十一月十五日。
オンゾの我慢は、いよいよ限界に達しようかという頃合いだった。
「……ええいッ! 遅い、遅すぎる! ジクイたち豪族方はいったい何をしておるのだ! よもや諏訪まで足を運んで、物見遊山に過ごしておるのではあるまいな!?」
「は、いや。ジクイどのに限ってそういうことは、無きものとは思いますが……」
「連絡とか書状はないのか」
「ございませぬ。何の沙汰も」
見えぬ火を灯そうとするかのように、ちッ、ちッ、と幾度も舌打ちをくり返すオンゾであった。
伊那飯島の館はその広い空間のうちに、いら立ちに満ちた怒声を這い回らせる。よく肥えた芋虫みたいな太い腕を振り回し、オンゾはぶつける当てもない怒りをただ中空にさ迷わせていることしかできなかった。そのかたわらに控えているのは彼の侍者ではあったけれど、侍者の方はまた、主に対して一片の気休めにもならぬ諌めを呟くばかりである。
部下が何か言うたびにオンゾは彼を睨みつけるが、これといって叱責とか打擲(ちょうちゃく)を加えるでもなかった。いったいどの方向に今の気持ちを発散すべきかが、彼自身にもよく解っていないに違いない。とはいえ、オンゾの怒りとても故なきことではないのである。
数日前の談合で、ジクイたち南科野の有力豪族から『諏訪王権へ共に対抗する』と約定を交わしたばかりである。そのために、まずは彼ら三人が諏訪まで直接に出向き、オンゾが逆賊として扱われていることを撤回させるとよくよく勇んでいたはずだ。何の判も証文も伴わない口約束だったとはいえ、期待に違わずその務めを果たしてくれるものとオンゾは信じ切っていた。幾代より以前から地縁で結びつく仲、さらにまた利害を同じくする者同士である。これを裏切るは天地の道理に悖る(もとる)とさえ言うべきもの。
然るに、当のジクイたちが諏訪まで発って、はや四日。
本人たちが返ってもこなければ、首尾の良し悪しを知らせる使者や書状の類さえ未だ無し。交渉が難航しているのだろうか? それとも酒や女で歓待され、骨抜きにされているのだろうか。いや、それとも。狡猾な八坂神や洩矢神のこと。すでにジクイたちを幽閉してしまっていたり、あるいは……。
予想はどんどん悪い方にばかり転がっていき、もはや悲惨な空想と呼べるほどのものになってしまっている。ああーッ! と、叫んでオンゾは頭を掻きむしった。指先に奇妙なぬめりを感じさせたものは、加齢による頭皮の脂だけではなかっただろう。焦りとか恐怖とか、そういう諸々の感情が一緒になった冷や汗だった。
両腕をばたばたと振り回し、広い居室のなかを当てもなく右往左往するオンゾは、餌を求めて徘徊する犬か猫みたいである。もし、ジクイたちが諏訪での交渉に失敗しているとすれば、今まで彼らに都合してやった商業上の利権や品物がすべて“むだ”になりかねない。
心のうちでは今までジクイたちとの関係に『投資』してきた財の多寡と、その損得について絶えず算盤を弾きながら、しかし、オンゾの足取りは少しずつ落ち着きを取り戻していく気配もある。金勘定に誤算や願望の反映は禁物である。そうした原則を思いに留めてみると、案外、冷静になってくる。これからすべきことも見えてくる気がする。根っから、彼は商人肌なのかもしれなかった。
「……諏訪の神は、ときにひどく血に飢え渇くときがあるとか。ために生贄を欲するというではないか。よもやジクイたちの素っ首、すでに神前に供えられているのではあるまいな」
侍者を振り返り、厳粛ささえ漂う口ぶりで言う。
が、むろん侍者の方でそんなことまで知っているはずはない。「さあ……」と首をかしげつつ、
「ただ、先にも報せのございました通り。いま諏訪には各地から三千もの軍勢が集結しているとの報せ。仮にジクイどのはじめ豪族方の御首が捧げられているとすれば、これはいくさに先立って吉凶を占うている、そのように見るべきではございますまいか」
そんなことを言った。
むッ、と、オンゾは唇を尖らせ、横目に部下を睨みつけた。
「ふん。出陣を前にして、わざわざ凶事あるを将兵に示すような“ばか”が居るとも思われぬ。まして相手……八坂に洩矢は真実(まこと)の神。血を飲めば飲むほど意気は揚がるであろう。その後に攻め込んでくるのはまず辰野のユグルか、それとも飯島のオンゾか」
とはしてみたものの、いま諏訪王権が最優先で除こうとしているのはまちがいなく自分であることを、悟っていないオンゾではなし。彼は蹴りつけるかのように妻戸を抜け、廊下に出た。雪も風もない。冬の昼間としてはいささか穏やかな日中があった。そんな穏やかさを切り刻むかのごとく、矛のぎらつきと兵たちの眼光鋭きが邸のなかを動き回っている。あちこちに用意された矢の束や盾もまた同様だ。最悪の事態を想定した戦いの備えは、着々と進められていた。
オンゾの邸宅は商人の館とは申せ、深い空堀と物見櫓を持つ『実戦仕様』の拠点でもある。いくさを能くする武装豪族の備えには一歩及ばぬながら、平地にあってはそれなりの防御力を発揮することだろう。館の周りを取り巻かせた防壁も、塀と言うには強固なつくり。ちょっとやそっとの軍勢なら、見ただけですくみ上がるような威容であると自負している。
しかしながら、三千の軍勢を差し向けられればひとたまりもなく陥ちるであろうことは、いくさする人ではないオンゾでも容易に予想がつく。しょせん周辺の中小豪族とのいざこざから、大事な品物を護るために防備を発展させてきたのが今の館の元なのだ。だからこそ本当のいくさに及んだときのため、できるだけ備えを固めるに越したことはない。
その備えにも、やはり少なからざる財を擲つ必要があったのだが、しかし。
危ういときほどわしの頭は冴えるのだと、オンゾにはそんな余裕も未だある。敵が大軍勢で攻めかかるなら、こちらも蓄えられるだけの兵力を蓄えるのみ。各地の領主豪族の課す年貢や出挙の利稲(りとう。出挙において利子となる稲)に耐えられず、逃散してきた百姓はあちこちにひしめいている。舎人となって諏訪王権に仕えんとする者も数多いが、何の特技も一芸もなき者がそう簡単に雇い入れてもらえるわけもない。そのぶん、自分は何て憐れみ深いのだろうとオンゾは自賛したい気分だった。
土地も食い扶持も棄ててさ迷う農民たちに、飯と寝床を与えて囲い込む。代わりに鎧を着せて盾や矛を持たせれば、即席ながらに兵隊の出来上がりというわけだ。オンゾに雇われその私兵となった者たちは、大抵がそういう『食い詰め者』の農民たちなのだった。彼らは武技に秀でてこそいないが、飯と金さえあれば決して裏切ることはない。むしろ権力や利得に常に魅惑されている分、政に近い王権だの豪族たちの兵の方が扱いづらい連中だと思う。
それを加味して考えれば、彼の私兵はよくよく優秀な『盾』たちであった。
大丈夫、大丈夫だとオンゾは幾度も念ずる。
“矢”はこの大地に無尽蔵に在るのだ。人の生くるに必要なのは大儀とか志ではない。まず飯であり、糧だ。それが天下(あめのした)すべての民人に行き渡ることがない限り、たとえいくさになっても勝機は未だ残っていると。
「おい」
「は」
「昨晩、商人輩を招いて催した宴でな、供された肴の残りがあったであろう。それを兵たちにくれてやれ」
「は。承知いたしました」
廊下までついて来ていた侍者に、オンゾはそんな命令を下した。
兵たちの雇い主として、ときには褒賞のひとつもくれてやらなければなるまいと思ったからだ。直ぐに料理番の人足たちに召集がかけられ、未だ厨(くりや)に残っていた料理や食材が大鍋と共に庭先まで運び込まれてきた。
ここで時代が大きく下る喩え話を引き合いに出すのだが、平安時代、力ある公家がその邸宅で宴を催すと、周辺の貧民はこぞって門前に集まったという。宴に供された料理の残り物が、ときどき彼らに振る舞われることがあったからだ。あたかも犬猫に餌をくれてやるかのごとき話であるが、公家のご馳走を口に入れられるということは、食い詰めた者たちにとっては誇りを云々する以前に、まずもって絶好の機会だったのだろう。もしかしたら残り物をくれてやる公家たちの方でも、貴人の務めとして民人の腹を満たすという使命感みたいなものを少しは抱いていたのかもしれない。
いずれにせよ、雇われの兵たちに残り物の飯を振る舞ってやるオンゾにては。
腹を鳴らし顔をほころばせ、矛を投げ出して残飯に群がる元農民たちを見るにつけ、何となく頼もしい気持ちになったのは間違いなかった。大鍋で米と共に煮られた醤(ひしお)や肉、科野では栽培されていない珍しい野菜。すべて混ぜこぜにぶち込んだ粥は、貴人の食するものとはもはや言いがたい。しかし、どんな物でも空きっ腹には最高の美味となる。冬の晴れ間にかき込む温かな飯の美味しさに、兵たちはまるで本当の神を仰ぐごとくオンゾを見るのだった。
と、そんなとき。
「ちょ、ちょっと通してくれ。……書状じゃ。オンゾさまに書状じゃ」
粥に群がる人波のあいだを泳ぐかのように、小柄な男がやって来た。
ん……と鼻を鳴らしてオンゾと侍者は男の方に眼を遣った。見れば、彼は官衙との連絡役として置いてある人物ではないか。当の連絡役の男は粥を頬張る兵たちのなか、自身の背の足らなさを補うかのようにぴょんと跳ねては、その手に握られた竹簡をオンゾに示すのだった。
「御苦労、下がれ」と、連絡役から直に竹簡を受け取るオンゾ。
自然、期待に胸は高まっていく。もしかしたら諏訪王権からの逆賊の指名が解かれたという吉報かもしれない。さすがに楽観し過ぎであろうという気持ちもあったが、まず事態に何らかの変事があったことだけは確かのようだ。逸る気持ちと震える指先を抑えながら、竹簡を留める紐を解いた。兵の食事の監督は料理番たちに任せ、自身は再び居室に戻ってその文面に眼を走らせる。未だ使い慣れぬ文字というものではあったけれど、書状の遣り取りを不自由なく行うくらいの知識は持ち合わせている。ぽつぽつと、川面に水切りの石の飛ぶごとく、オンゾの視線は行き来する。
が、しかし。
「何じゃ、これは……」
「い、いかがなされました? 凶報にございまするか、もしや……?」
侍者がこころなしか頭を下げ、恐る恐るオンゾに問う。
彼の目の前で、オンゾの丸い背はぶるぶると震えていた。どうにか心のうちに取り戻した余裕が、その震えとともに少しずつ振り落とされていく。代わりに充溢せるものは、やはり、怒りであるに違いなかった。
「その凶報よ! ジクイたちめ、もっとも忌々しき手で骨抜きにされておるではないかよ!」
ばがりという音を立て、力の限り床に叩きつけられた竹簡を侍者は拾い上げた。
今はもう、再び彼の主は野良の犬猫みたいに部屋中を歩き回り始めていた。無学ならがらに、一応、文字の扱いだけは教わっている侍者は、読み落としのないよう頭からゆっくりと書状に眼を走らせ始める。そして、彼もまた小さく舌打ちをするのだった。
「いかが、いたしまするか。この後は」
「もうジクイたちは当てにできぬ、こうなればわし自らが動いてどうにかするより他にない」
侍者から、再び紐で留められた竹簡を受け取りオンゾは言う。何度となく唾を呑み込み、舌を打ち、踏み抜かんばかりに床を蹴った。
件の書状には――。
『南科野での武器取引について甚だ不自然な点が見られるゆえ、ジクイたちを詮議している』との旨が記されていたのである。
手のなかに滲み出る汗の気持ち悪さをオンゾは自覚した。
実際、ジクイたち豪族方と諏訪王権のあいだでどんな遣り取りがあったのかは解らない。だが、官衙を通してこのような内容の書状が送られてくるということは、豪族たちはオンゾ赦免どころか、自分自身の身動きすらままならなくなっていると見るべきだろう。それに、オンゾと南科野の豪族たちが、密かに武器の売買を行っていたのは事実だ。どんな間者を使ったものか、八坂神は、そして洩矢神は、その事実をつかんでいたらしい。
「あの憎たらしき女狐めが……ッ!」
洩矢諏訪子という名前を思い出すだけでも、諏訪との境にある峠で彼女の指揮する軍勢に、矢を射かけられ“ほうほう”の態で逃げ帰ってきた屈辱が蘇ってくる。あの女のいかにも狡猾で高慢な表情(かお)を、思うさま醜く歪めさせてやれると思っていたのに! 書状の末尾に記された『もってオンゾの罪科(つみとが)はさらに確かなものとなりき』という一文、さらに洩矢諏訪子の署名が、よけいにその思いを燃え上がらせていく。
洩矢神を貶める意はあまりに昂ぶり過ぎて、オンゾの口からははっきりとした言葉にもなってくれなかった。けれど、何ごとかをブツブツ呟きながら部屋中を徘徊する主に、ただならぬものを感じ取ったらしい侍者が、すかさずその意を汲み取って進み出る。オンゾの進路を、フいと塞ぐみたいな動きだった。
「お邸のうちにて愚痴を漏らしていても何も始まりませぬ。次に打つべき手を考えるのでございましょう。さ、お早く!」
部下に促され、オンゾは「解っておるわ」と早口に返す。
意外なほどに落ち着いた声音だと、彼は自身で感じていた。
「まずは、いかに為されるおつもりで」
「いま手元に在る品物を、売れるだけすべて売りさばく。事と次第によっては、いずこかに新たに拠点を築くことも必要かもしれぬ。そのためには、まとまった財がなければのう」
「は。その相手といたしましては、いずこに?」
「水運商人どもへ。おそらく、次に諏訪のやつらは南科野の水運の掌握に取りかかるはず。諸方の川や渡し場に軍勢でも派されて封鎖される前に、さっさと“渡り”をつけてこい」
「直ちに」
「……あ、それから。いくさに備えてさらに人を雇い、武器を買い込め。金をばら撒くに糸目をつけるな。遠慮は無用じゃ、多少強引な手を使っても構わぬ。とにかく、できるだけ多くの兵と武器をかき集めよ!」
「承知いたしました」
叫ぶなり、侍者は部屋を飛び出そうと走りだし、さっと妻戸に手を掛けた。
けれどその姿を見送らんとしていたオンゾは、急に何か大事なことを思い出したのか、「あー、いや、待て! 未だ行くでない!」と慌て始めるのだった。
「いかがなされました? 事態の急なるはこの冬風より速きものございまする」
「だからこそじゃ。まず、筆と墨を持ってこい。諏訪へ向けて書状を書く」
はぁ?
とでも言いたいような顔に、一瞬、侍者はなっていた。
この期に及んで私の主は、無実を訴えるつもりなのだろうか? と。
オンゾの方でも、部下の怪訝な眼には気づいている。それを慮ってか、「何も下手な弁解をな、今さらしようと思うておるわけではないわ」と彼に説く。
「……財をつくり、いくさの備えもするとなれば、少しばかり時が要る。時かせぐために、何がしかの手は打たねばなるまい」
オンゾの眼にはようやく、ぎらついた意志の火が蘇ろうしている気配があった。
――――――
「ギジチの姿が見えぬが」
「はあ……」
「はあ、では困る。ギジチはどうした。今日は、登城をせよと命じておいたはずだが」
「腹痛(はらいた)にございまする」
は、腹痛っ!?
……神奈子と、彼女に問われて言葉に詰まっていた威播摩令が素っ頓狂な声を上げたのはまったく同時だ。併せて、他の評定衆もざわざわと噂に興じ始める。いったい何ごとがあったのか、知っている者は彼らのなかにはひとりもいないということだ。
否、より正しくは。この度の事情について知っている者は評定衆の外(ほか)に居る。
八坂神奈子の隣として評定堂に座する亜相、洩矢諏訪子。
ギジチの腹痛について言葉を発したのは、他ならぬ彼女だったのである。
「いかなることにございまするか」
評定に参ずるひとり――渟足が、至極当然の疑問をぶつけてきた。
諏訪子は軽くうなずくと、「腹痛は腹痛。要は急な病にて動けませぬゆえ、此度の登城は差し控えるとの報せを預かっておりまする」と、手短に説明する。ただし、言葉を向けたのは神奈子に対してであったのだが。
「聞いておらぬ」
横目を遣って亜相を睨む神奈子。
が、当の亜相たる諏訪子自身は相手の方を見ることもない。いつも通りに“飄々”と、また“のらくら”と、話を次に繋げるのだった。
「いま申し上げました。なにぶん急な腹痛ゆえ、報告(しらせ)もそうそう早くは届けられませなんだ」
指先で額を掻きつつ、白い歯を見せ諏訪子は笑う。ほぅんと気の抜けた溜め息が一堂から漏れた。急病とやらにやられたギジチの不甲斐なさか、それとも――胡散臭い理由をつけて評定を欠席せる図太さか。否、あるいは。
「諏訪子、そなた。此度の登城を差し控えるよう、ギジチに入れ知恵をしたのではあるまいな」
「何をばかな! わざわざ他人の入れ知恵を待つほど、あの男の手が遅いはずはございませぬ。それに、」
「それに?」
「折から科野国中には咳病が老若男女の別なく流行っておりまする。あれ、今も未だ諏訪の柵のうちにても、辟邪の者らによる鳴弦の音高し。加うるに腹痛までも城内に持ち込まれたとあっては、八坂さまはじめ出雲人方々、触穢(しょくえ)烈しきは免れぬものと」
それもそうかと神奈子は苦笑する。
どうにか追及をかわせたと思って、諏訪子は口の端をごくごくわずかに吊り上げた。いや追及を諦めたのではなく、呆れのあまり真相への興味そのものがどうでもよくなかったか。いずれにせよ今は些事。それに、今日の評定での議題はすでに解りきっている。ギジチが居ないのもそれに関わることだからだ。つまり。
「先般、伊那飯島のオンゾより訴えがあったごとく……南科野への武器売買にギジチが関わっていた疑いについて議すつもりであった。なれど、そのギジチが居らぬでは詮議も叶わぬ」
感情の色のない声で、神奈子は言った。
状況は、彼女の言葉通りである。いま事態の渦中にあるオンゾから、『ギジチもまた南科野への武器供与に関して担うところ大きいものあり』とする弾劾状が届いたのである。この日の評定はまさにその告発についてのもの、ギジチへの登城の令も彼への詮議のためなのだった。が、ギジチが居ないでは本来の目的の半分はままならない。突然の『病欠』に、面食らっていたのは神奈子だけではなかった。評定衆はひとりも余さず動揺しているのだし、諏訪子もまた――本心はどうあれ――困り顔に見える表情だ。
「よもや、オンゾの告発は事実なのでは? 我に利なしと見、ギジチどのは病と称して登城を拒んでおるとも思われる」
「いや待て。唇亡ぶれば歯寒しとものの本には書いてある。件の告発、豪族方よりの援助を当てにできなくなったオンゾが、われら王権を撹乱すべく行った策略という線も無視はできまい」
評定は、たちまち紛糾した。
概ね彼らの論調は二派に分かれていたようである。
すなわち、
『オンゾの告発は事実。ギジチの急病は追及をかわすための方便である』。
『オンゾの告発は虚偽。ギジチの急病は濡れ衣に対する無言の抗議である』。
この二派であった。
なにぶん、今はいかにしてオンゾを攻めるかの策が議されていなければならぬはずだった。ここでオンゾ自身から反撃のようにギジチの罪科の告発が行われるなど、予想もしていなかったのである。まして諏訪王権からのオンゾへの弾劾は、ギジチを始めとする商人たちが、オンゾの密かな大逆によって自らの商いに大きな障りが出たという大義名分によって成り立っている部分が大きい。この部分を切り崩されれば、“オンゾ潰し”の策はその半分が潰されたも同然。手負いの獣の悪あがきと言うにしては、いささか厄介な反撃だったということである。
意義ある結論が見出せぬまま、評定は続いた。およそ半刻と少しの時間が経った頃だろうか。誰かが「洩矢亜相どのは、いかようにお考えか」と諏訪子に水を向ける。彼女は、今の今まで押し黙ったままであったのだ。
うう、ううん。
見るだにわざとらしい思案の様子を演じながら、諏訪子はちらと一同を見渡した。じりとした神奈子の視線もまた彼女の頬を焼かずにはおかない。皆の視線だけで毛の先までも焦がされてしまいそうである。たっぷりともったいぶって、ついに口を開いた彼女の言葉は。
「解らぬ!」
明朗さをもって削り出したような、いささか冗談めかした態度だった。
この真剣な評定の場にてふざけているのか……と、責めるみたいな咳払いが幾つか連なる。そんななかでも泰然とする諏訪子。
「解らぬ、とは、ご冗談が過ぎまするぞ」
「儂としては真剣なつもりだったのだが。まあ良い」
拗ねた風も見せず、二の句を継ぐ。
「まず第一。この期に及びてのオンゾよりの告発。これは皆も申す通り、明らかに“時を稼いでいる”がゆえのことと思う。おそらくは王権の介入を招く前に、何がしかのものを始末せんとしておるのか……」
ちらと、諏訪子は神奈子を見た。
王は何も答えない。代わりに、評定衆に眼を遣りながら顎で彼らを示している。「構わぬ、話を続けろ」ということらしい。うなずき、諏訪子は再び息を吸い込んだ。
「第二に。ギジチが武器取引の企みに関わっていたか否か。これは、――」
神奈子までも含め、皆が息を呑む気配があった。
「事実であろう。事実であるからこそ讒訴讒言として退けられかねぬ危険を冒してまで、オンゾは告発を行ったのだと思う。動かしがたい真実(まこと)であろうから、そのぶんだけ振り上げられた刃は研ぎ澄まされていくというわけだ。そしてギジチの急病は、件の告発に伴う詮議を怖れたがためではないか。ただ、」
両手を握り締め、彼女はなおも説く。
「ここでギジチを詮議にかけて、かの者の罪科を詳らか(つまびらか)にするは、われらに甚だ利なしと見るべきと思う。其は何よりオンゾの策動に自ら嵌まりに行くことに他ならぬ。王権が内輪の争いに走るあいだに、南科野が勢いを盛り返さぬという保証はなし。かくなりては、まず“病癒えるまで”ギジチへの詮議は取り止めとし、その間、オンゾを切り崩すための手を打つ方が先決と心得る。解らぬゆえの、これがわが策」
長々とした言葉を吐き終え、諏訪子はいちど大きく息をした。
それを待たずか、評定衆の列のなかから、渟足がじりと乗り出して口を開く。
「理屈のほどは承知いたしました。されど、今この機に及びて諏訪子さまの策に合わせたかのごとく、ギジチどのの突然の病とは。……いささか、下衆の勘繰りともなりまするが、」
明らかなためらいが、渟足には見られた。
頬を震わせ、小心そうに唇をぱくぱくさせている。眼は床ばかり向き、緊張のためか息は少し荒い。見ている諏訪子の方までどきどきしてきそうだ。「どうされた、早う申し上げぬか」。威播摩令から促され、ようやく彼は顔を上げた。他の誰をも見ることなく、真っ直ぐに諏訪子を見つめている。
「よもやあなたさまは。ギジチどのが不正に武器の取引を行っていたことを御存知だったのではございますまいか。それがためにギジチどのには“腹痛を患わせ”、黙秘をお命じになったうえで此度の策を行わんとしているのでは。つまり、……」
凛たる光を渟足の瞳は持っている。
疑うべくもない、正義の光だった。
「初めから、諏訪子さまはギジチどのの謀をわざと見逃しておいでだったのでは? 王権に仇なす不逞の行いと知りながら」
声にならない驚愕が、評定堂を満たしていった。
在るのは怒りか失望か。少なくとも、つい先ほどまでまがりなりにも諏訪子へ向けられていた、彼女の知略への感嘆ではあるはずもなかった。賛意は侮蔑に代わっていく。あえて渟足の言に乗って諏訪子を糾弾せんとする者も今はない。代わりに彼らの持つ熱が、不穏な熱が、諏訪子への視線を荒々しく研ぎ出していく。
「……渟足。其許の顔にはふたつの立派な耳がついておるやに見受けられるが、其は、よもや飾りではあるまいな」
頬の真裏にはこらえ切れない笑みを渦巻かせ、溜め息まじりに諏訪子は答える。
「内輪の争いに終始している暇(いとま)はないと、先ほど言うたばかりであろう? それとも何か、其許はこの諏訪子に、わが策を申せるこの舌の根も乾かぬうちから、あれやこれやのみっともない弁明を始めさせるつもりなのか?」
そう言う自分の眼に在る光は、果たして正義のものかどうか。
気にはせぬ方が良いのだなと、今さらながらに諏訪子は薄々考えている。
――――――
「詮議は、しばらく取り止める」
寝入った少年の肩までを厚手の掛け物で覆ってやりながら、神奈子は諏訪子を見もせず言った。諏訪子は、神奈子に対して何も答えなかった。沈黙だけを返すその代わり、夫の布団に手を入れて、その熱い手を握ってやっているばかり。
またにわかに熱をぶり返してきたモレヤは、粥と薬を摂って病人なりに腹が膨れたせいか、今は床に沈んでおとなしく寝息を立てているのだ。頬は未だほの赤い。神奈子の大きな手が少年の前髪をかき上げ、汗の幕を指先で拭った。直ぐに、眼は諏訪子へと向けられた。どこか険を生じた顔であるように見える。眠るモレヤを挟み、対峙するふたりの王。洩矢諏訪子と八坂神奈子は、しばし、互いにまんじりともしなかった。
「思わば、」
唐突に口を開く神奈子。
互いに長く黙した後の一声には、膨らんだ袋のいちばん弱い部分を探し出して針を刺すみたいな鋭さがある。袋の中身――発しようとしてなぜか発せなかった声が、容易くあふれ出ていくのだ。
「どうなされました」
「思わばこのモレヤという少年は、今やわが子にも等しき者であるというのに。咳病となってのち、こうして見舞うのは初めてだったかも知れぬ」
「さあ、それは」
「すべて諏訪子に任せきりであったからな」
この少年は、わが夫にございますゆえ。
その言葉を、諏訪子はなぜか呑み込んだ。そうしなければならないような気が、急にしたのだ。モレヤの額を撫でる神奈子の手つきが、思っていたより優しかったから。剣や弓でいくさをする神にしては、まるで似合わぬほどにうつくしかったからだ。それを壊してはいけないのだと、そんな風に誰かに命ぜられたようにさえ感じるがゆえ。
「“どちら”の詮議にございまするか」
「うん?」
「取り止めると仰せになったことにございまする。南科野での武器取引の疑いあるギジチか。それともギジチの動きを知っていながら、報せていなかったかも知れぬこの諏訪子か」
ちりちりと諏訪子を焦がすものは、嫉妬なのか何なのか。
その正体は彼女自身にもまるで知れない。黒い帳(とばり)を全身にまとい、獲物の隙を窺う刺々しき心の輪郭は。その厄介な化け物の身に生えた針や棘を鑢(やすり)で削って“なまくら”にしてしまうごとく、彼女はあえて政のことに話題を移した。さいわい、神奈子はさして気にしてもいないようである。今までモレヤの寝室には、彼と諏訪子という二色の色しかなかったのに。それなのに、今日、突然に現れた八坂神奈子という三色目に、諏訪子は未だ慣れていないのだった。良い色なのか、悪い色なのか。それさえも未だ判然としない。今はただ、神奈子が発するはずの返答を待つ。
「“どちらも”だ。ギジチも、諏訪子も。そなたたちの謀にある是非曲直を探るにかまけ、ユグルやオンゾへの備えが後手後手に回るは愚の骨頂。まずは討つべき敵を最初に討つ」
神奈子がにいとした自信満々の笑みを見せるのは、本当に久しぶりのことだと諏訪子は気づいた。彼女らしい傲岸の表情(かお)である。しかし、見ているだけで安心するような表情である。決して揺らぐことのない自信で周りの人々を率いていくという、いくさ神としての決意の表情。
「そうして頂けるのなら、わたしとても助かりまする。こうして、モレヤの手を握っておることもできまするゆえ」
“ほだされた”かと、諏訪子はフと自嘲する。
神奈子が自分への詮議を取り止めにしたというのは、それをいま行えば政に大きな差し障りが出るからに過ぎない。だが今の彼女には、モレヤと共に居るべき時間を神奈子がつくってくれたような感覚が兆している。むろん、錯覚であろう。物事を行う後先をつけるに、神奈子はそこまで愚かな女ではない。けれどその果断さというものが、彼女が“わが子”と呼ぶモレヤを撫でる優しい手の元では、途端に絹めいた柔らかさへと変わってしまうように思える。その奇妙な優しさが、なぜだか諏訪子の判断を誤らせかねなかった。
呼びかけようとも、そうしたい相手である夫は眠っている。
モレヤの手を握る力を少し強めた。夫は握り返してはこなかった。じわと、生の熱だけが諏訪子の肌を斬った。
その熱を冷静さの元まで復させ鎮めようとするみたいに、神奈子は「それでな」と言った。はっ、として、諏訪子は神奈子の顔へと眼を戻す。彼女は、少しばかり眼を見開いていた。「びっくりした」と、微笑する諏訪子。「こちらもだ」と神奈子も微笑する。互いに相手の反応を予測できていなかったのだった。笑みながら、しかし、神奈子の声は低く重い。
「それで、詮議云々の話の続きよ」
「はい」
「ふたつほど、はっきりとさせておくべきことはある」
「何なりと、仰せられませ」
こくりと諏訪子はうなずいた。
赤い飾り紐で彩られた、黄金(こがね)の髪の房が揺れる。
気にせず、神奈子は話を続けた。
「まず、ギジチの病のこと。あの者が急に発したという“腹痛”とやら。やはり、“鉄の器物を飲み過ぎたがゆえのこと”ではないのか」
つるぎや矛を喰えば、腹のうちとて傷つこう?
と、神奈子はつけ加えた。彼女のなかでは、その皮肉っぽい物言いは冗談を兼ねたものだったらしい。その眼に浮かんだ屈託のない笑みに諏訪子が何も返さずにいると、神奈子は直ぐにシュンとして黙りこむ。
「オンゾが諏訪の鉄器をかき集め、水運を通して南科野へ売りさばく。この話そのものにはよくよく理屈が通っておる。オンゾひとりを討ち参らせるに足るだけのな。だが、もう少し思案を巡らしてみれば、不自然なこと多し。聞けば、諏訪は南北商人係争の地。互いに仲悪き北と南の商人たちが、商いのうえでしのぎを削る場よ。そのような場において、いかに大商人とはいえ南科野の者ばかりが大量の鉄器を独り占めして買い入れる。これはおかしい。もっと早くに騒動になっていてもおかしくはないはず。となると何者かが上手く事が運ぶよう、南北のあいだを仲介し、手引きしていたのではないか。そしてそれにもっともふさわしい場は、科野国中より人と者と金の集まる上諏訪商館。その司に任ぜられていたは、他ならぬギジチではないか。これが、ひとつめ」
神奈子はひと呼吸を置き、再び口を開く。
ほんの一瞬ばかり見えた彼女の舌の赤さが、なぜかやけに猥らに思える。
「加えて、諏訪での鉄の相場が高騰するほど武器が横流しされていたにも関わらず、われら王権はまるで何も関知できてはおらなんだ。今にして思えばわが身の無能とも思うが、それは――」
そこまで言って、神奈子は言葉に詰まる様子である。
しかし深々と呼吸をすると、意を決したように最後の結論へ至る。
「他ならぬそなた、洩矢諏訪子が全ての報告(しらせ)を握り潰していたせいではないのか。これが、ふたつめ」
やってしまった、と、そんな顔を神奈子はしていた。
自らの行いを悔いる顔では、けれど、ない。やんちゃな子供がつい口を滑らしてしまったとでもいうような、そんなところである。そのとき諏訪子の眼は聡かった。神奈子が見せた表情のかたちも、その裏に刻み込まれた思いまでも解ってしまった。それほど自分は八坂神奈子と深く交わりすぎてしまったのだろうか。少なくとも、言葉なく相手の言いたいことに気づいてやれるくらいには。嬉しくもあり、虚しくもある。
布団のなか、諏訪子の手をモレヤがぎゅうと握り締めたような気がした。
きっと互いの肌が発する熱同士が絡みあっているせいで、感覚が幾分か“ばか”になってしまっているのだろう。それならそれで良い。深い眠りのため動きもしない夫の指に、諏訪子は自分の指を絡ませた。手指の熱だけでは、もう足りなくなっているのかもしれなかった。心のなかの熱までもそこに持っていくかのごとく、鷹揚な笑みを神奈子に返す。
「仮に、そのふたつがどちらとも真実(まこと)であったとしても。八坂さまもまた、ジクイたち南科野豪族に対する詮議にて、武器取引に怪しきものありという一点を切り札となされました」
声ぶりは、諏訪子自身にも不思議なくらい穏やかなものだ。
そして、押し黙ってそれを聞く神奈子の顔には表情がないのに、なぜか愉しげであるように見えた。諏訪子は続ける。
「たとえそこにギジチが関わっていたところで。オンゾとジクイたちに競り勝ち、それに水運をも王権が支配すれば、内外(うちそと)からユグルを攻めることになりまする。さすれば邪魔者は居なくなり、かねてよりの念願であった南科野の掌握が叶いまする」
「わが問いに、諏訪子よ、是とも非とも答えぬのだな」
「この期に及びて是非はなし。弓につがえられる“矢”は、すべてつがえるまでのこと」
神奈子の眉根に皺が寄る。
彼女もまた、諏訪子の言葉の裏に在る思いを察したに違いなかった。「そうか」とだけ、彼女は呟く。ともすれば諏訪子にまでも叛逆の咎を突き刺さなければならないかもしれないと、危ぶんでいたのであろう。そしてさっき自らが投げかけたふたつの問いが、限りなく肯われていることをも。絡まった糸の玉を解きほぐすように、神奈子の思いのひとつひとつが察せられるに連れ、諏訪子の胸は鼓動を速めていった。
「ここに及びてギジチの嫌疑などいかばかりか。一連の事態において王権が被る損と得。秤(はかり)に掛ければどちらにより重く傾くかは、申すまでもなきことかと」
それが諏訪子の結論であり、神奈子への返答であった。
やれやれと、言われた神奈子は片方の手指でこめかみを掻く。
そしてもう片方の手を幾度か開いたり閉じたりすると、
「モレヤの手を、私も握って構わぬか」
と、諏訪子に問うた。
「……なぜ」
「何か、障りが?」
「いえ。なぜ、わざわざ問うのかと」
「この子の妻は、そなただ」
ようやく、神奈子は本当の笑みを見せる。
つくりものではなし、心底からの笑顔であるに違いなかった。そのことが諏訪子には、やけに嬉しい。ゆっくりと肯定のうなずきを返すと、それに応えるかのごとく、神奈子は片手をモレヤの布団に突き入れる。もぞもぞと、厚手の布の下で大きな手が動く気配があった。過たず神奈子の手は少年の手を見つけ出した。
「これが、モレヤの手か」
「ええ」
「熱いな」
「熱うございまする」
「子供の手だ。生きておる手だ。……死んではならぬ手だ」
諏訪子と神奈子が言葉を交わしたそのとき。
“ぴくり”と、モレヤの唇が動いたような気がして――ふたりは同時に眼を遣った。
何ということはない、どこかいびきめいた、呼吸の運びのごく小さな齟齬だったのかもしれなかった。しかし、その齟齬は、あたかも自分を通して八坂神奈子と洩矢諏訪子というふたりの王が、強く結ばれたことを喜ぶ笑みのようにも見えていたのである。
「洩矢諏訪子の言うこと。詭弁……と責むるにしては、いやに理の通った言い分のようにも思える。頼もしいが、厭らしいな」
彼女もまた、モレヤの肉体の熱を感じ取っているのだろう。
再び眠るばかりの顔に戻ったモレヤを見つめながら、神奈子は言う。
「諏訪子。そなたが、今、ギジチと結びて何を目論んでおるのかは解らぬ。解らぬが、それが結果としてこの諏訪王権を救う一手になるのだと、この八坂神奈子は信じたい。否、信じておる。惚れた弱味もあろうし、まずもってそなたの手腕も重々に知っておるからよ。だが、」
ふたりの王は、真正面から見つめ合う。
諏訪子は自分を信じてくれるはずの友の姿を。
神奈子は自分を裏切ろうとしているかもしれない友の姿を。
「今そなたの眼は、かつてそなた自身の政を壟断しておった、あの諏訪豪族のトムァクたちに似ておる気がする。よく似た光を宿しているという気がする。それは、少しく怖ろしきことと思う」
重く冷たい何ものかが、諏訪子の『柱』を貫いた。
その『柱』は彼女という存在をつくりだすもっとも大きなもののうちのひとつで、同時に、折られても汚されてもならない『柱』である。それがいったい何なのか、本当は何という呼び名がふさわしいのか。諏訪子は今まで知らなかったし、きっとこれからも知ることはないのであろう。ただ、それでも。神奈子の言葉は真っ直ぐに、確実に、諏訪子の『柱』を突き刺し、貫いた。否、おそらくは、洩矢諏訪子の『柱』を貫いたものとは――八坂神奈子の『柱』なのかもしれない。『柱』と『柱』。決して侵すこと能わぬはずのそれらが、いま、沈黙のなかでぶつかり合ったのだ。ひとりの少年を介して。
「…………今後の策は、決まっておるのか」
「おおよそは」
「重畳。ならば後でまた詳しく議することせねばならぬ」
「承知しておりまする」
諏訪子のうなずきを見ずに、神奈子は立ち上がった。
さっきまでモレヤの手を握っていた彼女の手は、未だ肌のうちに少年の熱の輪郭を残し、触れていようとするかのように、決して一分の震えも動きもなかったのである。
「諏訪子」
「はい」
「以前の評定のとき、私はそなたがモレヤの具合を看に行こうとするのを、手酷く言うたな」
「そのようなことも、あったかもしれませぬ」
「あった。あったのだが……済まなかったと、今は思う。その、ここでこの八坂が改めて申すのもはばかられる気がするが、」
何か、恥ずかしいのだろうか。
ふいと、神奈子は諏訪子の顔から眼を逸らしてしまっていた。
「“わが子”を、どうか頼む」
それだけ言うと、神奈子は妻戸を押し開いて足早に部屋を出て行ってしまった。
ずんずんと、部屋の外で待機していた供の舎人さえもついて行けぬような早足だ。
ふふ、と、諏訪子はまた笑ってしまう。神奈子を可笑しいと思う気持ちもだったし、それに、彼女が今の諏訪子をトムァクたちに似ていると評したこと。後者への自嘲は次第に影を色濃くしていく。そんなことが、と、ひときわ強く夫の手を握り締める。「うう、ん」と、モレヤがうめいた。嫌な夢でも見ているのであろうか。
「冗談にしては、なかなか心に刺さることを言う……」
この厭な自分もまた、少年の見ている夢の産物であって欲しい。
かすかに、諏訪子はそう念ずる。
――――――
上諏訪にては諏訪の柵が、オンゾから送りつけられた弾劾状で紛糾していた折も折。
一方、此方(こなた)の下諏訪では、さる館の奥で布団にくるまる男がひとり。
枕に散らばる長の黒髪と、ごく薄く生えた頬周りの無精髭が、真白い掛け物との対照で奇妙に映える。部屋のなかは薄暗かった。蔀戸(しとみど)も窓の格子もまったく閉め切られたままでいる。それもそうで、この部屋――寝室の主である彼自身が、そうせよと人に命じていたからだ。下諏訪に設けた別邸の一室で、水内の豪族ギジチは『腹痛』がために朝からずっと寝込んでいた。ときおり、いかにも苦しげに、うンうンと……うめき声を上げてみたりもした。
ギジチはぱちりと目蓋を開くと、幾らか億劫そうな影を伴って身体を起こした。
寝巻はほとんど乱れてもいず、身につけたときのままかっちりとし、皺もない。布団のうちにあるだけで一睡もせず、そもそも眠る必要もなかったからだ。腹痛の真似ごとをしていれば、そのうち本当に腹が痛い気分になってくれるかと思ったが、少なくとも気持ちひとつで直ぐさま病気になれるほど自分の身体は虚弱ではないらしいと考え直す。
あの南科野のオンゾが、逆にこちら側の不正を告発するための弾劾状を発したと知ったとき、ギジチの決断は早かった。諏訪子にうかがいを立てるまでもなく、下諏訪に設けたこの別邸に引きこもり、病と称して外との関わりを断った。諏訪子や神奈子が何度か使者をよこしてきたが、病を理由にしてすべての面会を拒んだほどだ。諏訪側がオンゾに踊らされて自分への詮議を始めるのなら、当初の“オンゾ潰し”の策は土台から崩れかねない。それを避けるための“引き延ばし”のための一策でもあったし、不正義の行いに抗議するかのように見せかけるためでもある。いずれにせよ、自分が矢面に立たされる怖れがあるのなら、自ら飛んでくる矢に当たりに行くほどギジチは愚かではなかった。
枕元には櫛もなく、鏡もない。
手指で乱れた髪の先を弄び、「ほう」と深々、溜め息を吐く。
仮にも公に向けて『腹痛の病人』と称している以上、仮病であることを気取られるような振る舞いはあくまで避けねばならない。使者との面会を拒んだのもそうだし、水内での商業や土地の経営もいったんは在地の部下に任せている。仕事でもそうなのだから、遊びなどもってのほかである。馬での遠乗りもできはすまい。まして人目なきをさいわいに酒色に耽るはさらなる愚だ。女たちが館の門をくぐるところを誰かに見られないとも限らない。ために、ギジチはしばらく寝室のうちで、痛くもない腹をさすり、眠くもない眼をこすりながら、うンうンと棒読みめいたうめき声を上げている次第なのだった。
元は自分がそうしようと決めたこととはいえ、しかし。
「暇だ……」
身の安全のためとはいえ、そうそうと眠ってばかりいるのは逆に辛いのが、人間というものなのである。
――――――
十一月二十日を過ぎて。
伊那飯島のオンゾの元に、諏訪王権からの返答は未だなかった。
先に書き送った、『水内の豪族ギジチもまた、武器の不正な取引に関わっていた』という弾劾状への返答である。本拠地である館のうちで、小雪舞い込む庭の景色を眺めながら、「だが、それで良いのだ」と、オンゾはひとり、ほくそ笑んだ。
防壁で覆われた庭の内側、彼の目前では、人夫人足たちが寒風を泳いで白い息を吐きながら、荷を腕に抱えあるいは背に負い、盛んに立ち働いていた。人足たちだけではなく、兵たちまでも矛や盾をいったんは置いて、それらの作業に就いている。そうして運び出される品物は、館のうちに幾つも用意された車に乗せられるものあり、馬の背にくくり付けられるものもあり。積み込みを終えると皆は列を為して門を出る。彼らは一群の『商隊』となって各地の商人と落ち合い、さらにその商人らは川の渡し場で水運商人たちに品物を引き渡す手筈になっている。
オンゾ傘下の商人たちに命じて大々的に行われるその輸送の命令は、彼がギジチ糾弾の書状を書き送ったのと同時に南科野のあちこちへ向けて発されていた。それこそ、伊那飯島の本拠地はじめ、各地に設けられたオンゾの蔵を対象にしてのものだ。ほんの数日間のうちに、科野州の南半分では途方もない規模の人と物と金の往来が起こったことになる。ゆえにこの度の輸送には、今までオンゾと関わりのなかった行商人の類も多数、参加していたようである。儲け話と見て否応なしに嗅覚を刺激されたのであろう、オンゾの館の内外問わず、気の早い連中は次々に品物を買いつけに来ていた。だが、それも良かろう。稼いだ時をむだにするわけにはいかない。
「わが蔵の品は順調に捌けておるようじゃな」
オンゾは絶え間なく続く作業の具合を視察しつつ、かたわらの侍者に話を向ける。
「は。仰せられたごとく、各地の蔵を空にせんばかりの勢いにて進んでおりまする」
侍者は微笑して応え、ようしとほくそ笑むオンゾはさらに嬉しげである。
彼の顔とその心に浮かんだ余裕など知る由もなく、人足たちはオンゾの目前でなおも絶えずと黙々、働く。館のうちでの人の往来を見渡しながら、「小娘は、しょせん小娘じゃ」とオンゾは呟いた。「は……?」と侍者はすかさず小首を傾げる。何かの命令と思ったらしい。が、あえて返事をしなかった。代わりに、「その後、兵は集まっておるか」とのみ問う。
「報せによりますれば、今日中にあと百五十ほど加うることできるものと」
「よし、よし」
飼い犬を愛でるかのごとき、オンゾの声である。
新たに集まる兵は百五十。諏訪に集まった北科野三千の軍勢とは比べるべくもない小勢ではあるが、居ないよりはましというもの。それに、正面切ってのいくさなど端から考えてもいない。そうなれば、兵の規模にも練度にも劣るこちらが負けるのは眼に見えている。しょせん、食い詰め者に飯と寝床を与えて組織した軍勢である。都合の良い盾として藩屏(はんぺい)として、伊那辰野のユグルの叛乱の解決を遅らせ、最後にはこちらの権益を諏訪側に認めさせるための礎であれば良い。
諏訪に書き送った弾劾状でさえ、そのための布石であるのだから。
ギジチが不正に関わっていたという事実を知れば、諏訪側の行う“オンゾ糾弾”における大義名分の一角は崩れ去ることになる。いわば諏訪王権が行っているのは、南科野平定のための大義名分をギジチに代弁させているということ。それを阻んでしまえば、そう簡単に次の方針は打ち出せまい。まさに、その混乱に乗じて時間を稼ぐがオンゾの画したやり方だった。
きっと今ごろ諏訪の評定は、ギジチを扱いかねていることだろう。
その隙に自分は手元に在るだけの品物を徹底的に売りさばき、兵を集める。各地の蔵が諏訪王権に押さえられれば、そこここに蓄えられた武器甲冑の存在は間違いなく咎めを受けるに違いない。ジクイたち南科野に根を張る豪族たちは、もはや骨抜きにされ頼りにならぬ。もし諏訪が何らかの監査を各土地に命ずれば、オンゾの盾となってくれる者もなし。ゆえにでき得る限りの『証拠隠滅』を、オンゾは画していたのである。
「三の蔵は、すべて運び出しを終えました」
自らの館のうちを歩きまわり、作業の様子を実見せるオンゾに、現場で指揮を執っていた部下のひとりは軽く頭を垂れた。うむ、と、オンゾもうなずきを返す。扉を開け放たれた高床の蔵は、米や麦のひと粒さえも余すことなく、何もかもが運び出されていた。腹を空かした鼠とても、まかり間違っても足を踏み入れることはないだろうほど。
「あと残っているのは、四の蔵だけであったな」
彼の代わりに問うたのは、商人のかたわらに身を置く侍者だ。
指揮役の人足は「はあ」と気の抜けた返事を返す。見れば、着物の上からでもはっきりと解る隆々たる筋骨から、かすかに白いものが宙に漂っているような気がする。この寒風のさなかによく肉体を動かして働いたことで、湯気がゆらめいているのであろう。オンゾはその労働の湯気の揺らめきを眼で追いながら、腕組みをした。
「四の蔵の中身も急ぎ運び出せ。何せあそこに詰まっておるは諏訪で手に入れた武器甲冑よ。急ぎ処分してしまわねばな」
「は」
「あ、それから。渡し場近くの蔵にもひとつ命じておこう。“未だそちらに向けて運び出す品物あり”の旨」
簡潔に命令を発すると、なおも働く人足たちに背を向けて、商人は侍者とともに屋根の下へと帰る。その背後では四の蔵の扉が押し開かれる音が響き、鉄のにおいが風に乗って散らばっていく。
――――――
伊那飯島を発ち一刻半。
冬の日の落つる早さに恐々としながらも、野を貫く道を男は一身に突き進む。
今は田にも畑にも生きる場を失くした彼だったが、元々は百姓として一日と絶えず大地と格闘していた自慢の脚の持ち主である。ちょっとやそっとの山道には負けぬほどの健脚であると自負している。それに、いま彼の荷はとても少ない。山歩きが苦になるほどの重々しい装備ではないのだ。せいぜい――道中、腹が減ったら食えと雇い主から渡された乾し芋と干飯、飲み水の詰まった竹筒。それに野盗や獣に襲われたときのための匕首(あいくち)がひと振り。路銀はない。旅ともいえないような短い旅である。ふたつの地点を往来して、託された書状を渡すだけの仕事だ。鍬や矛を担いで歩きまわるよりは、はるかに楽なものだろう。
歩いて歩いて峠を二、三、彼は少しも休まずに乗り越えた。
左右に眼を遣れば、崖と言うには少しくなだらかな斜面は、頂上へ至るにきれいな丸みをかたちづくり、赤茶けた冬の木々の様相を貼りつけながら、男をじいと見下ろしている。左右にどんと在る山々が、まるで女の乳房のようだと思った。童貞ではなかったが、未だ妻も子もない彼である。この仕事が終わっての報酬として支払われる米は、いつもより目方を増やすとオンゾさまは言っていた。それを手土産にして、どこかで女を買って愉しむのも良いな……と、朧に思えど、その脚だけはいちどとして止まることがない。
領主が強いてくる出挙の重きに耐えかねて、故郷を棄てたが幾年前か。豊年の祭りの晩には、若い男女が一夜の交わりをするのが生まれ育った土地の“ならい”だった。初恋の女が別の男に抱かれているのを見て失望したのはそのときだったし、自分を好いてくれているという別の女を抱いたのもそのときだった。田畑を棄てて浮浪の民となったのはそれよりずっと後だったが、今でもその晩のことが、はっきりと思い出される瞬間がある。とはいえ、そんな感傷は今は余計なもの。あらかじめ命ぜられた場所へ向けて、ただ一心に歩くのみ。
大樹の群れは、枯れた葉を枝から落とすのを忘れたと思しき影をつくる。
その出来損ないの梢の下、彼は急に一個の人影を認めた。
近くには、細く静かな沢がひと筋。もっと奥まで歩を進めれば、苔むす岩で囲われた地形を経て、段々と流れ速き川に育つ気配もある。きっと、天竜川へ流れ込む支流のひとつであろう。人影はその川から手で水を汲み、ありがたそうに飲み干しているように見えた。冬が寒くとも長く歩けば喉も渇く。野山のなかではあったが、今は雪も降ってはいない。動き回れば、身体もよくよく熱くなってしまう。
「おおい……!」
と、その人影は、男の方へ振り向いて声を掛けた。
地面に落ちた枝葉を踏み踏みやって来る、自分以外の気配に気づいたらしい。
男は最初ぎょッとして、腰の帯に掛けた匕首の柄に手を遣った。川近くの『彼』が、野盗や山の怪異の類でないという保証はないからだ。悪いやつは、最初はいつも善い顔をして近づいてくるものである。
近づきもせず、むしろ数歩後ずさった男を見て、『彼』はさすがに面食らったようである。濡れた手を振って滴を払い落しながら、乾いた枝をぱきりと踏んで、足早に男へ近づいてくる。
「“使いの者”か……?」
まずは正体を探るべく、ごく曖昧なことだけ訊ねる。
すると『彼』は破顔して、「もしかして、飯島からの使いか?」と訊ね返してくる。
「そうだが。……そっちは山向こうの渡し場から?」
「おお、その通り。まあ、そう怖れなさるな。野盗や冬ごもりし損ねた獣の類でもなし。確かに、山向こうの渡し場よりの使い。そこの川を辿り、ここまで来た。そうすれば、飯島からの使いとは途中で出くわせるからな」
『彼』はなお笑みを深くし、軽い辞儀を見せる。
男はまじまじと『彼』を見た。痩身な人物だが、柔弱な体格ではない。顔つきは若かった。未だ二十四、五といったところであろう。首を埋めさす砂色の襟巻きは獣の皮を貼り合わせてつくったものらしく、いかにも暖かそうである。少なくとも敵意ある相手ではない。と、男は『彼』の様子から察した。何せ幾度か矛を手に取り、雇われの兵として戦ったこともある。剥き出しの敵意を持つ相手はこんなにも柔らかな雰囲気など持たないものだと、男はひとりで納得した。
「割符というのはあるか。本物の使いなら、割符を持ってるはずだとオンゾさまが仰っていた」
雇い主の館を発つ前、よくよく言い含められていたことを思い出した。
品物の輸送や書状の遣り取りは、途中で使いの者を仲介しつつ行われると。その方が、館の者たちの手間も省けるのだ。此度、おまえは山中で渡し場の使いの者と落ち合い、次の品物輸送のあらましを記した書状を相手に渡さなければならないと。そう言って、オンゾは男に餞別代わりか干飯など握らせたのだ。おそらく、この痩身の男も事情はすでに承知のうえなのだろう。そして、――互いが本物の使いであることを証明するために、『割符』(わりふ)の提示を求めよと。
「おお、そうだった!」
と、『彼』はひょうきんな色さえ見せて、懐に手を突っ込んだ。相手が割符を取り出そうとしているあいだ、男もまた自分の分のを探し出した。着物の懐に手を挿すと、指先が固く細長いものに触れる気配がある。すかさずそれを取り出す。姿を現したのは、木片を削り出した半尺ほどの札である。片側の断面には刃物で細かく切れ込みが入れられ、不揃いな傷が波打っていた。「ん」とうなって相手に示すと、『彼』もまたよく似た形状の札を取り出した。やはり、断面には幾つもの切れ込みが波打っている。
ふたりは、互いに示し合った雌雄の札の切れ込み同士を組み合わせた。
断面に彫刻された形状は、寸分も過たずにかちり! と軽快な一音を立ててはめ込まれる。毛の先ほどのずれも見られない。互いの木札がこうして組み合わされ、一枚の木札になるということは、割符による照合が正しいということに他ならない。男は、知らずと安堵の溜め息を吐いていた。
「ん、確かに……では、オンゾさまからの御書状をお渡しする」
いちど組み合わさった割符を再びばらして懐に戻し、代わりに紐で留められた一条の竹簡を男は取り出す。『彼』は、どこか恭しささえある態度でそれを受け取ると、「確かに」とまた微笑んだ。
「山の天気は変わりやすいと申す。飯島の使者の御方、日の暮れぬうちに早く帰ると良いぞ」
竹簡を自らの懐に挿し入れながら、山向こうの使者は気遣いらしい言葉を吐く。「おうとも」と、男は返した。ひと仕事を終えたためか、すっかり気の抜けた声である。いや、そればかりか。名も知らぬこの使いに対して、寒空のもと山歩きをさせられた者同士ということで、奇妙な親近の情すら覚えていなくもなかったのである。
「解ってる。そっちも早く帰れよ。本物の野盗にでも襲われたら一貫の終わり」
軽口を叩く余裕もあればこそ、ふたりの男は別れのあいさつもそこそこに、背を向け合って帰路に着いた。ひとりは飯島へ、ひとりは山向こうの渡しへと――そのように決まっているはずだった。竹簡を受け取った方の男が、“本当に使いの者であるならば”。
飯島へ帰る途中の道で、もと逃散農民の男は呑気に鼻歌など歌いながら歩いている。頭のなかは、すでに「どんな女を買おうかな……」という未だ見ぬ愉しみのことでいっぱいだ。
はや山道の向こう、小指の先ほども小さくなった『山向こうの渡し場よりの使い』が、ひそかに口元を歪めて笑んでいることを知らず。沢の水が行き着くずっと先で、彼が落ち合うはずだった本当の使者が、とっくに絶命していることも気づかず。
――――――
逸勢舎人は走った。ひたすら走った。とにかく走った。
伊那の山中から諏訪への数十里を、ほとんど猛禽の飛翔にも似た勢いで疾走した。
懐に容れたオンゾの書状を落とさぬよう、冬風を突き破って走り続けた。
彼に課されている『八坂神の伝令役』という職掌、それは単に城のなかでの役割というだけに非ず。種々の報せが矛より貴いいくさの場においても同様に、彼はその駿足をもって駆けることを命ぜられている。足の速さには揺るがぬ自信がある。このぶんなら、今日中に上諏訪までたどり着けるだろうとの感は深い。
竜の髭が横たわったような樹の根を越え、苔で緑色に塗られた石の群れを蹴り、万の針で埋め尽くされているかのような痛々しい冷たさを持つ川を跳ぶ。己の脚の強さのみを信じて往く。伊那の山中を、彼は通ったこととてほとんどない。ほとんどないが、彼のうちに眠る血はどことなく野獣めいて、往くべき道を鋭敏に嗅ぎ分けずにはおかない。見も知らぬ東国の大地なのに、もう何年も前から駆けまわって来た庭であるかのように身体が軽い。おれは、好きなのだ。芯から、走るのが好きなのだ! 心に念ずれば、自然と口の端も釣り上がる。おれは走るのが好きだ。どんな駿馬(しゅんめ)や疾風(はやて)にだって負けない自信がある。いつか空裂く電光さえも、追い越してみせると誓うほどに。
もしかしたら自分には、本当に野を駆ける獣の血が宿っているのではないかと逸勢には思えることがある。大王(おおきみ)の天下に膝を折った鎮西(ちんぜい)隼人(はやと)の血にあって、しかし彼という人物には、部族の誇りと勇猛さがその健脚ひとつにみなぎっている。隼人を西の夷狄(いてき)と嗤う出雲人の誰であれ、逸勢の足の速さには追いつけない。倭(やまと)に屈従せるなかで、隼人の彼が己が生き様を貫かんと欲するには、その足を生かすより他なかった。その足を生かすには、八坂神につき従って東国平定の長征へと参ずるのがもっとも都合が良かったのだ。
走り、走り、走りながら、逸勢はさっき殺した者のことを考える。
待ち伏せ、殺して、割符を奪った者のこと。気の毒なこととは思えども、それが彼の足を鈍らすには及ばない。沢のもっとずっと先、岩場の陰に引っかけておいた“本当の使者”の骸は、やがて川の流れにさらわれていずこかへ流れゆくだろう。悪くすれば骸が見つかり、変事ありと気取られる。瞬きほどのあいだ身体がずんと重くなったような気がしたのは、一瞬一刻の遅れも許されぬわが身のゆえか、それとも殺した相手へのわずかばかりの弔いの気持ちからか。顔についた返り血を川の水で洗い落としたとき、そんなものとっくに骸とともに、流れの彼方へ押し遣ったと思ったのだが。
もっと獣に近くなれ、と、逸勢は念じた。
隼人の血をたぎらせるのだ。倭に降った者の末裔(すえ)とはいえ、闘争と勇猛を是とする定めは自分にも在る。血生ぐさきものすべてを踏み越えて、おれはいくさ場を疾く(とく)駆けるのだと。
――――――
「思った通りにございまする――――!」
竹簡を握る洩矢諏訪子の手は、その力の強さにわなわなと震えていた。
恐怖か驚愕か。否、それは紛うことなき歓喜である。
相対する八坂神奈子は目蓋をかすかに見開きながらも、さすがにいくさ神の度胸、あくまで落ち着き払っている。胡坐を掻き腕組みをした彼女は、「“矢”が当たったな……」と、ぽつり、呟いた。
「いや、まったく。逸勢めには、後々、特別の御高配あらんことを」
「解っておるわ。が、今やつは走り疲れて泥のごとく眠っておる。いくさ場の果てまで千里も駆ける健脚、駿足の持ち主と買うておったが、さすがよ」
いまふたりが身を置く神奈子の居室には、よく人払いを命じてある。
彼女たちの言葉のほかにはあまり沈黙が強すぎて、瞬きの音すら耳の奥を震わすと思えるほどである。からからと、その静けさのなかで諏訪子は竹簡を鳴らした。逸勢舎人が伊那の山中に間者として入り込み、オンゾの発した使者からまんまと押収してきた書状であった。その中身は――。
「ふうむ。……伊那飯島のオンゾの館から運び出されし諏訪の武器甲冑を、中田切川の渡し場へ移送。その後は水路を通って天竜川の水運商人へ引き渡し、下伊那を経由して科野州外へ。そして、これを十一月のうちに完了せよ、と」
「オンゾの咎がまことに言いがかりであるならば、自らの蔵に溜めこんだ諸々の品物を、斯様に急いで処分せずとも良いはず。まして書状に在るはわが諏訪より入手せる武器甲冑であると」
「南科野の諸官衙より、米の値に変動の兆しありとの報せも来ている。この突然の事態に加え、件の書状。此は、さすがに見過ごせぬ。兵を出す理由(わけ)は、ようやく整ったというわけか」
「オンゾは、おそらくギジチを糾弾することで王権の動揺を誘い、その隙に、後々に咎めを受けそうな物品を急ぎ処分する腹と思われまする。ために、あまり急なる売り買いが重なったゆえ、ものの数日で米の値が変動せるものと」
「なるほど。ギジチの“そら病”もばかにはできぬな」
にい、と、二神は笑みを交わし合った。
歯を軋るような、策略家の笑みである。オンゾがギジチを糾弾し、諏訪側の判断をかき乱そうとすることの真意が何であるのか、その推測は諏訪子自身にも多分に賭けと呼ぶより他にない部分があった。少なくとも、オンゾが何がしかの策を弄するつもりであったのはほどなく直感できたこと。だが、事態がここまで解ればもう躊躇は不要だ。相手が仕掛けてきた罠に手を加え、こちらから相手を罠にはめるときが来たのだ。
神奈子から返されたオンゾの書状を懐に挿し、諏訪子はすッくと立ち上がった。
次の行動に移るための大義名分は、もう揃っている。いつまでも四方山話に花を咲かせている暇はない。すたすた歩いて妻戸に手を掛け、
「兵を出すお許しを賜りたく」
と、神奈子に問う。
彼女も直ぐにそれを請けて、
「おお。直ぐに出兵の令を出す。しばし待て……」
そう言いかける。
だが諏訪子は、そのとき急に何かを思い出したように叫んだ。
「否、お待ちくださいませ!」
「どうした、突然大声を出して」
ひひと苦笑して身を乗り出す神奈子に、しかし、諏訪子は冷静な思案の態を崩さない。
怪訝な顔を向けてきた相手に、にやと唇の端を歪めて見せた。
「いまひとつ、諏訪子に一策あり」
「なに?」
そろそろと、神奈子は胡坐を解いて立ち上がった。
そうして自分より背の低い諏訪子の元へ歩み寄ると、彼女に促されるまま、身を屈める。諏訪子は、神奈子の耳元に唇を近づけた。ぴんと、背伸びをしての耳打ちであった。
「王権からは兵を出すに及ばず。こちらには、“飛びきりの戦力”が在るではありませぬか」
その先を聞いて――、神奈子までもがにやりと笑った。
――――――
おかしい、と、オンゾは呟く。
十一月二十一日以降、幾つかの蔵と連絡が取れなくなっている。
これまでは各地の行商人を介したり、駿足健脚の人足を選んで伝令役を担わせ、さほども時を掛けることなく――少なくとも彼の勢力圏である南科野での出来事は――自分の耳に入るような仕組みになっていたはずだ。当然、各地に設けた商いの拠点などとの情報や品物の遣り取りも、件の情報網を頼って行われていた。
だというのに、それが今は機能していない。
否、より正しくは、一部が壊死を始めているという気がする。
最初の兆候は、中田切川の渡し場がこちらの命令をまったく把握していなかったことである。オンゾは確かに、もと逃散農民だった男に割符を預け、山中で渡し場からの使いに会って確認を取ったうえで書状を渡せと念押しをした。館に帰って来た男は命ぜられた通りに仕事をし遂げたと言い、それに従って本拠地である飯島からの商隊は、件の渡し場へ向けて発ったのだ。しかし、当の渡し場はそんな命令など承知してはいなかった。同地に逗留せる水運の者たちもとっくに川を下り始めた後で、結局、商隊はしばらく足止めを食う羽目になってしまったのである。
最初、オンゾは使いを任せた男が嘘をついているのではないかと疑った。
むろんであろう。まず考えられるのは、彼が実は仕事をし損ねていたという疑惑だ。
だが、今の今までオンゾの元で不平ひとつなく精励に勤めあげた彼が、急にくだらぬ嘘をつくとも思えなかった。そして天竜川上流の岡谷はじめ、各地の蔵と連絡がつかなくなっていったのは、そんな答えの出ぬ謎に汲々とせるうちのことである。当然、順調に進んでいたはずの品物の移送も滞る。ほんの数日のあいだのこととはいえ、今やオンゾの館にはあれだけたくさん出入りしていた行商人たちは影も形もない。人夫人足は暇を持て余し、雇われの兵たちは再び盾と矛を手にして寒風のもと、いくさに備えるだけであった。
とはいえしばらく何もないと、兵たちの気も少しずつ緩む。
矛の先を冬の日にきらめかせたまま、仲間同士で談笑に及ぶ者も多い。
一面には鼓腹撃壌(こふくげきじょう)、まったく平和の光景である。
けれどその静けさのさなか、オンゾの心はいっときたりとも平らかならず。
何度か連絡の途絶えた方面へ向けて使いを放ってみたが、返答どころかいずれの者も帰ってはこない。どこで足止めを食っているのか知れないが、ともかくも何の情報も連絡も手に入らない今のオンゾは、目、耳、鼻などすべて潰された片輪者も同然であった。多年、手間と金を掛けて築き上げてきた南科野の情報と商業の道が、いま、主である自分の思い通りに動かなくなっている。それは、彼に焦りと怒りを抱かせて余りある事態である。
いらいらと、これ見よがしの憤怒を叩きつけるように、彼は館の廊下という廊下を歩き回った。烈しい音を立てても人足や兵たちが驚いて振り返るばかりで、何も得られるものはない。せいぜい、畏怖と恐怖の視線が周りから集まってくるばかりである。かてて加えて舌打ちも止まず、不甲斐ないのは部下かと自分かと問うてみるのも厭わしい。
「落ち着いてくださいませ」
頭を垂れて諌める侍者に、オンゾはやはり舌打ちともに振り返った。
「連絡の行き来もできぬこのときに、落ち着いておれとは片腹痛い。落ち着いて……いったい何をせよと申す。何もできぬこのわしに、日干しになれと言うつもりか!」
「各地の拠点や蔵と連絡のつかぬ以上、飯島のわれわれは座して待つか、あるいは再三に渡って使いを送り続けるかしかできませぬ。どうか、どうかお静まりを」
「そこまで言うならおまえが使いとなって、岡谷でも赤須でもどこでも行けば良いではないか! 各々の渡し場はどうなっておるか、諏訪には未だ北科野三千の軍勢が留まっておるのか、つぶさに見てくれば!」
主の激昂ぶりに、篤実な侍者もさすがに眉をひそめた。
一瞬、かなしそうな顔をした彼だったが、また直ぐにいつもの落ち着きを取り戻したらしい。真一文字に結ばれていた口をもういちど開くと、オンゾの進路を遮るかのように身を滑らせる。
「お静まりを。まずはお食事などいかがかと存じ上げまする」
「斯様なときに飯など……」
「オンゾさまは、本日、朝餉も摂らずに、いずれかの使いが帰って来るのを待っておられました。きっと空腹が満たされれば、お腹立ちも少しは収まりましょうぞ」
まるで慈母のように優しい声音を、侍者は発した。
そんな彼の忠心にほだされたわけでもあるまいが、言われてみればオンゾ自身も少なからず空腹を覚えている。今の今まで怒りのあまり喚きまくったせいで、腹が減っているということ自体を忘れてしまっていたのだろう。
「ええい、解った。まずは飯じゃ、飯」
「は。直ぐに仕度をさせまする」
最後にひとつ大きく舌打ちをすると、オンゾは侍者を伴って自らの居室に入った。寒さ除けに閉め切った蔀の向こうから、ときおり呑気に談笑する兵たちの声が聞こえてくる。不思議と、そんなものに気づいても彼のいら立ちには転化されなかった。余裕なき彼の心は、有象無象の立てる音などどうでも良かったのかもしれない。
そのうち、オンゾの元までひとりぶんの膳が運ばれてくる。強飯(こわいい)の湯漬けと、蔬菜を漬けた草醤(くさびしお)。あたかも、彼のうちにある焦りを形にしたかのような簡素な献立である。しかし空きっ腹にはありがたい。醤の塩気が怒りに倦む頭をしゃっきりと蘇らせていく。湯漬けのほのか温かさが、ぎざついていた気持ちから少しずつ角を取っていく。さすがに多少は落ち着いてきたのだ。館で雑談を交わす兵たちの言葉にも、耳を傾けてみようという戯れの気ぶりが起きてくる。と、思ったのだが。
「……何やら、外が騒がしいな」
思っていたよりも――というか、明らかに最初よりも兵たちの声が大きくなっていたのである。ひそひそとした噂とか談笑といった段階をすでに越え、それはほとんどざわめきと言った方が良いものになりつつあった。
「兵たちが騒いでおるようですな。何ごとか、様子を見て参りましょう」
主の疑問を受けるとオンゾの侍者はすばやく立ち上がり、部屋の外まで出ていった。
彼が妻戸を開けた瞬間、やはりわあわあと兵や人足たちの騒ぐ声がオンゾの耳に入って来た。何をやかましい、せっかくの飯が不味くなる……と、いちどは落ち着いた心が再び濁っていってしまう。不快の感に口を尖らせると、「静かにせぬか! オンゾさまはお食事中なのだぞ!」という侍者の一喝が、応じるかのように響いてくる。
それから、少し経った。
オンゾが、醤として漬けられた蔬菜の最後のひとかけを飲み込んだときであった。妻戸を突き破らんばかりの勢いで、侍者が部屋まで戻って来たのである。
「オンゾさま、一大事にございまする。この館へ向けて、軍勢が駆けてくる様子」
「なに!?」
呻いて、オンゾは箸を取り落とした。
箸はからからと器の上を転がり、勢い余って床まで転げ落ちる。
「か、数は?」
「物見櫓からの報せでは、四、五百ほど」
「いったい、どこの手の者か? やはり諏訪が追討の軍を発したのか?」
「は、それが……」
一瞬ばかり口ごもり、侍者は答えた。
「掲げられた軍旗の色形、また兵らの軍装を見るに、赤須の豪族ジクイさまの軍兵かと」
「ジ、ジクイがか。間違いはないのか」
「間違いございませぬ。物見の兵たちが皆そのように申し、私も櫓の上からしかと確かめました。件の軍勢は、もう直ぐそこまで迫っておりますぞ。それこそ、掲げられた矛の輝きさえちらと見えるほどに」
いかがいたしますか、と、侍者は訊いてきた。
戦うのか否か、ということだろう。
取り落とした箸を拾うことにも気を回せぬまま、オンゾは幾度か唇を舐めた。
金にあかせて彼が集めた兵は、ぜんぶで一千を下らない。が、その大半は、いま他の拠点の護りに回したりしている。結果として、いま館に居る味方の兵は百五十ほど。もし交戦をするのなら、防備をよく固めさせればしばらく持ちこたえられるだろうが、数刻もすれば、やがて彼我の兵力の差に押されて破られるに違いない。いくさにさして詳しくないオンゾでも、そのくらいの勘定はできる。しかし考えてみれば、ジクイの軍勢がなぜ急にこの館めがけて進軍をしてくるのか、そこのところがよく解らない。仮にも旧知の間柄、いきなり矢を射かけてくるような真似はしないと思うのだが。
「いかがいたしますか」
侍者は、重ねて訊ねてくる。
恐る恐るといった声だ。
オンゾは――ひとまず床に落とした箸を拾い上げ、ゆっくりと膳に戻した。
そして、
「膳を下げさせよ、飯は終わりじゃ」
と、ぽつりと命ずる。
そして直ぐに、次の命令を発した。
「兵たちに、各々の持ち場に就くよう急がせるのだ。ひとまず館の備えだけはよくよく固めよ」
侍者は黙ってうなずき、急ぎ部屋を出ていった。
人々の声々にどんな道筋を得たものか、オンゾが発して侍者が取り次いだ命令は瞬く間に館のうちを駆けめぐった。ついさっきまで呑気に世間話に興じていた雇われ兵たちも、直ぐに鎧を着、矛と盾を担ぎ始める。櫓の上では弓に矢がつがえられる。これから始まるかもしれない戦いに、ごくりと唾を飲んで備えるのだった。
それから、しばし。
地の向こうから少しずつ近づいてくる駒音、足音。
軍旗が風を孕んで翻る羽音。
先頭に立った十数ほどの騎馬と、それに続く数百の歩兵。
物々しい規模の一軍は大将の号令一下、ぴたりと歩みを止めた。
伊那赤須の豪族ジクイの軍勢が、オンゾの館の門前へと参着したのである。
「オンゾどのに目通りを願いたい」
騎馬の先頭を往っていた男が馬から下り、空堀に臨んでそのさらに向こう、門前で矛を構える数人の兵に告げた。
「な、何者か」
「伊那赤須の豪族ジクイ。オンゾどのとは、多年、昵懇(じっこん)の仲。目通りを」
震える声で問うオンゾの兵に、男――ジクイは兜を脱いで顔を晒した。
頬には、巨大な傷跡が在る。やって来た人物が赤須のジクイであることを、何よりもよく示す証拠であった。寒さでシンと痛むのか、彼は指先でしきりにその傷を撫でる。
「わ、解った。しばし、お待ちくだされ」
その存在だけで相手を威圧するような数百の軍勢に気圧されたか。
どこかへっぴり腰のもと門衛は仲間同士で話し合った後、矛を取り落としそうになりながら、館のなかへとジクイ来訪の旨を告げに行く。
――――――
「突然の来訪はご容赦くだされよ。おれとおぬしの仲と思うて」
「それは構わぬが。なぜ、此度は斯様に仰々しく軍勢を引き連れて参られた?」
「率爾(そつじ)ながら、急ぎその耳に入れたき話あり。実は……」
「あ、いや。立ち話も何じゃ、まずは館のうちへ。広間が空いておる。さあ」
物具(もののぐ)を構成する、鉄の板のこすれ合う音がした。
その音の主であるジクイと彼の部下たちは、いまオンゾの館に迎え入れられた。
どこかこそこそとした館の主とは対照的に、突然の来訪者たちは何も恥ずることのない、実に堂々とした態度である。
ジクイたち赤須衆の軍勢の大半は、館の外で引き続き待機を命ぜられていた。
実際に門をくぐったのは大将のジクイはじめ将らが五、六人と、護衛の兵が数十人。
将らはみなジクイの伯父や甥、弟たちだった。何度か酒宴の席などで顔を合わせたことがあったので、オンゾにも直ぐにそれと解る。どうやら、ジクイの一門衆のうち主だった面々は従っているようだ。ちらと、オンゾは横目に彼らの様子を窺った。錆止めで黒光りする鉄の甲冑、鞘に装飾の彫り込まれた剣。赤須の一門衆の軍装はいずれも完全武装と呼ぶにふさわしいものである。館の外で待つ彼らの兵たちも――むろん、値の張る鉄の甲冑など身につけてはいないだろうが、実戦を想定して武装を施しているに違いなかった。
そんな唐突な『来客』たちが廊下を歩くと、その物々しい装備の重さゆえか、はたまた多人数が一気に移動するせいか、床板がぎしぎしと派手な音を立てる。足音と床鳴りの連なる様子は、まるで巨大な百足が這っているかのよう。館の兵たちも、そしてオンゾの侍者も、ジクイ一行が何か不吉を持ち込んできたのではないか、と、そんな顔で見守ることしかできなかった。
「こちらへ」
ジクイたちは、オンゾとその侍者に先導されるかたちで一室に招かれた。宴など催す際、大人数を収容できるようつくられた広間である。たびたびオンゾ主催の宴に参じていたジクイらにとっては勝手知ったる他人の家か、戸惑うこともなく広間へ足を踏み入れた。オンゾとその侍者、そして五、六人の赤須衆。護衛の兵はしばし部屋の外で待たせてある。
オンゾが無言に促すと、ジクイたちも続々と床に腰を下ろす。
鎧の鉄板のこすれる音が、めいめいに連なった。今まで酒宴のために使われていた部屋に、武装した男たちが幾人も集まっているというのは、異様といえば異様な光景だったかもしれない。鉄特有の、金属(かね)らしからぬ奇妙に生ぐさいにおいがオンゾの鼻を否応なく突いてくる。さっき食べた湯漬けを、つい戻しそうになるほどに濃いにおい。それでも努めて落ち着き払い、口の端を着物の袖で拭うような素振りを見せて、彼は口を開く。
「して、此度は何が」
ジクイ一門とちょうど対面するかたちで坐したオンゾは、恐る恐る訊ねた。
わざわざ軍勢を派するくらいなのだから、ただごとならぬ事態ではあろうが。
彼の横に身を置く侍者も、見るからに不安げな表情である。
一方のジクイは引き連れた一門衆の顔々を順繰りに見返すと、各々とうなずき合う。どうやら、あらかじめ何か大事な合意が為されているらしい。
「一大事の出来(しゅったい)にござる」
「一大事……?」
「諏訪の王権に、南科野攻めを行う動きありとのこと」
くわと、オンゾは眼を見開いた。
いよいよか、と、頬の真裏で小さく呟く。来たるべきものがついに来るのだ。狩競を名目として諏訪に集めた三千の軍勢、その意味は科野南方に向けた威圧のみにあらず。いつ攻め時が到来しても直ぐに動けるようにという戦略だったに違いない。両の手の震えは恐怖か、それとも武者ぶるいか。溜め息を吐くオンゾはジクイの顔を真っ直ぐ見据え、「それで、」と問いを次ぐ。
「敵の軍勢はどれほどの規模で。いま諏訪には、北科野から集めた三千の軍勢が在ると聞き及んでおるが」
「うん。おれもオンゾどのの赦免を乞うべく諏訪に行ったとき、その軍勢は目の当たりにした。そして、これはもはや交渉の余地なしと見るよりほかなかった。元より、諏訪は南科野での武器の取引を咎めるという態の口実を持っておる。いくさは避けられぬ仕儀だったのよ」
皮肉げにジクイは笑った。
オンゾは、伊那の官衙を通して自分に届けられた諏訪王権からの書状のことを思い出した。ジクイたち南科野の豪族が、武器の不正なる取引を行った“かど”で詮議を受けているという話。あの書状の中身が本当であれば、諏訪は南科野攻めの口実を得るために三千の軍勢でジクイたちに圧力を掛け、口を割らせて言質(げんち)を取ったのだという推測も十分に成り立つ。すべてはこちらを陥れるため、周到に仕組まれた策略だったに違いない。はじめから、事態の行き先は決していたのだ。
「それで、攻め口は!? 敵はどこから南科野に入り込んでくるのじゃ。……いや、ザムロどのやヌジロどのはいずこか? もしや、すでに討ち取られたのか?」
膝に手を突き、がばりと身を乗り出した。
いくさが近いと知りわれ知らず興奮する相手を、ジクイは「まあまあ」と手を上げ制する。急に恥ずかしくなり、元の姿勢に戻るオンゾ。このような段になってもなお冷静なジクイの豪胆さに、少しずつ膨らんでいた自身の不安も、どうにかなだめられそうだとオンゾは思った。
「諏訪は、まず三千の本隊を派する前に先遣の部隊を寄越すようでな。最初に……諏訪にほど近い岡谷、次いで宮田。ザムロどのとヌジロどのはこの二か所の周辺で戦端を開いておる。しかし、戦況は一進一退。味方の囲みが破られて、この飯島までの道がこじ開けられる怖れもむろん、ある」
むむ、と、オンゾは腕組みをしてうなった。
どうやら、旗色は決して良いとは言えないらしい。
それでもジクイの話を聞く限りでは、味方の部隊は今のところ勇戦し、時を稼いでくれているようではある。
「岡谷や宮田にはこのオンゾの蔵や拠点もあるゆえ、わしが雇った兵らも留め置いてある。当然、合力して諏訪勢に立ち向かっているのであろうな」
失われかけた自信を取り戻すかのようにオンゾは言った。
急ぎ集めて配置した雇われの兵たちだが、枯れ木も山の賑わいと申すもの、居ないよりは居る方が戦力としてましだろう。方々に金をばらまいて人を集めた甲斐があったと、自慢したい気持ちにもなる。しかし、ジクイは。
「うん?……各々の方面から、報せは届いておらぬのかな?」
「ああ。ここ幾日か、各地の拠点に使いを発してもいっこうに向こうからの報せがないのじゃ。しかし、合点が行った。いくさ起きて身動きが取れなくなっているのであれば、……」
やむを得まい、と、言いかけて、この論が何か重大な瑕疵を抱えていることにオンゾは気づいた。あちこちでいくさが起こっているのなら、それに巻き込まれて行き来がままならないというのはもっともなことだ。しかしそれなら、あくまで味方に接触して便宜を図ってもらえば良いはずである。そして飯島から発したオンゾの使いが味方に接触したのなら、当然、現地の情勢に関して何らかの情報をつかむこともできるはずなのだが。
そこまで気づいて、いま自分の身に降りかかりつつある危機が本当はどんな姿をしているのか、その輪郭にオンゾはようやく気がついた。使いの者がひとりも帰ってこなかったのは、彼らが途中で役目を放棄して逃げ出したからでもない。いくさの混乱に巻き込まれて味方に接触できなかったからでもない。目的地に着いたとき、すでにそこには“敵以外に誰も居なかったから”だ。
二の句を次げずに、オンゾは眼を伏せて黙り込んでしまった。
冬だというのに、全身からぶわと汗が噴き出す。まさか、いやそんなと、いちばん考えたくもない仮定が意識の奥底でぐるぐると渦を巻く。おとなしくしろとその怖れを抑え込もうと思っても、いちど燃え盛った火を消すことはもうできなかった。何より――何より今、『火種』のひとつは“自分の眼前に坐しているではないか!”
「どうされた、オンゾどの」
急に言葉を切ったオンゾに、ジクイは直ぐに声を掛ける。
しかし、そこに気遣いの色はない。否、およそ感情の色に染まっていない無機の、不気味な、問いかけだけがあった。「ジクイどの、おぬしは。いや、おぬしたちは……」と、弱々しい声が漏れ出る。
「オンゾどの。われらは互いに連帯し、多年に渡りて利得を護り合うてきた。そうであったな」
オンゾは、何も答えない。
「其はつまり、地縁に基づきおぬしと手を取り合うておれば、最後の最後に旨味が回ってくるからよ。益あるによってわれらは結びつく。なれば、その交わりに益なきときは――」
オンゾは、何も答えない。答えられなかった。
いま返事をすれば、到来してしまった“もっとも認めたくない事実”を認めてしまうことになるのだから。そんなちっぽけな誇りみたいなものには何の値打ちもないとはいえ。
しばしの沈黙が流れる。
空気さえも不気味に軋みそうなほど。そして、そのとき。
オンゾの横に坐す侍者が、何かの異変に気がついて眼を上げた。
「オンゾさま」と、彼は促す。
「様子が変です。……館のなかがいやに騒がしうございます」と。
だが、主の方はちらと部下に眼を遣っただけで、何ひとつ言葉を口にすることができなかった。金属と金属がぶつかり合い、こすれ合う音。苦痛を訴える悲鳴と怒号。やかましく蹴立てられる足音の爆ぜり。いつか館のなかに満ちていったものは、明らかな血のにおいだけである。
「オンゾさま、お逃げください! こやつらは寝返り者です! あなたを殺しに来たのだ!」
すべてを悟った侍者はがばりと立ち上がり、オンゾの身を護るべくジクイたち赤須衆の前に立ちはだかった。彼の行動に対するべく、赤須の者のうち数名も鎧を鳴らして立ち上がる。剣の柄に手を掛ける。が、彼はそれをさせじと全力で体当たりを敢行する。武装していないとはいえ大人の男がいきなりぶつかってきたのだ、赤須衆のひとり――ジクイの甥だった――はもんどりうって仰向けに転び、鞘から抜きかけた剣を取り落とす。しばし呆けていたオンゾも部下の勇戦に尻を叩かれたか、腰を抜かしかけながらも立ち上がろうとする。蔀や柱に矢の突き刺さる音が響く。断末魔の声を兵たちが上げる。そのさなかに広間のうちでの一幕も、否応なしに突き進んでいく。
「お逃げください! オンゾさ……」
そこまで言って、しかし。
侍者は後ろから跳びかかったジクイの伯父の手により、背中に剣を突き立てられたのである。その一撃で肺を深く傷つけられたのか、彼は口から鮮血を吐きだした挙句、血とともに吐き出しかけた言葉さえ苦痛のあまり途切れさせてしまっていた。それでも少しのあいだもがき、身をひねり、抵抗しようとするも、ほどなくして赤須の者が再びの刺突を見舞ってくる。もはや侍者のその口は血と息を吹く壊れた笛へと変じ、言葉を紡ぐための器官ではまったくなくなった。
そして赤須衆は人間の苦しみを掌中にて弄ぶごとく、すでに立ち上がることすらできないであろう侍者のその身体に、何度も何度もつるぎを突き立てたのである。そのたび、彼は弱々しいうめき声を上げる。それから、最後にいっとう大きな苦悶のうめきを発したかと思うと、その身をびくりといちど痙攣させてから、ついに動かなくなってしまった。
「こういうことじゃ、オンゾどの」
血まみれの鉄剣を鞘に納めようともせず、ジクイはじろりとオンゾ見る。
剣を納めぬ――という、その一事が、これから行われることを何よりも証しているかのように思われた。
「われら南科野の豪族も、やはりわが身が可愛いのだ」
その言葉を合図にし、赤須の将らは総出でオンゾに飛びかかり、その身をがしりと押さえつける。床に引き倒され顎を思いきりぶつけながら、オンゾはもがいた。必死にもがいた。逃げようと手足をじたばたさせた。だが、いくさ慣れした屈強な男たちに腕っぷしで叶うはずもない。両の手足まで決して動かせぬよう押さえつけられ、頭をつかまれて突き出された。眼前に立つジクイは、相手の肌で血を拭き取ろうとするかのごとく、剣尖をぺたぺたとオンゾの頬に押しつけてくる。汗まみれの男の肌が、つるぎの切っ先でわずかばかりも切り裂かれた。
「だ、誰か! 誰か居らぬか! 助けてくれ、こやつらは……ジクイたちはわしを殺す気じゃ!」
この期に及んで周りの兵に、オンゾは大声で助けを求める。
しかし、もう何もかも手遅れだった。蔀がガタンと大きな音を立てて外れ、腹を矛で貫かれた味方の兵の屍が倒れ込んでくる。眼だけを動かし、ついに彼は館のうちでくり広げられる惨状を目の当たりにしてしまった。味方を装うことでオンゾの館に引き入れられたジクイの軍勢は、隙を突いて内と外から同時に攻撃を始めたのだ。オンゾ側の兵も直ぐに応戦を試みたに違いない。だが、かなしいかな踏んだ場数の彼我での違いか、始まったのは戦闘というよりも一方的な虐殺。垣根で、堀で、柱で、廊下で。館の兵らは矛で突かれ、剣で斬られ、弓矢で射られてことごとく殺されてしまっていた。濃い血のにおいが、しゅうしゅうと館を覆い尽くしつつある。一片も疑う余地のない、いっそ清々しいほどの鏖(みなごろし)である。
「きさま……この、裏切り者ッ! 諏訪方の放つ先鋒の部隊とはきさまたちのことか。各地の拠点と連絡がつかなんだは、きさまたち豪族の軍勢によって押さえられておったせいか!」
「その通り。さすがに勘が良うござる」
「幾代も前から結びついてきた地縁を軽んじ、科野の外(ほか)なる侵略者に、むざむざと尻尾を振った裏切り者めッ!」
「何とでも申すが良い。喚いたところで、われら南科野の豪族が諏訪方についた事実は変わらぬ」
「よくも、しゃあしゃあと。父祖伝来の社稷(しゃしょく)を汚す恥知らずめが。薄汚い野良犬どもめ。……天地(あめつち)に満ち満てる神のもと、この不心得者どもに誅罰あれかし!」
「ふ、ふ。犬にもな、いったいどちらの方にその尾を振るか、決めるだけの心はあろうて」
激昂するオンゾに比べ、ジクイはあくまで冷徹であった。
無様に引き倒されたかつての盟友に対し、彼はなおも剣尖でその頬を叩く。
「許されよ。諏訪の王権に逆ろうて、勝てると思うたわれらが愚かだったのよ。おぬしはその眼(まなこ)で見てはおらぬから威勢の良いことが言えるだけ。己が眼で……諏訪の大地に参じた三千の軍勢と、それを操る八坂の軍神を、己が眼で見てはおらぬから」
その言葉の最後は、どこか震えているようであった。
それは、諏訪方に対する恐怖のゆえだったのであろうか。
「オンゾどの。われらは諏訪に睨まれぬために、恭順の意を示さねばならぬ。おぬしの首を向こうへ送れば、少なくともあの傲岸な八坂神と小生意気な洩矢神へは、向こう百年ものあいだ頭を垂れるのと同じだけの意味を持つはず」
連れて行け、と、ジクイが命じる。
赤須の将らによってジクイはむりやり立たされ、傀儡子(くぐつ)たちの芸事の人形を操るように、庭先まで引きずり出されてしまう。眼を覆わんばかりの惨状が、そこには広がっていた。嬲り殺しにされた味方の兵たち。延々と流れ続ける赤黒い血の川。そして、欲望のままにオンゾの財産を略奪するジクイ方の兵たちの姿。いくら眼を閉じたところで、濃厚な血と鉄のにおいは否応なく彼の感覚を凌辱する。いつしかオンゾは、恐怖のあまり失禁さえしていた。
「あ、ああ、……。やめてくれ。わしが、それはわしが数十年を掛けてつくったものじゃ。この館も、数多の財も、商人としての栄達も、名誉も…………やめてくれ。壊さないでくれええ。………………!」
もはやどうあっても逃れられない破滅の運命を悟り、子供のように涙を流すオンゾは、誰を恨んでいいのかさえ解らなかった。傲岸不遜な八坂神か、小狡い洩矢神か、それとも土壇場で自分を裏切った豪族衆か。
しかし、いずれにせよ。
彼の首筋に向けて冷たく冴えた鉄剣が走り、この館に火が掛けられて何もかもが灰燼に帰するまで、それほど長い時間は残されていなかった。