Coolier - 新生・東方創想話

悪霊(二)

2014/04/28 19:44:07
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 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

(日本聖書協会『口語訳聖書』マタイによる福音書4章5-7節)



「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

(日本聖書協会『新共同訳聖書』マタイによる福音書6章1-4節)




 自由を取るか、安定を取るか

『人間の里』がいかなる場所か知りたければ、江戸時代の城下町を思い浮かべるとよい。この地が結界によって隔離されたのが明治の初めごろと言われているから、建築様式などは、江戸時代後期のそれとさほど変わるものではない。時代劇を見たことのある諸君なら、次のような場面を容易に想像できるだろう。まず、川から水を引き、ゆるやかな流れを湛えた堀がある。堀の両岸は石垣になっていて、柳の並木が等間隔に植えられている。所々、水面に下りるための石段が設えてあり、小さな猪牙舟ちょきぶねがそこで荷を積み、ほっかむりをした船頭が、長い竿を手に、巧みに舟を操ってそれを運ぶのである。乾燥すると土ぼこりが舞い、雨が降るとぬかるみになる、舗装されていない二本の往来が堀の両側を挟み、木造のアーチ橋が堀をまたいで二つの往来を接続する。往来の、堀に面していないもう一方の片側には、瓦屋根で、精々二階建ての木造家屋が隙間なく軒を連ね、その一階部分は商店になっており、前掛けを着け、愛想のよい、ときにずるそうな笑みを浮かべた番頭が、うやうやしくもみ手で客を迎える。天秤棒をかついだ行商人が魚を売り歩き、人力車の車夫が客待ちをしながら退屈そうに煙草をくゆらす。白壁の土蔵、石灯籠、屋号を染め抜いた日除け暖簾のれん、建看板、火の見やぐら、……そうした情景の中に、和装と洋装の奇妙に入り混じった『文明開化』の人々が暮らしているのである。紋付き袴に山高帽をかぶったひげ面の紳士が往来を闊歩し、シャツの上に和服を重ね着した書生風の青年が橋の上で語らい、ハンチングに下駄履きの少年が大声で新聞を売り、振袖とドレスを着た女性たちが互いを褒めあい、自慢しあうのである。
 過去と現代、西洋と東洋、科学と迷信が渾然一体となり、あらゆる境界があいまいで、不明瞭で、未分化であった明治という時代。この地は百数十年もの間変化することを拒み続けているのである。誰が変化を拒むのか? そも結界を提案したのは誰であったか? すでに諸君はこの問いの答えを知っている! 皆まで言うまい。里は明治という一時代を永久に模倣し続けるために創られた巨大な箱庭であり、無知で、蒙昧で、信じやすく、それゆえに罪のない、善良な魂を栽培する秘密の菜園であった。ここは歴史から隔絶された地である。過去のない場所には未来もまた訪れない。隆盛も衰退もここにはない。止まったままの時間、欺瞞に満ちた永遠。変化のないことは幸福だろうか? なるほど、安定は一つの長所と言えるかもしれない。それが権力者の手によって巧妙に仕組まれたものだと知ってしまった後でも、我々は同じように幸福と感じ続けることができるだろうか?
「どうなろうと私の勝手だ!」かつて、そううそぶいて里を出た道具屋の娘は、森に一人で暮らしている。彼女は今幸福だろうか?

 二〇一三年

 この物語の舞台である第一二八季とはいかなる年であったか? 教皇ベネディクト十六世が退位し、替わりにフランシスコが即位し、オバマが二期目の大統領就任を果たし、チェリャビンスクに巨大な隕石が落下し、嫦娥が月面に玉兎を放ち、豊渓里で核実験が行われ、中央情報局ラングレーの元職員がロシアに亡命し、朴槿恵が就任し、張成沢が更迭され、ソロモン諸島、ザルビノ、ブーシェフル、ザーヘダーン、四川省、甘粛省、アリューシャン列島、ボホール島が揺れ、ロカテンダとシナブンが火を噴き、ハイエンがフィリピンを襲い、ベトナム戦争で逃げ出した親子が四十年ぶりに密林で保護され、エジプトでクーデターが起こり、キューバ革命から六十年が経ち、毛沢東生誕から百二十年の節目にあたるこの年、里は不穏な空気に包まれていた。
 その年の夏に起きた一連の決闘騒ぎは各地で宗教論争を巻き起こした。現状に疑問を呈し、変革を求める機運が、あたかも里という一匹の巨大生物を、蝕み、やがて死に至らしめる猛毒のように、ゆっくりと、しかし確実に、人々の間に広まり始めていた。革命の萌芽を育む土壌は水面下で醸成されつつあった。皆がそわそわしていた。誰もが期待に胸を膨らませ、同時に不安におののいていた。これが私の知る第一二八季である。正邪君のような人物が現れたのも、あるいは歴史の必然であったのかもしれない。
 正邪君は確固たる信念を内に秘めた真の革命家だったのか? それとも、一部で言われているように、秩序の破壊と混乱を目的とした単なる愉快犯にすぎなかったのか? 彼女のいない今となってはその真意を確かめようもないのだが、いずれにせよ、言葉巧みに周囲の人々を説得し、懐柔し、扇動し、騙し、操った彼女自身の話術もさることながら、第一二八季のあの不穏な空気がなかったら、こうも多くの人が彼女の言説に耳を貸すこともなかったのではないか? あれは《彼女だから》というよりも、むしろ《第一二八季だから》こそ起こり得た事件ではなかったか? よしんばそこに彼女がいなかったとして、他の誰かがそっくり同じことをやったのではないか? 歴史の必然とは、つまりそういうことである。彼女はたまさか表舞台に引っ張り出され、脚光を浴び、むりやり主役の座に据えられただけの憐れな三流役者にすぎなかったのかもしれない。誤解をおそれずに言うならば、彼女もまた被害者ではなかったか? 彼女一人を「悪党」と呼んで糾弾する権利が我々にあるだろうか?
 しかし、どうやら私はひどく先回りをして話しているらしい。事件そのものに触れる前に、そこに至るまでの道程をもう少し詳しく描写しておかなければなるまい。様々な思惑が交錯する、陰謀渦巻く第一二八季早秋のころに話を戻すとしよう。

 偉大な兄弟があなたを見守っている

 里を歩く時の正邪君は、何かとても重要な考えが突然頭の中に降って湧いたとでもいうように、往来の真ん中でふいに立ち止まったり、時には、そのまま踵を返して、もと来た道を引き返したりすることもあった。あるいはまた、袋小路になった路地にわざと入り込み、路地の突き当たりまで行くと、今度は何事もなかったかのように引き返して来て、またもとの往来に戻る、といった奇妙な行動をとることもあった。彼女はこれらの行動を「点検」と呼び、まるで往来を歩く際に必ず守らなければならない神聖な義務とでも心得ているかのように、律儀に実行するのだった。
 もちろん、彼女がこれほど熱心に点検にこだわるのには理由があった。彼女は何者かに尾行される可能性を常に考慮していたのである。もし、彼女がふいに立ち止まった際に、同じタイミングで立ち止まったり、彼女が振り返った瞬間に、身を隠すような素振りを見せる者があれば、それが尾行者だ、というわけである。誰が尾行するのか? もちろん賢者達である。こう言うと、健全なる諸君は「それは、いかにも陰謀論じみていて、いくら何でも現実味がない」とか「賢者達ってのは善良な市民を四六時中監視していられるほど、暇な人たちなのかね?」とか「正邪君はずいぶん臆病な性格だね、いもしない探偵におびえるなんて!」と言うかもしれない。また、諸君はこうも言うだろう。「探偵を雇って見張らせるにしても、人を雇うには当然金がかかる。まして善良な市民を監視するためだけに金を費やすなんて馬鹿げている。それよりも、公共事業や福祉事業に投資する方がいくらか建設的だし、第一、そうすることで民衆の不満も解消されるのだから、反乱なんてそもそも起こりようがないじゃないか」。これは、まったくの道理である。
 しかし、そんな諸君に私はこう反論しよう。「歴史の教科書を見たまえ、莫大な国家予算を投じて自国民を監視した愚かな為政者でいっぱいではないか」と。国家保安委員会カーゲーベーも、国家政治保安部ゲーペーウーも、内務人民委員部エヌカーヴェーデーも、非常委員会チェーカーも、国家保安本部ゲシュタポも、国家保安省シュタージも、国家政治保衛局も、特別高等警察も、国家安全保障局フォート・ミードも同じことをしていたではないか。権力者は体制を維持するためなら、どんなに陳腐な愚策にも、常軌を逸した悪法にも、飛びつかずにはいられないものだ。ヨシフもアドルフもそうだったのに、賢者達がそうでないとどうして言い切れよう? 見えない探偵の影を常に気にしていたからと言って、正邪君を臆病者と笑うことがどうしてできよう?
 その日、「知人に会いに行く」と言って商店主の屋敷を出た正邪君は、堀に面した往来を歩き、自警団の詰所の前を通り過ぎ、稗田邸を少し越えたあたりで左に折れ、さらに十分ほど歩いた。その間、入念に点検を繰り返していたことは言うまでもない。
 この辺りまで来ると、人通りはまばらになり、家屋もすべて平屋で、天井も低く、だいぶみすぼらしくなってくる。
 正邪君はとある小さな長屋の前にさしかかると、周囲に人気のないことをもう一度確認してから、向かって一番右側の戸口の前に立った。彼女は素早く三回、少し間をあけて今度はゆっくりと二回、独特の拍子をつけて戸を叩いた。すぐに引き戸が半分ほど開き、彼女はすばやくその中に身体を滑り込ませた。戸はすぐに閉じた。

 せ い し ん

 長屋には窓がなく、屋内はひどく暗かった。外の明るさとの対比で、ほとんど真っ暗闇に見えたほどだった。
 正邪君の目が暗闇に順応するよりも早く、背中に何かを突きつけられる感触があった。背後に人の気配がした。気配は押し殺した声で告げた。「地面にひざまづいて、手は頭の上に。おとなしくしていれば命までは取らない……」
「僕との約束をちゃんと守ってくれているようだね」両手を上げたまま正邪君はゆっくりと振り返った。
 そこには赤い着物を着た小さな女の子――少名針妙丸が、竹箒を手に立っていた。正邪君の背中に突きつけられていたのは箒の柄の部分だった。少女はくるくるとよく動く大きな瞳で、正邪君の顔をのぞき込むようにしてたずねた。「今のどうだった? あたし、何度も練習したんだから!」
「とてもお上手でした。怖くてまだ震えが止まりませんよ。ぶるる」
「正邪君ったら、またそうやってあたしをからかうんだわ!」林檎のような頬をふくらまして少女は抗議した。やがて彼女はこらえきれない様子で吹き出すと、今度はころころと笑い始めた。
 少女は同じ年頃の娘たちがそうするように、探るような視線で正邪君の顔を眺め、目が合うと、さっと頬を赤らめて、視線をそらし、くすくす笑いをするのだった。何がそんなに面白いのか? それは少女と同年代の娘たちだけが知る、決して他人に教えてはならない神聖な秘密なのだ。
 少女自身の言葉を借りるならば、彼女はどこかの城だか屋敷だかに幽閉されていたのを、正邪君によって「助け出された」のだそうだ。正邪君のことだから、何か下心があって彼女をかどわかしたか、あるいはもっと直接的に彼女を誘拐したのではないか、と私は疑っているのだが、少なくとも、少女自身は、そのことを微塵も疑ってはいなかった。年頃の娘ならば誰もがそうであるように、彼女もまたヒロイズムというものに少なからず憧れをいだき、不幸の牢獄から「助け出された」という、どこか物語のヒロインを想起させる自身の境遇に、すっかり気をよくしてしまったのである。彼女にとって正邪君は白馬の騎士であったのかもしれない。
 彼女の性格は快活そのもので、純粋で、おてんばで、好奇心旺盛で、何にでもすぐ興味を持ち、熱中すると周りが見えなくなり、飽きるとすぐに放りだし、次の興味の対象を見つけてはそれに向かって突進し、ときに痛い目に遭って泣き、すぐにけろりと復活し、空を見上げては「空が高い!」と言ってはしゃぎ、小川に足をひたしては「水がちべたい!」と言って笑い転げた。この少女を一言で表現するなら「子供」で、よく言えば「純粋」で、ありていに言えば「世間知らず」だった。どんなにありふれたつまらないものでも、彼女の目を引かぬものはなかった。彼女はこれまでの自身の生活と、里に来てからの暮らしを比較して、その変貌ぶりを次のように表現した。「ここでは何もかも逆さまだわ、まるで世界をひっくり返したみたい!」
 彼女は空に浮かぶ雲のかたちや、風に揺れる秋の草花や、その下の地面を這う虫たちの動きや、夜空に浮かぶ月の模様や、その他目に付いたあらゆるものを熱心に観察した。農家の稲刈りの様子や、銭を勘定する商人の素早い手の動きや、棒切れを振り回して遊ぶ子供たちの無邪気な笑顔を遠目から眺めた。彼女は決して里人に近づかなかった。それは正邪君が彼女にこう吹き込んでいたためである。「善良そうに見えても、あれはその昔きみのご先祖様を追放した民の末裔だということを忘れてはいけないよ」「彼ら一人ひとりは温厚で、力もたいしたことないけれど、集団になると、とたんに理性を失って凶暴化するんだ」「彼らは群れることで思考を停止し、凶暴化して暴徒と化す。なぜそうなるかって? 彼らが無知だからさ。一人でいる時は、何が正しいのか、誤りなのか、何もわからずに、ただびくびくおどおどしているだけの子供みたいな人たちが、何人か出会うと、すぐに自分の考えが誤りでないことを互いに確認しあい、自信を深めあう。こんな調子で、もし同じ考えを持つものが十人集まったら、どうなると思う? 百人なら? 千人集まったら? もはや、自分の考えを否定する人なぞ誰一人存在しない。その時、人は自分の考えが揺るぎない絶対的正義だと確信するんだ。するとどうなるか? 今度は自分と異なる考えの持ち主を激しく攻撃し、駆逐し始めるんだ。自分の考えが揺るぎない正義だとするなら、それと異なる考えはすべて悪ってことになるからね。こうして集団は排他的になり、徐々に凶暴化していくってわけさ。……きみのご先祖様を追放した人たちもね、そういう集団心理にとり憑かれた無知な人たちだったんだ。人々は小槌の力を何かとてつもない邪悪なものと信じ込んでしまった。もちろん、そうでないと信じる人たちもいたけれど、暴徒と化した彼らは聴く耳を持たなかった。彼らとて怖かったのさ。きみのご先祖様やその小槌の力のことを言ってるんじゃないぜ。一人だけ別な意見を口にして集団から孤立してしまうことに、彼らはひどくおびえていたのさ。ひょっとすると、彼らの中にも《自分の考えが間違っているかも》と密かに考える者はあったかもしれない。でも、その考えを口にすることはできなかった。なぜって、そんなことをしたら、次にひどい目に遭わされるのは自分だからね。『自分がいじめられたくなかったら、そのぶん他人をいじめるのだ!』熱心ないじめっ子ほど、周囲の尊敬を勝ち取ることができる。無知な連中というのは、そうやって自分の身を守っているのさ。憐れな連中さ!」また、彼女はこうも言った。「でも、彼らを責めてはいけないよ。彼らの一人ひとりは、悪党ではなく、ただ無知なだけなのだから。事実、彼らのうちの一人をさらって来て、集団から引き離してしまいさえすれば、またもとのびくびくおどおどした状態に戻るのだからからね。彼らの無知を赦してやらなければならない。真の悪党は別にいるんだ。人々から知性の光を奪い、人々を無知の闇の中に留め置こうとする存在。そんな連中こそ、真の悪党だ!」
 純粋な少女はこれらの話を完全に信じ込んでしまった。正邪君は世界を救う英雄で、彼女のためなら自分は何だってしよう、少女はそう心に誓うのだった。少女は子供らしい無邪気さで言った。「そんな悪い奴ら、あたしがみんなやっつけちゃうんだから!」
 長屋を後にした正邪君は、昨日の雨によってできたぬかるみを避けながら、柳の木が等間隔に並ぶ堀に面した往来を歩いていた。途中、小さな橋のたもとに差しかかったところで、誰かが彼女に声をかけた。「もし、奇跡は要りませんか?」
 振り返ると、そこには蒼と白の巫女装束をまとった東風谷早苗が立っていた。
 次はこの人物について詳しく述べてみることにしよう。

 テレビは神様なんです!

 諸君もすでにご承知のとおり、東風谷早苗は外来人である。
「信仰を得られなくなった外の世界から、大結界を飛び越えて神社ごと幻想郷に引っ越してきた」と彼女はうそぶくのだが、果たしてそんなことが可能だろうか? 結界を越えた経緯が不透明な点と言い、(博麗と並んで)巫女という職を許されている点と言い、彼女にはいささか不可解な点が目に付いた。なぜ彼女がこれほどまでに優遇されているのか? そう疑問に思ったのは、どうやら私一人ではなかったようである。「彼女は賢者達とつながりを持ち、その命令に従って動いている」そんな噂が、ある程度の信憑性を持って語られていたのである。なるほど、それなら幻想郷に大きな異変のある度に、彼女や、彼女の属する神社の名が、ある時は異変の黒幕として、またある時は異変解決に尽力した(もう一人の)巫女として、背後に見え隠れするのもうなずける話である。
 とは言え、彼女はたいへん人当たりのよい、礼儀正しい人物であったし、彼女を知る大多数の人が、彼女を「落ち着いた、常識的な人物」と評した。もちろん、これは好意的な評価に違いなかったが、彼女自身はこの評価をこころよく思ってはいなかった。彼女は言った。「常識というのは、いったい何なんでしょうね? 常識とは、つまり《誰もがそう思っている》ってだけで、それが正しいとか、合理的であるとか、優れているとか、美しいとか、そういった価値基準とは一切関係ない。いったい非常識のどこがいけないんですかね?」。これは彼女の思想の一端を垣間見ることのできる発言なので、ここに記録しておくことも無駄ではあるまい。
 とにかく、彼女は人一倍常識的でありながら、常識を疑うという自己矛盾を抱えていたのである。昨日まで疑いもしなかったことが、今日はひどく滑稽に思える。諸君はそんな経験をしたことはないだろうか? まして多感な少女時代に、幻想郷という異世界に飛び込んだ彼女のことである。そうした価値観の変化が彼女の中に起こらなかったと断言できるだろうか? いや、断じて言おう、彼女の中にも、そうした変化は起こったのである。かつて外の世界で「常識人たるべし」と教えられ、周囲の人たちの行動をまね、同じ服を着て、同じ髪型にして、同じものを食べ、同じ趣味を持ち、同じ曲を聴き、同じ番組を見て、同じ考えを持ち、規格から外れることを何よりおそれ、良くも悪くも目立たないことを身上として生きてきた彼女にとって、幻想郷での暮らしは、いささか刺激が強すぎたのではあるまいか。幻想郷という禁断の果実を口にした彼女は、不幸にして、常識を疑う知恵を授けられたのである。
 確かに、彼女の考え方は外の世界にいた頃から劇的に変化した。しかし、その考えを実際の行動に移すとなると、また別の話である。なぜなら、行動は過去の記憶や習慣によっても規定されるからである。習慣ともなると、人はどんなに馬鹿げた行為でも無意識にやってのけるものである。もちろん彼女もそうだったし、それは容易に修正できるものではなかった。時折、彼女はわざとのように突拍子もない行動に出て、周囲の人を唖然とさせることがあった。しばしば、自分の性格を無理に変えようとして、個性が定まらず、空回りしている人を見かけることがあるが、彼女はまさにそれであった。
 根が真面目な彼女は、どこか一途に思い悩むようなふしがあったが、信仰に対しては特にそうだった。彼女がそれを表に出すことはめったになかった。時折、抑圧された感情をすべてぶちまけてしまいたい衝動に駆られることもないではなかったが、感情よりも理性が、欲求よりも自責の念が、理想よりも現実が先に立ち、結局は、また自分の感情を飲み下し、押し殺してしまうのだった。こういった性格の人間は、何かのきっかけでひどく感情的になり、普段から内に秘めていたものを、言わずにおくべきことまですべてぶちまけてしまい、あとで後悔することになるのだが、彼女もやはりそうだった。
 概ね、彼女は今述べたような人物だった。彼女がなぜ正邪君に近づいたのか? その答えはいずれ明かすとして、今は話を進めることにしよう。
「奇跡は要りませんか?」そう言って彼女は巫女装束の袖を捲くると、何もない空間から見えない何かを「えい」とつかみ取る仕草をしてみせた。彼女はゆっくりと手を開いた。手には赤い色紙に包まれた小さな飴玉が一つ握られていた。「お近づきのしるしに」そう言って彼女は正邪君に飴玉を手渡すと、照れくさそうに少し微笑んだ。
「それなら僕も」
 正邪君は飴玉を握ったまま、拳固を左右に素早く二度振った。再び手を開くと、飴玉は手の中から消えていた。
 早苗は胸の前で手を打ち合わせて、感激した様子でぱっと目を輝かせた。
「あなたも手品を?」
「指先の運動になるからね。痴呆の予防にも」そう言って正邪君が器用に指を動かしてみせると、飴玉は指の間をすべるように移動して、また見えなくなった。「ところで、今手品だと認めましたね?」
「これは営業用の小ネタなんです」早苗は少し肩をすくめただけで、悪びれる様子もなく答えた。「小さなお子さんのいるご家庭だと結構喜んでもらえますよ。……あッ、もちろん奇跡は本物ですよ?」
「本物の奇跡もぜひ拝見したいね。例えば……そうだな、きみがあの屋根(正邪君は手近な二階建て家屋の屋根を指差した)の上から飛び降りたとしよう。きみは神の奇跡に守られているから、怪我をすることなく、静かに着地できる。そうだね?」彼女は試すような目つきで早苗の顔を覗き込んだ。彼女の視線はこう告げていた。〈さあ、お手並み拝見〉
 早苗の目がきらりと光った。
「私はあそこから飛び降りて、綿毛のように静かに着地することができます」彼女は堂々と言い放った。
「本当に?」
「本当です」
「なら実際に……」
 言いかけたところで、右手の人差し指をぴんと立てて、早苗は正邪君の言葉をさえぎった。彼女は言った。「私は自分が奇跡によって守られることを知っていますが、それを試したりはしません。なぜなら、それを試すことは、神を疑うことに他ならないからです。神は信じる者の前にこそ、その御力を示されます。疑う者の前に奇跡は決して起こりません。神を疑う不逞の輩は、地面に落ちて足を折ることになるのです!」
「結構!」正邪君は教え子の解答に満足した教師のように声を上げた。「どこで聖書を?」
「まだ外の世界にいたころ……では、あなたもお読みに?」
「きみは神学者として、僕は宗教学者としてだけどね!」
 二人は外の世界の話題について話した。互いの出身地について語り、子供のころ流行った遊びを思い出し、もう行くこともないお勧めのケーキ屋を教え合い、たわいもないすべてのことについて話した。一方が「相変わらず不景気だ」と漏らすと、他方が「ろくな政治家がいない」と愚痴を言った。流行のファッション、携帯電話からスマートフォン、毎週欠かさず読んでいた漫画雑誌から好きなテレビ番組へと話題が移ったところで、早苗が言った。「テレビは神様なんです。何が正しくて、何が間違ってるのか、テレビがすべて教えてくれます。知識人気取りの評論家たちが、ニュースの一つひとつにまで、ご丁寧にこれは《良い》ことです、これは《悪い》ことですと、したり顔で解説してくれますから、それさえ信じていれば、何も悩まずに生きていけます。神様なんて必要なかったんですよ!」
 時刻は夕暮れ時になっていた。往来に二人の長い影が伸びた。去り際にふと足を止めて早苗がこんなことをたずねた。「そうそう、あなたが幻想郷に来たのって、確か夏ごろのことでしたね?」
「そうだけど。それが何か?」
「いえね、それより前に『あなたのことを見た』と言う人がいたものですから……」早苗は振り返り、正邪君の顔色をちらと確認した。
 正邪君は黙っていた。
「……きっと勘違いですよ!(早苗は微笑んでいた)あなたは第一二八季の夏に来たのですから、それより前にあなたを見かけるはずはありませんね。他人の空似というやつです。忘れてください。それでは」それだけ言って、早苗は足早に去っていった。
 早苗と話している間ずっと、正邪君はある一つのことを考えていた。それは、つまり早苗は体制側の人間で、賢者達の手先として、何らかの目的を持って自分に接触してきたのではないか、という疑問である。事実、正邪君は、早苗の話し方にどこか芝居がかったところがあると感じていたし、去り際に放った最後の台詞などは、いささか挑発の色さえ帯びているように思えた。「お前が外来人ではないことは、すでに調べがついている。すぐに化けの皮を剥いでやるぞ、この嘘つきの自由主義者め!」
〈僕がそんな幼稚な挑発に乗ってぼろを出すとでも!〉正邪君は心の中で毒づいた。

 河童のリバースエンジニアリングが
     可能にする次世代通話端末――GARAKEI☆

 二人は別れた後、互いに別々の方向へ歩き去った。ここで私は一つの選択をしなければならない。正邪君と早苗、果たしてどちらを追いかけるべきだろうか? 正邪君には申し訳ないが、ここはひとつ、早苗の跡を追ってみることにしよう。
 第一二八季の秋に起こったあの忌まわしい事件の、事実ありのままの姿をつまびらかにするのが、この物語を執筆する目的の一つなのだが、そのためには、この事件に直接的であれ、間接的であれ、関わった多くの人々の思惑を可能な限り記録しておく必要がある。これは多くの人々の思惑が交錯することによって起きた事件であり、ここで事件前の早苗の行動について触れておくのも、まったくの無駄ということにはなるまい。
 さて、正邪君と別れた早苗は、おもむろに、ふところから何か金属製の小さな機械を取り出した。それは外の世界では少々型が古くなった携帯電話だった。携帯には一目で改造されたものとわかる、不恰好に大きなアンテナ――それは電話機本体よりも大きかった――が取り付けられていた。彼女は慣れた手つきでキーを操作すると、携帯を耳もとにあてて話し始めた。「……あッ、文さん……ええ、順調ですよ、そっちはどうです?……実は、その件でちょっとお願いがあってですね、これから霊夢さんと会う約束してるんですけど、その前にちょっと会えませんか? ……ちょッ、そんなんじゃないですって……例の写真をね、持ってきてもらおうかなと……そうそう……よろしくです、でわでわ」

 体制も一枚岩ではない

「霊夢さん、こっち!」
 暖簾の隙間からきょろきょろと店内の様子を窺う霊夢に向って、早苗は大きく手招きをした。
 早苗のテーブルにはすでに先客があった。落ち着いた雰囲気の年長の女性だった。女性は暗紅色のチェックの柄のブラウスに小豆色のネクタイを締め、丈の短い白の巻きスカートからすらりと伸びた長い足を組んで、周囲の殿方の視線を釘付けにしていた。二人はビールジョッキを片手に、親しげに談笑していた。霊夢が近づくと女性は振り向いて軽く会釈をした。
「この人ったら、可笑しいんですよ」霊夢が到着するや堰を切ったように早苗は話し始めた。「青娥さんからのみを拝借して、それで結界に穴を穿って外の世界を見てきたなんて言うんですよ。私はそんなの嘘だって言ってるんですけれど、本当だって言って聞きゃしないんです。……あッ、ご紹介しなきゃでしたね。こちらは堀川雷鼓さん。外来品の楽器を扱うショップのオーナーさんで、自らドラムの演奏もされるそうですよ。雷鼓さん、こちらは博麗の……ってご存知ですよね。有名人ですから」話しながら彼女は始終幸福そうな笑みを浮かべていた。
「はじめまして、堀川です。(雷鼓は立ち上がって霊夢と握手をした)彼女はああ言って笑いますがね、これは誓って本当の話なんです。長野駅の前に大きな書店があったでしょう? 名前は……何て言ったかな?」
「平安堂ですか?」早苗が助け舟を出した。
「平安堂? そう、確かそんな名前だった。……いや、違ったかな。まあ店の名前なんて忘れましたけども、とにかくレコードを買いましてね。アート・ブレイキーと、あと誰だっけ、トニー・ウィリアムス!」
「聞きました? 霊夢さん、この人ときたら終始こんな調子ですよ。いったいどこで覚えて来るんでしょうね!」そう言って早苗はまた愉快そうに笑い始めた。彼女はジョッキを持ち上げて口もとに運び、またテーブルの上に置いた。
 雷鼓は霊夢に目配せをして、耳打ちするように小声で話した。「飲めないんですよ。さっきから全然減ってない」すぐに声のトーンを戻し、今度は早苗にも聞こえるように言った。「実に面白いですね、彼女。少し時間ができたので仕事の打ち合わせでもと思って来たのですが、すっかり話し込んでしまった。私はこれから行くところがあるので、この辺で失礼させて頂きますが、……ああ、お気になさらずに、お二人はそのまま続けてください」
「えーッ、帰っちゃうんですかァ?」早苗は頓狂な声を上げた。
「は、は。愉快なお嬢さんだ。いずれ近いうちに神社の方にも寄らせてもらいますよ。二柱によろしく。それでは」雷鼓はそう言うと、椅子の背に掛けてあった白いジャケットを羽織り、霊夢に向ってもう一度会釈をしてから、自分のぶんの勘定を済ませて店を出た。
「あーあ、逃げられちゃった」早苗は頬杖をつきながら言った。
 つい先ほどまで雷鼓が座っていた椅子にどっかと腰を下ろした霊夢は、椅子の背に腕を回し、雷鼓とはまた違った趣で豪快に足を組んだ。彼女は紅白の巫女装束に、踏み抜き防止の鉄板の入った無骨な黒い軍用の編み上げブーツを履いていた。彼女の一にらみで殿方は震え上がり、視線をそらした。
「人を呼び出しておいて先に出来上がってるなんて、いいご身分じゃない。用がないなら私も帰るわ」
 早苗の表情から笑みが消えた。彼女は酔っていなかった。頬杖をついたまま、彼女はふところから四枚の写真を取り出し、テーブルの上に乱暴にほうった。写真には四人の人物が写っていた。いずれも望遠レンズで遠距離から撮影されたものらしく、あまり鮮明ではなかった。彼女は説明を始めた。「こっちの二人は例の組織の構成員です。もうだいぶ前から私たちの監視下にあります。こっちは竹林、こっちは確か湖の近くに隠れ家を持ってる。あとの二人は監視対象外、おそらく組織とは無関係かと。調べてみたら、面白いことがわかりましたよ。こっちの赤いのは職工長屋に住み着いて、職人連中から硝酸と硫黄を買い付けてる。(花火でも作ってるんですかね?)で、問題はこいつ」彼女は指先でこつこつと写真を叩きながら話を続けた。「数ヶ月前から、ある商店主の屋敷に頻繁に出入りするようになったのですが、それ以前の経歴は一切不明。最近は里で妙な思想を吹聴して回ってます。例の命蓮寺の一件は聞いてますね? 外来人を自称してますけど、たぶん嘘です。実は、ここに来る前、直接会って話してきたんですが、外来人って感じじゃなかった。おそらくメンバーの中心になって動いてるのが……」
「それで、私にどうしろと?」
 霊夢は早苗の報告を最後まで聞かなかった。
 一瞬たじろいだ早苗は、しかし、すぐに冷笑的な笑みを浮かべて言った。「いやだなァ、霊夢さん。地下組織の構成員と、爆弾魔と、思想家が、たまたま、同じ席で、仲良く食事をするなんて、滅多にあることじゃないですよ。この意味、わからないはずないですよね?」
「想像でしょ? 証拠がないわ」霊夢があきれた調子で言った。
「証拠ですって!」早苗も負けじとあきれ顔で声を上げた。「この期に及んで、証拠なんて! いいですか、霊夢さん。何も自警団動かして連中を捕まえようって話じゃない。連中は勝手に陰謀をめぐらして、勝手に下手をうって、勝手に自滅するんです。私たちはほんの少しだけ、それに手を貸してやればいい!」
 しばらく沈黙が続いた後、ようやく霊夢が口を開いた。「どうするつもり?」
 霊夢が話に食いついたのを見て、早苗は我が意を得たりと話し始めた。「陰謀をつぶす手段なんていくらでもありますよ。霊夢さんが知らないはずないでしょうけど。例えば、こいつと他の三人を分断する。(彼女は正邪君の写真を他の三枚から遠ざけた)三人の方に別の扇動者アジテータを差し向けて仲間割れさせるってのはどうです?」
「あきれた、内ゲバをやらそうってわけ?」
「できれば私たちの意志に忠実に動いてくれる子がいいですよね?」
「それでさっきの白ジャケット?」
「なんだ、やっぱり知ってたんじゃないですか!」
「知らないわ。なんとなくそう思っただけ」
「ふーん。まあ、そう言うことにしといてあげます」
 やや時間を置いてから、霊夢が言った。「早苗、あんた最近派手に動きすぎじゃない? 山の連中を遣うのも感心しないわ。夏の異変の時も、あんた裏でこそこそ何かやってたよね?……まあいいわ。それって紫の意向なの? それとも洩矢の……」
「霊夢さんこそ!」霊夢の言葉を打ち消すように、早苗は叫んだ。「紫さんのこと蔑ろにしすぎじゃないですか?」
「これくらいでちょうどいいのよ。あいつのやり方は賢しすぎる……」そう言って霊夢はほんの少し顔をしかめた。
「霊夢さん」早苗はおずおずと、ためらいがちにたずねた。「もし、もしも……ですよ。博麗の巫女辞めるようなことになったら、霊夢さん、うちに来る気ないですか? 神奈子様も諏訪子様もきっと喜んでくださると思うんですよ。だから……」彼女は探るように霊夢の顔色を窺った。
「せっかくだけど」言いながら霊夢は立ち上がった。
「待ってください霊夢さんッ!」早苗は声を荒げた。「霊夢さんはそれで満足なんですか? 人妖の均衡を保つためのバランサー、ルールに背く妖怪を罰するだけの自動的存在、心なき暴力装置。……そりゃあ、そういうの必要だってのはわかります。わかってますけど、霊夢さん一人がすべて背負い込むなんて、おかしいじゃないですか。霊夢さんだって人間なんですよ! もっと幸せになってもいいじゃないですか! 自身の幸福を追求することの何がいけないんです! それとも、私、何か間違ったこと言ってますか?」
 言ってしまってから早苗はすぐに後悔した。これは彼女の胸のうちに、もうずいぶん前からあった考えなのだが、いざ口に出してみると、何かひどく滑稽な、子供じみた意見のように思えた。彼女は恐るおそる霊夢の顔を見上げた。そこには感情のこもらない、冷徹で無慈悲な巫女の顔があった。彼女は凍りついた。
 霊夢は言った。「あんたね、誰もが幸福って言い出したら、共同体なんて成り立たないじゃない?」
「でも、すべての人には幸福を追求する権利があって、それで……」
「そんな権利、誰が保障してくれるのよ? 神様?」
「それは……」
 早苗は黙り込んでしまった。彼女はもう霊夢の顔をまともに見ることができなかった。
 早苗の前に立っていたのは、一人の少女ではなかった。博麗霊夢ですらなかった。今早苗に向けられている氷のように冷たい視線は、まぎれもなく博麗の巫女のそれであった。紛争の調停者、賢者達の執行機関、最高裁判所判事にして処刑人。同じ巫女でも、博麗と守矢では、重要度も責任の重さも全く違った。博麗の巫女に公私混同など許されるはずがなかった。そもそも彼女にとって《私》という概念にどれほどの価値があったろう? そんな彼女に対して、こともあろうに、早苗は外の世界の常識を説こうとしたのだ。〈幸福になる権利だなんて!〉事実、それは十八世紀の思想家の発明にすぎなかった。よりによって、同じ巫女である彼女にそのことを指摘されたのである。早苗は自分の浅はかさを呪った。自己嫌悪でやりきれない気持ちになった。早苗の目に涙が滲んだ。
「やっぱり、あんた向いてないわ」霊夢は突き放すように言った。「つらいなら外の世界に帰れば?」
 早苗は無言でうつむいたまま強く唇を噛んだ。ぼろぼろと涙がこぼれるのをどうすることもできなかった。巫女装束から覗くむき出しの肩が小刻み震えた。
「写真の件、私は介入しない。やりたいなら好きにすればいい。ただし、里に少しでも被害が及ぶようなら、その時は容赦しないわ。《関与した者全員》叩き潰すからそのつもりで。それじゃ」
 霊夢は店を出て行った。
 一人取り残された早苗はがっくりと肩を落としたまま、テーブルに散らばった四枚の写真を眺めていた。やがてふところから携帯電話を取り出すと、まだ震えの止まらない声で電話をかけた。「……あの、文さん……霊夢さんにふられちゃいまして……そう、慰めてくれる人募集中……今取材で忙しい?……そう……」
 早苗は電話を切った。

 堀川雷鼓氏の裏家業

 この物語を完成させるためには、様々な人の思惑を明らかにしておく必要があることはすでに述べた。ここでまた、二人の巫女から、今度は堀川雷鼓という人物に話を移すことをお許し頂きたい。
 彼女の楽器店は里の外れにあった。この楽器店は、二年前に大きな地震があった際に、建築資材の卸売業で小金を稼いだある好事家が造らせたもので、里では珍しい二階建ての洋風建築だった。この好事家は翌年別の事業を起こして失敗し、この建物が売りに出されていたところを、彼女が見つけて安く買い叩いたというわけである。建物の一階は店舗兼倉庫、二階は事務所兼居住空間として使用されていた。調度品の類も洋風のもので統一されており、部屋には大きな暖炉まであった。
 事務所に戻るなり、彼女はすぐに上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめ、袖のボタンを外し、肘まで捲くって、マホガニー製の革張りのソファーの上に倒れ込んだ。
「まあ、なんて格好! 妹がまねをします」手首を腰にあてた姿勢で、ソファーの前に立った九十九弁々が、だらしなく寝そべる雷鼓を見下ろしながら小言を言った。
「悪いがそこの棚からブランデーを取ってくれないか、グラスとあと氷もあれば最高なんだが」弁々の方を見ずに、左手を額の上に乗せたまま、右手をひらひらと振って彼女は注文した。
「知りません。ご自分で用意なさればいい」弁々は右手の人差し指をぴんと立てて、脅しつけるような仕草をした。「最近お酒の量が過ぎますよ」
「毎日営業で歩き回っていればね、そりゃ飲みたくもなりますよ!」
「その営業で毎日飲んでるんでしょうに!」
「仕事ですよ、お嬢さんフロイライン。あんなのは飲んでるうちに入らない。実際、胃が痛くなるばっかりだ。でも、かわいいあなたたちのことを思えばこそ、耐え忍んで、欲しくもない酒を飲み、面白くもない冗談を言って笑っていられるんです。苦痛ですよ、あんなものは」
 弁々はあきれた様子で肩をすくめた。
「で、今日の仕事はどうだったの。その様子だと駄目だった?」部屋の外で立ち聞きしていた妹の八橋が、部屋に入るなり、姉があえて聞かずにいた質問を単刀直入にたずねた。彼女は持っていたブランデーの瓶と、グラスと、氷の入ったアイスペールを乗せた盆をサイドテーブルの上に置いた。グラスに大きな氷を二つ入れ、少量のブランデーを注いで雷鼓に手渡した。
「八橋はこの人をあまやかしすぎです」姉は険しい表情で妹をたしなめた。
 雷鼓は起き上がってグラスに口を付けた。すぐに彼女の頬がうっすらと薔薇色に染まった。「きみは実に気が利くね。どこかのお姉さんとは大違いだ」彼女は気が利かない姉の顔をちらと見た。弁々は知らないというふうにそっぽを向いた。「ところで、仕事の方は万事順調だよ。山の巫女が言うにはね、祭ばやしに使う楽器を全部うちに発注してもいいってさ」
「なら結構なことじゃないですか」と弁々。
「それがね、連中もう一つ仕事を依頼してきてね。そっちがどうにもきな臭い」
「裏の仕事ですか?」
「連中、我々のことも相当調べてたみたいだったよ。我々が裏で何をしてるか全部お見通しってわけだ。密偵をやれと言うのさ。いや、あの口ぶりからして、まだ他にもありそうだったな」
「引き受けたんですか?」
「逃げてきた、用事があるって言ってね」
「それって賢者達からの依頼ってこと?」ソファーの脇にしゃがみ込んで、雷鼓の顔を下から見上げていた八橋が、二人の会話に割って入った。彼女は無邪気に目を輝かせながら言った。「すごいじゃん、やろうよ!」
「いや、わからんね」雷鼓はグラスに唇を付けたまま、八橋の顔をちらと横目で見ながら目を細めて言った。「二柱のさしがねかも」
「でも、これってチャンスじゃない?」
「そりゃ私にだって野心はある。賢者達のうしろ盾があれば、本業の楽器店の方も安泰だ。きみたち二人にボーナスだって出せる。でも、考えなきゃならないことがたくさんある。まず、連中がなぜうちみたいな個人事務所を頼って来たかってことだ。ことをおおやけにしたくない? そりゃそうだろうさ。本当にそれだけ?」
「トカゲの尻尾切りですね」弁々が冷静に指摘した。
「用済み後はちり紙に包んで屑かごにポイですか。いかにも連中の考えつきそうなことだ」
「やらないの? つまんない」八橋が子供じみた態度で残念がった。
「こういう時は、深く考えるより直感に従えってのが私のモットーでね。人間には直感的に善悪を判断する能力が備わってるんだとか。ちょうど初めて聴く音楽が、これは楽しい曲だ、これは悲しい旋律だと、誰に教わるでもなく自然と理解できるようにね。善悪だって直感的に判断できる。知識や習慣がそれを邪魔しているだけでね。もっと心の声に耳を傾けてごらんよ。理性的な判断が常に正しいとは限らないんだ。論理ロジックじゃないんだよ人は」雷鼓はそこまで話すと、突然顔の前で両手を激しく振って、すぐに撤回した。「やっぱり、今言ったことは全部嘘だ。こういうことは酔った勢いで決めるものじゃない。酔った時の考えなんてろくでもないことばかりだ。(何度、痛い目に遭ったことか!)ここは慎重に、クレバーに行かなくちゃ。最終的な回答はぎりぎりまで保留しておこう。その間に、二人はこれから言う組織の内情を調査してくれたまえ。構成員の人数、主な集会場所、主要な人物の名簿、指揮命令系統、資金の流れ、エトセトラ、エトセトラ。私は……そうだな、依頼主の周辺に探りを入れてみますよ。連中の弱みの一つでも握っておいて、風向きが変わるようならそれを交渉材料にするのもいい。なに、尻尾には尻尾の戦い方があるってね。簡単に切り捨てられたりはしないさ。楽器店の方はしばらく休業ですね。致し方ありませんが」
「探りを入れるって、バレたら怒られませんか? その、これが本当に賢者達からの依頼だとしたら……」弁々が心配そうに言った。
「バレたらね。その時は依頼主が賢者達だったとはっきりわかって、結構なことじゃないですか。探りを入れた非礼については土下座でも何でもして赦してもらうさ」
「オーナーってさ、慎重なのか、大胆なのか、ときどきわかんないよね」雷鼓の顔をしげしげと眺めていた八橋がふいにたずねた。「ひょっとしてAB型?」
 雷鼓は急に疲れたみたいになって、深く息をつき、親指と人差し指で目頭を押さえながら言った。「いいですか、血液型で性格判断ができるなんてのは迷信です。まして、性格から血液型を言い当てるなんて本末転倒ですよ。だいたい、全人類の性格がたった四種類に分類できると考える時点でおかしいと思いませんか?『きみはA型だから、わりと几帳面なところあるよね』とか『O型だから、わりと大雑把だよね』なんて言われたら、大概の人は自分にあてはまるって錯覚するもんさ。実際、几帳面なところも、大雑把なところも、全く持ち合わせていない人なんていやしないんだから。これはバーナム効果と言って、そもそも心理学的には……」
「で、実際何型なんです?」弁々が勝ち誇った顔でたずねた。
 雷鼓は何も答えなかった。

 赤蛮奇が襟を立てる理由

 里には堀があり、アーチ状の橋がかけられていることはすでに述べた。その橋のたもとに、いつも一人の少女が立っていた。
 少女はつぎはぎだらけのぼろをまとい、ふちの欠けた小さな椀を両手で大事そうに持っていた。少女はいつも裸足だった。
 そこに、ある人物が通りかかった。彼女――その人物は女性だった――はまるで自分が指名手配犯か何かで、周囲の誰にも顔を見せたくないというふうに、くすんだ赤い外套の襟を立て、首の周りを口もとまですっぽりと覆い隠していた。
 彼女は少女の存在に気付き歩みを止めた。おもむろに少女に近づくと、持っていた小銭を少女の椀の中に入れた。
 少女は丁寧にお辞儀をした。
 彼女は立てた襟の奥から、ぼそぼそと小声で少女に話しかけた。「兄弟は何人?」
「弟が二人」と少女は答えた。
 彼女はまた小銭を取り出し、今度は椀に入れずに少女に直接手渡した。「皆で分けるんだ」
 少女は驚いたような、困惑したような表情を浮かべ、いっそう深くお辞儀をしようとした。
 彼女は《その必要はない》というふうに、片手を軽く上げてそれを制した。彼女は外套をひるがえし、颯爽と歩き出した。
 このやり取りを、少し離れた場所から見ていたもう一人の人物がいた。その人物は彼女の跡をこっそりとつけ、足音を忍ばせて近づき、ふいに彼女の首もとめがけて背後から飛びついた。
 彼女はぎょっとなって不審者の腕を乱暴に振りほどいた。
 不審者は今泉影狼だった。
「よお、赤蛮奇君! ご無沙汰じゃないか。何の音沙汰もないものだから、あれ以来、僕はずっときみのことを探し回っていたんだぜ。本当さ。嘘だと思うなら、巡査にでも問い合わせて見ればいい! 夜な夜なきみの住居の周囲をうろつく不審人物の目撃情報がわんさと寄せられてるはずさ。ところで、見てたぜ。施しなんて感心じゃないか。別にからかってるわけじゃないぜ。隠れた善行ってやつを僕は尊敬しているんだ。いや、善行ってのは必ず隠れてなきゃいけない。知ってるかい? 施しをする時は《左手》にも知らせちゃいけないんだぜ? なぜ《左手》かって? そんなの僕が知るもんか!……おい、どうした、さっきから顔色が悪いぜ?」
 赤蛮奇は目を大きく見開き、顔色はますます蒼白になり、額に汗が噴き出していた。「何でもありません。ただ、少し……驚いたものですから……」彼女は無意識のうちに、両手で首のあたりを庇っていた。
 それを見た影狼はふいに意地悪な顔になって言った。「きみ、ひょっとして首が?」彼女の口もとに嗜虐的な笑みが浮かんだ。
 赤蛮奇はぞっとなった。絶対知られたくない秘密を、よりによって一番知られたくない相手に、知られてしまった時の顔というのは、たぶんこんな顔なのだろう。彼女の口もとが立て襟で覆われていなかったら、まるで堀に住む鯉のように、彼女の口が開いたり閉じたりするところが見られたに違いない。
 赤蛮奇が何か言い返そうとしたちょうどその時、背後から怒声が聞こえてきた。振り向くと、先ほど彼女が施しをした少女の前に、一人の男が立っていた。
 男はびっこの足を引きずり、杖をついていた。少女に対して何かしきりにわめき散らすと、次の瞬間、持っていた杖を振りかざし、こともあろうに、その杖で少女をしたたか打ち据えた。憐れな少女は往来に倒れこんだ。その拍子に、赤蛮奇からもらった小銭が、少女のふところから音を立ててこぼれ落ちた。それを見た男はかんかんに怒って、いっそう激しく少女を罵倒した。男の周りに次第に野次馬が集まり始めた。野次馬の中の何人かが男の行動を咎めた。男はますます逆上してやたらと杖を振り回しながら叫ぶのだった。「このすべたが俺の金をねこばばしようとしやがったんだ!」「俺がこのくそがき共の面倒を見てるんだ。こいつらの稼ぎは俺のもんだ!」「これはしつけだ、部外者は引っ込んでいてもらおう!」「俺だって脚がこんなでなけりゃ……畜生! 俺と同じ目に遭いたい奴は前に出ろ! 片っ端からその脚をへし折ってやるぞ!」
 赤蛮奇の目の奥に正義の炎がちらと燃えた。彼女は拳固を強く握り締め、群集の中に割って入ろうとした。影狼がそれを止めた。「よしなよ。きみが行ったところで、あいつを興奮させて、あの娘がよけいにぶたれるだけだぜ。それに、あいつの言ってることは本当さ、あれでもあの娘の父親なんだ。血のつながりはないけど、後妻の連れ子だそうだ。きみが行ってどうにかなるような話じゃないよ。じきに巡査が来る。それより、ちょっと付き合えよ、話したいことがあるんだ」
 影狼は赤蛮奇の手をとって強引に歩き始めた。

10 洋食器と革命の意外な関係

 いつもの飲み屋の、いつもの喧騒。
 暖簾を前にした赤蛮奇はいつもどおり眉をひそめた。
 正邪君に言わせれば、彼女は「生真面目が外套を着て歩いている」ような人物で、それもストイックで、陰にこもるタイプの真面目さだった。彼女は、長話をするのは「言いたいことの要点をまとめる能力がないから」だと言ってはばからなかったし、おしゃべりそれ自体を、まるで無学の象徴のようにとらえていた。彼女自身、無駄なおしゃべりは一切しなかった。要するに、彼女はにぎやかな場所が苦手なのである。
 彼女は雑然としたものを嫌い、整然とした、無駄のない、機能的なものを好んだ。彼女の辞書に《必要悪》という言葉はなかった。こうしたある種の潔癖は、彼女の政治思想にも色濃く反映されていた。彼女にとっての理想的な社会とは、計画的な管理社会だった。そこには完全に理性的な人々が暮らし、すべての富は均等に分配され、犯罪など起こるべくもなく、貧富の差もない。彼女は、いわば共産主義者コミュニストであり、くちさがない連中に言わせれば夢想家ユートピアンであった。
 影狼は赤蛮奇の手を引いたまま、店の一番奥にあるいつもの席へ、ずかずかと歩みを進めた。そこにはすでに相棒のわかさぎ姫がいた。
 わかさぎ姫は萌葱色の着物を着て、車椅子に座っていた。彼女の下半身は、丈の長いひざ掛けでつま先まですっぽりと覆い隠されていた。初対面の人と会う時、彼女はいわくありげな顔をして、決まってこう言うのだった。「座ったままで失礼しますよ、なにぶん脚がわるいものでね!」
 影狼と赤蛮奇は席に着いた。
 メニューを見ていたわかさぎ姫が、横目でちらと赤蛮奇を見て言った。「何でも好きなものを注文したまえ。僕のおごりだ」
「本当に!」影狼は目を輝かせて声を上げた。「じゃあ遠慮しないでじゃんじゃん頼むぞ! まずは、そうだな……」
「今のは彼女に言ったんだ。きみにじゃない」
「どうして僕にはおごってくれないのさ?」
「どうしてきみにおごらなくちゃならないのさ?」
 赤蛮奇はこのわかさぎ姫のせっかくの申し出を断ろうと考えていた。その時になってはじめて、彼女は自分が一文無しであることに気付いた。さっき橋のたもとで出会った不幸な少女に、すべて渡してしまったのだ。彼女は金も持たずに、のこのこ店までついて来てしまった自分の節操のなさに腹を立てた。〈これじゃまるで、はじめからご馳走してくれるのをあてにしていたみたいじゃないか!〉羞恥心で彼女の顔はみるみる赤くなった。なんとかしてこの申し出を辞退して、早々にこの場から立ち去ろうとする彼女に向かって、わかさぎ姫は次のような言葉を投げかけた。「人からものを恵んでもらうことは恥ずべき行為かね? それともきみは施しをする時、不幸な人々をそんな目で見ているのかね?」この一言で勝敗は決した。彼女はしぶしぶ申し出を受けることにした。
 給仕を呼び、影狼は羊肉のソテーを、わかさぎ姫はザワークラウトのシチーを、赤蛮奇はニジマスの包み焼きをそれぞれ注文した。それからウォトカを一瓶とグラスを三つ注文した。料理と酒が運ばれてくると、また例によって「何に乾杯すべき」か、影狼とわかさぎ姫が意見を戦わせ、議論の結果、どういうわけか、三人はあぶみに乾杯することになった。鐙の発明がどれほど画期的であったか、騎兵の戦術上どれほど重要であったか、人類史にどれほど重大な影響を与えたか、わかさぎ姫は熱心に説明するのだが、それがどう乾杯に結びつくのか、赤蛮奇にはさっぱり理解できなかった。その間、影狼は切れないナイフで肉厚のマトンと格闘していた。彼女は腹立たしげに叫んだ。「幻想郷にまともなナイフがないのは、暴動の時武器になるのをおそれているからだ!」。わかさぎ姫が赤蛮奇にそっと耳打ちした。「『肉が硬いのも陰謀だ!』ってじきにわめきだすぜ」
 とりとめのない雑談――話していたのはもっぱら影狼とわかさぎ姫の二人だったが――が続いた。いつしか三人とも酔いがまわっていた。いつまで待っても、もう一人のメンバーが現れないことを不審に思った赤蛮奇は、そのことを率直にたずねた。
「彼女なら来ないよ」影狼がきっぱりと答えた。「彼女は市民を啓蒙するのに忙しいってね」
「そろそろいい頃合だ。ひとつ腹を割って話そうじゃないか」わかさぎ姫はこう切り出した。「彼女のやり方をきみはどう思うね?」
 赤蛮奇は黙っていた。彼女は質問の意図をはかりかねていた。
 わかさぎ姫は続けた。「彼女は金持ちの道楽息子どもを集めて、いろいろと入れ知恵しているようだけど、我々はそれを少々危険だと考えていてね。彼女は連中を《事業》の中心に据えようと企んでいるけど、よしんばその《事業》が成功したとして、今度は連中が権力を握ることになったら、それでいったい何が変わるというのかね? なるほど経済は発展するかもしれないが、それはつまり、貧富の差が今より広がるってことだ! すべての不幸の根底に貧困がある。そのことはきみもよく知ってるね。我々はあらゆる不幸を取り除くために、まずは貧困を撲滅せねばならない」
「彼女の資金源のことは、あなた方もあてにしていたはずでは?」赤蛮奇は二人の顔を一瞥して、すぐにまた目を伏せた。
 二人は互いに顔を見合わせて、ずるそうな笑みを浮かべてから、異口同音に言った。「連中だけがスポンサーじゃないさ」
「つまり、代わりが見つかったと?」と赤蛮奇。
「察しがいいな」ナプキンで口もとを拭いながらわかさぎ姫が言った。
 うつむいて、何か考え込むように黙り込んでいた赤蛮奇は、やがて探るような口調でたずねた。「彼女を消すのですね?」
 赤蛮奇が大真面目にそう言ったので、影狼はすんでのところで口に含んだウォトカを噴き出しそうになった。彼女は半ばむせ返りながら言った。「今のはウケたぜ。最高だ。きみにはユーモアのセンスがある!」
 わかさぎ姫は手を上げて影狼の発言を制した。彼女もまた大真面目な口調で話した。「彼女は活動家としての高潔な魂を売り渡し、豚どもの傀儡かいらいになり下がった。もはや我々と彼女の利害は一致しない。彼女はいずれ我々の敵となるだろう」わかさぎ姫は厳かに告げた。「やるなら早い方がいい。彼女が資本家たちを完全に掌握してしまったら面倒なことになる」
 赤蛮奇は橋のたもとに立つ不幸な少女のことを、その父親が足の怪我によって職を追われたことを、それがために周囲にあたり散らしていたことを、恐ろしい形相で娘を打ち据えたことを、娘のすべてを取り上げてしまったことを、父を見る娘のおびえた表情を、その絶望に満ちたまなざしを、順に思い返していた。おお、今の彼女は、貧困が人を不幸にしていく過程を、ありありと脳裏に思い浮かべることができたに違いない。彼女はグラスを手に取り、飲めない酒を一息にあおった。
「おい……大丈夫か?」影狼が心配そうに見つめた。
 赤蛮奇は熱に浮かされたようにぎらぎらと病的な光を放つ目で二人を見返した。
「僕がやりますよ」彼女は押し殺した声で、しかしはっきりとそう言った。


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コメント



0.300簡易評価
3.90名前が無い程度の能力削除
如何にも持って回った言い回しの語りではあるが大した意味は無いのでしょうね。
風刺小説だね。分類としてシュールギャグで良いのだろうか? 中々楽しい。
4.100名前が無い程度の能力削除
言い回しが面白いです
長いかなと思いましたがスッと読めましたね
また話の内容が革命とかそういういかにも日本人というかオタが見下しそうな話なので、文章によって非現実的な感覚に引きずり受け入れ易くさせる手法は素晴らしく見事ですね すくなくとも僕は術に嵌ったようです

こういう話は好きですね 皆真面目な感じで 反体制派がどう動いていくかが楽しみです
5.10名前が無い程度の能力削除
装飾ばかりでスカスカ。婉曲さを取り除くと何も残らない作品。
6.100名前が無い程度の能力削除
続き楽しみにしてます
7.100名前が無い程度の能力削除
 前提となる知識が無いと読み解けない会話というのは実は東方原作もそうなのですが、こちらの作品は聖書など本当に必要な部分をちゃんと解説してくれているので、わかりやすくてありがたいです。
 逆さ城の異変の物語を再構成し、明治/1970年代の革命運動のオマージュをやろうという試み。ものすごく面白い。この短い章の中でも登場人物が皆々キャラクターを確立し、物語中の役割、立場も得ているのが、優れたプロットとシーンの見せ方を証明します。
11.100名前が無い程度の能力削除
続き期待してます
13.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
14.無評価名前が無い程度の能力削除
キャラではなく幻想郷という世界観を独自の解釈で見せてくれる作品だなと感じました。
その解釈も現実の思想を下地にしてるのは知識も要ることだと思います。
それゆえのキャラ崩壊には好みが分かれると思いますが、個人的には好きな方。