闇の中で映写機がからからと音を立てて回る、
皆の前に備え付けられたスクリーンに光が灯る。
アリス・マーガトロイド
「アリス・マーガトロイドです。一週間だけですがよろしくお願いします」
アリスという名の男子生徒が簡潔な自己紹介を行うと、女子達が熱狂的な拍手を打ち鳴らした。ホームステイに来たというハーフで、人形の様な容姿。そりゃあ、もてるよなぁと思っていると、アリスは私の横を通りすぎて、教室の後方の席へ歩いて行く。
休み時間になるとアリスの周りに沢山のクラスメイトが集まった。その上、教室の外には別のクラスの者達まで押しかけている。転校生は人当たりも良い様で、集まった人々は大いに盛り上がっていた。
一日アリスを見ていた結果、どうやら勉強も運動も何でも出来る、まさに完璧な人間の様だった。事前情報無しに小テストを受けて満点を取り、体育の授業でサッカーをやってサッカー部と同じ位の活躍をしてみせた。当然女子からは黄色い歓声が飛び、男子からは嫉妬と羨望の視線が刺さる。アリスはそれ等をまるで意識した風もなく、人形の様な整った容姿を崩す事無く、あくまで明るげに爽やかに、完全な一日を過ごしていた。
友達との帰りの話題も、アリスの話で持ちきりだった。
「完璧じゃん、あの転校生」
「ね! 格好良かったぁ」
「天才って奴だよね。どうしたら付き合えるかなぁ」
あんまりにもみんなが手放しで褒めるので、本当にみんなあの転校生の事が好きなのか疑問に思った。
「何? 惚れたの?」
私が尋ねると、皆が一斉に頷いた。
「付き合えたら良いよね」
「正直他の男子と比べたら天と地の差があるじゃん?」
「一週間でしょ? 絶対にそれまでに落とす」
意気込む友達が何だか面白くて冷水を浴びせてみる。
「だったら、まず一緒に帰れば良かったのに」
すると友達は渋い顔をした。
「そうしたかったんだけど、いつの間にか居なくなってたんだよ」
そう言って悔しそうな顔をしている友達を面白く思う反面、やっぱり何だかみんな本当に転校生の事を好きなのか疑わしかった。全員あの容姿、あのスペックに見惚れているだけなのじゃないだろうか。皆のはしゃぎ様はあまりにも転校生の一面ばかりに囚われている様な気がした。まだ一日。誰も転校生の素顔なんか知らないのに。
そんな事を考えながら家へ帰ると、家と一体になった店先に兄の香霖が立っていて、嬉しそうに出迎えてくれた。
「やあ、魔理沙! お帰り!」
「どうしたんだよ。やけに嬉しそうだけど」
「実はね」
香霖が隠し切れない様子でにやにやと笑う。少し気持ち悪い。どうしたんだろうと思っていると、兄がにやにやと言った。
「久しぶりに熱心なお客さんが来ているんだ」
そういう事か。
兄の営む骨董店、香霖堂には基本的に客が来ない。来ても冷やかす様な客ばかりで、物を買っていく客は滅多に居ない。主な収入源は外回りをして古美術品を売る事なので生活の面で不安は無いし、同業者の中ではそれなりに恵まれているのだが、本人の夢はあくまで店の繁盛で、閑古鳥が鳴きっぱなしの店をいつも嘆いていた。それこそたった一人の客が来るだけで浮き足立つ位に。
「良いかい。絶対に粗相をしないでくれよ」
「はいはい」
客に興味なんか無いので適当に答えて、自分の部屋に行こうと店の中に入ると、見覚えのある人間が居た。転校生のアリスだった。アリスは熱心にビスクドールの置かれた棚の前に立って、人形達を眺めている。そのまま通り過ぎるのも薄情な気がして隣に立ったが、アリスは気が付かない様で、人形を眺め続けている。ふと先程の帰り道で友達がアリスの事を天才と評していた事を思い出した。もしかしたら自分にも天才の見ている風景が見えるのかもしれないと、アリスと同じポーズで同じ物を眺めてみる。だがしばらく眺めていても、そこにあるのは人形で特にいつもと違いは無く、天才になれた気はしなかった。
しばらく隣に立っていたのだが、一向にアリスがこちらに気付く気配が無いので、声を掛けてみた。
「人形好きなのか?」
アリスの顔がこちらを向く。
「君は?」
「霧生魔理沙。あんたのクラスメイト」
「ああ、そうなんだ。あまり印象になかったから忘れてた」
アリスが柔からな笑顔を浮かべる。
そこ笑うところか? もしかして馬鹿にされてんのか?
笑顔と言葉のずれに戸惑っていると、アリスはまた人形に視線を戻して動かなくなった。あまり歓迎されていない様だ。
邪魔に思われているらしい。何だか不愉快な気分だし、悲しい気持ちになったが、仕方なくその場を離れて自分の部屋に向かう。住居部分の扉を開けた時、背後から香霖の声が聞こえた。
「人形に興味があるのかい?」
どうやらアリスに香霖が話し始めたらしい。
さっき不愉快になった分、愉快な気分になる。
高校を中退して骨董の世界に入った香霖は、妹の私の目から見てもかなりの変人だった。特に聞いても居ないのに骨董品の説明をしだして、相手の理解なんか埒外でとにかく知識の奔流をぶつける攻撃には大抵の客が逃げていく。意気投合出来るのは、香霖と同じ位に骨董品に詳しい人だけだ。きっとアリスも面食らうに違いない。済ましていたアリスが慌てふためいている様子を想像して愉快な気分で自分の部屋へ向かった。
夜になって夕飯に呼ばれたのでダイニングに行くとそこには香霖と何故かアリスが待っていた。
「何で!」
驚いて香霖に尋ねると、香霖が嬉しそうな表情でご飯をよそいながら答えた。
「すっかりと意気投合してしまってね。聞いたらホテルに泊まるつもりだって言うから、それなら家はどうって。それで泊まる事になったんだ。アリス君は頭が良いみたいだし、魔理沙も勉強を教えてもらったら」
「ホームステイじゃなかったのかよ!」
今度はアリスに尋ねると、既に食べ始めていたアリスは沢庵をつまみ上げながら答えた。
「方便」
「方便って」
「嘘って事」
「何で!」
「ホームステイって言っておかないと色々と面倒事が増えると思ったから。学校への説明とか」
「じゃあ、結局お前は何をしに来たんだよ!」
「ひよこ饅頭を食べに来た」
「ん?」
「ひよこ饅頭を食べたくて」
「それだけ?」
「そう。食べたかった」
意味が分からない。
「ああ、なら明日僕が買ってきてあげるよ」
「いえ。昨日空港で食べたので必要ありません。思ったよりも、美味しくなかったし」
「そうか。残念だ」
「でも形は可愛い」
「ああ、確かに。あ、鳥と言えば」
二人の会話が少しずつ盛り上がっていて、やはり最終的には美術品の話になってついていけなくなった。南宋の陶磁器がどうとか言い始めたところで、私はご飯を食べ終えて自分の部屋に戻った。
そうしてまた机に向かって宿題をやっていると、突然ノックが聞こえて、振り返る間もなくアリスが入ってきた。
「おい、勝手に入るなよ」
「え?」
「え、じゃなくて。勝手に私の部屋に入るなよ」
「日本て個人のスペースが無いんじゃないの?」
どういう勘違いだ?
呆れていると、結局アリスは部屋に入って椅子を持ってきて隣に座る。
「宿泊の条件だから、勉強を教えに来たよ。今宿題やってるんでしょ?」
そう言えば、そんな事を香霖が言っていた気がする。
「要らない。自分で出来るし」
「扉の外まで唸り声が聞こえていたよ」
「う」
アリスがやりかけの宿題を覗きこむ。
「後は微分の計算問題だけ?」
この期に及んで嘘を吐いても仕方が無いので正直に言う。
「良く分からなくて」
はっきり言って、全く分からない。色々人に教えてもらっても一向に理解が出来ていない。多分脳の構造が数学向けじゃないんだろうと思う。だから教わり様も無い、
「そう」
アリスがペンを取って「大丈夫。これ位の問題なら小学生でも解けるから」等と苛立たせる様な事を言いながら、傍のノートにグラフを書き始めた。
「微分を物凄くぞんざいに単純な言い換えをするなら、グラフの接線の傾きを導くんだ。って言うのは、今日の授業でも言ってたでしょ?」
「そうだっけ?」
「言ってた。だから実際にグラフを書いて見るけど」
そうしてアリスはグラフを使いながら説明をしてくれた。一つ目のグラフを書いて説明してくれても全く分からない。二つ目の時もそう。それが三つ四つ、七つ八つ、十を超えた辺りでようやく分かりかけてきて、十五を過ぎるともうほとんど理解出来て、二十を過ぎた頃に宿題の問題を全部自分で解ける様になった。
すらすらと全問解けて何だか数学が得意になったかの様な錯覚に陥いる。
「教えるの上手いんだなぁ」
「全然。こんな対症療法じゃ教えた内に入らないよ」
「対症療法?」
「きっと今のままじゃ応用問題は溶けないし、解ける様になったのは微分だけだから、次のステップに進んだらまた分からなくなるでしょ?」
まあ、そうかも知れない。
「でもとりあえず宿題は出来たんだし」
「本当なら、学問なんだから、系統立てて分かっていかなくちゃいけないのに」
何やらアリスはぶつぶつと文句を言っているが、こっちとしては宿題が解けたので満足だった。
「まあ、とにかく助かった。ありがと!」
「どういたしまして。こんなの教えた内に入らないけど」
「私、頭悪いからこれで十分だよ。昼間には皆に教えてたよな? 凄い評判良かったし、やっぱり教えるの上手いんだよ」
「あれも魔理沙さんのと一緒。テストの為だけの勉強になっちゃったから、僕は不満」
「そうなのか?」
「そう。集合論からやろうって言ったら、反対されて、結局公式の暗記になった」
憤懣やるかたない様子のアリスが何だかおかしかった。天才ってもっと自分の事だけを考えているんだと勝手に思い込んでいたけれど、少なくともアリスは宿題を教えてくれたし、今みたいに他の人の為に憤る事が出来る。最初は一週間家に泊まるだなんてどうしよかと思っていたけれど、天才という言葉から抱いていた印象とは全く違った。優しい心を持っているならこれから一週間仲良くやっていけそうだった。
もっと仲良く慣れたら良いな。
そう考えてもっと話をしようと思った時には、既にアリスが立ち上がって出て行こうとしていた。
「じゃあ、僕部屋に戻るから」
「え? もう少し話でも」
「やる事あるから」
「そんな、ちょっと!」
魔理沙が引きとめようとする前に、アリスはさっさと出て行ってしまう。
「何だよ、あいつ」
呆然としていると、隣の部屋の扉の開く音が聞こえ、後は何かよく分からないけれど作業をしている様な音が聞こえてくる。
何なんだよ。
宿題を教えるという義務を済ませたらさっさと行ってしまった。こちらとは仲良くしたくないという事だろうか。何だか胸の内に寂しさが立ち上って憤りを感じたけれど、だからと言って怒る様な事でもないし、やるせない思いがわだかまるばかりでどうしようもなくなって、ベッドに入って寝た。
やっぱりあいつは冷たい奴かもしれない。そう思った。
翌朝、いつもの様に起きて朝の準備を進めていると内に、アリスがいつまで経っても起きてこない事に気がついた。まだ寝ているのかとアリスの部屋をノックして呼びかけてみたが出てこない。起きてくる様子もない。
どうしたんだろうと不安になった。
もしかしたら部屋の中で倒れているかもしれない。
慌てて香霖を呼びに行くと、香霖がしれっとした顔で言った。
「彼なら随分前に学校へ行ったよ」
「え? でも全然そんな時間じゃ」
「多分その辺を散歩でもしてから行くんじゃない?」
学校へ行ってみると、アリスが机に座っていて、早く来たクラスメイト達と談笑していた。私の家ではずっと澄ました顔で、特に私と喋る時はほとんど笑顔を浮かべなかったのに。
嫌われてるのかなぁと嫌な気分になりながらアリスを見ていると、ほんの一瞬目があった。しかしすぐに逸らされてしまって、やっぱり嫌われているのかもしれないという疑念が強くなり、何だか胸が痛くなった。そんな、嫌われる様な事はしていない筈なのに。
何となく憂鬱な気分のまま学校が始まり、そうしてそのまま何事も無く終わった。アリスはやはり昨日と同じ様に完璧な一日を過ごした様だった。
ところが帰りの段になって、友達の話題が昨日と少し変わっていた。アリスを話題としているのは同じなのだけれど。
「何かアリス君て結構冷たい人だよね」
そんな事を友達の一人が言うと、半分が賛成の声を上げた。
「何か笑ってるけど、心の中じゃ笑ってない感じ」
「結構毒吐よね」
「見下してる感じするわ。話しかけても無視する事あるし、真っ先に帰っちゃうし。意外と私達と関わりたくないと思ってるんじゃない?」
話を聞くと、どうやら上辺だけ取り繕っている様で気に食わないという事だった。
残りの半分がそれを否定したが、とにかくほとんど外見だけしか見ていなかった昨日と比べて、もう少し内面に踏み込んだ今日、転校生に対する周囲の評判は下向きになった様だ。たった一日で評価が激変しているのが何だか納得行かなくて、他人の事なのに何となく悲しくなった。それに口口に悪口を言っているのを聞いているのは、何だか嫌な気分だ。
家に帰ると、隣の部屋から何か作業のする音が聞こえていた。
昨日と同じ様に夕飯時はアリスと香霖が古美術話に華を咲かせる。食べ終えて部屋に戻ると、やがてアリスが部屋にやってきて、また宿題を教えてもらう。今日は理科と社会の宿題で、丁寧な説明で分かりやすい。その丁寧な教えぶりを見ていると、やっぱり嫌われている様には思えない。なので宿題を終えた後、今日こそ何か話をしようとすると、やっぱりアリスは席を立って自室に戻ろうとした。
何だか悔しくて、それに今日の帰りに友達の言っていた事を思い出して、思わず呼び止めていた。
「なあ、ちょっと良いか?」
「何?」
アリスが振り返って不思議そうな顔をする。
「いや、なんていうか、お節介かもしれないけど、そういう態度は気を付けた方が良いと思うぜ」
「そういう態度?」
「何ていうか、人と関わりたくないって態度をあからさまにするの」
「してた?」
「って、私は感じたし、クラスの皆も思ってると思う」
はっきり言ってしまってから、あんまりにも酷い言い草だったかなと後悔したがもう遅い。また嫌われそうだなと思っていると、アリスは何だか納得した様な顔をしていた。
「そうか。やっぱりバレてたんだ」
「バレてた? やっぱり人と関わりたくないって思ってんのか? 私達の事嫌いなのか?」
「思ってはないよ。だけどそういう風に見られる様な態度をしているらしいんだよね。昔それを指摘された事があったから、何とか取り繕おうと色々試してたんだけど。やっぱり今回も駄目だったみたいだね」
アリスは人の心って難しいなぁとぼやきながら出て行ってしまった。
私はあっけにとられて暫く動けずに居た。自分が馬鹿だからなのか、アリスの言っていた事が良く分からなかった。
翌日はアリスに会う為、いつもよりずっと早く起きた。何だか喧嘩みたいになってしまって、もしかしたら余計なお節介の所為で嫌な気分にさせてしまった気がして、それを謝りたかった。
そう思って、下に降りると、香霖が暢気にコーヒーを飲んでいた。辺りを見回したがまだアリスの姿は見えない。
香霖が目ざとく私の視線に気がついて言った。
「残念だったね。アリス君ならついさっき学校へ行ったよ」
「もう? だってまだまだ全然時間があるのに」
「どうしてかは分からないけど」
「そうか」
残念に思っていると、香霖が笑った。
「一緒に登校したかったのかい? 残念だったね」
「そんなんじゃねえよ」
ぶっきらぼうに答えて部屋に戻り、寝直してから、いつもの時間に登校した。
昨日アリスがクラスの評判を落としている事を聞いてしまっていただけに、気になってアリスを眺めていたが、やっぱり昨日や一昨日と変わらず、爽やかに笑いながらクラスメイト達と接しているし、昨日悪口を言っていた私の友達もにこやかにアリスと接していた。何だか気持ちが悪かった。
ところが、最後の授業の体育の時間に事件が起こった。
女子は体育館で、男子は校庭でそれぞれの授業を受ける事になっていて、私は体育館でバレーをしていた。教師は男子のサッカーを見ているので、女子は全員適当にやっていた。私も疲れた頃に一息つく為、外に出て、サッカーをやっている男子を眺めてみると、何か言い争いをしている様で、その内の一人がアリスの様だった。私の他にもそれを見つけた女子が何人か居て、その内の一人が体育館の中へ戻って喧伝し、やがて皆が噂で持ちきりになって授業にならなくなり、結局皆で校庭へと出て行った。
行ってみると言い争いをしているのは、アリスとある男子の様で、教師もどうしたら良いのか分からずに困り切っていた。
「じゃあ、やっぱりお前手を抜いてたのかよ!」
そんな怒鳴り声に、アリスが澄ました顔で答える。
「そうだよ。だって差がありすぎると、楽しくないでしょ?」
その瞬間、言い合いをしていた男子がアリスに殴りかかった。アリスは咄嗟にそれを避けて、男子の拳が空を切る。すかされた男子は気まずそうにしていたが、やがて周りを扇動する様に声を上げた。
「そんなに強いなら一人でやりゃあいいじゃねえか。一対十一でさ。そうすりゃ本気でやれんだろ!」
そう言って、男子はボールをコートの中央に置いた。アリスの側のメンバーが全員コートの外に出て、本当に一対十一でやるつもりの様だ。それを見て、何だか私の胸に苛立ちが宿った。
更にそれを眺める観衆が密やかに話し合っていて、中にはアリスを責める様な声も聞こえる。「でも、実際アリス君て結構調子に乗ってたしね」という言葉が聞こえてきた時に、苛立ちが頂点に達して、私は思わず前に進み出ていた。
「ちょっと魔理沙。何する気?」
止めてくる友達の手を払って、コートの傍まで行って、思いっきり叫ぶ。
「お前等馬鹿じゃねえの!」
途端に全員の動きが止まって、私に視線が集まった。
「そんなの勝てる訳無いだろ! ただのいじめじゃん!」
「女子には関係ねえだろ!」
怒鳴られたので、怒鳴り返す。
「見てて気分悪いんだよ! 男子だ女子だ言うんなら、卑怯な事してないで男らしくしろよ!」
怒鳴り返されてたじろいだ男子を見て鼻を鳴らしてから、今度はアリスを見る。
「お前も! 手を抜くとかそういう事すんな! 本気でやれ!」
「でも力の差があると」
「そういう気遣いが迷惑だし、鬱陶しいんだよ! 人に合わせるのは良いけど、それは時と場合を考えて、相手を馬鹿にしていると思われない様にしなくちゃいけないの! 分かった?」
「ごめん、分からない」
「分かれ!」
そうして今度は他の男子達に目をやる。あからさまに何人かがひるんでいた。
「それから今チームを抜けた男子全員! さっさと戻れ! そんでちゃんと試合しろ!」
慌てて元のチームに戻り、十一対十一になる。
「じゃあ、ちゃんと正正堂堂と全力でやる! ほら、始め!」
初めの内は皆戸惑っていた様にしていたが、誰かがボールを蹴って試合を始め、それからは一気に白熱した。アリスには複数人がマークしていて上手く動けない様だが、気がつくと必要な場所に必要なタイミングで居て、上手くゲームを運んでいる。段々とお互いむきになっていって、最後にはポジションも何も無い完全な泥仕合となり、結局、十五分間で二対一と、それなりに拮抗した勝負でアリス側のチームが勝った。
全力でぶつかりあった所為か、全員試合が終わった瞬間その場に倒れこむ。
そこでようやく我に返ったらしき教師が女子に対して体育館に戻る様命令しだした。体育館へ戻る途中振り返ってみると、言い争いをしていた男子がアリスの傍へ寄って何事か喋っていた。遠目ではあったけれど、少なくとも剣呑な雰囲気には見えなかった。
帰り際に友達の話を聞いていると、アリスの人気は回復した様で、今日のサッカーの試合を皆絶賛していた。だが途中で私の話題になり、どうしてあんな庇う様な事をしたんだ、実は好きなんだろうと決めつけてくる事に辟易した。
家へ帰っていつもの如く夕飯を食べて二人の美術談義を聞き流し、部屋に戻るとやがてアリスがやってきた。そうしていつもの様に宿題を教えてもらう。その間ずっと、アリスが今日の事を何か言ってくるんじゃないかと怖かった。怒鳴ってしまったし、アリスからしてみればお節介だろうし、きっと鬱陶しく思われているだろうから。けれどアリスはやっぱり澄ました顔で、いつもの様子と変わらない。それはそれで反応が無い事が怖くて怯えている内に宿題が終わって、宿題が終われば、アリスは部屋に戻るだろうとほっとしていたら、アリスはその場に残ったままじっと私の事を見つめてくる。途端に恐ろしさがまた湧いた。
「何? 部屋に戻らないのか?」
「ちょっと話がしたくて。今日の体育の授業の事なんだけど」
やっぱりか。責め立てられる事を覚悟して手を握り締め、アリスを見つめ返す。
ところが、アリスは柔らかに笑った。
「ありがとう」
「え?」
「いつもだったら、あれで嫌われてお終いなんだけど、君のお陰で最後まで関係が保てた。これは快挙だよ。始めてだ。君のお陰」
アリスの言っている事がやっぱり良く分からない。
「僕は嫌われ者だから、行く先行く先でみんなに嫌われてきた。どうにかしようと思ってもどうしようもなくて、ほとんど諦めてた。でも君のお陰で何だか希望が見えた気がする。まだどうすれば良いのか解析は出来ていないんだけど」
「嫌われ者って、お前が? 冗談だろ?」
人形みたいに綺麗で頭が良くて運動も出来て何でも知っていて人当たりも良くて、悪いところなんか見つからない。それが嫌われてきたなんて思えない。
「本当だよ。君が昨日言った通り、他人に興味が無いのが透けてるんじゃないかな? 多分ね。ちゃんと笑顔で明るくしてるんだけど、どうしてだかは分からないけど、駄目らしい。今の僕にはまだ人付き合いが出来ないんだ。そもそも僕は何も出来ないから」
「何も出来ないって、それこそ冗談だろ。勉強だってスポーツだって何だって出来るじゃん。美術品とかだって詳しいし。香霖と話が合う奴なんてほとんど居ないぜ? それなのに何も出来ないなんて。私から見れば天才だよ」
「そんな事無いよ。勉強はパチュリーの足元にも及ばないし、運動は美鈴に絶対叶わないし、人形作りだって父さんみたいに上手く出来ない。僕は人って何かを成す為に生まれてきたと思うんだ。だからきっとみんな何か他の人より秀でた部分があるんだと思う。でも僕にはそれが無い。勉強だって運動だって他にもっと得意な人が居る。だからきっと僕だけが駄目なんだ。良く言われるんだ。僕は他と違っておかしいって」
「何言ってんだよ。じゃあ世の中の人間が全員天才だっていうのか?」
「僕以外は」
「じゃあ、私は? 少なくとも、私は何にも無いぜ?」
「そんな事無いよ。君は天才だ」
「何処が」
「だって、今まで僕と人との関係を修復出来たのは君だけだから。今までずっと、一度嫌われたらもう何をしたって二度と輪には入り直せなかった。ずっと仲が良い友達は居るよ。さっき言ったパチュリーや美鈴がそう。でも彼等に手伝ってもらっても、一度壊れた他の人との関係は修復出来なかった。だから君だけなんだ。僕と他人との架け橋になってくれたのは。だから僕は君が天才だと思う」
何だか頭が混乱していた。褒められている様で嬉しい気持ちがあるけれど、それだけじゃ沢山の感情が渦巻いていて、上手くまとめ切れない。ただアリスの言葉を聞いていて一つどうしても納得出来ない部分があった。アリスは勘違いをしていて、その所為で自信を失っている様だった。せめてそれだけは正してあげたい。
「お前は自分に才能が無いって言ってたけど、その理由が今他に自分より凄い人が居るからだって言ってたけど、でも才能ってそんなものじゃないと思うぜ」
「何が違うの?」
「才能って育てていけるもんだろ。今勝てなくたっていつか勝てる様になるかもしれないじゃん」
「うん」
「うんって」
「僕もそう思うよ。だからさっき言ったでしょ? 今の僕にはまだって。勿論才能は芽吹かせるものだっていうのはわかってるよ。そうじゃなくちゃ、赤ちゃんの頃から一定の能力を持ち続けているって事になっちゃう」
そう言ってくすくすと笑った。私には何が面白いのか分からかない。笑われたのかも知れない。とにかく、どうやらまた余計なお節介だったらしい。
「分かってるんなら良いよ。悪かったな。わかってる事をわざわざ指摘して」
「ううん、でも僕はそれを知っていたのに、忘れていたのかも知れない」
「忘れてた?」
「何だか勝てないってずっと思い込んでた。未来はわからないのに。ありがとう、何だか君には色々気付かされる。話していて楽しいよ」
そう言ってアリスが微笑んだ。
私の感情が更にぐちゃぐちゃになって、良く分からなくなった。アリスの言いたい事も、アリスの考えている事も全く分からない。何もかもが分からなくてひたすら混乱する。ただ微笑んだアリスが綺麗だという事だけは強烈に焼き付いて。
気がつくと、アリスの姿は消えていて、隣の部屋から何か作業をする音が聞こえていた。その音が今日はとても気になった。アリスが何をしているのか。どうしても知りたくて仕方が無い。
何をしているんだろうと隣の部屋に行ってみると、電灯の明かりの下でアリスは机に着いて、私が入ってきた事にも気が付かないほど熱心に何か取り組んでいた。後ろにたってアリスの手元をみてみると、どうやらそれは人形の部品のなりかけの様だった。頭や手や足をアリスは丹念にヤスリで削っている。
「そう言えば、さっき言ってたな」
私が言葉を漏らすと、アリスが慌てて振り返る。その驚いた顔が何だかおかしかった。
「人形作ってるんだ?」
「世界一の人形師になりたかったんだ」
「なりたかった?」
「どうしても父さんを越えられない。僕には才能が無いんだ」
「で、諦めたのか?」
「諦めてた」
「てた?」
「さっき君と話していて、思い直した。諦めてちゃ駄目なんだって」
アリスがまた作業に入りだす。その顔は無表情だけれど、何だか嬉しそうに見えた。
「この人形、きっと良い物が作れると思う。それを君にプレゼントしちゃ駄目かな?」
「え? くれるのか?」
「うん、貰ってくれる?」
「勿論。むしろ良いのかよ。私なんかに」
「勿論。君だから貰って欲しい」
何だか気恥ずかしい。特別だと言われている様で。勿論、そこまで深い意味は無いんだろうけれど。
「僕は明日帰るから手渡せないけど、出来たら送るから」
「おお、ありがとな」
と、アリスの言った事がひっかかる。
「明日帰る?」
「うん」
「そんな。でも一週間は居るって」
「僕の目的はひよこ饅頭を食べる事だったし、久しぶりに日本に帰って来れて楽しかったし、もう十分だったから」
「でも」
「今はちょっと公開してる、君ともう少し話をしたいから。でももう航空券を発券しちゃったからね」
「そんな!」
アリスは人形の部品にヤスリを掛け終えると、片付け始めた。
「さて、じゃあ、明日も早いからもう寝るよ。君も明日学校だろう。早く寝たほうが良い」
「明日学校来ないのか?」
「朝の十時の便だからね」
そう言って、アリスは片付けを終えて、布団に入った。
「それじゃあ、お休み。あ、電気は消さないで」
そう言って、寝始めてしまったので、私は呆然としたまま部屋を出た。
これでお別れ?
折角仲良く慣れたのに、こんなあっさりと?
もっと色々話したかったのに。アリスだってそう言っていたのに。
それなのにもうお終い?
急に悲しみが湧いてきて、今すぐにでも部屋に戻ってアリスを叩き起こし、もっともっと話をしたくなった。けれどそれをすればきっとアリスに悪い印象を与える。最後の最後をそんな風にはしたくなかった。
自分の部屋に戻ろうとしてふと疑問に思った。
アリスは本当にもっと自分と話をしたかったのかと。
明日が別れなのに、あっさりと眠ってしまって、本当にもっと話したかったのか。アリスは前に言っていた。取り繕おうと色々試していると。さっきの言葉も全部その取り繕いに過ぎなかったのでは無いか。
「なあ、アリス」
聞こえない位小さい声で扉越しにアリスへ語りかける。
「私、あんたの言葉が信じられないよ。明日お別れなのにさっさと眠って」
何だか涙が流れてきた。
「本当に私ともっと話がしたかったのかよ。どうしても私、信じられないよ。こんなあっさり」
何言ってるんだろう私。聞こえない事を良い事に不満を言って。
惨めだった。八つ当たりみたいな真似をして。何だか頭の中が振り子の様に振り回されている様な不快感があった。それは寝付くまで、アリスの声と一緒にずっと纏わりついていた。
次の日、いつもより大分早く起きた私は、さっさと用意を済ませて、家を出た。そうして目的地に着いて、椅子に座る。
空港の椅子に座って三十分、念の為に手紙を書きながら待っていると、往来する人々の中にアリスの姿を見つけた。
「アリス!」
駆け寄って声を掛けるとアリスが驚いた顔をした。
「どうしたの? 学校は?」
「今日は休み。特別な日だから」
「そうだったの」
「そうなったんだよ」
「そうなんだ」
アリスは納得した様子でカウンターへ向かう。素っ気無い。やはり、向こうは何とも思っていないのかもしれない。そう思うと、これから言おうとしている事がとても恥ずかしい事の様に思えた。
荷物を預け搭乗券を貰って来たアリスが戻ってくる。
「お見送りありがとう」
そう言って、笑ったアリスの笑顔は何だか作り物みたいに見えた。そんな笑顔を見せられると、言おうとしていた言葉を言う事は出来ない。
「これ」
だから書いておいた手紙を渡した。
「これは?」
「手紙」
アリスが開けようとするので慌てて止める。
「駄目。飛行機の中で読んで」
「飛行機の中じゃないと駄目なの?」
「駄目。飛行機の中で読んで、それでもしも……もしも……もしも、良かったら連絡先を教えてよ」
「連絡先? 良いよ」
そう言って、スマートフォンを取り出してきたので、面食らった。
「え?」
「連絡先って電話番号とかメールアドレスとかフェイスブックのアカウントとかそういうのじゃないの? なら今すぐ教えられるけど」
「良いのか?」
「良いけど? 何で駄目なの?」
「いや。まあ、良いなら良いんだけど」
連絡先を交換し終えると、アリスは澄ました顔でさっさと搭乗口へ言ってしまった。名残惜しさなんて微塵も感じさせない姿だった。最後の最後まで素っ気無い別れになった。
最後まで分からない奴だったなぁと思いながら帰路に着く。勝手に学校を休んだから怒られるだろう。書き置きはしてきたけれど、あの香霖がそれを見て納得し学校に嘘を吐いて休む事を伝えてくれる確率は、半々位だ。
「まあ、良いか。それより大切な事があったんだから」
電話帳にはしっかりとアリスの連絡先が載っている。交換した時に試しに電話を掛けてみたので間違いなく本物だ。離れ離れになってしまったけれど、少なくとも小さな糸で繋がっている。
それを思うと安心する反面、物凄い後悔が湧いてきた。
こんな簡単に連絡先が貰えるのなら、手紙にあんな事書くんじゃなかった。
飛行機に乗ったアリスは早速手紙を開けて読み始めた。
それは、三日間という短い時間だったけれど楽しかった事、褒めてくれた事が嬉しかった事、アリスの性格の欠点等等、この三日間での出来事を軸に自分のアリスに対する思いを素直に書いた手紙だった。
そうして手紙の最後はこう締めくくられていた。
『あなたがどう思っているのか分からないし、もしかしたら私の事なんて嫌いなのかもしれないけれど、私は、きっとあなた事を好きになりかけているんだと思います。だからもっともっと話をしてあなたの事を知って、好きになれたらと思っています。だから、もし良かったら、うっとうしくなかったら、あなたが私の事を嫌いじゃないのなら、最後に私の連絡先を載せるので後で連絡をください。そうしてまた話をしてください。連絡を待っています』
読み終えた瞬間、アリスは急いでスマートフォンを取り出したが、丁度機内での通信機器の使用を禁止する合図があった為、仕方なく電源を消してポケットにしまった。
そうしてもう一度手紙を読み直して、涙を流しながら呟いた。
「嫌いじゃないよ。もっともっと話がしたかったよ」
向こうに着いたらすぐに連絡しようと心に決めて涙を拭う。
「本当だよ」
「アリス! アリス!」
場内にアリスコールが湧いて、アリスが気恥ずかしそうに顔を赤らめた。
その隣に座る魔理沙は苦笑する。
「アリスは人気だなぁ」
するとアリスコールに合わせて、魔理沙コールも始まった。
「魔理沙! 魔理沙!」
魔理沙もアリスと同じ様に顔を赤くすると、隣の霊夢が魔理沙の肩を叩いた。
「私、あんたの友達としてアリスとの仲を応援するからね」
そんな気色悪い冗談を言ったので、魔理沙とアリスが霊夢の頭をぶっ叩いた。
チルノ
チルノという馬鹿と私リグルの関係を簡潔に表せば、家が隣同士の幼馴染の喧嘩仲間で馬鹿友達といったところ。チルノという男子はとにかく勉強が出来ず、いつもふざけてばかりの馬鹿野郎で、良く私の事をからかっては笑っている。無視をしておけば良いのにそれに反論するのが私の馬鹿たる所以で、お互いが稚拙な罵り合いになり、時には手が出て取っ組み合いになる。最近力で勝てなくなってきたなと思う時もあるにはあるが、馬鹿にしてくるチルノに苛立って、喧嘩を止めて無視するという選択が出来ない。
その日も些細な事で喧嘩となり、チルノの背中を蹴りつけた後は逃げに逃げ、ホームルームまで逃げ切って私の勝ちになった。悔しがって喚いているチルノに優越感を覚えて席に座ると、ホームルームが始まって、そこで出た話題に私の気分は更に高揚した。というのも明日は遠足の日で、みんなで山へピクニックに行く。一週間前に決まってからずっと楽しみにしていたので、それが明日かと思うと、もうそれだけで嬉しくてしょうがなくなった。
ホームルームが終わり帰ろうとすると、突然チルノが声を掛けてきた。
「おい、ブス!」
喧嘩の続きかと、私が身構えると、チルノが笑った。
「あー、振り返ったって事は、自分がブスってわかってるんだな、このブス」
うぜぇ。
「お前、ブスだし、男みたいだからきっと一生結婚出来ないんだろうな。可哀想ぉ」
「あんたよりは可能性高いけどね。だってあんた馬鹿でしょ? 女の子って馬鹿は嫌いだし」
といつもの通り、喧嘩をしながら家に帰ると別れ際に、チルノが言った。
「あ、そうだ、ブス」
「何よ、馬鹿」
「明日のピクニック、どっちが速いか競争だからな!」
「速いか?」
「そう! 俺、死んでも一番に頂上上るから」
「それを叩き潰せば良い訳ね。何賭ける?」
「お弁当の何か一つ」
「うん。私、サンドイッチが食べたいから。おばさんにお願いしといて」
「じゃあ、俺ハンバーグが良いから、よろしく」
「別に私の方は勝つんだから何だって良いじゃん」
「おい! 絶対駄目だからな! 絶対ハンバーグ! 母ちゃんにはサンドイッチ頼んどくから!」
「はいはい。じゃあね」
「おう、また明日な」
私は家に入るなり、お母さんにハンバーグをお願いすると、そんな材料用意していないと言われて、買い出しに行かされた。近所のスーパーに行ってみると、同じく買い物に駆り出されたらしいチルノが食パンだとかハムだとかを買っていたので、何か気恥ずかしく、私は顔を合わせない様に買い物を済ませて家に帰った。興奮して夜は中中寝付けなかった。
翌日、ピクニックの日だという嬉しさに急いで起きて、朝の用意を済ませていると何だか体調が悪い事に気がついた。頭が重くて体がだるい。風邪を引いたみたいだったが、親には何も言わなかった。折角楽しみにしていたピクニックにただの風邪なんかで行けなくなるなんて嫌だ。それに万が一休めばきっとあの馬鹿が勝ち誇った顔をしてくるに違いない。そんなの我慢出来ない。
体調が悪いのを我慢しながら家を出ると、丁度チルノも家を出たところで晴れやかな笑顔を浮かべてやってきた。
「よう、ブス! 楽しみだな!」
「おはよう。馬鹿は朝から元気だね」
底抜けに明るいチルノの笑顔がいつもの何倍も鬱陶しくて、お腹が痛くなってきた。
「何だ、体調悪いのか?」
「ちょっとね」
「そうか! じゃあ、ピクニックの事もっと考えろよ! そうしたら風邪だって吹き飛ぶから!」
別に心配してもらいたかった訳ではないけれど、ここまで考えなしな事を言われると、酷い苛立ちがやってきて、途端にまたお腹に痛みがやってきた。
「じゃあ、俺友達と約束してるから」
そう言って、勝手な事を言うだけ言ってチルノは学校へ向かって駆けて行った。私も重い体を引きずって学校へ向かった。
学校で点呼を取った後は皆でバスに乗った。そんなに遠い山では無いけれど、それでも三十分は掛かる道程で、道中私は車酔いに襲われてへたり込み、そこへ暴れるかの如きはしゃぎっぷりをしていたチルノが絡んできて心底うざかった。
山へ着いてもう一度点呼を取った後は、自由行動で思い思いに頂上を目指す事になった。早速チルノと一部の男子はペース配分なんて頭の隅にも無い様な走り方で山を登っていった。私は友達に心配されながら後ろの方を歩く。途中登るのを諦めたらどうかと友達に言われたけれど、ずっと楽しみにしていたピクニックを棄権するなんて嫌だったので、何とか無理矢理登って行く。だがやはり歩みは芳しくなくて、どうやら頂上早上がり対決の軍配はチルノに上がりそうだった。悔しかったが、正直それどころではない体調だ。
山はそれなりの高さで、私の周りに居た友達も段々他人を気遣う余裕が無くなって、山の中腹頃になるといつの間にか私は独りになっていた。その頃にはもうお腹の痛みが我慢出来ない程になって、段々私の足取りは鈍り、やがては一歩も歩けなくなってその場にへたり込んだ。
何だか普通の風邪ではない。
一体どうしたんだろう俯いていると、地面に血が滲んでいるのに気がついた。
慌ててその場を飛び退くと、やはり小さな血だまりが出来ている。まさかと思って、自分の下半身を見ると股の辺りから衣服に血が滲んでいた。
生理になってる。
一瞬訳がわからなくなって、頭が真っ白になり、それから一気に恥ずかしさと、不安が襲ってきた。もう周りに友達が居ない。先生の姿も無い。それなのに独り取り残されて後にも先にも行けないのにどうしようという不安と、後々戻ってくるであろうみんなに今の自分の姿を見られたらどうしようという不安と恥ずかしさ。それに下山の時にも自由行動だとすれば、きっとまず真っ先に来るのはチルノを始めとした男子だろう、あいつ等に見られる事を考えると死にたくなった。
どうすれば良いのか訳が分からなくなって、頭がぐちゃぐちゃで喉に悲しみがせり上がってくる。思わず嗚咽が漏れそうになった時、頭上から声が響いた。
「おい、大丈夫か?」
慌てて見上げるとチルノが心配そうな顔をしていた。
思わず心臓が飛び出るかと思った。
「そんなに風邪酷いのかよ」
「いや、違」
ふとチルノの視線が地面の一点を見つめ、それから驚いた様子で私の体を見回して、そうして下腹部の辺りで止まった。
「怪我してんのか!」
そう言って、チルノが私の腕を掴んできたので私は思わず振り払った。それにもひるまず、チルノはしゃがみ込んで私を見つめてくる。
「消毒とか無いけど、傷洗って止血とかするから」
そう言って近付いて来るので、私は思わずチルノの頬を張った。
「だから違うって! 怪我してないの!」
「じゃあ、その血は」
言い返そうとしたチルノの言葉が止まった。それから「あ」という声が漏れた。生理だという事に気がついたのだろう。馬鹿なのにどうして気がつくのか。死にたくなった。こらえきれずに涙が溢れてくる。
するとチルノが言った。
「とにかくその体調じゃもう山登るのは無理だろ」
チルノの優しげな声に顔をあげると、チルノが真剣な表情で見つめ返してくる。
「下まで運んでくから。確か休憩所みたいなところがあって、保健室みたいなところがあった筈」
運ぶって何だと思った瞬間、私の太ももと背中をチルノの両手が支えて一気に持ち上げられた。自分がお姫様抱っこをされている事に気が付いて、血の気が引く。自分の血がチルノの腕に付いてしまう。
「ちょっ、やだ!」
「だって歩けないだろ?」
「でも汚いよ! 私生理で、血が出てるのに。汚れちゃう」
「別に汚くないし。この程度で汚れるとか、俺を舐めんなよ」
良く分からない事を言って、チルノが私を抱えながら歩き出した。今も血で汚れていっているのに、チルノは嫌そうな顔もせずに運んでくれる。それが申し訳なくて、そして嬉しかった。
「何か、ごめんね。迷惑掛けて」
「別に迷惑じゃないし」
「折角のピクニックなのに。それに勝負も、チルノ一番に頂上登るって言ってたのに」
思い出して悲しくなる。死んでも一番になると言っていたのに、私の所為でそれが出来なくなってしまった。
「ホントにごめん。私が生理にならなければ」
「生理になるのは子供生む為の準備だって母ちゃんが言ってた。じゃあ悪い事じゃないじゃん。女の子なんだから仕方ないんだし。謝んなよ」
「でも、頂上に一番で」
「そんな事より大事だろ、これ。だって、えーっと、あ、そうだ、だって、俺今赤ちゃん作るの手伝ってるんだろ? なら誇らしい事じゃん」
思わず吹き出しそうになった。
発言はどうかと思うけれど、でもとにかくチルノが私の事を励まそうとしてくれている事だけは伝わってくる。いつもと違うチルノの真剣な表情が近くにある。何だか顔が熱くなった。目眩もやって来る。どうやら今回の生理はとりわけ酷いみたいだった。
「チルノ」
「何だよ」
ごめん、と言いかけて、慌てて言い直す。
「ありがとう」
「別に」
そう言ってチルノがそっぽを向いたので、何だかそれがおかしくて笑った。笑うとお腹に来て、思わず呻く。
「おい、辛いなら黙ってろって。ちゃんと運んでやるから」
「うん」
口を閉ざすと、後はチルノが地面を踏みしめる音だけ。目を閉じると、森に香りと私とチルノの汗の匂い。チルノに抱き上げられた安心感に、お腹の痛みを忘れて微睡むような心地を覚えた。ずっとこのまま下に辿り着けなければ良いのに。そんな事を思ってしまう位に心地よい時間だった。
それからしばらくして、山の下に辿り着く事無く、チルノの体力が先に尽きて、山道の途中で二人して休む事になった。チルノは下まで運べなかった事を謝ってくれたけれど、引率の先生が見つけにくるまでの間、普段と違ってチルノが優しくしてくれたので、私は二人きりの時間がただただ嬉しかった。
「チルノちゃん格好良い!」
「でしょ! あたい格好良かったでしょ!」
はしゃぎあっている妖精達の隣で、リグルが頭を抱えている。
「どうしたの?」
リグルの様子に気がついたルーミアに尋ねられたので、リグルが弱々しく答える。
「いや、スクリーンで見ると恥ずかしいなって」
「そんな事無いよ!」
傍からチルノが大声を上げた。
「そうそうリグルちゃん可愛い!」
続いて妖精達が歓声を上げたので、リグルは顔を真赤にして恥ずかしそうに顔を俯けた。
八雲紫
最近妖怪のリーダーが家にやって来る。名を八雲紫と言って、澄み透った容姿に荒々しい笑顔を浮かべ、誠実から程遠い言動を吐いては大笑する。大勢の妖怪達を力で纏めたのだから実力について疑う余地は無いものの、彼の言動が少々子供じみているのを聞くに賢しいリーダーとは思えない。
やって来る時はいつも幾人かの手下を引き連れていて、白玉楼を明け渡せと迫ってくる。理由を様々に並べ立て、上辺だけ聞けばそれは妖怪や人間双方にとって実りある未来を作る為なのだが、その底には白玉楼を所有すれば自慢出来るからただ欲しいという願望が沈殿していて透けて見える。あっさりと見破れる嘘しか吐けないのは彼が未だ正心を喪って居ないからだろう。白玉楼を守らんと目の敵にする御庭番の妖忌に比べ、私はそこまで彼の事を悪い様に思っていない。
今日もまた外から私を呼ぶ妖怪達の声が聞こえる。妖忌には出てはならないと戒められたが、私はそれを拒否した。拒否した途端凄い眼で睨まれる。外見上は同い年でその上痩躯なのに、妖忌の睨みは妙に怖い。妖怪達なんかよりもずっと。多分背が高いのと、目つきが悪い所為だろうと思うけど、とにかく未だに真っ向からは対抗出来ない。だからそっぽを向いて抵抗する。そうしているとやがて妖忌が諦めるのはいつもの事で、今回も結局妖忌は無茶はしない様にと言いつつ折れてくれて、私はあの妖怪と会える事に幾分高揚した気持ちで外へ出た。案の定門前には紫が居て、彼の式と手下を連れていた。そうしていつもと同じ挨拶をいつもと同じ様に諸手を広げて言った。
「これは西行寺のお嬢様、お会い出来て光栄です」
「こんにちは、紫さん。こちらこそお会い出来て光栄なのだけれど、少し挨拶に工夫を凝らしてはどうかしら? 毎度同じ挨拶じゃ飽きが来るわ」
後ろに引き連れた紫の手下達がけたたましく気炎を上げ始めた。だが決して紫の前へは出ようとしない。あくまで庇護者の後ろから喚いている。
「ああ、次回までに考えておくよ」
「それも、五回目ですよ」
「失礼、次回には必ず」
青筋を立てた紫だがすぐさま笑顔になると、辺りを見回して言った。
「それで、もう分かっているだろう? 好い加減飽きが来たというのなら、こちらの言いたい事は言わなくても分かる。つまり、俺とあんたは」
「以心伝心」
「そう。そういう深い仲な訳だ。どうだいお互い心の通じ合ったよしみで、この辺りを俺にくれないか?」
「お断り」
「そうかい、藍」
紫が手を挙げると、傍らから彼の式が飛び出してきた。見た事の無い新顔で、背に尻尾が九つあるのを見るに、伝説に聞く九尾之狐かもしれない。
「妖忌」
私が呟くと、背後に居た御庭番の妖忌が駈け出した。妖忌は風の様に九尾之狐へと駆けて、何かしようとした狐の頭上に刀を振り下ろす。狐はそれを両手で以って受け止め、妖忌も抑えつける様に力を込めて、二人が拮抗する。その脇を紫が笑みを浮かべて通り過ぎる。妖忌は慌てて紫を捕らえようとしたが、紫の式がさせじと妖忌へ攻撃して、また妖忌と式の二人は硬直状態に陥った為に、紫は悠々と私の下へ歩んできた。
目の前に立った紫が私の頬へ手を沿わす。
「さて二人っきりになれたな」
「ええ。そうね。それで、一体どんな甘い言葉を?」
紫は一瞬面食らった様な顔をしてそれから大いに笑い出した。一頻り笑い上げると、未だ笑みの残る顔を私の顔へ近づけてくる。
「そうだな。まああんたの事を気に入っちゃいるよ。良い女だ。だからこそ、こうして話し合いで解決しようとしているんだ。力尽くじゃなく」
「そう。ならこうして話し合っているのだし、そろそろ白玉楼は諦めるという形で解決しない」
「それは嫌だね。欲しいから」
「世の中欲しくても手に入らない物ってあると思うけど」
「そうか? 少なくとも俺は全部手に入れて来たぜ」
「酒も女も名誉も?」
「後、富とか食い物とかそういうのも」
「でも残念ながらこの白玉楼だけは手に入らないわ」
「それはどうかな?」
紫が肩をすくめ息を吐いたかと思うと突然顔を思いっきり近づけてきたので、私は避けて突き飛ばす。すると紫は馬鹿笑いしながら何歩か後ろに退がった。
「ようく考えておいてくれ。次回には回答を聞こう。明け渡すか、あるいは引き渡すか」
「渡さないと言ったら力尽くで来るの?」
「いいや、もっと良く話しあおう」
「なら次はお茶を用意しておくわ。それとあなたの方こそ次回までにまともな挨拶を考えておいてよ」
「ああ、そうだな。月の王として相応しい挨拶を考えてこよう」
不思議な事を言い残して、紫は背を向けた。
「おい、手前等! 今日のところは帰るぞ! 藍! いつまでじゃれているんだ」
紫は瞬く間に部下達をまとめて跡を残さず帰っていった。妖忌は慌てて私の身の安否を確かめたかと思うと、やっぱり危なかったじゃないかと叱りつけてきた。私はそれを聞き流して、また次に会える日を楽しみに思った。
ところが、その日を境に毎日来ていた紫が来なくなった。
何か妖怪達が大事を起こそうとしているとは聞いた。妖忌はその大事を心配するものの、紫達が来なくなった事は分かり易い位に分り易く喜んでいた。私は妖怪達の起こそうとする何かはどうでも良かったけれど、紫と会えない日々が何だか寂しくて心が晴れなかった。
それから十数日経っても現れず、紫達は月へ行ったという噂だけが聞こえてきた。
部屋の窓から空を見上げてみるが、生憎と大雨で月は隠れている。もしかしたらもう二度と戻ってこないんじゃないかという不安が胸を締め付けてくる。雨は深夜になっても止まず、就寝しようとする時にもまだ降っていた。床に入り、目を閉じると暗闇の中で、雨の降る音、屋根に当たる音、雨樋から塊となって流れ落ちる音が折り重なって聞き分けられない程真っ白な雨の重奏の中に、ふと違和が聞こえた。それはほんの微かな音だったが何か雨でないものが混じっていた様な気がして身を起こす。
するとその違和が再び聞こえてきて、その音が大きくなり、足音だと気がついた時には、外に繋がる襖が開いた。
ずぶ濡れになった紫が真っ暗な中に立っていた。紫は笑おうとしているらしい泣き顔を浮かべて、手を軽く挙げる。
「こんばんは、西行寺のお嬢さん。今夜は月が明るいな」
私は起き上がって明かりを灯す。
「ええ、今晩は大雨で月が見えないけれど、きっと雲の向こうの月はいつもと同じ様に綺麗でしょうね」
「ああ、そうだな。きっといつまでも同じ様に月は泰然として美しいんだろうな」
紫が私の目の前で腰を下ろしたので、私も座る。すると紫が寝転がって私の膝の上に頭を載せてきた。水に濡れていて冷たかった。
「月に行ってきたの?」
「ああ、攻め込んだ。それで大惨敗して帰ってきた」
「そう」
「笑わないのか?」
「どうして?」
「負けたから」
「どうして負けたら笑うの? それにどんな事があったのかも分からないもの」
「なら笑える様に何があったか話してみせようか?」
「聞いてみたいわ」
紫は鼻を鳴らすと、月での事を語り出した。湖を使って月へ攻め込み、そこで見た巨大な都。その華美で広大な都市に息を飲んでいると軍隊がやってくる。その月人自身の頑健さ、力、更に未知の技術によって作られた兵器に為す術もなくやられていき、這々の体で逃げ出してきた事。語る毎に、その時の恐怖を思い出していったらしく、段々と声が震え不安定になっていく。
「結局、何も出来ずに尻尾を巻いて逃げ帰ってきた。多くの仲間を失って」
そう言って、両の目から涙が一滴流れたので、何だか罪悪感を覚えて私は目を逸らした。
「結局あんたの言った通りになったな」
「何の事?」
「世の中には手に入らないものがある。逆に多くを失った」
「そうね。少し痛い勉強料だっただったわね」
「ああ」
紫の沈んだ声が何だか胸に響いた。弱音を吐くのは紫に似合わない。もっと明るく大言壮語を吐いていてほしかった。
「別にまだ終わった訳じゃ無いでしょう?」
「ん?」
「まだあなたは生きている。月を欲しいと願うあなたもあなたが欲しいと願う月も両方存在しているんだから、まだ手に入らないかどうかは分からない」
紫はしばらく黙っていたが、急に息を吹き出した。
「凄い事を言うな。死ぬまで分からないってか?」
「ええ。その通り。もしかしたら死んでからだって」
「だが、格好悪い事を言うが、俺にはあの月に勝てる自信が」
「自信はこれからつければ良いじゃない。妖怪の刻は長いんだから、これからどうにだって出来るでしょう?」
紫は黙っている。見ると、無表情で私の事を見つめていた。
「ね? そんな弱気な事を言わないで。あなたが手に入れられないものは白玉楼だけ。そうでしょう?」
紫はやっぱり無言で私の事を見つめていたが、段々と口の端が痙攣し始め、やがてこらえきれなくなった様に笑い出した。
「やっぱりあんたは良い女だ。言う事がいちいち面白い」
「そうからしら? 真面目に言ったつもりなんだけど」
「真面目に言ってるからだよ。あんたの言う通り、今手に入らなくたっていずれ手に入れれば良い。その通りだ」
「でしょ?」
紫が更に大きく笑う。
「でも一つだけ間違ってるな」
「何が?」
「幽々子」
唐突に名前を呼ばれて、何だろうと思っていると、突然後頭部を抑えつけられて、紫の顔が近づいてきて、唇と唇が触れ合った。
「俺があんたを手に入れれば、この白玉楼も俺の物になる。そうだろう?」
紫は顔を離すとそう言って笑った。
金属の鳴る音が聞こえ、顔をあげると廊下に立つ妖忌が刀を取り落として、呆然とした様子で立っていた。
「何か物音がしたから様子を見に来たら」
妖忌の体がわなわなと震え出す。
「貴様! 良くもお嬢様を傷物に!」
妖忌が落ちていた刀を拾い上げ、目にも留まらぬ速さで紫へ斬りかかると、紫はそれをひらりと飛び上がって避け、雨の降る庭へ飛び出した。妖忌もそれを追う。
土砂降りの中、紫が庭の中を逃げまわり、妖忌がそれを追い回す、そんな楽しげな様子を眺めながら、私はまだ感触の残る唇に触れてみた。何か胸の内からこみ上げてくる思いがあった。それは何でも出来そうと思える様な、そんな全能感を伴った感情で、紫の姿を眺めているとその思いはどんどんと強くなって、心臓の鼓動が速く大きくなっていく。
逃げていた紫が立ち止まって、私に向かって手を振った。その瞬間、妖忌が追いついて刀を振り下ろす。寸前で紫は隙間の中に消え、勢い余った妖忌がすっ転んだ。私が遅れて手を振った時には、紫の姿は消えていて、後は雨がざんざんざんと、倒れ伏した妖忌の上に降っている。
膝の辺りが濡れているので衣服を着替え、一生の不覚と首に刀を当てて自決しようとする妖忌を宥めてから、私は床に入って再び目を閉じた。暗闇の中で、雨の降る音、屋根に当たる音、雨樋から塊となって流れ落ちる音、微かな妖忌の苦悶の泣き声、そんな雨音が折り重なった聞き分けられない程真っ白な重奏よりも、更に大きな心臓の音が胸を張り割かんばかりに打ち鳴るので、私は中中寝付けずに、夜通し紫の事を考えていた。
唇にはまだ彼と触れ合った感触が残っている。
「橙! 橙! 大丈夫か? 誰か医者を! おばさん二人のキスの不気味さに精神が耐えられなかったんだ!」
藍が大騒ぎしながらうなだれた橙を介抱している様子を眺めながら、妖夢が幽々子に尋ねた。
「まさか、本当の話じゃないですよね? 紫さんの性別は抜きにして」
「当たり前じゃない。紫が月に攻め込んだのは私が生まれるより前よ」
「それで、あの、キスは本当にしたんじゃないですよね?」
「当たり前でしょ? 触れてるみたいに撮ってあるけど触れてないわよ。幾ら何でも人前でキスなんて恥ずかしいじゃない」
「そう、ですよね」
「何? もしも私が紫とキスをしてたら、あなたは」
「その時は庭師を辞めさせてもらいますけど」
「え? ホントに?」
「はい」
「そうなんだ。じゃあ、やっぱりあの事は秘密にしておこう」
「え? ちょっと幽々子様?」
幽々子がまたポップコーンを貪り始める。
「幽々子様? 今何ていいました? ねえ、幽々子様」
幽々子はポップコーンを貪っている。
「ねえ、幽々子様! 冗談ですよね?」
幽々子は空になったカップを逆さにして、残りカスを口に放り込むと、新しいカップを手にとって、またポップコーンを貪り出した。
おまけ
東方女装罪~Welcome to Maid-cafe.
森近霖之助
所用があって紅魔館に行ってみると、メイド喫茶が開かれていた。
無縁塚で拾った雑誌に載っていたので知識としては知っていたが実物は始めてだし、実際にどういう物なのかは良く分かっていなかったので、興味本位で入ってみた。
屋敷のパーティールームを改造して作ったらしいその喫茶店には、咲夜と何故か魔理沙まで働いていた。
「魔理沙! どうしてこんなところで」
「香霖!」
魔理沙が僕に気が付いて近寄ってくる。メイドの格好は中中似合っているのだが、普段の言動を知っているだけに、何だか違和感が酷かった。
「どうして来たんだよ」
「どうしてって、こちらのレミリアお嬢さんにバーチャルボーイを頼まれていたから納入したんだよ。それで帰ろうとしたらメイド喫茶って看板が廊下に見えたから興味本位でやって来たんだ」
「馬鹿! 早く帰れ。早く帰らないと大変な事に」
「どういう事だい?」
「何で私がここでこんな格好をしているかって言うと」
魔理沙が深刻そうな顔で声を潜めた時、咲夜が怒鳴り声を上げて近づいてきた。
「魔理沙! 何をしているの!」
魔理沙は怯えた様な顔をして後退る。
「もう良いわ、魔理沙。あなたはあっちに行っていなさい」
「でも、香霖は私の知り合いだし、私がおもてなしを」
「良いから行ってなさい。否やとは言わないでしょう?」
魔理沙は喉をひきつらせた様に息を吸うと、僕の脇を小突いて厨房と思しき奥へ駆けて行った。
「失礼いたしました、旦那様。どうぞこちらへ」
咲夜に案内されてテーブルに着く。いつも店主と客の立場で接しているので何だか不思議な気分だった。こういうのも意外と悪くないなぁと思ってテーブルの上を見渡して、メニューも何も無い事に気がついた。
「メニューとか無いの?」
「嫌ですわ、旦那様。お家で食事をするのにメニュー表だなんて」
どうやらそういう事らしい。よりらしくする為にお店らしさを排除している様だ。
「じゃあ、紅茶と、後は時間も中途半場だし、何か軽くつまめる物を」
「畏まりました」
咲夜が頭を下げて厨房へと引っ込み、それから数分して紅茶と料理を持ってきた。甘みの混じった良い香りの紅茶とスコッチエッグが僕の前に並ぶ。良くこんなの短時間で作れたねと言うと、時間を操ったのでという答えが帰ってきた。便利なものだ。
紅茶は甘みがあって今までに飲んだ事の無い味で、聞いてみるとパイナップルティーだと言う。確かに言われてみるとパイナップルみたいな味だった。スコッチエッグも肉や卵の味が上品にまとまっていて美味しかった。ただ咲夜がじっと背後に立ってこちらを見つめているので、何だか見張られている気がして落ち着かなかった。
食べ終えてから、これって咲夜が店員のただの喫茶店なんじゃないかという疑念が湧いた。だから何かメイド喫茶らしい事は無いかと読んだ雑誌を思い出して、そう言えば何かゲームが出来るんだと思い至った。尋ねてみると、用意はあると咲夜が自信ありげに頷いてみせた。
「どんなのがあるの?」
「魔弾の射手ゲームと毒殺ルーレットゲームです」
「うん、方向性は分かった」
「どちらを行いますか?」
「いえ、結構」
早速ナイフと砒素と書かれた瓶を用意しだしたので、丁重に断り、もうする事も無くなったので席を立つ。
「じゃあ、お勘定をお願いしようか」
「はい、しめて六十六兆二千億です」
「え?」
「六十六兆二千億円です」
「いや、そんな無茶苦茶な」
「値段を確認しないのが悪いんですよ」
「冗談だろ?」
「魔理沙も同じ事を行っていましたね」
「魔理沙が?」
「さて当然六十六兆二千億はびた一文まけられませんが、あなたが払えない事は当然分かっています」
「そりゃあね」
「ですから、この店で働いて貰います、メイドとして。時給一千億で」
「それでも六百六十二時間働かなくちゃいけないわけかい? しかもメイド?」
その時、奥からメイドの格好をした魔理沙が飛び出してきた。
「止めてあげてくれ!」
魔理沙は両手を広げて庇う様にして僕の前に立った。
「香霖は男なんだ! だからメイドの格好なんて。せめて執事の」
「なりません。この店はメイド喫茶です。働いてもらう上では、当然メイドの格好をしてもらいます」
「そんな!」
「魔理沙、これ以上口答えする様なら、あなたの借金に利子をつけても良いんですよ?」
「うっ」
ようやく事態が飲み込めた。どうやらこの店は法外な値段をふっかけて、その代替案として無理矢理客を従業員にする悪徳な店だったらしい。酷く質の悪い蟻地獄の巣に嵌まってしまったのだ。だとすれば後は諦めるしかない。
魔理沙が尚も反論しようとするので僕はその肩を掴んで止めた。
「香霖、早く逃げろ!」
「良いんだよ。僕の為に君が苦しい思いをする必要は無い」
魔理沙が悲しげな顔をするので、僕まで悲しくなった。
「でも香霖、あんな格好を」
魔理沙の視線を追うと、咲夜が大きめの黒いワンピースと真っ白で必要以上にフリルの付いたエプロンを持って立っていた。咲夜は全くの無表情で、逃げれば虫でも潰す様に殺されそうな雰囲気がわだかまっている。
もう抜け出せない。
さらさらと足元が崩れていく様な感覚がした。
妖夢が紅魔館を訪れてみると、本当にメイド喫茶があった。
最近盛況だと咲夜から聞かされていて、興味を抱いてやってきたのだが、本当にあるのか疑っていたので驚いた。
妖夢が店に入ると、いきなり想像と違うものがやってきた。
「いらっしゃいませ。ああ、妖夢か」
何故か香霖堂の店主が咲夜が着ているのと同じ服を着て出迎えてくれた。
そうして訳の分からない事を言った。
「早く帰った方が良い。この店は客を引きずり込む」
「何? 妖夢だと!」
更に店の奥から懐かしい声が聞こえて、嬉しく思うべきはずなのに、それよりもまず先に嫌な想像に寒気が走った。
そうして厨房から咲夜と同じ格好をした妖忌が物凄い形相で駆けてきた。妖夢が目眩に倒れそうになると、妖忌はその肩を掴んで口角に泡を飛ばす。
「いかん、妖夢! 早く帰れ! この店に居ると我我の様に」
「我我の様にどうなってしまうのですか?」
その声が聞こえた瞬間、その場が凍りついた。
妖忌の背後に立った咲夜が笑顔で妖忌の肩に手を置いている。
「ぐ」
妖忌は一瞬恐れた様な顔をしたが、すぐに振り返って咲夜を睨む。
「いかん! そうはいかんぞ! 老いたりと言えども孫の為、貴様なぞ」
その言葉が途切れ、いつの間にか妖忌と霖之助の姿が消えていた。
妖夢が辺りを見回しても二人の姿は影も形も無い。
不思議そうにしている妖夢の前で、咲夜が恭しく頭を下げる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。どうぞこちらへ」
そうして顔をあげると、にっと口の端を釣り上げた。
皆の前に備え付けられたスクリーンに光が灯る。
アリス・マーガトロイド
「アリス・マーガトロイドです。一週間だけですがよろしくお願いします」
アリスという名の男子生徒が簡潔な自己紹介を行うと、女子達が熱狂的な拍手を打ち鳴らした。ホームステイに来たというハーフで、人形の様な容姿。そりゃあ、もてるよなぁと思っていると、アリスは私の横を通りすぎて、教室の後方の席へ歩いて行く。
休み時間になるとアリスの周りに沢山のクラスメイトが集まった。その上、教室の外には別のクラスの者達まで押しかけている。転校生は人当たりも良い様で、集まった人々は大いに盛り上がっていた。
一日アリスを見ていた結果、どうやら勉強も運動も何でも出来る、まさに完璧な人間の様だった。事前情報無しに小テストを受けて満点を取り、体育の授業でサッカーをやってサッカー部と同じ位の活躍をしてみせた。当然女子からは黄色い歓声が飛び、男子からは嫉妬と羨望の視線が刺さる。アリスはそれ等をまるで意識した風もなく、人形の様な整った容姿を崩す事無く、あくまで明るげに爽やかに、完全な一日を過ごしていた。
友達との帰りの話題も、アリスの話で持ちきりだった。
「完璧じゃん、あの転校生」
「ね! 格好良かったぁ」
「天才って奴だよね。どうしたら付き合えるかなぁ」
あんまりにもみんなが手放しで褒めるので、本当にみんなあの転校生の事が好きなのか疑問に思った。
「何? 惚れたの?」
私が尋ねると、皆が一斉に頷いた。
「付き合えたら良いよね」
「正直他の男子と比べたら天と地の差があるじゃん?」
「一週間でしょ? 絶対にそれまでに落とす」
意気込む友達が何だか面白くて冷水を浴びせてみる。
「だったら、まず一緒に帰れば良かったのに」
すると友達は渋い顔をした。
「そうしたかったんだけど、いつの間にか居なくなってたんだよ」
そう言って悔しそうな顔をしている友達を面白く思う反面、やっぱり何だかみんな本当に転校生の事を好きなのか疑わしかった。全員あの容姿、あのスペックに見惚れているだけなのじゃないだろうか。皆のはしゃぎ様はあまりにも転校生の一面ばかりに囚われている様な気がした。まだ一日。誰も転校生の素顔なんか知らないのに。
そんな事を考えながら家へ帰ると、家と一体になった店先に兄の香霖が立っていて、嬉しそうに出迎えてくれた。
「やあ、魔理沙! お帰り!」
「どうしたんだよ。やけに嬉しそうだけど」
「実はね」
香霖が隠し切れない様子でにやにやと笑う。少し気持ち悪い。どうしたんだろうと思っていると、兄がにやにやと言った。
「久しぶりに熱心なお客さんが来ているんだ」
そういう事か。
兄の営む骨董店、香霖堂には基本的に客が来ない。来ても冷やかす様な客ばかりで、物を買っていく客は滅多に居ない。主な収入源は外回りをして古美術品を売る事なので生活の面で不安は無いし、同業者の中ではそれなりに恵まれているのだが、本人の夢はあくまで店の繁盛で、閑古鳥が鳴きっぱなしの店をいつも嘆いていた。それこそたった一人の客が来るだけで浮き足立つ位に。
「良いかい。絶対に粗相をしないでくれよ」
「はいはい」
客に興味なんか無いので適当に答えて、自分の部屋に行こうと店の中に入ると、見覚えのある人間が居た。転校生のアリスだった。アリスは熱心にビスクドールの置かれた棚の前に立って、人形達を眺めている。そのまま通り過ぎるのも薄情な気がして隣に立ったが、アリスは気が付かない様で、人形を眺め続けている。ふと先程の帰り道で友達がアリスの事を天才と評していた事を思い出した。もしかしたら自分にも天才の見ている風景が見えるのかもしれないと、アリスと同じポーズで同じ物を眺めてみる。だがしばらく眺めていても、そこにあるのは人形で特にいつもと違いは無く、天才になれた気はしなかった。
しばらく隣に立っていたのだが、一向にアリスがこちらに気付く気配が無いので、声を掛けてみた。
「人形好きなのか?」
アリスの顔がこちらを向く。
「君は?」
「霧生魔理沙。あんたのクラスメイト」
「ああ、そうなんだ。あまり印象になかったから忘れてた」
アリスが柔からな笑顔を浮かべる。
そこ笑うところか? もしかして馬鹿にされてんのか?
笑顔と言葉のずれに戸惑っていると、アリスはまた人形に視線を戻して動かなくなった。あまり歓迎されていない様だ。
邪魔に思われているらしい。何だか不愉快な気分だし、悲しい気持ちになったが、仕方なくその場を離れて自分の部屋に向かう。住居部分の扉を開けた時、背後から香霖の声が聞こえた。
「人形に興味があるのかい?」
どうやらアリスに香霖が話し始めたらしい。
さっき不愉快になった分、愉快な気分になる。
高校を中退して骨董の世界に入った香霖は、妹の私の目から見てもかなりの変人だった。特に聞いても居ないのに骨董品の説明をしだして、相手の理解なんか埒外でとにかく知識の奔流をぶつける攻撃には大抵の客が逃げていく。意気投合出来るのは、香霖と同じ位に骨董品に詳しい人だけだ。きっとアリスも面食らうに違いない。済ましていたアリスが慌てふためいている様子を想像して愉快な気分で自分の部屋へ向かった。
夜になって夕飯に呼ばれたのでダイニングに行くとそこには香霖と何故かアリスが待っていた。
「何で!」
驚いて香霖に尋ねると、香霖が嬉しそうな表情でご飯をよそいながら答えた。
「すっかりと意気投合してしまってね。聞いたらホテルに泊まるつもりだって言うから、それなら家はどうって。それで泊まる事になったんだ。アリス君は頭が良いみたいだし、魔理沙も勉強を教えてもらったら」
「ホームステイじゃなかったのかよ!」
今度はアリスに尋ねると、既に食べ始めていたアリスは沢庵をつまみ上げながら答えた。
「方便」
「方便って」
「嘘って事」
「何で!」
「ホームステイって言っておかないと色々と面倒事が増えると思ったから。学校への説明とか」
「じゃあ、結局お前は何をしに来たんだよ!」
「ひよこ饅頭を食べに来た」
「ん?」
「ひよこ饅頭を食べたくて」
「それだけ?」
「そう。食べたかった」
意味が分からない。
「ああ、なら明日僕が買ってきてあげるよ」
「いえ。昨日空港で食べたので必要ありません。思ったよりも、美味しくなかったし」
「そうか。残念だ」
「でも形は可愛い」
「ああ、確かに。あ、鳥と言えば」
二人の会話が少しずつ盛り上がっていて、やはり最終的には美術品の話になってついていけなくなった。南宋の陶磁器がどうとか言い始めたところで、私はご飯を食べ終えて自分の部屋に戻った。
そうしてまた机に向かって宿題をやっていると、突然ノックが聞こえて、振り返る間もなくアリスが入ってきた。
「おい、勝手に入るなよ」
「え?」
「え、じゃなくて。勝手に私の部屋に入るなよ」
「日本て個人のスペースが無いんじゃないの?」
どういう勘違いだ?
呆れていると、結局アリスは部屋に入って椅子を持ってきて隣に座る。
「宿泊の条件だから、勉強を教えに来たよ。今宿題やってるんでしょ?」
そう言えば、そんな事を香霖が言っていた気がする。
「要らない。自分で出来るし」
「扉の外まで唸り声が聞こえていたよ」
「う」
アリスがやりかけの宿題を覗きこむ。
「後は微分の計算問題だけ?」
この期に及んで嘘を吐いても仕方が無いので正直に言う。
「良く分からなくて」
はっきり言って、全く分からない。色々人に教えてもらっても一向に理解が出来ていない。多分脳の構造が数学向けじゃないんだろうと思う。だから教わり様も無い、
「そう」
アリスがペンを取って「大丈夫。これ位の問題なら小学生でも解けるから」等と苛立たせる様な事を言いながら、傍のノートにグラフを書き始めた。
「微分を物凄くぞんざいに単純な言い換えをするなら、グラフの接線の傾きを導くんだ。って言うのは、今日の授業でも言ってたでしょ?」
「そうだっけ?」
「言ってた。だから実際にグラフを書いて見るけど」
そうしてアリスはグラフを使いながら説明をしてくれた。一つ目のグラフを書いて説明してくれても全く分からない。二つ目の時もそう。それが三つ四つ、七つ八つ、十を超えた辺りでようやく分かりかけてきて、十五を過ぎるともうほとんど理解出来て、二十を過ぎた頃に宿題の問題を全部自分で解ける様になった。
すらすらと全問解けて何だか数学が得意になったかの様な錯覚に陥いる。
「教えるの上手いんだなぁ」
「全然。こんな対症療法じゃ教えた内に入らないよ」
「対症療法?」
「きっと今のままじゃ応用問題は溶けないし、解ける様になったのは微分だけだから、次のステップに進んだらまた分からなくなるでしょ?」
まあ、そうかも知れない。
「でもとりあえず宿題は出来たんだし」
「本当なら、学問なんだから、系統立てて分かっていかなくちゃいけないのに」
何やらアリスはぶつぶつと文句を言っているが、こっちとしては宿題が解けたので満足だった。
「まあ、とにかく助かった。ありがと!」
「どういたしまして。こんなの教えた内に入らないけど」
「私、頭悪いからこれで十分だよ。昼間には皆に教えてたよな? 凄い評判良かったし、やっぱり教えるの上手いんだよ」
「あれも魔理沙さんのと一緒。テストの為だけの勉強になっちゃったから、僕は不満」
「そうなのか?」
「そう。集合論からやろうって言ったら、反対されて、結局公式の暗記になった」
憤懣やるかたない様子のアリスが何だかおかしかった。天才ってもっと自分の事だけを考えているんだと勝手に思い込んでいたけれど、少なくともアリスは宿題を教えてくれたし、今みたいに他の人の為に憤る事が出来る。最初は一週間家に泊まるだなんてどうしよかと思っていたけれど、天才という言葉から抱いていた印象とは全く違った。優しい心を持っているならこれから一週間仲良くやっていけそうだった。
もっと仲良く慣れたら良いな。
そう考えてもっと話をしようと思った時には、既にアリスが立ち上がって出て行こうとしていた。
「じゃあ、僕部屋に戻るから」
「え? もう少し話でも」
「やる事あるから」
「そんな、ちょっと!」
魔理沙が引きとめようとする前に、アリスはさっさと出て行ってしまう。
「何だよ、あいつ」
呆然としていると、隣の部屋の扉の開く音が聞こえ、後は何かよく分からないけれど作業をしている様な音が聞こえてくる。
何なんだよ。
宿題を教えるという義務を済ませたらさっさと行ってしまった。こちらとは仲良くしたくないという事だろうか。何だか胸の内に寂しさが立ち上って憤りを感じたけれど、だからと言って怒る様な事でもないし、やるせない思いがわだかまるばかりでどうしようもなくなって、ベッドに入って寝た。
やっぱりあいつは冷たい奴かもしれない。そう思った。
翌朝、いつもの様に起きて朝の準備を進めていると内に、アリスがいつまで経っても起きてこない事に気がついた。まだ寝ているのかとアリスの部屋をノックして呼びかけてみたが出てこない。起きてくる様子もない。
どうしたんだろうと不安になった。
もしかしたら部屋の中で倒れているかもしれない。
慌てて香霖を呼びに行くと、香霖がしれっとした顔で言った。
「彼なら随分前に学校へ行ったよ」
「え? でも全然そんな時間じゃ」
「多分その辺を散歩でもしてから行くんじゃない?」
学校へ行ってみると、アリスが机に座っていて、早く来たクラスメイト達と談笑していた。私の家ではずっと澄ました顔で、特に私と喋る時はほとんど笑顔を浮かべなかったのに。
嫌われてるのかなぁと嫌な気分になりながらアリスを見ていると、ほんの一瞬目があった。しかしすぐに逸らされてしまって、やっぱり嫌われているのかもしれないという疑念が強くなり、何だか胸が痛くなった。そんな、嫌われる様な事はしていない筈なのに。
何となく憂鬱な気分のまま学校が始まり、そうしてそのまま何事も無く終わった。アリスはやはり昨日と同じ様に完璧な一日を過ごした様だった。
ところが帰りの段になって、友達の話題が昨日と少し変わっていた。アリスを話題としているのは同じなのだけれど。
「何かアリス君て結構冷たい人だよね」
そんな事を友達の一人が言うと、半分が賛成の声を上げた。
「何か笑ってるけど、心の中じゃ笑ってない感じ」
「結構毒吐よね」
「見下してる感じするわ。話しかけても無視する事あるし、真っ先に帰っちゃうし。意外と私達と関わりたくないと思ってるんじゃない?」
話を聞くと、どうやら上辺だけ取り繕っている様で気に食わないという事だった。
残りの半分がそれを否定したが、とにかくほとんど外見だけしか見ていなかった昨日と比べて、もう少し内面に踏み込んだ今日、転校生に対する周囲の評判は下向きになった様だ。たった一日で評価が激変しているのが何だか納得行かなくて、他人の事なのに何となく悲しくなった。それに口口に悪口を言っているのを聞いているのは、何だか嫌な気分だ。
家に帰ると、隣の部屋から何か作業のする音が聞こえていた。
昨日と同じ様に夕飯時はアリスと香霖が古美術話に華を咲かせる。食べ終えて部屋に戻ると、やがてアリスが部屋にやってきて、また宿題を教えてもらう。今日は理科と社会の宿題で、丁寧な説明で分かりやすい。その丁寧な教えぶりを見ていると、やっぱり嫌われている様には思えない。なので宿題を終えた後、今日こそ何か話をしようとすると、やっぱりアリスは席を立って自室に戻ろうとした。
何だか悔しくて、それに今日の帰りに友達の言っていた事を思い出して、思わず呼び止めていた。
「なあ、ちょっと良いか?」
「何?」
アリスが振り返って不思議そうな顔をする。
「いや、なんていうか、お節介かもしれないけど、そういう態度は気を付けた方が良いと思うぜ」
「そういう態度?」
「何ていうか、人と関わりたくないって態度をあからさまにするの」
「してた?」
「って、私は感じたし、クラスの皆も思ってると思う」
はっきり言ってしまってから、あんまりにも酷い言い草だったかなと後悔したがもう遅い。また嫌われそうだなと思っていると、アリスは何だか納得した様な顔をしていた。
「そうか。やっぱりバレてたんだ」
「バレてた? やっぱり人と関わりたくないって思ってんのか? 私達の事嫌いなのか?」
「思ってはないよ。だけどそういう風に見られる様な態度をしているらしいんだよね。昔それを指摘された事があったから、何とか取り繕おうと色々試してたんだけど。やっぱり今回も駄目だったみたいだね」
アリスは人の心って難しいなぁとぼやきながら出て行ってしまった。
私はあっけにとられて暫く動けずに居た。自分が馬鹿だからなのか、アリスの言っていた事が良く分からなかった。
翌日はアリスに会う為、いつもよりずっと早く起きた。何だか喧嘩みたいになってしまって、もしかしたら余計なお節介の所為で嫌な気分にさせてしまった気がして、それを謝りたかった。
そう思って、下に降りると、香霖が暢気にコーヒーを飲んでいた。辺りを見回したがまだアリスの姿は見えない。
香霖が目ざとく私の視線に気がついて言った。
「残念だったね。アリス君ならついさっき学校へ行ったよ」
「もう? だってまだまだ全然時間があるのに」
「どうしてかは分からないけど」
「そうか」
残念に思っていると、香霖が笑った。
「一緒に登校したかったのかい? 残念だったね」
「そんなんじゃねえよ」
ぶっきらぼうに答えて部屋に戻り、寝直してから、いつもの時間に登校した。
昨日アリスがクラスの評判を落としている事を聞いてしまっていただけに、気になってアリスを眺めていたが、やっぱり昨日や一昨日と変わらず、爽やかに笑いながらクラスメイト達と接しているし、昨日悪口を言っていた私の友達もにこやかにアリスと接していた。何だか気持ちが悪かった。
ところが、最後の授業の体育の時間に事件が起こった。
女子は体育館で、男子は校庭でそれぞれの授業を受ける事になっていて、私は体育館でバレーをしていた。教師は男子のサッカーを見ているので、女子は全員適当にやっていた。私も疲れた頃に一息つく為、外に出て、サッカーをやっている男子を眺めてみると、何か言い争いをしている様で、その内の一人がアリスの様だった。私の他にもそれを見つけた女子が何人か居て、その内の一人が体育館の中へ戻って喧伝し、やがて皆が噂で持ちきりになって授業にならなくなり、結局皆で校庭へと出て行った。
行ってみると言い争いをしているのは、アリスとある男子の様で、教師もどうしたら良いのか分からずに困り切っていた。
「じゃあ、やっぱりお前手を抜いてたのかよ!」
そんな怒鳴り声に、アリスが澄ました顔で答える。
「そうだよ。だって差がありすぎると、楽しくないでしょ?」
その瞬間、言い合いをしていた男子がアリスに殴りかかった。アリスは咄嗟にそれを避けて、男子の拳が空を切る。すかされた男子は気まずそうにしていたが、やがて周りを扇動する様に声を上げた。
「そんなに強いなら一人でやりゃあいいじゃねえか。一対十一でさ。そうすりゃ本気でやれんだろ!」
そう言って、男子はボールをコートの中央に置いた。アリスの側のメンバーが全員コートの外に出て、本当に一対十一でやるつもりの様だ。それを見て、何だか私の胸に苛立ちが宿った。
更にそれを眺める観衆が密やかに話し合っていて、中にはアリスを責める様な声も聞こえる。「でも、実際アリス君て結構調子に乗ってたしね」という言葉が聞こえてきた時に、苛立ちが頂点に達して、私は思わず前に進み出ていた。
「ちょっと魔理沙。何する気?」
止めてくる友達の手を払って、コートの傍まで行って、思いっきり叫ぶ。
「お前等馬鹿じゃねえの!」
途端に全員の動きが止まって、私に視線が集まった。
「そんなの勝てる訳無いだろ! ただのいじめじゃん!」
「女子には関係ねえだろ!」
怒鳴られたので、怒鳴り返す。
「見てて気分悪いんだよ! 男子だ女子だ言うんなら、卑怯な事してないで男らしくしろよ!」
怒鳴り返されてたじろいだ男子を見て鼻を鳴らしてから、今度はアリスを見る。
「お前も! 手を抜くとかそういう事すんな! 本気でやれ!」
「でも力の差があると」
「そういう気遣いが迷惑だし、鬱陶しいんだよ! 人に合わせるのは良いけど、それは時と場合を考えて、相手を馬鹿にしていると思われない様にしなくちゃいけないの! 分かった?」
「ごめん、分からない」
「分かれ!」
そうして今度は他の男子達に目をやる。あからさまに何人かがひるんでいた。
「それから今チームを抜けた男子全員! さっさと戻れ! そんでちゃんと試合しろ!」
慌てて元のチームに戻り、十一対十一になる。
「じゃあ、ちゃんと正正堂堂と全力でやる! ほら、始め!」
初めの内は皆戸惑っていた様にしていたが、誰かがボールを蹴って試合を始め、それからは一気に白熱した。アリスには複数人がマークしていて上手く動けない様だが、気がつくと必要な場所に必要なタイミングで居て、上手くゲームを運んでいる。段々とお互いむきになっていって、最後にはポジションも何も無い完全な泥仕合となり、結局、十五分間で二対一と、それなりに拮抗した勝負でアリス側のチームが勝った。
全力でぶつかりあった所為か、全員試合が終わった瞬間その場に倒れこむ。
そこでようやく我に返ったらしき教師が女子に対して体育館に戻る様命令しだした。体育館へ戻る途中振り返ってみると、言い争いをしていた男子がアリスの傍へ寄って何事か喋っていた。遠目ではあったけれど、少なくとも剣呑な雰囲気には見えなかった。
帰り際に友達の話を聞いていると、アリスの人気は回復した様で、今日のサッカーの試合を皆絶賛していた。だが途中で私の話題になり、どうしてあんな庇う様な事をしたんだ、実は好きなんだろうと決めつけてくる事に辟易した。
家へ帰っていつもの如く夕飯を食べて二人の美術談義を聞き流し、部屋に戻るとやがてアリスがやってきた。そうしていつもの様に宿題を教えてもらう。その間ずっと、アリスが今日の事を何か言ってくるんじゃないかと怖かった。怒鳴ってしまったし、アリスからしてみればお節介だろうし、きっと鬱陶しく思われているだろうから。けれどアリスはやっぱり澄ました顔で、いつもの様子と変わらない。それはそれで反応が無い事が怖くて怯えている内に宿題が終わって、宿題が終われば、アリスは部屋に戻るだろうとほっとしていたら、アリスはその場に残ったままじっと私の事を見つめてくる。途端に恐ろしさがまた湧いた。
「何? 部屋に戻らないのか?」
「ちょっと話がしたくて。今日の体育の授業の事なんだけど」
やっぱりか。責め立てられる事を覚悟して手を握り締め、アリスを見つめ返す。
ところが、アリスは柔らかに笑った。
「ありがとう」
「え?」
「いつもだったら、あれで嫌われてお終いなんだけど、君のお陰で最後まで関係が保てた。これは快挙だよ。始めてだ。君のお陰」
アリスの言っている事がやっぱり良く分からない。
「僕は嫌われ者だから、行く先行く先でみんなに嫌われてきた。どうにかしようと思ってもどうしようもなくて、ほとんど諦めてた。でも君のお陰で何だか希望が見えた気がする。まだどうすれば良いのか解析は出来ていないんだけど」
「嫌われ者って、お前が? 冗談だろ?」
人形みたいに綺麗で頭が良くて運動も出来て何でも知っていて人当たりも良くて、悪いところなんか見つからない。それが嫌われてきたなんて思えない。
「本当だよ。君が昨日言った通り、他人に興味が無いのが透けてるんじゃないかな? 多分ね。ちゃんと笑顔で明るくしてるんだけど、どうしてだかは分からないけど、駄目らしい。今の僕にはまだ人付き合いが出来ないんだ。そもそも僕は何も出来ないから」
「何も出来ないって、それこそ冗談だろ。勉強だってスポーツだって何だって出来るじゃん。美術品とかだって詳しいし。香霖と話が合う奴なんてほとんど居ないぜ? それなのに何も出来ないなんて。私から見れば天才だよ」
「そんな事無いよ。勉強はパチュリーの足元にも及ばないし、運動は美鈴に絶対叶わないし、人形作りだって父さんみたいに上手く出来ない。僕は人って何かを成す為に生まれてきたと思うんだ。だからきっとみんな何か他の人より秀でた部分があるんだと思う。でも僕にはそれが無い。勉強だって運動だって他にもっと得意な人が居る。だからきっと僕だけが駄目なんだ。良く言われるんだ。僕は他と違っておかしいって」
「何言ってんだよ。じゃあ世の中の人間が全員天才だっていうのか?」
「僕以外は」
「じゃあ、私は? 少なくとも、私は何にも無いぜ?」
「そんな事無いよ。君は天才だ」
「何処が」
「だって、今まで僕と人との関係を修復出来たのは君だけだから。今までずっと、一度嫌われたらもう何をしたって二度と輪には入り直せなかった。ずっと仲が良い友達は居るよ。さっき言ったパチュリーや美鈴がそう。でも彼等に手伝ってもらっても、一度壊れた他の人との関係は修復出来なかった。だから君だけなんだ。僕と他人との架け橋になってくれたのは。だから僕は君が天才だと思う」
何だか頭が混乱していた。褒められている様で嬉しい気持ちがあるけれど、それだけじゃ沢山の感情が渦巻いていて、上手くまとめ切れない。ただアリスの言葉を聞いていて一つどうしても納得出来ない部分があった。アリスは勘違いをしていて、その所為で自信を失っている様だった。せめてそれだけは正してあげたい。
「お前は自分に才能が無いって言ってたけど、その理由が今他に自分より凄い人が居るからだって言ってたけど、でも才能ってそんなものじゃないと思うぜ」
「何が違うの?」
「才能って育てていけるもんだろ。今勝てなくたっていつか勝てる様になるかもしれないじゃん」
「うん」
「うんって」
「僕もそう思うよ。だからさっき言ったでしょ? 今の僕にはまだって。勿論才能は芽吹かせるものだっていうのはわかってるよ。そうじゃなくちゃ、赤ちゃんの頃から一定の能力を持ち続けているって事になっちゃう」
そう言ってくすくすと笑った。私には何が面白いのか分からかない。笑われたのかも知れない。とにかく、どうやらまた余計なお節介だったらしい。
「分かってるんなら良いよ。悪かったな。わかってる事をわざわざ指摘して」
「ううん、でも僕はそれを知っていたのに、忘れていたのかも知れない」
「忘れてた?」
「何だか勝てないってずっと思い込んでた。未来はわからないのに。ありがとう、何だか君には色々気付かされる。話していて楽しいよ」
そう言ってアリスが微笑んだ。
私の感情が更にぐちゃぐちゃになって、良く分からなくなった。アリスの言いたい事も、アリスの考えている事も全く分からない。何もかもが分からなくてひたすら混乱する。ただ微笑んだアリスが綺麗だという事だけは強烈に焼き付いて。
気がつくと、アリスの姿は消えていて、隣の部屋から何か作業をする音が聞こえていた。その音が今日はとても気になった。アリスが何をしているのか。どうしても知りたくて仕方が無い。
何をしているんだろうと隣の部屋に行ってみると、電灯の明かりの下でアリスは机に着いて、私が入ってきた事にも気が付かないほど熱心に何か取り組んでいた。後ろにたってアリスの手元をみてみると、どうやらそれは人形の部品のなりかけの様だった。頭や手や足をアリスは丹念にヤスリで削っている。
「そう言えば、さっき言ってたな」
私が言葉を漏らすと、アリスが慌てて振り返る。その驚いた顔が何だかおかしかった。
「人形作ってるんだ?」
「世界一の人形師になりたかったんだ」
「なりたかった?」
「どうしても父さんを越えられない。僕には才能が無いんだ」
「で、諦めたのか?」
「諦めてた」
「てた?」
「さっき君と話していて、思い直した。諦めてちゃ駄目なんだって」
アリスがまた作業に入りだす。その顔は無表情だけれど、何だか嬉しそうに見えた。
「この人形、きっと良い物が作れると思う。それを君にプレゼントしちゃ駄目かな?」
「え? くれるのか?」
「うん、貰ってくれる?」
「勿論。むしろ良いのかよ。私なんかに」
「勿論。君だから貰って欲しい」
何だか気恥ずかしい。特別だと言われている様で。勿論、そこまで深い意味は無いんだろうけれど。
「僕は明日帰るから手渡せないけど、出来たら送るから」
「おお、ありがとな」
と、アリスの言った事がひっかかる。
「明日帰る?」
「うん」
「そんな。でも一週間は居るって」
「僕の目的はひよこ饅頭を食べる事だったし、久しぶりに日本に帰って来れて楽しかったし、もう十分だったから」
「でも」
「今はちょっと公開してる、君ともう少し話をしたいから。でももう航空券を発券しちゃったからね」
「そんな!」
アリスは人形の部品にヤスリを掛け終えると、片付け始めた。
「さて、じゃあ、明日も早いからもう寝るよ。君も明日学校だろう。早く寝たほうが良い」
「明日学校来ないのか?」
「朝の十時の便だからね」
そう言って、アリスは片付けを終えて、布団に入った。
「それじゃあ、お休み。あ、電気は消さないで」
そう言って、寝始めてしまったので、私は呆然としたまま部屋を出た。
これでお別れ?
折角仲良く慣れたのに、こんなあっさりと?
もっと色々話したかったのに。アリスだってそう言っていたのに。
それなのにもうお終い?
急に悲しみが湧いてきて、今すぐにでも部屋に戻ってアリスを叩き起こし、もっともっと話をしたくなった。けれどそれをすればきっとアリスに悪い印象を与える。最後の最後をそんな風にはしたくなかった。
自分の部屋に戻ろうとしてふと疑問に思った。
アリスは本当にもっと自分と話をしたかったのかと。
明日が別れなのに、あっさりと眠ってしまって、本当にもっと話したかったのか。アリスは前に言っていた。取り繕おうと色々試していると。さっきの言葉も全部その取り繕いに過ぎなかったのでは無いか。
「なあ、アリス」
聞こえない位小さい声で扉越しにアリスへ語りかける。
「私、あんたの言葉が信じられないよ。明日お別れなのにさっさと眠って」
何だか涙が流れてきた。
「本当に私ともっと話がしたかったのかよ。どうしても私、信じられないよ。こんなあっさり」
何言ってるんだろう私。聞こえない事を良い事に不満を言って。
惨めだった。八つ当たりみたいな真似をして。何だか頭の中が振り子の様に振り回されている様な不快感があった。それは寝付くまで、アリスの声と一緒にずっと纏わりついていた。
次の日、いつもより大分早く起きた私は、さっさと用意を済ませて、家を出た。そうして目的地に着いて、椅子に座る。
空港の椅子に座って三十分、念の為に手紙を書きながら待っていると、往来する人々の中にアリスの姿を見つけた。
「アリス!」
駆け寄って声を掛けるとアリスが驚いた顔をした。
「どうしたの? 学校は?」
「今日は休み。特別な日だから」
「そうだったの」
「そうなったんだよ」
「そうなんだ」
アリスは納得した様子でカウンターへ向かう。素っ気無い。やはり、向こうは何とも思っていないのかもしれない。そう思うと、これから言おうとしている事がとても恥ずかしい事の様に思えた。
荷物を預け搭乗券を貰って来たアリスが戻ってくる。
「お見送りありがとう」
そう言って、笑ったアリスの笑顔は何だか作り物みたいに見えた。そんな笑顔を見せられると、言おうとしていた言葉を言う事は出来ない。
「これ」
だから書いておいた手紙を渡した。
「これは?」
「手紙」
アリスが開けようとするので慌てて止める。
「駄目。飛行機の中で読んで」
「飛行機の中じゃないと駄目なの?」
「駄目。飛行機の中で読んで、それでもしも……もしも……もしも、良かったら連絡先を教えてよ」
「連絡先? 良いよ」
そう言って、スマートフォンを取り出してきたので、面食らった。
「え?」
「連絡先って電話番号とかメールアドレスとかフェイスブックのアカウントとかそういうのじゃないの? なら今すぐ教えられるけど」
「良いのか?」
「良いけど? 何で駄目なの?」
「いや。まあ、良いなら良いんだけど」
連絡先を交換し終えると、アリスは澄ました顔でさっさと搭乗口へ言ってしまった。名残惜しさなんて微塵も感じさせない姿だった。最後の最後まで素っ気無い別れになった。
最後まで分からない奴だったなぁと思いながら帰路に着く。勝手に学校を休んだから怒られるだろう。書き置きはしてきたけれど、あの香霖がそれを見て納得し学校に嘘を吐いて休む事を伝えてくれる確率は、半々位だ。
「まあ、良いか。それより大切な事があったんだから」
電話帳にはしっかりとアリスの連絡先が載っている。交換した時に試しに電話を掛けてみたので間違いなく本物だ。離れ離れになってしまったけれど、少なくとも小さな糸で繋がっている。
それを思うと安心する反面、物凄い後悔が湧いてきた。
こんな簡単に連絡先が貰えるのなら、手紙にあんな事書くんじゃなかった。
飛行機に乗ったアリスは早速手紙を開けて読み始めた。
それは、三日間という短い時間だったけれど楽しかった事、褒めてくれた事が嬉しかった事、アリスの性格の欠点等等、この三日間での出来事を軸に自分のアリスに対する思いを素直に書いた手紙だった。
そうして手紙の最後はこう締めくくられていた。
『あなたがどう思っているのか分からないし、もしかしたら私の事なんて嫌いなのかもしれないけれど、私は、きっとあなた事を好きになりかけているんだと思います。だからもっともっと話をしてあなたの事を知って、好きになれたらと思っています。だから、もし良かったら、うっとうしくなかったら、あなたが私の事を嫌いじゃないのなら、最後に私の連絡先を載せるので後で連絡をください。そうしてまた話をしてください。連絡を待っています』
読み終えた瞬間、アリスは急いでスマートフォンを取り出したが、丁度機内での通信機器の使用を禁止する合図があった為、仕方なく電源を消してポケットにしまった。
そうしてもう一度手紙を読み直して、涙を流しながら呟いた。
「嫌いじゃないよ。もっともっと話がしたかったよ」
向こうに着いたらすぐに連絡しようと心に決めて涙を拭う。
「本当だよ」
「アリス! アリス!」
場内にアリスコールが湧いて、アリスが気恥ずかしそうに顔を赤らめた。
その隣に座る魔理沙は苦笑する。
「アリスは人気だなぁ」
するとアリスコールに合わせて、魔理沙コールも始まった。
「魔理沙! 魔理沙!」
魔理沙もアリスと同じ様に顔を赤くすると、隣の霊夢が魔理沙の肩を叩いた。
「私、あんたの友達としてアリスとの仲を応援するからね」
そんな気色悪い冗談を言ったので、魔理沙とアリスが霊夢の頭をぶっ叩いた。
チルノ
チルノという馬鹿と私リグルの関係を簡潔に表せば、家が隣同士の幼馴染の喧嘩仲間で馬鹿友達といったところ。チルノという男子はとにかく勉強が出来ず、いつもふざけてばかりの馬鹿野郎で、良く私の事をからかっては笑っている。無視をしておけば良いのにそれに反論するのが私の馬鹿たる所以で、お互いが稚拙な罵り合いになり、時には手が出て取っ組み合いになる。最近力で勝てなくなってきたなと思う時もあるにはあるが、馬鹿にしてくるチルノに苛立って、喧嘩を止めて無視するという選択が出来ない。
その日も些細な事で喧嘩となり、チルノの背中を蹴りつけた後は逃げに逃げ、ホームルームまで逃げ切って私の勝ちになった。悔しがって喚いているチルノに優越感を覚えて席に座ると、ホームルームが始まって、そこで出た話題に私の気分は更に高揚した。というのも明日は遠足の日で、みんなで山へピクニックに行く。一週間前に決まってからずっと楽しみにしていたので、それが明日かと思うと、もうそれだけで嬉しくてしょうがなくなった。
ホームルームが終わり帰ろうとすると、突然チルノが声を掛けてきた。
「おい、ブス!」
喧嘩の続きかと、私が身構えると、チルノが笑った。
「あー、振り返ったって事は、自分がブスってわかってるんだな、このブス」
うぜぇ。
「お前、ブスだし、男みたいだからきっと一生結婚出来ないんだろうな。可哀想ぉ」
「あんたよりは可能性高いけどね。だってあんた馬鹿でしょ? 女の子って馬鹿は嫌いだし」
といつもの通り、喧嘩をしながら家に帰ると別れ際に、チルノが言った。
「あ、そうだ、ブス」
「何よ、馬鹿」
「明日のピクニック、どっちが速いか競争だからな!」
「速いか?」
「そう! 俺、死んでも一番に頂上上るから」
「それを叩き潰せば良い訳ね。何賭ける?」
「お弁当の何か一つ」
「うん。私、サンドイッチが食べたいから。おばさんにお願いしといて」
「じゃあ、俺ハンバーグが良いから、よろしく」
「別に私の方は勝つんだから何だって良いじゃん」
「おい! 絶対駄目だからな! 絶対ハンバーグ! 母ちゃんにはサンドイッチ頼んどくから!」
「はいはい。じゃあね」
「おう、また明日な」
私は家に入るなり、お母さんにハンバーグをお願いすると、そんな材料用意していないと言われて、買い出しに行かされた。近所のスーパーに行ってみると、同じく買い物に駆り出されたらしいチルノが食パンだとかハムだとかを買っていたので、何か気恥ずかしく、私は顔を合わせない様に買い物を済ませて家に帰った。興奮して夜は中中寝付けなかった。
翌日、ピクニックの日だという嬉しさに急いで起きて、朝の用意を済ませていると何だか体調が悪い事に気がついた。頭が重くて体がだるい。風邪を引いたみたいだったが、親には何も言わなかった。折角楽しみにしていたピクニックにただの風邪なんかで行けなくなるなんて嫌だ。それに万が一休めばきっとあの馬鹿が勝ち誇った顔をしてくるに違いない。そんなの我慢出来ない。
体調が悪いのを我慢しながら家を出ると、丁度チルノも家を出たところで晴れやかな笑顔を浮かべてやってきた。
「よう、ブス! 楽しみだな!」
「おはよう。馬鹿は朝から元気だね」
底抜けに明るいチルノの笑顔がいつもの何倍も鬱陶しくて、お腹が痛くなってきた。
「何だ、体調悪いのか?」
「ちょっとね」
「そうか! じゃあ、ピクニックの事もっと考えろよ! そうしたら風邪だって吹き飛ぶから!」
別に心配してもらいたかった訳ではないけれど、ここまで考えなしな事を言われると、酷い苛立ちがやってきて、途端にまたお腹に痛みがやってきた。
「じゃあ、俺友達と約束してるから」
そう言って、勝手な事を言うだけ言ってチルノは学校へ向かって駆けて行った。私も重い体を引きずって学校へ向かった。
学校で点呼を取った後は皆でバスに乗った。そんなに遠い山では無いけれど、それでも三十分は掛かる道程で、道中私は車酔いに襲われてへたり込み、そこへ暴れるかの如きはしゃぎっぷりをしていたチルノが絡んできて心底うざかった。
山へ着いてもう一度点呼を取った後は、自由行動で思い思いに頂上を目指す事になった。早速チルノと一部の男子はペース配分なんて頭の隅にも無い様な走り方で山を登っていった。私は友達に心配されながら後ろの方を歩く。途中登るのを諦めたらどうかと友達に言われたけれど、ずっと楽しみにしていたピクニックを棄権するなんて嫌だったので、何とか無理矢理登って行く。だがやはり歩みは芳しくなくて、どうやら頂上早上がり対決の軍配はチルノに上がりそうだった。悔しかったが、正直それどころではない体調だ。
山はそれなりの高さで、私の周りに居た友達も段々他人を気遣う余裕が無くなって、山の中腹頃になるといつの間にか私は独りになっていた。その頃にはもうお腹の痛みが我慢出来ない程になって、段々私の足取りは鈍り、やがては一歩も歩けなくなってその場にへたり込んだ。
何だか普通の風邪ではない。
一体どうしたんだろう俯いていると、地面に血が滲んでいるのに気がついた。
慌ててその場を飛び退くと、やはり小さな血だまりが出来ている。まさかと思って、自分の下半身を見ると股の辺りから衣服に血が滲んでいた。
生理になってる。
一瞬訳がわからなくなって、頭が真っ白になり、それから一気に恥ずかしさと、不安が襲ってきた。もう周りに友達が居ない。先生の姿も無い。それなのに独り取り残されて後にも先にも行けないのにどうしようという不安と、後々戻ってくるであろうみんなに今の自分の姿を見られたらどうしようという不安と恥ずかしさ。それに下山の時にも自由行動だとすれば、きっとまず真っ先に来るのはチルノを始めとした男子だろう、あいつ等に見られる事を考えると死にたくなった。
どうすれば良いのか訳が分からなくなって、頭がぐちゃぐちゃで喉に悲しみがせり上がってくる。思わず嗚咽が漏れそうになった時、頭上から声が響いた。
「おい、大丈夫か?」
慌てて見上げるとチルノが心配そうな顔をしていた。
思わず心臓が飛び出るかと思った。
「そんなに風邪酷いのかよ」
「いや、違」
ふとチルノの視線が地面の一点を見つめ、それから驚いた様子で私の体を見回して、そうして下腹部の辺りで止まった。
「怪我してんのか!」
そう言って、チルノが私の腕を掴んできたので私は思わず振り払った。それにもひるまず、チルノはしゃがみ込んで私を見つめてくる。
「消毒とか無いけど、傷洗って止血とかするから」
そう言って近付いて来るので、私は思わずチルノの頬を張った。
「だから違うって! 怪我してないの!」
「じゃあ、その血は」
言い返そうとしたチルノの言葉が止まった。それから「あ」という声が漏れた。生理だという事に気がついたのだろう。馬鹿なのにどうして気がつくのか。死にたくなった。こらえきれずに涙が溢れてくる。
するとチルノが言った。
「とにかくその体調じゃもう山登るのは無理だろ」
チルノの優しげな声に顔をあげると、チルノが真剣な表情で見つめ返してくる。
「下まで運んでくから。確か休憩所みたいなところがあって、保健室みたいなところがあった筈」
運ぶって何だと思った瞬間、私の太ももと背中をチルノの両手が支えて一気に持ち上げられた。自分がお姫様抱っこをされている事に気が付いて、血の気が引く。自分の血がチルノの腕に付いてしまう。
「ちょっ、やだ!」
「だって歩けないだろ?」
「でも汚いよ! 私生理で、血が出てるのに。汚れちゃう」
「別に汚くないし。この程度で汚れるとか、俺を舐めんなよ」
良く分からない事を言って、チルノが私を抱えながら歩き出した。今も血で汚れていっているのに、チルノは嫌そうな顔もせずに運んでくれる。それが申し訳なくて、そして嬉しかった。
「何か、ごめんね。迷惑掛けて」
「別に迷惑じゃないし」
「折角のピクニックなのに。それに勝負も、チルノ一番に頂上登るって言ってたのに」
思い出して悲しくなる。死んでも一番になると言っていたのに、私の所為でそれが出来なくなってしまった。
「ホントにごめん。私が生理にならなければ」
「生理になるのは子供生む為の準備だって母ちゃんが言ってた。じゃあ悪い事じゃないじゃん。女の子なんだから仕方ないんだし。謝んなよ」
「でも、頂上に一番で」
「そんな事より大事だろ、これ。だって、えーっと、あ、そうだ、だって、俺今赤ちゃん作るの手伝ってるんだろ? なら誇らしい事じゃん」
思わず吹き出しそうになった。
発言はどうかと思うけれど、でもとにかくチルノが私の事を励まそうとしてくれている事だけは伝わってくる。いつもと違うチルノの真剣な表情が近くにある。何だか顔が熱くなった。目眩もやって来る。どうやら今回の生理はとりわけ酷いみたいだった。
「チルノ」
「何だよ」
ごめん、と言いかけて、慌てて言い直す。
「ありがとう」
「別に」
そう言ってチルノがそっぽを向いたので、何だかそれがおかしくて笑った。笑うとお腹に来て、思わず呻く。
「おい、辛いなら黙ってろって。ちゃんと運んでやるから」
「うん」
口を閉ざすと、後はチルノが地面を踏みしめる音だけ。目を閉じると、森に香りと私とチルノの汗の匂い。チルノに抱き上げられた安心感に、お腹の痛みを忘れて微睡むような心地を覚えた。ずっとこのまま下に辿り着けなければ良いのに。そんな事を思ってしまう位に心地よい時間だった。
それからしばらくして、山の下に辿り着く事無く、チルノの体力が先に尽きて、山道の途中で二人して休む事になった。チルノは下まで運べなかった事を謝ってくれたけれど、引率の先生が見つけにくるまでの間、普段と違ってチルノが優しくしてくれたので、私は二人きりの時間がただただ嬉しかった。
「チルノちゃん格好良い!」
「でしょ! あたい格好良かったでしょ!」
はしゃぎあっている妖精達の隣で、リグルが頭を抱えている。
「どうしたの?」
リグルの様子に気がついたルーミアに尋ねられたので、リグルが弱々しく答える。
「いや、スクリーンで見ると恥ずかしいなって」
「そんな事無いよ!」
傍からチルノが大声を上げた。
「そうそうリグルちゃん可愛い!」
続いて妖精達が歓声を上げたので、リグルは顔を真赤にして恥ずかしそうに顔を俯けた。
八雲紫
最近妖怪のリーダーが家にやって来る。名を八雲紫と言って、澄み透った容姿に荒々しい笑顔を浮かべ、誠実から程遠い言動を吐いては大笑する。大勢の妖怪達を力で纏めたのだから実力について疑う余地は無いものの、彼の言動が少々子供じみているのを聞くに賢しいリーダーとは思えない。
やって来る時はいつも幾人かの手下を引き連れていて、白玉楼を明け渡せと迫ってくる。理由を様々に並べ立て、上辺だけ聞けばそれは妖怪や人間双方にとって実りある未来を作る為なのだが、その底には白玉楼を所有すれば自慢出来るからただ欲しいという願望が沈殿していて透けて見える。あっさりと見破れる嘘しか吐けないのは彼が未だ正心を喪って居ないからだろう。白玉楼を守らんと目の敵にする御庭番の妖忌に比べ、私はそこまで彼の事を悪い様に思っていない。
今日もまた外から私を呼ぶ妖怪達の声が聞こえる。妖忌には出てはならないと戒められたが、私はそれを拒否した。拒否した途端凄い眼で睨まれる。外見上は同い年でその上痩躯なのに、妖忌の睨みは妙に怖い。妖怪達なんかよりもずっと。多分背が高いのと、目つきが悪い所為だろうと思うけど、とにかく未だに真っ向からは対抗出来ない。だからそっぽを向いて抵抗する。そうしているとやがて妖忌が諦めるのはいつもの事で、今回も結局妖忌は無茶はしない様にと言いつつ折れてくれて、私はあの妖怪と会える事に幾分高揚した気持ちで外へ出た。案の定門前には紫が居て、彼の式と手下を連れていた。そうしていつもと同じ挨拶をいつもと同じ様に諸手を広げて言った。
「これは西行寺のお嬢様、お会い出来て光栄です」
「こんにちは、紫さん。こちらこそお会い出来て光栄なのだけれど、少し挨拶に工夫を凝らしてはどうかしら? 毎度同じ挨拶じゃ飽きが来るわ」
後ろに引き連れた紫の手下達がけたたましく気炎を上げ始めた。だが決して紫の前へは出ようとしない。あくまで庇護者の後ろから喚いている。
「ああ、次回までに考えておくよ」
「それも、五回目ですよ」
「失礼、次回には必ず」
青筋を立てた紫だがすぐさま笑顔になると、辺りを見回して言った。
「それで、もう分かっているだろう? 好い加減飽きが来たというのなら、こちらの言いたい事は言わなくても分かる。つまり、俺とあんたは」
「以心伝心」
「そう。そういう深い仲な訳だ。どうだいお互い心の通じ合ったよしみで、この辺りを俺にくれないか?」
「お断り」
「そうかい、藍」
紫が手を挙げると、傍らから彼の式が飛び出してきた。見た事の無い新顔で、背に尻尾が九つあるのを見るに、伝説に聞く九尾之狐かもしれない。
「妖忌」
私が呟くと、背後に居た御庭番の妖忌が駈け出した。妖忌は風の様に九尾之狐へと駆けて、何かしようとした狐の頭上に刀を振り下ろす。狐はそれを両手で以って受け止め、妖忌も抑えつける様に力を込めて、二人が拮抗する。その脇を紫が笑みを浮かべて通り過ぎる。妖忌は慌てて紫を捕らえようとしたが、紫の式がさせじと妖忌へ攻撃して、また妖忌と式の二人は硬直状態に陥った為に、紫は悠々と私の下へ歩んできた。
目の前に立った紫が私の頬へ手を沿わす。
「さて二人っきりになれたな」
「ええ。そうね。それで、一体どんな甘い言葉を?」
紫は一瞬面食らった様な顔をしてそれから大いに笑い出した。一頻り笑い上げると、未だ笑みの残る顔を私の顔へ近づけてくる。
「そうだな。まああんたの事を気に入っちゃいるよ。良い女だ。だからこそ、こうして話し合いで解決しようとしているんだ。力尽くじゃなく」
「そう。ならこうして話し合っているのだし、そろそろ白玉楼は諦めるという形で解決しない」
「それは嫌だね。欲しいから」
「世の中欲しくても手に入らない物ってあると思うけど」
「そうか? 少なくとも俺は全部手に入れて来たぜ」
「酒も女も名誉も?」
「後、富とか食い物とかそういうのも」
「でも残念ながらこの白玉楼だけは手に入らないわ」
「それはどうかな?」
紫が肩をすくめ息を吐いたかと思うと突然顔を思いっきり近づけてきたので、私は避けて突き飛ばす。すると紫は馬鹿笑いしながら何歩か後ろに退がった。
「ようく考えておいてくれ。次回には回答を聞こう。明け渡すか、あるいは引き渡すか」
「渡さないと言ったら力尽くで来るの?」
「いいや、もっと良く話しあおう」
「なら次はお茶を用意しておくわ。それとあなたの方こそ次回までにまともな挨拶を考えておいてよ」
「ああ、そうだな。月の王として相応しい挨拶を考えてこよう」
不思議な事を言い残して、紫は背を向けた。
「おい、手前等! 今日のところは帰るぞ! 藍! いつまでじゃれているんだ」
紫は瞬く間に部下達をまとめて跡を残さず帰っていった。妖忌は慌てて私の身の安否を確かめたかと思うと、やっぱり危なかったじゃないかと叱りつけてきた。私はそれを聞き流して、また次に会える日を楽しみに思った。
ところが、その日を境に毎日来ていた紫が来なくなった。
何か妖怪達が大事を起こそうとしているとは聞いた。妖忌はその大事を心配するものの、紫達が来なくなった事は分かり易い位に分り易く喜んでいた。私は妖怪達の起こそうとする何かはどうでも良かったけれど、紫と会えない日々が何だか寂しくて心が晴れなかった。
それから十数日経っても現れず、紫達は月へ行ったという噂だけが聞こえてきた。
部屋の窓から空を見上げてみるが、生憎と大雨で月は隠れている。もしかしたらもう二度と戻ってこないんじゃないかという不安が胸を締め付けてくる。雨は深夜になっても止まず、就寝しようとする時にもまだ降っていた。床に入り、目を閉じると暗闇の中で、雨の降る音、屋根に当たる音、雨樋から塊となって流れ落ちる音が折り重なって聞き分けられない程真っ白な雨の重奏の中に、ふと違和が聞こえた。それはほんの微かな音だったが何か雨でないものが混じっていた様な気がして身を起こす。
するとその違和が再び聞こえてきて、その音が大きくなり、足音だと気がついた時には、外に繋がる襖が開いた。
ずぶ濡れになった紫が真っ暗な中に立っていた。紫は笑おうとしているらしい泣き顔を浮かべて、手を軽く挙げる。
「こんばんは、西行寺のお嬢さん。今夜は月が明るいな」
私は起き上がって明かりを灯す。
「ええ、今晩は大雨で月が見えないけれど、きっと雲の向こうの月はいつもと同じ様に綺麗でしょうね」
「ああ、そうだな。きっといつまでも同じ様に月は泰然として美しいんだろうな」
紫が私の目の前で腰を下ろしたので、私も座る。すると紫が寝転がって私の膝の上に頭を載せてきた。水に濡れていて冷たかった。
「月に行ってきたの?」
「ああ、攻め込んだ。それで大惨敗して帰ってきた」
「そう」
「笑わないのか?」
「どうして?」
「負けたから」
「どうして負けたら笑うの? それにどんな事があったのかも分からないもの」
「なら笑える様に何があったか話してみせようか?」
「聞いてみたいわ」
紫は鼻を鳴らすと、月での事を語り出した。湖を使って月へ攻め込み、そこで見た巨大な都。その華美で広大な都市に息を飲んでいると軍隊がやってくる。その月人自身の頑健さ、力、更に未知の技術によって作られた兵器に為す術もなくやられていき、這々の体で逃げ出してきた事。語る毎に、その時の恐怖を思い出していったらしく、段々と声が震え不安定になっていく。
「結局、何も出来ずに尻尾を巻いて逃げ帰ってきた。多くの仲間を失って」
そう言って、両の目から涙が一滴流れたので、何だか罪悪感を覚えて私は目を逸らした。
「結局あんたの言った通りになったな」
「何の事?」
「世の中には手に入らないものがある。逆に多くを失った」
「そうね。少し痛い勉強料だっただったわね」
「ああ」
紫の沈んだ声が何だか胸に響いた。弱音を吐くのは紫に似合わない。もっと明るく大言壮語を吐いていてほしかった。
「別にまだ終わった訳じゃ無いでしょう?」
「ん?」
「まだあなたは生きている。月を欲しいと願うあなたもあなたが欲しいと願う月も両方存在しているんだから、まだ手に入らないかどうかは分からない」
紫はしばらく黙っていたが、急に息を吹き出した。
「凄い事を言うな。死ぬまで分からないってか?」
「ええ。その通り。もしかしたら死んでからだって」
「だが、格好悪い事を言うが、俺にはあの月に勝てる自信が」
「自信はこれからつければ良いじゃない。妖怪の刻は長いんだから、これからどうにだって出来るでしょう?」
紫は黙っている。見ると、無表情で私の事を見つめていた。
「ね? そんな弱気な事を言わないで。あなたが手に入れられないものは白玉楼だけ。そうでしょう?」
紫はやっぱり無言で私の事を見つめていたが、段々と口の端が痙攣し始め、やがてこらえきれなくなった様に笑い出した。
「やっぱりあんたは良い女だ。言う事がいちいち面白い」
「そうからしら? 真面目に言ったつもりなんだけど」
「真面目に言ってるからだよ。あんたの言う通り、今手に入らなくたっていずれ手に入れれば良い。その通りだ」
「でしょ?」
紫が更に大きく笑う。
「でも一つだけ間違ってるな」
「何が?」
「幽々子」
唐突に名前を呼ばれて、何だろうと思っていると、突然後頭部を抑えつけられて、紫の顔が近づいてきて、唇と唇が触れ合った。
「俺があんたを手に入れれば、この白玉楼も俺の物になる。そうだろう?」
紫は顔を離すとそう言って笑った。
金属の鳴る音が聞こえ、顔をあげると廊下に立つ妖忌が刀を取り落として、呆然とした様子で立っていた。
「何か物音がしたから様子を見に来たら」
妖忌の体がわなわなと震え出す。
「貴様! 良くもお嬢様を傷物に!」
妖忌が落ちていた刀を拾い上げ、目にも留まらぬ速さで紫へ斬りかかると、紫はそれをひらりと飛び上がって避け、雨の降る庭へ飛び出した。妖忌もそれを追う。
土砂降りの中、紫が庭の中を逃げまわり、妖忌がそれを追い回す、そんな楽しげな様子を眺めながら、私はまだ感触の残る唇に触れてみた。何か胸の内からこみ上げてくる思いがあった。それは何でも出来そうと思える様な、そんな全能感を伴った感情で、紫の姿を眺めているとその思いはどんどんと強くなって、心臓の鼓動が速く大きくなっていく。
逃げていた紫が立ち止まって、私に向かって手を振った。その瞬間、妖忌が追いついて刀を振り下ろす。寸前で紫は隙間の中に消え、勢い余った妖忌がすっ転んだ。私が遅れて手を振った時には、紫の姿は消えていて、後は雨がざんざんざんと、倒れ伏した妖忌の上に降っている。
膝の辺りが濡れているので衣服を着替え、一生の不覚と首に刀を当てて自決しようとする妖忌を宥めてから、私は床に入って再び目を閉じた。暗闇の中で、雨の降る音、屋根に当たる音、雨樋から塊となって流れ落ちる音、微かな妖忌の苦悶の泣き声、そんな雨音が折り重なった聞き分けられない程真っ白な重奏よりも、更に大きな心臓の音が胸を張り割かんばかりに打ち鳴るので、私は中中寝付けずに、夜通し紫の事を考えていた。
唇にはまだ彼と触れ合った感触が残っている。
「橙! 橙! 大丈夫か? 誰か医者を! おばさん二人のキスの不気味さに精神が耐えられなかったんだ!」
藍が大騒ぎしながらうなだれた橙を介抱している様子を眺めながら、妖夢が幽々子に尋ねた。
「まさか、本当の話じゃないですよね? 紫さんの性別は抜きにして」
「当たり前じゃない。紫が月に攻め込んだのは私が生まれるより前よ」
「それで、あの、キスは本当にしたんじゃないですよね?」
「当たり前でしょ? 触れてるみたいに撮ってあるけど触れてないわよ。幾ら何でも人前でキスなんて恥ずかしいじゃない」
「そう、ですよね」
「何? もしも私が紫とキスをしてたら、あなたは」
「その時は庭師を辞めさせてもらいますけど」
「え? ホントに?」
「はい」
「そうなんだ。じゃあ、やっぱりあの事は秘密にしておこう」
「え? ちょっと幽々子様?」
幽々子がまたポップコーンを貪り始める。
「幽々子様? 今何ていいました? ねえ、幽々子様」
幽々子はポップコーンを貪っている。
「ねえ、幽々子様! 冗談ですよね?」
幽々子は空になったカップを逆さにして、残りカスを口に放り込むと、新しいカップを手にとって、またポップコーンを貪り出した。
おまけ
東方女装罪~Welcome to Maid-cafe.
森近霖之助
所用があって紅魔館に行ってみると、メイド喫茶が開かれていた。
無縁塚で拾った雑誌に載っていたので知識としては知っていたが実物は始めてだし、実際にどういう物なのかは良く分かっていなかったので、興味本位で入ってみた。
屋敷のパーティールームを改造して作ったらしいその喫茶店には、咲夜と何故か魔理沙まで働いていた。
「魔理沙! どうしてこんなところで」
「香霖!」
魔理沙が僕に気が付いて近寄ってくる。メイドの格好は中中似合っているのだが、普段の言動を知っているだけに、何だか違和感が酷かった。
「どうして来たんだよ」
「どうしてって、こちらのレミリアお嬢さんにバーチャルボーイを頼まれていたから納入したんだよ。それで帰ろうとしたらメイド喫茶って看板が廊下に見えたから興味本位でやって来たんだ」
「馬鹿! 早く帰れ。早く帰らないと大変な事に」
「どういう事だい?」
「何で私がここでこんな格好をしているかって言うと」
魔理沙が深刻そうな顔で声を潜めた時、咲夜が怒鳴り声を上げて近づいてきた。
「魔理沙! 何をしているの!」
魔理沙は怯えた様な顔をして後退る。
「もう良いわ、魔理沙。あなたはあっちに行っていなさい」
「でも、香霖は私の知り合いだし、私がおもてなしを」
「良いから行ってなさい。否やとは言わないでしょう?」
魔理沙は喉をひきつらせた様に息を吸うと、僕の脇を小突いて厨房と思しき奥へ駆けて行った。
「失礼いたしました、旦那様。どうぞこちらへ」
咲夜に案内されてテーブルに着く。いつも店主と客の立場で接しているので何だか不思議な気分だった。こういうのも意外と悪くないなぁと思ってテーブルの上を見渡して、メニューも何も無い事に気がついた。
「メニューとか無いの?」
「嫌ですわ、旦那様。お家で食事をするのにメニュー表だなんて」
どうやらそういう事らしい。よりらしくする為にお店らしさを排除している様だ。
「じゃあ、紅茶と、後は時間も中途半場だし、何か軽くつまめる物を」
「畏まりました」
咲夜が頭を下げて厨房へと引っ込み、それから数分して紅茶と料理を持ってきた。甘みの混じった良い香りの紅茶とスコッチエッグが僕の前に並ぶ。良くこんなの短時間で作れたねと言うと、時間を操ったのでという答えが帰ってきた。便利なものだ。
紅茶は甘みがあって今までに飲んだ事の無い味で、聞いてみるとパイナップルティーだと言う。確かに言われてみるとパイナップルみたいな味だった。スコッチエッグも肉や卵の味が上品にまとまっていて美味しかった。ただ咲夜がじっと背後に立ってこちらを見つめているので、何だか見張られている気がして落ち着かなかった。
食べ終えてから、これって咲夜が店員のただの喫茶店なんじゃないかという疑念が湧いた。だから何かメイド喫茶らしい事は無いかと読んだ雑誌を思い出して、そう言えば何かゲームが出来るんだと思い至った。尋ねてみると、用意はあると咲夜が自信ありげに頷いてみせた。
「どんなのがあるの?」
「魔弾の射手ゲームと毒殺ルーレットゲームです」
「うん、方向性は分かった」
「どちらを行いますか?」
「いえ、結構」
早速ナイフと砒素と書かれた瓶を用意しだしたので、丁重に断り、もうする事も無くなったので席を立つ。
「じゃあ、お勘定をお願いしようか」
「はい、しめて六十六兆二千億です」
「え?」
「六十六兆二千億円です」
「いや、そんな無茶苦茶な」
「値段を確認しないのが悪いんですよ」
「冗談だろ?」
「魔理沙も同じ事を行っていましたね」
「魔理沙が?」
「さて当然六十六兆二千億はびた一文まけられませんが、あなたが払えない事は当然分かっています」
「そりゃあね」
「ですから、この店で働いて貰います、メイドとして。時給一千億で」
「それでも六百六十二時間働かなくちゃいけないわけかい? しかもメイド?」
その時、奥からメイドの格好をした魔理沙が飛び出してきた。
「止めてあげてくれ!」
魔理沙は両手を広げて庇う様にして僕の前に立った。
「香霖は男なんだ! だからメイドの格好なんて。せめて執事の」
「なりません。この店はメイド喫茶です。働いてもらう上では、当然メイドの格好をしてもらいます」
「そんな!」
「魔理沙、これ以上口答えする様なら、あなたの借金に利子をつけても良いんですよ?」
「うっ」
ようやく事態が飲み込めた。どうやらこの店は法外な値段をふっかけて、その代替案として無理矢理客を従業員にする悪徳な店だったらしい。酷く質の悪い蟻地獄の巣に嵌まってしまったのだ。だとすれば後は諦めるしかない。
魔理沙が尚も反論しようとするので僕はその肩を掴んで止めた。
「香霖、早く逃げろ!」
「良いんだよ。僕の為に君が苦しい思いをする必要は無い」
魔理沙が悲しげな顔をするので、僕まで悲しくなった。
「でも香霖、あんな格好を」
魔理沙の視線を追うと、咲夜が大きめの黒いワンピースと真っ白で必要以上にフリルの付いたエプロンを持って立っていた。咲夜は全くの無表情で、逃げれば虫でも潰す様に殺されそうな雰囲気がわだかまっている。
もう抜け出せない。
さらさらと足元が崩れていく様な感覚がした。
妖夢が紅魔館を訪れてみると、本当にメイド喫茶があった。
最近盛況だと咲夜から聞かされていて、興味を抱いてやってきたのだが、本当にあるのか疑っていたので驚いた。
妖夢が店に入ると、いきなり想像と違うものがやってきた。
「いらっしゃいませ。ああ、妖夢か」
何故か香霖堂の店主が咲夜が着ているのと同じ服を着て出迎えてくれた。
そうして訳の分からない事を言った。
「早く帰った方が良い。この店は客を引きずり込む」
「何? 妖夢だと!」
更に店の奥から懐かしい声が聞こえて、嬉しく思うべきはずなのに、それよりもまず先に嫌な想像に寒気が走った。
そうして厨房から咲夜と同じ格好をした妖忌が物凄い形相で駆けてきた。妖夢が目眩に倒れそうになると、妖忌はその肩を掴んで口角に泡を飛ばす。
「いかん、妖夢! 早く帰れ! この店に居ると我我の様に」
「我我の様にどうなってしまうのですか?」
その声が聞こえた瞬間、その場が凍りついた。
妖忌の背後に立った咲夜が笑顔で妖忌の肩に手を置いている。
「ぐ」
妖忌は一瞬恐れた様な顔をしたが、すぐに振り返って咲夜を睨む。
「いかん! そうはいかんぞ! 老いたりと言えども孫の為、貴様なぞ」
その言葉が途切れ、いつの間にか妖忌と霖之助の姿が消えていた。
妖夢が辺りを見回しても二人の姿は影も形も無い。
不思議そうにしている妖夢の前で、咲夜が恭しく頭を下げる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。どうぞこちらへ」
そうして顔をあげると、にっと口の端を釣り上げた。
そして結構面白かった。
ただちょっと話し言葉が多すぎるかな。
欲を言うと、三編とももう少しラストに盛り上がりが欲しかった気がします。いやまあ、作中の映画は、書かれている部分からさらに続くのかも知れませんが。
しかしこれは同性愛描写と言うのかしら。私自身が百合に慣れきってるからそう思うだけかも知れませんが。
そしてチルノ編の続きが気になる・・・
あとはこの題材への耐性ですね。私は問題なく読めましたので楽しめました。