尼公が洛中の人となってから、一年ほどが過ぎようとしていた。
依然として彼女は引き取り手のない屍体を見つけてはこれを集め、経を読み弔ってはいたが、この頃になると自ら方々を歩きまわって哀れな死者を見つけるというよりも、彼女自身は説法の方に力を入れ、屍体を集めるという仕事は尼公を崇敬する人々がもっぱら代わるようになっていった。
一日の半分は左京で、もう一方は右京でというように、京の都のどこにでも足を運び、乞われるままに話を聞かせてやる。彼女が先頭に立って歩き出すと別に誰も号令をかけてなどいないのに、それを聞きつけた者たちがどこからともなく集まっては、蟻の群れのようにぞろぞろぞろとついていく。おそらくは、もはや尼公からの施し物とか説法とか霊験だとかを当てにする者だけではなく、名高い女僧の姿を一目ばかりも見ておきたいという好奇心からついていった者たちも相当に混じっていたのだろう。尼公もまた、そうした人々をあえて遠ざけることはせず、誰が何人、自分たちの列に加わって、一方で何人離れていったかということなどには、さして頓着しなかった。彼女にとっては世の人への徳行がすべてであり、それ以外のあらゆる営為は虚栄であったのかもしれない。
とは申せ、虚栄というのであれば、尼公が希う(こいねがう)徳行の方が、彼女が救わんとしていた世の人々からはむしろ虚栄と見なされ始めたのもこの時期であった。この頃になると、尼公を見つめる眼、眼、眼の群れは崇敬や尊敬だけでなく、不穏さをも孕み始めるようになっていく。
あるとき、左京堀川小路を通り抜け、東市(ひがしのいち)を背にする辻へと一行が姿を現したことがある。朝餉の材料を買いに来た人々で賑々しい市場のすぐ近くでのことであったから、その喧騒の幾らかは次第に尼公の説法の方へと引き込まれて行き、長い列をつくり始めた。尼公が来ているということは元より知らずとも、何だろうかと思い正体を確かめようとする者たちまで加わって、尼公に連なる人の列は数町の先にまで伸びに伸びた。
しかし、これが良くなかった。
伸びきった人の列の端は、やがてさる公家の屋敷門の前にまで達してしまったのだ。
この屋敷というのが何という者の所有であったか正確なところは今日には伝わっていないが、仰々しいまでに伸長した尼公を拝する人々の列が、長い築地塀をまったく肌色に塗り込めてしまうほど群れていたとされることから、きっと都でもそれなりの勢威を保っていた者の邸宅であったのだろう。
さて、時すでに日は上り、卯の刻に官庁舎の諸門開鼓は為されていた。
この公家殿もまた治部省に籍を置く者であったので、当然のことながら出仕をしなければならず、そのための八葉の牛車も、屋敷に仕える牛飼いの下人たちによってすでに車宿(くるまやどり)から引き出されてはいた。だが、彼らにとって困ったことには、尼公についてきた人々が門前をまったく塞いでしまっていたために開門叶わず、主人を乗せた牛車が門の内側で立ち往生をしてしまう羽目に陥ったのである。
主人である公家殿の方は、どこか呑気な性質(たち)だったのか「この朝は何を手間取っておるのだろう」と思って牛車の簾の端を扇でちょっと持ち上げ、外の具合を垣間見る程度であったけれど、迷惑なのは牛飼の童や車副(くるまぞい)の下人たちの方だ。
こうも門前に人が多くては毎朝の仕事が果たせぬではないか。
そうは思っても門前から人の群れが立ち去る気配はいっこうにないし、一方で御主人の出仕の刻は迫ってくるしで気が気でない。これで出仕が遅れて御主人が恥をかきでもしたら、罰を受けるのは下人たちの方である。そこで彼らは眼と眼を見交わし、各々が牛の尻を叩くときの棒だの鞭だのを持ちだして、主人があくびをしているうちに一目散に門の外へと飛び出した。そうして、「どけ、早うどかぬか。ここをどなたの住まわれるお屋敷の門前と心得るのか。早うどけ!」と喚き散らし、人々を散々に打擲(ちょうちゃく)して回ったのである。
突然のことに尼公の列はかき乱され、多くの者が蜘蛛の子を散らすように諸所方々へと逃げ去ってしまった。そうやって小路の左右に退けた人の垣根の間を、公家殿の八葉車が悠々と往き過ぎることの優雅さといったらなかった。そして当の公家殿は自分の屋敷の外で何があったのかを知らぬまま、羨みか恨みかという眼を向けてくる人々のことなど考えもせずに、勤めの場である大内裏の官庁舎へと向かっていったのだった。
追い散らされたなかには、当然、尼公その人も混じっていた。
だがあくまで誰を恨みもしない彼女の代わりに、寅丸だけが、貧民たちを眼中に入れず、まして下界を睥睨することさえ思いつかないほど高みに居る公家殿の車を、苦々しくも睨みつけていたのである。寅丸の護るべきはやはり尼公ひとりであったのだし、尼公が心を配っているのは下人たちに罵られ、打ち据えられた人々の傷の方であった。
―――――以上のことはあくまで一例に過ぎないとしても、時経るうちに似たようないざこざは、次第にあちこちで起きるようになっていた。
何せ、尼公が道を歩くたびに誰かしらの目には留まり、ひとり、またひとりと人が増えていくのだ。大路や小路のひとつやふたつを適当に抜けるだけで、尼公を慕う人の列はその人数を幾層倍にも増やしていく。彼女が通った後は、まるで道端の草を片っ端から引き抜いてしまったかのように人の姿がかき消えてしまう。
けれど人が増えれば増えるだけ、尼公自身の目の届かないところというのはどうしても増えていくものである。人波の端の方では肘が当たったの当たらないの、足を踏んだの踏まないので喧嘩が起きることも決して珍しくはなかったし、人の多さにかこつけて“すり”に遭い、市場で米と換えるつもりだった塩の袋を盗まれてしまったという者も居た。廻国修行の賜物と称するいんちきな祈祷を行っていた怪しげな術師は、いつのまにか「あの尼公が霊験を込めたる逸品」と称して下手くそなつくりの木仏を売りつける商売へと鞍替えしていたし、「尼公の弟子であるわしに逆らう気か」と言って群盗の真似事をする狼藉者も度々であった。やはり先に書いたのと同じように、都大路を通らんとする公家殿の車を人の列で塞いでしまったがために、打擲や闘乱の騒ぎとなったことも一度や二度ではきかなかった。
もはや尼公自身の思いや考えよりも尼公がそこに在ることが、尼公自身がそこに在ることよりも尼公を表す名声や評判の方こそが、尼公その人をはるかに上回るほどの規模と力をもって京の都を席巻し始めていた。否、席巻という言葉では未だ足りないかもしれない。それは、蹂躙としてしまった方が未だしも適当な現実であった。『尼公が尼公であること』は、彼女自身の手に余るだけのあまりにも強い力となり、彼女の元をも離れつつあったのである。