Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第八話

2013/07/15 22:13:46
最終更新
サイズ
197.91KB
ページ数
6
閲覧数
4045
評価数
10/14
POINT
1190
Rate
16.20

分類タグ

『伊那騒動・三』





「弾劾状……! 南科野にその人ありと謳われたこのオンゾに対して、こともあろうに北科野の若僧めがッ!」

 真新しい竹簡を手に、オンゾは肉づいた両手を怒りにぶると震わせた。

 そうそう肥満体と断ずるほどの体型でもない彼なのだが、何かに蓋でもされたみたいに喉の奥底でくぐもったうめきは、まるで声ばかりやけに肥っているかのような感を伴っている。いや、しかし。裏を返せば、そんな奇妙で不格好なうめきを漏らさざるを得ないほど、この南科野の商人は頭に血が上っていたとは言えるかもしれない。

 とかく彼の心を濛々としたいら立ちに包んで止まぬ存在とは、オンゾ自身がさっき叫んだごとく、一条の弾劾状――すなわち、上諏訪商館閉鎖の責をオンゾの不正な商取引に帰する旨が記された、諏訪王権からの書状であった。文面を見たところ、この書状の発行を主導しているのは、王権の亜相たる洩矢諏訪子の様子である。が、オンゾ弾劾を王権に訴え出た筆頭の者として名を連ねているのは、誰あろう、北科野は水内郡の豪族商人ギジチなのだった。

 気に食わぬ。何もかもが気に食わぬ。……!

 竹簡をばらばらに引きちぎってしまいたい気持ちをどうにか堪えながら、オンゾは膝元にあった土器(かわらけ)を手に取った。酒ではない、白湯(さゆ)である。来たる冬は寒さをいよいよ厳しくし、広い客間に張られた床板をわがもの顔に軋ませていく。何かしら、口に含んで内から温めなければ身体までもが悲鳴を上げそうだ。とはいえ、ここ数日、酒ばかり飲んで喉も頭も焼けるようになっていた彼なのだ。さすがに斯様(かよう)な不快を続かせるわけにもいかない。ゆえに、白湯である。

 が、直ぐさま、やはり酒の方が良かったかと嘆息する。
 酔いでもしなければ、あのいけすかない水内の若僧、ギジチの憎たらしい面構えばかりが脳裏に浮かんでくるのだから。

 彼と取引をしたことは一度や二度ではない。商売の相手として、それなりの協調を維持してきたつもりだった。だがそれでも、しょせんは商圏を異にする北科野のよそ者である。南科野での商人の繋がりに他方の者が好き勝手に絡んでくると、連綿と続いてきた商いでの習わしが乱れ、“こちら”の利益が上がらない。ゆえにギジチたち北科野の者からは、商業上での仲介を引き受ける代わりに進物の礼を課してきた。それが南科野の利権を護る手段だったからである。向こうはそれが業腹であったに違いない。だから諏訪王権と結んで、自分を潰そうと目論んでいる。

いま彼を酩酊させているものは酒でも白湯でもなく、何よりもまず自分の怒りだったが、そんななかでもなお、この事態の利害を計るだけの冷静さは残っていた。そして、いったいどこの誰が自分を陥れようと画策しているのかと推測することも。

「荒れておるのう。……オンゾどの、酒は飲まれぬのか」

 オンゾと向き合っていた、ひとりの男が訊ねてくる。

 客間は風を除けるために格子窓も妻戸(つまど)も閉め切られ、ために人々の息とその生温かさが、一本立てられた灯明の火をときおり揺らすのみ。時刻は夜。謀議か密談……というにしては、やけにゆるゆるとした談合ではある。これがどこか気の抜けた集まりであるのを証するかのように、男の声は響いた。だが、オンゾは答えない。眉間を皺で切り刻み、ずずと音を立て、わざとらしく白湯を啜るのみだ。

 男は、そんなオンゾの態度を見て、冗談めかして唇を尖らせる。
 その手には、酒の満ちる土器。

「われらを邸に呼び集めておきながら、ご自身、酒を飲まれぬでは。どうもこちらは遠慮が先に立ってしまう」

 そう言いはしたが、彼が酒に口をつける動きはいやに滑らかである。やはり、仕草も言葉も単なる冗談の類であったらしい。豊かな髭を蓄えた頬のかたちがしばし歪むと、ほどなくしてごくごくと喉の奥へと酒が流れ込んでいく。それから次の瞬間には、髭にうずまった自身の顔の輪郭を探し当てるかのように、指の腹で顎を撫でまわすのだった。

「放っておけ、ザムロ。洩矢の神とギジチに面目を潰されて、ここ数日、自棄(ヤケ)になっていたのであろう。顔を合わせたときから酒くさかったではないか。おおかた、いら立ち紛れに飲む酒にも、飽きてきたのに違いなかろうて」

 髭面の男をザムロと呼んだのは――そのザムロとは対照的に――卵のようにつるりとした顔つきの男だった。瓶子から自分の土器に酒を注ぎつつ、もう片方の手では肴として出された山菜を箸で摘まむ。彼の頭には、結うべき髪は一本もない。ただし禿げ頭というわけではなく、自分で毛を剃りあげた結果のようである。それが、余計に卵めいた印象を強めてもいる。

「ヌジロ、御辺(ごへん)は礼儀というものを知らぬの。われらは客ぞ。招きに与った以上は、家主を慮る務めとてあろう」
「わざわざ呼ばれて来てみれば、何ぞ愚痴を聞かされるだけの場に慮りなど、要らざる仕儀ではないのか?」
「何をう……」

 どこか皮肉っぽい所のある卵頭のヌジロに、髭面のザムロは身を乗り出して顎をしゃくった。挑発のつもりらしい。けれど、ヌジロはあくまで冷静である。いったん箸を置くと、土器に口をつけて悠々と酒を飲み始めた。客である以上はその権利を行使するとでも言いたげだ。ザムロは、とかくヌジロのそんな涼しい態度が気に入らない。豪気の外見(そとみ)に合わせるかのごとく、性格の方もいささか短気なのである。中身がこぼれるのも構わず、土器を床に叩き置く。するとさすがのヌジロの方も、あからさまに不愉快そうな咳払いをして見せる。今しも眼の前で喧嘩が始まりそうな状況に、自分で自分の邸に彼らを招いたとはいえ、オンゾは少しばかり後悔を感じ始めていた。が。

「止めよ、ふたりとも。何ゆえ此度の談合が持たれたかを今いちど思い出すのだ。此は、オンゾどのおひとりを笑って済む話に非ず。われら、南科野の諸豪族の行く末に関わることぞ」
「ジクイどの」
「ここは、このおれに免じてお静まりあれ」

 ジクイと呼ばれた男が、努めて猫撫で声をつくりながら、ふたりをなだめたのである。

 オンゾ、ザムロ、ヌジロ、それにジクイは車座になって客間に身を置いていたけれど、そのなかにあってジクイひとりだけが奇妙なまでに背が高い。四人のなかでは、頭ひとつ抜け出ている。加えてその背の高さに従うかのような撫で肩であるせいで、どこか天に向かって伸びる杉の木というか、“矢印”めいた印象が彼にはあった。

 そしてこのジクイを見る人が必ず注目してしまう場所が、彼の左の頬にある。
 矢傷か、刀傷か。ともかくも、指二本を並べたほどの傷跡がジクイの頬には残っている。傷そのものは塞がってからすでに久しいのだが、肉の張り方がどこかおかしかったらしい。体内から新しい肉が盛り上がってきたのではなく、周りの肌が身体の内側に向かって沈み込んでいったかのように、歪な傷跡を成している。そのためか、灯明の光の当たり具合によっては、彼の傷跡の向こうを流れる血潮の色が、時おり透けて見えそうになるときがある。

「オンゾどの、此度われらがいかなる理由で呼ばれたのか。改めてご説明を願いたい」

 ジクイが、ちらとオンゾを見て言った。
 ようやく話が本題に戻ってきたのである。
 とはいえ、オンゾのいら立ちが収まってくれるには、いま少しの時間が要った。とっくに飲み干した白湯の土器を膝元に戻すこともせず、三人の男たちから注がれる視線を食うままにしている。ややあって後、「先にも申した。諏訪からの弾劾状のことじゃ」と胡乱に答える。酔ってはいないにもかかわらず、どこか言葉尻がもつれている。

「弾劾状か」
「洩矢の神と、ギジチの連名のものよな」
「左様」

 答えて、オンゾは開いたままの竹簡をザムロへ放った。がらとしたやかましい音鳴りが、沈鬱な冬の夜を通り過ぎる。弾劾状は最初にザムロの手へ、それからヌジロ、最後にジクイへと回っていく。胡坐を掻いた膝の上に竹簡を広げつつ、しかし、片手はかたわらに在るつるぎを撫でるようにしながら、いささか面白げなるものを見つけたとでも言うように、にンまりと笑むジクイの顔。

「要求は商取引の停止とオンゾどのの出頭。従わぬ場合は武力に訴えてでも、か。ほお。……さすがにユグルとの関わりには“感づかれて”しもうたか」

 呟くと、ジクイは竹簡をオンゾへと戻す。
 ザムロとヌジロは互いに眼の端を見合わせて、侮りと嘲りを含んだ笑みを交わした。この談合の場には居ない者――つまりは。

「洩矢の神は小娘の姿を取っておったはずだが。ふふん、下の毛も生え揃わぬ生娘がごとき面つきをしながら、どうして頭の方は女子供ではきかぬらしい」
「それァ、中身は千年も二千年も生きる“くそばばあ”よ。謀(はかりごと)にも長けておろうて」
「まったく。万金を積み上げ頼まれても、斯様な女子(おなご)には手をつけとうない。女を抱くなら、アホウに限る」

 今ここには居ない洩矢諏訪子を貶める下卑た冗談を交わし、ふたりは頬を震わして哄笑した。横で見ているジクイすらも、はっきりとした声は発さぬながらにくッくと喉を鳴らしていた。酒が入って気が大きくなっている三人なのか、しかしいずれにせよ、酔わぬオンゾにはことさら彼らがふざけているように思えて仕方がない。

「各々、真面目にお考えなされ!」

 土器の底をかンかと床に叩きつけ、いくさの鉦を打ち鳴らすがごとく皆の態度を咎め始めるオンゾである。

「此は一大事なり! このまま諏訪王権に降れば、わが商いは木っ端のごとく砕け散る。それだけではない。諏訪は科野国中の商いを一手に握らんとしており、それが政の柱のひとつというではないか。今は御三方の手の内にある水運の権益さえも、行く末は何やかやと理由をつけて乗っ取られかねぬのだ。此度の騒動を口実として、向こうがこちらにつけ入ってくるは容易に想像できる! ……そして後に乗り込んでくるのは、諏訪王権の後押しを受けたあのギジチじゃ。それだけは何としても避けたい! お解りか!?」

 ほとんど哀願に近い、オンゾの叱責である。
 笑い続けていた三人は、瞬間、さも“ばつ”が悪いといったように黙り込んだ。ジクイは頬の傷跡を親指で押し込みながら、次の言葉を探している。が、彼のその言葉をどうやら引き継いだかのように口を開いたのは、ザムロの方であった。

「ならば、オンゾどの。おぬしも早くから、八坂の神に従うて庇護を乞えば良かったのではないか。諏訪に王権が樹立された際、御辺にも声が掛かったと以前(まえ)に聞いたぞ。さすれば、今のギジチの地位はおぬしのものであったかもしれぬのに」

 もっともなことじゃ……と、横で聞いていたヌジロがうなずく。
 しかし、今度はオンゾの方が嘲弄混じりの声音でザムロに返した。

「否。われらはわれらの商いを、父祖の代より続けて今日に至る。それが、西方からやって来たわけのわからぬ神だの王だのの好きにされる。考えてもみよ。科野での商業の権を、出雲人がつくり上げた王権に握らせるということは、商いに政よりの横入りを招きかねぬということ。各々の利や益までをも政に握られるということに相違ない。畢竟(ひっきょう)、われらの手のうちに残るものは少なくなる。それが何と不愉快なことか。それは、このオンゾと利害を同じうする御三方にもよく解るはず」
「まあ、それもそうか。……だからこそ、われらも片手を諏訪と繋いでおきながら、もう片方の手はおぬしと繋いだままでおるのだ。河手(かわて)が上がらぬことには、われらとても困るからのう」

 ものの道理を聡く読み取り、ヌジロはまたもうなずく。
 しかし。

「それだけか?」
「はて、それだけとは」

 今の今まで黙りこんでいたジクイが、ようやくにして口を開く気配があった。
 とぼけるな、と、早口に言うと、ヌジロ、ザムロ、オンゾの三人を順繰りに見回す彼である。そして、皆の関心が過たずこの話に傾注していることを確信してからか、ジクイはようやく次の話に入るのだった。

「ダラハドという者が八坂神の意を享けて、ユグルとの所領替えを命ぜられたとき。これこそ天佑(てんゆう)に為さしめんと、互いに約したではないか? ユグルは未だ若い。ゆえに血気盛んじゃ。いずれわれらも起つと匂わせたところが、大急ぎで城に籠って諏訪に叛いて見せた」

 何か神意の託宣めいたものが、ジクイの言葉には宿っている気配がある。
 主導者の気迫というべきか、あるいは扇動者の才覚とも呼べるだろうか。いずれにせよ、彼の語る事態の『核心』は、さっきまでほんの少しだけ残っていた“ふざけ”や戯れの気配を、いっぺんに彼方へ押し飛ばすだけの膂力(りょりょく)を持っていたことは疑いようもなかった。彼は神でも依巫(よりまし)でもない。南科野に一個の土地と権益を占める豪族である。が、その声音がきりりと皆の意思を束ねることができるだけ、つまりこの場の四人は同じ危機を共有しているということでもあるのだろう。

 ジクイはつるぎを手にした。
 そしてそれを鞘に納まったまま振りかざし、ザムロをヌジロを、それにオンゾを差していく。この談合に身を置く以上、皆すでにかつての謀議を経、意図を同じくする当事者であると示すようにだ。

「科野諸方の眼を伊那辰野での騒動へと向けさせ、王権の隙と無為とを曝け出させる。それでこそわれら南科野の諸豪族も、八坂神の元から再びの独り立ちをする下地が築けるというもの。父祖よりの土地はある。貯えた財もある。直接の対決を避けて温存しておいた戦力もある」

 誰からともなく、うなずいた。
 未だ敗北には遠いと確信したがための笑みである。
 上薬を幾重にも塗り重ねることでひとつの器を完成に導くように、周到に凝らしてきた自分たちの策動が、万が一にも破れようはずはない。綻びがあったとて、直ぐに繕えば良いだけなのだと。

「ユグルには、まだまだ“がんばって”もらわねば困る。騒動が長く続けば、諏訪王権も疲弊しよう。治世の根幹が揺らぎ、諸方からの離反も相次ぐはずじゃ」
「そして、それだけ武器糧食は天竜川に流れ込むのだ。加えて水運の取引が増えるほど、取れる河手の量も増える」
「やはりそれかよ」
「他に何がある。否、われらにはそれ以外になし」

 肩を震わし、四人は笑った。
 灯明が発する朧な明かりが、四人の男の企みを夜のなかに浮かび上がらせていく。魔物じみて拡大された影たちを床に壁にと投影し、その影は根の部分でひと塊となる。尽きせぬ暗闇は、そして灯明をも踏み潰さんばかりに絶えず震えてもいるのだった。彼らの哄笑に揺り動かされながら。

 ひとしきり笑いが静まってくると、ジクイはようやくにして自分に供された土器を手に取った。未だ酒の注がれていないそれを手指の先で弄び、まじまじと底の部分の丸みを観察している。丸みの淵に絶えず視線が這うように、彼がつけるこれからの算段もまた、きっと轟々と唸りを上げて回転しているのだろう。

「差し当たっては……表向きのことだけでも、諏訪に頭を下げて時を稼がねばならぬ。オンゾどの、おぬしへの嫌疑を晴らすためにな」
「おお! 行ってくださるか」

 ずっと手のなかにあった弾劾状を放り出し、オンゾはジクイへ身を乗り出す。

「よし。おれも同道をつかまつる」
「おれも行こう。どうせ乗りかかった船じゃ」

 ザムロとヌジロもまた、ジクイの提案に同意した。
 いよいよオンゾの歓喜は昂ぶるのである。
 がらりとしたつまらぬ音を立てて、オンゾが放りだした竹簡は灯明にぶつかった。倒れるほどの衝撃ではなかったとはいえ、一瞬ばかり燭がその位置を傾がせる。灯と明かりが揺らぐ。ジクイの頬の傷痕が、乱れた光に撫でられる。熟れた柘榴が弾けるのにも似て、傷は内から裂け割れて見える。それには気づかず、ジクイは深くうなずく。

「さて、むろん。見返りはいろいろと都合してくれような」
「言うまでもなし。まず、来春(らいはる)に流す米の相場については…………」


――――――


 十一月十一日、ジクイは出立した。
 諏訪の地に在る八坂神と洩矢神に、オンゾ赦免の嘆願を奏上するためである。
 
 そう極端に遠い土地にまで足を伸ばすわけでないとはいえ、寒風吹きすさぶなかを、諏訪まで数刻の旅路となる。所有する馬のなかでも特に頑健で体格すぐれたものに跨ると、彼は小雪舞い落ちる寒空の下、領民たちの畏怖の視線を背に受けながら、自らの本拠地である伊那郡赤須を発った。護衛を兼ねた供回りとして、武装した兵たちを数十ばかりも同道させつつ。
 
 道中にて兵火に巻き込まれることもあるまい……とはジクイ自身も内心で思いながらも、しかし、万が一のこともあるかと馬上にては苦笑した。ユグルの叛乱が鎮圧されたという報せでもない限り、科野中の諸官衙(しょかんが)は次に何が起こるかと戦々恐々の態であろう。それに、道々の人々に自らの威勢を誇示する意味合いもある。河手の徴収と出挙(すいこ。領主や豪農が元本として一定量の稲を農民に貸し付け、収穫期に利子を含めて返済させた、一種の高利貸し)で財を蓄え、それを元手にあつらえさせた高価な武器甲冑は、あのギジチという商人の主導のもとで密なる取引を経て揃えたものである。なかには諏訪の職人の手になる物もある。よもや、こんな奇妙な『里帰り』があろうとは、八坂神も洩矢神も予想だにしないだろう。

 そう思うと、まるで面白い冗談が思い浮かんだかのような気持ちであった。
 それだけ、彼は諏訪で行われるであろう『交渉』の勝利を確信していたのだ。

 加えて彼と同じような心持ちを、ザムロとヌジロのふたりもまた抱いていたに違いなかった。諏訪への旅路の途中、あらかじめの打ち合わせ通り、ジクイは同道を申し出たふたりの豪族の本拠地を訪れた。そして直ぐさま彼らと合流し、一路、諏訪を目指して進発を新たにする。ザムロとヌジロも、やはり供回りとして決して少なくない数の兵を引き連れていた。彼らが身につける武器甲冑は、細かな軍装や装飾の様式に明確な統一こそなかったが、豪族たちがそれぞれ潤沢な財をなげうって揃えた品であるという点は変わらない。そして、三者の合流は兵たちの規模を百人以上にまで膨れ上がらせた。もはや、一個の軍勢である。

 諏訪までの道のりを進むのに、一刻を過ぎるばかりの時間を費やしただろうか。
 ジクイたちはその軍列を東西に延々と続かせながら、雄姿とも言うべき堂々の態度で“進撃”を続けるのである。進撃する三人の豪族の顔に浮かんでいるものは、まさに綽々たる余裕という他はない。此度のことは、『嘆願』という名を冠してはいるものの、その実、あくまで『交渉』である。そのことは皆が例外なく思っていた。ジクイもザムロもヌジロもだ。南科野との対立が、政権運営にあたってどれほどの障害となってくるか、解らぬ八坂神と洩矢神では決してあるまい。なればこそ、威圧の意味をも込めて兵を率いてきたのだから。

 諏訪と岡谷を分かつ峠を難なく越えると、一行は諏訪湖南方のほとりを突き進み、八坂神の居城である諏訪の柵を目指した。馬上から眼を走らせれば、風に波立つ諏訪の湖を取り巻いて山並が聳え、鉢の底に敷かれた豆のごとく両諏訪の盆地が広がっている。付近の農民であろう者たちが、突如として現れた軍勢に眼を剥いて、無意識にか頭を下げているのがちらと見えた。土地の人々のそんな態度が、ジクイたちの自尊心を否応なしに昂ぶらせる。始めからあった楽観は、いよいよもって動かしがたいものとなりつつあった。が、そのときである。

「おい、お二方。何か様子がおかしいとは思わぬか」

 三人の豪族のうち、列のちょうど真ん中の辺りを行っていたヌジロが、首を巡らしてジクイとザムロを呼び止めたのだ。ん……と白い息を吐きながら、振られた話に何であろうとふたりは直ぐさま振り返る。見れば、ヌジロは手綱を引いて馬の足取りを御し、諏訪湖周辺の山の麓をじいろと見渡す素振りである。怪訝に思ったふたりは彼のもとに馬を寄せ、自分たちも諏訪湖の周りによく眼を遣った。瞬間、軍勢は下知を受けて動きを止め、思いがけぬ休息らしきものを得る。安堵に溜め息を吐く兵たち。

 とはいえ、彼らの関心はあくまで湖の周辺に何があるかということだ。諏訪は仮にも神棲まう地、鬼も居らねば蛇も居るまい。居ったところで、人づてに聞き及ぶところのミシャグジ蛇神というものであろうか。それでもジクイたちの眼には、一見して、冬の静謐(しじま)ばかりが深閑と坐している――ただそれだけにしか感ぜられない。ジクイは、フと笑った。

「気のせいではないか、ヌジロどの。湖の周りに何があると……」
「いや待て! よく耳を澄ますのじゃ。大勢の叫びのごときものが聞こえる」

 ジクイを遮り、ザムロが濃い髭のなかに埋もれかけた唇を歪ませる。
 ザムロに促され、ジクイもつい口をつぐんだ。そして、相変わらず湖の周りに凝らされる、ヌジロの視線の先を追った。道中に降っていた薄雪は、積もりもせずに風に吹き散らされて、今は影さえ留めていない。その寒風もいよいよ烈しくなり、兵たちが甲冑の内側を濡らす汗の熱さと外気の冷たさとの差に、不快感を覚え始めるころ。

 おお……ッ、と、ジクイは呻いてしまった。

「何じゃ“あれ”は。山の麓が、まるまる動いておるのか!?」

 その呻き――否、多分に叫び声だ――を耳にして、兵たちの幾人かも主と同じ方向を見た。見ざるを得なかった。三人の豪族の視線は、今ようやくひとつ所へ臨んだのだ。諏訪湖の南西から西側にかけての土地、山の麓であり盆地の一方の際(きわ)とも言うべき場所が、一斉に“波打ち始めた”のである。まるで揺れ動く水面がそのまま大地へと変じたかのように。加えて、その波に連なるようにして巨大な声が聞こえてきた。

「おお、おお……!」

 と、三度、四度。

 そしてさらに眼を凝らすと、葉なき梢のような何かが雲間から差し込む数条の光を受けて、きらきらと輝いているのが見える。明らかに、草木の類の光り方ではない。金属(かね)だ。金属の光だ。さて現れたるは鬼か魔か。兵たちは矛を握って身構える。

 けれど、そのいずれでもないのだ。
 ザムロが落馬せんばかりに身を乗り出して、波打つ麓をぐるりと見渡す。
 そして彼の口から導き出された結論は。

「軍勢じゃ。あそこに居るのは、みな軍勢ではないか」

 ざわと、ひときわ兵たちの騒ぎが大きくなった。それこそ、水面の揺れがそのまま移って来てしまったかのように。彼らは互いに顔を見合わせながら、いくさか、……などと口々に呟き始める。当然であろう、湖の一方の岸にこちらの軍勢が、そしてもう一方の岸にも別の軍勢が存在している。いわば、ふたつの軍勢が湖を挟んで向かい合っているような状況だ。舟などくり出して湖を渡って来るような様子は相手方に見受けられないが、しかし、陸路、迂回してこちらに進んでくるような事態もないとはいえない。

 もしや、これは罠ではないのか?
 こちらを諏訪の地にまで引き入れて、一挙に大軍をもって殲滅するための?

 実体のない疑念と猜疑が兵たちを、そして豪族たちの思考を支配していく。いっこうに口をつぐむ気配のない兵らを見回し、ジクイは冬だというのにひどい汗をかいていた。確かに冷や汗であった。ザムロとヌジロはふたり揃って彼に眼を遣っている。この場の長はジクイなのだ。このまま進むべきか、それともいったんそれぞれの本拠地にまで戻り、改めていくさの備えを固めるか。採るべき行動を決めかねているうちに、向こう岸の軍勢からは、軍鼓と鉦を盛んに打ち鳴らす音が響いてきた。軍旗数十が風を孕んで掲げられる。轟々たるものは、数十の駒音がいちどに野を駆ける猛々しさであろう。

「わ、私は……」

 このまま一戦を挑もう。
 いや、いったん退いた方が良い。
 どちらの結論にも達せぬまま、手綱を握る手ばかりに力が込められる。頬の傷跡がこんなときに限ってシクシクと痛みをぶり返す。奥歯を軋るジクイが、せめて何ごとかを下知せんと口を開きかける、まさにそのときであった。

「おお、其許たちは。諏訪に何用あって此方(こなた)に居る」

 突然、そんな声が聞こえてきた。
 誰か、と、南科野勢は、豪族と兵の別なく辺りを見回す。湖近くでいつまでも軍勢を留めているのが怪しまれたか、すわいよいよ戦いかと、皆は武器を握る手の力をいっそう強くした。だが“声”の主は、そんな彼らの緊張をあえて弄ぶかのように、どこか呑気な態度を崩してはいなかった。

「そう身構えるな。この諏訪子とて一方の岸より見物の途中よ。あれ、あの狩競(かりくら)をな。壮観、壮観」

 たぶん、南科野勢が向こう岸の軍勢にばかり注意を払っていたせいで、今まで気がつかなかったのだろう。声と共に改めて聞こえてきたものは、数十人かの連なった足音。豪族たちは「はッ」と気づき、自分たちが陣取る道の陰を見た。そこには。

「しかし。道の真中でこうも立ち止まられては、少し窮屈。悪いが、通らせてもらうぞ」

神人(じにん)らに担われた輿の上で、洩矢諏訪子がいたずらっぽく笑んでいたのである。


コメントは最後のページに表示されます。