暑さの中、里で布教活動していると信者や近くの人が菓子をくれることがある。
今日は葉に包んで葛饅頭を貰った。透明な葛の中に見える餡子。個人的には水饅頭という名称も気に入っている、透きとおって、清水の様にも思える。
貰った菓子は以前、供物なのだから神奈子様に、と渡した。ところが、「それは早苗に渡したものだろうから私は食べられないよ」と仰って私に下さった。何度かそんなことがあったけど、神奈子様は梃子でも動かないという感じだったので、自分で食べるようになった。私も現人神なのだから、貰う権利が有るということなのだろう。
里で貰うと、その場で食べるのは卑しいので、持ち帰る。神社でそんな神饌に、飽くなき布教活動のオアシスを求めるがごとく、夕食前なのに舌鼓をうち、小さな背徳感を堪能するのが密かな私の楽しみでもある。ちなみに歯磨きは忘れません。
そして今日も美味しそうな水饅頭を頂いたので帰って食べようとしていた。
しかし、遅くなった帰り道。掛かっていた蚊帳をくぐってみたら、出られなくなってしまったのだ。蚊帳をめくってもめくっても、どうしてかな蚊帳ばかり。四畳半くらいの空間を五回も過ぎればもうおかしいことは明らか。
正直面食らってしまったけどこういう事態にも少しは慣れた、妖怪の仕業に違いない。
でも姿を見せてくれないのは交戦して解決できないので厄介。
「ふふふ、そこにいるのは分かってるんですよ!」
とか叫んでみても、誰も出てこなかった。
一人頬に熱を感じつつ、次策を考えた。
まずはヘンゼルとグレーテルよろしく、目印に霊符を落としつつ、蚊帳を直進してみた。
この霊符は神奈子様の霊験あらたかな蛇符で、触ると蛇になって動き回る代物だったりする。仮にループしていて一周回っても無くなっている符があれば何者かがいる証拠になる。
結果、三十六回で元の位置に戻るようだった。家に行くわけでもないし、殆ど意味もない事だったと気づいてしまったけど。闇雲に進んでも駄目そうというのは一つ収穫かもしれない。
そして現在に至る。とりあえずただ進む戻るでは出られないのは確たる事実。
そうなれば私にできる事はまず、風を吹かせてみることだろう。見た目は普通の蚊帳だったのだから、上手く吹き飛ばせば外に出るかもしれない。
早速幣をかざし風を呼ぶ。今日は布教目的であまり手持ちで行える儀式が無いのだが、風だけならそう難しくない。
早速と風が吹いた。髪がなびき、服がはためく。瞬く間に蚊帳もはためいた。ひょうひょうと音を立て風下の面は風に膨れた。が、扇風機に毛が生えた程度の風量だ。
どうにも風の調子がおかしいらしい。一通り吹き抜けたが、成果無し。
これは完全に術中にはまってしまっているのだろう。
おまけにため息を吹かせて考えるもあいにく私は蚊帳を切るような手段も無いし……。
いや、となれば最終手段だ!
「むぎぎ……!」
蚊帳に犬歯を立てた。こうなったら網目とやるかやられるか、真っ向勝負である。
甘い物は好きでも歯磨きは忘れない。歯にはそれなりの自信があるのだ。無論私の歯も初めての相手なので勝算があるかは、神のみぞ知る。
しばらく膠着状態が続いた。しかし三分ほどを経て、耐えかねたのか、網目がぶちっと音を立てようやく切れた。そこに手を無理矢理突っ込んで、穴にすると、そのまま体重をかけて裂いた。完全勝利である。
でも結局その先も蚊帳の中で、やっぱり駄目かと項垂れ、ため息を吐き、振り返ってみたら蚊帳は不思議と元に戻っていた。予想はしていたけど、徒労感に打ちひしがれた。私はただのピエロだったのである……。
万策尽きてしまった。後は考えてみるしか無い。
こういう迷わせる妖怪って何だっけ、迷わし神? 化け灯籠? でも狐とか狸とか、とかくまあ古典的なよくある話だ。
以前はそんな目にあったら怖いなーなんて漠然と思ってたけど、いざ実際にそんな状況になると不思議だな、というのと面倒だな。ぐらいにしか思わない。私が毒されてるだけかもしれないけど……。
とにかく、こういう妖怪は朝になれば消えるのがお約束だったはずだ。なら私も私もお約束にしたがってもう出るのは諦めよう。困るほどの実害が無ければ、妖怪とのつきあい方はこんな物だ。まぁ、帰れないのはちょっぴり困っちゃうけど。
でもここは何もやることが無い。本も無いのは中々に寂しい、とりあえず休もうとその場に座った。体育座り。なんだか懐かしいなぁ感慨に浸っていると、ふと思い出した。
そういえばもっと幼かった頃。祖母だったか母だったかに、蚊帳の話を聞いたことがある。中にいれば雷にお臍を取られないとか、幽霊は蚊帳の中に入ってこられないらしいとか、三人で蚊帳を吊ると化け物が出るとか。
ただの迷信。子供ながらにそう考えたけれど、蚊帳は不思議と頼もしく見えた。夏の間は蚊帳が有ると、とても安心できた。
蚊を通さないという役目に加え、心地よい影をもたらしてくれる蚊帳は、猛暑を和らげる。さながら揺りかごの様だった。良く昼寝などしていたものだ。夏休みの思い出としては、イベント要素ゼロなのがちょっと悲しいけれど。
でも友達と遊びに行ったり、アイスを食べたり、あの頃は今に負けないくらい感動にあふれていたものだ。いや、幻想郷に来たってあの頃の感動に勝る物は無いのかもしれない。
今は神として祝として、やるべき事が山積みだからなぁ。
そんな風に一人黄昏れていると、不意に足音が聞こえてきた。思わず次の蚊帳に逃げようとしたが、足音は二足歩行っぽい、人のようだ。逡巡してとりあえず身構えて待つことにした。
「あんたも引っかかったの?」
入ってきたのは、なんと霊夢さんだった、やや面倒そうな顔をしている。
「なんだ……妖怪かと思っちゃいました」
「妖怪の方が良かったかしら」
「いえいえそんな事有りません。話し相手がいたらなと思っていた所です、お茶菓子もありますよ」
私は冗談交じりで貰った葛饅頭を取り出した。そういえば小腹も空いてきた。二つ貰っていたので、一つは霊夢さんに渡した。
「用意がいいのね、それとも喫茶店と思って蚊帳に入ったのかしら」
霊夢さんは口元を緩めると、腰を下ろした。のんきな霊夢さんを見ると不思議と安心だ。むしろ、ちょっと遊びに来たくらいに見える。
「この蚊帳って妖怪か何かですよね、こんな事してて良いんですか?」
「大丈夫よ。これは蚊帳吊り狸って妖怪で、丹田に力を込めて三十六枚めくれば外に出られるの」
「え、そうなんですか……」
私は開いた口が塞がらない。
「覚えておくと良いかもね。ただ退治が中々難しい。夏の間は下手に手出したくないし」
あっさりと解決法が見つかって、拍子抜けしてしまった。幻想郷に来て妖怪は皆そんなものというのも分かっては居たけど……。
「そんなに簡単に出られるなら、もう少しゆっくりしてから、出ることにします」
「変な奴ね、あんたも。この水饅頭は何なの? 変なもの入ってないでしょうね」
「貰い物ですから、保証はしかねますけどね。今日里で布教してるときに貰ったんです」
「信者に?」
「いえ、まだ信者では無かったと思います。近くの子が持ってきてくれたんです」
確か布教活動していた近くにあった、茶屋の娘がくれたのだ。将来的には守矢神社を信仰してくれるんじゃないかなと思っている。ただの願望だけど。
「ふーん……ならやっぱりあんたが食べるべきでしょ」
霊夢さんは神奈子様みたいな表情で水饅頭を突き返してきた。
「子供だから疑わしいんですか? 何も入ってないと思いますけどね……」
ちょっとふてくされつつ、水饅頭をかじる。蚊帳を噛むのに酷使した歯も、水饅頭なら喜んでくれるだろう。
「疑ってるわけじゃないけど、それってお布施じゃないんでしょ?」
「似たようなものかと。気まぐれでお地蔵様に饅頭を供えたりはありますし」
「あんた自分のこと地蔵だと思ってるの」
「現人神です」
「同じよ。それは神様にお供えしたんじゃなくて、炎天下で頑張ってるあんたにって渡したんじゃないの」
「え! そうなんですか」
「いや、知らないけど。子供なんてそんなもんでしょ。その子の気持ち無碍にするのは流石に気が引けるわよ」
そういうことだったのか、だから神奈子様も頑なに受け取らなかったのだろうか。
「現人神なんて言っても、あんたの場合は字の如く、神である前に人なんだし。ちょっとは肩の力を抜いたら」
「抜きどころが難しい……」
「まあその方が早苗らしいのかもね」
その後少し霊夢さんと話した。蚊帳の中で似た年の人と喋るなんて、有りそうでなかなか無いものだ。内容は外の話や、愚痴めいた話ばかりだったけど、不思議と楽しくておかしくて。
昔の感動に似ていたかもしれない。
「さてと、もう出た方が良いんじゃない」
ぽつりと霊夢さんが言い出す。時計は無いけど、それでも時間が経っているのは分かった。楽しさにかまけ過ぎたかも知れない。
「うーん、もうちょっと居ても……」
「一応待ってる奴がいるでしょう」
待ってるというのは神奈子様や諏訪子様の事だろうか、待ってるとは思えないけど。確かに戻らないとご飯の心配くらいはしてくれてるだろうか。少し口惜しい気もしたが、私は蚊帳吊り狸に引っかかったわけで、無理に居てはいけない。
「そうですね。えーと、丹田に力を込めて36枚でしたっけ」
霊夢さんは頷くとすっと立ち上がった。私も重たい腰を上げる。
一枚一枚丁寧に捲る。出られると思うとこの蚊帳を捲る感触を覚えていたくなる。
「それにしても三十六は多いですね、なんでそんな設定なんでしょう」
「私に聞かないでよ……でも大陸ではすごい沢山の比喩が三十六っていうし、踏襲してるんじゃないの」
「あ、そう言えば富国三十六景とか三十六歌仙とか習いましたねー」
とりあえず教わったとおりに、おへそに力を込めて蚊帳を押し通っていった。
もう三十枚くらいは抜けた所で、霊夢さんが立ち止まった。
「そういえば、この蚊帳ごとに落ちてる符は?」
「あ、それ目印に置いといたんですよ、出る前に回収しておかないと」
すっかり忘れていた。神奈子様の符だし、あんまり無駄にはしたくない。
かがんで拾おうとしたら、霊夢さんに制止された。
「私が拾っとくから、あんたはさっさと戻っていいわよ。その代わり、今度うちの神社で蚊帳作るの手伝ってくれない?」
「え、蚊帳ですか……構いませんけど」
助けて貰ったのは事実だし、作り方は全く知らないけど、断ったら後が怖い気もする。
「じゃあ明後日くらいで」
「あーっと、分かりました」
予定が空いてるのを頭で確認してから、私は深呼吸して再び枚捲っていった。
「ちょっと何これ! 符が蛇になったんだけど!」
あ、そうだ。あの符は蛇になるんだ。狼狽した霊夢さんの声が聞こえてきたが、ちょっと考えて蚊帳を捲った。今戻ると何か怒られそうだ、余韻を壊すよりも、有耶無耶にしてしまいたい。昔の人も言ったらしい、三十六計逃げるにしかずと。
その後は特に問題なく抜けられ、霊夢さんは蛇符に苦戦と見えて中々出て来ないので、その場は余っていた符に「ごめんなさい」と書き置いて去った。
帰ったら神奈子様も諏訪子様もあまり口そぶりには見せないけれど、心配してくれていたようだった、主にご飯とかの。でもちゃんと帰れて良かった。
私はいつの間にか蚊帳の中に捕らえられていた。野暮用もすんで帰ろうとした魔法の森。こんな暗いのに低空飛行する物では無いなと反省だ。
つい木の下を通ろうとしたら、何故か蚊帳が張ってあって、私は箒で突き破って中に入った。
暗くて周りも見にくいので魔法の火を纏っていた。だから蚊帳も簡単に突き破れたのだ、流石は私。
しかし、何故か蚊帳から出られなくなってしまった。こんな事は安い怪談話の中だけの出来事と思っていたがどうやら現実にも起こるらしい。
どうせ狸か狐か鼬か、そんな奴の仕業だろう事はわかりきっている。低級な奴らだ、さっさと抜けたい所。だけど中々どうして私は狸やらに弱いというか、良いようにされるきらいがある。ここは慎重に事に当たって変に化かされないようにしたい。
まずは代わり映えのしない空間に金平糖を落とし、ループしているのか確かめた。真っ直ぐ行って三六枚めくると元の位置に戻る。そこから右を向いて一枚ずつめくって行ってもやはり三十六で元の場所。何処にそんなに金平糖を隠してたのかは企業秘密である。
とにかく歩いて逃げようとしても無駄で、縦横三十六で元の位置に戻ってしまうらしい。次に箒で上を突き破ったが、良く分からないうちに地面に戻されていた。
妖怪は基本、人間に合わせて出てくる物だ。人間のできない動作は無かったことにされるのだろう。
だが、指をくわえていてもは出られる訳もない。
こうなったら魔法で突き破るか。魔法を使って入ったのだから出られないはずは無い。
マスタースパークで一気に貫通させたら、一瞬ぐらい外への道が開くのでは無かろうか。よし、確信を持って八卦路を取り出して構える。
「これで三十六枚ぶち抜いて……」
口にしたら、自分の言葉に何か引っかかる。まてよ? 冷静に考えたら三十六枚貫通したら自分に直撃するのでは無いだろうか?
そんな阿呆らしい事は無い。後ろからくるレーザーなんて卑怯極まりない物はごめんだ。
「あー……」
声にならない呻きが漏れる。どうにも無力だ。私は八卦炉をポケットにしまった。そもそもただ直進したのは駄目だと金平糖も言っている。
……まぁそのうち消えてくれるだろう。早くもそんな負の解決法しか思いつかない。
別に用が有るわけでもなし、待ってる奴も無し。それはそれでかまわないとも思う。
しばらくは気ままに休んでいたが、暇に弱いのが人間だ、あいにく魔道書も持ち合わせて居ない。
ぼんやりと蚊帳を見てみる。材質は麻だ。折り方は見たこと無い方法だけど作りも丁寧で、まるでお手本の様な出来。
そういえば昔に一度、蚊帳を作ろうと思うことがあった。
あれは私が幼い頃で、まだ実家にいた時の事だ。
私の家は大きな道具屋だから、蚊帳も当然置いてあった。安いのと高いのが二種類。安い方はまあまあ売れていたようだが、手間の掛かるらしい高い蚊帳は値段もかなり張っていて中々売れなかった。
ある日その蚊帳を客が物欲しそうに蚊帳を見ていたの、で思い切って買わないのか聞いてみた。客は頭を掻きつつ、妻の持ってきたのが使えるから、娘の為に買おうかと吟味しているとの事だった。
私には言っている意味がよく分からなかった。
後に父に話したら、蚊帳は嫁入り道具の一つでもあるだそうだ。元から持っていたり、自分達で作れるので蚊帳はあまり売れないんだとか。嫁入り道具にしても自分達で作ったものを持たせる事も多いと聞いた。
それを聞いた私は何を思ったのか、父の前で蚊帳を自分で作ると豪語した。その時の父の笑顔と呆れと渋面を足して割ったような表情は、未だに忘れられない。
父は渋々なのが丸わかりだったが、材料を用意してくれた。一丁やるかと意気込んでみたものの、織り方が分からない。それも父に教わって、縫い始めた。
一ヶ月ぐらいはがんばっただろうか。父は蚊帳を作るのは男が家を一軒建てるのと同等の苦労が必要と言われている、と教えてくれて、その言葉で完全にやる気を失ってしまった。
結局私は完成させることが出来なかった。中途半端なことをして、と父に軽く怒られた。
私が投げ出した蚊帳はいつの間にか父が継いで最終的に完成させた。嫁入りの時は持って行けと、嫌味な言われ方をしたなぁ。
こんな記憶があれば蚊帳も好きとは言いにくい。
思い出にふけって、何となく蚊帳を見るのをやめようとした。が、蚊帳の中にいる以上、うつぶせにでもならないと目に入る。うつぶせもばからしく、 しばらく動かずに居たが、待ってるだけもやはり性に合わないので、とぼとぼと歩き出した。
普段から飛んでいるからって事はないだろうが、歩いていると考え事が捗ったりするものだ。
帰ったらご飯は何にしようかとか、あの本まだ読んでないな、とか。
こういう状況の時、ほかの奴らならどうするだろう。
妖怪ならいざしれず、人間だったら……。
私は金平糖を踏みつぶしてそんな事を考え始めた。
霊夢だったら、いとも簡単に出られそうだ。霊夢は空間に穴をあける事もできるし、空を飛ぶと言っても羽虫や蚊とは似ても似つかん。こんな蚊帳に捕らわれる事も無いだろう。
咲夜だったらどうか、時間を止めるっていうずるい技で抜けられるに違いない。仮にそれが出来ずとも、あいつは頭がきれるし、結構根性ありそうだ。きっと何か糸口を見つけるに違いない。
早苗だったら? やはり持ち前の奇跡が起こって抜けられそうだ。何だかんだあいつは柔軟な意味で頭も良いし知識もある。意外と言ったら悪いが合理的な抜け方をするかもしれない。
それに比べると私が出来ることは幅の狭いったらありゃしない。魔法使いと言っても、私は人魚に足をやる事は出来ないし、王子様を蛙にする事も出来ないだろう。毒リンゴくらいなら出来るかな? でもそれはやろうと思えば誰でも出来る。
魔法使いにしてみれば、私の魔法は誰でも出来るけどやらない類の事なのだ。さらに魔法も殆ど効かないこの状況。私にある物は何だろうか。
いいや、そんなことは本当はどうでもいい。
霊夢の様に、咲夜の様に、早苗の様に、なりたい訳じゃない。でも今、人としては負けている気がして実に悔しいのだ。
比べられる話では無いのだが
昔の様に、中途半端で助けて貰うなんてのはごめんだ。
だからこそ、こんな蚊帳位は抜けられなくちゃいけない。
私は深呼吸一つして、一か八か、箒に乗って思い切り蚊帳に突っ込んだ。台風の様な風切り音が耳に轟いてざわつく。
私の魔法は熱が主だ。蚊帳を破ることも難しくは無い。現にこうやって蚊帳の中にいるのが証拠。
そのまま全速力で進んだ。真っ直ぐは飛んでいるつもりだが周りが全然見えない、恐らく途中で斜めにずれて、まっすぐには行かないはずだ。
がむしゃら過ぎてみっともない気がするが、それでもいい。仮に私が化かされているとしたら、自分で思ったことは全て化かされたというフィルターを通って曲げられてしまう。きっと自分でも分からない方向に全速力で進んでいれば、流石に何処かにぶち当たるはずだ。
この際、岩や木にだってぶつかってやらあ。私にできることは体を張ることだ。
勢いに乗りすぎて流石に恐怖したけど。むしろ清々しい気もした。
二十秒かそこらかで、うっすら目を開けた。
その瞬間、ふっと霊夢の顔が見えた気がした
「ちょっ、ぎゃあ!」
私は蚊帳一枚の向こうにいた霊夢に直撃した。見えた気どころでは無かった。
無論、カラスの断末魔みたいな声を出したのも霊夢だ。訳が分からなくなりながらも、私たちは勢いそのまま団子となって、ゴロゴロと十数回転して自然と止まった。幸い岩や気に衝突することも無かったらしい。
「いてて……おい、大丈夫か?」
流石に目の前に霊夢が出てくるとは思わなかった、痛がる体を何とか起こし、霊夢の背を手で支え上半身を起こさせた。
「……あんたね、蚊帳突き破って出てくるって、やんちゃすぎでしょ」
「出てくる? お、おお!」
周りを見回したら、そこは帳のない夜が広がっていた。通る視界。間違い無く外だ。出られた! 思わず両手を上げた。
「あだっ……いい加減にしてよね」
あっ、しまった。と手を戻そうとしたのもむなしく、霊夢は地面に打ち付けられた。たちまち冷めた瞳が私に突き刺さって痛い。もう一回蚊帳に戻ろうかと一瞬考えてしまった程だ。
考えただけで実行しなかった。というよりも蚊帳が消えてしまってできなかった。
私は観念し、いかなる仕打ちもやむを得ないと無常感に浸った。こうなれば先に謝るしかない。
「悪かった。蚊帳に閉じ込められて、無我夢中になっててな」
「ああ、やっぱり蚊帳吊り狸だったのかしら……」
幸い霊夢も大した怪我では無かったらしく、起きあがると存外ぴんぴんしていた。
大して怒ってもいないらしい。蚊帳を抜けたのも含めようやく安堵のため息が吐けるというものだ。蚊帳吊り狸というのは先程のあれのことだろう。
「出方を知っていたの?」
「知らん。自分でもどうやって出られたのか説明できないぞ」
私は箒で突き破った事を話した。霊夢がそのとき何を考えていたかと聞くので、用があるからとかでなく、とにかく抜けたいと思ってた。とだけ伝えた。嘘は言ってない。
「へぇ、丹田に力を込めて三十六枚めくると抜けられるんだけどね……元々丹田は気を作る所だし、単にやる気があるから抜けられたのかも」
何だその抜け方。私は突き破っていただけだ。
「さてな、今後二度と使わないで済むと良いんだがな」
力なく笑ってみたら、霊夢も笑っていた。いずれにせよ、抜けられたのは正規の方法に近いことを私がやったからみたいだ。思ってない方向云々よりも、自分の心持ちの問題なのだろう、妖怪はそういう感情的な理由が鍵で他で対処できない事があるのが面倒だ。
「知らないのに抜けられたのは、あんたらしいわ。ちょっと羨ましい」
「何が羨ましいんだ、霊夢ならこんな妖怪、わけなくやり過ごせるだろう」
「私だって、対処法が分からなきゃ抜けられないわよ。特別なお札とか使えばまた別かもしれないけど……」
「私からしたらその方が凄い気がするぞ、私は万全の装備だったのに手も足もでなかったし」
蚊帳で考えたことが再起し、やや自嘲気味な私だったが、霊夢は少し間をおいて。
「準備が無くても抜けられたって事でしょう。妖怪相手はそういう方が凄いのよ」
そう言った。あんまりこういう事言われ慣れないせいか、いかんせんむずむずする。それに褒められるような事をした覚えは、やはり無い。
「私がやった事は、誰でもできることなんだろう。すごかないぞ」
「どんな難病も治るけど誰も手に入れられない薬より、治るのは限られるけど皆使える薬だったら、後者の方が大切でしょ。偉いのは後者を見つける人。それと同じよ」
「うーむ、そんなもんかな」
「普通はそうよ」
「普通は、そうか」
少しだけ普通という言葉が心地よかった。
休憩がてらその場に座り込んだ。思いっきり突っ込んだ手前、私だけ帰るわけにもいかない。適当にあれやこれやと話していたら、急に提案された。
「今度蚊帳作るんだけど、手伝ってくれない?」
「蚊帳? もしかして嫁入りでもするのか」
「そんなわけないでしょ」
そりゃそうか。しかし私は気が進まない。蚊帳は懲り懲りである。
「あんまり蚊帳作りは得意じゃないぜ」
「怪我はしなくても突っ込んできて驚いたんだから。慰謝料よ」
どうやらこっちの意志は関係ないらしい。轢き殺したんじゃ無いかと思うくらいだったし、その位なら安いものか。私はくしゃくしゃと頭を掻いた。
「あれ?」
「何よ、急に立ち上がったりして」
「帽子が、無い」
慌てて周りを見回したが、何処にも落ちていない。今日は風も吹いていないというのに。
ポケット等から手持ちの物を確認する。八卦炉もメモ帳もちゃんとある。帽子の中に大した物は入って無かったのは良かった。金平糖くらいだったか、入っていたのは。
「帽子に物なんて入れるから無くして困るのよ」
霊夢は至極真っ当な事を言い捨て、立ち上がった。
「もう大丈夫なのか」
「このくらいへっちゃらよ。帽子も探しとくから、あんたも今日は帰ったら」
「確かに本当ならも寝ててもおかしくない時間だ……なんだその、ありがとな」
「ん」
霊夢は暗がりの中、そんな返事だけ残して飛んでいった。