「慧音」
顔は真っ暗な天井向けたまま、仄かな灯りの少し向こうに視線だけ向ける
「なんだ」
そこから期待していた声が返ってくる
「起きてる?」
「寝てる」
「そっか」
「あぁ」
「……慧音」
「なんだ?」
「……怒ってる の?」
「……」
灯りの向こうで寝返りがうたれる気配
「………ちょっと、違うかな」
行灯に照らされた夕焼け色の髪がパタリとこぼれる
「そっか…」
「うん」
「……」
「今日は、な…」
普段は明瞭な慧音の声が揺らいでいた
「霊夢が逝ったよ」
「…当代の方?」
「他には次代しかいないだろう? 先代はとっくに逝ってる」
「まぁ…そうなんだけど…」
霊夢が
“また”、博麗霊夢が死んだのか
“私が初めて出会った博麗霊夢”に始まり、博麗霊夢の名を継いだ数十の女達に対しては共通していつも思うものだ、
『こいつは殺しても死ななそうだ』、と
そして、それら全員が例外無く、最終的には人間らしく死に失せていった
ほとんどが寿命で、一部は病で、更に一部は怪我で
妖怪に殺された博麗霊夢と言うのが一人としていない辺りは流石と言うべきか
ともかく、博麗霊夢と言えども死にはするのだ
「いや、この前霧雨の所は小僧っ子が死んだからさ… あぁ、そのショックがとどめになったのかな」
「次代同様、孫同然に可愛がっていたからな まだ四歳だったのに」
「私が言うのもなんだけど、次代の側にいてやらなくていいの?」
確か、次代の巫女も寺子屋の通いだった筈だ
「十六夜咲夜が懸命に励ましてるよ、雑用の合間を縫って 初代と違って人懐っこくて社交的だからな」
「そっか…」
皆…死んだなぁ
人間の知り合いは全員死んだ
最近新しく知り合った者以外は皆死んだ
妖怪の知り合いも僅かに死んだ
流石に長生きだが、知り合ったタイミングによっては一年と交流する前にいなくなった者もいる
竹林のお姫様とその御守りは死なない
同居人の大兎が気紛れに行方をくらまし、従者の部下が毅然とした表情で立ち去り、数えきれない程の兎が生まれては死んでまた生まれているが、あの二人はずっと知り合った時からの調子通りだ
私と同様に
「……妹紅」
はたと物思いから生還し、声の方を見る
慧音は身体を起こし、こちらを向いて布団に座っていた
「駄目、なのか?」
主語の無い、漠然とした、しかし二人の間では充分に意味の通じる問い掛け
「もう、お前は……」
行灯の灯りが揺らぐ
「……………うん」
私も身体を起こし、布団ごとに膝を抱える
「駄目なんだ」
初めて異変に気付いたのは、奇妙な縁か“私が初めて出会った博麗霊夢”が死んだ時
縁側で昼寝をしていたら老衰死していたと言うのだから彼女らしいと言うべきか
葬儀にも出た 通夜にも出た 納骨も見届けた 墓参りもした
ただ、心はまるで揺るがなかった
私は、博麗霊夢の死をあっさり受け入れていた
特別親しかった訳ではないが、無限に続く自分の人生の中でも小さくない転機をもたらした彼女だ
持ち前の奇妙な人柄も相まって、あかの他人とは言えない間柄であった
筈だった
筈だったのに、死んでしまえば今までに見送って来た数え切れないその他大勢の一人に加わってしまった
先立って逝った者達の顔を、妹紅はほとんど覚えていない
永遠を生きる事となる妹紅にとっては、道端で擦れ違った者と区別がつかなくなっていた
道端で擦れ違った者がいなくなり、格別に胸を痛める者はいない
例えば服が汚れた事
例えばお湯が沸いた事
例えばお茶が冷めた事
藤原妹紅にとって他人の…否、自身も含めた“死”とは、そんなありふれた事として身近に存在し、そしてなんて事もないものと化していた
長い時間を生き、それとは比較にならない時間を控えた蓬莱人の命に対する価値観は、とうに朽ち果てていた
「……」
慧音は、ただ黙って私を見つめていた
「あんたも…あんたでさえも同じだよ、慧音」
今更隠せる事でもない
慧音自身も気付いているだろう
それでも、だからこそ 言葉にした
「輝夜達以外で一番長く私に付き合ってくれたあんたでさえも…きっと同じ」
とは言え
「いつか別れて、そのその内忘れて……そこでおしまいだ」
やっぱり、申し訳無いなぁ
「…そうか」
慧音は動じなかった
「………そうか」
静かに 静かに受け止めてくれた
不老不死の蓬莱人
そうと知ったあとも、私に対する慧音の態度は出会った時と変わらなかった
だが、思い返せばそれこそが慧音の“試み”だったのだ
慧音は、妹紅を人間にしたかったのだ
妹紅の心と身体の“ずれ”を真っ先に予見し、せめて心だけでも人間としての彩りを保って欲しかったのだ
蓬莱の薬の効能を消す事も出来ず、蓬莱人を殺しきる事も出来ない、ただの半妖の上白沢慧音のそれがせめてもの行いだった
そして現在
これが、目の前にいる妹紅がその結果である
蓬莱人の価値観は、何も変わらなかった
全ては永遠の時の中の、一瞬の出来事でしかなかった
「…でも、ね 慧音」
胡座をかいた脚に手をつき、モゾモゾと動く
「、?…」
妹紅が恥ずかしがってる時の仕草
…と、比べて 随分落ち着いて見られる気がする
「顔とか声とか忘れても…もしかしたら、名前まで忘れちゃうかも知れないけど」
妹紅自身、自分でも勢いで言ってるのだなぁと分かる口調だった
「“一番一緒にいてくれたありがたい奴だった”ってのは、絶対に忘れないと思う、から」
が、そこだけはしっかりと言った
「絶対に」
「…そうか」
慧音も、しっかりと受け止めた
「……世話を焼いた甲斐があった様だな」
慧音にはよく叱られた
掃除をしろだの飯を食えだの髪を整えろだの
慧音にはよく泣かれた
輝夜と殺し合ったり、村で火事があった時に無茶をして
慧音は、よく笑った
嬉しい時や楽しい時、私の傍で笑ってくれた
ほんの一瞬
後に控えている永遠の中の一瞬であっても、それは妹紅の中では確かに大切なものだった
忘れてなるものか
この先何千年、何万年生きようと
彼女だけは 彼女だけは忘れるものか
「妹紅」
はたと物思いから戻る
…何となく、何を言う為に呼ばれたか見当がついた
「あまり、気負うなよ」
ほうら当たった
「別に今までに忘れた人達の事だって、忘れたくて忘れたばかりではないのだろう?」
けほっ、っと一咳き
「人間だって忘れる事はあるんだ…でなければ、記憶が一杯になって頭が割れてしまう」
「…満月の度に頭抱えながらあれこれ書き留めてたもんねぇ、慧音も」
「茶化すな」
声に出さずに笑い合う
「……」
「……」
静かな夜だ
一人でいる時はこれより静かなのかと思うと、そら恐ろしくなる
妹紅も、慧音も
「…おやすみ」
「あぁ」
短く言葉を交わして布団に入る
妹紅はさっさと、慧音はゆっくり
「………おやすみ」
「おやすみ…」
もう一度言葉を交わし、妹紅は布団の中を掻い潜った左手で慧音の右手を握った
すっかり皴だらけになってしまったその手を
あと何回、一緒に寝られるか