらず、殿上にて大権を司り国家の政(まつりごと)をあずかる人々でさえも、戦々恐々と日々を送っていたであろうことは想像に難くない。
件の女僧が姿を現したのはちょうどそうした事件と相前後する頃合いだ。獄門の刑で晒されていた将門の首が、郷里である坂東の地を目指して飛び立ったとかいう風説が薄れ始めるのと入れ替わるかのように、彼女は京の都へとやって来たのである。
――――――
女僧は決して自らの生い立ちや身の上を語りたがらなかったが、彼女の遊行に付き従う者たちこそが、言外にそれらを証しているものであると余人には見られていたようである。盲目(めくら)の老婆が杖の先で女僧の足先を阻むであろう小石をどかす。癩者たちが重き荷を捧げ持つ。傀儡子(くぐつ)の歌が旅の疲れを紛らわし、獣の革剥ぎの職人が刀で一行の身を護らんとし、拝み屋どもは一瞬たりとも合掌を解かない。自身の春をひさぎもする花売りは、草鞋を履き潰したみすぼらしい行商人と歩を合わせてついていく。
とりわけ女僧のもっとも身辺(そば)に侍るふたりの少女はまた奇妙である。
一方の少女は、癖のあるその髪から絶えず潮のにおいがする。西国から上ってきた者によれば、彼女の話す言葉は隠岐のものに近いらしい。もう一方は尼を思わせる帽子(もうす)で頭を覆い隠している様子だったが、腰から提げた大きな筒にときおり親しげに何かを話しかけていた。うんざん、との名が何を意味するのか知る者は居ない。大方、売られてきた漁民や山師の娘をかどわかして一行に加えているのであろうということにされた。列の真ん中にはひとりの美丈夫が傲然たるまでに存しているが、顔に反して声聞く限りは間違いなく女だ。まるでいまいくさから帰って来たというように錆びの浮いた矛を持つ様が、いかにも神がかりの勇ましさを湛えていた。その縁辺にもまた在る矮躯の従者の影のうちには、どうしたことか、常に鼠の鳴き声が絶えない。
一行の者らは女僧を『尼公』と呼んだ。
その尼公の歩くところ、地の果てまでも海の底までもついていかんとする意気込みがうかがわれた。擦り切れた衣と、すり減った履き物とで。一方で尼公の方でも決して小奇麗とは言いがたい。地を突く錫杖のしゃんしゃんという鳴り音だけは未だしも立派であったけれど、網代笠(あじろがさ)も衣までも余すところなく埃を被ってしまっている様は、何がしかの権力に浴している者でないというのが明白に過ぎるほど明白だ。かと思えばこの一行の傍らを、紫衣(しえ)だの鈍色衣(どんじきごろも)だのをまとった高僧が、大得意で輿に担がれ往来するのも珍しくはない。そうなると、尼公一行の惨めさがよけい際だって感じられるのである。
ゆえに――というべきなのか、尼公とその従者たちは紛うこともなき乞食(こつじき)だ。常民にあらざる非人たちだ。薄汚れた肌で京の辻々を闊歩する、正真の食い詰め者だ。だが、争乱と天変地異ばかりの時代にこの尼公どもがそれだけで何の障りとなろうか。田畑の作物が不作だろうが何だろうが、構わず税を取り立てる役人たちに嫌気が差した農民たちも、やむなく故郷を棄てるような時代でもある。都大路に石を投げれば、乞食のひとりや裳瘡(もがさ)を病んだ屍骸のひとつになど、必ずぶつかることだろう。そして都を出入りする者たちの数は、それらよりさらに多いだろう。
だから、いかに京の人々が物見高いとはいっても、尼公に率いられた異形の一行を、ことさらに歓迎するとか追い出そうとかしたわけではなかった。そんなものは、一日の飯の種にも成りはしない。要するに洛中の人々にとっては、ちょっとやそっと変わった連中がやって来たところで、そんなものは羅城門の柱に影を宿す蜉蝣と大して変わるものでなし。気づけばそれとなく注意を向けるけれど、然して手を伸ばしてちょっかいを掛けようという気も起きはしない。
――――――
そのような中で尼公がにわかに人々の耳目を集め始めたのは、彼女たちが一日の暮れ方から夜にかけて都の東側、賀茂川沿いにたびたび現れ始めたからである。
未だ日の高いうち、彼女たちは取り立てて行列を組んで歩いているというわけではない。皆が皆、広い都を各々の方向に向かって――ある者たちは朱雀大路を、またある者は万里小路(までのこうじ)を、別の者は四条坊門を、といったように、ばらばらになって歩いて行く。が、夜が近づいてくると、誰が号令したわけでもないというのに自然とまた集まって、整然と列を組みながら洛外に出、賀茂川の流れを北へ北へと遡るようにして突き進んでいく。
すると、中途で尼公らとすれ違った幾らかの人々は、昼と夕とで一行の人数がはっきりと異なっていることに気づくのである。最初はせいぜい二、三十人だった彼女たちが、夜が近づくに連れさらに二十人ばかりも数を増やして歩いている。否、しかし新たに加わった顔をよく見ると、それは生きた人間ではない。旅人たちが自身の肩を貸すようにして運んでいるのは、洛中で死に、露天に放置された者たちの骸に違いない。
これにはさすがに、都人も仰天しないわけにはいかなかった。
生きた人間相手の商売なら、氏素性の知れぬ女僧風情でも幾らか生業(たつき)の手段があるはずだ。現に、都には廻国修行の賜物と称して怪しげな加持祈祷を行う拝み屋や陰陽師が後を絶たなかったくらいである。もちろん尼公たちもまた、その類の阿漕な商売に手を出しているという話も立たぬではなかった。川の近傍(そば)には洛中に住居を定めることなく、その日暮らしに浮浪する無宿の者らが数多棲みついている。集めた死体から肉を削ぎ取り、彼らに食い物として売りつけている、それが尼公の商売ではないか、と、考えられたのだ。
しかし、追及や指弾さえろくに為されないまま、それらの噂は次第に立ち消えとなっていった。毎晩、左京のさらに向こうから、かすかな読経の声と黒い煙が立ち昇ってくるようになれば、誰とて嫌でも気づくものだ。――どうやらあの尼公たちは加茂川沿いに屍体を集めて、焼き、弔っているらしいのだということを。
「あの連中、物好きにも屍体を引き取って弔いの仕事をしているのだぜ」
侮蔑というには未だ当たらないが、やがて次には好奇の評が目立ち始めた。
何のつもりか知らないが、そのような慈善を行ったところでぼろ布一反だって買えやしないのだ。肩に寄りかかる、腐りかけた骨肉が放つ悪臭に耐えながら、何の益もない行いを延々と続けるのはまさしく愚か者の所業ではないか。とはいえ、むろん尼公たちの耳にもそのような声々が伝わらぬはずもない。彼女たちが列成して通るとき、一行の頭である尼公は決まって朗々と経を口ずさみながら、錫杖の音を鳴り渡らせて路々を堂々と往く。間違っていることばかりの世の中にあって、自分たちが本当に正しい行いをできているのであればさいわいだという悦ばしい願いが、彼女の表情(かお)は確かに在った。そうして列の真ん中では、あの美丈夫めいた女が周囲にようくよく睨みを利かせながら、尼公の御耳に良からざる言葉の入らぬよう気をつけている、という風なのだった。
一方で、その光景はあたかも、昼日中から闊歩する百鬼の群れかとも衆目には映っていた。それもそのはずである、普段は道の端に縮こまって遠慮がちに歩いているような非人たちが、背を伸ばし、胸を張って自慢げに、堂々たる様子で洛中洛外を――尼公たちが都にやって来てから――練り歩くようになっていったのだから。そう、尼公なる酔狂な女僧が都に居るという噂は次第に都中へ広まっていき、わずかずつながら、眼には見えない熱を帯び始めていた。いかなる妖しの術の為せる業か、当初は二、三十人に過ぎなかった尼公の列も、ひと月かふた月が経つ頃にはその倍の大きさにまで膨れ上がっていたのである。
さて、尼公らに弔われているのが人の眼と口にて賎しめられている者たちであるというのなら、弔っているのもまたそのような者たちなのだ。概して、墓らしいものもなく道端で野垂れ死んでいくなどというのは運の悪い行路病人か、不用意にも夜中に出歩き群盗の餌食となった者か、そうでなければ家も寝床も『死に床』さえもない貧者貧民たちである。分限、財産、持たぬ者でも、少なくとも尼公の元に参集すれば、安楽に死ぬことができるのだ。後には、尼公は重い病も治すことのできる霊験を持つという話さえ出来上がっていく。真偽のほどは誰も知らぬ。ただ、実際にはそれが単なる思い込みだとしても、慈母のごとき尼公の思い遣りにすがって幸福のうちに死んでいきたいと願うのは、疑うべくもないことであった。五十人が六十人に、六十人が七十人に。人の列は日に日に長く大きく、連なっていった。
斯様に増えてしまった者たちを、それではいかに抱えるべきであろうか。
実際のところ、そのときの尼公には何も策なるものはなかった。否、策と言い得るものは、ただその心のうちより尽きせず溢れ出てくる慈愛のみで、これをもってすれば洛中で苦難に喘ぐ哀れな人々を救うことができるのだと、彼女は思っていた節があった。慈悲や利他ということは、ときとして愚かという以外には言い表しようがないほどに、愚かなのだということである。
だからやがて尼公も、弔いと読経を除いてほかに行うべきことができてくる。
自分を慕い集まってきた者たちに、説法らしいものを試みに聞かせるようになったのである。人間は、もう死んでしまった相手よりは、いま生きている相手とつき合う時間の方がはるかに長いではないか。だからこそ尼公は、現今(いま)の生者がいかにして生きねばならぬかを考え抜いて、それを話すことに決めた。とはいっても彼女の場合、凡百の坊主じみて難しい話はいっさいしようとしなかった。あるときの調子はこうだ。
五条坊門の小路に立った彼女は群衆たちに取り巻かれ、あたかも椀の底にその身を置くかのようなかたちとなり、
「そなたたちは神慮によりて賎しめられ、仏法によって辱められておりまする。なれど、乞食とそうでなき者の性にいったい何の惨たらしき違いが認められましょうや。みな手と足が二本あり、目と口があり、ものを食べる口がありまする。そこにいかなる違いがありましょうや。いいえ、それらのもののなけれども、まず心のうちからしてすべての者は同じであり、平らかに、等しくあると認むることに、何の障りがありましょうや」
群衆は熱心にうなずく者もあれば、黙って聞き入っている者も居る。
言葉の意味を黙考している人が見えるかと思えば、何ごとかと足を止め、新たに加わる人々も見えた。誰もみな、尼公の言を耳朶(みみ)に入れるということに関しては貴賎がなかった。今日、貴人たる者も、明日には賤民と同じ気持ちとなって尼公の説法を拝するということもあったかもしれない。
尼公はさらに続ける。
「人ですら怨み積み重なれば悪鬼となりまする。悪鬼ですら功徳積めば人になりまする。人と妖怪、生ける者たち死せる者たち、これらはみなその根において同じもの。われらみな天を母とし土を父とする者たち。御自らの命を誇らかにお思いなされませ。余人に恥じ、自らを賎しむるには及びませぬ」
それは、およそ御仏を拝し仏法を嘉する者としては、到底、世人に肯ぜられることのないであろう考えだと言わざるを得ない。人に貴賎なしと訴えるのは未だしも、悪鬼羅刹や仏敵でさえもが、尼公の説くところの思想においては人と同じく尊いのである。ならば、神だの仏だのの区別さえも虚しいということになりかねない。俗人と僧との違いなど髪のかたちが変わっているかどうかというだけになる。だからこそ、彼女は愚かであるのかもしれなかった。愚かであるからこそ、善人であるのかもしれなかった。そうして最後に、尼公はつけ加える。
「これ、この寅丸どのに御目を向けられよ。此方(こなた)にあるは余人に賎しめられし遊び女(あそびめ)の子なれども、その遊び女とても心のうちにて御仏を信じ奉りたるがゆえ、斯様なる生き仏を子として産み給うたのです」
お、お、……という溜め息が群衆からは漏れ聞こえる。
常に尼公と共にある美丈夫――寅丸は、星明かりが昼の地上に落ちて輝いてきたかとも思えるほどにうつくしい黄金(こがね)の髪を、フと頭巾を取って皆に晒したのだから。これこそまさに、御仏の為せる業であったろうか。そうして最後に、尼公は読経をひとくさり行うのが通例でもある。群衆も、それを真似て合掌したり舌と唇をもごもごと動かしたりする。
とは申せ神仏の尊さや真髄など、しょせんは貴人の富貴に任せたものでしかなかった時代のこと。尼公の説き賜うた事々が、どれだけの人々の心に届いているのかなど、誰にも……尼公自身や尼公に奉じられた寅丸にさえ知ることはできなかった。依然として皆が求めているのは尼公と寅丸の霊験による病の快癒と安楽な死に様、そして説法の後に、その頃までにはすっかり行われなくなっていた賑給(しんごう。朝廷が貧民救済のために食料などの施しをすること。災害時の救援として行われるはずのものではあったが、この習慣は十世紀以降には次第に廃れていったらしい)の代わりとして振る舞われる、わずかの食事――そのくらいのものであった。
――――――
さて――その年の夏はことさら酷暑烈しく、各地の泉も涸れるところ続出し、水を引けなくなった田畑が見る間にひび割れていくという惨状であった。都の周辺にあっても決して例外ではなく、太陽から降り注ぐ絶え間ない熱波は地べた這いつく衆生に死神の哄笑を向けるごとく、ゆっくりゆっくりと数多の命を削り取っていった。かと思えば長い夏が終わった途端、今度は空はおろか山際までも覆い尽くすような黒雲が何日間もの大雨大風をもたらし、川の水をいたずらに増大させた。濁流へと成長した川は周囲のものを手当たり次第に押し流し、跡形もなく飲み込んでいく。
いずれの災禍にあっても多くの人が死に、弔いきれぬ屍体の山は目につく限りあちらこちらに打ち捨てられる。湿った死の香り、腐臭の連なりが、今が盛りと洛中洛外を問わず“華やいだ”。
都の夜の闇はいっそうに濃くなり、群盗はかつて以上に勢威を振るう。わずかの食料を巡って奪い合いや殺し合いが起きる。この異常な気象はせいぜい秋が深まるまでの程度のことに過ぎなかったものの、不幸にも命を落とした者は到底数え切れぬ。先にも書いたとおり、本来であれば朝廷がその権威のもとに行うべき賑給の施しはいつしか行われなくなっていったから、人々は飢えるに任せ、翳り差す都の繁栄もまた絶望的な荒廃とともにあり、留まることを知らなかったのである。
尼公たちが死者の弔いを行っていた加茂川沿いも、むろん、その影響から逃れるすべとてない。晩夏から初秋にかけて荒れ狂った水の暴龍は大地を遠慮なく鋤き返し、人が歩くこともままならぬ泥土に変えてしまった。爾来、大雨のたびに出水をくり返す難儀な川ではあったけれど、この度のこれは図抜けた暴れぶりだ。おかげで川近くで寝起きしていた宿なし者は仮の家をなくして路頭に迷い、代わりにならず者の群盗たちが夜な夜な焚き火を囲んで大酒盛りを始め、略奪品を手に大威張りを始めるのだった。
このような有り様となってしまっては、死者の弔いなど叶わない。
それに、いつまた風雨がやって来て川が溢れ出すかも知れない。心配した供らは尼公をそのように押し留めたが、しかし、彼女は聞き入れなかった。川に呑まれて死んだ者も多いだろうと、夜半、密かに抜けだしては洛外へ向かい、読経を行うのがひところの習慣ともなっていたのである。何度諌められても同じように川に向かうが、女の夜のひとり歩きにもかかわらずそのたび無傷で帰ってくるので、尼公を取り巻く人々は「これが仏の加護であることかよ」と、よりいっそう崇敬を深くしたという。
しかし、気が気でないのは寅丸の方。
尼公の一番弟子をもって自任するこの美丈夫は、ならばせめても……と、自身の腰にしていたつるぎをひと振り、尼公に奉った。衣のうちに隠しさえすれば、外からは決して見えないであろう短刀だ。長物でないから、振り回すに際だった技量も必要ではない。もしものときには、と、執拗に念押しをする寅丸には「仮にも御仏を奉じる者が、不殺生戒を侵す覚悟など」と逆に諌めはしたものの、何か嘘でもついて弟子の厚意を押し退けるだけの狡猾さも、尼公は持ち合わせていなかった。その晩よりは、寅丸の短刀が彼女の懐刀となった。
寅丸から借り受けた短刀と共に、いつものように複数の大路小路を折れ曲がり、また次には真っ直ぐに歩き、闇の中を洛外に出で川沿いに向かった尼公は、しかし、いつもの晩とはどこか違った不気味さに気づいた。まず何より、おそろしいまでに静かである。静かすぎるといっても良いほどだ。酒盛りをしてげらげら笑っている群盗たちの焚き火の明かりも、酒の香を感じ取って羨ましそうにしている貧者たちの溜め息もない。ことによっては川からの水音さえ鈍く在り、大気の震えが木々の枝葉を揺らす気配も消え去っていた。月光さえも分厚い雲の衾(ふすま)に押し包まれて眠りのさなかか。
亡者や物の怪がさ迷い出るときには生温かい風が吹くものだと人はよく言うが、汗ばんだ肌を撫でる風もそこにはない。本来夜に現れるべきいっさいの現象が消え去ってしまっているというのは、見様によっては鬼や怨霊よりも気持ちが悪いではないか。そこにはただ、都から離れて後さらに広がる無間の闇がある。闇の黒みは、人の妄念に描かれるいかなる悪鬼怨霊をも喰らい尽くすだろうほどに、鮮烈なのだ。
それでも、意気を鼓舞して一歩を踏み出す。
泥濘(ぬかるみ)を踏む音に軽いものが混じって聞こえる。そこにはかなりの量の砂利も混じっていることが察せられ、いつもよりかは足の運びが楽である。何ということはない。歩き慣れた川沿いの道だ。暗がりに惑わされ、川と地面との境を見失わぬよう気をつければ良いだけのこと。安堵してのち合掌し、指の間に数珠を揉み、一心に読経をくり返す尼公である。幾度も行い慣れたことをすることで、心は暗中にある一点の光としての澄明さを取り戻していく。
――――――そうして二、三十回ほど、経を唱えたころに。
何か、不可思議なものが彼女の肌にも気づかれた。
錆びきった刃物で撫でられるような……しかし、錆びきっているがゆえにこちらには何の傷も残らないような、そんな感覚である。危うくはないが害意、否、害意に“近い”ものはひしひしと在る。闇の向こうに潜んでいるらしい何者かは、自らはその姿を現すこともなくひっそりと、息を殺しているままだ。群盗であろうか、とも尼公は考える。だが、それにしては妙だ。読経のさなかであれば隙だらけだから、何を憚ることもなく襲いかかることができたものを。
「そちらに。そちらに、誰かが居られるのですか」
たまりかねて、尼公は自ら問いかける。
返事のようなものは何もない。その代わり、相手の息遣いはよりはっきりとしたかたちに変わりつつあった。ごくりと、尼公は唾を呑んだ。再び泥濘のなかを歩きだす彼女であった。草鞋が地面を踏むごとに、じゃりじゃりという音がした。だが、それは最初に聞いたものとは違っている。一定の間隔を有しているらしいこの音は、そう、両の手指で地面を掘り返している音ではないか――――?
そのことに気づくと、足取りは否も応もなく早まる。
この洛外の河原で、何かただならぬ出来事が起こっているのではないかという不安が心のうちに兆してきたからだ。相も変わらず月はその金色を見せてはいなかったが、自身の眼が暗闇に慣れてきたことばかりが今の彼女の助けであった。ほんの数間先までしか見えなくとも、もはや“そこ”で何が行われているかまでは察せられる。
「ああ……!」
尼公は、かなしみのあまり顔を覆った。
流れ出る涙を抑えることができなかったのだ。
腰を屈めて後ずさると、二、三度よろけて尻餅を突きそうになった。それでも決して転ぶようなことがなかったのは、眼の前でいったい何が起こっているのか、そのかなしさを知らなければならないという思いのためだ。尼公はそのとき初めて、御仏を怨みに思った。もしもわが手に悪徳と力のあらば、斯様なる苦しみをおつくりになる者を打ちすえねばならぬとさえ感じてしまった。それほどまでに、その行為は惨たらしかったのである。
もういちど向けられた尼公の眼には、やはりはっきりと映っている。
枯れ木を何本か束ねただけに見えるほど痩せた腕で、泥濘を懸命に掻き分ける女がそこには居る。掘り返された地面から覗いているのは――洪水に巻き込まれた者であろうか、それとも群盗による人殺しの犠牲者であろうか――黒々と腐りかけた人間の屍骸であった。女は必死の形相でその屍骸の骨から肉を剥ぎ取り、砂利まで一緒に噛んでしまうのも構わず口に運んでいたのである。
女は衣服の類をいっさい身につけてはおらず、砂と泥と垢にまみれた膚(はだ)を夜の底に押し沈めたまま、一心に屍骸を貪り喰っていた。頭の頂きにあるはずの髪の毛は薄らと禿げ、身体中が皺だらけだ。老人じみた姿だが、両の眼(まなこ)には、年寄りではあり得ないだけの生命の光と熱が確かに輝いている。尼公がこの者を女と思ったのは乳房があることに気づいたからだが、それとてもまるで萎びており、飢餓者に特有の膨らみを持った腹と重なり合うほどに、だらりと垂れ下がってしまっていた。
餓鬼だ、と、尼公は判じた。
この者、哀れにも餓鬼道から人間の骸を喰いにさ迷い出でた鬼女の類だと。
だが「いや、それは違うのではないか」とも思われた。極限の貧困と飢餓は、人の胎から産まれ人として育った人をして、物の怪とまるで変わらぬ何者かへと化さしめることがある。人間(ひと)は、自らが生きんがためには修羅道だろうが餓鬼道だろうが踏み越えていく。眼前で骸を貪るこの女も、あるいは生きながらにして人であることをやめ、餓鬼と化した者なのか。そうまでしなければ生きることのできなかった者なのか。
「それほどまでに飢えておいでか。土中より骸掘り返し、腐りかけた骨肉を喰らわねばならぬほど、飢えておいでなのですか」
濡れた気色の声で、尼公は女餓鬼に語りかける。
やはり返答はない。爛々と輝くふたつの眼が相手を一瞥し、しかし直ぐに自身の『獲物』へと向き直る。女の唇はすっかり乾ききっているが、反面、骨の髄までも吸い尽くさんと試みる舌使いからは、ぺちゃぺちゃという粘ついた音がかすかに聞こえてくる。黄色く濁りかけたその眼はいったい何を見つめているのだろう、尼公には到底解らない。だが、他の何にも喩えようがない絶望のさなかに、この女餓鬼が置かれているのは確かなことであったろう。絶望は人を殺す。命という以上に、人間であることそのものを殺すのだ。それを覚ってしまったとき、人間は自身が人間であることを諦める。
「名も知らぬ餓鬼よ。人が人を、斯様に喰ろうてはなりませぬ。鬼子母神でさえも、釈迦の導きにより柘榴の味を知ってからは子攫い人食いを止めたと申します。正しきこと致せば、そのように罪科(つみとが)を重ねることはないのです」
餓鬼を人である、と、そう尼公ははっきりと言いきった。
人も悪鬼も救われるべきである、いわんや人から悪鬼に堕ちた者が救われずして何が仏の道かよという、彼女の決意であった。未だ己を人扱いする者が居ることに驚いたか、餓鬼は一瞬ばかり手を止めて相手を見つめた。だが、また直ぐに屍体の肉を剥ぎ取る手つきに戻っていった。
単なる美々しき言葉だけで餓鬼道の巷をさ迷う者が救われるはずなど、万にひとつもあるはずがない。否、『あってはならない』のだ。ただの言葉だけで救われたように見える苦しみがあるのなら、それがごとき救いなどは単なる詭弁への盲信である。人を救うということは、得てして自身の心身にもまた深く傷を負わなければならないものだ。それと承知しているから、彼女は懐に手を差し入れ、寅丸より奉られた短刀を取り出した。鞘より抜き放つと、反りの少ない真鉄(まがね)の刃は洛外の暗中でも、どういうわけかかすかな輝きを放って見えた。その銀色は何を跳ね返す光であったのだろう、尼公は、鏡面にも似た刃へと映り込んだ自らの瞳の色の凄烈さにはとうとう気づかない。
相手が突如として刃物を取りだしたので、餓鬼はびくりと肩を震わし、身構えた。
あれだけ執着していた屍体を突き放し、まるで泥濘に溺れるみたいに地面を這いずり、逃げ出そうとする。尼公は、あえてそれを追わなかった。ただ彼女は努めて柔和な笑みだけを浮かべていた。自分の衣の裾を躊躇なくめくり上げると、片脚の腿の部分、陰部の毛の端さえ見えるかと言うほどの位置に刃を突き刺した。そのまま切っ先をくるりと回すと、膚はぷつぷつとちぎれ、肉が抉られていく。歯を食いしばるということもなく、笑みのままでの苦行である。この苦しみに酔うてはならぬ。苦しみに酔うて行えば、それは自らを肯ずるための苦しみでしかない。苦しむのは、どこまでも衆生の御為でなければならぬのだ――――。
やがてひとかけらの肉を切り出したとき、今まで痛みに耐えてきた尼公の肌から、ぶわりと、一気に汗が噴き出した。止めどもなく流れ出る腿からの血を衣に吸わせ、彼女は、少し離れた場所からこちらを観察していた餓鬼のもとへと歩み寄っていく。重々しき足取りの様は、病んだ老犬にも似ている。
未だ血の滴る己の腿の肉は、手のひらにすっぽりと収まる程度の大きさでしかない。
尼公は、その肉を恭しいまでに餓鬼の眼の前へと差し出した。わなわなと震える相手の唇が見える。はっきりと、『彼女』は息を呑んでいた。
「生者の肉にござりまする。それも、この尼の肉にござりまするぞ。死者の肉しか食むことできぬ餓鬼の身には、さぞかし美味でありましょう。ですからどうか、この肉に免じて人の骸を掘り返すことをお止めなさい」
両の手を伸ばす餓鬼の背筋は、もはや遙拝のそれに近い。
大きく見開かれた眼は、もう先ほどまでの食物であった屍体になど向いてはいなかった。闇の中、濃い血の香と共に立つ尼公をのみ見つめていた。餓鬼は尼公の肉を口に含み、ゆっくりゆっくりと咀嚼していく。『彼女』は依然として無言であったから、その味を尼公自身が知ることはない。だが、きっと――釈迦が鬼子母神に与えたという柘榴の味を知るよりも、はるかに勝る甘美の体験だったのではないだろうか。